大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

アートはマスターベーションか否か【芸術】


「俺はいわゆるアートってものにはそれを開示する側、鑑賞して理解したふりをする側双方がマスターベーションしてるみたいな陳腐な印象を受けるね」

と言い放ったのはデザイン関係の仕事をしているとある男だ、彼の言葉は私に何らかの問いかけの気持ちを抱かせた。

 

ある流派に属した絵、つまり師匠から脈々と受け継がれるものは立派な「文化」である、自分の個性云々以前に技量が無ければ問題外で、さらに言うと自分よりも「受け継がれた」事そのものへの賞賛が物を言う世界…これが彼にとっての芸術らしい。
いわゆる現代アート、アウトサイダーアート、というものに現れているのは「自分が」という我欲である、我欲が先んじていてそれを理解したふうな連中もひっくるめて「美しさが無い」のだそうだ。

 

我ながら非常に残念だったが正直…その気持ちわかるわー…と、ため息交じりに思った、私自身絵が好きで描くことは最高の歓びと苦しみをもたらしてくれると思っている。
にもかかわらず…この種の絵画は漫画などの一種のルールの上で展開されるような工芸的要素すら皆無であり…本当に単なる自作なので確かに我欲が出るのだ、それが最早汚いとすら言える作品は掃いて捨てるほどある、美術のはずが作っている作品が汚物めいているのである。

絵画の技巧云々は関係無い、行為の質の話である。

 

これも非常に残念だが、伝統工芸という分野そのものが日本から出て行ってしまった、日本は機械分野へその趣向を切り替えた、それすらも日本から流出している、今伝統工芸で食ってゆくには大原則として「衣食住」が揃っていることが条件である…つまり、伝統工芸は食っていけない分野に成り下がってしまったのである。
さらに言うと伝統工芸を日本で連綿と受け継いでゆくためには、伝統工芸に携わる側が、それを師匠から習う側が、金を払って技を受け継ぐのが現状だ。
習い事という形にシフトしたのだ、弟子という名の客なのだ、これには教える側、習う側双方の利点もあるが…やはりこの分野は歴とした「仕事」として残すべきであったと私は思う。

 

現在日本にある美術分野を活かせる仕事、それが誰かの役に立つ、役に立つという明確な目的を持った美術の仕事というと、工業デザイン、服飾デザインといったデザイン関連になる。

そこには資本主義的な明確な線引きがある、「売れなければ役に立たない」のである。
皆が求める物が売れる物である、皆が求めるものが時代を表す美となる、皆が求める物は「美しい」のである、という厳しい数式だ。

 

そのような厳しい世界から見ると、結局の所衣食住がどうにか成っている上で展開される「我欲まみれの」アートなど、開示する側が「遊び」と割り切っているならまだしも、本気で行っているという姿勢が垣間見えた場合、彼のような男には芸術への許しがたい暴挙に感じるのかもしれない。
なまじ土壌が同じなだけあって、感情的な面で嫌悪感があるのかもしれない。

 

ただ一言いうなれば…インスピレーションや直感というものは降ってくる物であり、人間では解明不可能の謎の賜物であり、それが今こうして肉体に降ってきて景色まで輝いてしまう状況を、どうにかして他者に伝えたくなる性質が人間には宿命的にあるのだ、絵を描くこともこうして文章を書くことも、あなたに会って私が今感じている言いようのない問いかけそのものの重みすら、それが重要であるとさらに声を大にして第三者に言いたくなるこの感情だけは、もうやむを得ないのだ、やるしかなくてやっているのだ、アート行為は本人にすらどうしようもない、最早そうせざるを得ないから開示している現象なのだ…ということだ。

 

それが芸術だよと私は彼に言いたいのだ、感動を伝えたくなるのだよと彼にこそ伝えたいのだ、私は彼が冒頭の言葉を吐いたとき、自分でも本当に意外だったが…彼と人間的に仲良くなりたいと強く思った。
たぶん5年前の自分だったら彼を恐れてすぐに逃げただろう、合わないことが私には興味を抱かせるのだ、今は。

 

合わないから会わないは簡単である、私はいつもこうしてきた、だが今は合わないから知りたい、合わないから問いかけが生まれる、だから自分の内部で何らかの精神的脱皮のような現象が起きたと感じる時、強く嬉しく思う、だから彼と仲良くなりたいと思っている自分を発見できたというそのことこそが私にとって嬉しいことなのだ。

 

彼が私の言い分に頷くか否かはここでは問題では無いのだ。
彼と私が今以上に友愛の念を抱けるかどうかすら、実はたいした問題では無いのだ。

 

彼との縁が明日にもあっさりほどけようとも、あるいは老人になるまでの和やかで太い縁だったとしても、そのどちらであっても根本的に今の高揚感には関係ないのである。


人間関係に於いて重要な点は長さではなく、自分の内部で(結局それしか正確に観測しようがないのだ)感動が起こったか否かであると私は現在思っている。

 

だから感動をくれたという点で彼は感謝に値する、その感動をこうして書くのである、これがアートの行為である、ちなみにアートがマスターベーションと異なる点は、そこに感動があるか否か、第三者が見て感動が広まる性質かどうかがこの行為の質の軸となっていること、であると私は思っている。

 

ちなみに、私はマスターベーションも大好きである、こういうことを開示してしまうあたり彼との関係自体は、彼に嫌悪感を抱かれて終わりという感じもしつつ、うまく転べばこの種の快楽を共有できるかも知れないという独特の期待感もある。

…これは、アートの話、である。