大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

理由無き生命【世の中】

現在所属している(という言い方になってしまうが)社会的状態に至るまでの理由。

現在遂行しているあらゆる行為の、その行為に至るまでの理由。

情状酌量の余地ありかどうかの判断ごっこを、自分自身でしすぎているのではないかと思うことがある。

理由はない方がいい、少なくとも理由がなければないほど、熱意を感じるのだ。

理由付けのためにあらゆる名前が使用されている。

言葉はきついかもしれないが、特に病気は、ほとんどその名前を売り出しているように私は感じる、病院のやりかたというのは非常に資本主義的である、人々がそれをほしいと思う…その概念すらも作り出して売っているような気がしてならない。


「病気」
「貧困」
「災害(人災含む)」
理由の大体がこの3つだ。
私は、自分の物事を語る場合この3点ばかりが理由の人生になってしまう。


この3点以外の、理由の無い情熱で行う行為は、主体的であるというただその点だけで、一種の美しさすら感じる。

それが社会的に常軌を逸していても、何の生産性も無くとも、最早悪癖であっても、自分がやりたいからやったというそのことだけが、本人を生かしている、ただそれだけが本当の意味で人を生かしているように私には思えるのだ。

 

虚無感からでない限り、大抵よいことである…争う要素のある物事でも、暴力的な物事でも、本人を生かすことを何よりの前提と考えればである。

 

その是非はさておき、理由なき情熱からの行為は、抑制されている。

そのようにしつけられてきたのだ、情熱の行為というものは恐ろしいと、植え付けられているように感じる。

これこそが虚無感を生み出している気がしてならない。

ただひたすらに「お行儀のよいこと」

これにいかほどの価値があるのだろうか。

 

結果的に病気、貧困、災害を語るだけの生き物が増えている、それこそが人生を無駄にしている、私だけではない、苦しさに理由があるという思い込みから私は脱却したい。

良い人間、まともな人間だなどと、思われずとも私はただ生きていたい。
このようにただ生きている、情熱のままに逸脱もする、生産性も無い、ただ生きているだけの私が生きているということを書いてゆく。

 

私は自殺者というものが、どうにも自分自身のように思えてならない。
だから私の、理由無き悪癖、理由無き励ましを誰にともなく書いておくことにする。

 理由無き人生を、理由無き苦しみを、私は書きたい。