a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》老人と人影、あるいは魂

 

「ここにも出たよ、出てきたよ、そろそろ行くしかない」

 

老人は菓子の入った袋を持ち上げた、すると中から小さな沢山の人影がこぼれ落ちた。
こぼれ落ちた人影たちは一時的に慌てていたが、やがてまたテーブルの上をうろうろと、落ち着いた様子で歩き出した。
家具の無い部屋の中は白い独房のようだった、そこを、小さな人影が無数に歩き回っていた。

 

「影が、こんなに出てきた」

 

老人の住む部屋は一つの都市を成していた、人影たちの都市だった、小さな人影たちの街、交差点、あらゆるところを彼等が浸食しはじめていた。
老人はため息をついた、彼等を手に取ろうとしても触ることはおろか、声すら届かないようだった、影たちに表情は無かった、黒いもやのようだが人の影であった、彼等の声も無かった、少なくとも老人には届かなかった。
ただ、菓子袋や食器といった物質を使って、彼等に触れることは可能だった、彼等には死という現象は無いようだった、彼等はただの小さな影だった、人の形を成した小さな影でしかなかった。

 

「1年が限界だな」

 

定住は老人にとって罪だった、老人が1年以上一つの場所で寝起きするとたちまち、老人以上に、影たちの占める割合が高くなった。
この現象について妻以外の人間に説明したことは無かった、幻覚に過ぎないと諭される事を、老人は理解していた。
人影たちについて老人は思考を巡らせた、この現象についてあらゆる可能性を考えたが、老人の器を遙かに超えた物事であるという確信、それを超える確信は得られなかった。

 

「俺の命が一つの場所に留まると、その分だけ、虚無的なものが増えて、1年を超えると虚無の割合が俺の命を超えるんだ、だから引っ越すしかない、俺たちは元来定住してはいけない種族なんだ」

 

種族、という言葉に老人は力を込めた、老人自身にも何故このような語感になるのかは定かでは無かった。
俺たちはどこかから来た、と老人は思った、そう思いたかった、人影たちは何も言わなかった、老人の妻だけが老人に同情的であった。
老人の妻にも影はおぼろげに見えていた、見えていると妻は信じていた、老人もそう信じていた、そうでない限り老人は一人きりであった、見えないものが見えるという点で老人は孤独だった、人間という種族の中で老人は孤独だった。

 

「影は虚無ではなく、魂かもしれないよ」

 

老人の妻は静かにそう言った、魂、という言葉には何の感動も無い様子だった、茄子や胡瓜と同列に魂と言っている様子だった。
沢山の人影、小さな人影がひとつの都市を成すほどに白い部屋を埋め尽くしていた、至る所に人影は居て、繁殖している様子だった。
人影は、人の動きをしていた、泣いたり、笑ったり、道で誰かとすれ違ったり、一人で暮らしているふうの人影もあった、そのどれがどれ、だれがだれ、とは判別しがたかったが、それでも人影たちが虫や動物ではなく人間らしきものの影であることは、老人にもその妻にも感じられた。

 

「人影は虚無ではなく、魂かもしれないよ、人に入り込む前の魂、ここで予行演習をしているのかもしれないよ、人生は舞台みたいなものでしょう?舞台に立つ前の振る舞いについてここで演じているのかもしれないよ」

 

老人もその妻も、人影に生理的嫌悪を感じたり、それ自体に恐怖を感じたりはしなかった。
この小さな人影、虚無なのか魂なのか、これらが現れはじめたのはもうずっと昔からだった、しかしそれが、昔という言葉の表す具体的な時間は、老人にはわからなかった。
無数の魂、と老人は思った、その時にはじめて若干鳥肌が立った、奴らが魂なら、虚無はこの俺だったのかと老人は思った。

 

「音楽をかけよう、俺らの音楽を、音だけは一度放たれたら永久なんだ」

 

魂たちが踊り出したらどうしようと老人は思ったが、もう音源は光を発していた、独房のような老人の部屋は明るい音楽に包まれた。
魂たちは音楽に反応した、皆一斉に沸き立つ様子を見せた、声は聞こえなかったが歓声が起こっているようだった。
魂たちは幸いにも、老人を見つめたりはしなかった、そのまま泳ぐように歩き続けた、魂たちは魂たちの都市に存在している、老人がいなくなれば霧散する、老人はそれを知っていた…魂たちもまた、移動しているのだということを老人は知っていた。

 

「引っ越し先は隣の棟にしよう」

 

老人の妻は頷いた、このように同じ町内を年に一度のペースで移動していることを、周囲から訝しがられることもあるが、老人もその妻も、気にしていなかった、何十回めかの引っ越しであった、最早遠くに行く気力も失せていた。
引っ越しが好きなのと問われると、老人もその妻も笑ってこう言った。

 

「こういう体質なもので。私たちきっと移動する種族なんですよ」

 

その言葉に、老人とその妻の全ての答えが詰まっていることを、老人とその妻以外に、誰も、知ることは無かった。