a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》脱皮

 

女は鏡に映った自分を見た、鏡には意外なほど健康そうな様子の女が居た、内部から光っているような女が鏡の中に居た。
女は苦笑した、と同時に考えを改めてもよい気がした。

 

「過去は幻想、かしらね」と、女は呟いた。
「黄金の時間を過ごしてきた人物、で、いいのかもしれないわね」と、女は笑いながら言った、それでいいのかもしれないと心底思った。

 

女は自身の体験に反して、大抵どこへ行っても、何の恐怖も知らず、何の苦労もしていない存在だと思われるのだった。
親子関係、異性関係、いつも自分を愛してくれる存在に困らない様子だと思われるのだった。
女はそれが癪だった、見下されているようで割に合わないと思っていた、そのような気配を放つ自分自身が幼稚な気がして気恥ずかしかった、少なくとも、少し前までは。

 

少し前、というのが具体的にどれほどの時間を表すのかうまく説明は出来なかったし、それを誰かに言おうとも思わなかった、ただ一人を除いては。
「あの人は皆のお母さんなのね、自分を頼ってくる人を無下にはしない人、お母さん」と女は呟いた。
「それを仕事にしている人…でも、面白いものを見つけたときに目が光るの、少年みたいに、あの目を見るのが私は…」女はそう言って鏡の前に座り込み、半時前の自分を思い浮かべた。

 

その時の女は、両親の諦念や身体の不具合について、とある場所でただ一人の人間に話していた。
意外なことだが女はそれを話しながら笑った、「この話は聞き流してください、いわゆる中年期の無力感というものですよ、お恥ずかしい」そう女は相手に言った。
その言葉は何か卑下する様子でもなく、いかにも飲み屋で偶然隣合わせた気の合う人物に、語って聞かせている風であった、女自身そう自覚していた、現に女は楽しんでいた。

 

「どうでもいいことなんだわ…気の合う人と心から話せる事が大事なのね、一番綺麗だと思うものを伝えられる悦びを、教えてくれたのはあの人だわ…」
女は鏡の中の自分自身にそう話しかけ、大きな鞄から一枚の絵画を取り出し、絵の表面を撫でた。
絵には骨らしきものが描かれ、様々な色の絵の具が分厚い層を成し、ひとつの世界を形成していた。
絵が独特に輝いているように女には見えた。

 

「きっとあの人に見せたからね、それで絵が完成したのね、つまりこの絵は、もうゴミってことね」
女は笑った、から笑いではなかった、手にした絵に親しみを込めて微笑みかけている様子だった。
ゴミでいい、ゴミでいい、そう女は思った。

 

「これでまた一つ、過去から自由になれるもの、この絵が消えても私、もう何の悔いもないわ…だって、あの人が手に取って見てくれたのだから」

 

この絵と同じ要領で、女は以前、そのただ一人の人間に、自分の過去を語って聞かせていた。
語って聞かせる時間が惜しいときは文章にした、ただ一人の人間はそれを読んだ、その繰り返しで、女はいつしか、自分の抱える全ての過去を、捨てたのだった。
「あの人が読んだのなら、過去はもう消えたのだわ」女は満足げに微笑んだ。

 

「あの人の中へ過去が集約されてゆくのね…それでもあの人はその行為をやめない…やっぱりあの人は皆のお母さんなのね」
お母さんなら大丈夫と女は思った、他者の過去も内部の洞に際限なく放り込むことの出来る人、そして自ら生み出せる人、女はただ一人の人間について、いつも考えを巡らせ、都合の良いところで切り上げていた、それで良いと気付いたのだった。

 

「これは精神的脱皮ね」
女はそう呟いて立ち上がった、鏡の中には何不自由ない様子の女が映っていた。
「鏡に映ったままの私、黄金の時間を経て尚、何不自由の無い私、それでいいじゃない、痛みの説明、過去の説明なんて出来やしないんだから、楽しい事を一生懸命するだけよ、死ぬまでそうやって生き続けるだけよ」
女は笑った。

 

その瞬間、雨が降り、周囲の風景が変化した。
梟はまた夜に話しかけてくれるだろうかと女は思った、手にした絵の中に虹色の光が宿った、だが女はそれに気付かず、服を脱ぎ、素裸のまま、新しい絵を描き始めたのだった。