大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

あの子

 

男の頭を撫でているとき、それが嘘とわかっていても、この子は私の子、可愛い子、と思いながら触れると本当に心が安らぐ。
ママと呼ばれると本当に愛おしくなる、これははたから見たら滑稽を通り越して多少、グロテスクな関係なのかもしれないけれども、私は癒やされている。
想像するだけで大分心地よくなる。

 

こうした物事について誰、何某と書かずに、ただただ「男」と書いてしまうと何だか冷たいようだが、男女間の物事は相手が誰であれ、男は男なのだ。

 

以前セックスフレンド状態だった男とも、母子相姦めいたプレイをしていた、だが彼はあと一歩のところで、私の事はママと呼べずにいた、無理に呼ぶことはない、甘えてもらうだけで十分、そう思っていたら割と本気で私をママと呼んでくれる新しい人と巡り会ったので、そのセフレとは切れてしまった。

セフレは格下げされ、さらに偽物になり、私の思考から居なくなってしまった、何もかもがプレイでしかなくなってしまった、本気で演じられる人の言葉は一種の魔法なのである。
本当に役柄にのめり込んで、私を、その瞬間は恥も外聞もなく母親のように慕ってくれると、どういうわけだか説明もつかないが、相手が本当に自分の子供のように思えてくるのである。

 

「お仕事頑張ってるんだね、○○ちゃん、良い子だね、偉いね」
「なでなでするね、優しく、なでなでするね」

 

私はそんな風に声をかけながら、優しく、と言葉にするときには本当に優しい気持ちで男の頭を撫でてやる、すると何か不可思議な気持ちが芽生え、目の前の40過ぎの男が、40過ぎという現実をそのままに体現した状態で、同時に5歳児になる、そんな風に見えてくるのだ。
はじめのうち、設定は5歳児くらい、と男に私は言った、何歳くらいがいい?と聞くので漠然と答えたのだ。
「本物の5歳児はワガママだよ~?」
と、男は笑って言った、男は実際の子供を知っているのである。

 

でもママと呼ばれると意識が変化し、その男を40だと認識しながらも、5歳児として扱う、単なる5歳児ではなくて、普段40歳としての生活を頑張っていることを褒めたりする、それが一番心地よい事に気付いた、これは脳の誤作動だろう、互いの年齢が歪みはじめている、それが快楽なのだ。

 

私は自分は母親になる機会はないと思っている、自分は何も出来ないし、到底出来ない物事に手出しするほど無謀な性格ではないからだ。
そしてそんな願望も実際には無い、無いとは言いきれないが、薄い方だとは思う、勿論猛烈に子供が欲しいときだってある、だが、それを実際の願望として受け止めるほどの度量は私には無い。

 

この人生では叶わない役柄、それが「母親」である。

 

私は男に逢うとき、母親になるのだ、気色悪いだろう、でも本当に母親になったように感じる、離れていても「あの子今頃、お仕事頑張っているなあ」と暖かい気持ちで男を想う時も多々ある。
演じることで叶う物事もあるのだ、それが本当になる、その瞬間は正真正銘本当に何らかの絆が生じるのである。

無性に腹立たしい時、上手く行かない時、怪我をしたり自暴自棄になっているとき、つまりしょっちゅうだが、私は適当に男と寝たくなる、母子プレイをする仲のその男ではなく、誰彼構わず寝たくなる。

 

もう本気で誰でも良い、出会い系サイトで男を募って、自分には「どんな奴が待ち合わせ場所に現れてもやる、寝る」という謎の規則を課した時期がある。
ギリギリのところで「耐えがたい体臭」等の場合のみ「一緒に楽しくご飯を食べて流れで強引に解散」という逃げ道を残している、だが、実際この、自分自身に課したルールからの逃げ口上で逃げたのは、数十件中一件のみである、あとは楽しく頑張った。
本当にこんなことをしていた時期は短い、たった1~2ヶ月、あのときの事を思い出す、頑張ったなあ~、色んな人が居たなあ…と、思いたいが、実はあまり思い出せない、顔を覚えている人などほとんど居ないのである。

 

どんな相手と寝てもセックスはセックスで表面上は気持ち良い、スッキリもする、だが快楽が無く、とてもしんどい。
このしんどさ故に、自分を罰したいが為、この手のセックスがしたくてしたくてたまらないときがある、要するにしょっちゅう、誰でもいいからとにかく寝て、乱雑な気分を味わい、苦しみたいと思ってしまう、しんどいから手が出てしまうのだ、これは浮気性とかとは別種の欲求で、懲罰欲求、とでも言ったらいいのか…この思考が私を縛り付け、盲目にさせている事が頻繁にある。

自分を罰したい欲求、それに必死で耐えている。

これに耐えるメリットは、自分への耐久力がつくという点、そして、慈悲の気持ちが込められる行為が自分を救うと私が信じたいので、それを信じるために耐えている。

 

自暴自棄になって自罰的に身知らずの人と寝ても、慈悲心は芽生えないのである、まあ、こんなことは…言うまでも無い事なのだが、私は経験しないと理解できないのだ。

 

他の男に会いたいのではなくて、誰か一人の男を愛したいとかいう理屈でもなく、新しい男が欲しいという訳でもなく、浮気を楽しみたい訳でもなく、私がとにかく誰でも良いから男と寝たいと騒ぐ時は、自分を罰したい時である、困っている時なのである。

 

今、ママと呼んでくれる男について思い出すとき、私は誰彼構わず多数の男に会いたいとは思わない、まず、「あの子に会いたい!」と思う。


「あの子に会いたい」から、その男と逢うのだ。
男と逢うというのは、いくらその男が私を母親のように慕おうが、性的な関係にもなる、だから本当の親子の愛情等とは到底言えないような関係なのだ、でも私は自分が本当に誰かの為になったような気分になる。

 

「あの子」であるところの、その男の頭を撫でているとき、頬を擦り寄せるとき、乳房を吸わせるとき、本当に満ち足りた気分になる。
こういうものは、私の人生では味わえないものだった、本来の人生では味わえない安らぎだった。
私は、自分が善行をしているとは思わない。

 

でも、紛れもなく、私は「あの子」に助けられている。

 

「あの子」が私をより良い人間へと導いてくれている気がしてならない。
全部嘘、それでも「あの子」はその瞬間には実在していて、叶うはずのない物事を叶えてくれている。
「あの子」が居てはじめて、私は自分自身という存在の、内側にある、慈愛みたいなものを発見するのだ。

 

「あの子」を演じている男にもまた、幾つもの一面があって、それが入れ替わり立ち代わり現れる、人間というのは本当に不思議な生き物で、演じるという要素が加わるならば一人で誰にでも成れるのだ、何にでも成れるのだ。
それを理解し合う仲、決して嗤わない仲…私は、社会的な規律を守れない人間だが、それでも、人間が持つ様々な、人生に於ける未達成の物事を昇華させるには、彼の手助けが必要だった、強いて言えば、男たちが必要だった。

 

男達の中に「あの子」も居る、あの子だけが異質で、あの子と居る間に私は自分を発見する、自分の「良い一面」を発見する。
許して欲しいとは言わないが…こんなにも短い期間、まだたった、片手で数えるほどしか会ったことのないあの子が教えてくれた事は途方もなく大きい。

 

私はよく、無意味さに負けてしまう、何もかもが無意味だ、と私は思い、特にうたた寝して目覚めた夕暮れ時になんかには、このまま死んで、寝床に赤黒い染みが残り、私の死体はミイラ化し、そしてまた夕暮れが繰り返される、未来永劫繰り返される、そんな思考にとらわれる、実際、起きるという気力が湧かない日も多い、M氏が居なかったら私は食事を摂らず寝たまま死んでいただろうと思う。

 

そんなときに、あの子が私を呼ぶのだ…ママいま何してるの?
ママねえ、うたた寝してたよ、お昼寝しちゃってたの、これから夕ご飯作るよ。
…夕ご飯?何作るの?ママの作ったご飯、食べたいなあ~。

 

これは妄想であって妄想ではなく、限りなく実際に近い、確かな手応えのある空想なのだ。
何故なら、この文章すら、あの子であるところの、その男は読み、おかしいと言いつつそれを受け入れているのを私は感じるから。

 

あの子に会いたい、と思って、同時にあの子に会えるような自分でありたいと、自分を律する気持ちになる、涙が出る、ママは何か一つでも、誰かの、何かの、役に立つことをしたいよと私は強く思う事がある。

 

そんなとき、社会というものから垂れ下がり、折り重なる幾重もの輪の、最後の切れ端のそのまた一端、限りなく小さな一本の糸に、私は自分の指先が触れたように思う。
幸せだなと思う、そして自分から何か輪のようなものを発せられたら、それが自分や他者を救うのかもしれない、そんな直感が私を貫くのだ、そのように生きたいと私は思う。

 

仮にその男と別れたら、母親であったという一時の夢が無に帰すのかというと、そうではないと思う。
確かに私はママだった、あの子のママだったと私は思うだろう、それが私を強くしている、だから私は救われている、演じるということは、その瞬間瞬間に、叶える行為なのだ、それは叶った夢なのだと私は思う。

 

これは友人へ、情状酌量の余地ありと、言って欲しいが為の文章だろうか。
例えば今から月日が経ち、母子ごっこに飽きたりしたときにこの文章を見たら私自身がうろたえるだろうか、赤面するだろうか。
だが、今現在の確かな気持ちとして、私があの子に助けられているということを、私は、書いておかないといけない、そんな気がしている。

 

本当に演じきるなら、確かにその役柄は、その瞬間実在する。

あの子は実在する。

本心からママと言ってくれるその男の、おかしさ、狂気に近いものに、私は助けられている。

 

こういう事があると、私は無性に人間を信じたくなる。

おかしい奴が居ないのなら自分が突き抜けておかしい奴になってやれ、と彼は言われた事があるそうな。

私の内面がおかしければおかしいほど、彼と私は、本当に互いと語り合っているという実感がある。

母子になっている実感がある、あの子に会ったら、今度その話をしよう。