a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

10


自分の限界や本気度を10と設定する。

 

10出来るかどうか考えている。
10出し切りたい。
10出し切るには「こんなもの表現していいんだろうか」という迷いを捨てなきゃならない、実際誰かに見せるかどうかは別、伏せておくのでもよい。
それでも10出し切らないことには、それは作品とすら呼べない。

 

なんとなく、やらなきゃいけないから作ったとかいうのはゴミだよ、それをお情けで評価するのも酷だよ、お情けで付き合うのも時間の無駄。
きついかなあ、きつくはないよね?
だって、私、多分多くの人もそうだと思うけれど、世の中は作品で溢れているけど、感動なんてそんなにしないよね。

 

私は制作者が10出し切って作り上げた作品を好んでいる、家具も、10出し切って作られたと感じられるものを好んでいる。
考えてみて、家の中だって作品で溢れ、構成されている、私は家具が好きだから、100万貯金したかと思えば100万のソファーを買う、それを作品だと思えるものを買う事にしている。

 

とかいうと相当浪費癖があるようだが、うん、実際、10のエネルギーを感じられる品々で家を構成しようとしたら相当な事になるよ。
それくらい、作品だと思えるほどのモノは価値があるということ…

 

ごめん嘘、作品に価値は基本的につかない。

 

それは単に見る人が決める事、私は100万の家具を偶然選んだだけで、他の100万の家具には目もくれない。
他のものが偽りになるほど本当だと思えるものを求めている、両親はこういう事を悪だと言ったな。
悪っていうのは、余計なものを買うとか、質素さが命ということ。

 

とはいえ質素さとは、装飾に於ける質素さが必ずしも安価だとは限らない、私はあの団地の部屋も相当拘って手を加えていた。
壁を塗り直し、カーテンの色を考え、机とのバランスをとったが、全てカビの匂いにかき消されてしまった、両親から咎められれば咎められるほど、私は頑なに自分の「外部に」於ける美に拘った。
プラスチック製は好まない、この場所は木がいい、全て木で揃えたい、とかなんとか、両親はプラスチックの家具を、私は木の家具を、それぞれに信奉していた。

 

両親の言う美もなかなか難しい境地だった、「気にしないで居ること」を気にすることが、彼等の美学だった、つまり住処のあれこれに拘らない生活に拘っていた、これが元で美学戦争が幾度となく勃発した、苦い思い出。

 

美学というのは一人一人の主観。

 

私の美学は10、出し切ること、これに拘りたい。
出し切るということ自体が、なんだか無理をしているようでそれは最早美ではないと思う人も居るだろう、10のうち2とか3くらいの出し切り具合で生活するほうが、ゆるやかに生活するほうがいいんじゃないのと思う人も居るだろう、それはそういう美学だと言うこと。

 

10出し切る絵の場合、秘密裏になら、まあ、制作することはよいのではないだろうか、たとえ描かれているものがバイブだったとしても。
しかし業務で私の絵を見てくれた先生などには、見せないほうが良い代物が続々と出来上がるだろう。
ただ何故だか10出し切れば出し切るほど、絵の場合本当に作品になってくれる気がしている。
私の文章で10出し切ると…
ああ…
単なるオナニー実況とかのほうに軸がずれてしまう、この大熊ブログの文章も内面を10出し切るということが軸だ、だから残念ながら、私は文章を作品化することは向いていないらしいと、書けば書くほど実感している、身に染みている。

 

人が何に対して向いているのか、やってみない限りわからない、手応えというものは、それでも10出し切る方向で芸術をやらないと掴むことすら出来ない。

 

友人は以前、10出し切れる人が2人も居る、ハイレベルな社会人劇団に居た、劇団自体はどうしてと疑問に思うほど質素に、地元に根付いたものであった。
レベル自体が高かった、多分団長の方針のおかげだろう、そして友人は彼等の気迫に押され、呆気なくその劇団をバックレてしまった。

ああ勿体ない、当時友人だって20代になったばかり、まだまだ可愛がってもらえたあの時期に、あの劇団から逃げてしまった。
それから10年彼は演劇から遠ざかっていた、バックレた事が引っ掛かっているのだ。

 

私は演劇も絵も、それが評価されないからといって無意味だとは思わない。

 

主観で10、自分の上限を出し切れていれば、それは芸術に生きたと言えると、私は結構本気でそう考えている。
だから何も、演劇で食ってゆけとか言ってるのではないし、私も絵で食べてゆくとか、絵で食べて行けないのに何故描くのかとか、そんな事を言っているのではない。

 

演じたくてたまらない気持ちや、描けない苦しさ、忘我の境地、みたいなものに私たちの魂は根付いていて、あれを本気で出来るのなら芸術に生きたと言えると思っているのだ、評価されないからやらない、などという訳にはいかない、やらずにはおれない、吐き出さずにはおられない、そういう種類の人間なのだ。

 

はたから見たらどうしてと思うかもしれない、それをやっても社会的には何にもならないのに、気分転換とかいうレベルではなくて、本気で、本気度合いで言ったら上限を10として、10、出し切る、本気を出し切る勢いで表現活動をしたいというのは、滑稽かもしれない。

 

私の父親はそういう人を嗤っていた、それは滑稽だと嗤う、彼には彼の美学があるのだ、私は彼の娘なので、何の益にもならない事に全身全霊を費やす行為を止められていた、居るのだ実際、そういう根性を見せつけられるのが何より苛々するという人間が居るのだ、確かに彼等の美学は美学で、存在しているのだ。

 

それぞれの軸が、触れずに、地球から発されている、異なる美が成り立っているのを私は空中から視る、はたから見て自分が凄いか否かはどうでもいいよ、自分が出し切れてるかどうかだけだよ。

 

誰かの作品を見た場合も同様だ。
単に、作品が美しいかとか上手いか下手か、良い作品かなどではないのだ、それはどうでも良いことなのだ。

 

その作者が10出し切って作った作品かどうかが、作品をはかる時の視点。
自然と、10出し切ったものは人を惹き付ける、あるいは怖がられる。

 

エロくもなくグロくもなく皮肉でもなく、それでも怖いという作品が、私にとっての「在る」「触れた」と感じられる作品だよ。
作品というのは演目でもいい、演技でもいい、踊りでもいい、音楽でも絵でも立体作品でもいい。

 

変人さんを何故、敬意を込めて変人さんと呼ぶのかというと、彼もまた、確かに10、出し切った作品を制作出来た人間のうちの一人だからだ。
今、変人さんは美術に関する仕事はしていない、彼は「どうしようもないほど苦しい」くらい、「発露したくなることはない」から、自分はアーティストではないと言う、まさに掃き溜めに鶴のあの人が(そういう場所で出会ったのでこの表現を使う)、そんな事を言う。

 

私は演劇を観るのが好きだ、演劇の世界を観ていると人間社会が愛おしいものに見えてくる、何か自分が観るという行為で世の中の一端に座しているのを、体感できる行為だから好きなのだ、映画はそこまで惹かれない、映画には私の席はないからだ、関与できないと言う点と、演劇はほとんど何もない空間から何かが生じ、演目が終わるとたちまちに消えてしまう、あれが私の頭にクるのだよ。

 

演劇を観ていても、それがどんなに評価されていても、私の視点からでは「この人は10のうち5くらいしか出してないなあ」と思う事も多々ある。
演者が10のうち10出すと、舞台の上でも気迫が生じ、私は、「生の舞台を見に行かなくて良かった」と胸をなで下ろす事すらある、画面越しに観ていて良かったと、安心したりする、それくらい、10出し切る演技というのはもう、怖いものだ。

 

でも惹かれるのだ、時に嫉妬すらする、10出し切れている現状を見せつけられるため、嫉妬したりもする、私は友人の10出し切った演技を観たいと思っている。

 

先生についてはどう説明してよいのかわからない、何もかもを自分の軸でやってしまえる人、仕事も自分の軸で10、音楽も自分の軸で10、家庭も10、と言う具合に、オールマイティーな人だからだ、なんというのかな…私からすると彼、天才肌のように感じる、全力を傾けなくともやれてしまう人、器用というよりかは、本質的に10出し切ってしまう人、手の届かない人。


…ただ、先生の音楽は、私が聴く限り、もしかするとまだ、10出し切ったことは無いのではないか、と思う。
こう思う時点で、現状、彼の音楽は10ではないのだ、だってまだ、あの感じを味わえていない。
本人には言わないよこんなこと、何様だよ私、ほんと、言う理由も無いから言わないけれど、だからこそ先生の音楽を私は聴き続けたい、先生も成長途中にあるのかもしれない、変化してゆくのかもしれない。

 

あのピーンとクる感じ、脳みそが遙か上空からの糸で吊られている感じ、アレは、10出し切った人が、10出し切った作品だけが他者に与えることの出来る最高の快楽だ。

 

10出し切るまではひたすらに主観で、善悪すら度外視して進まねばならない、出し切るというのは私にはそういう事だ。
でも10出し切った先に、作品が誰かの快楽に成れたら、私は、幸せ。

 

10!