大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

あぶないひと

 

元ヤクザ、新興宗教の熱心な信者、元アル中元薬中、精神障害のある人…
こういう一般的には「ちょっとあぶない人」の文章が実は凄く好きだ、「元」と書いたのはね、現アル中や薬中の場合、文章書くのもしんどいだろうし、現在カタギでない方の場合は書いた文章を公開するのは難しいと思う、だからよく行き当たるのは元アル中、元ヤクザ、そんな人たちの文章。

 

あぶない人があぶない生き方をしてしまうのはそもそも「周りが見えてないから」かもしれない、だから余計な「普通」こう考えるという視点が削がれて、作品として文章を読んだ場合、主観的真実がありのままに書かれていて意外な程感動する事が多い、要するに彼等は馬鹿なぶんエゴが少ない。

 

もちろんあぶない世界のほんの一握りの人たちの書く文章に感動しているに過ぎないよ、ほんとに一握り、ひけらかすように書かれている場合はもう既に視点が客観的すぎて、いまいちあぶない度数が高くない、してやった感が出てしまうと感動しにくい、それはあぶなくない、別の場所に移してやれば普通に生活できる普通の根性の…多分意外なほどいい人だろうな、他者により態度が異なるのなら、本質的にはとても社会的な人。

 

私の感動するあぶない人ってのはね、新興宗教を本当に心の底から信じて、頭の足りないような出来たてほやほやの教義を信じて、身も心もさらけ出して教主の女のうちの一人になってしまう女性とか、小切手詐欺や銃の扱い方、指の詰め方なんかを淡々と紹介(?)しているような人、アル中時代を振り返って自分がどうだったかを体感そのままに文章に落とし込める人、極右翼思想を謳歌している人。

 

憶測に過ぎないが、こういう人たちは環境を変えても、ふたたびあぶない街道に身を置くことになるだろう、彼等は主観で生きていたいのだと思う、主観でいっぱいになりたい、そうでなきゃ生きているという実感が無い、そんな気持ちが根底にあるのだと思う。

 

主観を謳歌すること…誰でもこの気持ちを持っている、と言う人がいるが、それは嘘じゃない?
嘘って程ではないけど、それよりも「主観100パーセントで居る事への恥ずかしさ」がそれを上回るのだよね、こんなのは恥ずかしい、普通に考えたら恥ずかしい。
恥ずかしい思いだけはしたくない、でも芸術ではこの気持ちは不要、別にあぶない人たちには芸術家の自覚なんてないのだろうけど、彼等は芸術向きだ。

 

演劇もそうだよね、舞台で…それが嘘なのに主観では100パーセント役柄になりきり、主観を、情緒をそのままに体現すること、普通そんな恥ずかしい事は出来ない。
フンドシ一丁で結婚写真撮って、それを堂々と飾るってのもそう、ナルシストだと思われたくないとか、色々理由を付けて普通…いや、そもそもフンドシ一丁で写真屋の、普通の写真を数多撮ってきたカメラマンの前に立つというだけでも恥ずかしい。
私は頭が悪いので、職場で上手くやれなかった事もある、今回のように奇跡的に居心地が良い場合もあるが、全く「空気読めない人」になってしまい、「普通」わかるよねと影で笑われたこともある、恥ずかしい思いをしたというのと同時に、誰かの「恥ずかしい思いだけはしたくない」という気持ちを私が請け負ったのかなとも思った、これは恨みとかではなく、静かな気持ちでそう感じた。

 

ねえ、なんであなたは、いきなり不特定多数の人に向けて音楽を発信できるの?
あなたはなんで毎回私に「どこかに応募したり発表したり」っていう話をするの?それはどこの宇宙の話?
あなたのCDを聴いている、何枚も発売されて評価されているこの音楽、どうしてこれが誰宛でもなく制作できたの?どうして世界を、自分をそんなに信じていられるの?

 

あなたは全くあぶなくない、情緒も落ち着いていて、それなのに主観的真実を追究している、あなたの祖父はとうとう呆けてきて、そこここの土の地面に杭を沢山打っているらしい、住んでいる場所が杭だらけになるまで彼は生きている、杭はきっと人だよ、彼にとって今し方話してた相手、誰かに宛てた気持ち、杭を打つのは楽しそうだよね、私は成田市の田んぼのそばの雑木林が杭だらけになって、のどかな景色が一変して異様な気配を放つ場所と化しているのを想像し、笑った、正直ちょっと素晴らしいと思った、あなたの祖父は芸術家なんだねと思った。

 

私はあるときには元ヤクザの回想録を読み、その最中はヤクザになって、舎弟を引き連れ、県外追放になったのにのうのうと営業している店を、潰しに行く。
ただの泥棒はするなよ、店を潰すってのはガラス割ったり消化器まき散らしたり品物をぶっ壊したりすることで、ただの盗みではないんだ、おい、なんで真っ先にレジだけ持ってくるんだ、何もわかっちゃいないな、でも警察に現行犯でパクられんのは怖えよ、こんなことで懲役食らうのはもう沢山だ、今日雇った奴らをもう一回行かせろ、こないだ親分からもらった封筒は開けてない、中には白い粉が詰め込んである、俺は薬はやらない、ああ、親分には気を遣う、今回の件でも一応、指詰めとくしかないのか、関節にうまく入りゃすっといくんだが…。

 

教主様はね、何でも知ってるの、神様のこと、目に見えない赤ちゃんのこと、あたしは伝道師なんだって、と私は読みながら体感する、あるときには信者になる。
前にね、あたしはぜんぜん幸せじゃなかった、お父さんもお母さんもあたしのことは考えてないの、だからあたし、売春してたの、援助交際?どっちでもいいよね、お父さんくらいのおじさんと寝てたの、でもあるときね、天使が話しかけてきたの、ガブリエルだ!ってあたしにはすぐわかった、それでね、教主様と出会ったの、あのときはまだ教団は立ち上がったばっかりで、あたし含めて数えるほどしか居なかった、ま、それは今もだよね、小規模だもん、あたしミサには出ないの、寝ちゃうから、教主様も許してくれてるの、その間はお買い物にお掃除!あたし、教主様のことだいすき!

 

元々俺は自分で言うのもなんだけど真面目な性格で、酒も適量を守っていた…今度はアル中、読んでいるときは私もアル中。
夜寝れなくなって酒を飲むようになった、本当に軽く、それからだんだんと量が増えていって、なんだろうな、身体が酒で満たされるとようやく眠れる。
そのうち朝起きると少し酒を含むようになった、仕事も辞めてたから、起きる気力もなくて、起きるために酒を飲む、果たしてそこまで起きたいのか自分でもわからなくなってた、永久に眠ってたっていい、けどそのうち、目が覚めると酒のことを考えていることに気付いた、酒?美味くないよ、酒は美味しくはないんだ、それでも命の水みたいに感じる、あれが無いと俺は動けない、酒を飲んで動けるようになると俺は誰かの作った飯が食いたくなる、何でもいいんだよ、誰の飯でもいい、人の気配が欲しい、夕方になると無性に苦しくなる、ああ俺は何やってんだ、そしてまた酒だよ。

 

あぶない人たちは主観でそのまま生きているから、文章もそのまま入ってきて、私はそれを体感出来る、あぶない、おかしい人には何かしら聖なるものを感じてしまう、醜いのに美しい、醜いから美しい、馬鹿だからこそ独特な光を感じる。

 

さて〆に私の父の話でもしようか。
父は借金取り立てのバイトをしていた、もうずっと昔、高校生だったが車で登校していた、それが元で車登校は禁止という校則が出来た、父は一言で言うと馬鹿だ。
父は、そのバイトでは取り立て相手をなだめる役を与えられていた、他の面々よりも知的に見えたからだろう、強面の奴らは脅す役、そんな風にそれぞれ役柄が決まっていて、数人で一つのグループを形成し、半ば演劇の要領で、時に家に差し押さえに行く。

大抵の場合は払え、と脅しに行くわけだ、富士山の見える一見のどかで閉鎖的なあの街にもこのような職業が存在するのだ。
仕事をするには若かろうがなんだろうが取り立て人にならねばならない、そんなわけでまずスーツを買わされる、これは高いので社長(たぶんヤクザ)にツケで買ってもらう、要するに取り立てのバイトをするはずかいつのまにか取立屋に貸し付けられているというオチ。

100万か200万あっという間に貯まったそうな、父が何故散財せずに金を貯めたかというと、理由は簡単、新しい車が欲しかっただけのこと。
ある日、父は組織に誘われた、父は断った、すると社長は豹変し、父を取り立てた「今まで払った金返せ」、そう言われた父はスーツ代を両親に借り、貯金と併せて社長に頭を下げ、事なきを得た、バイトと言う名の本気の演劇活動で汗水垂らして働いたのに、金玉が縮むほど怖い思いをした挙げ句、親に借金が出来たのだ、まあ馬鹿だからしゃーない。

 

脅してきた人々への良心の痛み?ないよ、借りた金は返せよ、闇金から金なんて借りるなよ、馬鹿だから取り立てられるんだ、俺は馬鹿が嫌いだ、借金するやつらってのは泣きゃ済むと思ってて、いやんなるね…父はきっとこんな風に言うだろう。

 

私は父が嫌いだ、身近にあぶなくてキレやすく馬鹿な奴が居ると鬱陶しくて仕方が無い、馬鹿は心の許容量が少ないので、残念ながら馬鹿同士の会話は、実際には成り立たない仕組みになっているのである。

 

しかし相反するようだが…父がこの取り立て体験を文章に書いたら面白かろうと思う、何かしらピンとくると思う、私にとって芸術とはそういうもので、その人と実際に関わろうが関わるまいが、ピンとくるものはピンとくるし、感動するものは感動するのだ。

 

七色に光る風車は何で出来ているのか近寄ってみた、鯉のぼりのすぐそばにずらりと並んで回転していたのだ、それは空き缶に無数の切れ目を入れて作られた風車だった、要するに一種のゴミだった、この場所に杭でも無数に打ったらさらに風景が映えるだろうと思った。

 

そうそう、しめ縄には鶴の形もあるらしい、くちばしの部分は赤く染められている、羽は広げて、尾が穂の部分、空を舞っているものもあれば鎮座しているものもある、それが何の役に立つのかって?
それが何故吉兆の徴なのかって?
それはきっと、あるときに呆けてきた縄文人かなにかが、縄を結いはじめて、それが何の役にも立たない結い方で、それでも彼はやめられず、無数に異形の「何か」が彼の家のまわりに散らばりだし、周囲の空気が一変し、のどかな風景に毒が混ざったような妙な気配を発しはじめたのが始まりだろう。
また別の場所では、そうやって干した植物を形作ることで、それ自体が神の乗り物となるとかなんとか唱えだした阿呆が居て、それを信じた女も居て、共同体となって祈りだしたのだろう、ある場所ではどうしようもない酒飲みが、ある場所ではただの馬鹿な若造が、似たような事をして日常というものを打ち破る気配を発し、その気配を美と呼ぶさらなる阿呆が湧き出て、いつのまにやら伝統工芸となったのだろう。

 

周囲の空気を読めない、生産性の無い、馬鹿であぶない奴らは何か自発的にやり出す。
その何か自体は実はどうだっていい、ただそのまっすぐな視点を、どうしても美しいと感じてしまう瞬間がある。

 

醜いものが美しい、どうしてだろうね、私の心の中身をほじくり出したら、きっと極彩色の電線が、配線が滅茶苦茶になったような状態で蠢いていて、時に剝き出しになったままの通電中の鉄線が青白く火花を散らしている、そのすぐそばをムカデが数匹這っている、ゴキブリだって居るかもしれない…ねえ、これを何故か美しいと思う人も居るんだろうね。

 

そういう人は本当に、頭がおかしいと思うよ、頭がおかしい人を私は見つけたいよ、そのために中身を、さらけ出している。