大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

自分の居ない世界に私は居たかった【世の中】

 

私はAVを見ながらするセックスが好きだった。
相手も画面の中の女を夢想して私を抱くのだ。
そこに私が居ない、ということこそが気楽だった、気楽に自分の性欲を消化できるのだ。

 

「胸がもう少しあればアレができたのに」「妊娠だけはするなよ」「今度ミニスカート履いてきて、見せびらかしたいんだ」
何を言われようがこの気楽さにはかなわなかった、相手の望むものが究極的には人形でもよかったのだ。
なぜなら、この手のことを言う人間もまた、自分を直視するのを避けている男だからだ、女体という人形とやっている自分…というものは彼らの中には存在しない、在るのは画面越しの女体のみである。

 

服装も何も考えない男性と、私はよく会った。
そのような人の見せる寂しげな表情こそが、客観視した私自身の本性のような気がしたからだ。

 

自分の居ない世界に、私は居たかった。
自分はただ鑑賞者でありたいという気持ちで、憧れの人を見ていた、憧れの人で夢想している自分は弱く醜すぎて捨ててしまいたかった。
もしかすると私の会ってきた彼らも、そうだったのかもしれない。

 

あの団地の、カビが一面に生えた窓辺と怒鳴り声、ニキビだらけの自分の顔面、そういうものを拭い去りたいとばかり思っていた。

 

まばゆい朝日を浴びて連なる山々の稜線と、目下の道はつながっている。
飛んでくる青鷺の咥えるさっきまで生きていたカエルと、川辺のオタマジャクシ、増えすぎるボウフラを食べるために放たれた鯉、電線にとまる鵜。
世界中の工場、ミシンの音、今年流行の色、今年の服を決める人々、少し張り詰めたような空気の中展示される宝飾品、それを畏れも無く手に取る人々。

 

このようなものが、すべてつながっていると体感するまでこんなにも時間がかかった。
まだ体感しただけであって、捨てたいものはあふれている。

もし、自分自身を卑下せず、忘れ去りたいと思うことが減るのならば、貧富の差や美醜の差に人が苦しむということも減るのだと考える。

それが自分自身に成る、外見と内面共に、一致した状態になるということなのだと思う。

 

そのような状態に私はなりたい。
私の言っているのは主観の話である、実際の貧困問題について改善する要素はほとんど無いといっていいだろう。

 

ただ…貧困が理由で自殺する人のほんとうのつらさは主観の問題ではないだろうか?


醜形恐怖などで自分を許せない人が、過食嘔吐したり、借金してまで服を買いあさるのも、美と自分とが点在し、概念としてあまりにも離れているということが理由なのではないのだろうか。

 

貧困というものが、横のつながりを強化させる要素のある社会的状態だったのなら、老人は貧困で自殺したりしないはずだ。
美醜、ことに皮膚病などが「個人の健康問題」として扱われるということこそが、私のつらさだった。

 

たぶん、今の健康な状態の私を見ても、今の時点から見た人生の大半を、いわゆる「汚い」状態、「汚い」人として過ごしたと見破る人は居ないだろう。

 

汚い人、貧しい人が個であるという認識が本人を辛くさせている気がする。
私は、社会が悪いといいたいのではない。

脈々と受け継がれている美への畏れ、自己卑下をやめたいだけなのだ。

 

自分自身を、より自分自身に変貌させてゆきたいと思っている。
顔も、髪も、肌も、服装も、住処も、思想もである。
そうなったときに人からの視線に耐えうると思う、それが余計なみじめさを、自分を苦しませる毒を取り払うということなのだとなぜだか今は強く信じている。