a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

暴力的思考

 

唐突に暴力的な気分に陥る時がある、頭が妙にハッキリして、白い光の筋が見えるとき、ものを考えるより先に口が動いていたりする。

 

夜中に騒いでる人が居たら直接行って対面して追い払いたい、みたいな欲求である。
直接言ってやらなきゃ気が済まない、誰かが喧嘩してたら、喧嘩そのものを止めたいのではなくて、その場所に於ける静けさの重要度により、止めに入りたい。
私には場所が全てなのだ。

 

思えば子供の頃からこの気があった、なんかうるさいから、という理由や、それは悪いからという理由で相手を虐げたい欲求みたいなものが、渦巻いていた。

大人しいのにいきなり物を言う子、という感じだった。

 

虐げたい欲求にはたいした意味も無い。

 

客室清掃をしていると、部屋に忘れ物を取りに来る人も居る、盆と正月は素面の癖に酔った振りをしている奴も多い。
彼等には「旅行先で純朴な女と知り合いたい」みたいな欲求があるのかもしれない、自分より格下の女にはいつも強気なのだ。
普段泊まる人々は「仕事モード」で泊まっているため、そんな欲求は伏せている、だからトラブルにはならない。
だが、世間が浮かれる時期に突入すると途端に、自分は悪くないという体で近寄ってくる。

 

こういう奴らに対して、私は当たりを強くしている、私の欲求もそうなのだ、屑をぶちのめしたい、理由はないけど、とことん傷つけたい。
こういう奴が近寄ってきた場合に一番有効なのは、相手よりも大声で返答すること。

とにかく声量のデカさがこの場合に於ける上下関係を確立させる鍵となる。

 

これは自己防衛のためだから仕方ないと思う人も居るかもしれないが、私は、彼等を、純粋に蹴散らしたい欲求がある、ということなのである。

 

自分の軸で相手を蹴散らしたい、相手を怯ませたい、相手が悪いのだ、私は正しいのだという欲求が私にはある。

 

数年前、巨大な社宅に住んでいたとき、隣の部屋から毎日2時間ほど目覚ましが鳴るという事態が発生した。
こっちも仕事で疲れている、夜に帰宅して翌朝にはまた出勤するのである、こっちも普通の暮らしをしていたのである。
そんなときの、朝4時からの目覚まし音。
しかも結局彼等が起きるのはその二時間後の6時である、しかしこちらは4時に目覚めるのである。

 

目覚まし音というのは独特で、人の話し声や足音ならなんとか、慣れるということも可能だろう、私とて元来共同住宅育ちである、生活音というものが発生しない生活はあり得ない、それを痛いほど知っている。
しかし、目覚ましの周波数というのは、どうしても誰もが聞えてしまう音なのだ、誰もの脳随に響く仕組みになっている音なのだ。

 

こちら側の個人的環境はどうあれ、目覚ましの音はそんなのお構いなしに響いてくるのである。
とはいえ現場は社宅…大事には出来ない。
社宅だったが、会社自体が巨大なため、M氏との仕事上の知り合いすら一人も住んでいなかった、若い人だけが住む家族寮だった。

 

M氏の会社のコンプライアンスに連絡を入れた、既に1ヶ月ほど目覚まし音に起こされていた、しかし直接隣にモノを言いに行くのは躊躇われた。
M氏の用意してくれた住処なのである、私とて我慢した。

 

コンプライアンス側の回答によると、注意してくれたようだ、数日間音は鳴り止んだ…しかし、驚くべき事に、また目覚まし音は復活したのである。
わかるだろうか、朝4時に起こされると、睡眠がたった1~2時間減るだけで信じられないほど怒りが溜るのである。
話し声などは一切漏れない造りだったが、目覚まし音だけは全ての時空間を超えてやってきたみたいに鳴り響いた。

 

再度、会社のコンプライアンスに訴えた、伝えてくれたのはM氏である、彼の方が公平な気持ちでこのような物事を伝えられるのだ。
コンプライアンス側も少し困っているようだった、しかし、どうも私たちに「我慢しろ」と言いたいようだった。

 

「相手の方は、お子さんがお二人もいらっしゃるので、朝は色々と大変なようで…でも起きられないそうなんです」

 

知るかよ、だったら糞ガキなんざ産むなよ、無駄に繁殖するな、というのが率直な感想である。
これは私が彼等夫婦、繁殖した彼等家族の、そのまた母親か何かの立場だったら「あの子達も大変よねえ…」とか言って、情状酌量の余地あり、みたいな気分に至れるのであって、赤の他人の私には何の関係もないのである。

 

マナーとは何だろうか?
子供が居たら、大変だから、大変だから、大変だから理解してと赤の他人に頼むのがマナーだろうか?

 

ともあれコンプライアンス側からそう言われてしまってはどうしようもない、実質なすすべはなかった、そして本当に赤の他人かどうかもわからなかった。

私たちは共に同じ会社の売り上げで食べているのである、その会社を一つの巨大エネルギーだとすると、あのエネルギーが蠢き上昇するときに私たちも豊かになるのである。

 

直談判しよう!
警察なんて呼ぶわけにはいかないのだ、ここは社宅である、一つの繁殖地である、一つの文化圏である、M氏、行ってくれ、M氏なら落ち着いて話が出来る、人に対し危害を加えたいとかいう欲求が無いM氏ならば、なんとか隣人もわかってくれるはずだ!

 

そう思ってM氏を度々特攻させた、休日に彼に隣人のドアチャイムを押してもらった、だが、隣人達は出てこなかった。

 

この目覚まし音は丸一年以上続いた、私は隣人の顔を知らない、この社宅は40過ぎの人間は出て行く仕組みになっている、ここに40まで居たんだってさ、というのは「100近いのにまだ生きてるよ」みたいなニュアンスを含んでいた。
そして私はこの社宅に話せる知人が居なかった、女達は出産すると、出産した者たちだけで固まっていて、とても近寄れそうになかった、それを仲介する人の良いおばさん、のような慈愛の深い人は、年齢的にも、存在しなかった、皆が皆若い母親であった。

 

実際、子供を産んでいない女が、子供を産んだ者達の輪に入るということは、かなり難しいと思う。
そして子供を産んでいない者同士が知り合う術も無いように思われた、何故なら皆、それぞれに忙しい様子だったから。

そうか、私がもしここで隣人を、正面切って糾弾したのなら、私はこの場所で悪人になるのだなと思った。

 

そうしたらこの場所から出て行かねばならないのかもしれない、この場所のルールとは、大勢に従う事である、子を産んでいる者のほうが、この場所に於いては多勢であった、少子化とは何のその、ここは霊長類の一大繁殖地であった、ここでは繁殖したものが正義であるように感じた。

 

ここまで読んで、ああ、子供を持たない奴は本当に根暗でひねくれていて、妬みがすさまじい、という風に感じた人も居るかもしれない。

ただ私が言いたいのは、どのような状況の人間であれ、状況はさておき、個人の守られるべき幸福について対等に話せると良いな、という願望についてだ。

 

そしてその願望が強いがため、それが暴力的思考と見事に合わさる時がある。

 

目覚まし音を聞くと手が震えるようになっていた、通常の睡眠を年単位で毎日2時間も削られれば、結構の人がこうなるのではないか?

 

殴りたい、隣人を殴りたい、別に子供を踏みつけたいとか言うのではない、単に、そんな事を理由に人の睡眠を邪魔するのが許せないだけである、ここで悪者になったって良い、M氏は人望のある奴なのでなんとかやるだろう、他の住処を見つければよいだけだ、というかこちら側が出て行くことはないのだ、隣人を殴りたい、父親から殴られているので、殴り合いの場合、先に殴った方が相手よりも格上になるという法則はもう身に染みているんだ、私と同年代の女かもしれない、目覚ましをかけっぱなしにしているのが男であれ女であれぶん殴ってやる、いつしかそう心に決めていた。

 

ちなみに、私は女だが、それも背の低い女だが、何故だか握力や腕力は強い、高校の時測定したものだと、レスリング部の子の次に強かった、学校の女子のうち2番目に強かった、謎である、しかも社宅に住んでいた当時は重い物を運ぶ事も仕事上多々あった、女の暴力性、というものについてたまに考える。

 

さて、朝4時、目覚ましが鳴った、私はパジャマのまま廊下に踊り出でた、隣人のドアチャイムを押す。
ドアを思い切り叩いた、爽快だった。
ついでにドア近辺に溢れている子供用のオモチャも全て足で蹴り飛ばしたかった…劣化したプラスチックならばバリバリと音を立てて壊れるだろう、だが、それは堪えた、堪える事がこんなにも辛いのかと驚いた、暴力を振るいたくて振るいたくてたまらず、奥歯がガチガチと鳴っていた、人間案外簡単にこちら側まで落ちるものである。

 

しかし誰も出なかった。
また目覚ましが鳴った。
私はチャイムを押した、押し続けた、馬鹿共、起きろ、目を覚まさせてやる、髪を引っ張って引きずり出してやる、子供が泣いたって構うものか、本当のルールを見せてやる、さらに拳でドアを叩いた。

 

ボコボコにしてやる、こういうとき、本当に頭に白い光が差して、私はついに何も怖くなくなる、殺されても恐怖など感じていないだろう。

 

この日から私は、仕事から帰宅した時、隣人のドアチャイムを鳴らすことにした。
だって、話をしなければならないのは、本当の気持ちだった。
朝、出勤がてら押すこともあった。

 

しかし隣人は出なかった。

 

この社宅から引っ越した時期、その前後の記憶は曖昧である、最後まで目覚ましが鳴っていたのか、それとも鳴り止んだのか、記憶が定かでは無い、あまりにもしんどい場合、人間はその記憶を忘れるのである。
隣人と話すことは無かった、会うこともなかった、しかし隣人が生活しているのは、隣人なので、わかっていた。
だから私は隣人を殴ることも無かった、直談判することも無かった。

 

さて、このときの未達成の思いが祟ってか、たまに、強烈に、暴力的な思考に染まるときがある。
こちら側が「自分にとって」善い、と思ったことに関しては、何をしたっていい、みたいな気持ちに陥る時がある。

 

仮にこちら側が悪いのであれば素直に謝る、そうなのだ、私のような…どこか加害者的思考の奴が、いつでも自分が正しいと思い込んでいる奴だとは限らないのだ、素直に謝る、一言目に、言い訳せずに頭を下げる、これも相手に許されるコツである、こういったことを心底理解している。

 

この世の、ごく表面上の人間ルールは簡単で、こちらが迷惑をかけそうなら先んじて謝る、顔を見せて謝っておくのだ。
何か言われた場合も、怖がらすに、自ら押しかけていって顔を見せて謝る、そうするとむしろいい人になったりするのだ。
言い訳というのは一番やめたほうがいい態度である、言い訳さえしなければ、いい人になれたのに、言い訳したがために相手にコテンパンにのされるということも多々、起こっているのではないかと思う。

 

だから何か言いたいときも自分から言いに行くと良い、スカっとするし、一言目の持つ威力というものがでかいのだ。

 

弱虫は損だ、弱気になると余計虐げられる事になる、子供の頃の私みたいに。

 

最近虐げたい欲求が出てきている、挨拶をしない職場の人間が鬱陶しくてたまらない、わざと彼等の面前に出て大声で挨拶したりする、笑顔で。
勿論、彼等が、私たち掃除婦の人間とは仲良くしたり出来ていないことを知って、やっている。
掃除婦仲間には私は良い人間だという立場で居る、やれと言われたら素直にやり、誰かの手助けをする。

 

挨拶を無視する方が悪いのか、あるいは高圧的に挨拶をするほうが悪いのかは定かではない。

 

「聞えてるんだったら反応してくださいよ~」

 

という冗談交じりの言葉も、私の笑顔にも、どす黒い欲求が含まれていると取るのか、たんなる口うるさい人なのか、はたまたフレンドリーな人なのか、その判断は各人に任せるしかない。

私としては、その実、全ての気持ちが詰まっているような気がしている。

 

友人のことも、同じクラスだった1年間は、ハッキリ言って苦手であった、面と向かってうるさいから黙れと言えたらどんなにスッキリするかと思っていた。
何故なら友人本人は、自分から、楽しんで騒いでいる訳ではなかったから。
単に明るく振る舞うためだけに騒いでいる奴だったから。

 

私たちは男女だが、互いに、はじめて出会った時には一目惚れどころか相手を認識すらせず、気になりもせず、視界の隅に居る、そんな人間同士だった。
その人とこんなに仲良くなれるとは思いもしなかった。

 

職場にも私からの一種の暴力性を含んだ挨拶で、挨拶を交わすようになり、仕事のちょっとした事を気楽に話せるようになった人も居る。
…相手からすると私は得体の知れない怖い女かもしれない…だが、もし私も彼等を無視していたら、それこそ、本当に仕事がやりにくかったのではないか?
相手を避けていると本当に仕事がしにくい、それを打破するためにはこちらからのアクションが大なり小なり必要だったのも事実だ。

 

いじめと冗談、からかいの違いはほとんどないのだと、私は大人になってから、自分が相手にアクションを起こすようになってから気付いた。
私は自分が、こんなにも、他者に対して暴力性を出す人間だとは思ってもみなかった。
挨拶出来ないのは他者が怖いからでしょ、目覚ましが鳴るのは起きられないからでしょ、と昔の私なら言うだろう、父に殴られていた頃の私ならそう言うだろう。
自分が誰かを殴りたいと思って、胸の内が燻るような気持ちになるなんてことは、あり得ない、そう思っていた。

 

もしかしたらあの時の隣人とも、話せていれば、何かが変化したのではないか?

 

相手が出てこなかったので話すもクソもなかったのだが、それでも、もし話せていれば、彼等の言う「大変さ」が理解出来たかもしれない。
今となってはどうしようもないことだ、実際、あの時は我慢に我慢を重ねていた、だからこちら側も彼等から軽く見られていたのだろう。
そして私の怒りが限界を超えたのを察知して、一切関与しないように息を潜めていた様子だった。

 

もう少し早いタイミングで彼等に対面出来ていたら、と思うが、うん、下手したらやっぱり普通にぶん殴っていたかもしれないので、会わなくてよかったのかもしれない。

 

話をまとめよう、私に足りないのは慈愛である。

相手への配慮の気持ち、相手の成長を育むような気持ち、それが圧倒的に足りない、生まれながらに不足している。

 

友人も子供70人強の面倒を見るのが…突き詰めると「やっぱり可愛い」から、見ていられる、という気質的に保母さんタイプ。
先生も何かしら、人の成長を見守るのが好きな人だろう。
変人さんも、おかしい人を見ているのが好きという度量のある人だ。
M氏は…よくわからないが、それでも、M氏を「悪い奴」だと言う人を私は知らない。

 

彼等は男だが、どこか皆、母性(父性?)、のようなものがある人々だ、駄目な人を見ていられる人、と言ったらいいのか。
私は駄目な人を見ていられない、すぐぶん殴りたくなる、ぶん殴られてきたからそうなんだ、と言いたいところだが、それこそ言い訳だろう。

 

先生に対して今まで送った文章を読み返してみると…
本当に…
頭おかしいんじゃないか…
と思う極彩色の文面がゴロゴロ出てくる。
なぜこうも私の文章はおかしいのか、というと、やはり、他者への配慮や、先生に対しての慈愛に欠けるからだろう。

 

絵については、やはりゴールに先生がいると、本当に一方的に好き放題描けて、その上誰と比べずとも、下手だろうがなんだろうが一向に構わないので、心底楽しい。
だが、これは、単なる私自身の気持ちである、私さえ良ければいい、という私の正義である。
先生への気持ちやら、絵やら何やらが、何故だか暴力性を帯びているように感じるのはこうした理由からだ。
だから私は誰かと仲良くなりたい場合も非常に…後ろめたく思っている、先生とは、仲良くなりたいとは思っていない、単に気持ちを投げつけたいだけ。
でもこの投げつけるという行為自体が、一種の暴力なのである。

 

私の思考に潜む暴力性をうまく昇華させるには、慈愛が必要である。

 

と、言葉で考えてもわからない、目覚まし一家の生活がうまくいくといいよね!とか空想してみても駄目である、もういっぺん鳴らしたら●すぞ、という黒い思考が芽生えてくる。

 

 

本当にこんな感じ、●
黒い思考、暴力的思考というのはこんな感じで視界の中心に立ち現れる。
それは視界の中心部だけをのぞき、あとは一面に強烈な光が差しているがために起こる、影である、影を私は見ているのである。

 

では慈愛とはどんな形だろうか、慈愛とは、時に、残酷なものである、暴力よりも一層、私を泣かせるチクチクした棘のようなものである。

うん、☆かもしれない。
☆、星を思い浮かべながら、生きてゆくことにしようか。
今度友人に聞いてみたいものである、その慈愛はどこから湧いてくるのか、出来れば小さな灯火を、分けてほしいものである。

 

善悪を超えた部分で、暴力的思考を、よりよい形で昇華させたいと、私は切に願っている。