a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

白装束の人々【霊のはなし、概念】

まだ家族で車に乗っていた頃、まだ私も信仰心を掲げていた頃、妹がようやく物心ついた頃、私たちはよく祖父母の家へ遊びに行っていた。


山々の合間を縫うように高速道路で走った先の盆地へと頻繁に赴いた。
その日は「した道」、要するに一般道を使って行ってみようということになった、この車にとって新しい道を、街と街との中間に位置する薄暗い景色を見ようということになったのだ。

 

東京と山梨の合間には、大月や塩山などといった昼間でも山陰によって日光が遮られているような、どこかひっそりとした地域が存在する。

高速道路での走行の場合、上空の青さと山々の色合いや暗さを抜けて…山が低くなり日の当たる部分が増え、畑など、手入れされた土地の割合が多くなると私は「甲府」についたなと感じる、同時に人間よりも、影の力の濃かった景色の終わってしまったことを、さびしく思った。

 

人の気配よりもずっとその他の気配が強い場所というものは存在する。
森林や山である、それも一般的に言う「明るくて美しい自然」などではなく「昼間でも暗くて、人を飲み込むような、重力があらゆる方向に向かって存在しているかのような独特の自然」が、東京と山梨の間には広がっている。

 

私たちの乗っていた車はあずき色だった、ディーゼル車だった、車に乗るたびに父と私は鼻水を垂らして苦しんでいた、妹はしょっちゅう吐いた、母だけがケロリとしていた、その車の中で、よく晴れたどこかの山の道路わきでフライドチキンを食べたのが一番いい思い出だ。

 

その車に乗って、東京と山梨の間の薄暗い道を走っていたときだった。

 

突然両親が騒いだ、何か興味を惹くことがあるとこの二人は沸き立つのだ、目新しいモノや、珍しい現象が起こることを常に期待しているのだ。
「どうしたの」と問うと、二人は口々に答えた。

 

「川の方を見てごらん!」と母。
「沢山人が居るよ、変な宗教じゃないのか?儀式の最中じゃないのか?ちょっかい出してやろうよ」そう言う父は母に対していたずらっぽく笑っていた、母は宗教をやっているのだ、母は軽く父を小突いた、しかし二人とも楽しそうである。

 

一般道とはいえ山のすぐそばを私たちの車は走っていた、山は道のために削られ、岩肌が私の席の窓のすぐそばにむき出しに迫っていた、時折「落石注意」という看板が視界を通り過ぎた。


私とは反対側、妹の側の窓へと私は身を乗り出した、確かに川が、遠くに、民家の合間からチラリチラリと見える、しかしその水は煌めいたりはしない、すべてが影となっているような印象を受けた。

車は山のそばの道を逸れ、どこか古びた信号機の示す方へ、さらに細い道へと移動した。

 

両親の言う川が近づいてきた、川の向こう岸にはこんもりと茂った雑木林が流れに沿ってずっと続いている、岸辺は砂利になっていて、あまり水流はないらしい。

水面はどこか淀んでいるが、近づくにつれ川の広大さがわかった、岸から岸へ渡るには少し骨がおれそうだ。

 

そして私にも見えた、砂利の岸辺には数十人ほどの白装束姿の人々が静かにゆっくりと歩いていた、男も女も皆が皆、白い着物に身を包んで歩いていた。
表情は見えない、俯く様子なのか情熱的に祈りを捧げているのかそのどちらかといえば、俯いているような印象だった。

 

「このあたりじゃまだ土葬らしいよ」
その父の言葉に「もう土葬は禁止じゃん、でも野辺送りの再現かもねえ、こうして見てると面白いねえ」と母は答える。

 

ひっそりとした川辺を沢山の白装束の人々が、歩いている、彼らの後ろには木々が生い茂っておりひたすらに暗い、しかし相反するように砂利だけは光を宿しているかのようにほんのりと明るい…走行中の車から見えたのはこの景色である。

 

もう少し車を川沿いに寄せようという父の判断で、私たちはさらに川へと接近した、そしてもうここまでしか近寄れる道はない、というところまできて車を停め、降りてみた。

「あくまでそうっと見てみようよ」と私たちは何か共謀する人間たち特有の笑みを浮かべながら川岸へと歩いて行った。

 

川の匂いを嗅ぎながらその場まで辿り着いたとき…ぞっとした、全員が目を見合わせ、言葉を飲んだ。

川には、そもそも、砂利の部分など存在しなかった。
大きな用水路のように、両岸は遙か遠くからコンクリートで固められており、その人工的な凹みの中を緑色の水が大量に流れているだけだった、もちろん白装束の人々も見当たらなかった。

 

民家が立ち並んでいたが、田舎特有の静けさと、田舎特有の視線とを感じた、私たちは川の流れる音だけを背に、無言のまま車の中へ引き返した。


私はこの出来事に関してごくごく個人的な考察をした。
私たち生きた人間というものは電気を発生させている、一方霊というものはメモリのような存在で、血族間などで生じた強烈なエネルギーに反応して、その土地の記憶というものが立ち現れる、再生されてしまう作用があるのではないだろうか、つまり、霊というものは大方、その土地の記憶なのではないのだろうか?

 

もうあの車もこの世に存在しないと思うが、あの車に第三者が乗ることがあったとして、その人物の出す電気が大きければ、その人物は唐突にフライドチキンを食べたくなったり、漠然と東京と山梨を行ったり来たりしたくなるかもしれない、そういうものが霊のような気が、私はする。

 

だから何か行動をするときに、その場所に居るときに、楽しい事やひらめきの気持ちがあるかどうかを自分に問いかけることにしている。
それがきっと土地というものに、降り積もって光を発するようになると、私は思っている。