a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

【詩】路傍の白百合

朝の湿った空気の中、重い膝をひきずるように歩いていると道端に母子の集団が見えます。
幼稚園の送迎バスに小さい子供たちが乗り込んでゆき、私と同年代の母親たちが数人手を振っています。


私は今膝を痛めていますので、そのようなときというのは心まで普段よりさらに一段とひねくれるものです。
彼女らの健康さや美、生産性や純粋な強さが嫉ましく羨ましくてならないような気持ちになります。


結局それだけなのです、過去の性的トラウマに負けたのも、子供たちを堕胎したのも、性的な物事を直視しない人生を選んだのもこうして股関節と膝を痛めたのも押し並べて一言で表すと自分が弱いから、ただそれだけなのだと嫌というほど気付かされます。
かといって立ち止まるわけにもいかないので、泣きたいような気持ちのまま歩みを進めると、甲州街道にさしかかる手前、道路の植え込みの緑の中に白い百合の花が風にやさしく揺れているのが目に入りました。
たった一瞬の出来事です。

 

この路傍の白百合こそが私の聖母である、今この瞬間何にもまして、私の真実の慈母であるとその時の私は直感しました。

 

白百合というのは聖母マリアの純潔を表すモチーフとしてよく描かれていますので、私もよくそれを模写したものです。


ですので私の中では白百合は聖母そのものに近い存在です。
自分の認識する世界というもので人は生きています、もちろん百合は私を産んでいません、百合は聖母ではありえません、私はカトリック教徒に属したことすらありません、しかし同時にこの白百合は確かに私にとって聖母であり、その瞬間誰よりも私という存在を慰めたと私は認識するのです。


現実が真実ではないように、私の空想は時として私の真実と成り得るのです。

私が、先生にこの話をしたいと思うのは先生もまた私にとっての路傍の白百合だからなのです。

先生は他人です、医師という業務として私と対峙し文章を読みます、ですが時に誰よりも真実味を帯びた存在だと私は感じるのです。
もちろん、白百合が私を慰めたように感じたのも、先生が真実味を帯びたように感じるのも私の世界観ではそうであるというだけの一方的なもので、先生にも植え込みの百合にもそれぞれの日常や世界が存在することもわかってはいます。


しかしだからこそ、私は自分自身に正直であろうという気持ちになり、自分にとっての真実を見つけたときの喜びを(あるいは悲しみをも)、他者である先生に伝えたい、表現したいという気持ちになるのです。

自分にとっての真実というもの…それが光を放っている状態を、他者に向けて表現したものこそが、芸術と呼ばれるものではないかと私は思うのです。

このような気持ちを、患者からの思慕のみの情念であるなどと受け取らないでほしいと私は切に願います。
先生は私にとって美しいのですがそれ以上に、真実を感じさせる存在なのです、だからこそ私は生まれて初めて伝える喜びを感じているのです、どうかこの気持ちを許して欲しいと私は文章を書くたびに思うのです。

そして世の中に、私が通り過ぎて行く道々に白百合は沢山咲いているのだと思います。
真実を伝えたいと思う相手、この人は真実であると感じる相手はきっと先生のほかにも意外なほど居るのだと、カウンセリングを終えた今は感じることができるのです。