大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

服飾の美【私的概念】

衣服の美はデザイナーから出た意識である、新しい意識が人を魅了する、あるいは反骨精神…要するに人は「美しい意識」を身に纏いたがるのだ、そんな話を最近聴いた。

 

新卒の頃、着っぱなしだったスーツをあろうことか経血で汚してしまい、しかし一方はクリーニングに出していた最中なので手元にもう着るものが無いので、借金してスーツを用立てた事がある、泣きたかった。
何もかもがカツカツだった、とにかくいつまでも金がなかった、そして私は漠然と「着る物が無い」という不安に苛まれていた、もちろん住む家も無かった。

 

着る物が統一されていればこんな無駄な不安は感じないはずだ、着る物が無ければ出社すら出来ないのだ、言いようのない社会への憤りのような気持ちすら湧いた。

それは逆恨みというものだが…でも実際服に金を回せるというのは生活が潤っている証拠である、人間は潤うと自分という存在の範囲を広げはじめる。

 

肌や身体の健康、そして衣服で自分自身を確認し始める、その人というのはどこまでが個人なのだろうか、どこまでが人間の個の部分なのだろうか、ひょっとすると身に纏う服は最早自分自身なのではなかろうか?

素敵な人が素敵なのはその人が素敵な服を身に纏っているから、というのは実はあたりで、そうなると服に恋をしているのかその人に恋をしているのかそこに境目を見つけることが難しい。

 

私は今までの人生経験上、特に垢抜けた同性から敵視されることが度々あったこと、経験としては単にそれだけが実際の理由で…あとは概念上の「富裕層への自分からの一方的に抱く敵視」が重なって、華美な服やそれを纏う人への嫌悪感のような感情があった。

 

それは自分自身を見つめながら服を選ぶということに楽しさを見いだせなかった事も要因である、肌が荒れていたのでお洒落をすることでさらに自分が滑稽になるような気がしたのだ、客観視した自分は醜く、それならば人から隠れるような性質のものを身に纏いたい、少しでも自分から逃げたいという意識が非常に強かった。

 

お洒落な人が妙な強さを発しているのは、自己認識の範囲がお洒落に無頓着な人よりも広いからだろう、彼らにとって衣服は肌なのだ、肌も肌だが服も肌なのだ、金銭に余裕があるのならば彼らの住まう住居もまた彼らの身体の一部なのかもしれない。

ここには代々続く貧困の遺伝子も何か私にメッセージを送っているような気もする…世の中の富裕層が身に纏う物と身を保護する物に、社会的な上下差の意味を込めてきたのは明白である、人間とは不思議なものだ…だからお洒落な人は強い人のように見えるのだ、一種の錯覚なのだが。

 

要するに私はお洒落な人が苦手だった、話が通じないと思っていた、ここからは個人的な話だが…そんな折お洒落な人と知り合った、服飾に携わる人だった。

彼とは一度大きな喧嘩をしている、結局私の如きダサい女に袖にされたのが癪だったらしい、その態度に私もまた精神的に殴り返した…と書くとものすごい泥沼のようにきこえるがなんてことはない、私はお洒落な人と一緒に居るのが窮屈だったのだ、その理由はだらだらと上記に述べた通りである。

 

丸1年ほどの空白期間の内に私も少しだけ考えが変化した、不釣り合いでもよいのではないかということである、特にその人の事を思い浮かべたわけではない、漠然と「自分でありたい」という欲求が湧いてきたということである、実に遅咲きの青春を迎えたのかもしれない。

再会したとき、意外なほど私たちは素直に語り合った、謝りあった、なぜか…もうこれでいいやと思った、なぜならお洒落な人への苦手意識が急速に消えているからである。

よくよく考えると誰かと喧嘩して仲直りするという人間関係自体無かったかもしれない、仲直りというよりも、もとより「合わないな」「外見だけの奴だな」と思っていたので冷めた間柄だったのだ、再会してはじめて仲良くなったと言ってもいいかもしれない。

 

私は彼の向こう側に大勢の顔を見るのだ、一人の人間の向こう側に苦手と思っていた大勢の見知らぬ顔を見るのだ、一人の人間の向こう側に自分のあずかり知らぬ苦労をする人たちの姿をも見るのだ。

 

また、彼のことを考えるとき、もう一人の人物のことも思い浮かぶ…私にそっくりで自己嫌悪が酷く弱虫、逆恨み気味の男の事だ、彼も根は良い奴なのだ…彼もまた私同様「自分とはヒエラルキーの異なる人種」と見なした人を苦手に思う傾向にある。

だからお洒落な人への苦手意識が薄れた今、ただそれだけのことが私には…弱虫の男をも救う鍵を見つけたような気にさせるのだ。

 

このようなごくごく個人的な出来事が、私の世の中に対する意識をも変化させる、たった一人と話し合えたということが、大勢の人と話し合えた気持ちにさせる。

 

お洒落な人と接するのに自分がお洒落である必要は無い、お洒落な人というのは私同様、自分自身でありたいという意識が強い、ただそのような人間であるということがわかった、それだけのことが私にはとても重要に思える、そこに多くの人の欲求をまざまざと見た気がするのだ、人は自分を守りたく、かつ見せたいという相反する本能を私はようやく直視したのだ、若いと呼ばれる年代を過ぎてから。

 

苦手だということをはじめて克服したような気持ちだ、苦手なことが消えてゆく、世の中の仕組みは消えはしない、貧富の差も健康問題もただそこに残り続ける、でも互いに話せたら…そのような状態こそ調和と呼ぶのではないだろうか、そのような状態こそが人の纏う最も「美しい意識」なのではないだろうか。