大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

共同体意識

 

一人のその先に皆が集まっている、あの意識、あれが欠けてから久しい。
政治に興味が無くなったのも、教団を抜けてからだ、あとはもう私には無関係の世界だった。

 

個人的な感覚では、神社も入りにくい、日の丸を直視するのも気が引ける(もちろんこれには畏れという意味合いもあるだろう)、かといって教団の党も最早応援しにくい…日本の中に自分の思想の入り込む余地がない、日本の中に自分の共同体意識、居場所、理想を感じる部分が見つけにくい。

 

あまりにも私は外界を無視してきたので、政治についての話も結局主観的な物事でしか言い表せない…が、政治は勉強してから考えろという風潮も嫌いなのだ。
投票に何故行かないのか、考えれば考えるほど、思想的な自分の居場所の無さ、みたいなことが理由だなと思った。
個人的な思想ならいくらでもある、けれど私のそれは本当に単なる主観的真実、芸術のお話でしかないのだ、私とてわかっている、共同体意識が私には欠けている。

 

私が共同体意識を感じたのは、やはり宗教である。
しかしその宗教を脱退してしまった、後悔はしていない、違和感を感じたから抜けて当然なのだ。
教団を抜けてみてからの私は自分が浮遊しているように感じる、何処にも自分のアイデンティティを感じられないのだ。
例えば神社の朱色、これにも違和感しか感じない、どこか異国の祭壇なのだ。
もちろん政治はこのようなものではない、だが政治の持つ「共同体と思想」という性質は宗教に非常によく似ている。
別にそこに一票を投じたからといって、その思想に一生染まれなどという事ではないのも頭では理解している、だが、本音を言うとどの党にも誰にも違和感しか感じないのだ。

 

皆が集まっている、誰かが中心に居る、意識が光を帯び、繋がりを感じる。
私はコレを悪いことだとは思わない、だが、これはもっともっと日常的に行われてもよいと思っている。

 

母の信奉する宗教とその党を、父は信奉していなかった。
母は自分の思想を持ち、父も自分の思想を…多分持っていた。
とにかく二人は別々の思想を持ちながら、別の党に一票を投じながら、仲良くしていた。
たまに父が母の党をからかった、母は嬉しそうにしていた、二人は夫婦としてはかなり、完成していた。

 

二人のやり取りを見ている私は余計者だった、だからこそ、夫婦として、互いの思想を貶したり、一方になびかせたりすることなく生活している彼等が、いかに互いを尊重しているかがよくわかった。
特に父は私にとって善いとは言えない存在だったが、だからといって全ての面が駄目だというわけではなく、母にとっては確かにいい男だった。

 

思想が異なっても、互いに仲良く居られたら、それは素晴らしいと思う、これこそが私の理想である。

 

「どうして大熊さんは世の中に対して何もしないの?」とそれとなく言われるとき、私は戸惑った。
一体どこから私の心の不具合、共同体意識の欠如が始まったのだろうか?
教団に居たときは確かに私は自己完結型ではなく、周囲のことを少しは認識してから、真理の事を考えていた。

 

右足は既に変形が始まっているらしい、右足だけ付け根から内転し、足がX脚になっている、うわあ、改めてまじまじと見た自分の足、正直、グロい。
そりゃあ30年以上も半脱臼を放置したのだから、歩き方もおかしくなり、変形するに決まってる、こんな足で恥ずかしげもなくスカートとか穿いてたよなあ…気が滅入る、身体のことはただひたすら気が滅入る。

 

健全な身体に健全な心が宿るのか、それとも…私が肉体にうんざりしはじめたのはかなり小さい頃からだ。
この股関節の件はともかく、骨が外れやすく、アトピーで常に身体が痒く、一晩でティッシュ箱を使い切るほどの酷い鼻炎だった、ハウスダストアレルギーである。
骨が外れれば大泣きし、本当に些細な、テレビでやっているような児童体操で外れたためその度に苛々され、人前で身体を掻けば怒鳴られ、飯の最中に掻いたり鼻を垂らすのは厳禁だった、しつけは厳しかったが、それは私の体質からすると厳しかったに過ぎない。

 

痒みを我慢し、くしゃみを我慢し、骨の外れる痛みに我慢出来ずに泣けばまた打たれるという地獄だった、これは単に父との相性が最悪だったというだけの話である。
同じような体験をしたという方も居るかもしれない、弱い子供というのは連鎖して身体中弱いものであるので、どこか一つだけが弱いということよりもいくつもいくつも弱った箇所が生じるのだ、そしてよほど気に入られない場合、往々にして両親含め周囲の人間に苛つかれるものである。

 

私自身も苛ついていた、身体という乗り物にはもううんざりだった、身体が強ければどんなにいいだろうと思っていた。
身体が強ければ身体というものが、乗り物ではなく、身体こそが私自身であると感じられるのに。
身体が既に私にとっての外部だった、身体は、私自身でありながら、上手く操れず、思い通りにならない「環境」そのものだった。

 

身体が自分自身では無い感じを、なかなか説明しにくいが、私の精神的引きこもりは小学校に上がる前、この頃から始まったと言って良いだろう。
私は魂の世界へ行きたかった、だから祈りを唱えていたが、その祈りは辛うじて教団のものだった。
だから全てがどうでもいいわけではなかった、まだ全てに違和感があるわけではなかった、身体が重荷でも、神社や日の丸がタブーでも、私は教団という共同体に所属していた、私には皆が居る、そう思っていた。

 

だからこそ、どんなに身体が疎ましくても、子供ながらに政治にも自分が参加しているという実感があった、一人では絶対に辿り着けない場所、思想のねぐらが私にはあった。
あの頃の私に、投票にも行ってないと言ったら唖然とされるだろう、そして落胆されるだろう、未来の自分には思想に於いての居場所が本当に無いんだねと、哀れまれるだろう。

 

思想のねぐら、皆が集まる湿地の草原へ今の私は行けない、生物というのはどの種も根本的には生き物が群生して、その群生した生き物がさらに別の群生した生物に影響を及ぼし、さらにそれが輪となり周囲へ音や光を発し、そうやってもっと大きな流れ、大きな流れへと勢いを増してゆく。


どんな小さな生き物でも…私のように、周囲へ関与することを自ら辞めてしまう個体は居るのだろうか?

 

私は政治や世の中への関与、という疑問を投げかけられるといつも、こうした事は本人の気持ちを遙かに超えた地点で、周囲に関与するか自分に手一杯かはもう「選別」されているのではないかと考えてしまう、生まれるときに選別されているのではないかと考えてしまう。
そういう意味で聞いてるんじゃないよ、自分で考えて世の中へ関与しないのかと詰問されそうだが、不具合の多い乗り物でしかない身体の、その先にあるものが、あまりにも遠くてつかめない。

 

政治についての具体的な「気持ち」を書いておこう、あくまで気持ち、感情論である、勉強不足は自覚しているがだからといって口出しするなという風潮もどうかと思うので、気持ちだけ。
ただ一つ明確に思うのは、…働く事への恩恵の無さ、手応えの無さ、みたいなものである。
頭の良い人はどんどん海外へ行ってしまう、駄目な奴らは金持ちから恵んでもらおうとしている、それでは集団生物としては、ますます「頑張る」意義が失われてしまうのではないか。

頑張った人や頭の良い人が報われないシステムを提示されると、その先が見えてこない。
貧乏人で居た方が楽じゃない?駄目な人で居た方が楽じゃない?

頭の悪い人が生きにくいことよりも…頭悪くて大変な私が言うのもなんだが…まず利発な頑張り屋に大きなメリットのある社会にならないと、国としてどんどん弱体化してゆくだろう。
旧共産圏のように、皆が自然と意気消沈してゆくだろう、かくいう私も働くという事への意義を既に見いだせない、私は馬鹿だが、馬鹿でいいや、みたいな気分がもうずっと心に染みついている。

 

そしてさらに元貧乏人の私が言うのもなんだが、貧乏だから欲しい欲しいばかり言う奴の欲求を叶えるよりも、利発な人が報われる社会、日本に居たくなるような社会でないと日本という国自体が発展しない、その為には恩恵の象徴として、富裕層は必要であると私は思う。
あとは仕事の種類の少なさだ、海外に流出した分野を取り戻せないのだろうか…多分今無能な人として存在している人の多くが、コミュニケーションに於いて無能なのだと思う、勿体ないと思う。

 

あと子ども関連の単語を聞くとなんか、本能的に、ああ私それ関係無い、と思ってしまう。
突然欲求を突きつけられているようで、単に気分的に不愉快である、政治を快不快で決めるなよ、子供は日本の未来だぞと言われるのは承知だが、それでもまあ…これは気持ちの上での話なのでね。

 

何故これほど同じ国民の子供が赤の他人かというと、これも感情論なのだが私の子供時代既に「知らない人には挨拶しないように」という教育がなされていた。

 

私も当然知らない人は無視した、私自身が性的暴行で痛い目をみたこともあり、知らない人は害悪であった。
そんな自分が大人になってみると、そう、世の中は知らない人だらけである、知らない子供だらけである、知らない子供のことは、私とて、知らないのである。
これは一種の刷り込みで、もっと理論的に考えろと言われればその通りなのだが、それでも知らない人は害悪なので、その知らない人の産んだ知らない子供は知らない人間であり、助ける必要性を感じにくい、ということも事実なのである。
勿論その知らない子供の中には、股関節脱臼を放置されている子も居るかもしれない、だからこそ助けてあげようよと促されても、関心が湧きにくいのだ。
ほら、私なんかは自分の身体自体が、よその何かでしかないから、その先のよその誰かなんて、もう宇宙の果てみたいなもんよ。

 

つまり、私が政治を考えることをほとんど放棄してしまう主な理由は共同体意識が欠けているからである、ではこれを直すにはどうしたらいいか。

 

人間は…一部の天才を除き、ほとんどの人が、頭で考えるよりも感覚の占める割合の方が大きいのではないかと思う。
では感覚的に共同体意識を芽生えさせるにはどうしたらよいのか、宗教などを使わずに共同体意識は芽生えるのか。

 

手っ取り早く、江戸時代のように、近隣向こう隣3軒が、火災(災害)訓練をしたらいいんじゃないだろうか?
生活時間がとか色々あるだろうが、もうほとんど強制的に、災害時に住民が自主的に力を合わせて対処出来るように、ということで半ば徴兵くらいの勢いで、月1くらいの割合で強制参加させられ、命の危険をなんとなく「共有してる感じ」を持たせてやることが、社会を考える一歩になるのではなかろうか。

 

そりゃ嫌だろう、でも仕方ないよ、命がかかっているのだもの、皆の命が…っていつの間にか感じるようになっているだろうよ。
そしたら知らないよその子でも、まあ仕方ないか、この国の子どもだものね…っていつの間にか感じるようになっているだろうよ。
そうしたら世の中の事ももう少し積極的に考えられるだろう、身体が疎ましくても、その先の意識まで自分を引っ張ってゆけるだろう、他者のことを考えられるだろう、そうやって育てば尚のことだ。

 

人間は本当に簡単な生き物だと、私は思っている。