大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

スノードーム(自分のこと、口出ししてくる愛すべき人々)

駅ビルの陳列棚に置いてあるスノードームを手に取る、電池で七色に光るツリーの形をした小規模な幻想が、今私の手の中にある、幻想なのに実在している、私はそれを綺麗だなと思う、しかし私は釈然としない気持ちなのだった。
街はクリスマスめいている、クリスマスというのは人々の幻想である、季節は季節で時を刻み、人が勝手に理想とするその季節の色や香り、手触りや寒暖の幻想を、行事に投影するだけである。

 

長年の友人を含め、私の敬愛する近所の医師である先生も、そして私の…しばらく会うことを控えている女友達にも、理想がある。
この3人のうち役2名は社会的にも成功している部類の人間だ、なのでより一層自分や他者に対しても何の迷いも無く理想を語る。

 

どうも私の人生というものは、彼らの理想にはほど遠いらしい。

 

【現状の私】は、【彼らの理想とする、私自身の人生】にはほど遠いらしいのだ、彼らはしょっちゅう口に出す「大熊さんはもっといい人生を送れるのに」と、何も躊躇わずに言ってのける、「大熊さんはもっといい人と出会えるのに」と、他者である私の人生に口を出す。

 

この手の人々はこうは考えないのだろうか?
【それが今現在の私の人生や、私自身、私の周囲の人間を無意識的に「貶めている」と、なぜ考えつかないのだろうか?】

 

例えば子供を産んだら良いという台詞ひとつとっても、まるで私が単体生殖出来ると勘違いしているかのような口ぶりで言ってのける「子供を産んだら良いのに」「良い男性と巡り会えたら良いのに」…良い男性というものが、金銭的、肉体的、さらにはこうした私の文章を読んでも引かずに面白がる事の出来る精神性を含めた概念であるということは理解出来る。

 

確かにそれらすべてを兼ね備えた男性と、私は巡り会えなかった、そのことは素直に、そのことについて考えたときには残念であると思う。
だが、そのような男性と巡り会えなかった私の人生は果たして残念なのだろうか?
私は日々主観としては結構楽しく生きている、この人生を最早大して残念だとは思っていない、自分自身を生ききりたいと思っている、それをあえてなぜ、残念だと哀れむのだろうか。

 

私は彼らとは仲が良い、だからこそ、私を哀れむことが、私にとって何の役にも立たないばかりか私自身や私の周囲の人々までもを…つまり私が大切だと思っている人々までもを貶めていると、そのような認識に私が陥ると、私が悲しんでいると、なぜ気づけないのだろうか。

 

ちなみにこいつら3人は、この手のことを口にするくせに私の実際の窮地には金銭的、肉体的、精神的に手を貸しもしないのである、外側から助言めいた姿勢で発言したいだけなのである、理想を語りたいだけなのである。

 

外側から他人の人生に助言することが、その助言こそが、本人の「誰かを助けているという実感が欲しい」というただその自己実現のための行為であると、そろそろ自覚すべきではないのか?

もう中年なのだから…人生が、こと人間関係に於いては個人の努力ではどうにもならない事実くらい、理解してもいい年齢なのではないか?

 

私が肌を重ねる男性とは、なぜだか私は逃げられる運命にある、妊娠というものがピリオドとなるのだ。
そして夫となる男性には、全く欲情されないのだ。
そして精神的にわかり合える人ほど、私を苛つかせる人なのだ、つまり今回挙げた3人である、こいつらほど私を苛つかせる天才はいない。

 

ちなみにこの3人には、それぞれに私以上に仲の良い人間が居る、絆の深い相手が居る、私はこの3人に会うたびに口出しされているという実感が強いのだが、彼らの主観では私は彼らにとって端の方に居る女に過ぎないのである。

 

ただ、私は思うのだ、私はこうして少しずつ、ひとかけらずつ周囲の人から分け与えてもらっていると、強く思うのだ。
一口ずつ彼らを食べている、肉体関係を楽しませてもらうその一口、精神的にやり合うことすらも含めた深い情を一口、私を物理的に守ってくれるその安心感を一口、こうして私は周囲の人から一口ずつもらっては食べている、必ずしもおいしいとは限らない、でも確実に私はこれによって「人間界」の味を知るのだ、このこと自体が私にとっての幸福なのである、これは私にとっての事実なのだ。

 

そして私も誰かに何か、自分の「おいしい部分」を食べてもらいたいと今は願っている、たとえばこの文章も誰かに一口どうぞ、と勝手に与えている、果たしてそれが相手にとっておいしいかどうかはわからない、私は私でしかないので他者のことはわからない。
私自身をどうぞ、私の肉体を食べてね、あなたは私の心を、今日は怒りに震えている心を一口どうぞ、会いたくないとまで思える味わい深い一口をどうぞ、そしてあなたには安心しきった私の笑顔をどうぞ、これはあなたにしか見せられない私の本心、心からの感謝を一口、どうぞ食べてください。

 

そうやって互いに共食いして、人間という生き物も微生物のように他者と相互的なやりとりをするにつれ…何故だか、満たされる気持ちになるのだ。

自分の作品を見て欲しい気持ちなどもこういった原理だと私は思う、人間も自分を分け与えたいのだ、自分がより多く誰かの口に入ることが、提供者の幸福になり得るのだ、そうやって自分を与えて与えて透明になりたいのだ、そうやって死にたいのだ、自分が消えたところに幸福が生まれるのだ。

 

この3人に言ってやりたい、あんたら3人には本当に苛々させられる事がある、私の逆鱗に触れている、私の地雷地帯にあえて突入してきている、一体どういう了見だ、お前らは何様だ。

 

特に長年の友人は「お前に理想の男が現れると良い」とあまりにもしつこいので…

 

「お前にも理想の女が現れると良いね、理想の女ってのは、もちろん若くて誰もが振り返るほどの美人で、いつでもお前の好きなときに好きなだけフェラチオしてくれて、いつでも一番にお前を敬愛していて、金銭的にもなに不自由なく、さらにそれが老人を過ぎて死ぬまで揺らぐことの無い相手だろうけどね、そういう金持ちの美女が現れないお前の人生はほとほと哀れだと私は常日頃他人事ながら思っていて、お前が自分を哀れんで発狂しないかひやひやしてるよ、まったく哀れでならない、お前を見るたびに私は涙を禁じ得ない」

 

…とでも言ってやりたい。
本来これくらいのレベルの事なのである、他人の主観にまで口を出すということは、このレベルで的外れなのである。

 

誰も自分という存在の肩代わりをしてはくれない、誰も私の受けた性的被害を肩代わりはしてくれない、誰も私の代わりに父親に殴られてはくれない、誰もこの暗い思い出を肩代わりしてはくれない。

 

それが個人の宿命というもので、それが個人の辛さというもので、だけれども哀れまれる筋合いは一切無いのである。

だから私は、哀れんで欲しいというような奴ははっきり言って男女とも嫌いである、醜くて嫌いである、この3人のことはこれだけ苛ついても、普通に好きなのである、突き詰めると理想というものを語るのは、それが単なる口出しに過ぎなくとも、個として強くないと到底出来ない行為だからである。

 

あえて言うなら、この手の人々には前置きを言うように勧めたい、「これはあなたのためでは無くて、自分の満たされたい欲求のためだけに言うんだけれど、でもあなたに聞いてもらいたいから言うのだけれど」という前置き、これを告げてもらえればここまで怒らずに済むのでありがたい。

 

もうこの3人はキリシタン迫害時代の拷問よろしく、3人とも私の手自ら簀巻きにして縛り上げ、長崎湾とは言わないまでもスノードームの煌めく理想世界に沈めてやりたい、押しつけの理想がどれほど息苦しいかとことん味合わせてやりたい、この置物に内包されている水分は私の涙だと言ってやりたい。
しかしこの3人は、スノードームのラメの舞い散る理想の世界も、まだ理想にはほど遠いと平然と言ってのけそうな気もする、こんなのはただの幻想だと言ってのける気がする。
私はこの手に持った煌めく置物を、理想を語る3名のぎっしり詰まった塩分濃度の高いこの置物を、駅ビルの陳列棚からレジへ持って行き、会計を済ませて持ち帰り、部屋の机の隅に飾るのである、なぜかって、やはり理想は…たとえ幻想でも、美しいから。

 

つまりこの3人のことは、美しい分苛ついているのである、目にも留まらないような凡庸さではなく、独特の美が彼ら自身から強く発せられているので私はついつい、はっとして手に取ってしまうのである、彼らの言葉に耳を傾けてしまうのである。

相互的かどうかなどということは本来ほとんど問題では無い、だって美しさは…彼らの美しさは確かに、私にとっては今まさに、実在して煌めいているのだから。