a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

霧散して広がる巨大な私、小さい私【私的概念】

 

視界に入る景色に意識を軽く集中させる、目ではなく額で観るのだ、こんもりした橙色と緑の交じった木々となだらかな坂道、小さな川の流れる音、水面は青空を映して発光している。
風が強ければ鳥の腹部が見える、普段彼らは川の真上しか飛ばないので見えないのだ、橋の向こうに車が小さく走っている、その視覚情報が私に問いかける、果たしてあなたの身体とは一体どこまでなのか?

 

ひときわ大きな木が、目前にそびえ立っている、その樹木の発する匂いを私は吸って生きている。

私はこの土地が好きだ、一目惚れしたので越してきたのだ、今私は巨大なひとかたまりになって、見える景色すべてを覆うように寝転がっている、だれも邪魔しないで…でも誰が邪魔などできようか、私の中に他者はいるのだ、私はもう霧散しているのだ。

 

腹の上を車が走ってゆく、ジョギングする人のリズムが腕にくすぐったい、巨大な私は西日を浴びて、道路をまたいで野原と小川と森林区域に渡り、大蛇のようにうたた寝をしている、鳥がとまっている。
雲をそのまま吸う、雨の味がする、山の味がする、私の身体の中を椋鳥の群団が飛び去ってゆく、もっと遠くへ、もっと大きく。

 

今無意識に吸う空気は山から、光は空の果てから、私は死んだという前の住人に立ち代わり生えてきた巨大なキノコだ、その人と同じ景色を見て同じ空気を吸って、おそらくはこの近辺で販売されている食材を食べている。

人間以外の生物から観たら、個というものにさしたる違いがないであろう私たち住人は誰が誰でどれがどれなのか、このあたりの地面から勢いよく群生した筒状の生命体でしかない様子だろう。

そして思う、これが豊かさというものだ、私が今まで体感し得なかったもの、景色と混然一体になる感覚なのだと。

 

歩いていてもこの感覚に陥るときがある、地面から突き出た土の一部のように自分を認識するとき、私はその道と心身で語り合えたと思う、私はとても嬉しくなるのだ、そこに言語こそないものの私たちは私と他者ではなく私たちになっている、ということに私は歓喜するのだ、これが土地に惚れるということだ、道と語り合うと言うことだと私は思っている。

 

「土地に飲まれるよ」
そう言っていた両親は確かに間違ってはいなかった、彼らは土地を買うとうことを非常に怖れていた(実際には買うという選択肢は金銭的に無かったのだが)、「いつでもどこへでも移れるってことこそ人間が土地から自由になるたった一つの方法なのだから」と言う彼らは正しい、彼らはこれを怖れていたのだ、土地に所属すると言うことを。

 

私はカビと虫と狭い部屋とに相性が悪かった、そして祈った、私は自分自身の根幹に於いてのみ私自身であると、私は自分の身体から自由になりたいと。

私は子供の頃から自分の身体の、片時も離れてくれない強烈な痒みとくしゃみとに本当に毎日疲弊していた、この身体から逃れて心の底から一休みできるのならば何でも差し出したい気持ちで育った、つまり、私にとって自分の身体とは最早外部であった、外界の一種だった、私は心だけの存在でありたかった。

当然部屋の中も単調な景色の一部だった、外部だった。
団地の周囲も、ただの外部だった、見知らぬ他者だった、いつまでもなじめぬ他者だった、いつまでも自分の心は、自分の身体にとってさえよそ者だった、私の心は何も愛してはいなかったのでどんなに部屋が汚れようがベランダの目の前にゴミが捨てられようが気にもならなかった。

自分の身体にも、当然愛着は無かった…早く肉体という服を脱ぎ捨てたかった、ただただ祈る心の存在になりたかった。
なので無頓着であった、他者に対しても同様で、皆が宇宙の果てにいるように感じていた、はっきり言って自分の心以外どうなろうとどうでもよかった。

 

端的に言うとこれが精神的な貧しさというものではないかと思う、自分というものの範囲の狭さが狭いほど、貧しい精神状態なのである。
貧しい人がゴミ屋敷になるのは頭の病気のせいだけではない、心の狭さなのだと思う、自分の範囲だけ綺麗であれば良い、ということをつきつめてゆくと幼少期の私のように自分の心以外心底どうでもよくなるのだ、そして一時でも身体から逃れられれば良い、逃れて、逃れて、逃れて、また次の1時間を逃げることに費やすのである。

私には実感があるのでよくわかる…あの生き方は本当に悲しい、周りの美しさも霞むのだ、あまりにも遠い世界だからだ、自分に関係無いことしか世の中に存在していないような強い虚無感である、この世にとって自分の心すらあまりにも存在が小さいので…何かに関与する気力が湧かないのである、だから死こそ真の救いのように感じてしまうのだ。

つまり身体から逃げると自分の主観すら縮むのである、自分の主観すら薄まるので感動も薄まるのである、そしてさらに自分の内部へと逃げ込むにつれ、三次元に自分が存在するということすら忘れかけてしまうのである、子供の頃よく虚脱状態になっていたのはこういった理由からだった。

これを打破するには、自分の身体というものを認識することが実は一番手っ取り早い、人間は自分の外見や身体を認識したときに自分というのもをなぜか強く見いだす、そうなのだ…心はどこに宿るのかというと実は身体に宿るのである、だから自分の外見を好ましく思うと心も好ましい状態になる、安直な仕組みに成っているのだ。

 

どこまでが自分か、という話に戻すと今はどこまでも自分のような気がする、世の中の劣悪な環境もまた自分も一枚噛んでいるだろう、崇高な人間関係にもきっと私は関与している、凶悪な事件にも私は関わっているに違いない、私は霧散している。

 

この状態を、危ない精神状態であるとか何かに魅入られているとか言うのはたやすい、でも今言いたいのは根底に愛でる気持ちがあるということだ、私が私であると言えるのはその実「視点」だけである、この視点すら意識を飛ばすと様々な場所に宿る気がする。

 

だから私は最近、自分の体質も苦労も自分のせいだけではない気がするし、努力も…一体何の努力かはわからないが、例えば私が人知れずなにかの努力したとして、それは自分だけの力ではないような気がするのだ、私が誰かに被害を受けたとして、それは私のせいではないにせよ、相手の加害行動に完全に無関係だとは言い難い、というような気持ちである、心底こう思えたときに何かを許せる気がするのだ。

 

ということを強い気持ちで書いていたらいつのまにか戻ってきてしまった、道路を越えて向こう側、裏山に沿うように寝転んでいた巨大な私は一人の女の身体の中へ収まってしまった。

元気がなくなると、この身体すら持て余して皮が余っているように感じてしまう、身体が大きく感じて着心地が悪いのだ。

横になって元気が出てくると指先まで気が充填する、私は私を着こなしている、今私は私に成っているという実感がある、それが嬉しいのだ、生きているというただその感じが私を感動させるのだ。

 

そういえば、夜になると景色を見ても私は私の身体に留まっている。

どうりで夕方は寂しいはずだ…大きく広がっていた私はそれぞれに外界にしばしの別れの挨拶をして人間の身体へと戻ってゆく時間なのだ。

夜の空は宇宙だ、夜の森は異界だ、夜の私は私の中に押し込められている、夜という時間や空間にも私が「広がれる」ようになったら、そのときにはその様子をまた書くことにしよう、そのときにもまだ私という視点が、肉体を纏っていたならば。