a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

性的トラウマ

性的なトラウマのある人たちは、自分の人生の性という一面を直視できずに歳を重ねているのではないかと思います。

 

私は小学生の時に度々性的な暴行を受けました。

にもかかわらず性欲があることを、今でも受け入れられずに居ます。

 

恋をして、その恋人と肌を重ねても、何かが現実ではない気持ちでした。

 

相手の性の理想は、いわゆるAVの作り出したものです、性産業が販売目的で造ったものです。

私の身体が、その理想に合っているかどうかの感想などを言われたり、私が達したかどうかばかり問われる関係に疑問をもっていました。

恋人たちの事はそれぞれに好きでしたが、私の過去の話をする相手ではないと感じました、性の理想が食い違っているからです。

 

暴行というものそのものが、背徳として売られています、性産業の映像商品として造られています。

恋人も、暴行するという夢想を抱いている人物かもしれません、そのようなときがあるかもしれません、そう考えると言い出すことは控えようと決め、暴行のことは誰にも言えませんでした。

 

暴行されるということが、誰かにとっては「完全な娯楽である」こと、それがいつまでも私の心に引っかかっていたからです。

 

では、私自身の性の理想とは果たして何なのか…

どういった物事が性の理想なのか…

善悪を超えた、性的な夢想とはどのようなものなのか…

 

私は自分の性欲を汚いと思っています、今でもそう思います。

特に母親になる予定も無いので、余計に不必要なものに感じます。

 

ただ、自分がいつまでも「被害者」で居ることは、暴行をした人々の力の強さを証明するだけの働きしかしないということに最近気づきました。

 

私は汚されたままなのでしょうか。

暴行された人は、汚れたままなのでしょうか。

誰と寝ても、その人本人は変化することの無い人格を携えている、不可侵な領域を維持し続けるのではないでしょうか。

誰の子を産んでも、その人本人であり続けるのではないでしょうか。

 

暴行された人というのは独特の価値観で生きていると思います。

誰かの遊びが、本人の身体と精神をボロボロにし、そのままの状態で生きているからです。

 

何故なら、性的に遊ぶという事が一方的な物事でしかないからです。

暴行した人々を罰してやりたい、それこそ痛めつけて殺してやりたい気持ちのまま、大人になってしまう人がほとんどだと思います。

そして自分自身の性欲にとまどい、出来ることなら性そのものを捨て去りたいと思いながら生きていることと思います。

 

たぶんその理由は、性が、双方の遊びではないからです。

互いにとって性的に遊ぶ場があれば、いつまでも「被害者」で居るということから脱すると私は思います。

 

 

 

 

(性的暴行、性的トラウマ、乗り越える)