大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

老齢と肉体【恋】

現在肉体を重ねている相手、相手と互いに「あなたが自分にとってのただ一人の異性」であるという体で付き合っている、彼は元々スポーツをやっていたらしい。
引き締まった肉体、すらりとした体躯、黒々とした長髪、それに似合う服や眼鏡といった装飾品を身に纏った彼は、自分の肉体中心の美を実行しているという点でも、心身共に一見何不自由ないように感じる。


裏を返せばどこか常によそよそしく、自分さえ美しければ周囲の醜さは無視してしまえるような独特の冷たさをも纏っているように私には見えた。
その印象が強かったため、そして私も自分自身の醜さを消化しきれていない(消化しきってしまう=死かもしれないが…)部分が精神面で強かったため、彼とは仲良くなろうという意志そのものが芽生えずに居た、彼と知り合ったのは去年の初夏頃だったが、当時は彼と実際に親しくもならなかったし、美しい男だということ以外これといって何一つ彼についてひらめくことも無く、私たちは離れた。

 

ちなみに私はこうして時たま、男について書くことがあるが何もその相手と密なやりとりがあったから嬉しくて書く、というわけではない。
実際には1度会っただけでも、実際には大して親しくなれなくとも、自分の内部でひらめくことがあれば自分の直感に従って書いている、直感が基準であるので、相手と縁遠くなった後でも普通に昨日会ったかのように書いてしまうことがある、数年前のことが現在、今の自分にとって唐突に意味を成したように感じた場合急いで(といっても日課として、ブログまたは日記帳に)書くという行為をしている。

 

話を戻そう、その彼と何故だか今年の秋から再開し、私は何故だか親しみを覚えた、互いに男女として人間関係を築こうということになった。

「実は去年の冬、ストレスで全部の指の皮が剥けちゃってさ…2~3ヶ月の間治らなくてね、医者にも行ったけど過労だって言われてさ、でもどうしようもないでしょ…だからずっと絆創膏を貼ってたんだよ、全部の指に」

私は彼をいじめたい気持ちに駆られて思わず「オチンチンは?」と聞いた、意外にも彼は笑っていた「はじめからむけてます!…っていうのは冗談で、幸いにも大丈夫だったよ、本当に大変だったんだよ去年は…あんな風に身体が駄目になることって俺、初めてだったから」彼はそう言って少し俯いた。

 

私は子供時代から火花を散らすような痒みをもたらすアトピーと、高炉のような熱地獄をもたらす鼻炎症、そして若さを一変して醜さに変貌させるニキビ(顔面で平らな部分が無い、というほどに悪化した)を体感しながら生きてきた、肉体が本人の意志ではどうにもならないということへの癇癪じみた苦しみを、嫌というほど体験してきた気持ちが個人的には結構強い。
そのため、同年代の「肉体のどうにもならない弱さ、もろさ」をまだ知らない人々が、若い頃には羨ましくも非常に妬ましかった、心底妬ましかった。

 

だが、夜更かしを出来なくなってから…夜は寝た方が身体が動くという実感を経てから、つまり「自分が中年期に入った」と自分自身の身体との対話に於いて知らされた時期から、何故だか自分の身体のままならなさを許せるようになってきた。

 

中年期というものは明確には線引きは無いが、強いていうなら「徹夜しても普通に働けるかどうか」である気がする。
若い時期から徹夜なんてできなかったという層も居るだろう、多分そのような人たちは元々自分の肉体の脆さを知っているのだと私は思う。
だが、その自覚すら無いのが若い時期というものではないかと私は感じていて、多分、彼も去年の冬に入るまでは自分自身の肉体の脆さに対して無自覚だったのだと思う、私と初めて対面したとき、私はすでに中年で、彼は青年だったのだろう、だから気が合わなかったのかも知れない。

 

彼は私よりも3つ年上の男で、現在30代半ばを過ぎたあたりだ、そして私も自分の肉体が柔らかくなりはじめているのを実感している。
彼を抱きしめるとどこか塩の香りがした、茹でられた野菜みたいだと思った、きっと10年前はもっと青々しく、こちらの肌が傷むような硬質な皮膚をしていただろうと私は思った。
スポーツをやっている若者特有の冷淡さで、自分が誰を抱いているか、何が今自分の手に触れているかはほとんど無視したような…自分が何を行っているのかにのみ神経を研ぎ澄ませているかのような独特の強さが、きっと去年の彼にはまだ色濃かったのだろう、少なくとも意識の上では…私にはその点が、魅力どころか欠点にしか感じられなかったのだ、少なくとも去年の私には。

 

今年再開した彼はしょっぱく、柔らかかった、細身とはいえ肉体そのものが軟化してきている、背中に骨が浮き出ている、相も変わらず美しい男だが、彼が自分の老いというものをどうやら自覚したらしいというのがこちらにも伝わってきたのだ。

そしてそのこと自体が、私を惹き付けている、生物の理論に相反するようだが彼を労り、彼の老いを直視しつつ肌を重ねると言うことそのものが、自分の老いを静かに許すような…自分の、老いてゆく肉体の中にもセックスへの情熱が止まないということ…そういった一種の卑しさそのものを許す行為のように私には感じるのだ。

 

私がもう少し老いたとき、若い男が現れるかも知れないと漠然と思う、なぜなら私は男の肉体美に目が無いからである、ただ私は自分を労る気持ちの中に老いへの許しが生じると思っている、それを実行したいと思っている、なぜなら私は自分の事が一番好きで、嫌いで、とにかく自分のために生きたいからである、それが何故か他者の為になるという直感がある。

いつだったか私の敬愛する近所の医師である、先生が言っていた。

 

「セックスっていうのは労り合う行為だよ」

 

先生はポリネシアンセックスを…そのときセックス相手の居ない私に語って聞かせ、勧めてきたわけで、私はそのデリカシーの無さに呆れたものだが(敬愛するという点と、呆れるという点は、一人の人間に対し同時に存在可能な感情である)…セックスの目的は射精ではなく、妊娠では無く、互いに労り合い、肉体の劣情を許し合うという行為なのだということを言いたかったのだと、私はたった今思い当たったのだ、その相手は夫婦ならば尚良い、そういうことを先生は言いたかったのだと私は、結婚相手以外の男と寝ていて気付いたのだ。

 

相手の肉体に対し、肉体的には反応がなくとも気持ちの上でだけでも欲情することが出来れば(これが出来ない場合男女ともにその相手と無理に寝るべきではないと私は思う)、自分の老いと性欲のアンバランスさすら、さらけ出せる相手が居たとしたら…。
相手の老いと性欲を、醜さをも許すことができたら、それが幸せだと感じられたらのなら、きっとこれが年を重ねるということの美しさなのだろうと私は思う。

 

なので年を重ねれば重ねるほど、同年代と肌を合わせることは原則、難しくなる…自分の老いは客観視したときに表面上、悲しみをもたらすからである…だからこそ年を重ねたときに同年代のセックス相手が居たとしたら、それは双方にとって本当に「自分を許す」という意味で、良いことなのではないかと思う。
相手の肉体の柔らかさを感じるとき、私は自分の脆さを知るのである、自分の下腹部が最早凹んでいるかのような所在の無さを感じるのである、そしてそれをも、許すのである。

 

だとしたら、老いるということの美点はただひたすら、純粋に許し続けるということにあると言えるのではないだろうか?

だとしたら、純粋に許す気持ちを体感した先には、自己と他者を許しきるという到達点が存在するのではないだろうか?

人が老いるということに、意味を見いだすとしたら、許しということになるのではないだろうか?


私は年齢に逆らうことを否定しているのではない、現に私も髪の毛やら筋肉やらなにやらの努力はしている、重力に逆らうことそのものへの快楽を知っている、ただ、老いを恐れてはならないと…今回記した男と和解したときに深く感じたのだ。


なぜなら…彼が老いたという点に、私は親しみを感じたのである、彼が老いたという点に、私はきっと恋をしたのである、だとすれば老いは魅力になり得るのだということを、私は誰にともなく強く言いたいのである。