大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

芸を発表するということ【芸術】

平坦にされた一区切りの地域と、そこに立ち並ぶ電信柱、曇天、共産圏みたいな景色だなと無意識のうちに思う。
きっとこの区域には同じ家が建つのだ、灰色だか肌色だかの、同じ壁や屋根の家々が立ち並ぶ一帯となるのだ。

 

ネット上で詩の朗読を聴いた、集団で詩の世界を持ち上げてゆくために、作品に対する批判を行うとやたら大々的に銘打ってあるサイトだったのでどのようなものか耳をすませてみた。

 

「今僕が朗読した詩を聴いて…たとえば聴いている人の半数が女性だったとしたらそのうち何割くらいが股開いてくれますかね」

「…股、は開かないと思いますけど、下着は換えるかもね!」


幼い感じの若者の失言に対し、非常に場慣れした進行役の女性は本当に一瞬戸惑ったようだ、結果水商売じみたギャグにして返していた、すべて単なる笑いにもってゆき一言も諫めてやらなかったのだ、誰も。

その程度の場なのだと思って私はすぐに回線を切った。

 

私が言っているのは若者の失言に対する嫌悪感ではない。


私が強く感じたのは「誰も、芸を披露するということに対する姿勢を、教えてやらない」のだなということだ、誰も一言も若者を諫めないということに私は非常にがっかりした、この集団が何故朗読などというものに手を付けたのかそれこそ理解できない。

 

若者が見下したのは女性ではないのだ、芸を目にする聴衆、神域というものを貶めているよ、作品に対してすら不誠実だよ、ということなのだ。

 

若者が哀れだった、皆の中に居るのに誰からも無視されているということだけが、第三者から見たときにわかる事実なのだから。

 

人前で作品を披露する、ということは要するに「芸事」である。

ではその芸は誰に対して行われるのかというと…自分自身と他者に対してである、その瞬間に自分とは異なる第三の視点に気付くのだ、これは何の芸であっても、どんなに年齢が幼くても感じることの可能な、畏れ多い視点である、その視点こそが芸の神様なのだと私は思う。

 

だから特に、作品を公にする、ということは神前に居るのと同等の気持ちで挑むべきであると私は思っている。
そもそもあの視点を体感できないというのは相当精神的に幼い、それなのにそういった幼い人間を誰も諫めてやらないのは、最早作品が中心なのでは無く、場の空気が中心となってしまっている、強いて言うなら「あー…皆冷たいんだな、誰も若者を仲間だと認識していないのだな」と思った。

 

私がこれを指摘しても彼らには理解できないかもしれない、正直その位、作品が、というのではなく発表の姿勢そのもののレベルが低かった。

 

たとえば「女性に股を開いて欲しいと思っている」という気持ちを作品にして発表するのは失礼にはあたらない。
でも、作品を公開した上で今この場を形成する他者を貶める姿勢がよくないのだ。


下半身を丸出しにしたいという欲求について作品にし、発表することは誰も貶めていない。

しかし作品を発表した上で本当に下半身を丸出しにするのは、それを見ている人に対して失礼だし、作品自体の価値を落とすよ、ということなのだ。

 

年齢の問題ではないのだ、場慣れした人間が複数居る様子だったにも関わらず、彼らはこの点について目をつむる姿勢だった、それが場ごと落としていると私は言いたいのだ。


そして、批判するという一定の姿勢を掲げるのなら、公開するということに対しての一定のレベルを保つ、という姿勢も必要であると思う、誰もが逃げているようだった、誰も若者に対し、ほんの少しの老婆心も示さないということが私には残念だった。

 

私は迷った、このサイトの運営の連中とやらに言おうかとも思った、しかしそれすらきっと「単なる空気を読んだ返答」しかよこさないだろうし、それこそギャグにして集団の記憶から受け流すという行為に組み込まれるのだろうなと予想し、やめた。

 

私は、文章が詩的だと言われたので自分の指針として詩文学をぼんやりと頭に思い浮かべながら、単に見つけたサイトでの詩的イベントに難癖をつけているだけである、個人的な分野を蔑ろにされたようだと、至極勝手に舌打ちしているだけである。

 

だが実は、この舌打ち文章こそ、演劇をやっている長年の友人に読んでもらいたいのだ、人前で芸を披露するという世界に関わる人間にこそ、読んでもらいたいのだ、これは一聴衆としての素直な意見だからだ。

 

空気を読む奴ほど、その場の目的が空気を読むことになりがちである。
友人が失礼な発言をするとは思えない、だが友人は「演劇をわざわざ観に来た聴衆に対して失礼な振る舞いをしてしまった」人間に対し、優しく諫めることが果たして出来るのだろうか?

空気を読むことを優先させやしないだろうか?

集団がそのレベルの場合、友人までそれが癖になりやしないだろうか?ということを私は今気にしている、友人のこれから入る劇団は、はっきり言って大根だらけの匂いしかしないからだ。

 

聴衆への姿勢を理解していない奴が一人居るだけで、その集団のレベルが下がる、だが誰かが「一番重要なもの」、すなわち芸事に於ける神の視点に対し、真摯な姿勢を貫けるかで状況は如何様にでも変化する、集団のレベルを保つことが出来る。


汚い役を誰かがやらねばならないのだが、その場合「優しさ」や「笑い」が入っていれば空気を保つことも出来るはずなのだ、その役から逃げるのは、芸事に対して不誠実であり、その芸に対して愛が無いともとれる。

 

芸事芸事と小うるさいのでまるで私が伝統芸の世界を垣間見た経験があるかのような印象を受けるかも知れないが、特に習い事をしていたわけでも、あまつさえ芸事を習得していたわけでもない、でも、創作というものを行い、発表するということへの心構えをするうちに、自然と「畏れ」を知るものであると私は思っている。

 

「畏れ」が足りないので、朗読会というものも「おはなしかい」くらいのものになってしまう。
「畏れ」を中心に据えないと演劇とて、お遊戯会になってしまう。
「空気」だけを中心にしてしまうと、誰もが没個性的になってしまう、誰かが誰かである意味すら無くなってしまう、作品がその作品であるという色すら失う。

 

…電柱にカラスがとまっている、決められた区画だけが土のまま野ざらしになっている、ここには灰色の家が群生するのだ。

 

以前はどんな家が建つのかなと心のどこかで気になっていた、だがもう見なくて良い、だって出来るのは同じような家でしょ?
だったらわざわざどうして、見ようなどという気になろう?

 

次の家も次の家も似たものにする事への拘りの中に、灰色の家々の波の中に、その塗料の中に、失敗すら塗り固めてしまうのでしょ、何もかも、見て見ぬ振りをするのでしょ、だったらどうしてその家の建ち並ぶのを、私が見なきゃならないの、どうして私がそんな芸を、いちいち見ていなくちゃならないの。

 

どうかあなただけは、こんなものを見せないでよね、私をがっかりさせないでよね、俳優よ。