大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

後ろめたさや自己卑下は見下しをも正当化する、それに加担しない生き方、考え方を身につけて年を重ねたい【世の中】

 

友人と話したときのことを書いておこうかと思う。
というより驚くべきことに私のような偏屈者にも長年の友人がいる、彼と話すとなぜだか自分のことがよくわかる。

私は「楽な生き方をしている」
私は「主観的にはつじつまの合う生き方をしている」

ただし「客観的には生産性がない、自己犠牲性がない」
私の軸となる「絵や文章」等も、「数字で見れば何年続けようがたいした生産性には至らないと推測する」

このことに関する、「後ろめたさ」が最近苦しい。
苦しいと言うほど苦しいのではない、ただ社会的に活躍する道を選んで「客観、主観共に何かを実践している」という自負のある人と語らうのが辛い、というときがある。

そのような人物を嫌だというわけではない、ただ自分へのやるせなさを感じてドッと疲れが出てしまう、ときがある。
彼らは悪くはない。

生産性こそが、生きる軸である…生産性こそが正義である、生産性が大義名分である、この理屈を全面に掲げることへの疑問があるのだ。
それは多面的要素のうちの一面に於いての、正義である、と私は思うようにしたい、これは自分に対しても人に対してもである。

自分の問題を根本から語る上では、誰しもが、出自を抜きにするということは無理だろう。

私の出自は貧しい、その上頭も非常に悪く運動もできない、卑下しているのではなく、これは数値化したときの事実としてである。
ではもし、自分の出自が裕福で、さらに商才にも長けており、働かずして稼いでいる生活をしていたらどうだろうか。
やはり後ろめたさは感じるのではないのだろうか。

では、自分がもっと頑丈な人間で、仕事上の自分と理想の自分が重なるような状況を作り出せ、邁進している状態だったらどうだろうか。
生産しているという自負ありきで、そうでない人間を見下さずに居れただろうか?

世の中の、ニートや引きこもりと呼ばれる状態の人々(私も当てはまるのかもしれない、あるいは主婦であるということへの後ろめたさ)が、なぜこうも人を籠もらせねばならないのか、内に籠もらざるを得ない状態にさせるのか。

私が「生産性があると自負する人々」と対面するとき、相手のことを認めつつ自分を決して「卑下しない」ことを意識し続けること、これは世の中のほんの少しの「よいこと」になるのではないだろうかと考える。

私がもし、自分を「ほとんどニートである」等と、冗談でも卑下した場合、俯瞰した視点からは私は世の中の「生産性中心主義」に加担した、そのような文化を後押しした、ということになるのではないだろうか。

生産性中心主義を私が信奉しているのならばそれでもよいのだ、だがそうではない。

私は自分が、人と対峙する場合卑屈にもなりたくはないし、見下したくもない、このような状態を維持したい、あくまで概念の上で、フラットな状態で居たい、多分これを超えられない限りは、あらゆる種類の作品と呼ばれるものは、内輪だけの楽しみに終始するだろう。

この後ろめたさを乗り越えない限り、人を見下すこともやめられないだろう、その程度の作品しか作れないだろう。

どうかこれを乗り越えてゆきたい、それが作品にも通ずる根幹になるような直感がある、たとえその作品とやらが、世の中的には無に等しくともだ。
私は自分が、このように年を重ねたい、このように生ききりたいと最近思うようになった。

…ということを、友人を目の前に、できたばかりの駅ビルで中華を食べながら漠然と話した。