大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

素人が医学について語る

 

本当に好きな人と、若い頃に出会わなくてよかったよ。
その人の為ならなんでもしただろう、自分の一番やりたい事ではなくても命をかけたろうな。

 

憧れの人の奥様は初産の直後、ピースサインで「もう一人いける!」と言ったらしい、著書に記されていた。

 

これを初めて読んだときにも思ったし、やはり今も思う、私なんかが彼のそばに居るような事にならなくて本当によかったのだ。
彼は芸術志向の女性は伴侶には選ばないと公言していたので、まあ、普通に考えてもやはり私は振られる仕組みだったのだけれど。

 

予防医学という考え方がある、例えば私の場合は半年に一度レントゲンを撮り続けて、股関節の骨の摩耗をチェックする。
ある日突然歩けなくなることを予期しながら、阻止しながら生きるということをメインとする医学的思考だ。

 

産婦人科というのは何故だか骨には着目せず、子宮内部の状態のみで、その女が健康か否か判断する。
そこには産後という考え方が根本的に欠けている、産後ずっと歩行困難な女は、うちではなく整骨院へ行ってね、そういう回転寿司形式で現代医学は廻っている。
その、歩けなくなった人をやたらと「俺なら治せる」と楽観視したり、根拠のない自信で「俺のところへ来い」と言っている整形外科医も意外なほど多い。

 

私は昨日、整形外科にて骨に先天性の異常が見つかった、名称は特に告げられていないが乳児検診で判明するレベルの異常、先天性股関節亜脱臼とでも言うべきか、あとは骨盤の異様な小ささ…だからどうというわけではない、日常は変わらない。

 

こうした異常は遺伝性のものである、それを整形外科医が告げてくれた。
これを「妊娠可能な女性に、妊娠を思いとどまらせるようなことをした」と見なす人も居るだろう。
守るばっかりが医学ではない、と思う人も居るだろう。
でも、考えてみて欲しい、産後も人生は続くのである、私は出産することは考えていないが、実際に長期に渡り歩けなくなった経産婦を、その整形外科医は診てきたのだと思う。
軽々しく「自分は治せる」とは言えないことを、自覚しているのだと思う、産婦人科医はそれを知らない、男も知らない、私のような「妊娠は自分には無関係」と言って憚らない女も知らん顔している、そういう孤独な経産婦の受け皿となるのが整形外科医なのだとうと昨日、私は、初めて知った。

 

医学、というものの成り立ちは「死」であると私は思う、死とは単なる死、および身体の各部位単体の死である。
歩行機能の死、歩行機能は死ぬかもしれないけれど「丈夫な赤ちゃんを産めればいいでしょ」というのが産婦人科での考え方のように感じる。
なぜ連携しないのか不思議で仕方ない、何故医学が連携しないのか本当に意味がわからない、一部分だけ見ても原因を発見できないのである、こんなことは素人にもわかるのだ。

 

赤ちゃん産め産めコールをする人は、子供は無事生まれるものだし、妊婦も死なないし、身体の一部が死んだりもしないし、経産婦の足腰が痛むのは普通の事だと思っている様子だ、ああいうものが命がけであるということ、命というのは身体の全ての機能が生きたままでいることを指す、その全てをかけているということを、私も昨日まで知らなかった。

 

実は他にも、書くまでもないと思っている先天性の異常はある。
左鼻腔の奇形である、なにやら左鼻の奥の軟骨がぐしゃぐしゃであまり通りが無いらしい、なんとか非弱に空気は通っている。
本当に幸いにもその奇形は鼻の内部の話であるので、誰にもばれずに済んでいる、ああ、ひやりとするよこういうの。
あとは不整脈、いつも心電図で引っ掛かり再検査をする、が、不整脈の何がまずいのか未だにわからない、測り直しても不整脈は不整脈のままである、技師から一言二言何か聞かれ、その度に「いつも引っ掛かりますよ」と私は答える。
特に他の数値に於ける異常は見当たらないので、心電図は「何度か取り直す儀式」を行うものと化している、ただそれだけの認識である。

 

私自身の気がつかない異常は、たぶんあと少しあるだろう、一生気付かないのだと思う、だって、他の人の身体とは比べようがないから。

 

出産は命掛け、滅私奉公で赤子に尽くす、みたいな事をやたらと美談として認識しているのではなかろうか、それが常識、みたいな空気が蔓延している。
それさ、本当に美しいのか?と私は聞きたくなる、はっきり言ってわからない、だって本当に苦しい人は、乗り越えられなかった人は黙しているのだから。
出産や子育ては基本的に美談で埋め尽くされている、配偶者よりも子供の命をとります、みたいなことが美しさの基準である。

 

私は幼い頃、宗教をやっていたせいか、日本人の日本的な美学に違和感がある。
執拗なまでに自己放棄的行為を崇めるところや、我欲は醜であるという思想、突然周囲の色に染まってしまうところ。
正直よくわからない、私には同年代の友人も数えるほどしか居ないので、同年代だねと同調されてもついてゆけない、皆が何に色めきだっているのか、何を美とし何を醜としているのかがいまいち理解できない。

 

だからこの種の「命掛けで新しい命を産んだ」という美談も…結局強者だけが語りたがるものなのだと、妙に冷めた目で見てしまう。
だってそれで本当に命をかけて灰と化した人は、実際死んだ人は黙したままだし、廃人になってしまったような女やその配偶者もまた、文章を書くなどという作業は精神的に到底出来ないからだ、語られているのはいつだって勝者の言葉なのだ。

 

また男に関しても、出産後に妻が死んだとか、出産後に妻が歩行不可能になり改善していない日々とかを、綴る男は少ない、特に後者、老婆のようになった妻について語る人は少ない、醜いものは見ないようにと蓋をされている。
子供への自分の気持ちを正直に語る人も少ない、そこに私は違和感がある、善き人間として振る舞おうとし過ぎるあまり、自分の軸をないがしろにしているのではないかと感じてしまう。

 

私が言いたいのは、自分の一番やりたいこと以外は手を抜いて生きるのも、一つの美なのではないかということだ、それに後ろめたさを感じる必要も無い。
私は昨日、だいぶ気が楽になった、今まで子供を持たないことは私の一存であった、だから周囲から産め産めと言われると、さて何から「理由」を話そうかと頭をひねっていた。
でも肝心なのは多分、理由ではない、今理由を述べるなら「骨に異常があって産まない」と言えばいいだろう、比べたがりの人は「もっとがんばっている人が居る」と見当違いな意見をぶちまけてくる。

 

比べること自体が無意味なのだ、昨日は、私自身が「障害者」や「妊婦、経産婦」といった人を「あちら側の人たち」だと認識していたと、見ないようにしていたと、気付かされた。
自分の死の可能性みたいなものを昨日、肌で感じた。

 

肌で死を感じることで、ふと、個人の軸、これ以外に命はかけなくてもいい、そんな必要性無い、と強く思った。
そうやって緩やかに生きることは何も悪いことでは無い、それは醜いことではない。

 

繰り返しになるが、予防医学の考えで行くと、今回出会えた整形外科医は私にとっては善き出会いだった、身体を温存する方法を教えてもらえるのだから。
少し飛躍するが、確かに、これを「可能性の否定」ととる人も居るだろう、限りなく努力すれば子供を産める女に、あえて産まなくて良い、あえて頑張らなくて良いと肯定する整形外科医の意見に違和感を感じる人も居るだろう。
私自身の乳児検診での異常、先天性の欠陥を、発見出来なかった事が、逆に私という人間の「可能性を広げた」と感じる人も居るだろう。
はじめから身体の異常を知っていたら、私という人間はもっとそれに甘えて、根腐れしていただろうと。

 

勿論それも否定は出来ない、私は根が屑だからだ、だが…。

 

だがもし…私が、若い時期に、本気で誰かを好きになっていたら。
芸術の面でも語り合えるような、憧れの人のような男に、彼のような人に、もし出会っていたら。
彼に子供が欲しい、産んでくれと言われたら私は有頂天で妊娠を喜ぶだろう。
そして身体がどんなにしんどくてもやりきろうと思うだろう。

 

それをやりきれたら美談なのだ。
やりきれずに自分が死ぬとか、自分の身体の一部が死ぬとか、それに対する苦しみの言葉はいつも封じられている。
私自身の一番やりたい事を、閉じてまで出産をしたとかいうことが、それを乗り越えた人だけが語る美談として崇められている。

 

敗者はいつも黙している。
でもね、よかったよ本当によかった、私は彼を悲しませるような、そんな原因にならなくてよかった。
これを悪い祈りみたいに感じたら、ごめんよ、でもああいう人を悲しませる事はしたくない、私は初産でピースサインなど出せないだろう、死んでいる可能性も普通にあったのだ、だからよかったんだ、憧れの人が家庭を築けて、それは本当に善いことだったのだ。

 

昨日は母のことをコテンパンに書いたが、母のことを私は好きだ。
子供時代の私が度々性的に悲惨な目に遭っても、母は決して「なんでうちの子が」なんて薄っぺらい事一度も言わなかった、それが我が母の凄さだ。
母は確かに馬鹿だし歩くのも下手だけど、その分、人間には理解不能のものを信じていて、だから自分より格下とか格上とか、自分の子は素晴らしいけどよその子は劣ってるとか、そういう部分が思考に一片も無いような人間だ。

 

私は今の自分でよかった、道を違えてはいない、まっすぐだよ。

 

本気で誰かに気持ちを伝えたいと思えるのが、こんなに遅くなったけれど、それでもやはり今でよかったのだ。
桜は若葉が混じった頃が綺麗だ、汚いものが綺麗なのだ、正常と異常の境目は無いのだ、勝者と敗者の境目、生と死の境目も非常に薄いのだ、身体が全て生きていてよかった、そして身体が死んでも、その時にはそれでいいと言える、そういうものを人生に求めているよ。

 

そのために、よりよい人生のためにも、ひとまず産婦人科と整形外科は連携すべきである、と私は猛烈に言いたいのである。