a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

性的トラウマを語る難しさ【性】

性的トラウマについての話を、例えば「近親相姦」「強姦」「幼児期の性的暴行」と言葉にしてゆくと不思議な現象が起こる。

 

「近親相姦」モノ、「レイプ」モノ、「ロリコン」趣味…というようにそれは性に於ける娯楽へと転じるのだ。


だってそれは演技だから…それは幻想だから…空想上の作品だから…というのは娯楽を享受する側の理屈である。

本当にはやらないよ!という姿勢を見ていると非常に矛盾した気持ちになるのだ、あれ?性って他者が居て成り立つものではなかったか?
俺はやらないから!という理屈の裏には「俺はやれるけどやらないから」「俺は悪人にもなれるけどならないって決めている善人だから」とかいう類いの含みを感じるのだ、自分は強いが女は弱いという含みを私は感じる。

 

これは何も男が悪いわけではなく、性という認識自体が「一方的なものほど娯楽になる」ので、商業基準が先行するこの国では「背徳」ほど儲かるものはないということで、性=背徳、こうした独特の性認識に発展してしまった背景が見えてくる。

 

また幼児期であれ、女であれ、性欲は発芽するものである。

それと価値とが結びついたときに「性は悪いモノだから」「悪い自分をも見てみたい」と自発的に思い至るのもごくごく人間として自然な状態であると私は思う、少女期の売春やら、児童が自撮りした性的な写真やら、こういったものが出現するのは人間心理として当たり前としか言いようがない。
この手の事で騒ぐ人間こそが、私には不自然に見えるのだ、あなた方はそんなに善人で居たいのか、生まれてから生涯をかけて善人を演じたいのかと私は問いかけたくなる。

 

女はいつでも受け身で選ばれるのを待っている生き物なのか?
いつでも被害者なのか?
性に於ける万能感を得たいと思って売春に走るのはある意味自然の欲求なのではないのだろうか?
子供には本当に性欲はないのか?
自分の内部を発露させ、把握したいという善悪を超えた欲求は、誰しも持つものではないのか?

 

もちろん、私が書いているのは善悪を度外視した上で語る、性についての話である、ただ…児童売春などの現象をひたすらに「悪」だとする認識を変えた方がよいと私は思う。
あの子があんなことを…というのは、単に、あの子には自分の思う幻想上の人間、もしくは性欲の無いような不自然な人間であってほしかったという希望の押しつけである。

 

だからこそ私は被害者で居続ける事は避けたいと思ったのだ、被害を受けた事は事実だし、そのことについて話す時は確かに私の役割は被害者であるが、それを表明するときには第三者の、善悪という判断基準から外れた場所からの視点で、物事を書きたいと思っている。

 

被害者という言葉の中には、それが事実であるにもかかわらず「性に於いては女はこうであってほしい」というような押しつけも含まれるからである、そして男の万能感を意図せず助長させてしまうからである。

 

果たして心優しいヤリマンは悪なのか?

一点集中型のドスケベ女は、悪なのだろうか?

そういう女たちが性被害に遭っても誰も同情しないのだろうか?

性被害というものは、【望まないということだけが被害基準であり】処女であるとかそういうことが基準ではないと私は言いたい。

 

例えば、私の書いた性的トラウマ文章も、読みようによっては「興奮した」という感想を抱く人間も居るだろうと私は考えている。
実際性的被害の本を検索すると、「レイプされました」という言葉すらなんだか誘っている風に読めたりもする、そして次に表示される本は「実録!エロいレイプ話!!女はレイプされてやはり感じている!!」のようなタイトルだったりする。

被害者と加害者というのは表裏一体なのだということを私はこの種のトラウマ話しをするときに強く意識する。

 

私自身が肌を重ねた男にこの種の話をする気がなかったのもこういう事だ、一方的な行為というものは…あまりにも商業と結びついてしまっているのだ、私が泣きながらその時旬な相手に、あるいは凄く好きな相手にこの話をしても、その男がレイプものでヌかないなどという事はないのだ、そう考えるとトラウマというものを人に打ち明けて共感してもらうということは難しかった、結局私は一人を除いて誰にも打ち明けなかった。

 

男ってそういう生き物だから…というのは、半分しか本当ではない、商業というものの性質上、実際にはおかしいと思う矛盾した思い、不可思議な状態ほど人には面白いモノとなってしまう、それがここまで浸透してしまったから、男の言い訳としてこのフレーズが出回っているに過ぎない気がする。

 

ここには男がいつでも強くありたいという切望や思考停止が含まれる。

いつでも女を犯せるという事こそが、残酷さこそが男なのだという幻想である、この幻想ほど金銭が動く思想は無いかも知れない。
そしてもしこの思想が薄ければ…性的不能者も普通にそれを誰かに相談したり、自分を責めること無く生きてゆくことが可能なのだ。

 

女の性の発露というものは、好きな彼氏とエッチなことをしはじめてから…女は彼氏としかセックスしたくない…という事自体が幻想である、この幻想のために彼氏から、好きに扱える人形のような状態に陥ったりする、これは互いの関係上良くないのでこの種の誤った性認識を解く事が最優先である。

 

一つ大きな難点を挙げるならば、女自身がこの思想を信じ込んでしまっているということ、だからこそ性的トラウマの話すら、同性にもすることが出来ないのである、自分の性に正直になればなるほど、同性に汚く思われてしまうという悲しい現象に直面するのである。


女が性的、心理的な万能感を得たい、あるいは真逆の感情を得たいがために売春しまくることくらいは、人間として、普通に起こりうるのである。
それを「性的トラウマが女を狂わせた」だの、「そういう女は病気なのだ」といった、人間以下の認識をしてしまう事こそ、私は病的であると考えている。

 

今まさにセックスしている、という時に感じる熱さは、互いが互いの助けになっていると感じる時ほど強いものである。
今まさに暴行を受けている、という時に感じる果てしない憎しみは、一方的であればあるほど強い怨念となり両者を、その土地をも飲み込んでゆく。
今まさに一方的な性行為を、相手に対して行っているときに感じる万能感は、それが強ければ強いほど、第三者の冷静な視線の前では自らが哀れなほど貧弱になる作用をもたらす。

 

性はこれらが混然一体となって地中から湧き出てくる、絶え間なく湧き起こる力の粒である、視点の粒である、数多の問いかけの粒である。

 

そのたった一粒が自分自身なのだ、私は内部に、これら数多の視点を携えている、書くときにはそれを活用したいと考えている。