a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

加筆:癇癪は病か?(精神)


以前、私の文章を読んだ男が言った。
彼は精神医療を受けていて、自身が躁鬱気質を持つ、元アル中だった。

「大熊さんは死に魅入られている、君は躁鬱だと思うよ、こんなに頻繁に文章を書いて、それもたまらないという様子で沢山書いて…苦しそうだよ」

 

私は彼と対面した事がある。
私は確かに癇癪持ちだけど、それを文章や絵に発露しているのであって、私自身ずっとこの調子でやってきたんだから、大丈夫だよ、と返した。

 

「僕は躁鬱だから」

でもそれ、単に、とある医者がそう言っただけだよねえ、まあいいんだけど、それであなたが落ち着くなら、あなたの内的真実がそうであるなら。

 

「君も躁鬱だよ」

癇癪は絵の源でもあるんだ、あなたはそれを躁鬱という病だと言うけれど、私にはあれが悦びの根源なんだから、仕方ないじゃないか、だったら何だと言うんだ。

 

「君の文章はいいと思うけど、ただの爆発や、ただ君の思う世の中への不満を、ぶちまけるのはどうかと思うよ」

世の中の良い悪いの尺度で考えたらそうだろうね、綺麗な言葉と綺麗な挙措が、文章にも必要だという、あなたの美学だけはしかと受け止めたよ。

けど汚いものも必要でしょ、それを吐き出す場所も、そこに真意が宿るなら、それを単なる暴言とは、私は思わないよ。

 

「僕は躁鬱だから、躁鬱の人がわかるんだよ」

あらそう…だったらあなたは音楽に、感情の波を昇華させればいいじゃない、私が躁鬱気質で、文章や絵にそれを落とし込んでるのなら、あなただってそうすりゃいいでしょ。

 

「僕は躁鬱だから、出来ないんだよ、感情の波が高ぶり過ぎて…だからそれを止めるようにしているんだ、フラットを保とうとしてるんだよ」

あなたの病気認定は、そんなに幸福なのか?

フラットに保つということがそんなに幸福なのか?

 

「僕は君が心配だ」そう言われ続けた私は、結局彼とは平行線のまま、やりとりすらしなくなってしまったが、それでも彼の言わんとしていることは、実はわからんでもない。

 

世の中の基準に自分を合わせるのか、世の中の美学に自分を合わせるのか。

それとも自分の軸で生きて行くのか。

自分の軸というと聞こえはいいが、実のところ尻拭いまで全部自分でやらねばならない。

 

人からおかしいと言われても、病気だと言われても、それでも絵にしろ文章にしろ、思いを発露させ、垂れ流すのだ、と私は決めている。

 

ただ…確かに私は文章を垂れ流したり、絵の世界で高揚や落胆を体験するのが果てしない快楽なので、それを中心に生きているが、その説明を他者にするのは難しい。

しんどいと感じる時も、多々ある。

 

私は一見、外面が良いので、職場の人や出会った人は不思議がる。

なぜあなたは子供を産まず、仕事(社員とか)を一生懸命するわけでもなく、ただ漫然と生きているのか…と。

暗に…その暇さによく耐えられるね、と…とても奇妙に思われがちだ。

 

そして、それについての説明は、結局出来ないのだ、この文章を読ませるわけにもいかないし、トラウマ話をするわけにも、自分の頭がいかに馬鹿かを証明するのもその実、難しいものだ。

 

他者から聞かれる「どうして?」に、私は答えられない。

私は世の中の軸で生きていないので、世の中の言葉を持てない。

よって、問いには答えられない。

 

表面上では、笑顔で「怠け者だから」とか何とか、適当に答えているが、根深い部分の説明など…出来るはずもない。

 

でもね。

 

他者からの視点で生きている奴はそれが一言で済んでしまうんだ、それが世の中の軸で生きるということ、世の中に合わせるということ。
どんな質問にも答えられる魔法の言葉。

 

「躁鬱だから」

 

ね?
この一言で済むでしょ、きっと。

「病気だから」

それで済むでしょう、どんな質問に対しても、どんな白い目に対しても。

 

だからやなんだよ、しかもそれ、多分さあ…病的な分類に一切触れずに、そういう区分けに入らずに居られる性格の人間なんてさ…
本当に存在するのか?
本当に、常識的で真人間で、歪みのない人間なんて存在するのか?

 

誰しも、鬱や、躁鬱、なんじゃないの?
確かに統合失調症とかはさ、ありゃ病気だよ、でもさ…気質としては統合失調症気質という分類で、いいんじゃないの?

 

私は自分の気質を、病気というカテゴリにしてしまうことを嫌がっている、私個人はそれを、つまらないことだと思っている。

 

ただそれだけなんだよ、あなたを否定したかったわけでもない。

私はこの癇癪を、押さえ込もうという思想の人を嫌がっている。

私の事をあなたは「僕にとって唯一の人だ」と言った、恋の意味ではないことはよくわかっていた。

でも、私はそんなあなたに好意を持てなかった、でも本当はね、それでも話したかったよ、もっと。

 

癇癪持ちを落ち着かせるために薬を飲ませるのは、本当に善いことなのか。
DVも、悪い悪い言われているし、私も恐ろしいと思う事はあったけれど…一番の解決策は、そういう暴力性癇癪持ちの本当の欲求を、発露させることなのではないのかと思う。

 

父の欲求は移動だった、旅だった、本当にロマの生まれ変わりかもしれない。

父は、土地に定着したら海洋生物のホヤのように、土地にべたっとくっついてしまい、脳まで溶けてなくなるという一種の恐怖に取憑かれていた。

歩かなければいけないという軸を持つ、民族とかに生まれていれば…父は幸福だったろう…確かに定住が社会の軸となる昨今、父をはじめ多くの人がこの種の欲求を抑制しなければならないと思う、辛かろうと思う。

 

私自身が土地を、M氏と選んで(M氏の資金で)買ったときには「獲ったどー!!」という気分だった、勇ましい気分だった、定住は正義なりと心の勝鬨をあげたものだ。
しかし不思議なもので、住み始めると途端に意識が変貌し、自分たちが土地を構成する一部に成り代わったのだと身体の奥底から理解しはじめた。
あれは静かな死のようなもので、独特の、絵とはまた異なる、忘我の快楽を私たちは知ったのだ、今もそうだ。

 

父はこれが怖かったんだ、だから苦しんでいた、だから旅行していた。
旅行が出来ないと怒りが爆発したのかと、この時深く理解した。

 

だったら…父のやるべき事、癇癪を有効活用させるには、歩き続けること、毎日歩くこと、それが一番良いことなのではないだろうか。

 

私の癇癪は毎日絵を描くこと、今は筆がないので、その代わりに文章を書く、それでよいのではないだろうか?

発散させる事自体を堰き止められると、とうとう防波堤がぶっ壊れてしまうぞ、ついに楢山参りに行くことになるぞ、という気がする。

 

自殺者の本当の欲求は、死ぬこと、でもある気はするが、もっと根底には個人の、「なんで?」と他者が質問しても全く整合性のある答えが返せないような、独特の欲求が犇めいているのではなかろうか。

 

だから…私は他人には「なんでそうやって生きてるの?」とはあまり聞かないようにしている。

よほど聞きたい相手でも、「本当にただの好奇心から聞くのだけれど」と前置きをするようにしている。

これが私の、世の中に対する、自分の軸での、真摯な態度だよ。

 

今は、こうして野放図に垂れ流しても、結局のところ、友人も、そして変人さんも、相談文章を読み続けてくれた先生も、それを堰き止めようとはしなかった。

 

そのような人たちに出会えたのは私には幸福な事だ、得難い人脈だよ、私にとっては。

 

私は精神医療が無くなればいいとか、精神医療を受けてる奴は~、と言いたいのではない。

ただ、精神医療の物差しを、私に当てはめないで欲しい、という欲求を、ここに垂れ流しているだけである。

 

気が狂ってなきゃ芸術は出来ないよと、変人さんも、そういえば先生も度々言っていた。

私は何故かそこに、独特の心地よさを感じたんだ。

 

気が狂っているということへの、許容。
おかしいということへの許し。
綺麗ではないということへの、存在そのものへの根源的な肯定。

 

一種の母性を、この二人に私は感じている。

この母性に、私は甘えている。

 

そして私は、癇癪をはじめ、躁鬱や鬱、その他の精神疾患と呼ばれるものも、そこまで「病」だとは思っていない。

どちらかというと単なる本人の特質だと思っている、本人が病院へ行くことを否定しているのではない、薬で楽になるのなら楽になればいいと思う。

でもそれ以前に、その人だからこそその特質を持ったのであって…その人でなければ得られない特質なのだから、様々な「病」と呼ばれるものでも、そこまで本人が否定する事もないのではないかと思っている。

 

何かをやったり、又は何もしない理由として、「病」は世間に対しての切り札となる。

非常に便利である。

 

でも…何もしない理由として病を出すのは、哀しい気がする。

何もしない理由を問われても、何もしたくないからしない、と私は言うことにしている。

もちろん、それでは納得がいかないと言われる場合もあるが、納得がいかないのはその人の気持ちなので、もう私ではどうすることもできないと諦めている。

 

一方で何かする理由、例えばこういった文章についても、躁鬱だから書かずにおれないなどというのは…つまらなさすぎる…そもそも、なぜ私は躁鬱気質なのか?

なぜ私は躁鬱気質として生まれてきたのか?

なぜ私が私として生まれてきたのか?

 

私が絵や文章を発露させる理由など、本来当人にだってわからないのだ。

 

そこに妙なる神秘があり、人間の面白さがあり、残酷さや矛盾、私の探し求める根本的な光がその問いにはある、答えられないから美しいのだ。

 

だから、私は、美しいものを「病」という言葉で簡単に答えてしまいたくないのだ。

たとえそれがどんなに表面上の質問であっても、私は病という単語を使いたくないのだ。

つまらなくなることが私には耐えがたい、そういう美学が私にはある。

 

もうひとつ。

私は人を「病」だと言って分類したくない。

その人はその人だと私は思いたい。

本人が「自分」とは「病」であると言い張ったとしてもだ、それでもその病を背負ったのも、その病に甘えているのも、その人個人であると私は思いたい。

「病」という洋服を着てしまったその人の、素裸の部分を見たい、その服を選んで着ているその人個人を私は見ていたい、そこに発見があり、きっと絵の一部となる。

 

私は絵のために、面白さを選択している。

私は絵のために、病という服を捨てている、他者の服も容赦なく捨てている。

 

私は残酷だろう、でも、私は誰も彼もを人間だと思いたいという欲求は強いほうだ、きっとあの男も、いつかそれを理解してくれると思っている。