大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

虚しさに負けそうです。

 

虚しさに負けそうです。


先生、助けてください、と言っても先生は、そもそも私と対峙するというよりかは私が一方的に憧れているだけで…

変人さん、助けてください、と言っても彼はその時もう居ないかもしれない。
友人、私を助けろ、と言っても友人は、私はKちゃんの事があったので自分の友達が急逝することが現実として起こってしまうということを、身に染みてわかっている、だからよく思うよ、ああ、こいつがいなくなったらどうしようって。

 

私が60くらいになったとして、そういう年代になったとして、それでも私は絵を描けているだろうか。
絵は独特で、勿論私の絵なんて物がご大層な社会的評価を受けるとは思えない、だって、ウケるかどうかで言ったらうけないもの。
それでも自分の絵は自分の軸がある、だから描いていられるのならまだ、私も生きているとは思う。

 

肉離れが痛いの、椅子に座っていると脚がむくむから、座卓で作業したいのに座卓がない、だから座卓を買う、それもこれも肉離れのせいだ。
仕事中にピキっと音がした、こんな可愛い擬音じゃない、骨が軋むような音がした。
あああああ、脚に力が入らない、痛すぎて力が入らない、ああそうかこれは、私が、ホテルの客室で強引なナンパを受けた場合、電子レンジで正当防衛ならぬ過剰防衛をしてやるからと文章上でまくしたてたのがまずかったのか、もしかすると不可思議な摂理で、私は当ホテル入り口付近に鎮座している鳥居の神様に、罰を当てられたのかもしれぬ、と、半ば本気で思った。

 

理由なんて追及しても誰も答えられないのだ、もっとも、整合性のある理由を述べるなら、最近非常に細かい部分の客室美に私自身が拘っていただけの話。
それを、さらに早い時間で済ませようとしていただけの話。
それが私の右足に負担をかけ、そういう全てが、早く仕事を終わらせて帰路につき、残りの時間をも絵に費やすのだと息巻いていたその鼻息までもが私の右足に吹きかかり、諸々の重みに耐えきれず私の右足は仕事中に肉離れを起こした。

 

労災なんておりないよ。
労災なんておりるわけないじゃん、だって、ただの肉離れなんだから。
それも年度末、月末、それなのに私は骨がイカれてたらしゃれにならないという気持ちでさ、自費診療したの、おかげで手続きがさらに面倒くさい。
私はM氏の会社の保険組合に連絡し、返金を請う旨を告げ、それが通ったら返金となる、面倒くさい。

だったらはじめから保険適応で診てもらえば良かった。

私は虚しくなる、私は何をしてもどこのゴールにも辿り着かない。

だから私は叫びたくなる。

 

助けて、変人さん、だけど変人さんはもう居ないかもしれない。
助けて、先生、でも先生は具体的に縋れる相手ではない、そもそもそういう相手ではない、そして物理的に、引っ越しなどで居ないかもしれない。
助けろ、友人、しかし友人ももういないかもしれない。

 

例えば私が還暦を迎える頃、私は今みたいに話せると感じられるほどの相手が、居るだろうか。
大体今、そのような相手と、本当に偶発的、超自然的に巡り会ったわけだが、というかもうほとんどの幸運を私は使い果たしたのかもしれないが、彼等は、果たして、いつまで私と居てくれるのだろうか。

何故私がこうも、今日の私がこうも、60という年代に拘るのかって?

ネットで荒らし行為や、嫌がらせメールを送りつけてくる人が大抵還暦前後だからだ、前々から不思議だった、何故奴らはこうも、自分の半分くらいの年齢の人間の欠点をつつくのが好きなのか、彼等の何がそうさせるのか本当に謎だった。

 

人間は根本的には風邪に対抗する薬すら作れていない、しかし細菌に対しては強くなった、というか強くなれる薬を開発したが故に、人生は60年ではなくなった。
人生は今80年から100年である。

 

しかし人間の年老いるスピードに変化はない、人間の歳の取り方は10年前も100年前も1000年前からも変化していない。
60は老人なのである、自分が60なら50の人間を、50なら40の人間を、人は異性に求めている、しかしそれは無理な話だ。
寿命が延びるということは悲劇だ。

 

寿命が延びるのは若い時期が延びるということではない、単に老人時期が延びるだけの話である。
そして60を迎える、60はまだまだ若いとか言われる、違和感を感じる、もう閉経しているかもしれない、かといってセックスできないわけでもないだろう。
しかし60の女とセックスする相手はそうそう居ないだろう。

そんなとき、ふと、魔が差して、なにか、誰かを、つついてみたい気持ちに苛まれる。

誰かの書いた恥ずかしい文章でもいい、なんだっていい、社会性に欠けるならどんどん突っ込め、きついことを書いてやれ、場の空気もあえて乱してやれ、という気分に苛まれる。

 

だってもう自分は60過ぎ、誰も困らない、自分だって困らない、誰の期待に応える必要もない、だって誰も自分を選ばないから、それなのにまだ、人生は続くのだから。

…という声を聞いた気がした、荒し行為をする人の声を聞いた気がした。

私は、猛烈に、怖い。
私と彼等の軸の違いは微弱で、私の軸は絵にあるが、彼等の軸は他者の反応にあるという点、ただそれだけである、私も、荒し行為をする人も主観で生きている。
私、語り合える人が居なくなったら、私は、死ぬだろうな、だって、私の軸って、その程度の物だから。

 

私は本物のアーティストではないから。
当たり前だよ、わかってる、わかってて書いてるだけなの、私がいくら描こうが何一つ誰の本質にも届かないってこと、本当はわかっている。

誰の、とは言わない、訂正。
私が理解した人の本質になら届くかもしれない、例えば変人さん、彼の作品は凄い、気迫がある、怖い。
怖さが無きゃ存在したとは言えないんだよ。

 

友人はクソみたいな劇団にいる、何がクソかというと、演じるということよりも、役柄よりも自分自身がどう見られているかにしか興味ない人の集まりだから。
なんでそんな場所に身を置いているのかわからない。
わからないけれど、私は友人に、その場所で変人になってほしいと思っている。
場所の空気を壊して欲しい、仲良しムードのなか、本気で打ち込んで欲しいし、自分のプライベートの時間も朗読の練習したりしてほしい、だって…だって…

 

私たちの時間ってそんなに、あるか?

 

私たちの生きている時間は長いよ、それでも一日はたったの一日でしかないんだ、飛んだり跳ねたり出来る時間は、本当にまだ沢山あると、信じているのかい?

 

私たちの寿命は延びたよ、でも私たちの若さが伸びたわけじゃないんだ、悲しいかな、私たちは100年前の人と同じように年老いる。
私たちは100年前の30歳とおんなじだよ、私たちが100年生きるとしたって、そのうちの大半の時間は老人として過ごすんだよ。
意識は若いかもしれない、でも遺伝子までは変化していないんだ、私たちもう、若くはないんだ、飛んだり跳ねたりセックスしたりする時間は実はもうそんなに残されてないんだ。

 

私は迷っている、私は本気で打ち込みたい、本気で引かれるくらい本気で打ち込みたいと思っている事柄がある。
先生に対して絵を描きたい、それだけだ、でも、そもそも先生は仕事で私の絵を見ているだけなのだ。
労働の一環として私の絵を見ているんだ、それだけではないよ、それだけとは言わない、芸術を志す者同士の何かの絆も感じる。
でもね、先生にはご家庭もあって、ご自分のなされている芸術もあって、そこに私が縋っているだけなんだ。

 

自分の出せる力の上限を10として、私ですらね、それを制御する。
たかが私が設定した力の限界を10として、誰も何の期待もしていない私ですらね、先生にキモがられたくないがためにそれを制御する、5くらいに。
だって私の10って、あれだよ、バイブの絵を描きたい☆とかくらいのレベルだよ、それを近所の医師に見せつけたらこれはもうセクハラだ、完全に相手を不快にさせる、これは悪いことだ、私は悪いことをしたいんじゃない、誇示したいのではない、伝えたいんだ、全部を出し切って伝えたいんだ、だってそれが生きているって事じゃない?

 

じゃあバイブが描ける?
え、宛先がないと描けないの?
宛先はいつも先生なの?
それじゃあバイブは勘弁してよ、何か別の、もっと無難なモノで。
無難でもつまらないモノじゃ駄目、じゃあ虫かな、何かな、それとも難しいモノにチャレンジする?
じゃあ、景色なんてどう?
え?
遠近法が描けない?
馬鹿じゃない、平面的な、キマらない絵を描くくらいなら、きちんと最低限の知識はおさえておかなきゃ、まずは遠近法の本でも読みましょ。

 

とかいう脳内会議をしてから大体3週間くらい経った気がする、全くワクワクしていない。

私が、本物なら、さっさとバイブを描いてしまったろうな、と思った、友人オススメの演劇をネットで観ながら、彼の演技の上手さに、どこか、魂、みたいな部分で嫉妬している自分を発見した。
そして思った、自分は本物ではない、本物ならさっさとバイブを描いているはずだ、先生宛とかじゃなく、思いついたら即実行で描いているはずだ、そう思って夕暮れの中涙した。

 

私は60になってもこのままだろうと思った。
それどころか60になったら、私の話せる人まで身近に居なくなるかもしれないと思った。
そうしたらもっと苦しいだろうと、私は思い、歯を食いしばっている、そしてそんなとき、私が60だったら、反応欲しさに誰かを貶めるかもしれない、私は荒し行為をするかもしれないとも思った、そう思えてならなかった。

 

井の中の蛙とその人は言ってきた、こういう事を言うのはいつも糞爺だ、還暦前後の糞爺だ、社会的にも生物的にもとうとう役に立たなくなった糞爺だ。
井の中の蛙どころの話じゃないよ、井の中の蛙にすらなれていないんだ、私が本当にバイブを描いていたとして、それすら描き終わっていたとして、そういう自らの行為を出来てはじめて井の中の蛙と言えるんだ、それですらないんだ、と言い返すその時にはもう糞爺には私はブロックされていた。
私がブロックされていた。

 

先生、助けてください、あなた宛の絵を描きたいのですが、だって、考えてもみてください。
あなたのように立派な人に、あなたは仕事と、ご自身の芸術を本当に社会に表明して、自分の力だけで世の中に利潤を与えている人です、そしてきちんとしたご家庭をお持ちです、そんな人に、私のような人間がただただ没頭して描いた絵を見せに行くんですよ。
あなたが私みたいな人間になりたくないと感じるように、私も、私のような人間でありたくはないのです、一刻も早くやめたいのです、普通に考えたら、このような女があなたにちょっかいを出しているということ事態、醜くて目も当てられません。

そうなんです、荒し行為をする人は悪意でやってます、人と通じ合えたというあの感じが、人を貶めたときに自分がのし上がるというシーソー形式の幻想を抱いているのです。
私の場合人と通じ合えたというあの感じが、芸術と好意から発されています、それしか違いは無いんです。
いいえ、それよりも、好意は悪意よりも恐ろしいものです。
私は没頭して絵を描いていたとき、一日数時間絵を描いていました、その間ずっと、先生のことを考えていました。

なんて気持ち悪いのだろうと思います、だって、私はただ憧れているだけなのですから。
好意が一方的であるということ。
行為が一方的であるということ。

ね?
私と荒し行為をする還暦連中とは、とてもよく似ているんです。

 

だから私は戸惑うよ、これは果たして、本当にやって良いことなのか、そうではいのか、いつも戸惑い、そして自分で決めた上限の半分ものめり込めないまま、時間だけが過ぎてゆく。

私は怖い、私は、自分で決めた芸術面での10を出し切りたい、誰の事も構わず、芸術にのめり込むという、ある種の「誠意」を貫きたい、芸術を、表現する側の誠意は、普通の常識で考えたらひんしゅくを買う事も多々ある、この種の誠意と常識はうまく繋がらないのだ、だから私は、突き抜けた作品を作り上げた変人さんを変人さんと呼び、尊敬している。

 

先生、助けてください、と言っても先生はそもそも私が憧れているに過ぎず、業務で私と接しているので縋る事事態が筋違いなのである。
変人さん、助けてください、と言っても変人さんは…変人さんは…
友人、私を助けろ、と言っても友人は…

 

私はいずれ一人きりになるだろう、そしたら私は死ぬだろう、私はその前に10、出し切りたいが、それすら出来ないかもしれない。
私は、苦しい、それもこれも肉離れが痛いせいだ、炎症止めの薬で胃がもたれているせいだ、しかもそれとて自費だからだ、と私は一人、吐き散らすのである。

何一つ生産性が無いという現実を突きつけられたとき、それでも人に優しく出来るのかそうでないのか、死ぬのか、それとも生きているのか。

 

先生、助けてください。
変人さん、助けてください。
友人、さっさと助けろ。

 

私は、虚しさに負けそうです…。