大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

落ち葉のように散らばりたい(自分と友人との関係)

落ち葉が地面の上を覆い尽くしている、黄色や赤に変化した道を歩くとき、私の足は歓んでいる、燃えかすのような匂いが風景そのものを包んでいる。

 

人生の目的とは何かという話を長年の友人としていたら、彼は言った「俺が子供と接する仕事をしているのはさ、その子達の中に俺の存在が若干、本当に微量に染みこんでいたらいいなみたいな事なんだ」その時私にもわかった、私もまた未来へと行きたいのだということに私は気付いた。

 

思った以上に日差しの強い秋の日、私たちは高速道路の明かりが遠くに見える公園の小高い丘の上に居た。

こうしてペットボトル片手にベンチに座って、平気な顔で接近してくるカラスを見ながら話をするのがちょうど良い、広場はあったかい光に照らされて金色に波打っている、対して木々の茂る斜面は深緑色、空気に動きが無い、小さな羽虫や蜘蛛が私めがけて飛んでくる。
ここは空が広い、北側は何も遮る物が無いので、この丘は最果ての地のようだ、ここから南側に私の育った団地も、彼の住む家もあるのだ、「ここから先は学区外」という言葉が独特の煌めきをもって浮かんでくる。

 

彼に言いたいのだ、私はお前が…演劇をこのままずっとせずとも、別にかまわないのだと。
彼本人の苦しみや歓びは彼本人にしかわからない、私はそれに関与できない、他者だからである。
でもこうして話すこと自体が私には楽しいのだ、お前がいなかったらとても辛かったろう、演劇で大成しようがしまいが、根本的に私には心底無関係なのだということなのだ。
お前が単にこうして生きていることだけが私に理解出来る事なのだから、私が望むのは単にお前と話して、強いて言えば演劇が見たいということだけなのだ、それすら既に目にしているのだ、私はもうお前の美を知っているのだ、だからこれ以上何かやろうがやるまいが…私が何か言うようなことは何もないのだよ。

 

私はたまに、この友人に「子供を産め」と言われる、忠告されると言った方が正しいか…子供を産まないのは勿体ないとか、今は安定した生活なのだからとか、まるで私の人生を体感したかのように言ってくるのが非常に勘に障る、殴りたいと思う。
私はこのままでは私自身にすらなれないのかい、こうして私が生きているのが不満かい、このまま枯れ行くのだって悪くないじゃないか、産もうが産むまいが私は私でしか無いのだから…私は一枚の葉なのだから…なぜ私が普通に過ごして普通にお前と語るその時に、今のこの私自身を…哀れな人のように言うのかい、私を貶めるのかい、こうして話が出来ているというそのことこそ、私には歓びなのに。

 

私はこの友人に対し、もっと社会的にまっとうな仕事をしなければ駄目だよとか、演劇が好きならどんどん演劇をやらなきゃとか、こうしてぼうっと時間の流れに身を任せるのは人生を無駄にしているだとか、そのようないかにもな正論を言う気は昔から無い。


単に話したいだけなのである、多分…だからこそ私たちは長年話をすることが出来ているのだと思う、だって彼は私ではないのだ、彼は他人なのだから何が幸福か、何が彼にとっての真理などかは、私には体感できないのだ、だから私たちは原則話すことや聴くことしか出来ないのだと私は思う。

 

彼は二重まぶたを手で拭った、寒くなると目が潤むらしいのだ、肌は赤みがかって所々に小さな吹き出物がある、意志の強そうな太い眉毛と大きな黒い瞳は遠くを見ている、小柄なせいかどこまで歩いてもそんなに疲れている様子は無い、会うときも食事は軽めだ、胃が疲れやすいらしい。

この友人を、なぜ恋人にしないのかと周りの人は思うだろう、しかし私たちを見ていて気付くと思う、私たち二人が外見や体質からして似ていることに、そして感じ方も似ているということにきっと気付くだろう。

彼を見て思うのは同郷の人間であるということだ、同族であるということだ、もう兄弟と言っても過言では無い、気持ちの上では。


実際には彼はもっと南の方から移住してきたので、血のつながりは薄いだろう、もちろんもっともっと似ている人間は居るだろうが…ともかく彼は男という感じがあまりしないのだ、彼は男なので(そして男という生き物は女と同じくらい単純なので)このような事を言うと男であることを否定されたように感じるかもしれないが…彼にも恋人の居るときもあったのだ、眉の薄いつるりとした肌の恋人がいたのだ、彼女にとっては彼は男だったのだと私は思う。

 

「俺気付いたんだよ、お前の中には既に俺の遺伝子が入っているように感じる、兄弟とか同族ってことね、だからさ…だからお前には子供を産んで、増やして欲しかったのかも知れない、同族をね」
なんて無責任なと思った、そこまで正直に話す友人に呆れながらも、妙に納得した、友人の「子供を産め」という言葉のどこかに、まるで人に身代わりを頼み込むような独特の響きを感じるのはこのせいかと思い当たった。

 

以前、ただ一度会ったとのある人に私は言われた「僕は影響力のある人にこそ、僕らの苦しみを表現して欲しいって思っているし、君は個人的な怒りを発露させているに過ぎないよ、怨念みたいなものを感じるし怖いと思う…僕も何か書きたいけれど時間がないからね、僕は仕事で忙しいから」、この言葉を聞いて私はその人物を嫌悪した。


こうやって誰かに甘えようとする奴ほど残酷であると、そして口を閉じるように言われてしまうともう、話すこと自体が叶わないのである、思うことや私を黙らせたいという気持ちがあるのなら自分で表明するしかないよと私は思った、黙りながら。

 

その残酷さが友人にもあったということだ、でも…友人とはこうしてやり合いが出来るからいいのだ。


極論、私の口を噤ませようとする人も、私が自分で体感した事を正直に話したい衝動を止めることは出来ないのである、だから友人がしつこく「子供子供」と言うことも、私を含め誰も止められないのである、それが言葉というものなのだ、こうして書き連ねることも誰も止められないように、私が悲しむといくら言っても他者の口を噤ませるのは無理なことである。

 

それでよいのだ、心底それで良い、だって友人は私の話を聴くのだからその都度喧嘩すればよいのだ、それが友人というものだと私は思う。

 

だから私はもっと友人の思っていることを聴きたい、私は性質上特に反論はしないと思うが、それでもニヤニヤしたり舌打ちしたりはするかもしれない、でも互いに聴かせ合おうではないか、なんだかこうして度々精神的に殴り合いをして仲直りをすると、ものが言いやすくなって楽になる。

 

葉は葉脈を残して赤く燃えるように染まっている、私も一枚の葉なのだよ、友人だってそうだ、誰もが一枚の葉なのだ、木の幹から萌え出でて枝の先で青く輝き、散るときが来るのだ。

 

何か書き連ねることで、それを開示することで他者の中に偏在するような性質の人間も居れば、演劇でそれを行う者も居る、子に受け継がせるように過ごすことで未来へと何かを捧げる人も居る。

 

確かに私も未来へと散らばりたいよ、緩やかな冷たい風が落ち葉を舞い上げている、葉の一枚一枚は火を灯したような匂いがする、その火は地面へと敷かれてゆき、やがて地面そのもの、土そのものとなる、だから土は暖かいのだよ、どうかそれまで楽しく過ごそうと私は尚、友人に語りかけるのである。