大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

ブルータスへ(自分のこと、プライド感情)

 

世の中こんな奴ばっかりだ、ブルータスお前もかという台詞が昨夜から私の体中を駆け巡っている。


長年の友人のことを書く、私たちは15歳の頃からの知り合いである。
古い時代を知る同士、なんだかんだで現在の人生の半分以上を見知って暮らしてきた同士、私は彼に対して並々ならぬ絆を感じている。
それは単に付き合いの長さではなく、私がこうして文章化して第三者へと語りかける行為以前に…現実の舌足らず気味で話すのも遅い万年鼻炎性の私が、抽象的な言葉で表す世界観やら概念やら、要するに自己完結した話を、彼が「理解して」聴いてくれているということを実感しているので、強い絆を感じているということである。

 

そういった絆が本当につまらないことで揺らぐときもある。

誰かを褒めたら褒められない自分がつまらない奴だと思い込んでしまう時である。

友人は最近このブログを読み始めた、つまり文章上での私という人格とはじめて対面したのである。

 

私はその日思いついたことをその日考え、朝からの仕事を終えて、夕方頃に夫(実の父親よりもずっと父性要素の強い、真人間で不能症の愛すべき男)と自分の食事を作った後にこれを書いている、最近このパターンである、だから昨日のうちに書きたいと思っていたことや、何気ないネタ的な事を書くかどうかはその日にその気分でなければ書くことは無い、少なくとも今現在は。

 

私の内面は、私自身はいつも認知してきた、文章化するということも日記によって…自分が文章の上ではどのような人格を持つのか、本当の自分だと感じるのは絵であり文章であると認識している、という点も含め私自身は文章上の自分に慣れていたのだ。

 

他人を賞賛することも、合わない奴に学ぶことも、見たことも無い電車男氏(と勝手に名付けたが…痴漢行為を止めるという行為を実際に行ってきた人物で、私は彼のブログにどうしたわけか辿り着きそれを読み、その事に対する姿勢があまりにも正直で簡潔なので文章に惚れてしまったという点でも、至極勝手に厚く尊敬している)をこうして書き連ねることも、私にとっては日記帳の上では至極当然の行為なのだ。

 

そして私も雌個体なので、やっぱり男が好きだしセックスするし、オナニーもするし、その夢想の相手だって恋の相手だって毎回自然に変化するように、その時感じたその日の、誰かへの感動を書きたいのである。

 

他の誰かを褒めると一方が自信を無くす現象…これはプライドによる闇落ち、としか言いようのない哀しい人間特性である。

 

このプライドによる闇落ち現象、これを避けるために特に、したたかな女が陥りがちなのが「完結しない話」をする、というものである。

例えば私がいつまでも「セックスしたいけど相手がいない…」とか「彼氏欲しいけど…」とか言っている限りは、聴いている側はイラつくことはあっても凹むことは無いのだ、多分これがために女達は完結しない話を延々とするのではないだろうか。

 

でも、それでも男は出来るのである、探している限り。
そして尊敬する奴らも現れるのである、生きている限り。
そして私は感動した事を自己完結的に書きたい気持ちが強いのである、それは私という人間の特性である、なぜなら無感動な人物や…例えば不安などの物事は完結的要素に欠けるからである、単に私にとってそれは文章としてつまらないからである。

 

私は怒りにあふれている日はそれを書いてしまうだろうし、愚痴の日は灰色じみた言葉だらけになるかもしれない、けれど基本的に紙媒体の日記帳上に於いても「その日1日で考えついた事とその1日で出た結論」を書きたいという気持ちがなぜだか強い、実際に日記帳には1ページを使って結論を書くようにしている、単にそれが私という個体には気持ちいいからだ。

 

人間は結局の所1日を生きることしか体感できないと私は考えている、昨日のセックスの感動すら一夜しか持たないのだ、それはもう過去なのだと私は思う、人間も食べ物と同類である、賞味期限は基本的に誰でもたった1日のみである、何歳だろうがその日はその1日しか無いのだ、そしてその1日しか生きられないのだと感じている。

 

プライドという意識の厄介さは私も日々感じている。
仕事への意識の高い人物とは、対面したくないとすら思う、もうこの時点で逃げたい気持ちに苛まれる。
それは自分の仕事云々以前に、突き詰めると自分自信のプライドの意識により、「目の前の人物の経歴が凄い」なら「自分は凄くない」という錯覚が起きているだけである。

 

単なる感動に於いてすら「誰かを讃えたら」「讃えられなかった人は」シーソーが下がるみたいに地位が下がるのだろうか?

私たちは点数制の教育を受けすぎたのでは無いだろうか?
誰かが頑張れば誰かが蹴落とされるという概念を刷り込まれすぎただけなのではないだろうか?
感動して誰かを讃えたら、誰かとの対話での気づきをお前に知らせたら、お前は、私の中でのお前への感動が薄れると、本気で信じてしまうのか?
お前、私の言うことが今更わからないなんて言わないでくれよ、他に実際誰に対面して話せば良いんだよ、ここまでの本音を。

おい、そこのブルータス、お前だお前!

と思いつつ、鏡を見て話しかけていることに気づく、私すらそうなのだ、だから最近このブログを読み始めた友人の言う「自分なんてお前に会うに値するのだろうか」は私でも日常的に多々感じる気持ちなのである。

 

友人の言う言葉には私の讃えた人物のもたらした感動や、ひょっとすると職業的な部分への感情もあるのかもしれない。
ただ、私は前にも言ったとおり、職業というものや頭の善し悪しすら、個人単位ではどうすることもできない仕組みになっていると思っている。

その人物の経歴が凄くても、それで讃える事は無い、それどころか「これは全部俺の努力だから」とか言ってのける奴は心底見下している。
ただ、それ以外の部分での感動があった場合、その感動や努力したという部分は、賞賛に値するとは思っている。
そのためには自分のプライド感情に手綱をつけなくてはと思っている、卑下することが相手を高めることではないと私は思うからだ。

 

私は以前知り合った男性に「君の背が低くて良かったよ、それなら低身長の僕にも合うよね、だから安心する」と言われて絶句したことがある。
今でも嫌悪感がある、その男は本当に私という個人と対面したいわけではなかったということだ、自分のプライドが守られることのみを考えて私を選んだに過ぎないということだ、哀れだと思った、私もその男もこれ以上自分を卑下することは出来ないのではないかと感じた、悲しかった。

私にもこのような部分は多々ある、だからそれを打破したいのだ、このような付き合いをしたくはないのだ。

 

プライドばかりのブルータス、友人よ、お前の親父さんが事業に失敗しておらず、今でも九州に居たのならきっとお前は裕福な息子で、母親も出奔せず家にそのまま居たかも知れない、自分が地域や血族に根付いた存在であるという実感があったかもしれない。
多少勉強が出来なくとも高校を中退することもなかったと思う、歯並びだって綺麗だったろう、普通にすらりとしたイケメンの部類に属するのではないだろうか。
大学にだって行ったろう、そして演劇を熱心に行っただろう、もしかするとその道に行ったかも知れない、そういった経歴の、俳優としての人生を歩んでいただろうと私は直感的に思う、何故なら、人なつっこさというものだけは生まれつきでしか習得できないまたとない特殊技能だからだ、そして注目されても不思議に怯まない性格もはっきり言って先天的要素の濃い部分だからだ、演劇というもので人を感動させることはその実かなり難しい事なのだ。

 

もし経歴が華やかなら、そしたらお前は、凄い人物だっただろうか。

私にとって、凄い人物になり得ただろうか。

私の話を、文章化する以前の私の喃語を聴いて理解できるお前の凄さを私が一番讃えている事は、お前もわかっていると思う。

 

だから長年の友人になったのではないのか、ひとときの恋人ではなく、合わないという部分も少なく、お前みたいな人物が実在するということに私がどれほど救われているのかお前はわかっていない、話したはずなのに忘れてしまっている、他の人物を褒めただけで風化してしまっている。

 

…今日みたいな燻る気持ちは、あの頃のようだなと思う、15歳の頃駅のホームで話しはじめたあの頃のようだ、都下をさらに下る電車に乗って行った底辺高校の景色やら、真っ昼間に絶望している感覚を思い出す。

あの頃から私は日記を書いていたよ、誰にも言えない愚痴や怒りを、そして日々感じる何か昇華したい気持ちを書き連ねていたよ、お前が文章を読みたいと言ったのはほんのこないだ、33歳の秋だなんて事が嘘みたいだ、私たちはきっと何歳になっても15歳のままなのだろうよ、青臭いままなのだ、見苦しいままなのだ、だから友人で居られるのだと私は思うよ、ブルータス。