a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

不釣り合いのユーモア【恋】

 

高校の時、その学校内ではかなりのイケメンに告白されたことがある。

 

彼のことを知りたい気持ちで、私はその告白を受け入れた。
しばらく一緒に下校したり、彼から、家庭科で作ったクッキーなどをもらって食べたり、私は何も気にせずぬくぬくと彼からの好意に甘んじていた。
彼が年下だったこともあり、正直、かしずかれているような妙な居心地の良さもあった。

 

ちなみに私は根暗な…かといってオタクにも分類できないような微妙なスクールカーストに位置していた。
噂が噂を呼んで、ほどなく私は嫌われたのだった、幸い自分のクラスではそれほどでもなかったが、他クラスの女子の集団に遭遇すると舌打ちされるといったことが起こり始めた。

 

自然の摂理で、不釣り合いな者たちは浮く。

 

私は、自分が嫌われてしまった要因は、自分がイケメンの彼ほど垢抜けていないことだと考えた。
主観ではなく客観したときに、私たちが合わないことが周囲の反感を買ったのだとわかった。

 

しかし垢抜けるのは難しかった、当時からニキビはひどかった、そして相反することに、すでに自分の中で定着した自分の外見というものに一種の安心感も見いだしていた。
自分が変わるのは、恐ろしかった。

 

そしてそれほど、彼のことを好きでは無かった、ただ非常に残念だった。
彼とは何気なく別れた、彼が別れを意外なほど真摯に聞いて、昼休みの図書室の片隅でそのまま目を据えて指輪を返してきたことも印象深かった。

 

ああ、いい奴なんだな…と素直に思った。
美しい男だなと思った。

 

そのときに彼の魅力に気づいたといってもよい、去って行く後ろ姿、軽く束ねた髪にもそういえば触れていないなと思った。
もう話すこともないというそのことが、何も知らずに関係が終わったというそのこと自体が寂しくてならなかった。

 

ある種の集団に居る場合、どうしても集団の圧力というものが存在する。

 

私はあのときの集団の圧力を、忘れられずに居る。

ヒエラルキーに差がある相手との付き合いを拒んでしまう癖がついたのだ、それは舌打ちをしてきた彼女たちが悪いのではない。


客観視、という一種の真実に於いては、不釣り合いだということは確かに、醜いのである。

 

さて、あれから倍ほど歳を食った現在の私は、その醜さを、独自のユーモアで笑い飛ばしたいと思っている。

 

こんなに不釣り合いな人たちが、何らかの共鳴状態にあるということそのものが、面白くて幸福なことであると感じたいのである。

 

自分が美しく変貌して、垢抜けて、そして垢抜けた人とつきあうのは…そこに一種のユーモアが無い限り実に殉教的であると私は思うのだ。

私の(勝手に)目指す幸福というものは、個人が個人の状態のままに、他人と対話するということだ。


垢抜けることひとつとっても、経済的、健康的な問題をクリアしなければ到達できない地点であることもまた事実である。

現実問題をそのまま残した状態で、他人と楽しく話せたら、情のある付き合いができたのなら、そのようなときにこそ「自分自身を受け入れる」ということに到達したと言えるのではないだろうか?

 

私は最近、ずっと放っておいた高校時代のこの宿題に、着手している、ああこれはあのときの続きか、と思いながら会っている人が居る。
恋愛、というわけでもない。


しかし多分今を逃すと、また50くらいになったときにこの手の人と巡り会って逡巡する羽目になりそうなのだ、私の感じるヒエラルキーの問題を消化してしまいたいのだ。
そしてその消化方法がわかったら、あるいはわかるまで、こうしてここに書いてゆくことにする。


ちなみに、高校の時の彼がなぜ肌の汚かった私に惚れたのかは、未だ謎である。