大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

逃避癖

「今さっきバックレてきてんのだ。ずっとだよ、一時も忘れたことなんか無い」

 

お前さん馬鹿やなあ、アホやなあ、もう10年たってんで、老けたでうちら、と私は言う。
友人は表面上の意識では、若かりし頃、とある劇団を突然辞めたことをいつまでも恐れている、辞めてしまった事自体を…タブー視している、それが演劇をやる上でのコンプレックスとなっている、そんなに悩まなくてええで、と私は声をかける、私もその気持ちがよくわかるからだ。

 

疲れている、身体が軋んでいる、それなのに歩きたい、今日は川沿いの桜がライトアップされる日。
このまま歩いて行って、ほら、財布さえ持ってれば、私はそのまま誘われるままに歩いて、とうとう膝が痛み出したら木の洞に横になる。
朝が来たらまた歩いて、誰かに道を尋ね、そして気付くとたわいもない恋をして、その人と一緒に暮らす、そしてまた身体が疲れたある日、そう、桜のライトアップされる夕暮れにまた歩き出してそのまま山まで登り、首を吊る。

 

私は今まで3回ほど家出をしている、同棲相手から突然逃げている、ふとした気持ちで。

 

3回とも「よし、次の住処へ移ろう」と決めた翌日には家を後にした、決意、みたいなものはあったがどちらかというと何か妙な気配に誘われて家を出た。
行き先は決めていた、大抵新しい男の家だった、今思うと誰の事も大して好きでは無かった、だが狂うことの出来る相手だった、それを必要としていた。

 

バックレるのは辛いからではない。
退学するのは辛いからではない。

友人は逃げ癖がある、私からも逃げる時期があったしこれからもあるだろうと思う、友人が高校をあっさり辞めてしまったとき、私は友人の、あまりにも執着しない様子に戸惑った。
その数年後、今度は演劇団をいきなりバックレて、二十四の瞳というタイトルを見るのすら怖い、等という彼は、はたから見たら本当に根性の悪い人間の様に思えるだろう。

 

なんか怖くなってふーっと…
と友人は言っていた、なんか、ふーっと、すーっと、俺、もう居なくて良いかな、みたいな…

 

友人が演劇を語るとき、いつもこの逃げ癖に行き当たる、でも俺逃げた…という自責の念はあれど、本当に本心から「悪い」事をしたとは思っていない様子だ。
様子、というものを私が言うとき、それは表面上のものではなく一種の勘を含めてのことだ、つまり単にそんな気がしたのだ。
バックレ癖、というと人でなしみたいな調子に聞えるが、友人はとても愛想が良い、友人を悪い奴だという人はなかなか居ないだろう。

 

要領が悪いとすら思えるほど、友人は愛想が良い、素人が大した思い入れも無いままに書き上げた脚本を、お情けでずっと読んで練習したりするほど、他者に構う。
自分が興味が無くとも、自分が全く感動せずとも、周囲に合わせてノってしまう、そういう愛想の良さだ。
だから置き去りにされた人からすれば呆気にとられるだろう、本人の理由は「気迫が怖かった」とか「居る意味が無い」とかなんとか言うが…あんなに周囲と打ち解けていた彼がどうして公演間近に姿を消したのか、理解出来ずに怒り狂った人も居るだろう。(勿論私も理解出来ないが)
周囲と溶け込めず孤立している人間が行方をくらますのとはワケが違うのだ、笑顔を振りまいていた人がある日ふっと居なくなる、友人の逃避癖はそういう類いのものだ。

 

根本的には「自分が居ても居なくても、世界に何の影響も無い」という諦念がそうさせている、そうだよね。

 

そしてこの諦念は何故か、自然や季節の空気と混ざり、一定の周波数を出し、友人や私のような…頭は悪いが感じやすい人を、戸惑わせるのだ。
さらに言うと、これこそが、芸術の軸であったりもする、だから逃げ癖が必ずしも「悪」であるとも言えないのだ、社会的には悪いかもしれない、友人自身も自責している、にも関わらず、「あれ」が俺を呼んでいる、と彼が言うのを私は許している。

 

それと同じで家出も、辛いからではないのだ。
同居の解消は何も、相手を嫌いになったとかいう理由でも無い。
狂うことの出来ない相手だなと思うと、離れたくなるのだ、脚がそのまま動いて、私は山や川、一見人畜無害な自然の、無言の誘いに乗ってしまいたくなる。

 

疲れているときはまずいね、どこまででも歩けてしまうから。

 

はじめて家出をしたときの空気の香りを覚えている、甘かった、春だった、そしてストッキングに染み付いた汗の匂いにうんざりしていた。
その気の毒な相手は新卒の銀行員だった、来年結婚しようねと約束していた、娘が欲しいと言っていた、私たちが住んで(?)いたのはレオパレスだった、紙で出来たような部屋、彼は大抵食欲が無く、夜はアイスクリームを食べていた。
私の荷物はスーツケース一つとあと大きなバッグがひとつ、一人で一度に運ぶのは大変だけれど、誰かが手を貸してくれればいつでも別の場所へ行けた。
私も新卒だった、普段着があのダサいスーツだった、私はスーツが似合わない、だから、というわけでもないけれど唐突に別れたくなり、新しい男に車を出してもらい、私は自分の手荷物をそこに投げ込み、昨晩した別れ話の総まとめを一言、ごめんねと書いてその部屋を後にした。

 

あの時の気持ち、頭がすーっとして、自分が、次の瞬間にはもう何の肩書きも名前も身につけなくなり、裸のまま泳いで行けるかのような爽快感。

 

あれが襲ってくる時がある、今日なんかそうだ、M氏には家まで建ててもらったというのに、私は桜のライトアップを疲れた身体で観に行く、というただそれだけのことが引き金となって、そのまま失踪してしまいかねない。
泊まらせてくれそうな男を勘で探すのだ、無意識的にたぐり寄せ、私は求めていた人を見つける、私は基本的にそんな風に生きている、M氏すら、この方法で見つけた。
そして新しい男の部屋に住むのだ、M氏の事も一度そうやって捨て置いてしまったことがある、後悔はしていない、だって、M氏がどうのこうのという軸で家を出たのでは無いのだ、誘われるままに身体が移動したに過ぎないのだ。

 

逃避癖には理由なんて無いのだ、強いて言えば、もっと狂いたいから、何か日常が不自然で窮屈なモノに感じたときに、歯止めが利かなくなる。
たちの悪いことに、芸術の軸もこちら側にあるのだ、言葉や数字の裏側に、新緑や花々の裏側、地中深くの泥水と一緒にこの狂気の軸は在る。
私とて同棲相手に出て行かれた事がある、それでも私を誘う「あれ」は、「あれ」としか言いようのない旋律は、いつも私に何もかもを捨てさせようとする。
名前や個人的な記憶、ほんとうに小さな人間関係の輪を、小さな宇宙を捨てさせようと微笑んでいる。

 

捨てられた相手のことを思えとか、迷惑をかけられた人の気持ちとか、善悪では到底差し測ることの出来ない現象なのだ。

甘えていると思うかもしれないが、「あれ」はどこか音楽のようで、波長というか旋律というか…何かの糸が私のような人間を吊るのだ、そして身体がそのままぶらぶらと宙を泳ぐのを…あれを快楽と呼ばずして何と呼ぼう。

 

そうそう、痴呆症の老人はどこまでも歩いて行くらしいね。
私には彼等の気持ちがよくわかるよ、あれに誘われているんだよね、そして桜の木の洞で眠るんだ、山で首を吊るのかもしれない。
だってそうでしょ、居ても居なくてもいい年寄りなんていう役柄は、もう演じたくはないよね、別の演目をやりたいなら別の劇団へ行かなきゃ、名前も、そこでのやりとりも全て、ごめんねとありがとうの一言二言で足りるものね。

 

「あれを感じるって事は、あの感覚で居るって事は…今お前かなり疲れてるな?同伴者がいない時は無理に行くなよ、川沿いの桜ライトアップは来年一緒に行こうな」
友人も男でありながら海千山千の老婆さながらに独特の勘が働くので、私の今現在の「身体が疲れているのに心がそわそわして全部無くなりそう」な感じを察知していた。

 

前、二人して山で道に迷ったことがあったね、危うく別の山に入り込むことだった、別の山への道を指して笑顔で「こっちだよ!」と誘う友人の顔は…もしかすると、友人自身では無く、「あれ」の顔だったのかもしれない。

 

変人さんも言っていた。

「大熊さんが居なくなってしまうかもしれないと思うと、苦しい」

この人も勘がいいなと思った、はじめて会った日、帰り際、上野駅へ向かう途中で急に黙り込んでいたので、何故そんなに悲しげなのかたずねたのだった。

 

先日桜を撮った、夜桜だ、ライトアップ無しの自然光。
月がふんわりとした花の綿の中で一点、煌々と光を放っていた。
M氏の携帯ではなんの異常もなかったが、私の携帯では度々顔認識がかかった。
魂だけになった霊体が、夜桜を観に行こうと甘い空気に揺蕩い、紺色と桜色の合間をゆったりと泳いでいる。
ふと、桜の枝枝に腰を下ろし、月を見上げ、気付くと人間達が桜を撮しているのをなんとなく見つめる、そして微笑んで歌う、独特の旋律で誰かを引き寄せる。
そんな様子が浮かんだのだった。

 

それは果たして「あれ」なのだろうか、それとも「あれ」に誘われて桜の木の洞で眠り、そのまま起きなかった私の、私かもしれない誰かの、末路とも言うべき姿なのだろうか。