大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

痴漢する男と痴漢を止めることのできる男【世の中】


男の美徳とは何だろうかと考えたとき、それは正義感ではないだろうかと思った。

 

正義というときな臭い感じもするが、私の持論である(※でしかない)【人間は欲求を追求すると意外にも「相互補助」状態を好み、その状態に自分や周囲を変化させようとする力が働く】、この力が働いているときこそが、男の正義感ではないのだろうかと私は考える。

欲求の追求が浅いと、人間やその他の自然なども含め…それらが表面的にしか見れなくなるのではないだろうか。

 

例えば女性は、大抵の場合自分の欲求を抑えるように、それが美徳であるとしつけられて生きてきている。
欲求の発散の仕方がわからないのだ、それは自分が何者なのかの自覚も無いような状態である、生物本来の状態から離れてしまっている。

 

たとえば自分が女性の会社員だったとしよう…通勤電車で痴漢に遭う。
自分の同期には男もいる、でも「いかがわしい」性産業のあらゆる媒体には「自分と同じ女体」が売られている。
自分は働かなくては家賃も払えない、実家にも仕送りしなければならない、電車に乗らなければせっかくありつけた職からもあぶれる。
電車に乗らなければ生きてゆけないのに、電車に乗ると「自分の意思」とは真逆の「扱い」を受けてしまう。

 

もしかしたら周りの男性誰もが…自分という「女体」を、そのように扱ってもよい存在だと認識しているのではないだろうか。

決死の思いで悲鳴をあげても…誰もが無視するのではないのか、自分だって他の女性が悲鳴をあげていたら、怖くてなるべく関わらないようにしてしまうのではなかろうか。

いったんそう思うと、電車は怖い乗り物でしかなくなるだろう、被害妄想だと言われることへの恐れも重くのしかかるかもしれない。

 

そしてその女性が、自然の欲求で身体が熱くなっても、自分自身の欲求を「汚い」と認識してしまうのではないだろうか。

 

そのようなときに思い出すのは彼氏の顔ではなく、通勤電車での恐怖と、抑圧された…周囲の無感情さへの恨みではないだろうか。
なぜなら単純に、恐怖というものほど強い刺激はそうそうないからである。

心地よい快楽よりも人は強い恐怖を忘れられない、男女ともにそうなのだ、生きるために忘れられないように出来ているのだ。
生きやすいように、ではなく生き残るためである。

 

前置きが長くなったが、私はとあるブログを読んでいて画面へ向けて拍手を送った、ついこの前である。

ある男性、そのブログの主の彼は「痴漢されている女性」に気づいたら「痴漢している男」へ視線を送るのだと書いていた、それで痴漢行為はその場では静めることができる、止めることができるという実践型体験談である。

 

私はこれこそが、男の持つ一番の美徳ではなかろうかと考える。
この力を呼ぶのに一番適切な言葉は、正義感ではないだろうか…そうとしか言いようがない。

 

その彼、というのではなく、そのように痴漢を止めることのできる男性でも、帰宅したら痴漢モノの性的媒体で夢想しているのかもしれない。
強姦の夢想をしているのかもしれない。

 

だからこそ相手の嫌がる行為を止める力を持つのも最終的には男性であると私は思う。

電車内で痴漢行為をする男の存在は消せない、それは浅い快楽だからである。
でももし、同じ車両内に「相互補助が一番の快楽である」その快楽の妨げになることは止めたい、という真の欲求に忠実な男性が1でも人存在していたら、その場の痴漢行為は制されるのである。
なぜなら、後者の欲求のほうが多くの人の快楽につながるからである、だから正義は強いのだ。

 

もし、そのような強い男性が2人いたら。
もし、3人いたら。


痴漢行為などはそもそも、起こらないのである。

 


私は主観で生きているので、基本的には自分の思ったことしか書かないようにしている。
だが彼には、畏敬の念を覚えたので、ブログという土俵に感謝の意を込めて文章を書かせてもらった。
その人がこれを読むかどうかは問題ではなく、私が伝えたいのは、不特定多数の方に…女が男に感服するのはこのような時であるという、まさにこの状態を見知ってほしい、男の強さとはこのようなものであるという、そのことを誰かに読んでもらえればという気持ちからである。

私は、彼の行動は素晴らしいと思う、それはもう過去のことだが、その場に自分が居合わせたらやはり感銘をうけていただろう、これが男のすごさなのだと。