大熊あれいブログ

文章ブログです、雑記帳のような感覚で主観的、感覚的に詩やエッセイのような独白文章を書いています。不定期です。

豊穣の女神は微笑まない(性)

やってきた郵便配達夫に私は言う。

「あれ?もしかしてさっきもチャイムならしていかれました?」

配達夫が笑顔で頷く。

「いや~すみません、私さっき帰ってきたばっかりで、仕事で汗かくものだから着替えてて素っ裸で、出られませんでしたよ」

そう言う私に配達夫が返す。

「そうですかあ、僕は貴女が裸でも気にしませんけどね!!」

と、いい歳した大人が二人で初笑いである。

 

これが30代の良さである、これが中年の良さであると私は直感した。
性についてのイニシアチブを女側も、拒否、という意味合い以外の部分でもきちんと握ること、話題を出すこと、それを互いに尊重できる関係性は、良いなあと思っている。

 

日本人は元来、性についておおらかな民族であると私は思っている。
武家社会の頃から、誰の子かを神経質に気にするようになり、性認識が歪みだしたのではないかと推測している、まったく当てずっぽうにそう考えている。

 

私の性癖がどうであるとか、トラウマだとか、そういったことを切り離している限り、自分自身の性的な部分や芸術面は乖離したままである。

 

酒の場での男性の下ネタを一方的に聞き、苦笑いしているだけが性の開示ではない。
性には苦しみもあるが、喜びもある、苦しみを超えるには喜びを多く感じるより他にないと私は思っているので、男が足りなくなると出会い系サイトに登録して男漁りしている。

 

出会い系サイトに登録して男漁りしている、というこの部分をまさに、大人の女ならば隠さねばならない、この空気をしんどいと感じる事が多々ある。

M氏は私が出かけるのを許してくれている。

 

性が善悪と何故こうも結びついているのか疑問である。
性的に奔放なことは悪だろうか?
もしそうだとすれば、性欲の強い人間は悪人である、そしてトラウマのある人間は汚い人間である、汚れてしまった人間である。
そんな認識ではいつまでも、個人の性が救済されるということはあり得ない、それでは人類全体が救済されるということもあり得ないままである。

 

私にはもちろん虐げられたい欲求も、恋をしたい欲求もあるが、とにかく男性器が欲しい、そんな欲求については切実に「乱交まつりがあればいいのに」と思っている。
ここで言う乱交とは「男女ともに笑顔の乱交」である。
断られても笑って受け流す。
男女ともどんどんアプローチする。

 

性成熟すれば欲求があるのは当たり前だし、それを何故だか頑なに人格と結びつけて考えるのは幼稚な気がしている。

だからこそ、セックスするには自分の健康…歯科での定期検診や、性病チェックは欠かせないと思っている。

この、思っていることを、私は実際の友人以外誰にも言えずにいる、それが苦しいのだ。

 

もちろん現実的に考えて、私の生きているこの時代には乱交祭りは出現しないだろう、枯れ果てた文化なのだろう。
皆、恋を重視しているのだろうか?

 

友人は言う「そりゃお前、お前さんの言う性の昇華はさ、性的強者の理論もいいとこだよ」

 

その言葉の裏には、自分の女が別の男の子を宿したりしたら嫌だという感情が見え隠れしている。

 

今はそういう時代なのかもしれぬ。
豊穣の女神は微笑まない、そういう時代なのかもしれぬ。
皆で子育てをする、地域で子育てをするなどという言葉が一向に現実味を帯びないはずである。

 

この精神面での飢饉により、多くの男女が飢えているように思う。
私は一人、男に血道をあげながら、子を産まずにペニスだけ出し入れしている。
我関せずと私は言いたい、性は男女ともに開示されない限り、花開かないと思っている。

自分に少しでも出来る事は、こうして、ほとんど誰も知らない世界の果てで、本物の、生身の女である実感を書くこと、それだけである。