a.o独白ブログ

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カウンセリングの意味【精神医療】

自分の内面を誰かに打ち明ける、特に医療によるカウンセリングを30代に入るまで私は避けていた、なぜかというと自分の主観そのものを否定されるのではないかという恐れがあるからだ。

この点については現在も、精神医療系の病院で行われるカウンセリングを含めた治療が、患者の主観を弱い状態にしている、個人の精神状態を健全で強くすることとは逆の働きをしてしまっているという感覚がある。

 

例えば私は音を聞いていると、特に音楽の場合音の色を強く感じる(見る)が、これ一つとっても私には重要な事なのだが他者から見ると病気じみているかもしれないということ、そしてそれを「あなたはそもそも病気である」と断定されてしまう事への息苦しさが強かった。
音の色ならまだしも、何かに対する苦しさや、身体に閉じ込められているような閉塞感、そういった事も私の感じる苦しさなのである…それは私にとっては事実だが、それを打ち明ける相手には私個人の特性ではなく「単なる病気」になってしまうかもしれないということだ。

 

なぜ、単なる病気として認識されるのを私が嫌がるのかというと、それでは最早苦しみが、苦しみですら無いということなのだ、単なる病気になるのである。
突き詰めるとその瞬間私は人間ではなく、病気の個体として認識されるのだ、それは果たして苦しみを打ち明ける意味があるのだろうか、個人の苦しみであると誰かに認識されてはじめて、自分の苦しみを打ち明けたと言えるのではないだろうかということだ、だから自己開示の果てに何があるのかという意味でも、カウンセリングというものには疑問しか浮かばなかった。

 

そもそも、私は父から「お前は知能が足りない」ときには「キチガイ」と罵倒されてきた、このことも含め、何か自分を開示した先に待っているのが個人性ではなく、それとは真逆の、ただ蔑まれるだけの対象に成り下がる、という現象が起こるのを体感してきた。

自分のことを打ち明けると、自分のことを正直に開示すればするほど、時として相手に、人間扱いしてもらえなくなる、そういった恐怖が私には強かった、元来の人見知りに加えて家庭でも父親との間にはこの関係が生じていたため、私は長年の友人を含め、家庭で起きていた苦しみや、金銭苦や性的なわだかまりも、特に誰にも話さなかった、それは周囲への逆恨みであるということや、そういった逆恨み感情を抱いている事そのものへの恥ずかしさが私をより一層寡黙にさせていた。

 

社会的に自分がどのように認知されるのかを極度に気にしている、それが本人の軸となっている人を否定はしない、少なくともそのような人々はエゴが少なく親しみやすい人間性を持っていると私は思う。
ただ、「あなたは病気です」と偉い医者が言った、だから自分の精神は病気であるという認識は…原理的に言うとそれは、「お前は悪魔だ」とグルに言われたから「自分は悪魔である、悪魔憑きである」と、自分のことをも、自分の主観をも他者から言われたとおり認識してしまうということに過ぎない、そこに本人の意思というものがまるで介在しないからだ、私にはこの種の医師と患者との関係こそが病理的に感じるのだ。

 

私はこの点が非常に嫌なのである、結局科学という名のカルトに過ぎない、自分の自由意志のない所に救いはないと私は直感する。

 

そして私は「私は思う」ということを聴いてくれる誰かを無意識的に探している、それは今も変わらない、きっとそれが私の本性なのだろうと思う。
迎合してほしいわけでもない、単に「こう思う人もいるのか」と思ってくれると話しやすい、誰かが聴いてくれているという実感が、私を励ますのである。

それがなぜ励ましになるのかはうまく説明できないのがもどかしいが…私は人間というものは共感(同調ではない)することで活性化する性質が備わっていると思う。
それを単にナントカ欲求であるとか、このような精神原理が働くとか、はたまた病気であるとか判断することはこの種の共感に水を差す行為に過ぎないと感じる。
快、不快で言えば、個人の苦しみはさておき「病気である」という認識だけ押しつけられるのは、正直不快である。
不快なことは人を健康にはしない、よって精神医学は現在さほど機能していないように見受けられる、対して共感は快楽である、快楽ほど良い薬は無いのではないだろうか?…これが私の思う所だ。

 

さて、共感という快楽現象が個人の苦しみを消化(もしくは昇華)させるというのならば、それを軸に精神医療を発展させると良いと私は思う。
共感を軸にするには、個人の言うことを、判断する誰かは必要ないのである。
善悪、病気か否か、相手の言うことの方が正しいという、相手が偉いというヒエラルキーそのものが不要なのである。

 

私は近所の医師の設ける相談枠に相談することになった、形式的に言うならカウンセリングである。
そして1年半のカウンセリングで強く思ったのはつきるところ、互いの呼吸に過ぎないのだなということだ、呼吸が合うときは合い、合わないときは合わない、でもここで私は一種の確信を得た。
彼は私の話を聞いてくれた、本当にただ単に聴いてくれ、真摯に質問をした、単に興味もあって聴いていた、まさにそのことが私を救ったと私は実感した、共感は人を救うのだと私は思った。

 

ちなみに、彼とは特に意見は合わない。
私はその医者の考えを信奉しているわけではない。

 

それを彼自身が私に対して許しており、私の人格をそのままに話を聞いてくれたこと、そのことが人を喜ばせると理解していること…この点こそを私は非常に深く尊敬している、敬愛している、これが出来る人こそが偉い人なのだと私は思う、偉くない姿勢を貫くことが出来る人ほど偉大な人間性を秘めている、意見の異なる人の語りを傾聴するということは物凄いことなのだ…私にはそう思えてならない。

 

この医師の立場で、いくら助言しても助言そのものを脇に押しのけてしまう私を「正そう」とか、あまつさえ「自分は医師として無意味である、無力である」等と思う人間は沢山居る、それはあまりにも普通のことだ、ただの凡人である、悪くは無いが助言が人を救うのでは無い、「偉い人が弱い人を救う」という構図そのものが機能不全であると一刻も早く気づくべきであると私は思う。

 

私のような人間に対して「独り言を喋っている」ように感じる人や、聞く側の無力感を気にする人も居るだろう。
では、無力とは何か?
助けるとは何か?
独り言は本来本当に独り言なのか?
ということを私は語りかけたい、人間が本当に独り言を口にすることなど、不可能である、それが言語であるという時点で誰かに伝わってしまうのである、誰かに言いたくて言っていることなのである、聴いてくれるだけで嬉しいのである、助かっているのである。

 

自分は無力だから人の悩みや語りなんて聴けない、何も出来ないと匙を投げるこの思考回路から、特に医師を生業としている人間は脱却すべきであると私は思う、強い人が弱い人を助けるというのは幻想に過ぎない、もしかすると自分が強い人でありたいという願望に過ぎない、その願望が果たされないといって対人関係から逃げていては誰も救われないのだ、誰もが誰かを救っているのだと私は言いたい。

 

対岸に茂っていた人目を引く真っ黄色の葉が、いつの間にか散っている、あれを見つけた日の朝思ったのだ…ああ、あの葉はこうして誰かに見てもらうために芽吹いたのだと、こうして見ることが私の責務で、鑑賞の歓びが私をさらに生かし、あの葉こそが、幸福に打ち震えているのだと。

 

こうして相互的に助けられて、互いに呼吸し合って生きているのだと、近所の医師と話しているときにも直感した気持ちはまだ私を駆け巡っているのだ、互いの信念は違えど、私は生まれて初めてこう思ったのだ「この人のようになりたい」と。

誰かに対して私ははじめて思ったのだ、だからこそ私は私自身の真実、私の主観を生きよう、この人と無理に意見を合わせることを(はじめからそのような阿る姿勢はしてこなかったが)一切やめようと改めて思ったのだ。

 

この医師個人と私のやりとりは、私が自分の主観を貫くという点こそ、その姿勢こそが彼の潜在意識的には面白かったのだろう、だからこそ私は自分が脱皮したような感覚が強い、つまり、カウンセリングというものは双方の相性によるもので、それはただただ、人間同士のめぐり合わせによるもの…そのような自然の賜に、私は救われたに過ぎないという事だ。

 

だからこの文章を誰かが読んでくれているということそのものに、私は深く救われている、助けられている、読んでいる人は少数だが本当に感謝している、日々目にする美しい植物や夕日に染まる雲、私を励ます力のある美、そういうものが傾聴する人には備わっている、そのような現象に私は助けられて生きていると、実感しているのである。