a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》夜半過ぎ

 

夜半過ぎ、石畳の小径の向こう側から静かな音色が聞こえた。
音は一粒一粒が小さな星のように揺れていた。
女は、癇癪持ちの骨を起こさないように魂だけゆっくりと起き上がり、戸口をそっと抜け出でて、石畳の上を泳いでいった。

 

ほのかな音の粒を追ってゆくと、森のすぐそばに焚き火が見えた。
焚き火の周りをいくつかの魂たちが囲んでいる様子で、静かながらもざわめきが感じられた。
一人の人物が弦楽器で音を紡いでおり、小さく歌っていた、その声は薄い黄緑色の帯となって森の周辺に広がっていった。

 

「だからこの辺りは草木が茂っているんだわ」
女はそう独り言ちた。
そして自分の真後ろに居る魂に話しかけた、その魂は暗い紫色をしていた、返事はなかった。

 

「おしゃべりを続けて」
弦楽器を弾く人物はそう小さく言った、話し声により自ら奏でる音が完成するというような口ぶりだった。
女ははじめのうち黙っていたが、他の魂達が囁き合う声を聞きながら、再び真後ろに居る魂を振り返った。

 

「同じような匂いがするわ、あなたと私、同じような匂いがするわ…あなた、殴られていたんでしょ、紫色なのは殴られた痣の色」
女は笑うように言った。
「皆が羨ましいんでしょ、自分だけ殴られているから、だから最低限の事しかあなたはやらないのね」
真後ろの魂は押し黙っていた。
「だから他の誰かに何かをやらせても、心が痛まないのね、他の誰かは自分ほどには苦しんでいないから平気だと思っているのね」
女は笑った。

 

女の笑い声に弦楽器の音が共鳴し、音の星がいくつも光を発しながら散った。
「わかるわ」
女は振り返らずに焚き火を見た。
「他の連中なんて、虐げられる苦しみなんてこれっぽっちも知らないんだから、自分が二人ひと組の輪から外れることだけを恐れてるのよ、馬鹿よね、そんな馬鹿共にしてやれることなんて実際何も無いわ」
女は焚き火を相手に吐き捨てるように言った。

 

「それでも」
焚き火は大きく揺れた、弦楽器を持った人物が薪を追加したのだ、火の粉が吸い上げられるように紺碧の夜空に舞い上がった。
「焚き火はあったほうがいいし、音楽もあったほうがいいのよ…誰かが焚き火を用意してくれて、誰かが音楽を奏でてくれているのよ」
女は泣いていた。
「それを有り難いと思うようになったわ…そういう事の出来る人になりたいのよ」
女が振り返ると真後ろの魂は居なくなっていた、紫色のもやだけが残り、弦楽器の音と共鳴し合い、いくつもの光が散っていた。

 

「これで朝には森がもっと大きくなって、代わりにどこかで木が刈られるんだろうね」
弦楽器を弾く人物は小さく歌うのをやめ、誰にともなくそう言った。
「僕はこれを良いことだと思っている」
そして弦楽器を傍らに置くと、川から汲み上げた水をかけ、静かに焚き火を消した。

 

「日が昇れば」
女は弦楽器のそばに行って音を紡ごうとしたが、魂の姿だったため、触れることは出来なかった、いつの間にか他の魂達の姿は見当たらなくなっていた。
「焚き火のことも、楽器の音も、あなたの歌も」
女は人物に近寄って横顔をまじまじと見た、だが人物は自分の発した音がどう共鳴し、変化するかを見つめたまま振り向かなかった。
「全部忘れて、私はまた痛みに悶えるだけの時間を過ごすのかしら」

 

「…だったら目なんて覚めなくていいわ、身体は容れ物よ」
何の合図もなく、森に静かに一筋の光が差した、朝日だった。
夏の朝日を浴びた人物の横顔は輝いていた、女は息を飲んだ。
「…いえ、やっぱり目覚めることにする、あなたを描きたいの」

 

その時、両者の目が合った。

 

女は目が覚めた。
幸いにも癇癪持ちの骨はまだ眠っているようだった、骨を起こさないようにゆっくりと身体ごと起き上がり、窓辺に立った。
窓の外には森が広がり、朝の木漏れ日の中、石畳の小径が森の奥の墓所まで続いているのが見えた。
今し方非常に美しいものを見たと女は思ったが、それが何なのか皆目見当がつかなかった。

 

「黄緑色の帯みたいなものよ…音みたいなものよ…星の光みたいなものよ…いえ、焚き火の明かりかしら?森そのものの美しさに打たれたのかしら?」

 

いつも風景にひとつ、欠けているもの。
いつもひとつ、欠けているもの。
それが補われてしまえば、他の何もかもが余計になるほどの質量のある何か。
「きっと、森や石畳の小径が、世の中が破裂しないように何か圧倒的な美をひとつ、抜き取ってくれているんだわ」
女は静かに笑ってそのまま額のあたりで手を合わせた、誰にも見せない仕草だった。
骨も含め身体がまだ自分の意志でどうにか動くことに、欠けた何かを探したいと思う気持ち自体に、女は森に向かって秘かに感謝の意を表したのだった。