大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

善悪と無意味さ

 

昔、正義感が強かった、昔ってのは若い頃とかじゃなく子供時代、20年以上前の話。

 

何か善いことの為に行動しようとしていた、善いことというのは一瞬一瞬の決断に込められたような、小規模な、自分で出来る範囲の善いこと。
誰かがいじめられていたら止めに入るとか、何か物をその場に居る全員に配るつもりが足りない場合…自分が進んで「私には無くてもいい」と言って周囲を安心させたいとか、そういう小規模な話。

 

だけど小規模な事柄でも、当の本人には視界を占めるほど大きな物事だった、席を譲るとか丁寧にするとか、誰かに嗤われる事も含め、自分に与えられた使命を常に感じていた。
これは母の為というよりも、母の信奉する、集合超意識、みたいなもののためだった、いつでも私は教団の事を考えていた。
だから勉強も運動も出来なくても平気といえば平気だった、父からの殴打も…父は信者ではないので意識に善意が欠けており、虚無思想に染まっているのだから、致し方ないという、独特の諦めの気持ちもあった、これはこの教団に属さない大人へも向けられた。

 

私は自分の日常に於ける「善意が問われる」瞬間をほとんど毎日体感した、子供時代は特に、普段は喋りもしないのに何か心に引っ掛かる物事があると放ってはおけず、そういう時には泣きながら訴えたりした、何を?、善意を、である。
心に引っ掛かる物事がない時間、例えばそういう一時間はじっと身体を動かさずにいた、意識はいつも遠い果てにあって、自分の身体を離れていた。
身体が在る、ということはきっとこの「善意が問われる」ことへの実践を試されているのだと思っていた、私はよりよい人間になりたかった、この願いは切実だったが、実際には身体を持て余していた、善意の問われない時間の存在する意味がわからなかった。

 

人生が善意を試す場であるなら、それよりも意識を、集合超意識、信者達の祈りの集合体へと向けるものであるなら、もうほとんど身体のある意味は無かった。
絶えず痒みを帯びた酷い小児アトピー、慢性鼻炎、着替える度に皮膚がパラパラと舞い落ち、同級の女の子たちには嫌がられた、嫌がられるという素振りを見せないように嫌がられたと言った方が適切かもしれない、同性間の見えない空気の壁は厚く、私は未だに同性が怖い。(しかし母親を好きなせいか女を嫌いではない。)
当時、自分が醜いということは一番の辛さではなかった、痒みと鼻炎で夜も眠れない事が何より辛かった、何故身体を纏っているのかを、それについての祈りを私は欲していた。

 

私は信者だったが、この辛さには耐えられないように思われた、身体の不具合に対する、無意味さに私は負けていた。
教本にも身体の在る意味、身体の存在する意味は書かれていなかった、私に与えられた教えには無かった、もっと正確に言うと、単に子供用の教団の本には身体に関する祈りは無かった、ただそれだけである。
私は、今思うと全く、信仰に生きることが出来ていなかっただけである。

 

当時の私は魂と肉体とを常に切り離した、教団の教えはむしろ真逆で、この現代を信者として生き抜くことを強く推していた、在家信者が構成員の全てだった。
坊さん、尼さんは忌み嫌われた、念祷に生きる人々は、肉体をほとんど捨てて生きる人々はこの教団にはふさわしくなかった。
だから薄々、自分は「善意を問われる」あの瞬間には確かにこの教団員として私は振る舞えるが、根本的にはこの教団に向いていないなと思った。

 

では、向いていないのなら別の教団に入ればよいのだろうか?
肉体を不浄のものとし(実際私の子供時代の肉体は鼻水と垢だらけで清浄とは言い難かった)、祈りに生きる、魂に生きることは素晴らしいじゃないか。
では、向いていないのなら別の教団に入ったとして…

 

そんな事がこの世の理屈として許されるのだろうか?

 

私は母の元で育ち、母の信奉する教えで育った、皆で祈るあのエネルギーは、唯一無二ものではなかったか?
私が別の教団へ行くのは母を悲しませるとか、義務教育時期には現実的に不可能だとか、そういう事は最早関心事ではなかった。
私自身が唯一無二だと感じたあの、超意識、としか言いようのないモノに対しての、摂理としての矛盾に感じた。

 

その教団でいけないとされている美に、私は目覚めた、聖母像の美しさである。
どうして善い物と悪い物があるの、存在としての善悪って何なの、そういう話を母とよくしていた、母は私に付き合うというよりも、私を一人の信者として、対等に会話してくれた、母個人は馬鹿だったが非常に賢い人なのだ。
母親が宗教をやっているというキーワードは、一般的に何か不幸な印象を与えるようだが私には有益だった、何故なら、母は常に自分の信念を生きている実感があるようで、私はそれこそが生きるということなのだろうと、母との会話で知ることが出来たからだ。

 

子供時代は肉体のある意味がわからなかったが、それでも政治にはまだ興味があった、教団の政治家を応援したりもした、そんなとき私は…生きていると深く実感した、当時政治は関心事だった、自分が社会へ関与しているのが子供ながらに嬉しかった。
しかし教団には合わなくなってきた、私自身の生きる軸は肉体には無かった、ただひたすら痒みに耐えるだけの肉体に何の意味があるというのだろう。
同時に政治にも興味を失っていった、肉体に意味が無いのなら、社会に意味もないのだ。

 

別の教団を探すという事自体が何か…それこそが「真理とは幻である」ということへの、虚無を証明する行為のように思えた。
それでもまだ私は何かに所属したかった、母が許すなら尼僧になりたかったが、そんな訳もなく、私は教団を辞め、思春期を迎えた。
思春期を迎えた途端、私の肉体に変化が起こり、どういうわけだが私は一変して「学年一不細工」から「可愛い子」になった、周囲の価値観の変化に私は結局ついて行けなかった、異性よりも同性の態度の変化がやはり、怖かった。
今でも顔を褒められることがあるが、私はその度に戸惑い、同時に聖母像を思う。
あの像は、あの像を敬愛する集団には美しく映るだけであって、その価値観を共有しない集団には、偶像崇拝と言われ忌み嫌われる物体と化すのだ。

 

美は多様である。
善も多様である、だが善は、突き詰めると方程式があるように思う、子供時代の私の行いは頑固だったが、それでもやはり、一種の善であった。
さて、苦しみはどうだろうか。

 

もし当時、肉体の苦しみに関する意味、肉体を纏って苦しむ事への意味、それに対する祈りを知ってたら、私はあれほど苦しまずに済んだかもしれない。
鼻炎やアトピー、そして現在の股関節痛や脱臼も、命に別状はない。
命に別状がない分、滑稽ですらある、股関節脱臼という言葉自体、何だか喜劇的な響きがある。
股関節が脱臼気味なのにセックス好き、という時点で阿保丸出しのような気がする、この無意味さに挫けそうになる時が多々ある。

 

多分だけれど、人が生きるのが無意味だと感じるのは苦しみや痛みに意味を見いだせないからだ。
私自身、現在も意味がわからない、意味があるよ!と言われても、意味があると感じる事の出来る祈りがあると言われても、一端挫けた気持ちはそう簡単には持ち上がらない。
私は宗教を、本当の信仰心をもってやっている人を、実はとても尊敬している。
何もかもの先に、人間が出来うるギリギリ最大限の事は、やはり祈りしかないだろうとわかるからだ。
祈りとは、お願い事ではない、純粋な祈りである。

 

私がここまで祈りを大事だというのに、宗教をやらないのは、先にちらっと書いたとおり…別の真理があると私が認めた時点で、私の感じていた唯一無二の感覚ごと否定されてしまうからだ。
これは私個人の話でしかないが、宗教を選べるという時点で、最早宗教の意味が失われていると、今は感じてしまう。

 

私が今、一番宗教的感覚に近いのは、憧れの先生と話しているときである。
話というのは実際に対面していない時でも、空想上の話に於いてもだ。
別に彼が神様というわけではない。
だが、利己的になりがちな芸術の世界で、なるべく善い音を発信するというコンセプトを自然に思いついたという点や、なるべく来院した人が落ち着けるようにと配慮された病室を見ていると、彼に感銘を受けずにはいられない、美しい人なのだ。
彼は模範となる人なのだ、彼本人がどんな人だろうと、やはり模範なのだ、善い、ということから逃げたりしない人(悪いことをしないという意味ではない)。
先生だったらどうするだろうか、これは先生に話したら恥ずかしいことだろうかと吟味している間、確かに私は個人の堂々巡りから抜け出している。

 

ただ、社会に対してどうだろうかという意識にはまだ浮上出来ていない。
私は先生から社会に於けるあなたの芸術とは、と言うような、問いを投げかけられている。
私は社会から逃げている、何もかもが無意味に感じる、股関節の痛さも、私が今生きているということも無意味に感じる。
そういう事が無意味ではなくなる瞬間は絵の制作中だが…

 

ああ、子供時代と同じだ。
私の悩んでいることは子供時代と大差ない。

 

絵の時間以外に、私は意味を感じる事が出来ない。
私はもう正義感も強くない、人をぶん殴りたいと結構思っている、政治も心底どうでもいいと思っている、しかしギリギリのところで、美しい世界を見たいと思っている。
私は自分が感じている虚無感を、後ろめたいと思っている、虚無感があるということを、あの超意識に、謝りたいと、今でも思っている。

 

だとしたら悪とは、虚無感そのものなのだろうか、だから虚無感に苛まれると…どうしようもない申し訳なさを感じ、苦しくなるのだろうか。
善は、直感や真理だろうか…善を突き詰めると…生きている瞬間を、直感で肯定するということ、ただそれだけなのかもしれない。