大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

私はあの人のことを尊敬している、あの人は白い花である【恋】

道を、落ち込みながら歩いていてふいに目に留まった白い花、道路脇に咲くその花は朝日の中輝いていた、私はその花に勇気づけられた、これこそが私にとっての内面的事実である。

 

「大丈夫だよ」という言葉をかけられた、私の内面を読んでも私に、変化するように忠告したり哀れんだりはしなかった、そのことが私には嬉しく、そのことこそが私を救った。

 

あの人のことをなぜ尊敬しているのか…あのときと同じように西日に照らされている、逆光で影となった木々が風にそよぐのを見る、この部屋は西に大きな掃き出し窓があるので部屋中が柔らかなオレンジ色に染まりきっている。
タイピングが鈍る、普段とキーボードを変えたからだ、この新しい機械でまず美しいと思うことを書きたくなった、それは先生のことである、先生に対する気持ちは確かに澄んでいる、これだけが私の内面で妙な確信をもって言えることでそのことこそが私には恐ろしくもある。

 

その診療所は精神医療の場所では無いが、相談の時間も月に少し設けられている。
端的に言うと私はその医師から子供を産むように再三言われており、子供を産まない理由を述べたくなった、というようなことで唐突に自分の半生を語りたくなったのだ、彼本人に対してのみ何か伝えたい気持ちが強かった。

 

私は怒りで身体が痛むときが多々あった、なぜ苦しいのか、何が苦しいのか、なぜ未だに苦しいのかを言葉にしてゆくにつれ、彼の中の好奇心を刺激したらしい。

私の書く文章は視覚的で、感覚的で、はっきり言って的を得ていなかった、なぜなら苦しみの理由を書くはずがいつの間にか自分の概念だとか、ひらめきだとか、音を聴くときに見える色だとかの話を書くようになっていたのだ。

 

大体1年以上短文でこのことを少しずつ書いた、私にも手に取るようにわかったのだ、先生は「珍しい昆虫を見つけた少年のように」喜んでいるということが。

 

彼本人ももちろん人格的にも優れているのだが、誰もがそうであるように欠点もあり、そしてその欠点こそが私を救う要因となったような気がしている。
というのも大抵の場合、私に恋をした人でさえ、私の内的な文章やら単なる感覚的な言葉には反応できないようだった、彼らは戸惑っていた、自分が私よりも優位に立つべきかどうかを大いに悩み、あるいは「そういう感性は僕には無いんだ」と言って舞台から降りたり、「もう少し周りを見た方が良いよ」と私に人格的な変化を促したりするのが関の山だった。

 

あの人だけが、少なくとも私の小規模な世界で出会った人々とは異なっていた。
珍しいものを見つけたという楽しさを私の内面に見いだしていたようだった、私の書いた物に素直に質問を投げてよこした、私もまた時に泣きながら答えたり、答えを練って次の月の文章にし、さらに読んでもらった。

その時の彼の態度は医師というよりも少年だった、自分の答えを持っていなかった、持ってはいたがそれが自分や、自分と似ている人にだけ受け入れられる答えだと言うことをわきまえていた、しかし先生の良いところはそれでも尚自分の答えを発し続けると決めていることだった。


そして、私のように異質な人間に対しても対等な視線で疑問を口にし、さらなる異質な答えを目にしてもそれを楽しんでいた様子だった。

私にはそのことが嬉しかった、私は周囲から見ると…特に内面を露呈した場合には、酷く苦しんでいるように見えているらしい、そういった場合の苦しみから抜け出す方法は、有り体に考えると「本人が周囲に合わせること」でどうにかなると考えられがちである。
だから周囲への感覚を遮断するための薬を投与されたり、周囲に合わせるための思考的努力を求められたりする。

 

ただ、ここには救いは無い。

なぜならこの種の方法には、確かに苦しみから抜け出す方法にもかかわらず…自己肯定的な要素に欠けるからである。

 

自分を肯定できてはじめて幸福が訪れる。
多分苦しんでいる状態の人というのは自分を許せていないのだ、だからこそ自分の考えがねじ曲っている事くらいとっくに自覚しているのだ。
そしてほとんどの人がこの考えに合わせられない事も理解している。

だから他者との間に溝が出来るのだが、これを埋める唯一の方法が先にも述べたとおり、好奇心である。


好奇心で私を見てくれてかまわないのだ、私は自分をそのまま正直に文章に書いた、先生はあるとき言った「もっと長い文章を書いてくれて良いよ、僕は読みたいから」そして私は長文を書くようになった、それが3ヶ月以上続いた、どのくらいの量の私の主観を先生に見せただろうか。

 

私は私で、自分は患者なのだから変なことを書いても許されるのだと思っている部分もあった、その分より純度の高い「正直な」文章を先生は読むこととなった、その中には私からの恋文めいたものも含まれていた、私は明らかに先生に恋をしていた。

 

彼が私を女として好きでは無いことはわかっていた、彼は珍しい生き物が好きなのだ、それは女で無くても良いのだ、そういう意味で私を面白く思ってくれていた、そしてそれこそが…恋をされるよりも私を深く救った、私は自分がそのままで良い、そのままで誰かを楽しませるという事そのものを知ったのだ、泣きながら。

 

先生は臆面も無く「大丈夫だよ」と言えてしまう人である、私は誰かにそんなことを言えるだろうか?

他の誰にとっては、彼の言葉は薄っぺらく聞えるかもしれない、他の誰かにとっては自分のことを「興味なさそう」に感じている様子であると、彼を見て思うかも知れない、彼がその実自らの考えを迎合し、信奉する人々そのものをどこか冷めた目で見ているのを肌で感じ取り、残酷だとすら思うかも知れない。

 

長所は短所なのだ、その短所こそが私を楽にしてくれたということを私は強く感じる時が度々あった。

彼のような人には、もう出会えないと思っている、彼のような男女に会いたいがそれに見合う強さが私には無い。

 

私には誰かに何か言ってやれる強さが欠けているのだ、これこそが私の重大な欠点であり、多分これこそが本来言うべき答えなのだ、だから私は根拠の無い自信が欲しい、今一番欲しいものはそれである、こうして文章を読んでいると「もうすでにそんな物は手にしてるのでは」と思うかも知れないが私には何もないのだ、それは意見の欠如とも言えるのかも知れない。

 

私は今でも彼に恋をしている、彼のようになりたいと思わせる何かがあの人にはある、思想や思考は全く異なるし互いに別の答えを追い求めている同士だが、彼の姿勢に私は恋をしている。

 

偉さを追求しない姿勢、善悪で人を裁かない姿勢、好奇心が彼にとっての他者への問いかけなら、私はただ直感のうちに生きていたい、そしてそれを恥じずに、卑下せず、正されても従わず、人を見下さずに居たい。

 

先生にはもう文章は読ませない、相談の時間は終わったのだ、やっぱりそこには「だって私はあなたにとって女では無く珍しい生き物だからでしょう」という含みも確かにある、彼が私に実際に男として行動するしない以前の話なのだ、それが起こりうるかどうかが問題なのではないのだ。

 

つまりこれは完膚なき失恋の物語なのである、そしてそれこそが、私を究極的に救ったと感じさせるほどの事実なのである。

 

あの人は白い花である、永遠に手折ることのできない白い花である、これは私にとっての真実である。