大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

海水、感動について【芸術】

 

夜、校舎はまだ明かりが灯っている、定時制高校の文化祭、私はワックスのかかった床に座っている、湿った木の匂いが…幾重にも積もった埃と人の匂いと混ざり合っている、ここには初めて来た。
他の部屋の電気が、こちらにも少しの光を授けてくれる、今この室内はほとんど真っ暗だ、机と椅子は別室に運んでいてがらんとしている。
音楽が鳴っている、今時カセット式の音源が、青色の帯を私に見せつけてくる。

 

あ、と思った、そこには友人が立っていた、中学の頃から彼のことは知っている。

 

いつも誰かとつるんでいて騒がしい彼が、教室の中央に、役が降りてきた状態で立っている、最早彼は彼ではなかった、彼の言葉もいつものように青緑色だったが、やはり彼ではなかった、彼は自分の部屋も老いた父も畳の匂いも捨ててただ立っていた、口を動かしていたが彼の目は虚空を見ていた。
彼の見る景色をいつの間にか観客は観ていた、こうして観させられたものに誰もが飲まれてゆき、教室全体が広大な海になるのを私は感じた。
自分の着ていたキャミソールに汗が流れた、もうすぐ終わってしまう、海岸線のさらに遠くから徐々に世界は狭くなってゆく、だんだん潮が引いてゆく、皆が皆演目の終わりに気づきはじめていた。

 

長年の友人…彼の通う定時制高校での文化祭で、彼の演劇を知った、彼自身のことは中学から知っていたが…それが彼自身を知ったなどとは到底言えないことを、その演劇を観て私は思い知らされたのだった。

 

この人は透明なんだ、この人は演劇をやるときには、「場」にすべてを譲ってしまうのだ、自我すらもあっさりと捨て去ってしまうのだ。

これほど透明度の高いものを私はその時まで観たことがなかった、中学の合唱コンクール時に彼がアカペラで歌っていた時にも特に透明性は感じなかった、私は人の透明度というものは若さでもなければ未熟さでも、処女性でもないと思っている。

 

透明度とは何か、それは忘我の境地である。

 

だとすると透明度というものは、逆説的だが意図した状態で陥る、体現し得るものなのかもしれない。
あるいは…私は友人を観ていて思うのだが、彼は男でありながら演劇中はどこか巫女的であった、イタコ、南方のノロ(祝女)と呼ばれる老婆たちにも通じるものが彼にはある、それが私の感じる透明性だった、エゴとは真逆の何か、得体の知れない何か、天から振るひらめきに飲まれた状態。

私は今でもこの友人には演劇を観たいと伝えている、それが私を感動させた部分だからだ、それが彼の神域だからだ、そして彼もまた私の神域である絵や文章を好んでいる、その他のどんな部分が、互いを苛つかせようとも私たちは互いの神域に詣でている、そのような間柄だ。

 

度々書いている先生についてもそうだ、先生の文章に惹かれた、先生の文章は音楽だった、優しい音楽、そして先生も文章を書き続けるように私に勧めてくれた人だ、私はこうして互いが互いに感動したときというものにとても強い精神的快楽を感じる、その強烈さたるや、その他の人間関係がすべて、外国人との片言のやりとりに感じるほど…本質的な部分で…対話していると思うのだ。

これは生物的には不要な快楽でもある、現実的に生産性があるかというと無い、そういう類いの現象である。

 

感動というものは感動しようとしてするものではない、一目見ただけで、唐突にその渦に飲まれるのが感動であると私は思う。
だとすると私は、芸術というものの範囲は予想以上に広いと思う、芸術というものが人を感動させる要素を多く含んだ創作活動であるのなら、事実を書き連ねたに過ぎない文章にも感動は宿るのだ。

 

例えば、私は会ったことも無い電車男氏にも感動している、彼は電車内での痴漢行為を見過ごせず、義心に忠実に動いてそういった行為をやめさせたりしていた、ただそれを簡潔に書いていた、その文章にこそ私は感動したのだ。(これを読んでいるかどうかもわかりませんがもし不快でしたらすみません)
もう彼については、私の頭の中では…実在する諸聖人のうちの一人、という状態だ…仮にも彼が、現実では痴漢行為を止めた彼が、痴漢モノに性的欲求をもっている男だったとしても(スミマセン)何の問題も無いのだ、私が感動したのは彼の行為とその文章なのだから。

 

人生には予期せず、感動する場面が訪れる、私は自分を感動させた相手を美しいと思う、私には美しいと思う人が居る、それが私を強く励ましている。

 

私は人間というものは、筒型の生き物だと思っている。

その筒には様々なものが降りてくる、インスピレーション、光、または物理的な食物、なので排泄行為そのものが生きていると言うことなのである、芸術とよばれる事象もまた排泄に近い、本人が振ってくるものに忠実であればあるほど、筒の通りは良くなり、美しくなる。

 

長年の友人が、演劇を来年から少しずつ再開させると聞いてとても嬉しいのだ、私は美しいものへの欲求が強い、彼の演技は人を飲み込む渦である、気付くとそこは海になっている、あの浜辺に、あの海水に、思うさま浸らせて欲しい、と私はあの演劇を観てから10年以上経った今でも思っている、まだあのときの海水で服が濡れているのだよ、友人よ。