大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

空想の性的祭事、個人の性が昇華できる社会とはどのようなものか、個人的なユートピアを私は書きたいということについての文章。

ここから書くことは私個人の理想、個人の妄想です、不快感があるようでしたら申し訳ないです。
男性蔑視的に感じてしまったら本当にごめんなさい。

 

私が理想とするのは女性の性的歓びが社会的に許され、一種の文化となることです、そうしてはじめて、性が相互作用であることを男女共に実感できると思うからです、私は、セックスとは楽しむために在ると考えます、そういった視点から性について何か書きたいと思いました、以下は私の空想とその理由を述べています。

 

性的に楽しむことが男性の特権のように偽悪的に謳われているため、暴行を受けた女性がいつまでも自分の性を「汚い」「弱い」のだと認識してしまうのです、被害者自身が自分の純粋な性欲を昇華する場や文化が実質無いため、トラウマを脱しにくいのです、なぜなら女性の性は善悪と強く結び付けられているからです。

 

自分の性の「純粋な悦び」が誰の役にも立たない、場合によっては社会的に悪と見なされるから辛いのです、だから「被害者」の意識のまま年齢を重ねてしまい、自分の性欲は無駄であるというさらなる無力感に陥る負の連鎖にあるのではないかと思います。

 

「誰かの彼女」「誰かの妻」「子供の母になること(妊娠すること)」といった誰かに所属した状態でしか性の発露の場がありません、現在の社会には女性の主観で性欲を楽しむ場や風潮が存在しないからいつまでも自分の性を汚く思い、苦しいのだと私は思います、ですので女性が性を楽しむ場の必要性を感じます。

 

結果的にはそれが、性的暴行などの辛い事も「過去の不快な出来事であった」と処理できるからです、いつまでも「自分は汚れている」「あれだけの恐ろしいことが相手には遊びでしかないのか」「しかもその遊びは商業的、社会的に許されている」という、自分の苦しみすら男性の楽しみとして利用されている不快感、絶望感に苛まれ続けることが減らない限り、性的被害者はトラウマを脱しきれないと私は思います。

 

女性の性的歓び、というのは言い換えると「母親の性的遊び」です、これが現在なおも残る性のタブーです。

 

多分今の世の中を窮屈にしているのが男性視点の「理想の母親になれる女性像」と「そこから逸脱したふしだらな女性像」なのだと私は感じます。
これが、無駄な性産業、個人を無視した美の基準の押し付け、「女性は好きな男性の事だけを考えて行動して身体を開いてくれる」ことが善であるという、女性の性に善悪をあてはめてしまう負の働きである気がします。

 

しかしながら、社会的役割というものも重要です…いつの時代になっても父母という概念はなくならないでしょうし、その役割の重要性も変わらないとは思います。

そこで考えたのが祭事です、年に1~2度ほどの祭事のときには男女ともども、つまり母親も異性で身体的に遊ぶことを許可する風潮の存在が、この窮屈さを救うのではないかと思い(空想し)ました。

 

1度でも出産したら一生涯女性は母親のままです、一生涯を性的夢想から離れるというのは酷な気がするのです、祭事の間の数日のみ性的逸脱行為の許される風潮が、男性をも救うのではないかと私は考えます。

 

規模はその地域に応じて、様々な男女が睦み合うような行事があればと考えました、その様な場では自然の摂理で、女性の方が体力が続きますので…必然的に女性が優位なゆるやかな風潮ができあがるのではないかと思います。

 

性産業に従事している女性が相手にする1日の男性客の数を、楽しみとして交わる場が設けられると考えれば体力的な性差を理解しやすいかと思います…一人の女性が沢山の相手と関係しても本人のままです、年に1~2度のお祭りが終わればまた普段どおり生活するのです、性的に汚れるという事が幻想であるという理解に男女双方が達すると私は考えます。

 

お祭りの間だけ、女性本人、母親本人の愉しむ性の場が出現するのです、自分で相手を選ぶことさえ出来れば、性は双方にとって楽しむべきものになります、選べないことが辛いのです、また一人を性的に選んだらその人以外を性的に(たとえ夢想でも)選ぶことが悪であるという風潮が、女性に対してのみ非常に強いので不自然なのです。

 

この空想の祭事の何が利点なのかというと、そういった自然の(不自然かもしれませんが)性を目にする機会が、人々には必要な気がするからです。
演技ではないものが性の見本になると、そこには様々な年代、身体が集うわけですから、過剰な美意識も薄れます、性に善悪や美醜すらも本来無いのだということを体感したほうが、よりよい快感を得られると私は思います。

 

これも推測に過ぎないのですが、現代の性産業において女性の過剰な演技がなぜ支持されるのかというと、元来の性というものでは、一人の女性を一人の男性が性的に満足させる事が、実は非常に難しいということに起因しているのではないかと思います。

 

ですので肌を合わせた男性にも「相手よりも一層疲れたように見せる」ために過剰な演技をすることや、痛いだけでしかない手法の愛撫に「降参」したように見せること、身体が理想であるかどうかなど…ただそれだけがセックスの求める終着地点に成り下がってしまっているように感じました(もちろんこれは私が若い頃に肌を合わせた同年代の少年、青年たちに感じた気持ちでしかありませんが…)。

 

それが父系社会に於いては性的な面でも「男は弱さを見せてはいけない」という風潮であるため、男性側も「強く在らねば」という過剰なプレッシャーに耐えている状態なのではないのかと思います、ですので性的な物事に向いていない体質の男性も、声を上げにくいのではないかと思いました。


先生に私が夫の性的不能を告げてしまったことを、夫本人はきっと嫌がるでしょう、それを恥じているからです、そのような苦しい気持ちも私は取り去りたいですし、もしも夫が私以外の女性と性的に楽しむことが可能ならば、私はそれを制する気持ちはありません、これは恋の時期が過ぎたということもひとつの理由ですが、何より夫を人間として好きだから思うことです。

 

女性で、性的パートナーとのセックスに「満足」している人というのはどれくらい居るのか(達する事は女性の性的満足ではありません、何回も達するからです、また達する事が無くても非常に満足している場合もあるかです)、また女性の言う「もっと強く求められたい」という気持ちは何を代弁しているのかずっと疑問でした。
多分答えは、沢山の新鮮な精液を欲する気持ちがあるのではないかと感じます、数代に渡り「一人の男性にのみ身体を開く」のが女性の美徳だとされてきたため、女性本人が本当の欲求を認識できていないのではないかと考えました。

 

女性は体力的に複数の男性を求めてしまうこと、男性は新しい女性を求めてしまうこと、そのような性差が、自然な女性主導の乱交という場では相互補助が可能なのではないか、それが文化になれば互いの性を、貶すのではなく認め合うような社会になるのではないか、恋をしている状態でないかぎり、男女とも複数の異性が必要だという諦念が浸透したほうが互いに楽なのではないかと考えました。

 

繰り返しますが、現在の性認識が歪んでいるのは、男性の性の特質は社会的に認められているのに、女性が体力的に複数の男性を求めていることは一切隠され、むしろ「悪」であるという風潮にあると思います、だからこそ「女性が性的に汚れる」という背徳幻想だけが一人歩きしているのです。

 

女性の性は買うことのできるものです、そして男性をも、精子バンクなどで買う(あるいは提供されるものを受け取る)ことができます。
本来の女性の「受動的である」という点を現代では女性本人も否定的に捉えている気がします。


このまま性が購入できるものであるという意識や、社会的地位や優秀さだけがその人間の価値であるという意識が女性側(女性本人)にも強く内在するようになると、女性は優秀な精液のみを購入し、男性は、無力感から人形で性行為を代用したり、人形を痛めつける(人間ではないという点で、殺害をも連想させる一方的な自慰行為)等の過度な視覚刺激によって性的快楽を得るような気がします。

 

何故、私が男女双方の性の売買に否定的かというと、性が相互作用であるという事が忘れられ、男女双方の性そのものが無価値になるからです。

 

現在、男性側も社会的地位などが性の価値となっているように感じます、女性も「30を過ぎたら女の価値が無い」という認識が根強く残っています、その無価値感に加え、性は善悪という枠組みに押さえ込まれています。


よって男性は自分だけが支配できるものを求める傾向が強まり、性的趣向が幼い異性を力で征服させるような内的背徳へと向かい、女性は自分の「誰も求めていない、生物的に終わったと見なされる性」を汚物のように感じ、それを社会的に封じ込めたいがため抑うつ的になるのではないかと推測します、このまま性の売買という認識が浸透すれば、もっとこの傾向は強まるのではないかと危惧します。

 

私は、性というものはただ一瞬互いに燃え上がるようなものだと感じます、一人でも性的に共感する人が現れた場合、自分自身の性というものが救われると考えます。

 

ですので私は…まったくの空想上ですが、かがり火の下で性的に遊ぶというような静かな祭事があれば、本当に良いガス抜きになると想像します、決まりをひとつ唱えるなら、病気の蔓延を防ぐため検査を終えてから参加するというようなことです…私は性交というものは楽しくなければ意味が無いと考えています、だから性を楽しむ場が必要だと思うのです、この概念が特に女性(母親)に欠けていますのでトラウマを脱しきれないのです。

 

祭事に於ける乱交というものが存在する文化の下では、家族というものももっとゆるやかなものになっているでしょう、「お祭りのときの子」と呼ばれる存在も出てくるでしょう、家庭というものに近隣の人が介入する…ある意味でしがらみの強い状態にもなると想像します、生物的嫉妬が人々を無意識につなぐからです。

 

ですが私は、この想像上のゆるやかな家庭を悪いとは思いません、父は一人で家庭を背負うことで爆発していました。
父が潔癖症であっても、癇癪持ちであっても、地域の人の介入があれば私はもっと小さいうちから俯瞰した視点で「父は怒り易いのだな」と認識し、三十過ぎの今現在に至るまで父の暴力を恐れるような幼稚な大人にはならなかったでしょう。


私の妊娠も、孤独なものではなくなったと思います。
私たち夫婦のような性的関係の無い、でも信頼し合った生活を送る男女も、こういった祭事で自分の欲求を直視でき、救われる気がします。

 

もちろん、暴行を働きたくなるのも、女性を独占したくなるのも男性の本能です、それに従いたい気持ちも女性の本能です。
このような祭事が開かれたとして、その場で一時的に性が発散できても暴行がなくなることはないでしょう。

 

しかし、母親がこの祭事に参加する風潮が数代続けば、性というものが汚いと思う人や、母親という理想の女性像の押し付けからの脱却は叶うのではないだろうかと私は想像します、陵辱という言葉なども古語となる日が来るのではないかと思います。

 

祭事という伝統の形で…ある意味異次元のような空間で女性個人の、善悪を超えた性の場が許される状況をつくることが、多くの人の性意識を楽にするのではないか、そしてこういった祭事自体、本来日本には存在したのではないかと漠然と思います、祭りの時には無礼講、という風潮には性的な逸脱も含まれたような気がします。

 

私はこの点では、「性的暴行の被害者」が加害者を「許す」という表現することも、それをすすめることも現在ではまだ非常に危険であると思います。
被害者自身はいつまでも許せない自分を責め始めてしまいます、私は、現在の社会は「許し」という概念には達していないと思います、なぜならそもそもの男女の土俵が異なったままだからです。


だから私は現在の性的被害者には「加害者のやったことは一切許さなくていい、楽しくなかった、選べもしなかったのだから一切許さなくていい」と強く言いたいのです、それが自分の性というものを正確に認識し、守ること、発露させることに繋がると私は思うからです。

 

私が性について「作品」として文章を書くのならば、被害者視点ではなくこういった俯瞰した視点から、空想上の祭事を舞台にして女性の性の悦びや辛さを書きたいと思いました、そのほうが何か快不快であるのか、何に傷つくのかが伝わり易い気がするからです。

 

そのようなものは本来勝手に書いて至極勝手に公開すれば良いのですが、今現在私が何を恐れているかというと、多くの(主に男性が)人が「理想の母親像」に縛られているように感じます。

私の思考回路では、その出口に私自身が居ますが…性的な物事について書く、表現する場合、私(女)の性的思考の出口には一人の男がいるべきだという風潮が根強いと思います。


なので私の思考回路そのものへのバッシングがあるのではないか…ということにおびえています、例えばこの文章をたった数人の男性が読んだとしても、そのうち何人かは反論という名の「もう書くな」という類の暴言を吐く気がするからです、これはテーマが普遍的であるとかそういう物事ではなく、本人たちの理想の女性像に私がそぐわないいうことに過ぎないとは思いますが、私はそれを恐れています。

 

私は、男女としての夫婦の1対を守り続ける行為を否定しているわけではありません。
両親のことも、互いに男女としていつまでも補い合えるということは奇跡に近いと思います、ただ、それは善人だから成し得るという物事ではないと思います、それは男女の運で保たれる関係に近いと思います、思いやりだけで賄うことは非常に難しいと感じます。

 

また表面では身体を重ねていても、性的な媒体に新しい異性を見出して夢想する人々は居なくなりません、性産業に加担せずに居る男性は果たして存在するのか疑問です。
私自身、恋人たちとのセックスでは性産業をベースとしたものを理想とし、それを追う素振りを見せてきました、私自身も産業的な背徳妄想に加担してきたのです。

 

社会概念も、もう少し性と善悪を結びつける紐を弛めても良い気がするのです、それを弛めない限り、理想と背徳が暴走するだけで、背徳の暴走の結果、性的暴行の夢想、幼児への性的夢想までもが(たとえばネット上などで)半ば公的なものであると黙認されているように感じます…そこに互いの性が助け合うという性質が無いにもかかわらず、です。

 

男女1対で居られること、互いの身体の中、心の中にに歓びを見出すことが奇跡に近い偶然だからこそ、恋は素晴らしく価値のあるものなのだと私は思います、移ろうものだからこそ好いのです、それが100パーセントの強制になってはならない気がしています。

 

私は、先生と話すうちに、自分の性が何故苦しいのか考えるようになりました。
多分、苦しんでいるのは私だけではないと思います、女性の性が不自由で苦しいということは、男性もまた苦しんでいるという事なのだろうと思います、そういう苦しみを脱することができたらと思いながら、何か書きたいという気持ちが湧いて来ました。

 

先生がこの文章を読んで、私のことを、汚い性的趣向の持ち主だと思ったとしても仕方の無いことです。
ただ、それでも尚私が先生に内面を打ち明けるのかというと、先生がご自身の感情的な部分を律しておられると強く感じるからです、そこを私はとても尊敬しています。