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個人的快楽を生きること


人間らしい生き方、人間としての尊厳、そういうものを突き詰めてゆくと、個人の喜びに行き当たる、個人的快楽に行き当たる。

 

以前介護施設で研修を受けた事がある、その介護施設には介護度の高い高齢者が入っていた…というよりも収容されていた。
何故なら、彼等は自らここへ来たという認識がほとんど無かったからだ、彼等が個人である、という意味がその場所にはなかった。

 

胃瘻をつけ、食物を流し込み、尿はチューブを伝って外部へ放出される…これ、本人がこんなん望んだのだろうか?
仮に望むのなら、そこまでしてでも個人として生きていたい何かがあるのだろう…もっとも、本人はもう飯を食うのも嫌がっていたが…。

 

そして私の目からは彼等が個人であるという部分がもう、見えなかった。
彼等の好きな色、好きな家具、あるいは好きな家具など無いのかもしれないということすら、私にはもうわからなかった。
私が、彼等を個人であると認識出来なくなった瞬間に、私自身の個としての存在も、消失したように思えた。
私はただ彼等のために動けばよかった、やらない善よりやる偽善だろ、人手が足りないんだよ。

 

でもその人手を、誰が望んだのだろうか?
彼等だろうか?
そんなに生きたいのだろうか?

 

もう、個人として扱われもしないのに?

 

私は何も、身体を人工化することを否定しているのではない、生命が自然に衰えてゆくのを推奨しているわけでもない。
私も人工股関節にすることがほとんど確定している、早々に歩けなくなるのがほとんど確定している。
現在リハビリという名の筋トレをやっている、本当は週に一度とされているが、ダルくて行ってない。
筋トレ自体は家でやるものだからだ、そして週に一度だと、次々に新しい筋トレを覚えさせられるだけだからだ、私は個人ではないからだ。
リハビリという名の、単なる筋トレ教室なのだ、だって私の身体はもう成長しきっていて、今更股関節が良くなるわけではないから。

 

通うことは減らしても筋トレを減らす事は出来ない、もう私にはそのような選択肢がない。
「ダルいから2~3日筋トレさぼっちゃった☆」
という気分でやらずに居たら、朝、激痛で目が覚める。
実は朝はいつも難関で、ベッドから起き上がるという動作をし損じると文字通り痛い目に遭う。
身体の後ろの筋肉を、通常よりも付けなければならないのだ、関節が関節の役割を身勝手に放棄しているため、それを筋肉で補おうということ。
筋肉で補わない限り、筋が張って、また肉離れを起こすことになる、みたいな話。

 

ポジティブに考えれば、筋トレさえ頑張れば、私はまだ歩ける。
…筋トレや身体の定期的なチェックを怠ると、私はもう歩けない、厳密に言うと歩けるけれど非常に痛みを伴う、さらに厳密に言うと、痛いのに歩けるので、歩けるという事実があり、骨自体が奇形でもそこまで劣化していないため、まだ、股関節を人工化することの許可がおりない。
勿論、何の免除もおりない、私は今の尺度から言うと障害者ではない、歩くのが痛みを伴うようになっても、私を社会が受け入れるスペースは、無い。

 

あ~、結婚しといて、よかったよ、M氏の居る世界では、既婚者でなければ昇進は難しいらしいし、双方にとって良いことだったのではないか。
このまま一人で居たら、奨学金も滞ってしまっただろうよ、しっかし最近の取り立ては厳しいからね、何の理由も私には許されない、私はどうして人が死ぬのかよくわかるよ。
どうしてこんなに自殺が多いのかよくわかるよ、何もかもが現実だからだ、自分の個人的快楽が社会のどこにも無いからだ、そして痛みだけが現実として存在するからだ。

 

…最近寝返りがうてなくなった、友人なんかはお前は長生きするよと言うけれど、これは長生きとは言わない、長患いと言うんだ。

 

でね、思うんだよ、介護施設に居た彼等は、勿論身体が痛かったろう、それでも生きていた、生かされていた、そこに快楽はあったのだろうかって。
私はね、年齢の割に老けているんだ、ずっと老いてるんだ、もう死がすぐ傍らに居るんだよ、歩けないってことはさ、生きてないってことだよ。
生命の原理で言えば、生殖時期を終え、自分で食物を得るための歩行機能まで失ったら、もう死ぬだけなんだから。
そういうことがね、机上の空論ではなく、肌で感じるんだ、ああ、寝たきりになるってこういうことかなって、私にはわかるんだよ。

 

悲観してるって?

 

悲観?

 

現実に寝たきりの人間や、食物の味もわからないのに食物を流し込まれてる人間が、溢れかえっているのに?
そういう人間は言葉を発さない。
そういう人間は表には出てこない、自宅の、あるいは病院のベッドで、過去の中に入り込んでいる、つまりもう死んでいるから。
今を生きていないから何も言わない。
だからどんどん個人ではなくなってゆく、それを目の当たりにする人間も、個人ではなくなってしまう、作業するただの道具となってしまう、命の果てだよ、命のための行為がただの作業と化している、誰も幸福ではない。

 

だって、そこには個人的快楽が一切、無いから。

 

リハビリでだって思うんだよ、私のためのリハビリではないから、ある病例のための措置でしかないから、そこに私の苦痛も快楽も入り込む余地なんてないんだ。
全部が作業なんだ、それを施す側も作業なんだ、私も次の筋トレを覚える一つの道具となる、いずれ身体の一部を人工化したら、どんな気分だろう。
楽だろうか?
でもそこに自分が自分であるという証みたいなものは、感じ取れるだろうか?
介護を受けてる側も、やってる側も、そこに自分の個人的快楽は存在するのだろうか?
もし存在しないのなら、生きながらえる意味なんて無いし、そんな仕事自体、終わってしまったほうがずっと良いだろう、人類の為だろう。

 

人間は傲慢だから、自分が個人であると強烈に感じた時に、最高の快楽を味わう。
それはセックスや社会的役割なんか比にならない。
そうせずには居られないもの、芸術がその最たるものだよ、何の意味も無いもの、最高に個人であるという、ただそれだけのもの。
究極的な個人的快楽の賜が、深い部分では最も他者と共鳴出来るというのは、本当に面白い現象だ。

 

先生は分からず屋なので、私が先生を先生個人として感じているが故に、絵を見せに行きたい、ということを何度説明しても理解しない。

 

先生は頭が良いし、他者を癒やすことで自分が癒やされる非常に素晴らしい人だけれど、馬鹿かなあと思う。
私が社会的に絵を発露したくてうずうずしているとばかり思っている、私を、もっと若い人間だと勘違いしている。
私は老いている、それに私が社会に、自分が個人であるということを発露して、それを私はどうやって受け止めればいいの?
私自身が社会に感動した事が無いのに、どうしてそんな事を目指すの?
あなたがあなただから、私は、自分が自分である故に、絵を見せたいのに。
先生に絵を持って行くとき、これ以上無いほど恥ずかしい、何の意味も無いからだ、そして幼稚で傲慢な行為だと気付いているからだ。
だってそうだろう、自分の個人的快楽に、勝手に、付き合わせているだけなのだから。

 

私はね、昔絵描きになりたかったという先生に、絵を見せている時、自分が自分であるということを見せているその時、自分が生きているという実感を得る。
男女、夫婦…それも素敵だけれど、絵を個人として見せられる間柄が私には一番の快楽なんだよ。
きっと先生は私のことを言うとき、心で思うとき、「ある患者さんが」という枕詞を付けるだろう、私は個人では無いかもしれない。
それでいい、それでいい、私も「あるお医者さんが」と思うよ、それでいいんだよ。

 

きっとこれは今、可能なこと。
私が歩けて、描けて、今、生きていると思うから可能なこと。
私が自分の意志を表に出せなくなり、それでも生きながらえる仕組みにいつの間にか組み込まれてしまって、ベッドの上で宙を見ながら過ごす時間が訪れ、誰も私が個人であったなどと思いもしない日々が来るかも知れない、自殺すら出来ない日々に捕らえられてしまうかもしれない。
その時私が思い出すのは、その時私が「生きる」ために選ぶ過去の時間は、きっと、絵を描いて絵を見せた記憶だろう。
そして私は介護人に「今、幸せなの?」と…個人として尋ねられる事があったら…こう答えるだろう、「確かに私は生きていた、だから幸せだよ」と。

 

そんなわけで私はすっかり老婆の気分だ、だからママと甘えてくる男が、自分よりも年代が上でも、自分より幼いなあと思う事が出来る。
だって、死が近いから、死というのは完全な死ではなくて、機能の死なんだよ、死ぬに死ねないけれど個人的快楽が追求できないという意味での、死なんだよ。
個人的快楽を追求出来ないのはね、死んでいるのと同義なんだ、だって、今を生きていないのだから。


今を生きなければ、と、とても強く思うよ、股関節が痛むほどに、私は強く今を生きようと思う。
だから痛みは、私へのエールでもあるんだ、個人的快楽を、誰になんと言われようとも、どんなに恥ずかしくても、今、追求せよ、それが生きると言うことだ、と、痛みそのものに私は今、突き動かされている。