大熊あれいブログ

絵画やイラスト、詩や独白文章を公開しています。不定期です。

芸術とは

芸術というものは、自分に降ってくるインスピレーションを再現すること、表現することです。


それは、何の食べ物を食べたいか思い浮かべ、実際に食べ、言葉は不適切かもしれませんが排泄するのとあまり差異は無いと私は考えています。


人間は筒状の生きものです、上から降りてきたものを体外へ出して身体を保っているに過ぎません、元来絵を描く行為自体はそれと大差ないと私は思います。

 

ですのである意味、父の言う「汚い」という感想も尤もです、ただこれが癇癪と結びついているため、私が恐怖心から描けなくなっている状態です。
(父の価値観では写実的なものほど良い絵なので、その価値観にそぐわなかった、それを家でずっと描かれ不快であった、全く勉強のできない私が単に自分を生かすためだけ、排泄するためだけの絵を描いているという行為が親として許せなかった…客観視すると至極もっともな理由から私を怒鳴っていました。)

 

また、現代では何故か芸術というと崇高なイメージがつきまといます、自分を商業的に売ろうとしているようにも感じられます、芸術は本来そのようなものではないと私は感じます、単に内的なエネルギーをろ過する方法、発散する方法が文章や絵だったに過ぎないということです。

 

だからこそ私には表現できないこと、暴言に躓いていること自体が身体的に苦しく、言葉は汚いですが精神的な便秘状態で、個人的には由々しき問題です。

 

私は人間の一番の本能は「他者の助けでありたい」という欲求であると感じます。
表現したものを公開したいと思うのは、自然の欲求です、何か反応や共鳴が起こることが芸術の目的だからです。


反応や共鳴が起こることが他者の助けになる事だからです、それが自己の助けにもなるからです、それが生命という存在の目的であり、生きるという事は常に相互補助を望んでいる状態であると私は思います、これはその他の物事(社会的な仕事、性的な事)に於いても相互補助を望むこと自体は健康的な状態というものだと思います。

 

これを望まなくなったとき、自分が他者に対して最早何の助けにもならないと悟ったときが、個としての生命の終わりなのだと私は感じます。
話は逸れますが「死ににゆく場所」というものが公的に存在してもよいのではないかと私は思います。

 

もし、私に信仰心があって、自分の思考の出口や到達点にはいつも「神様(というような存在、他者)」が居る、そのような精神状態であれば、私の個人的芸術もまた神様宛のもので済んだと思います、公開せずとも神様が見てくださるという究極の内的満足です。
内的視点からの呼びかけが在る限り、一人きりで生きていたとしても常に他者と共鳴している状態ですので、その是非はともかく、宗教というものは個人を幸福にするものであると思います。

 

ただ、芸術という行為をするにあたっては、精神的に孤独であるということがある程度重要ではないかと思います。
なぜなら、感動するときというのは自分の孤独に共鳴したときだと思うからです、人種、職業、信仰、貧富の差…そういった様々なものが異なる他者とは分かり合えるはずが無いのに、それを超えていつの間にか共感しているということが感動する事なのだと、私は思うからです。

 

感動とは、信仰など自分の所属する場をはるかに超えた状態で、周囲の意見の有無、善悪は度外視した感覚で湧き起こる高揚感です、私が昔聖母像に感動したのもそのような状態でした、そこで私は自分自身の価値観を信じることにしました、思考の先に掲げた経文を取り払うことに決めたのはこういった精神の働きが行われたからです。

 

だからこそ芸術活動をする人(つまり私)は自分の価値観を他人に委ねてはならないと思うのです、それに慣れてしまうと共感するということが、単なる同調というレベルに成り下がってしまうからです、その輪に入らない限り少しも理解できない物事というものは…あくまで私にとってはですが、それは芸術ではありません。


この自分の価値観を、それは間違いであると暴力的に言ってくる人を私は恐れています、これが私の弱さです、克服したい部分です。

芸術というものは崇高ではないと私は思います、でもどのような視点を持つ人にも共感できるものほど、表現されたものに高低差をつけるなら…レベルが高いと私は思います。

そのような境地にたどり着きたいと、私は思っています。