a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

《創作》梟

 

右腕に小さな火傷をしてしまった、僕はほんの一息、ため息をついて仕事場を後にした。
連休明けだが休みは無い、身体的な立ち振る舞いとしては僕は仕事をしている、それも休み無く数十日に渡って。
信号の灯りが虚空から何かを訴えているようだった、深夜だった、腹は減っていなかったし眠くも無かった、身体は自動的に動くものだと、どこか遠くで僕は自分自身に感心していた。

 

自転車に乗って、夜の空気の中、飛ぶように帰宅しよう、巣に帰るんだと僕は思った。
自転車を置いた場所までのほんの少しの道のりを、歩きながら僕は夜空を見上げた。

 

まさにその時、上空から茶色い紙袋が、僕の目の前に、空気に漂うようにふわりと落ちてきた。
僕はそれとはなしに落ちてきた紙袋に近寄ってみた、条件反射、都心部だが深夜は静かだ、音の無い空間、無風、無意識、虚無。
その時僕は思わず、あ、と叫びそうになった。

 

茶色い紙袋のように思われたその物体は梟だった、茶色い、毛のふわふわとした小さな梟だった。
梟ははじめのうち無言で僕を見つめていた、梟の両目が黄金色に光っていた、僕は目を逸らしたかった、身体が金縛りのようになってそれが出来なかった。
心の、幾層にも折り重なる道の、逸れた一カ所、洞窟のような言語の無い部分で僕は梟に話しかけてしまっていた、そんなことはしたくなかったのに、僕は話しかけてしまっていた。

 

「どうしたの?」

 

梟は一秒間のうちの幾千億分の一の時間、黙って僕を見つめていた、このまま数十年も経ちそうな気がして僕は逃げ出したかった。
だが梟は口を開いた、黄金色の目を見開きながら梟は喋った。

 

「あたしね、ママとはぐれちゃった、お散歩しようと思ったの、ほんの少し遠回りしようと思っただけなの、でも怖い誰かがあたしを突くの、あたし怪我しちゃった、でも飛ばなきゃおうちに帰れないでしょ、だから飛ばなきゃいけない、でも、痛くて飛べないの…あなたは誰?」

 

「僕は…」
と言いかけて僕は声が出ない事に気付いた、そして梟に対して自分が何者かを、最早説明出来ないことに気付いた、しかし一言だけ言葉が見つかった。
「僕も鳥だよ」
と僕は言った、僕が自分自身に対して言えるのもこれしか残されていない気がした、僕は鳥だ、僕の名前、言えるのはそれだけだ。

 

「あなた鳥なの?全然そんな風には見えないけど…飛べなくなったの?飛ばないで生きているの?それなのに鳥なの?」
梟は責めるような口調で僕に語りかけた。
「鳥は飛ばなければならないってママは言うの、だから飛ぼうと思って…そしたら誰かに突かれたの、痛くて飛べないの」
梟は僕を見据えた。
「あたしはもう鳥じゃないのかしら?」

 

「君も鳥だよ」
と僕は言った、梟もそれがわかっていて僕に話しかけていると僕は思った。
「鳥が飛べないのはおかしいわ、私痛くて飛べないの、鳥が飛べないというのは、それはもう鳥じゃないってママが言ってた、ママは鳥、あたしは鳥じゃない、だとしたらあたしは何なのかしら?」

 

「君も鳥だよ」
と僕は繰り返した、永劫にこの問いが続くような気がして目眩がした。
「見て、おなかに羽が突き刺さってるの、黒い羽、突き刺してきた誰かの羽、あたしを汚して、鳥でなくなったとせせら嗤ってる声が…あなたも鳥なら聞こえるでしょう?でも、こうして地面にあたしは居て、鳥もどきのあなたと喋っていて、飛ばずに喋っていて、あなたはそれでも鳥だと自分を名乗るし、あたしも自分が自分で在ることを…」

 

梟は言いかけてよろめいた、しかし尚も話し続けた。
「あたしはあたしなんだわ、何者かでなくなったりすることなんて…鳥ではないあたしなんて実在しない、あたしはあたしのまま、怪我をしても、飛べなくなってもあたしのまま…黒い羽をあたしに刺した誰かは、嗤っているけど、それでも…」
梟は泣いていた。

 

「ねえあたし、死ぬの?」

 

僕はほんの少し向こうの道を、車が通り過ぎる音を聴いた、それは音楽のようだった、日常の音、そして目の前の梟は日常から飛び立とうとしていた。
「今日はお散歩しましょうってママと話してたの、もうずっと昔の事みたい、ママは…まだ生き続けるのね」
梟は足を引きずりながら二三度羽ばたいた、そういう動作をした。
「やっぱり死ぬのね、あたし」
そう言って梟は笑った。

 

「頷いてよ、ねえ、あなたも鳥なんでしょう?だったらあたしが死ぬこと、わかるでしょう、わかってるんでしょう?」
言葉とは裏腹に、梟はもう僕を責めてはいない様子だった。

 

「あなたに会わなければ、あたしの死はあたし一人だけのもので、ママを思い浮かべて泣いていたでしょうね」
梟は僕を見つめ続けていた。
「だとしたらあたしの死は、あなたにも分けられたってことかしら?」
梟の目は一段と見開かれた。
「でもおかしいわね、あたしは生きているの、おかしいわね、死ぬって事は、生きることなのかしら?生きていないと死ぬことは実感できないでしょう、あなたに死を分け与えたのではなくて、あなたに、あたしが生きていた命そのものを分け与えたってことかしら?鳥の仲間として…」

 

そこでようやく僕は気付いた、梟は最早、自分の目が開いているのか閉じているのか、それすら実感していないらしかった。
「そうそう、鳥の仲間として…あなた鳥なんでしょう?だったら、鳥は繋がりがあるから、あたしのママとは言わない、あなたのママでいいの、あなたにはママがいるでしょう?そのママに、伝えてくれないかしら?」

 

「あたしが死ぬってこと、あたしが生きているってこと」

 

よろしくねと言いかけて梟は身体を奮い立たせた、そして意外なことにふわりと飛び去った、黄金色の目が星のように光ったのが見えた。
「鳥は飛ぶものよ、ママの言ってたとおりだわ」

 

という声が聞えた気がした、僕は梟を目で追った、月明かりが、信号の灯りが、マンションの灯りが、真夜中、暗闇のなかを、梟を照らし出すためだけに機能しているように思われた。
僕は周囲の灯りを頼りに梟を見ていた、30メートルほど梟は空中を飛び続けた、とそこに、黒い影がやってきて梟を掴み、地面に叩き落とした。
黒い羽の持ち主だと僕はわかった、梟がもがき、黒い影は梟から溢れ出る血を啜っているかのようだった。
ひとしきりそうやって梟を突き、梟が動かなくなったとき、飽きた様子で黒い影は飛び去った、確かに黒い影は嗤っていた、僕は動けなかった。

 

「ねえ梟…君を抱き留めればよかったの…?影は追い払えるものなの…?僕は何が出来たの…?」
だから見たくなかったんだ、梟の目なんて、と僕は思った、暗澹たる気分だった、あれから何時間たったのだろう?
この一部始終の光景、梟の残した伝言、真夜中の空気、それらがひとかたまりの形容し難い重力となって、自分を押しつぶそうとしているようだと僕は思った。

 

「鉄球を抱えてるみたいな気分だ…」

僕は誰にともなく呟いた、梟の言葉を、僕は僕のママに伝えればなんとかなる気もした、梟が何故僕のママという存在を知っているのか不思議だった。

 

僕は梟の死骸には近寄らなかった、もう語ることの無い梟に、黄金色の目を開かない梟に、関わりようがなかいと思った、梟の魂は何処へ行ったのだろうかと僕は考えた。
自転車に乗って一刻も早く、僕は僕の巣に帰らねばならないと思った、影に引きずられてはならない気がした。

 

自転車を置いた場所へ辿り着いたが、自転車は無くなっていた、そして僕は思った、僕にも影が近寄ってきているということに僕は思い至った。
影は洗えば落ちるだろうか、影は汚れだろうか、影は…影にも魂があるのだろうか?
次の動作をどうしたらよいのか僕は不意にわからなくなった、ママに連絡すべきなのか、眠るために早足で巣まで歩くべきなのか、僕は鳥なのか、飛べないのだから鳥もどきでしかないのか、僕という存在がなんなのか、全ての意味が消失したのを僕は感じた。

 

その時明るい平面的な音楽をかけた、僕のものではない、僕ではない誰かの乗った自転車が僕の真横を通り過ぎた。
右腕の火傷がその音楽に反応してか、煌めく光の粒のように、小さく痛んだ。
そこで僕はようやく、自分が疲れ果てていることに、気がついたのだった。