大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

不可思議な縁


写真には建物を超える高さの、実寸大の赤黒いガンダムの足が映っていた。

「これが僕の、美大に居た頃の作品…若気の至りですよ」と彼は書いてよこした。

まだ対面していない彼の、感性に、私は驚いてしまった。

無意味で巨大、私はこの作品と対峙する事が出来ないと思った。

 

作品を完成させるということの力が、彼には自然と湧くのかもしれなかった、だとしても何の評価もされないであろうことは、彼を苦しめなかったのだろうか?

評価を受けるということに的を絞って、矢を放つのが上手い人間もいるだろう。

また人を驚かせる場合には基本的にエロ、グロ、ナンセンスさえ入れればその実、作品にメッセージ性、のようなもの、が生じる(人間は動物である)。

 

一方で、性、死、欲望、風刺、これらから外れたものは「単純な驚き」「身体的反応」に欠けるため、一見地味で目立たず、評価もされにくいように感じる。

 

ただ、冒頭のガンダムの足に至っては見事にこのどの枠も外した上、矛盾するようだが、作品としての存在感が圧倒的であった。

そしてきっと、教授たちには評価されていないだろうということも、伝わってきた、これを理解した上で、やむなき情熱に駆られて制作した様子も伝わってきた。

画用紙1枚に対してですら、私は、ただ完成させるということが難しい。

建物2階建て以上の物体を作り上げるなどということは、私は構想の段階で挫折するだろう。

 

無意味だからである。

 

何度作品を見ても、美大生らしからぬ出来であると私は呟いてしまう。
何故ならそのどこにも、評価されるという事への努力が見られなかったからである。

少しでも美術を好んでいれば、おのずと見えてくるのだ…その作品がどれほど媚びているかが、はっきり言ってすぐにわかるものである。
媚びていると感じるという時点で、確かに、作品が生きているということでもあるのでこれは悪いことではない。

 

だが美しくはない。

 

媚びていると美しくないのだ、だから技巧だけを努力してもいやらしい感じを受けたりする、ネチネチとした上手さのある作品だなあと、思うものは沢山在る。
だから技巧だけが上手い作品を見ても全く感動出来ないのである。

では何に感動するのかというと、生きている作品、自立して生きている作品に感動するのである。

パワーを感じるとか、禍々しい感じがするとかでもいい、作品自体が生き生きしていると…驚くのである。

何故なら作品とは、物体だからである、生死とは無関係な存在だからである、にもかかわらず「生きている」と感じること、存在に対して生死を感じる事の出来る作品が、素晴らしい作品ということになる。

 

では彼の作ったガンダムはどうかというと、生きてすらいない、ただただ圧倒的であった、繰り返すようだが、作品が生きていないということをわかりながら作ったのだと思う、よくここまで自らを苦しめたものだと、そのことに私は、驚いている。

 

今まで私はネット恋愛や、懐かしい呼び方であればメル友、文通相手との恋、そういった関係には非常に懐疑的であった。
対面してすらいないのにどうして、他者の内面までわかろうと、若干馬鹿にしてすらいた。

 

でも彼とやりとりしていて理解したことがある、苦しみとは、何の具体性もなくとも、その本人の視点に宿るものである、と。

何かトラウマがあるからとか、そんなことは些細な物事でしかないのかもしれないと私は思うようになった。

やむをえない情熱、理由無き苦しみ、そういったものがその人の瞳に宿るときがあるのだと私は知った。

その時、私は写真しか見ていない彼の瞳のどこよりも奥へ旅をしているのだと直感した。

 

実際に逢う時間の長さや、互いに一人の男女の相手であると誓い合うことよりももっと彼方、彼の内部を私は歩いているのだ。

 

そこは彼の歩いた道、彼の苦しんだ道、あるいは彼自身ですら存在を知らぬ秘境の村かもしれない。

身体の表面を肌が、覆っている、土の中には沢山の死者や有機物が踊っていて、地表をサラサラと、私たち…個であると思い込んでいる遍く生命が流れて行く、私はその音を聴き、彼に伝えたいと思う。

 

彼とそのような話をしている、肌を合わせるかどうか等と言うことが、実にささいな、表面的な物事であると感じられるほど、互いの内部を、肉を開いて見せている。

 

これを何と呼んでよいのやら、不可思議な縁、としか言い様がない、有り難い事である。

 

そんな出会いを今体感している。