大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

「自分の子供」競争【世の中】


ある程度の発生率で天才と障害児は生まれてくる、ある確率で貧困と富裕層が出現する、一人の人間が何らかの被害に遭っているその間、誰かはその被害には遭わずに済んでいる。

 

人類、というものが巨大な一人の人間だとして…果たして血液は正常に循環しているのだろうか?太りすぎている部分は無いのか?壊死している部分はないのか、怪我をしている部分があったとしたら出血を止めようと動き回る役割はちゃんと機能しているのか?

 

少子化少子化と聞かされるたびに独特の気持ちになる、おかしい…世界で人口は爆発してるのではなかったか?
各国が個別にどんどん太り続けなければ機能しないような社会システムは、世界規模で考えたら最早機能不全である、私は人類というのはその実密接につながっていると感じる事が多々あるので、この国の人口まで爆発しているようではお先真っ暗だと思っていたが…現在はそうでなく人口は減っている、というそのことこそ、より遠い視点から観測すると人類全体としてのバランスという意味では、きちんと自然の摂理が機能しているように感じる。

 

人間社会の資本主義というただ一点でモノを見たときにしか問題ではないのだ、少子高齢化というものは。
有り余るほどに人間は増えているからである、外国人は人間では無いのだろうか?海を隔てた向こうは人類ではないのだろうか?

自国の人民だけが増えればそれで良いのだろうか?
自分の子供だけが優れていればそれでいいのだろうか?
自分さえ、と思うその自分とはその実どこまでだろうか、髪の毛は自分だろうか、それを切ってしまったら切られた髪の毛はもう自分では無いのだろうか?

 

自分の国民が富めるときどこかで飢えている民がいる。
自分の子供が天才なら、どこかに障害児が生まれている。
自分というのはその実人類の一部分であり、自然の一部分に過ぎない、目の前の人と自分にその実存在の差は無い。

馬鹿な人や非生産的な生き方をする人に対する侮蔑も、天才だけが個を確立しているかのような状態も、本当は非常に不自然だ。
被害に遭う人間に対する穢れの概念も、安泰な人にあやかりたい気持ちも、はっきり言って馬鹿馬鹿しいほどに全部錯覚である。


善良な生活をして善良な人生を送ることは悪では無いが、なぜだか疑問なのだ…まるでそれが「偉い」ことのように胸を張られると、心底疑問なのだ、あなたの生活はあなただけで成り立っているのでは無いはずだと、私は胸の内で強く思うし多分顔にも出る、あなたが他者だと思っている他者は自己である、そして私も今はあなたの他者だ、でも本当はもっとわかり合えたはずだと。

 

2011年、私は謎の天啓を受けた…こう書くとしょっちゅう啓示を受けているらしい印象になるかもしれないが。

ある日突然子供を産みたいという欲求が私を突き抜けたのである、その年の8月3日だったと思う、晴天のその日、私は帰宅して午後からの競馬中継を観ていた、氷入りの麦茶と薄暗い涼しい部屋で私は心地よい気分に浸っていた、風が凪いでいた。
その時、応援していた漆黒の馬がどんどん順位を追い上げ、炎天下の中2位になった、1位でこそないが本当に頑張ったということを私は本能で感じ取った、キッカケはただこれだけである。


心臓が高鳴った、膝の裏が汗で濡れていた、競馬で流れるどこか平面的な金管楽器の音も私を暗示のかかりやすい状態にしたらしい、ああ…この馬が自分の子供だったらと一瞬思ったのだ、それをその1秒のうちに疑似体験したのだと思う、私は身体の芯から熱せられたようになった。

 

最早これを「自発的な欲求」とは認識しがたかった、実は私はその馬に個人的な思い入れがあった、その馬の厩舎に足を踏み入れていたのである。
…と書くとこれも私が強烈な競馬マニアで、刑に処されるのも厭わず競馬場に侵入したかのように思われるかも知れないがそうではなく、当時厩務員と付き合っており許可を得て一緒に彼の世話する馬を見学していたというだけの話である。

彼の身体や顔つきも好みだったが、彼の子を産みたいというよりかは彼の育てた馬があまりにも可愛かったから謎の天啓を受けたのだ、本当に妙な状態だった。

その馬が成果を出したというのも、何か私の雌個体としての本能に火をつけたらしい、優秀な子が生まれる予感がした、この予感に抗うのは無理だった、バチが当たる気がした。

 

2012年になったとたんに、なんと子孫繁栄への熱は急速に冷めた、彼も私の心身の変化を敏感に感じ取ってか、雪の降る頃には私に辛く当たるようになったのであえなく離れた。

私は、これは2011年3月の震災で亡くなった人々の分の人員を確保せよという、人類規模でのメッセージだったのではないかと推測している。


私は人間の子供というものをさほど可愛いと思ったことがない、自分の甥や姪も、単なる他人だなあという程度である、その子らが面白いかどうかはさておき可愛いと思う気持ちには欠けている、よって動物という手段で私に目的を知らせたに違いない…というほどにこの体験は超自然の命令を受けたような出来事なのである。
そして人員が確保できたらしい翌年以降、私にこの種の熱烈な招集がかかることはなかった。

 

もう一つ、ここで重要なのは「優秀さ」に私の心身が敏感に反応したことである、自分の子供が優秀であってほしいという気持ちは本能から生じるモノなのでほとんど歯止めが効かなかった、親という存在がどこか非常に浅ましいのはこういった本能が周囲にまでまる見えだからかもしれない。
あの手の本能は仕方のないものなのだと、嫌というほど体感だけはしたので理解はできる。

だがその実人類は数珠つながりなのだから…天才が生まれる分馬鹿も生まれているのだということ、子供の出来不出来は自分たちのカップルだけで終結するような問題ではないということを誰にともなく私は言いたい。

頭の悪い人が居るから天才がいるのだ、それが生物なのだ、どんな組み合わせでもこれらの人々は生じるのである。

 

「自分の子供競争」に私を巻き込まないでくれという気持ちもある、あの種のひらめきは外部から降りてくるものなのだ、その時私の身体は最早私自身ですらなかったのだ、だとしたら私が産めたであろう子供というのも、その実私の子供ではなく「誰かの、あるいは人間全体の」子供なのだということを強く感じるのだ。

 

子供や家庭というものがもう少し外部へ開いている社会状態だったなら、人口という概念が自国だけではなく人類全体としての数値の把握だったのなら、世界はもう少し平穏であると思うし、そのような社会に至ったらそのときこそ私は、そのときに自分が肉体を纏っていたら子供を産む選択をすると思う。

 

そのような社会へ至るためには、これも直感なのだが…私は子供を産まずに過ごそうと思うのである、この人生を他者が哀れまなくなったとき、少なくとも現段階よりも進んだ社会へ移行したと私は見なすからである。

私は今ちょうど微妙な年代なので、犬も歩けばという頻度で「子供を産め」と言われている、もう少しでそれも終わるだろう。

 

私は言いたいのだ、「自分の子供という認識は多分間違っている、自分の身体すらも本当は存在すらしていない」と。

 

「自分の子供とは自分の子宮に宿泊した他人に過ぎない」と。

 

「私の子供」とやらはきっと「他の誰かが2011年のうちに産んでくれただろう」と、私は言いたいのである「自分の子供を持て」と繰り返す人々に、思い切り言い返したいのである。