a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

書くという行為【私的概念】

 

岩はほのかに暖かいようだ、私は自分の両手両足、太ももと頭とを使って体重を移動させてゆく、上へ上へと自分を持ち上げてゆく、直感が舞い降りてくる方角へと自分を導いてゆく、上空は厚い雲が覆っており何も無いように見えるが、そこは明らかに私を呼んでいる。

 

ほとんど鑑賞者はいない、鼻水が垂れる、この身体のつくりは岩肌をじりじりと登ってゆくのにはそこまで適していない、だが「無意味である」という恐怖心にはだんだん耐性がついてきたのだ、垂直移動は少しずつ楽しいものとなってきた。
日本の岩場は湿っている、その分滑りやすいのだ、誰かからの賞賛というものを目的にしていると痛い目に遭うのだ、登っていると思い込んでいるそこはただの沼地でしかなかったりする、私には、ごくごく小規模だがそのような経験がある、数字を目的地に設定してしまうと度々この沼地でもがく羽目になる。

 

なぜ登るのか?なぜ書くのか、あるいは描くのか、ということをつきつめてゆくと自問自答だけが人生であるという答えにたどり着く。
真意は永久に不明だが自問自答することだけが人生であるので、それを正直に体現することが私にとってこの身体を使って生ききる、生きている喜びを感じきる、そのことだけが私の道なのだという気がするのだ、この直感によって私は生きていると感じている。

 

書いていると強く感じるためにはある程度の正直さと愚直さすら求められる、直感や体感の要求する供物とは純粋さなのだと気づかされる。
純粋さとは外部と照合した上でろ過した表面性ではなく正真正銘、常識や道徳を超えた先の自分の主観である。
それがどの時代、どの人種、どのような社会的階層に居ようとも他者と何かを共感する上で最も大切なことなのではないだろうか?

 

だからこそ私は善悪を度外視して物事を書きたいと思っている、たかが個人ブログでもだ。


善という物ほど悪に転じやすいものはないからだ、例えば自分の子供を見知らぬ他者には挨拶させないようにするということが現在では善のように言われているがその実、それこそが見知らぬ他者という存在や概念を子供自身の目に於いて増やすだけであって、世の中は敵で満ちあふれているかのように錯覚させているのではないだろうか、それは果たして子供本人にとってよりよい人生の近道になり得るのだろうか?
…といった風に、善とは、それを掲げれば掲げるほど独善的になってゆく性質がある、善の意識こそが悪を生み出しているように感じる、この「ように感じる」という部分こそが自分の主観である。

 

私はこの「自分の主観」を大切にしたいと考えている、それが他者の主観をも大切にすることのようにも思えるからだ。
そしてここにこそ「個としての独自性」が現れる気がするからだ、単純にそれが面白いことのように感じるので私は自分の主観で物事を表現したいのだ。

 

なので誰か偉い人とやらの(当然体感できないはずの視点からの)名言や、自分の外側の言葉や、誰もが頷くであろう口当たりのよい言葉、思考停止する言葉を書きたくはないし、そのような言葉で何かを達成しようとする気は全く無い。
思考停止の言葉というのは有り体に言うと「考えなければならない」とかである、この手の文章を一番正直な言葉で表すとしたら「私は悪くない」ということでしかない気がする、だったら「私は、自分だけは悪くないと強く思ってしまう」と正直に書けばまだ可愛げがあって面白いのに、と私は思ってしまうのだ、本当に偏屈者だと自分でも思う。

 

勿論私とて、良い人間でありたいという欲求は強い…だがそれを誇示しはじめたとたんすべての言葉が言い訳がましくなるのだ、要するにこの世の中にあふれている「理由、所属する名前」を連呼する人間になりたくはないのだ、なぜかというとその状態は私の感覚でははっきり言って醜いからだ。

実感を伴わない言葉もまた私にとって美しくないのだ、優しいだけの言葉は美味しさに欠ける、一生食べなくても問題ないように思える程度の味でしかない、少なくともこれを提供するのは私の役目ではないのだという直感が私にはあるので、私は思ったことや直感を身体から外界へ向けて流していきたいのだ。

 

このブログを読んでいる人は現在ごく少数だが…結構偏屈で変わり者な方々だと(勝手に)思う、その方々はもうわかっていると思うが…私は自分の考えを迎合してほしいわけではない、でもその実、読む人に何かを問いかけたい気持ちは結構ある。


そのために自分のすべきことは自分の体感したこと、自分という身体を通過していった物事や概念を正直に書き出してゆくことのような気がしている。
それが妄想であってもよいのだ、私は他者の妄想を読むのも結構好きだ、小説などはこれに該当するだろう…ただ作者が自分の言葉で話しているという感じの強い物ほど訴える力も強い、と感じている。

 

だから自分の視点に正直に物事を書いていると感じるブログや、文章には非常に好感を持っているし、その中でも自分には成し得ないような物事を達成したり、そのような人ほど利他的であったりするとすごく感動してしまう。
他者の視点で物事を見るときに感じるエクスタシーは一体何なのだろう?

あれこそが共感するというものなのだろうが…なんにせよ書き手の正直さが私を打つのである、凄くない部分を自覚している人ほど凄いのである、その人達もまた日々を過ごしているのだなと思うと嬉しくなるのだ、その人たちの歩む道はそれぞれの岩肌なのだと思う、個々の崖なのだと思う。

 

断崖を登る同志が存在するように私は感じる、そしてこの「全身を使っている」という感じを私は生きる上で大事にしている、こうして指先を動かしていると直感がそのままに身体を通過しキーボードへと乗り移り、ネットへと散布されているように感じる、それが心地よいのだ。

このブログを今、現実の私を知る人間で読んでいるのは長年の友人のみである、彼にはどれほど助けられていることか。

 

目的地の確認できない登頂を私は行っている、無意味さという概念だけが私を躓かせる、でも直感がもっと強く私を引っ張っている、外部からの甘い言葉のみを栄養としていると太って動けなくなることを私は知っている、私は直感に従って生きている、目的地を目指して移動し続けている。