大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

あの人の文章と音楽

 

ここから先はひとりごと。
誰について何を言ってもいいひとりごとの時間。

 

今朝から、昨日から、一昨日から、それよりももっと前から、そう…先生のブログを読んだあの時から私の内部で何か燃えている、小さな炎が。
当時の先生のブログは確かに本人の言うとおり、「文章の書き方もわかってなかった」よ、そうだよあんなに改行と「。」が多用された文章は日本語的にはハチャメチャだ。
文章自体が細切れになっていて、文章というよりも詩や散文だった、文法を独特に無視した彼のブログは3年間毎日更新されていた、私が読んだのは更新が止まって数年経過した時だ。
私は、初めてあれを読んだ日、思わず「ああ、医者ってそんなに頭良くなくてもなれるのかな」って一瞬勘違いしたしね。

 

一方先生の著書は非常に正確に的確に書かれていて、「やっぱ頭いいなあ」と、頭悪くても医者になれるなんてのはどんだ思い違いだったと、何故かがっかりした。
そして思った、とても熱心に書かれているが私は、もう少し先生ご自身の気持ちを知りたいと思った、医学書であってももっと、先生ご自身の理念のぎっしり詰まったものを読んでみたいと思った。

 

だって先生のブログは、理念の塊みたいなものだったから。

 

どこまで掘り下げても先生は汚れない、もちろん彼なりの残酷さはあるんだ、彼は興味の無いことはあっさり切り捨ててしまう、義理でやるとか、思いやりでやるとかそういう事はしない人、それが先生の冷たさだ、にもかかわらず先生はいつも世界を見つめている。

 

先生の音楽を聴くとね、チリチリとマッチの火で炙られているような気になるよ、先生があまりにも神経質に、次にどの音を置こうかいつも注意しているのが見えてくる、だから先生の音楽はきっともっと掘り下げることが出来る、まだ、限界度を10としたら10は出せていないのだなと思う。


先生の音楽界での評価なんて知らないよ、私は私が聴いたとおり書いただけ、先生のブログ文章は先生がすべて出ていた、10だった、そう考えると音楽はまだそこへは至っていないのかもしれないと思ったの。
静かな楽曲の作り出す、感情をゆるやかに研ぎ澄ます音楽、確かに、ブライアンイーノは天才だよ、静かなのに聴いてしまう、そして頭にピーンとクる音楽。

 

「この音楽が流れている場所ではいかなる犯罪も起こらない」そんな音楽を作りたいと先生のブログには書かれていた。
「。」だらけの文章、あの「。」は先生の涙なのかもしれないと思った。

「僕は自分が幸福であることが嫌だった、僕には語れる不幸が無い、そういう事が若い頃は嫌だった、恥ずかしながら昔の僕は不幸に飢えていた」

 

当時の先生の言う昔の僕って一体何歳くらいの時期を指すのだろうか、先生の自分に対する欲求は小さく、それくらいしか書かれていなかった。
あとは自分がやりたいこと、やっていること…その中には音楽だけでなく、仕事や家庭を持つことも含まれていた。
あまりにも素直に世界の事を考えている言葉を、私は、注意深く読んだ、全部が私に小さい水晶となってコツコツ当たってきた、私は胸が痛くなった、どうしてそんなに他者のことを、人間の世のことを、そして宇宙のことを考えられるのか問いただしたくなった。

 

先生は本当に本気で世界を安らぎで満たしたいと思っているらしかった、それ自体の善悪はともかく、先生は世界をより良いものへと変化させたいらしかった、そこに先生の理念はあるのだ、私は唸った、読んでいて実際に声を出して机に突っ伏す事もあった、先生の素直さに打たれたのだよ。
苦しいよ、どうしてこんなに綺麗なの、どうしてこんなにどの面でも、あなたは自分が世界と直結していると信じていられるの。

 

読んだ文章がどんどん消えてゆく、消えてしまう前に私は書きだしておくよ、確かに私は先生の文章を読んだよ。
今はもう無いあのブログ文章が、ひとつひとつの言葉がどんなに私を打ったか、書いておくよ。
魔力としか言いようのない文章だった、あえて読まないようにしていた時期すらあった、勿体ないことをした。

 

先生からブログを通じて語りかけられた気がした、きっとあれを読んだ多くの人がそうだろう。

「海老名の空は異様に青いんだ」

だから私は旅行で箱根へ行くときなんかにはいつも、海老名に入ると空を見上げてしまうよ、青いだろうか、空が広いだろうか、山々の裾野に広がる畑と空を、私は感慨深い気持ちで見つめる、私は自分の知らない景色をこうしてひとつ、またひとつと知ってゆく。
「八王子の風景は、風景そのものを見るよりも車のバックミラー越しに見る空の方が、八王子らしさが詰まっているんだ」

んな馬鹿な、それよりも前を見て運転した方が良いのではないか、そんな風にブログの文章自体に突っ込みを入れたい気持ちにもさせられた。

 

ブログの日付を見て、何度も思った、ああこの日私はまだ池袋で同棲をしていて、そしてやはり芸術面でわかり合える誰かを探していた、それがどこに居るのか誰なのかもわからずにずっと探していたと。
私は画面越しにあなたに呼びかけた、探しているのは先生だけではなかったが、それでも先生が私の尋ね人のうちの一人だということはわかった、私だけにわかる直感だった。

 

先月先生に絵を見せる事が出来た、とても有り難く思う、こうした面で繋がれたら。
「普通」に考えたら私の一方的な好意に、先生は付き合ってくれている。
客観的に見たら私はいつも自分の行いを恥じることになる。

 

いつも揺れているよ、先生の内面の素直さを、もう私は確認する術がない。
確かに時間が経ってしまった、ご自分のことを「僕はインディゴチルドレン♪」と恥ずかしげもなく書いていたあの若かりし頃の先生は、もういない、今の先生にそんなに幼い面は、もう無いのかもしれない。

 

私もこのブログを消すときが来るのだろうか、何かしら公的な顔というのを持つ場合、出会い系云々とかオナニー云々と恥ずかしげもなく書き散らしたことが、その時の「現在」との間にズレを生じさせ、誤解されると困るからと、手っ取り早くこのブログを消してしまう時が来るのだろうか。
大熊という名前はそのために、公の本名と区別したいがためにつけた名前だ。
はじめのうち、私は自分が絵を公開(ブログでというのではなく、展覧会などに出品など)する場合全て大熊で統一しようとしていた。

 

しかし考え直している、絵を人の居る場所に出す時には本名で、そして大熊では好き放題吐き出そうとなんとなく決めている。
これはあざとい方法かもしれない、読まれて困るような生活をしなければいいじゃないと思うかもしれない。
でもちょっと違う、先生はずっと本名で活動している、ブログも仕事も音楽も本名、先生には公開してそれぞれが干渉し合うようなやましい部分は無いのだ。

 

それでも、時間と共に、本人と過去の文章とがズレてきてしまうのだ、そうだよね、先生。

 

私は先生と喋りたいと思った、母国語で、つまり芸術の言葉で語り合いたいと思った、時間の長さではないのだ、深い語り合いに時間はそこまで必要ではない。
それをするには過去の先生を追いかけても追いつかないのだ、先生を追いかけても追いつくことは出来ない、そういう仕組みになっているのだ、ファンはアイドルと対等には話せないのだ。

 

先生と話したいなら、私こそが私自身に成るより他、方法は無い。
私自身が自分の力の上限を10と定め、そのうちの10出し切るよりほか、先生と正面から話す方法は無いのだ。
やらしいものは見せないよ、だって私、先生と男女の話がしたいのではないのだから、先生と話したいのは芸術の話だ、先生はもう「ああいう」ブログは書かないと言う。
だとしたら私はもう先生の言葉を読めない、私は絶望している、しかし、だったら今度は私から10のエネルギーが込められた言葉で、絵で、自分から話しかければ良いのだ。

 

同時代、近隣に生きていて、言葉を交わしているということの確立の凄さを考えてもみよ。


私の好きなドストエフスキーはもう居ない、彼の10、出し切ったと思われる小説を彼の母国語で読むだけの言語能力も無い。
私は先生の原文を読んだのだ、雨粒だか涙だか、とにかく「。」だらけのあの文章から言葉をひとつかみひとつかみしながら、確かに読んで、打ちのめされたのだ。
素直さに、音は消えないという真理に、世界をいつでも見ているというあの姿勢に。

 

私は揺れているので、明日にはもう先生のところへ通院するのはやめ、ニキビのための別の内科医を探そう、胃腸状態を改善してくれる別の内科医を探そうと言っているかもしれない。
先生に絵を見せつけるのはとんだ思い込みで、もうほとんど思念の上では私の絵なんて怨念みたいなものだから、こんな行為は一刻も早くやめるべきだと自分に叫んでいるかもしれない。

 

でも今日の私は言うよ、今日の、昨日の、一昨日の…先生のブログを読んだあの日の私も声を大にして言うよ。

 

「私は先生と語りたい、語り合いたい」

 

やっぱり、10の力を感じられた人と語り合いたい、私も10出し切るから、先生の音楽が10感じられるようになったら、それもきちんと言うから。
それまではお情けで、音楽がキましたなんて、私は言わないよ、キたのはまだブログ文章だけ、音楽はまだだよ、まだだよ先生。
今月はつまらなかったよ、絵を描かずに居たから、時間の流れも遅かった。
手帳を見たら先月はキラキラしていた、それが私の答え、迷惑でしょうな、でもあんなに楽しい日々は久々だった。

 

私は私自身になりたいよ、誰かを追いかけずに、時に無視して、そこまでして自分に向き合うのが芸術への誠意だよ。
だから時にこの誠意は、冷たいとか、空気が読めないとか言われたりもする。
でもね、それでもこの誠意は、この種の誠意を持った人間同士を強く結びつける。
有り体な男女関係の話ではなくて、同性でもかまわない、性別はあまり関係無い、私が先生を慕う気持ちにはほとんど全てが内在しているけれど、先生が同性であってもやはり私は先生が好きだったろう。

 

10出し切ることを考えているよ、あなたの文章を読むのはいつも怖かった、あまりにも綺麗で素直なので怖かった。
打ちのめされたんだ、だから信じています、勝手に。
あの頃の先生と今のあなたは別人かもしれない、今のあなたが私の絵を拒絶してもいい、単に、あなたがご自分の誠意に忠実であると、私は信じています。