a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

マリーアントワネット爺


手術には2種類あって、一つ目は処置しなければ個体が維持出来ないから行うもの。
二つ目は予防的意味合いで身体を「修正」しておく手術。
何か起こってからするのか、事前に行っておくのか。

 

私は事前に骨の異常を防ぎたかった、だからこれ以上悪くなる前に修正してほしいと、後者の意味での手術を頼みに行ったのだが、駄目だった。

 

駄目だった…え、このまま「たまに階段上れない」みたいな状態でずっと生きてくの?
寝返り打てないまま歩けなくなる限界まで生きてくの?
地味に左右どちらも痛い日とかあるのにどうすりゃいいの?

 

大学病院の老医師は笑って言う「確かに臼蓋形成不全だね、でも骨も綺麗だしギリギリ保てる角度だよ、今まで気付かなかったんでしょ?」
この「今まで気付かない痛み」について言及されると正直に答える分だけ損をする…のだが、地元の整形外科医からの紹介ということもありしぶしぶ正直に答えた。
今年に入ってから肉離れして、そのついでに膝と腰が痛むことを伝えた、それまでは耐えていたのだがそれにより臼蓋形成不全と判明し、これが骨切り術という手術により悪化を予防する事が可能であると知った、だから手術してほしいと私は答えた。

 

が、どうにも話が通じない。
大学病院の老医師は笑って言う「ちょっと意味がわからないんだけど」
…そっかあ困ったなあ、わかんないのか~、わかんないなら仕方ないよね、じゃあ話のわかるお医者さんを代わりに呼んできてもらえます?
とか言うわけにもいかず「予防のための手術は出来ないのか」という点を織り交ぜながら同じ話を繰り返す。
彼は「手術はアクシデントが起きてからするものだ」という思想の持ち主らしく残念ながら話が噛み合わないのだった。

 

大学病院の老医師は笑って言う「身体が痛むなら仕事辞めればいいじゃない?」

 

…うん、おじいさま、あのね、この仕事辞めたとしてさあ、次の仕事をどうやって探したら良いの?
「アタシ腰とか膝とか痛くて、たまに階段上がれないんですけど雇ってください☆」って言って雇われるわけないじゃない?
え?まあそりゃ定職にありつけなかった私が悪いよ、私が無能だから立ち仕事とかをする羽目になる、その通りですよ。
でもねえ困ってるのはそれだけじゃなくて、駅の階段とか、バスとかそういう交通機関や公共の場でね、年寄りでもないのに突然ヨタヨタ歩くのとか動作が困難になってもさ、うん、誰もその苦しみを肩代わりしてくれる人なんか当たり前だけど居ないわけ。
でね、私まだまだ人生長いわけよ、それが何十年と続くのよ、面倒でしょ?それに確かに怠け者だけど正真正銘の怠け者ではないの、ちょっとは働いていたいの、だから身体を先に治しておきたいの、意味わかる?

 

とは、私は言わなかった、なんだか何を言う気も起きなくなっていた。
この爺様と私とでは生きている世界が違うのである。
私が一生懸命「今まで気付かない程度の痛み」について弁明し、どうにか予防の観点から手術してほしいと頼み込んでいる間、後ろの方では看護婦達が息を殺して何か笑っている。
彼女らが直接私を嗤っているわけではないと思いつつも…というかどちでもいいけど…どうにも居心地が悪く精神力をゴリゴリと削られて行く。
これは精神修行の場なのだろうか…ああそっか、今日は私、診察ではなく修行の予約を取っていたんだっけ、忘れてたよ。

 

少し慰めるような感じで、今度MRIを撮って精密検査してみようよと爺様は言った、その提案に私はなんとなく頷いた、どうでもよかった、互いに非常にどうでもいいという空気が流れていた。

 

爺様の中では「身体が動かなくなったら手術」らしい。
確かにその考え方もある、「身体が動かなくなる寸前まで周囲のサポートが受けられる環境」ならば、確かにその考え方が正論だろう。
職場に於いても「身体が動かなくなる寸前まで周囲の心理的サポートが受けられる環境」ならば、骨をやたらと切り崩したりせず、杖をついて歩くようになってからの手術で問題ないだろう。
「今日は身体が痛いので仕事を手伝ってもらえませんか?」で済むような環境なら、彼の言い分は正しい。
手術なんて仰々しいものは、身体が動かなくなったらすべきなのだ。
今の仕事が身体が痛むというのなら辞めるべきで、「今日は階段上れません」が通用する職場へ身を移せばよいだけの話だ。

 

彼がどのような世界で生きてきたのかは知らないが、残念ながら私はそのような世界を知らない。

 

以前図書館で働いていたときに、膝の悪い女性も居た。
別に障害者枠というのではなく普通に働いていた。
彼女が「膝が痛むので立てない」という理由でカウンター業務中もバックヤードに居たり、「膝が痛むので思うように配架が出来ない」という理由でごくごく少量の本を手に「仕事をしている」風なポーズだけの振る舞いをするとき、無論誰かが代わりにカウンター業務をこなし、誰かが代わりに配架した。

 

正直邪魔だった。
今思うと私と同類の病かもしれない、だがたった今思い返してみても全く同情出来ない、ちなみに性格は良かった、それなのに同情する気が起きない。
他の人がどう思っていたのかは知らない、触れてはならない事のような気がしたので少なくとも私は話題にしなかった。

 

精神論で考えるなら、私自身が彼女のような弱者に対し、心の中だけでも同情し、仕事を助け合ってやっていこうという気持ちになれば、自分自身の不甲斐なさをも許せるようになるだろう。
他者の弱さを許せるようになれば、それがどんどん広がればもっと生きやすい世の中になる。
まさに自分自身の身の上も救われる。

 

…という精神的な理想は理解出来る。
理解は出来るが実際に賃金が絡んでくると「仕事意欲」よりも自分の身体の「痛みへの恐れ」が勝っている状態の人と共に仕事をするのは割としんどい。
結構苛々する。
私自身が仕事覚えが悪く、非常に苦労して新しい物事を覚えて必死でやっている、この必死さを共有できる場を探しているからだと思う。
頭悪い人ほど性格もきつくなるのはこのせいなのだ。
仕事になると怖い人になってしまう奴は、頭悪い人なのだ、私がいい例である。
さらに賃金。
こいつと同じ金しかもらえないのに私こいつの分も働いた…という気持ち、損をしたというケチくさい気持ち。

 

本当に真の意味では私のこの気持ちは単なる感情論でしかなく、私はその時やるべき仕事をしただけである。
彼女の膝が痛かろうがなんだろうが私自身が目の前の仕事をしただけである。
だから彼女を責めるべきではないし、自分自身を責めるべきでもない。
誰も損なんてしてない…ただ、損した「気持ち」になっているだけ。
「気持ち」に世の中の人や私も振り回されているだけ。
損得なんて無いんだってば~
損得感情は概念上のもので、それももうすぐ消える古い概念だよ、やだな~これだから世紀末以前の生まれの人は~☆

 

…とか言って精神論で自分を無理矢理諭そうとしても難しい。
そして何より、私は自分が損をしたくないという気持ちよりも一回りも二回りも…誰かを損させるような行いだけはしたくないと思っている。
臼蓋形成不全という理由はあれど、それは仕事の「意欲」に於いてはやはり言い訳に過ぎない気がしている。
病気は言い訳ってのは酷いかもしれないが、金をもらう以上…というか金ではないのだろうな、意欲の欠ける人に、なりたくないだけなのだよ。

 

これは結構多くの人が抱く切実な気持ちではなかろうか?
誰かの足手まといになるなんて事だけは避けたい、これは本当に人間の根本的な気持ちではないだろうか?
そしてこれは、足手まといを経験した人にこそ実体のある苦しみとしてのしかかる、呪詛のような想いではないだろうか。

 

大学病院の老医師は「痛かったら仕事辞めればいいじゃない?」と「歩けなくなったら来ればいいじゃない?」を繰り返した。
そのちょうど中間に数十年間広がる私の人生の困難さには一切触れなかった。
あんたはマリーアントワネットの生まれ変わりか何かかい?
どうやらこういう庶民の苦しみは見えないらしい、私のため息も聞こえないらしい。
確かにアクシデントが「起きてから」なら、貴方は名医なのかもしれない。
でも予防の観点を知らない貴方は、今は住んでいる世界の違うただのマリーアントワネット爺だ。

 

ともあれ、このマリーアントワネット爺に怒りをぶつけても仕方が無い、別に彼のせいで骨が痛むわけでもないのだ、そもそも今日は精神修行の場に赴いたのだった。
自分の苦しみを誰かが必ず共有してくれるなんていう馬鹿げた幻想を見事に打ち砕いてくれた、ありがとう修行!さすが修行!
たった10分程度でこれほど疲れるとは、さすが大学病院である、一瞬で嫌いになれる場所であった。

 

私は、その病院を後にしてから次の行く先もわからず、途方に暮れて左足を軸足に、立ち尽くしているところである。