散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

独り言(僕という一人称)

 

昔、僕って言ってたよ自分の事、ずっと自分は僕だった、生理が来るくらいまで一人称は僕だった、僕は僕だと思っていた、今も、僕は僕だと思っている、思い続けている。


だからかな?
僕はこう思っているっていう事が、それがあまりにも素直な文章だと、本当にすんなり入り込んでくるんだ。
そういう人を見つけた時の共感度合いの深さ、それで人を見ているのかもしれない、話の通じる人かどうか、相手の心の形状を推し量っているのかもしれない。

 

僕という言葉をやめなければならないと、中学に上がる頃には薄々気付いてはいた、小学校の高学年で僕と言っている女の子は自分だけだった。
つまり一番子供だった、皆、どんどん大人に変化している様子だった、ああもう話せないなあと思ったよ、今でもそういった妙な疎外感に苛まれる事がある、本当に時折だけれど。

 

でも僕が僕でなくなるとしたら、一体誰になればいいんだろう?

 

誰かに対して、ということを念頭に置きながら話さなきゃならないんだね、これからはそうなんだね、この世の中ではそうしなければならないらしいね。
でもそれは…本当に話しているということになるのかな?

 

だって、僕は僕なのに、僕のこの気持ちを言うときには別の人を装わなきゃならないんでしょ。
それは僕のおっぱいが膨らんできたから?
おしりも大きくなって、やがてそこから血が出るようになって、そこは隠さなきゃならない場所になるから、神秘の場所になるから?
それを保ったまま、僕が僕と言うのは、何かを偽っていることにすらなるから…?

 

僕が僕であると正直に居ることが、何かを偽ることになる、言葉として誤解が生まれるというのなら、改めなくちゃならないのかな。
どうもそうらしいね、あの子も僕って言ってたのに、もうあの子は僕じゃ無い、あの子は、女になってしまった、女の人に。
僕も女の人になるのかな、僕は、僕は嫌だと言いながら、もう男の人に乱暴されたけれど、それでも僕は僕のままだったよ?
僕は僕だったよ、それなのに、誰かに見られているということを意識して言葉を発さねばならない、それが大人になるってこと、女の人になるってことなの?

 

だとしたら僕は、ずっと、本当の意味での、いつも誰かの視点を気にすることの出来る、そういう配慮の気持ちを含めた意味での…女の人には、なれないんだろうな。
女の人の肉体になった僕はずっと、違和感を感じたまま、自分を呼ぶんだろうね、違和感を感じたまま装うんだろうね、「私」って、それは辛いだろうね。

 

僕は女だよ、僕はずっと女だった、そのことは普通のことなんだ、夢の中でたまに男になるよ。
男であるところの僕は僕なんだ、ずっと僕で居ることが許されているんだよ。
僕として振る舞うことが許されている、夢の中ですらそれを感じるよ、おしっこするのが快楽なんだ、あの岩にあてておしっこすると気持ち良い、こういうことをそのまま感じてそのまま言えてしまうんだ、だから僕であるということが、男であると言うことは、変化が無くて、凍えることもある、そういう辛さもある、男には。

 

女の人に身体が変化するとね、身体の中に火が宿るんだよ、火が灯ると言った方が良いかな。
この火が、男の人を照らすんだ、だから男であるところの僕は、夢の中で、女の人を目で追ってしまうんだ、いやらしいことじゃないんだよ、暖かい何かがあれば、圧倒的な何かがあれば、あ!と思ってそれを探し当てたいと思うでしょ。
そういう風に、僕は僕に語りかける、女の人になってゆく自分に語りかける、それでも僕は僕だよと僕は語りかける、そうやって生きてきた。

 

いつの間にか、生理を迎えた僕の周りは女の人だらけになった、女の人は女の人と、自分は女の人だと意識しながら話すのがこの世では普通らしい、僕には異常だけど。
でも困ったな、どうしようかな、誰とも僕は話せないような気がしていて、僕に恋をしたとかいう男の人とも、本音では話せないんだ。
このまま大人になるのかな、でも、素のままの僕の部分は…消えることは無いんだ、お父さんに殴られても、矯正すると言われても直らないんだ。
振る舞い方を変えるには、心の中で、一度、湧き上がったものをろ過しなければならない。

 

ろ過する作業を経て、口から発せられた言葉や、服装は、僕にはね…ごめんね、何も響かないんだ、薄っぺらいんだ。
これを冷たいと言われても、僕にはどうしようもないよ、だって、僕は僕だから。

 

だから僕は誰かと僕のままで会話がしたいって、口では「私」と言いながらずっと、僕は、僕を、探し求めていた。

私という言葉の中にはね、いつも苦しみがある、そうでしょ、これはろ過するための薄い膜なんだよ、要らないんだ、こんな膜は、だから僕は私と自分を呼ぶとき、いつもひねくれていつもどこか、怒っている、何も納得できないからだよ。


でもね、これを使わないといけない、私という言葉を、僕はもう大人の女の人だから。

 

ただ大人の女の人の服装をするときの僕は、実はちょっと楽しい。
僕のお尻はもう大きくて、だから着る服を間違えるととんでもなく短足に見えたりする、うん、結構大変、着る服を選ぶのは大変、僕の着たい服じゃなくて、女の人の着れる服を、僕が、選んであげないといけない。
だから僕のセンスで選ぶと、女の人であることが強調されて、突然色気ムンムンの女の人がそこに立ち現れるんだ、いつも、着替えるとびっくりするよ。

 

これは僕じゃないって。
でもこれは、この女の人は、女として今存在していて、僕がそれを受け入れていることを、彼女は喜んでいるって、火は小さく灯っていて、誰かを照らそうとしている。
だからね、女の人の服装をするときの僕は、女装しているみたいな気分でもあるんだ、そういう意味でちょっと楽しいんだ。

 

僕は産まれたときからずっと女だった、僕は自分が女であることに違和感があるわけではないんだ、ただ…周りの思う自分にならなければならないっていう、あの感じがいつも苦しいんだ。

 

僕が先生に会うとき、いつも僕は僕のままの服装で会うよ、ジーンズ姿にノーメイク。
僕は眉毛も睫も、ついでに言うと鼻毛も髭の部分の産毛も濃いから、まあ、化粧はしなくてもあまり顔は変わらないんだよ。

僕は僕のまま先生に会う、それが僕の敬意なんだ、女装なんかしないよ。

 

変人さんの文章をネット上で見つけたときもそう、僕は、ああ、この人なら話しかけることが出来る!そう思って僕から話しかけたんだ。
僕のままで話が出来る、そう思った、だって僕という言葉と素直な視点…変人さんの文章を読んでいるときの僕は深く、彼の視点を、体感するんだ、そういう人の書いた文章は実際に、文章の中に潜り込んで泳ぐことが出来る。
だから彼はかけがえのない人なんだ。

 

先生のブログを読みあさってたとき、音楽の話題は僕には難しすぎて、後でいいやって思ってしまった、悔やんだときにはもう遅かった。
でも先生は自分をいつから僕と呼んでいるのかは書いてなかった。
ただあまりにも素直に、僕という言葉が使用されていて、僕が僕である、という部分が伝わってきて、僕は感動したんだよ。

 

僕は自分を僕と、ずっと言ってきた人の醸し出す空気が好きだよ。
僕はね、きっとそういう時、友達を見つけたみたいな気分になれるんだよ。
すごく一方的だけれど、でもね、僕が共感する相手っていうのはそういう人なんだ。

 

僕の部分で話せる誰か、友人もだね、子供のままの部分で話せる相手、子供のままの部分を持つ人たち、その人たちと話しているとき、自分が自分だと本当に実感するんだ。
それを、直した方がいいと言う人とは、距離を置くことにしている、それが親でもそうしている、どんなに好きだった彼氏とでも、こういう事が元で離れた思い出もある。

 

実際には僕は私と、自分を言っているけど、その、私という部分を、もっと、ろ過して、ろ過して言うべきだと…その方が美しいと言ってくる人とは、離れることにしている、私を醜いと言う人が居ても、放っておいている、仕方ないよ、確かに、ろ過しないのは味が雑多すぎて醜いんだ。
お世辞にも綺麗とは言えない、わかっているんだ、わかっててやってるんだ。

 

だからね、僕に思いやりは無いよ、僕は僕のままで居るということには一欠片の親切心もないんだ。

僕には母性本能がある、確かにあるんだ、僕は、卵を産む気持ちがある、それをぶち壊す気持ちも。

 

実際に母親になっている人が、自分の事を僕と言い続ける、少なくともプライベートでは一人称を僕に出来る社会が到来したら、僕は、その時に本当に女の人が自由な視点を得て話せる時代になったと感じるだろう。
誰かのママが自分を僕と言う、僕はね、と子供と語り合うようなね。
私のお母さんは自分の事僕って言ってるなあ、女の人だし女の人の格好だけど、僕って言ってるなあ、みたいな事が普通になる世の中。

 

僕はそれを、美しいと思うよ。

 

僕の美は、そういう事なんだ。

 

ろ過は、僕にとって不要で、蛇足なんだ。
一直線に突き進む光、それが僕の美だよ。

 

そんな話を、僕はあなたと、したいと思っているよ。

そんな話を、僕はいつもあなた方と出来て、嬉しいと思っているよ。