大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

数値化信仰の果ての性【性について】


このまま数値化や化学現象に於いての個の理由付け、いわゆるラベリング現象が進むと、一般的な女性も男性を買うような社会に至るだろうという予感が私には強く内在する。

 

化学現象に於いての個の理由付け、というのは例を挙げるとすれば、馬鹿であること、この事実への理由を「○○障害」であると定義付けたりすることだ。
ではなぜその障害が発生するのか…これは解明できるかもしれないが、なぜそもそもそんな障害で個人が生まれてきたのかという理由には結局誰も辿り着けないのだ。
このラベル付けにより社会へ向けて自分の特性を表明、弁明しているような印象を、病名を必死で名乗る個人から感じる。
そこには「自分が馬鹿である」という事実を、本当は受け入れていないのでは無いかという疑問が残る、というよりも、私個人はそのような人と接していて辛い気持ちになったりする。

 

なぜ彼らがそこまで理由を述べたがるのか、ということを考えたときに浮かぶのは数値化信仰とも言うべき、義務教育時代に嫌と言うほど叩き込まれた点数制主体の軍事まがいの教育、年収での人物比較などである、資本主義がすべて悪いとは言わないがそれがついに信仰にまで至っている感が否めない。

 

自分は「○○病」「○○障害」というのも勿論現実の、個体としての特性の一面ではあるのも理解はできる。だが無慈悲な医療業界へと散財しているようにも見えるのだ、私は偏屈なので、個人の救いというものにならない金儲けがはっきり言って嫌いである、だからそのような病名を、まるで自分に商品名でもつけるかのように名乗りたくないのだ。

 

私は個人批判をしているように見えるかも知れないが全く違う、批判の先はこの「名前、理由売り」システムでしこたま儲けている人々、団体である。

自分の特性そのものを、少しでも理解し改善するために、この種の名称を調べたり自分の情報を医療業界に開示したりすることは確かに社会の利益になるだろう。

 

ただ、私が疑問なのはその課程で個人の苦しみがどれくらい癒えるのだろうかということである。
必死で医療業界の人々が名付けた商品名(だって結局売られているのだから)を名乗る人と接すると思うのだ、そこにどれだけユーモアがあるのか?と。
自分が馬鹿であるということの苦労話も、結局のところ個人がその馬鹿さを受け入れて笑顔になるときにこそ、話としても面白いものになる、それは人生が面白いものになるのと同義であると私は思う。

私も馬鹿だから思うのだ、勉強では学年最下位、という事実を弁明したいだけでは自分も他人も辛いだけである、この事実を受け入れて笑えるときにこそそこに自虐ではない、本当のユーモアが芽吹くと私は思うのだ、それが自分自身をも尊重することだと感じている。
この個体では馬鹿の視点を体感できるよ!というのが人生の醍醐味であると私は思っている。


私が危惧することに話を戻そう、精液が売られる世の中になってきたということだ。
売られると言うよりも、現段階ではまだ精液を提供しているという意識の人が居る、ということだが…ここへの法的介入が無い限り、実際に精液を保存する方法はもう存在するので、じきに「学力」「身体力」「年齢」の3つの項目と顔のタイプ、などで値段がつけられるようになるだろうと思っている。

 

普通の女性が「精液買うんなら10代の子がいいよね!」と言うような状態になるのではないのかという気がする、もちろん私の妄想では、である。
なぜなら現状、割と多くの男性が「セックスだけ考えたら10代の子がいいよね!」という意識で居るのではないかと感じるからだ。

 

そもそもこれ自体非常に不自然なのだ、男性の多くが「だって妊娠させるってことを本能で欲してしまうから」と答えると思う。
それに当てはめるならば女性もまた「妊娠するってことを考えると能力値が高くて自分の好みの顔の、若くて新鮮な精液が質の良い子供を授けてくれる」と答えるしか無いからだ。

 

しばらくしたら学力の高い高校の男の子あたりが、自分の精液を売り始める、あるいはそのような仲介業者が立ち入って男性売春をさせるのではないだろうか?という気がする。

静かにこれらが一般化したとき、女性が足を運びやすい「精液ショップ」みたいなものも出現するかもしれない、中には法外な値段の品物もあるだろう。
しかし彼女たちもまた「必死で頑張って自分の能力で稼いできた」という自負があるだろう、「自分の子供をよりよい質の人間にしたいという欲求は女として当然である」という意識に至ると推測する…もちろん、私の妄想の世界では、である。

 

世の中は、馬鹿への恐怖で満ちている、少しでも質の高い人間に自分もなりたいし子供もそうであるべきだという謎の思想に酔わされているように感じる。

 

人間がセックスを学習するという習性は否定できないが、それがすべて商業由来のAVだというのも不自然だ、なぜならそこには相互関係が無いからである。
少年が目にする性は、少年が買えるはずの無い女性の性的パフォーマンスである。
自分の稼ぎで目の前の娼婦と対峙した、ということとは全く別種なのだ、そこに自分が存在しないことが当たり前になっていることが不自然なのだ。


この不自然さがここ2~3世代で残念ながら定着してしまった、そこには一般の女性の性的解放の場が無い、そこで女性の感じるフラストレーションは、少女期の売春などに転じることとなる、金になるということが何よりならば体験しておこうという社会への問いかけも含まれるのではないだろうか。

そしてこの不自然さで損をしているのは10代を過ぎた女性たちである、最早若いということだけが商品価値のあった時代から自分が通り過ぎてしまった、自分の恋人すら自分よりも年下の性を求めているかも知れないと薄々感じたりするのである。

 

それを「男なんだから仕方ない」と言ってしまうようならば、たぶん「10代の精液は商品価値が高い」と女性は思っている、という理論も飲まざるを得ないだろう。
女性達が「能力の高い精液」を求めるのは仕方ない、男性もある年齢を過ぎたら生物としての価値がないと公然と言い放つ社会が到来したとして、一体何になるのだろうか?
そこにユーモアはあるのだろうか?

 

もうすでに現在そうなりかけているのかもしれない、現に私は「自分は馬鹿だし肌も酷かったから子供を産んでもその子も馬鹿でニキビ肌になるだろう、だから産まない」というような気持ちが元来非常に強い。
ある意味でそれは生物としての正しいあり方でもある。

 

ただ、強く思うのは…多くの男女が「自分は余っている」ように感じているのではないか?ということである。
これが生物として良いことだとは、私の直感がどうしても首を縦には振らないのだ、男女は本来ペアになれるという意識が強い。

現在、自分と同年代の異性は異性としての価値がないと思っている(信じている)男性の分だけ、事実、女性は余っている。
その実その分だけ、男性は非常に損をしている、本来楽しめる相手を放って置いているのだ、話したら楽しい時間を過ごせたかも知れない相手を知らないまま、自分の性の悦びをおざなりにしたまま人生を過ごしている。

 

もし精液の売買が裏社会で一般化された世界に私が住んでおり、たまに自分の稼ぎでそのような法的にあいまいな妖しげな店に足を運んで、若く優秀だというラベルの貼られた精液を密かに味わっていたら私とて、同年代の男性はクズだなと思っていたと思う、話し合えば楽しかった時間を、知らないまま人生を終えたかも知れない。

 

それは非常にもったいないことである、人間を数値化し、数値化信仰にとらわれたときには相互補助の性は消える。
セックスがすべてではないが、異性と対面するときのときめきというのはいくつまで続くのだろうか…これは肉体を持って生存している存在としてはその実とても大切なことで、セックスが出来る年齢のうちはセックスを楽しんだほうが良いというのが私の考えである。

 

結婚などの社会的要因抜きに女性が性で遊ぶのはタブーであるという意識を変えない限り、私の思う性的な相互関係には到達できない。
浮気の完全合法化、では世の中が混乱するだけだろう…そこで乱交の祭事である、数日間だけは逸脱行為が許される日を作ったら男女ともに非常によい息抜きになるのではないだろうか?


そして自分の相手だと思っていた異性にも主体性があり、また選び選ばれという自然の法則の中で、相手を見つけると言うことそのものに意味があるということ、そのような実際の性こそが性の手本となるべき最も優れた視覚的要素なのではなかろうか?

 

…という、結局乱交への下半身由来の情熱で締めくくるわけだが…ちなみに現在の乱交は「馬鹿な女が股を開いてくれる」という、互いへの尊厳にいささか欠ける世界のように見受けられるため、私の理想とは異なる。
また現在の性の場には衛生概念の欠如も感じるためこの点でも理想には正直ほど遠い、私の理想は「性病と歯科の検査をクリア」「自分の健康問題が他者の利害につながるという責任を持つ」ことが参加資格の、他者への配慮のある乱交である。
現在性の通行手形となっているのはただの金銭である、はっきりいって論外だ。

 

私は理解と賛同とは別物であると考えている、この文章を読んで「大熊という女がそう考えているのは理解した」というだけで十分である。
「自分はこの考えには断固反対だ、お前のユートピアには賛成しない」と思うならばそれはそれだ、単に一人の人間に内在する理想を、私は誰にともなく見せたい欲求があるのだ、痴女なのかもしれない。

 


…さて、この文章を読み返してみると…主観的要素が非常に強く、偏った強い妄想の世界で私は生きているようだ、もし私がこの文章を精神医療の医者とやらに読ませたならば、早速何某の薬と病名とを金銭と引き換えに、洗礼名のように恭しく与えてくださる事だろうよ。