大熊あれいブログ

文章ブログです、雑記帳のような感覚で主観的、感覚的に詩やエッセイのような独白文章を書いています。不定期です。

評価(芸術)

文章や絵は、書こう描こうとしてその作品が完成するのではない、本人が書かずにおれなくてそうしているだけであって、その結果何かが生じているに過ぎないと、猛烈に言いたくなるときがある。

 

美術の時間に感じた違和感はずっと拭えない。
評価されるということが結果にあるのではなくて、行動や衝動ありきなのだ、衝動をいかに発露させるかが幸福の鍵である。

 

評価する、されるという場を作り上げた人たちは凄いなと思う。

 

一方、評価するということから外れた場所で、好きに発露させること、これを特に評価しない、という文化がもっと芽生えればよいと思う。
公園で、唄いたいから唄ったり、描きたいから描いたり、鑑賞に耐えうるかどうかを互いに気にしないという風潮が満ちたとき、文化はもっと成熟するだろう。


もっと多くの人が、潜在的に芸術を発露させる素養を持っていると思う、下手だからやらないという意識が薄れると楽しい事が増える、個人の思考に、自発的な意味合いでの楽しみが増えることは、楽しい社会へと繋がる事だと思う。

 

そのためには徹底的に評価される/する場が必要だ。
評価の場と、評価という概念の無い場、その二つがあると人は芸術を発露させやすい。
美術の時間もそうであればよかったのだ、私の描く絵が、褒められなければ存在する意味が無いというような、そんな捉え方をされるのが息苦しかった。

 

詩の投稿サイトに投稿してみて思ったのは、案ずるより投稿するは易し…投稿するは易く批評は難し、である。

 

批評コメントを読んでみると、私の場合は、はっきり言ってしまうと自分の詩よりもコメントの方が秀逸であった。
詩も文章もほとんど手が動くまま、リズムが振るままに行っている。
当然と言えば当然、コメントをする側というのはある程度言葉の理屈を軸に、コメント欄に文章を埋めてゆくわけである。
筋が通っており、かつ心情も伝わってくる文章というものが…自分の詩か、それを評するコメントか、そのどちらかと問われれば私の場合それはコメントなのである。

 

私には国語力というか、基礎的な言語の軸や理屈というものが無いのだ。


自分の詩に対する秀逸なコメントにどう返答すればよいのか逡巡した。

結局「なんかそんな感じだったから」という、感覚での返答しか出来ていないのが我ながら滑稽であった。

 

そして自分が、他者の作品に対しどのような評価をすれば良いのやら悩んでいる、もう「この感じ、好きです」とかしか正直、言葉に出なかったりする。
この言葉を打ち込むということが、その作品を軽んじているようで申し訳ない気がしてしまい、うだうだしているうちに時間が経っている。

 

自分自身が感動する文章とは何かと考えると、詩でも感動したのだが、批評コメントでも感動したし、さらに言うと推敲されていない誤字脱字ありきのブログ文章でも感動した、この人のファンだな~と実感する書き手が現在一人居る。
世事について、芸能について、痴漢えん罪について、さーっと書き殴ったような文章、痒いところをがりっとやられたような、爽快感があった、そんなブログがある、芸術のげの字も無いのだ。

 

自分のこのブログは、ネタ帳を元に書いている。

ネタ帳は自然に出来た、明日はあれ書こう、明日の夕飯あの料理作ろう、みたいな要領で書いている、毎日と決めているわけではない、決めごととしては最低100記事、書いておこうというだけである、発散のためだけのブログであるのでつまらないとか良かったとかの評価は不要なのである。

 

つまり私は、矛盾した事を言っている。
評価の場でこそ評価するべきである、と言いながら書き殴りの文章に魅力を感じている。


私自身、畏れを強く感じたいがために、投稿しているだけなのだ、投稿ボタンを押した後に謝っている、ああごめんなさい快楽のためですと謝っている、ピンポンダッシュでもしているみたいだ。

 

このような恥ずかしい気持ちを抜け出た視点で、楽に文章や絵を発散できたらなと思う。
公園で気ままに唄えたらなと思う、今日は弾き語りがしたいから仕事帰りに一曲、みたいな人間になりたいと思う、クリスマスの夜。