大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

【このブログについて】

私は元々日記を書かざるを得ないタイプの人間である、毎日というわけではないが内面的なひらめきが降りたときには書くしかない、という意識に飲まれる。
苦しい場合も、嬉しい場合も、美醜に強く反応した場合もである。

 

去年、私は生まれて初めて誰かに宛てて文章を書いた、内容はさておき私は誰かに読ませる文章というものに興味が湧いた。
誰かに表明する、開示するのに一番手軽なのはブログだと思うし、第三者に認めてもらわない限りは創作の表明の場というのはブログかKindleだと思う。

 

ブログというものの性質は、読み手と書き手との対等さかもしれない、ブログに書くのに適した文章というものがあるとすれば、他者からの意見や反応に比較的敏感であることを匂わせるものや、本人の心の性質として、自分というものが揺れている場合や、ブログを書きはじめた時とブログがある程度の期間続いた時との間に、書き手の心情に差が出た場合ほど…ブログ文章としては意味があるのかもしれないと私は思う。
ブログというものは、そこに書く文章が読み手への手紙のような性質を帯びるほどに、ブログ文章として完成度が高いと思う。

 

私は、ここは一種の土俵だと思っていて、内面的ひらめきを書き殴るのとは別に、どこまで自分の内面に対して正直になれるか、ということを試す場所として活用している。
私自身の書く文章は自己完結型である、自分で考えて自分で感じたことを正直に書いている、強いて言えば何かのひらめきを読み手にも感じてもらえたら嬉しい、という事くらいだ。


つまりここに載せる文章は、全くブログ文章としては適していないどころか、多分ブログでこの手の文章を挙げても場違いもいいところだと思う…しかし、一番手っ取り早いのでここをひとつの創作の場として活用してゆく(しかない)。

 

ひらめき、というものの中にはグロテスクなものも含まれる、小学生の時期に度々外部の大人から性的暴行を受けた事や、父との強い確執などである、しかし同時に自分の素直な性的欲求や、男の好みや、子供を産むと言うことや、それとは全く別種の…私にとって人生の多分半分くらいの重要度を占める花鳥風月について、仕事について、虚しさについて、祈りについて、矛盾について…ともかく生きてゆく上で誰もが感じる側面について、ひらめきが降りたらその日はそのことを書くようにしている。

 

人間は筒状の生き物だと私は思っている、その筒の中には食べ物や排泄物、そしてインスピレーションが詰まっていたり発露されたりしている。
滞りなく筒の中を、食物やひらめきの七色の球体たちが連綿と降りては外部へと出されるこの運動こそが、生きると言うことであると私は思う。
だから筒を常に満たして、かつ余計なものが詰まって苦しくならないように常に外へ出してやらねばならない、ひらめきとて出してやらねばならない。
この性質から生き物は逃れることが出来ない、筒が空虚になっても辛いし、筒が破裂しそうなほどに詰まっていてもいけないのだ、感情も、数学的思考すらも、発露せねば健康ではないのだと私は思う、人間というものは外部への干渉と、内面の自治区を常に司ることが人生なのだ、誰もが主としての使命を帯びている。

 

つまり、私が日記を書くのも健康の為だったのだ、自分では気付かなかったがこうして表明してみてはじめて自分の行動の理由が見えてくるのだ。

 

以前、何故このような文体なのかとか、何故女性なのに堅苦しい口調の文章なのかと聞かれたことがあるが、わからない、というのが答えだ。
これが素の状態で、素の状態でさらに正直にものを書こうとするとこうなるのだ、これを特に止めようという気は無い、これは高校の頃からの癖である。
女性というものはこういうものだという理想や、女性は他者に対して可愛く阿る存在であるという類いの幻想が強い人の場合は読んでいて不快かもしれないし、私という女が他者への恐怖心からこうして堅苦しい口調になっていると深読みする人も居るかも知れないが…まあ、こういう奴も居るという体で気楽に読んでくれれば私はありがたい、ちなみに私も外面は普通の女である、もちろん話し方も、阿り方も。

 

私は現在ホテルの掃除婦として働いている、M氏という男とのどかな場所で墓守のようにひっそりと暮らしている…彼を夫とは呼びがたい、性的な関係は知り合った当初から無いのだ、彼は私にとっての理想の父であり、M氏にとっても私は保護すべき女なのだと思う。
度々文章に出てくる長年の友人とは、中学時代からの知り合いである、彼は私の古き良き男友達という存在だが、情というものを数値化して人間関係を計るならばおそらく彼との縁は並々ならぬものだろう。
そして恋人がいる、強いて言えば恋人というポジションを私は用意しており、そこにその時互いに旬な相手が一人きり、収まるという仕組みになっている。
私はスケベだし下ネタも好きだが、恋人…つまり自分で選んだ男以外に性的な軽口を叩かれることに対しての沸点は結構低い、特に文章上、痴女的な部分が強く出る事もあると思うが、私は誰に対しても身体を開く心優しい女ではないので悪しからず。

 

こうやって自分の事を正直に書き連ねると、確かにある面から見たら私は疑似天然系のクズもいいところだ、これについては弁明しようが無い。

 

ただ、仮に私が何かしらまっとうな(というのは何だろうか、例えば追加税を納める位の年収とかの)仕事に就いており、男として好きでかつ尊敬している人の子供を成しており、立派な母親でもあり社会人でもある、という自負の元生きている人間だったとしたら。
…それは全く悪いことでは無い、むしろ善人であるにもかかわらず、ある面から見たら多分そういう私は残酷な人間として存在すると思う。

 

誰かがどの面から見ても美しい訳がないのだ、自分の逆恨みしやすい部分や男好きな部分、なんとかひらめきを昇華したいともがいている部分、その種の物事をなるべく正直に書こうという私の努力(?)も、誰かの目には怨念や汚れとしか映らないだろう。

 

とりあえずひらめきを土俵に上げる、その行為をただひたすら繰り返している、それがこのブログである。

 

ぼんやりとだが、詩の何かに応募しようかなと考えているが、第三者に冷静に見られる事自体を避けてしまう、アホである、私とてやはり誰かにひらめきを与えたいのだ、実に一方的にだが…七色の飴玉か何かをばらまきながら生きていたいのである、なので友人の演劇活動を応援することで自らを鼓舞させているところである。

 

このブログ名、HNは大熊あれいという名前だが、大熊という名前はこの長年の友人と会っていたとき、創作活動の名を考えていると話した直後に「大熊はどうだろうか」とイタコのように告げられたのでありがたく使わせてもらうことにした、もうほとんどこの男の友人は私にとって、村のオババ様のような存在である、私にとっての神降ろしの祝女(ノロ)である。


あれいという名前は、本名もひらがなで「あ」から始まること、しかし禍福を含みすぎる性質のある本名は避けたかったという理由から、なんとなく自分で名付けたものである。

 

私はブログタイトルと書き手両方の名を覚えるという所まで、頭が働かない、実はこういう人は沢山居る。

以前図書館員をしていた時に一番、人を悩ませた現象は「本のタイトル」と「作家名」が混ざってしまい、とうとうどんな検索をしても読みたい文章に辿り着けないという事だった、これには利用者本人を含め誰もが参っていた、これでは作家も浮かばれまい。
本の虫と呼ばれる人種ですらこうなのだ、ブログタイトルというものがこだわっていればいるほど、忘れてしまったりするのだ、この現象を避けたいがためにブログタイトルと書き手の名を一緒にしてみた。

 

そもそもブログ文章にはふさわしくない文章ブログである、そもそも何なのか、自分が誰なのかとんと不明である、毎回自分でも思う、大熊あれいって誰だよ、お前は何者なの、と半ばつっこみながら書いている、そういうブログを私は書いている、自分の内面に正直になればなるほどに、自分が何なのか文章は誰に対して宛てたものなのか、何故生きているのか、問いかけだけが積み重なってゆくのである。