a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

《創作》ロミとシンの道しるべ

 

「あの子に気付かれずに済んだね、シン、あの送電線をニライカナイへの道しるべだと言って歌ってた、この裏山が船になって送電線を伝って海原を越えるんだって…もういい歳なのに」

 

老人は妻の言葉に静かに頷いた。
鬱蒼と視界を遮る初夏の草木、虫の音、そこは彼等の住処から少し離れた裏山だった。
人界から隔離された場所、誰も道を逸れて山中へと踏み入れては来ない。
「あいつにもここは見えなかったみたいだな」
老人はほくそ笑んだ。

 

老夫婦は毎日裏山へ、正確には裏山の山中へと、歩道を逸れ、草木を掻き分けて登っていた。
老人の妻が、束になった葉をどけると、人が数人入れそうな穴が山肌にぽっかりと空いていた。
「シン、記憶の鳩の葉が、あの葉が、私の葉が、少しずつ消えている」
急がねばならなかった。

 

穴の中は、入ってしまえば意外なほど広い。
しばらく内部を歩いて進むと土の地面から、洞窟になる、この場所は入り口からは知ることの出来ない鍾乳洞なのだ。
土を穿っただけの入り口へ、辿り着く人間すら居ない、住宅街のすぐ近くの遠い遠い場所。

 

「この当たりの奴らは道を逸れるのを極端に忌み嫌っているからな」
老人はサングラスを外しながらまたほくそ笑んだ。

 

洞窟の中はぼんやりと明るかった、この場所こそが彼等の、全てだった。
「思い出すんだよ、ロミ」
老人はそう言うと、リュックサックの中からオリーブの葉を取り出した、一枚ちぎって妻に食べさせる。
「鳩は俺だよ、鳩が葉を持ってきたぞ、お前に記憶を食べさせるぞ、ロミ」

 

今手元にある株式のデータを過去に送る、そして未来の株式データを受け取るという実験を重ねてからどのくらい経つだろうか。

 

はじめのうち、老人の妻も半信半疑だった。

…これを言語で表現するというのはほとんど不可能に近いが…

洞窟に二人で足を踏み入れたとたん、あらゆる確信が脳随を貫き、その確信に沿った行為を以て、確信が現実化するということを知ったのだ。

 

はたから見たら滑稽極まりない行為だった、それは一種の儀式だった。
老人は洞窟で、人工の灯りは一切付けずに、妻にオリーブの葉を食べさせる、すると妻が様々な事を思い出すのだ。
思い出す、というのは語弊があるかもしれない。

 

様々な時代へと老人の妻は、繋がる事が出来るのだ、未来へも、老人の問いかけに妻は答えてくれるのだ。

 

「今年からあと20年分の株式データはもう写し終えた、ロミ」
そして今度は今から過去20年分の株式データを、どうにかして過去の妻へと、転送出来ないものかと実験しているのだ。
老人の妻はこの洞窟に居てオリーブの葉を口に含んでいる時以外は、記憶が朦朧としてきているのだ。

 

老人の妻は葉を咀嚼しながら言った、いつもとは様子が違うようだった。
「…シン、なんだか全部を思い出した…私たち元々この洞窟から来たの、私たち…別の行き先があったはず、私たち二人とも…記憶の鳩が、居なくなってしまったの」
老人の妻は突然咽び泣いた。

 

涙なのか鍾乳洞から垂れ落ちる滴なのか、何か冷たいものが老人の手を伝っていった。

老人は動揺した、このように妻が泣くことは滅多に無かった。

あまりに唐突な嗚咽が、薄暗い洞窟の中、幾億もの迷路のような穴へと吸い込まれてゆく。

 

老人の妻は暗闇の中、頭をかきむしりながら立ち上がると、鍾乳洞に手をつき、フラフラと内部へと歩き出した。

「ロミ、待て」
老人は慌てた、入り口から漏れる外界の光が、どんどん小さくなってゆくのを振り向きざまに横目で見ながらも、妻の後を追った。

 

「大丈夫、シン、すぐそこだから」
ほとんど目視出来ない暗闇の奥から声がした、老人は足が震えだしたのを感じた。
この洞窟では機械による光は厳禁だった、何故、と問うこと自体が厳禁だった。
洞窟内では、何にもまして直感こそが、真実だった、それでも異質な妻の様子と暗闇そのものに、老人には押しつぶされそうになっていた。

 

「ごめんな、ごめん、一瞬だけ灯りをつけていいか?もう…身体が震えちまって…」

 

老人の妻の声が「鳴って」いた。

老人にはそのように聞えた、ああ、まずいな、俺は今パニックを起こしているな、と老人は思った、笑うどころではなかった。
妻の発している言葉は、いつも唱えている経と非常によく似ていたが、所々異なるようだ、というもの老人の妻の声は高速で、機械音声そのものと言ってもいいほど…人間離れしていた。

 

俺は暗闇の中でこのまま死ぬかもしれないな、と老人は思った。

 

同時に、老人の、感情的起伏もない心のどこかの部分が、俺たちのやっているこれはインサイダー取引に該当するのだろうかと呟いた、それは娘達にも罪が関与するのだろうかと、不意に心配になった。

 

老人は震える手で、懐中電灯で妻を照らした、とにかく灯りが欲しかったのだ。
妻は、一枚の巨岩に向かって何かを…最早人語ではない言葉で…喋っているようだった。
顔は見えなかった。
経文のような声だけが、真空のような闇に響いていた。

 

振り向いた妻の顔を見て老人は言葉を失った。
懐中電灯の灯りに照らされた妻の顔は、少女になっていた。

 

「シン、私たち、繰り返してるの、同じ事、もう、何百回も」

 

そしてまた高速で何か喋りはじめたが、老人は妻の言葉を理解できなかった。
洞窟の奥へと、妻の声は、悲しげに染み渡っていた。
「シン、私たち、失敗してしまった、全ての道筋を正さねばならない、その為には全てを、無かったことにしなければならない」

 

老人の妻は、娘達の名を叫んだ。

 

膜を隔てて向こう側へと渡航する途中に、ここに迷い込んでしまい、外に出た途端全てを忘れ、間違った場所で生殖を行ってしまったこと、その全てを悔やんでいるらしかった。

 

全てを帳消しにする、というのは、娘達の存在や娘達の生み出した存在を帳消しにするということだった。
娘の産んだ子供、もう片方の娘の生み出す夥しい言葉や絵、ああいったものを全て処分することが自分に課せられた使命だと知り、老人は、どこかでほっとしていた。

 

老人は娘を嫌っていた、何故、と自身で問いかけても答えはなかった、それがようやく合点のいく正解を探し当てた気分だった。
娘の描く絵を捨てたこと、見ているだけで気分が滅入ったことも納得がいった、それらは本来在ってはならないものだったからだ。

 

「でも、もう今回の私には時間が無い、シン、それに私、何度あなたに出会っても、また忘れてしまう、そしてまたきっとあなたの子供を産んでしまう、帳消しにしてからもう一度渡航するのは、実質、無理なの」

 

娘の産んだ子供、その子供と接点を持った誰かの記憶。
娘の描いた絵、言葉、それを鑑賞した誰かの記憶。

 

「現在進行形の記憶の鳩を、今から、全て、手元に戻すのは無理なの、記憶の鳩もまた、生殖して増殖するから」

所々は言語が高速で老人には不明瞭、意味不明だったが、老人の妻の言う絶望だけは理解出来た、老人は手に持った懐中電灯を消した、もう何も見なくていいと思ったのだ。

 

辺りは暗闇に包まれた、老人の妻の声だけが響いた、それは哀しげな歌のようだった。

 

「もう、元の時空間には戻れない、私たちまた、きっと死を察知したらこの穴に入って、そして同じようで異なるこの時空間を、何度もやり直すの、何度も、何度も、全部の記憶の鳩を手元に戻すのはね…今までやってきた全ての人生、今まで数百回生まれてきた娘達の全ての人生、全ての選択を無かったことにすることなの、それは、無理なの、わかるでしょ、シン」

 

そうだろうなと老人は思った、20年後にこの穴で死のうという直感を拭い去ることすら不可能に思えた、そういう事かと老人は静かに頷いた。
「でもね」
老人の妻の顔がだんだん、元の、老いた様子に戻っているのを老人は肌で感じた、繋がる時だけ顔が変化するらしかった。

 

老人の妻がいつもあげていた経文は、夜間飛行中のレーダーだったのだと老人は、妻から聞かされるまでもなく、その時理解したのだった、妻は自分の居場所を膜の向こう側の時空間へと告げながら、それでも飛行し続けていたのだと、唐突に理解したのだった。

 

「次の人生もその次の人生もまた、シンに会えるのは、私は嬉しい、もう、永劫にここから抜け出ることは出来ない」

 

それから老夫婦は、互いに一言も発さないまま、ぐったりしながら洞窟の入り口まで型を寄せ合って歩いてきた。


ここから一歩でも外へ出ると、洞窟の中での真理や確信、体験…としか言いようのない全ての感覚、その一切が「ただの夢であった」ように感じてしまうのだ。
その夢をいかに信じ、実行するかが、外の世界での自分たちの在り方だと老人は、今回の人生では老人になってから悟ったのだった。

 

「シン、私はいつでも信じてる、だから大丈夫」
株式データについても、老人の妻の言う数列や会社名を、はじめに「取引」するのはとても無謀な気がしたのだ、しかし老人は妻を根底から信じていた、そしてそれ以外一切を信じていなかった。

 

「ロミ、今回は命日を合わせよう、もしかしたら何かが変化するかもしれない、前回、そうしなかったんだろ、前回もその前もその前も、きっとお前が先に逝って、俺は洞窟に一人で潜って道しるべを探し続けたんだろう、そうだろ?ロミ」

「そうだよ…シン」

 

老夫婦は静かに抱き合った。

そして反転するように明るい外部へと、草木でこしらえたのれんをくぐり、二人で出でた。

 

空気が変化する。
落ち葉を踏む、自分の足を見た、いつものスニーカーを履いている俺の足、と老人は思った、自分の身体が急に重くなるのを感じた、全てが夢想に過ぎないと老人は思い、妻の手を握った、妻の手は細くなり、乾いていた。

 

外は夕暮れだった、これから蚊が出る、老人はリュックサックの中の株式データやオリーブの葉を意識した、夢に支えられた日常を思った。
「シン、向こう側の世界がこっちでなんて呼ばれてるか知ってる?」
老人の妻は、洞窟に居る時と心境が変化している様子はなかった、老人は、向こう側の世界、などと口走られても興味も湧かない自分に驚いていた。

 

これから永劫に繰り返される時空の輪の洞の奥底に今、まさに足をとられているというあの絶望感も、住宅街から満ちてくるそれぞれの夕飯の香りに、かき消されていた。

 

「ニライカナイっていうの、あの子、もしかしたら何か直感したのかもしれないね、あの子が道しるべの鍵を持っているのかも」
老人の妻が笑う。
「さもありなん」老人はそう言って、とりあえずほくそ笑んだ、どうでもよかった。

 

あまりにも果てしない、道しるべへの渡航を、老人はもう、考えたくもなかったのだ。

それでも妻が笑うのなら笑おうと思った、そして探そうと思った、ニライカナイを。

 

「帰ったらベランダのオリーブの木に水をあげよう、日常生活では、俺はロミの記憶の鳩になるよ」
記憶の鳩というものが最早何の意味を成す言葉なのか確証が持てないまま、老人は妻に話しかけた、妻はもう、聞いていなかった、朦朧としはじめていた、口から食べかけの葉がこぼれ落ちていた。

 

老夫婦は、静かに山を下り、夕暮れの住宅街へと紛れていった。

 

裏山は夕闇にそびえる大きな影だった、老夫婦はもとより、近隣の誰も気付かなかったが、送電線と重なったその姿は、どこか、帆を張った船に似ているのだった。