私はこの財布を手放したいのだ

 

信号を渡って静かにその場所へ行く、考えてみるとまじまじと交番を見たことがない、私は冬の昼下がりに出頭している。
交番へ行くのもちょっとした決心が必要だった、盗みへの欲望があったことは確かだ、しかし裁かれたくない、裁かれたくないがために私は出頭している。
ぼんやりと曇ったように見えるガラス戸から中を覗き込む、すると殺風景な事務所の真ん中にある机の上にひとつの小さな立て看板があった。
【ただいまパトロール中です】
何がピーポだ、何がパトロール中だ、ふざけやがってという気持ちになり、携帯で警察官の一日と検索して彼等のルーティンを調べる、ザックリ2時間近くもパトロールしているのかと知って妙に腹立たしい気持ちになる。
室内はわざとらしいくらいに何も無い、舞台のセットみたいにわざと経年劣化をつけたみたいな風化の仕方をしている、ここで一芝居始まるような感じすらする。
仕方がないので立て看板の指示通りに、設置された受話器を取る。

 

どうされましたか?という声が聞こえたので私は言った、「お財布を拾ったのですけれど…」、私は電話越しの警察官から交番の人間がパトロール中であることを告げられて若干苛立ちを感じた、そんなことはもうピーポの野郎が立て看板で告げてきているのでわかっている。
私はこの財布を手放したいのだ。
何処か本部めいた場所に居るであろう警察官からの提案はこうだった…今ここで住所と名前を告げてくれれば後で交番勤務のお巡りをあんたの家まで使いにやって拾得物を取りに行かせる、とまあ大雑把に言えばこんな事を告げられ、私は戸惑った。
私は自分の氏名や住所といったものを明かさずにこの財布を手放したいのだ、足がつかないように手放したいのだ。
電話越しの警察官からの提案を断わりつつ訊ねる、「あのう、この交番の方はいつごろ戻られますか?」、何故かその質問が相手を刺激したらしい。
トロール中というのは周囲一帯を見回っている業務であって、何分後に帰る等とは一概に言えないのだという返答がある、じゃあ私はどうしたらいいだろうか?
「あのう、じゃあ私、ここにお財布を置いていきますよ」
電話越しの警察官がすぐさま叫んだ、盗まれます!!!、どうやら彼等は自分の縄張り内でヘマをするのが嫌、ということらしい。
「でも私、予定もありますので帰りたいのですけれども…」
その後暫く電話越しの警察官は何か手配しているらしかった、招かれざる客である私に対して、交番の人間にパトロールを中断して戻るよう要請してくれたようで、10分ほど待つようにと指示された私は従順に受話器を置いた。

 

改めて交番の中を見回すと、異様と言えば異様であった、コンクリート剝き出しの壁、脆い素材で出来た絶妙な建物…どうやらここは居抜きで交番になった場所のようだ。
現に昼飯抜きでこのような場所に居る自分を思うとやるせなくなった、そもそも落とし物を拾った時点でこうなる運命だったとも言える。
仮に私が何かセンセーショナルな罪と呼ばれる行為を犯してここに来たとして、それでもパトロール中という看板とピーポくんとやらのしたり顔を見ていたら踵を返すかもしれない、それくらい警官の居ない交番というのは間抜けな感じであった。

 

物事の詳細は省くが、私は財布を拾った、それを持ってバスに乗り込んだのだので…落とし物と最短距離であろうバスの車掌にそれを預けようとしたが受け取りを拒否された、どうやらそういうものらしい。
だがそれがバスの中での拾いものであったら彼等は受け取るのである。
私は、世の中の人々同様急いでいた、急いでいたというのは語弊があるがバスで行楽を楽しむという為にバスに乗車したわけではなく、予定があって乗り込んでいた。
当然、受け取り拒否された時には既に乗りかかっていて、後ろにも列が続いていた、無論その瞬間に踵を返して落とし物を元の場所に置いてもよかったかもしれないが、私は座りたかったしバスを逃したくなかった。
そういう理由…にならないような心理的作用で私は財布を手にしたままバスに乗り込んだ、その時に唐突に身体に熱さを感じた、怒りとも諦めとも幸福ともつかぬ何らかの熱であった。

 

落ちている物というのは持ち主から離れた時点で持ち主の観測を離れている、つまり落とし物は命を失っている。

 

私はゴミ拾いをたまにする、ゴミ拾いをするのは単に周辺環境が自分の縄張りだからである、自分の陣地を綺麗にしたいからするのであって、落ちている物の判別は私自身がする。
つまり、ゴミ拾いをする私がそれをゴミだと認識しているのでそれはゴミなのであって…泥だらけの靴下、雨水を吸った片方の手袋、数ヶ月前からある小さなポシェット、新聞、包装紙、お弁当箱、ペットボトル…私がそれをゴミだと認識するということと、それら物品が持ち主の観測下を離れたので命を失っている状態だということ、この二点が合致するのがゴミ拾いの妙であって、もし持ち主がその場に居合わせたら必ずしも私が連綿と拾っては捨ててきたゴミのうち全てが焼却炉に行くとは限らないだろう。

 

所有者が物品を認識、観測している時点では第三者がどう見ようがそれはゴミとは言い難く、所有者の物品を強奪したりスッたりする事は即ち「盗み」である。
持ち主が認識している物品というのは持ち主と命の共有関係にあると言っていい、そういうものを無理矢理引き剥がしたりしたら双方傷を負う。

 

一方で持ち主の認識を離れ、亜空間を漂う物品に命はあるだろうか?
命のあるなしはともかく、持ち主はその物品が無いという現状と全く平行して普通に生存していると言える。
よく、「なくした人が困っているから落とし物は拾ったらきちんとしかるべき場所へ」等と言う人が居るし、そういう忘れ去られた物品をいつまでも手すりにぶら下げたり、電柱に貼り付けたりする親切な人が居るが私には疑問である、それは私からすればゴミだからである。
そして言うまでもなく、持ち主がそのような物品を「忘れた」のでそれら物品がそこに放置されているのであって、持ち主はちっとも傷ついてなんかいないのである、傷というとご大層な感じがするが、要するに「忘れてしまえる程度のものなので持ち主の生命には無関係な物=忘れ物」という図式を私は思い浮かべるのだ。

 

土地を購入する際、M氏の口座から200万ほど引き下ろした現金を私は私の鞄に入れてしばらく、小一時間ほど先方を待った事がある。
此処で言う先方とは土地の前所有者の親族たちの事である、彼等を待つ間私は鞄のはしを絶えず握っていた、鞄の形状はショルダーバッグだったが、落としたら大変なのでささやかに手で札束の感触を確かめていた。
…重要な物というのはこういう物の事である。
コレがなくなったら一大事という物品の事である。
呼吸器が無いと死ぬ人間が居たとして、呼吸器を外してふらふら出歩いたまま呼吸器そのものを忘れて死にそうになる…等と言うことが起こるだろうか?(仮に起こるとしたらその人間は肉体を脱する事を望んでいるのだと思うが)
自分にとって重要な物というのは、それが失せてしまうと生き死にや日々の生活が変動してしまうという物である、それ以外の「忘れて」しまえる程度の物はそんなに重要なものではないのだと私には思えてならない。
それがお金であっても。

 

ちなみに私は物品への愛着はかなり強いほうである、失せたら困る物は持ち歩かないようにしているし、敢て外出用に予備を揃えておくくらい物品への愛着は強い。
物を忘れたりなくしたりしたらショックを受ける方であると思う、が、なくしたことはあまり無い、あるのかもしれないが忘れ物を忘れているのだと思う。
なくす物というのはそういう物である、仮になくしてショックを受けていてもそれは「盗られた」というのとは異なる。
あくまで自分が「忘れて」いたのである。
しかも「忘れて」いても、今尚自分自身は現存しているのである、物を忘れるというのはその程度の事なのだと私は思うのだ。

 

…という持論をいくら展開しようが、バスの中にバス停で拾った財布を持ち込んだ私は窃盗罪なのだろうか?
今、私は窃盗をしたということになっているのだろうか?
じゃあ、と思って座席に着いて携帯で調べてみた、これはバス会社の窓口とかに届けるべき案件なのか?
と思って窓口を見るが、用事を終えてから行くにしたっていちいち電車に乗ってそれからまたバスで乗り継いだような場所に窓口がある、しかもそれすら受け取ってもらえないだろう。
それでは用事を終えたら元のバス停までバスに乗って戻って、そこに財布をさりげなく置いてきた方がいいのだろうか?
その時周囲に人が居たら、どう考えても私は不審人物になってしまうだろう。
全て面倒くさい。
交番?
何故私が…?

 

ゴミ拾い者(しゃ)の持論としては、落ちている物は拾う物の判断によって価値が決められてゆく、である。
つまり落ちている物というのは、あくまで私はだが…拾って良いと思っているのである。
これは普通に言ったら正義感の強い良い子な人たちにはブーイングものだろうが、はっきり言って落ちている財布なんざ拾ってお金をパクっても全然良い、と私は思っている。
自分がやられても文句は言えない、だってそうでないと取捨選択の決着がいつまでもつかないし、そもそも落ちて忘れられているという時点でその物品は「死んで」いる、それを拾った人がどう生かそうがそんなものは天の采配であって人間如きが決める善悪を超越している…と私は思っている。

 

バスの中では目の前に座っている女が周りに人が居ないかのような様子で化粧している、不細工というわけでもなく、きっと職場ではそれなりに普通の常識的な人を演じているのだろうと思った途端、おぞましく感じ、何もかもが嫌になった。
目についた財布を拾って、中途半端な善人を演じようとした自分に強烈に腹が立ってきたのだ。
誰もが決着をつけることを避けているのだ、だったらもうこの財布の中身くらい私が貰ったって構うもんかと心の底までが一筋の色に変化したときに私は、携帯での遺失物取り扱いについての検索をやめ、財布を開くことにした。
いくら入っているだろう?
果たして私が…これを窃盗というのは自分では是とし難いが、半窃盗だったとして、それをするだけの「価値」のある金額だろうか?
いつも私がゴミと決めてきた物品、今度は私が価値を決めるのだ、半窃盗をするだけの価値のあるものか?
奇妙にも胸が高鳴った。
半窃盗、といういわば決着であった、自分で決着をつけられるだけの価値のあるものなのだろうかという事が私にとって重要だった。

 

『5万以上だったら貰おう、バスの運転手に受け取り拒否をもされたのだし、これは天の贈り物であって5万を忘れ去った持ち主よりも、5万円というものに…半窃盗というまでの価値と決着を見いだした私のものなのだ、有り難く使わせて貰おう』

 

いつもの公共の乗り物でのマナーを守る自分、ゴミ拾いをする自分も多少入っていたかも知れない、これで情夫がいなかったら一も二もなくかすめ取っていたであろう財布を、いざ開いた。
まるではじめから自分のものであったかのようにその財布を開いた。

 

まるではじめから自分のものであったかのようなその財布には、まるではじめから自分のものであったかのような金額しか入っていなかった。
1500円、しかも財布の中にはよくわからない小物やら、彼氏との小さい写真やらが細々と入っていてむしろ貧乏臭く、一瞬にして捨てたくなった。
財布の形状からしてもまったく私からは美点なるものは見いだせず、はっきりってゴミであった、もうゴミとして回収してそのまま翌週の燃えるゴミに出しても構わないんじゃないかとすら思った。
この1500円にしても、普段から少額しか持ち歩かない人なのではなくて、持ち主はカツカツでこの金額しか財布に入っておらず、それこそバス停留所で恥ずかしげも無くメイクする不細工だったに違いないという感じがした。
悲しくなるくらい冴えない女物の財布だった。

 

一気に暗転した私はこのような厄介な物は一刻も早く捨てたいと願っていた、私は物品が好きだがその分だけ、自分好みでないものはゴミであるという認識が強い。
こうなってくるともう素手でこのような財布を触ったということすら嫌になってくる…しかし用事もある。
結局用事を済ませてから私は交番までやってきたのだ、何だかんだで2時間以上も拾った財布を持ち歩いてフラフラしていたのである。
そんな自分が嫌だった、一刻も早く手放したかった。
確かに私は一時、この財布を盗ろうと思った、盗ろうというよりも…置き引きよりももっともっとソフトでライトな何か…天の采配で自分に巡ってきたのだという気持ちにもなったしそう感じている部分は少なからず在る。
よって未だに、落とし物からお札を抜いたとかそういう事をする人を特段悪いとは思わない、落とし物というのは落とした人間の采配で生じている漂流物だからである。
落ち葉は誰の物か?
サクラの花びらは?
犬の糞は?
宝石は?
札束は?
そうだよそうだよ私は浅ましい、声を大にして言おう、私は浅ましい!!!
だからこそ私はこの財布を手放したいのだ!!!
私はこれ以上自分を知りたくはないし、だから知らせたくもないのだ。

 

10分以上経って、まるで舞台セットのような交番に警官が到着した、私は財布を机の上に置いて立ち去ろうとした、警官は住所や名前は…とノートを出してきたが私は相手を制した。
「お礼とかそういうものはいいので、一切要らないので」
第一その財布から既にお金がすられていた場合、下手にそんなものに個人情報を記載したら完全な濡れ衣まで着せられかねないのだ、1500円の為に持ち主から盗人呼ばわりされるなんて御免蒙る。
しかし警官の前で一切の身分を明かさないというのは何だか、既に前科があるかのような感じにもなる。
だが警官の前で良い人打って身分を明かすというのだけは避けたい、何がピーポくんだぶざけやがって、何がパトロール中だ、こっちは昼飯抜きだぞ、こんな厄介な物を拾ってしまったせいで飯抜きだぞ。
一応、と警官は言って机の上でお金を広げた、1500円を数え上げてから私は拾得場所を教えた、バス停やら運転手の下りは割愛した、あの辺のバス停の辺りですという言葉に全てを集約させた。
その間、私は何となく警官の目が見れなかった、しかし全く眼を逸らしていても変なので意識して2秒ほど見たりして有り体な善人を演じ、心の中で言った、私は盗人です。


でも盗人が居ないと、世の中は綺麗にはなりませんでしょ、世の中は盗人がいないと漂流物だらけになりますよ、少なくとも盗人には決定するという役割はあるのです、と心の中で囁いた。

 

交番を出てきた私はさながら、出頭して待ちぼうけて出所してきたみたいだ。
ようやく冬らしくなってきた風景を見ながら私は肝に銘じた。

 

金輪際、落とし物には手を触れない。
金輪際、良い人ぶらない、と。

 

 

 

 

アーティストアレルギーと瞑想の話(長文注意)

 

私にはアーティストアレルギーなるものがあって、絵を描くくせにアーティストの作品やら彼等の人となりを見る事が出来なかったりする。
見る、と言っても特段現在アーティスト活動をしている人間と知り合いでも何でも無いし、生い立ちの関係にも居なかったし、美大などにも行かなかった(行けるわけ無かった)のでこれといって接点も無い、つまり私の言う「見る」とはネットを介してアーティストを知るという簡単な行為を指す。
若い頃ほどアーティストアレルギーが強く、とてもじゃないけれど故人でない画家の場合は作品すら観たくないというレベルだった、今にして思うとそれは一種の、自意識から来る嫉妬だったと言ってもいい。
もう若くなくなった気がするのでそろそろ、と思って今年はじめのうち情夫に連れられて個展的なものをチラホラ観た、「あまりにハイレベルなものを観て筆を折らぬよう敢て登竜門的な展示を見せる」という彼の計らいによって比較的穏やかなものを観たように思うが、穏やか過ぎて何故だか怒りが湧いた記憶がある、今にして思うとそれすらも一種の嫉妬だったと言ってもいい。
それからまたしばらくアーティストアレルギーがぶり返し、当てもなく描き上げた自作作品(らしきもの)は結局納戸に眠っているか、情状酌量の意味合いで件の情夫がそれとなく引き取って部屋に飾ってくれている。

 

教皇の祈りが通じたのか最近何故かアレルギー反応が軽くなり、偶然にも検索した絵画販売サイトで小一時間の間作品鑑賞に浸った、作品を鑑賞する分には大いに勉強になった、もう3度くらい生まれ変わらないと辿り着けない技巧という意味でも、こんなもんで良いのかという意味でも勉強になるのだが、アーティスト本人のプロフィールを逐一クリックしていったのは我ながらまずかった、さながら開けてはいけないパンドラの箱であった。
恥ずかしさの嵐、こいつらいい歳してありとあらゆるあまりにもしがない独自性についての主張を素で言っているのだろうかという疑問符がいくつもよぎり、何故か第三者が撮影したであろうポートレートだけがプロっぽくて作品そのものはたいしたことない場合に感じる異様な既視感。
要するに同族嫌悪である。
確かに皆様14歳くらいだったら十分に神童だったろうが、揃いも揃って私と同年代である、稼ぎ時の30代。
大変大きなお世話だがあと10年20年くらいしたらどうなるのだろうか、そういう人も何処かに沢山居るのだろうが如何せん取り扱われている場面が少ないので実社会からは打ち切られてゆくのだろう、確かに老いてダサくなった分だけ直視に堪えない。
そう、言うなれば私は私自身を死ぬまで直視し続ける自信が無い、こうして書いていることも含め、アーティストアレルギーを忘却しているときには大丈夫なのだけれどもアレルギー反応が出てしまうと発作的に全部ゴミに出したくなる、作品も、文章も。
快楽ほど苦しく恥ずかしいものは無いからだ。

 

ああ私の人生は、同族嫌悪にまみれているのだと、他人を観ると非常に強く感じる、大多数の他人はあまりにも他人過ぎるのだが自称宇宙人的な他人を観ていると元居た星でも思い出すかのような凄まじい気恥ずかしさに悶える時がある。
この気恥ずかしさの表面上の原因は自意識過剰であるので老いれば老いるほどに薄れてゆくのだろうが…根本原因はずばり自己愛である、自己愛の歪みが私を自己統一性から遠ざけているのだ。
情夫からはアーティストだと言われて嬉しい反面、あれほど恥ずかしい人種と一緒にされるのは御免被るという位の強い反発が生じる、私は二分している。
結局の所自己愛の屈折、のような所に原因があるのだと思った私は現状を打破すべく瞑想修行の門戸を叩いた。

 

前置きが長くなったが今回の話は瞑想教室(瞑想会)に挫折した話である。

 

自己愛、というのは現代の病と言っても過言ではない、誰もが比べられて誰もが成果を出すように強要されて幼少期を過ごすのでほとんど例外なく自己愛に苦しめられているだろう。
自己愛というものを過剰に認識しないようにするには瞑想や禅的な修行をするということに尽きるような気がした、いくら言葉の上で「自己愛も根源的には必要であり、でもほどほどにしておくとよい」等と博愛主義的に謳ってみてもそれを実行するのは難しい上、そもそも私自身が「誰にでも好かれるような」有り体な折衷主義的な思想そのものを忌み嫌っているので、自分の視野を変えるには修行だ!という位ストイックな方が性に合っていた、よって瞑想教室へ行けばこの種の苦しみから脱した人の雰囲気に触れられるかも知れないと思い、行動に移したのである。

 

件の瞑想教室は初心者の会と経験者の会に分かれており、先月初心者の会に参加した私は経験者の会の参加枠が空いていたために、本来行く気では無かったのだが修行したい気持ちが勝って参加申し込みをしていた。
初心者の会では講師はやや厳しい感じがして、「人」への愛着でこの会に参加しないでほしいというような言葉が幾度となく発せられていた。
よって初心者の会では誰もがある意味孤独で緊張状態のまま終始講習を受けたと言ってもいい、その時の私は漠然と「経験者の会もこのような雰囲気の延長なのだろうな」と予想していた、会自体は数年間続いているらしいので数年間修行した感じの方々がいるのだろうかと勝手に夢想してしまったのだ。
今思うとそれが間違いであった。
きっと凄い人がいるのだろう、自分には出来ない事を教えてもらえる…そう思ったのが間違いであったと言うべきか。
ちなみにこの初回では、瞑想をしていて飛ぶという体験まで出来たのだが、それが孤独と緊張の成せる技だったとすぐに知った、経験者の会に参加して知ったのである。

 

「人への愛着で参加しないでほしい」、その言葉の裏には孤独と緊張とが脳のリミッターを解除するという事が含まれている。
多分多くの人が経験者の会の戸を開いたこの瞬間にそれを悟ったのだと思う、経験者の会には数人の数年来の経験者と、その人等に好かれ、共同体への参加を許されたであろう人たちが居た。
共同体への参加を許されたであろう人が登場すると古参の者は笑顔で出迎え、新参者には特段話しかけないという、どこの学校でもどこの職場でもどこの共同体でもありがちな人間関係の沼がそこには展開されており、言うまでもなく場違いな私は女物の下着売り場に迷い込んでしまった男のような心許ない気持ちに苛まれた。


宇宙は一つである、どこもかしこも一点爆発を中心とした広がりであるならばそれは私自身である…と言葉で言うのは容易い、だが敢て言おう、女物の下着売り場には男は居て欲しくないし下着も触って欲しくない、好みで無い男に触られた下着を正規の値段で買いたいと思うほど私はお人好しではない、たとえ宇宙が根源同一であってもわきまえるべき物事というのはある。
色んな事情で女物の下着を欲している男は居るだろうし同情もする、それでも女物の下着というのは原則、女の為に作られた神聖な空間なのである、下着の中にこそ「女」の居場所があるのだ。
他人の居場所を敢て侵害してはならない、私とて情夫を連れて下着売り場へ行こうなどという行動はしないし、女人立ち入り禁止の聖なる場へ敢て土足で踏み込もうなどとは一切思わない。
いわば私は経験者の作り上げた個の滅した神聖な癒着の場に入り込んだ異分子なのである、退出すべきは私であって彼等では無い。
私は折衷主義が嫌いだ、宇宙は同一である、しかし出て行くしか無い。

 

…ということを開始3分ほどで考えあぐねていた、初心者の会が個を律した厳しい禅修行の会ならば、経験者の会は、誰がどのロッカーを使うかの動線まで厳格な規律によって定められているかのような往年のパートの更衣室じみた濃厚な雰囲気が充満しており、会に参加すればするほどに怨憎会苦という新たな修行が加わるのを感じ、身震いした。

 

講師は言った、「何故か1~2回の参加で辞めていってしまう人ばかりだ」、「すぐに辞めちゃんだから」、確かにそうだろう、初回は禅寺に来たのに二度目に訊ねたらパートの更衣室だったら、性別年代を問わずどのような人間でもおおかた逃げ帰るだろう、敢て古参の方々と仲良くなるために来ているわけじゃないんだから当たり前だろうと私は頷いた。
会社の古株の醸し出す合理的とは言い難い「当たり前」の事、良い人たちと仲良くしなければやってゆけない空気、そんなものは何処にでも溢れていて誰もが散々苦労しているのだ。
だからこそ「人への愛着で参加しないでほしい」という言葉が救いになったのだ、確かにこの場所を居場所にしている人たちにとっては空間との同化、他者との意識の融合は素晴らしい神事だろう、その為に新参者への無意識的な取捨選択が行われたとしても。
「道半ばにある人はいつも手を伸ばしている」と言って講師は発展途上の人間の図を描いた、確かに私とて手を伸ばしている、だが手を伸ばしていない人等居るのだろうか?
この宇宙の向こう側へ行きたいと手を伸ばさない人等居るのだろうか?
古参の方々は頷きながら下界の連中をにこやかに笑っていた、これが初心者の会だったならば身につまされて誰も笑えず、しんと静まりかえっていただろう、何もかもがある程度切実で逼迫しており、他人の不出来さを笑うほどの余裕はない雰囲気だったのだ。

 

経験者の会では馴れ合いが生じていて、馴れ合いから来る慢心の雰囲気が初心を砕いているという状況だった。

 

瞑想というのは個人が個々別々に潜心する行の事である、それ以上の説明は私には出来ないが、一人で行うと気が散るとか、もっと瞑想に慣れた人の雰囲気を知りたいとかそういう内的衝動が起こって瞑想会への参加という運びになるのだが…
初心者の会では誰もがこの決意を自分一人でし、自分の発言についても何の後ろ盾も無い状況で、誰が居るのかも知らない孤独な状況で潜心を行ったがために…

 

経験者の会よりも静かな緊張に満ちている分初心者の会のほうがレベルが高かった。
初心者のほうがレベルが高いというと不可思議な感じがするだろうし、第一瞑想のレベルや質というものを他者がどう観測するのだという疑問も湧くかも知れないが、場の空気、真剣さでいったら経験者の会はただのお茶会であって、初心者の会は切迫した魂への問いを誰もが直視せざるを得ない空気だった。
馴れ合いをしてしまうと馴れ合いが出来るかどうかというただそれだけに人間の注意が向くので注意散漫になる潜心という孤独の作業の場では孤立していればしているだけ集中出来るという…いわば社会とは逆転した現象が起きる。

 

瞑想や潜心といったものは経歴すらをも凌駕する、毎回、毎時、どのような感覚に至れたかだけが問題であって、それを云年やってきただの云十年やってきただのという物差しは全く通用しない。
毎時毎時の事なので、強いて言えばその人の(自分自身の)バックグランドすらも不必要である。
初心者の会では知ってか知らずか誰も自分の社会での役職や個人的悩み等は話さず、ただ潜心に注視していた分、誰もが孤独だった分、良い時間を送れたように思う。

 

人間の理想を忠実に行う事の難しさを考えると一方的に講師を責める気にはなれない、講師も多分この事には気付いていて、どうやったら個々別々な体験を個々別々なままで、団体として維持存続するかという大いなる矛盾と対峙しているようだった。

 

私が個人的に思う自己愛の矛盾を滅するという行のための瞑想では、本来の目的であり悩みである自己愛というバックグランドすらも消え失せる、瞑想というものができたと感じるあの感覚に居たると個人的な悩みや立場というものが消えてしまうのでスッキリするが、いつもこうとは限らない。
また心が迷い、アーティストアレルギーがぶり返すという阿呆な事を繰り返す、もう何回、いや、頭の中では何十億回と繰り返す迷いが消えるほんの一瞬、穏やかな気持ちになる。

 

経験者の会で瞑想体験談を共有するという場面があったのだが、個人的な悩みやお花畑が見えたというような夢想体験や、参加者の社会的立場という…いわば私の抱える自己愛なるものが濃密に話されていた。
幸いにも私の職等は聞かれなかったが、言うまでもなく、人は社会的立場を知ってしまうとそれを無視出来ないのだ。
私がアーティストと呼ばれる人種に対して気恥ずかしさを隠せないように、誰は偉くて誰は偉くないという序列を組み上げてしまうものなのだ。
それが経験者の瞑想会では普通に話され、瞑想会歴も含めた立場を無意識的に注視し、初心者の瞑想会では誰もが自分を律してバックグランドを何も言わず、瞑想の体験のみに絞って話を交わしたというのはなんとも皮肉である。

 

さて、私は身勝手にもアーティストアレルギーを瞑想によって治そう、瞑想会によって治せるとまで期待していたわけだがその期待は外れた、これまた挫折感も大きかった、今年は挫折してばかりである。
ただ、挫折したという風に書いたがこれはその実、他者への期待が外れたというだけの話なのである。
ひょっとして私のアーティストアレルギーも、瞑想会への挫折も、他人への期待が大きいという私の心的特性によって浮かび上がった病理なのではないだろうかという疑問が浮かんだ。
私はそういう意味でおかしいのではないか?
他人に期待し過ぎなんじゃないか?
確かに私は人間嫌いな分だけ他人に期待している…が、これも言葉だけで他人に期待しないという風に言うことは誰にでも出来るが、もし本当に期待しないのであれば他人が公共の場で何か凄まじい事(ご想像下さい)をやっていても心に全く波風立たないという精神状態を保てるはずである、けれども人間はそうできていない、他人の咀嚼音が耳障りだとか下品過ぎてで目に余るとかそういう事を言い出すのが人間の性なのである、自由に生きるなんてことはハナから無理なのである。
どこもかしこも往年のパートの更衣室さながら、虚偽と愛想と癒着した人間関係以外の他者には誰も理解出来ない美学に満ち満ちている。
しかしそのような宿命的不自由さの中で、敢て自分は自由だと言って憚らない人間が居る、それがアーティストである。
だから癇に障るのである。

 

よって、瞑想会へ行って解ったのはアーティストアレルギーは多分一生治らないという事だ。
アーティストアレルギーを治そう等とは思わずに、自分は矛盾した人間なのだという諦めを、人生に添えなければならない。

 

 

 

【詩】それでも我らは


実体は永久にやってこない
実体が不可視なものである以上
手順を踏むという事こそが生きる真実となり
一段ずつ登攀して
登攀して
それでも我らは
永久に辿り着けぬ実体へと登攀し続けるのみ

 

全ての手順が真実となり
全ての手順が敬愛を示す最善のものとなる
それでも
手順の中に埋没する神は確かに
微笑んでおられる

 

我らが登攀する一手先と
我らが過ぎ越した手順とが
重なり合い
交差してひとつに結びつくとき
遍く一瞬ごとに我らは生じ
永久にやってこない実体と共に消えてゆく
それでも我らは
永久に辿り着けぬ神へと登攀し続けるのみ

 

 

 

人間社会を見るセンスの欠如⇒を受け入れる人生


人間に対する興味や伝えたい気持ちというものがあれば技能は役立つが、人間に対する興味や関心や伝えたい気持ち自体が薄かったり、ズレていたりする場合技能はほとんど役に立たないということをここ半年ほどで痛感した。

 

①人間に対する興味や伝えたい気持ち
②また自分が人間社会に置いて何者なのかという点に意味を見いだせているかどうか

 

罪人なのか、善人なのか、小市民なのか、エリートなのか…自分のイデオロギーの中に持病を含める人も多いが、病人等何かの社会的ペルソナについて理解、共感しているかどうか。
ちなみに①も②も元来まるで無いとか、自分が何者なのかという点についてもどうでもいいし、本音を言うと自分の国籍とかですらどうでもいい、という位意識が人間社会というものから剥離している場合は、およそ人間に対しての発信力を持たないと自覚したほうがいいと思った。
自分が普段考えている事の大半は、言うなれば根源同一思想であるが、これはあくまで言葉に翻訳した場合であって、ロザリオの祈りについても珠の一つ一つが宇宙へ放射された量子の如く、この世に偏在しているイエスキリストの姿を俯瞰した地点から観測するという、時空を超越した感覚が生じるのでやっているに過ぎず、そのような解釈は独自のものであるので自分の思想を何かに分類することも躊躇われる。

 

前置きが長くなったが何が言いたいのかというと、私は身体の都合もあって自宅の仕事の幅を広げる事を考えていた、その中で人形の服を作る事に何故か唐突に感じ入り、それを小さな仕事にしようと目論んだのだがあえなく夢破れたという話である。

 

依然として洋裁そのものへの興味や関心はあるのだが、ただ単に唐突に人形が好きになったというだけで物を売るというのは如何せん、浅はかだった。
物を売る場合、先ず人間社会についての興味が無ければ駄目なのだ、この当たり前の事実が全く出来ていないと思い知らされたのである。
いくら人形が好きであってもそれは「私独自の思う人形を私独自の視点のみで好んでいる」究極の一点状態であって、「共通概念としてのドール」を好きな訳でも何でも無く、ましてや「日本に於けるここ数十年で生まれたドール文化、オタク文化」が好きなわけでも何でもないのである。

 

人間に対する興味や文化そのものに対する興味というのは的が広いので、思考の投影をした場合、幾つもの網を潜って思考が他者の心を打つ可能性が高い。
だが自分の究極の一点だけを考えた思考というものは、潜る網の狭さからいって宇宙の何処かへ思考が伝達されたとしても、それが他者の心を打つ可能性は非常に低い。
私が生きているのは自分の宇宙であって、そのような人間が文化的な概念に到達する可能性は低い、言うなれば私は原生林の中で一人せっせと創作めいた事をしているのであって…
そのような事柄を観測する事自体が相手からしても困難であるので、よって私の興味や関心が「実在している」とは言い難い状況なのだということを痛感したのである。
趣味ならばともかく、これを手仕事にしようなどと考えたのは甚だ浅はかであった、仕事というのは人間社会に於いてのみ観測されうる働きの事を指すのであって、宇宙の片隅で悦に浸っている事を指すのでは無いと思いきり頬を打たれたような感覚である。

 

言うなれば人間社会に物を伝えるセンスの無さ、この事について正直な所非常に参った、私はまだ夢見がちな部分が在って、宇宙の片隅で絵画や詩作という手法で自己法悦に浸っていてもそれを創作活動だとみなしてくれる第三者が何処かに居て、それが私の生きている内に私を観測してくれ、それが小さな仕事になるような事を楽観的に考えていた。
だが洋裁を習い始めてから自分の間違いに気付いた。

 

自分自身が全く人間を見ていない事、自分が人間社会に於いて何者なのかという事に関する無関心さに気付いてしまったのだ。
それを改めるには生まれ変わるくらいの意気込みでなければ認識を変化させることなど到底出来ないということにも気付かされた。
つまり人間に興味が無い人が、人間に対して物を売る等と言うことは原則、人間を観測していないのに人間に対しての働きが出来るはずがないということであるので、私が創作を商売にすることは不可能に近いという感覚に至った。
自分が何者でも構わないというようなことは一対一で人と話すような際には意外にも有利に働く事もあるのだが(だからこのブログを読む人というのが存在するのだろうと考えている)、物を売るとか事業を興すという場合にはやはり、集団や帰属する大きな概念…自分は日本人であるとかそういう漠然とした事を含む概念…が無い限り、自分の思考を照射する的が小さすぎて誰にも伝わらないという事態が起こる事も痛感した。

 

自分独自の物を、自分の意識が人間社会を見ていない状態で売るというのはそれくらい的外れな行為であって、オタク文化というものをきちんと見て、ある程度大きな的に向かって物を作らない限り、そう売れるわけがないということを知った。

 

現実を見なさいという言葉の示す現実というものは…何も宇宙の真実を見よということではなく、株等の金融システムを理解しろということですらなく、人間社会という独自の文化を見て尊重せよ、人間社会という局所的な概念を見据えよという事なのだとこの歳になってようやく知った次第である。

 

人間に対する根源的な興味や、人間社会に居るのだという強い自覚というものは一朝一夕に得られるものではない、これは気質であって、本当に生まれ変わる位の努力をしなければ私がどのような技能を体得したところでそれで商売をする事は不可能だろう、人間社会を見るセンスに欠けているのだ。

 

少し話は逸れるが、親の作ったサイトを見ていても実は同じ事を感じた、人間社会を見るセンスの無さを感じた。

父親はまるで数字しか喋れないような印象を受け、母親の描く猫のイラストは「母自身が猫になってしまった」ような奇妙な感じがした、「自分は人間だと自覚のある人間の描くかわいい猫」ではなくて「描き手自身の存在感覚が曖昧なので」、猫が宇宙人に見えた。
自分の年齢というものに関する社会的振る舞いというものをまるで解っていない人たちなので、人間に対する商売をするのには全く不向きであると言わざるを得ない。
この種の恥ずかしい奇妙さは、言葉の上でだけは時勢的には良いようにも捉えられるかもしれないが…自分の存在を人間社会に定義付けないということは人間社会的センスの欠如としか言いようがないので誇るような事では無く、多分多くの人に奇妙さや心許なさといった負の印象を与えてしまうだろう。
そしてこの人間を見るセンスの無さというものは、ある程度遺伝的性質を持つということもヒシヒシと感じている。
彼等にいくら知識や技能があっても、それを人に伝えるというセンスがまるで無いのを改めろと言ってもそう改まる事では無いだろう、両親の欠点というものは言うなれば自分自身にもかなり色濃く見られる特色でもあるので、この種のセンスの欠如は生まれ変わらない限り改めるのは無理という諦めを感じたのである。

 

こうして私は夢破れた。
洋裁を趣味としてこれからも続けるが、自分の服あるいは人形の服(最早そのどちらを自分と言うべきなのか)をコツコツこさえたところで仕事にはならないということを直感した。
しかし洋裁というもの自体には興味はある、何故かというとそれが私にとって全く歯の立たない解らない分野だからである。
例えば私が敢て絵を習いに行くだろうか?(まあそういうこともあるかもしれないが)自分の内在の神の導きによって描いているそれを、「第三者から教えられる」事に何の違和感も感じずに絵を習いに行くだろうか?
敢て文章教室に行くだろうか?…もし行くとしたらそこで言われることも解っている、「読み手の事を考えろ」ということである、しかし私自身が読み手のことをあまり考えていないであろう文章を好むために結局センスの無さに行き当たるだろう。
それでも絵も文章も庭造作も内在の神が何とかしてくれるので自分でやれてしまうのだ…勿論それが単なる放出の域を超えない限りは、だが。
一方で洋裁の原型からパターン展開という部分に関しての難しさを喩えるならば、私にはそれは「今から建築家になる」事くらい難しい。
そちらの方面を導く内在の神が居ないので、習うしかないという状態である、仮にそれが出来るようになったところで単なる放出の域を出ないのもここ半年で痛いほど身に染みた。
だが、謎なことなのでやりたいのだ。
内在の神が導いてくれない分野であるのでそれを「趣味」と呼ぶのだ、謎パズルを解くような感じの趣味だ、謎パズルの制作や販売まで出来るのであればそれは人間社会に於いての仕事になるが…謎パズルをただ解けるようになるという段階は趣味である、謎パズルの制作を何かに導かれて自発的に出来るのであればそれが人生の軸であるので、洋裁は趣味だが私は絵等の創作を趣味とは呼びにくいという感覚である。

 

さて、こうやって書くとプロになるのは難しいという言葉に終始するようだがそれは少し語弊がある。
私が言うのもなんだがプロになるのは難しい訳ではないと感じる、「人間社会を見る」「自分の存在意義を人間社会の中に見いだす」センスのある人であれば、何も非常に優れた技術などが無くとも「人に思考を伝える事に秀でている為」、少しの技巧を仕事に展開させるのは容易い場合も多々あるだろう。
何故プロになる事が「厳しい」事なのかというと、いくら創作が好きでも「自分の視点や感覚が人間社会のそれと合致しない」「人間社会に於いて何者であるという自覚が無い」「人間社会に関心が無い」という人間社会的センスに欠けた人の場合、視点を無理矢理人間社会に合わせて創作する事が「非常にハード」なだけである、だからプロになる事は狭き門のように捉えられてしまうのだと思う。

 

山奥で素っ裸で独自の神の像を彫っている人間が居たとして、第一、その人の制作物をどうやって第三者は知るのだろうか?
制作者がそのスタイルを貫くならばおそらく一生誰にも知られないだろう。
何もそのような独自の物が崇高で、文化的な物が下等だと言いたいのではない(物を売る場合に添えられる芸術家の崇高性というものすら、権威のある誰かの発言によってのみ効力を発揮する)。
山奥で素っ裸で誰の目も気にせずに創作に没頭していた人間が、人間社会という窮屈な場に出てきて自らの振る舞いを含めた創作性というものを発揮できるか否かが、プロになるかどうかの分かれ道なのだと思う。
プロというものも高尚な事ではないと私は感じている、だが人間社会相手に創作が出来ない限り人間社会からの報酬は得られないだろう、だからこそプロという感覚の人は「人間社会を見る」努力をしている人を指すのだと思う。
人間社会を見る素質がある場合は、何をやろうが…それがブログでも、株のレクチャーでも、庭造作でも何でも、仕事にすることが可能だろう。
しかし山奥で素っ裸になって誰の目も気にせずでないと創作出来ないというのであればそれは…喩え本人が内在の神と絶えず合一していたとしても、はたから見たら内在の神とやらと絶えず合一らしきことをする行為に没入している人というだけであって、人間社会に物を伝えられない場合は人から理解されることも難しいだろう。

 

この事に関して思うのは、以前図書館に勤めていたときにイラストを頼まれて描いた事だ。
私自身が楽しんでこの作業に勤しんだ反面、これほど疲れる物事は無かった、胃が痛くなるほど悩んだりしたものだ、どういうことかというと「人間社会的に許された」「伝わる表現」というものについてのセンスが元来薄い為に、「これで良いのかどうか」が解らずに酷く苦しんだ記憶がある。
その時に思ったものだ、「絵は絶対に仕事にはしない」。
洋裁を仕事にしようかなと甘い夢を観たのは、洋裁に関しては私の内在の神が不在であるので、だからこそ人間社会に対する仕事に出来るかもしれないと閃いたのだ、内在の神の導きが無いので人間社会に合わせる苦しみが少ないので、仕事に出来るかも知れないと夢見てしまったのだ。
しかしそれも思考の投射がまるで誰にも到達しないという限界を呆気なく知ってしまったわけだが。

 

人間社会に伝えるということについての根源的なセンスの欠如を受け入れるしかないというのが、夢破れた私の現在の人生論である。

 

 

 

 

【詩】矛盾を丸ごと我が身とするときに


私の信じる神を言い表す事は出来ない
私が何かをするとき
私は必ずその摂理に従って行為する
言うなればそれは独善である
誰一人
私の信じる尊い神を
言い表す事は出来ない

 

内在の神を信じている人間の持つ独善の気配は
時に他者の目に余る
一方で内在の神をまるで信じていない人間の
吹けば飛ぶような心許なさは度々
あまりにも無自覚に他者を傷つける
そうやって傷つけ合い
支え合う人間の営みの中におわします我が神は果たして

 

呆れておられるだろうか
それでも世界の様相をいつくしんでおられるだろうか

 

矛盾こそをいつくしみに浸しなさい
そう祈りながら
命の行為を打ち消す一錠の薬を飲むとき
命の未だ跳ね回るその時
ありとあらゆる人間的弱さが
まさに今、この手のひらに転がるのを見る
一瞬後、それを飲込んで
矛盾を丸ごと我が身とするときにこそ私は
世界というものが
実は本当に許されているのを知る

 

故に私の内在の神は存在というものを根底的に許しているが、哀しいかな

その体感を言い表す事は出来ない

よって内在の神を信じる者の祈りや許しは、いつまでも独善を越えないのである

 

【詩】人間は自分の神を人に説明してやることが出来ぬ生き物である

 

人間は自分の神を人に説明してやることが出来ぬ生き物である

 

快楽の最たるものはただ一つ、神は我が身と共に在る、この境地を指す
神が自身の内奥に潜んでいるのであれば、そう自分を虐めることもあるまいと、冬眠目前の蛇を撫でながら言う
しかし蛇同様、人間は自分の神を人に説明してやることが出来ぬ
これが人間の躓きであって
何処へ行こうとも人間に、根源的につきまとう哀しみのひとつである

 

哀しみの説明など要らないと思う人もあるかもしれないが
自分の神を誰にも説明してやることが出来ぬというのは即ち
自分の価値観を、根源的には誰にも述べ伝えられないということであって
それが無理解や必然的な孤独に繋がっている事を
私とて理解している

 

卵の殻同士が触れ合うようなやり方で起こる表面上の共鳴と
内面の露呈を伴う、黄身同士の許しの共鳴
この共鳴は人間だけのものではなく
土や草木や大気をも含める

 

私は
無理解であると罵る自分を、日々恥じ入りながら呪う一方で
そのような些末な事を、神が全く気にもかけずに数多の生命
または数多の無を
抱擁しているその様子を
驚きを以て凝視する

 

凝視の先に自分の根幹が見える
刈り取られた稲穂の穂先に自分の根幹が見える
枯れ落ちた木々の葉の朱い憂いに自分の根幹が見える
冬眠目前の蛇に
朝の澄んだ空気に
勝手に芽吹く庭木に
私が自分であると仮定するところの私の、根幹が見える

内在の神を表わし得ない私を
根幹に宿る神が、余すところなく時空ごと抱擁しているのをまざまざと見る

 

このような物事を果たして、正確な言葉に置き換えることが出来ようか
神は我が身と共にある
何故ならこれこそが快楽の究極であって
これ以上神聖なことも淫靡な事も無い
だからこそ人間は、自らの内奥に潜む神を、客観的な眼で人に説明する事など到底
出来ぬのである

 

よって人間は誰しも、宿命的に孤独を食むのである

快楽と引き換えに、それを食むのである

 

 

 

 

【詩】恥に満ちている


どこまでもついてくる自分の亡骸を降ろそう、土に降ろそう、もう降ろそうとすると声がする
…それは亡骸等ではない、厭わしいであろうそれ自身こそが、貴女という人間を示すものなのだと言う声がする
この声はどこまでも亡骸と共についてくる、新しい人間になろうとしているのに何故?と私は問う
声に向かって問う
この亡骸は当初、閃きという宝であった
この亡骸は当初、自分自身という宝であった
だが時の経つにつれ、自分の変化が一秒経過後の私自身を亡骸に変えていったのだ
変貌に伴い、新しい魂を得た私を見て声は言う
それでも亡骸はついてくると声は言う

 

魂は時間経過や経験と共に錆びて行く性質があるような気がしてならない
ならば過失の無い魂はどこに在るのか
過失の無い魂は常に、二三歩先で私を手招きしている
よって私はどこまでもついてくる自分の亡骸を降ろそう、土に降ろそうとする
透明な魂を手に入れようと躍起になって
ひたすらにもがく

 

あるいは魂の過失は
全くの思い込みであって本当は
魂が変貌したりはせず
時間経過や経験を隠す事によって尚更
この亡骸は重くなるのだろうか?

 

私が恐れているのは魂の過失により裁かれるのではないかということだ
清廉潔白な魂を欲するのはいつも
亡骸を背負って歩いている人間である
でもこの亡骸をして
私を私だと観測する人もある
何処へ行こうが
私は私を越えられない
行く先々で透明の魂を手にするのは単に、そこでの時間経過や経験の乏しさがそうさせるのであって本当は

 

魂は魂のままなのだ

 

亡骸を捨てようとした私を制す大きな影、その瞳は意外にも、過失によって穢れた私を求めているようだった
純度の高い祈りが亡骸を透明にし、私は恥から逃れた
穢れとは即ち、恥の事である
恥とは、時間経過や経験に対する本心の露呈の事で、この密度が濃ければ濃いほど、恥もまた増大する
何故なら生きるとは
絶え間ない
内面の露呈と取り繕いの連続だからである
よって私という人間の亡骸は常に、時間経過や経験の恥に満ちている

 

しかしこの恥こそを愛してくれる貴方の声に、耳を傾けている

 

 

 

 

 

聖者よ教えて下さい


煌めくあの場所には旗が立っていて、数多の巡礼者が長い長い倦むような旅路の果てにその旗を仰ぎ見るのです。
これが自分自身なのだという幸福に満たされながら、そこを聖地と呼ぶのです。
哀しいことに私は今まで、それがどんなに小さなものであれ、この種の聖地に至った事がないのです…ともあれ人は誰でも心の内に聖地を持っているものです。
ですがそこに至るには罪悪と倦怠感とを、正面に見据えながらも尚聖地を観続ける精神的体力が必要です、気力はすぐに削がれ、日常の緩慢さに叫び声をあげます。
肉体が常に精神と呼応し、本当に叫ぶ事が出来たらどれだけいいでしょうか…
それでも肉体は自制し、叫びや唄声すらも、まるでそれらがはじめから無かったかのように振る舞うのです、自分自身を無視するよう振る舞い、無気力を呼ぶのです。

 

聖者よ教えて下さい、自分の至らなさ、不出来さ、性悪さ、といった惨めさを抱えたまま尚も心の聖地を、一切の気恥ずかしさを捨て、見続ける事の出来る勇気は一体何処から湧いてくるのでしょう?
全てが厭わしいのは、惨めさを抱えたまま立ち続けるのが辛いからです。
そして私の視線が、誰かを傷つけるのではないかという恐れが私の目を伏せさせ、声をも枯らすのです。
煌めくあの場所には旗が立っていて、数多の巡礼者が長い長い倦むような旅路の果てにその旗を仰ぎ見るのを私とて、知っているのに、立ち尽くしているのです。

 

一方で簡易な場所に、疑似的な聖地、偽りの聖地は点在しています。
それが何故疑似的かというと、自発的でない巡礼を巡礼とは呼ばないのと同じで、自発的でない驚きを与えられる場所は総じて、疑似的な幸福しかもたらさないからです。
疑似的な煌めくあの場所は残酷にも、この世のどのような場所にも存在し、手招きして巡礼もどきたちを誘うのです。
アルコールにもそれは宿り、束の間の夢や達成を与えます。
暴行などに独特の境地を見いだしている人もまた受動的なのです、対象者の現れるのを本質的には待っているからです。
抑圧的に過ごした人ほど惹き付けられる万引きの快楽、根本的な意味での遊ぶという行為の楽しさを知らずに過ごしてきた人ほど陥るギャンブルの快楽、この世は虚しいと感じている人ほど溺れるありとあらゆる買い物の快楽、性的に歯止めのきかない遊びもまた受動的な快楽であり、対象物や対象者は、疑似的な聖地を形作りながら、魂は涙の海に溺れるのです。
でも、煌めくあの場所にまだ到達し得ない者にとってこの手の快楽は、生まれて初めて知る到達点にもなります、我所有すと私は何度、心で叫んだことでしょう。
私もまた改悛すべき巡礼もどきの一人に過ぎないのです。

 

簡易な到達点に遊んだ内の一人に過ぎないのです。

 

巡礼もどきにとって聖地とは、見果てぬ夢でしかなく、それを本心から信じることが出来ないので進めど進めど無味乾燥の辺境に追いやられているような錯覚を起こすものです。
巡礼もどきにとって聖地を目指すことは、迷うことなのです。
何故なら聖地に辿り着いたことがないので、聖地を目指しても自分が本当に前と思う所へ進んでいるのかどうかすらわからなく、いつも困り果てて真っ暗闇で泣く事しか出来ないのです。


聖地に少しでも触れた事のある人間ならばこうはならないでしょう。

 

私のように暗夜で立ち尽くしている存在というものは、人生の何の挑戦にも…どんなに小さな物事ですら達成したことがないので、自分の定めた聖地にすら、辿り着けないのです、辿り着いた試しがないので辿り着かないのです、そして疑似的な聖地…偽りにばかり精神を動かされ、疑似的な満足をすればするほどに飢えてさらなる深い深い暗夜を彷徨うのです。
道は合っていますか?
この道を進むと誰かの負担になったりはしませんか?
この道を進むということは我が儘ではありませんか?
要するに、巡礼もどきのやってきた事と言えば、聖地へ行かないように自らを抑制し、周囲の価値観に無理矢理に合わせ、それが為に疑似的な偽りの聖地の手招きに応じ、ありとあらゆる倦んだ日常を消すための努力をするというだけの事、これを繰り返して来たのです。


しかし私は言います、それを笑い飛ばせる人間は誰も居ないでしょう、慈愛による聖者の微笑み以外に、これらのことを笑う事の出来る人等何処にも居ないでしょう。

 

一度でも聖地に入ったことのある人は言います、それが何であれ毎日着実にやればいいと実に簡単に、正真正銘の巡礼者たちは言います。
世の中に眼の向く人であれば、その人にとっての聖地は人間的な基準の成功ということになるので、聖地への入場は誰の目にも明らかでしょう。
しかしひたすらに内部の、暗夜のただ中に小さく灯される蝋燭の灯りの届く範囲だけを聖地とするような内向的な人間の聖地入場は、誰にも知られることなく済まされ、また本人もこれに全く社会的な意味を見いだせないまま、また蝋燭は吹き消されて暗闇に取り残されるのです。
そして聖地に入ったことのない者は、いつまでも取り残されているのです、内面からも、社会からも、自らの観点の当てずっぽうさが仇となり、取り残されているのです。

 

それでも…私の知らない間に、私は聖者に語りかけられているのでしょうか?
沢山の、内的暗夜に苦しむ人たちもまた、聖者に語りかけられているのでしょうか?
あなたは苦しんでいます、あなたは至らない人です、あなたは偽りの聖地依存症です、だから手助けします、保護しますと語りかけられているのでしょうか?
その都度勇気を持って聖地を見据え、惨めさを抱えたまま前進しなさい、改悛して泣き、そして進みなさい、過失の無い魂を目指すのではなく、何度も起き上がって進む魂を聖なる存在と呼ぶのですと語りかけられているのでしょうか?
それを聞く事が出来ないだけで本当は、知らない間に人間はすべからく、保護のみならず救済されているのでしょうか?

 

誰も答えてはくれません、この世の哀しみは突き詰めればそれだけなのです、応答無しということ、それだけが哀しみの原因なのです。
指の先までもが惨めさに浸っている時に、せめて道が合っているかどうか解れば、どれほど…何もかもが救われることか。

 

世界が救われることか。

 

 

 

 

 

 

 

 

【創作文】鳥たち


鳥たちは種族ごとに数百羽ずつ、広場にある大きな大きな籠に入れられて犇めいていた、遠くの森のほうで…永劫の昔には聡い鳥と言われていた烏の群れが影のように旋回しながら夜を告げ廻っているのが籠の合間から見えた。
「そっちへ還りたいよう」
とこぼす鳥には同族からの容赦ない攻撃が与えられた、攻撃を加えるほうも一体何故、影の鳥…烏を羨む発言を慎まなければならないのかはわからずにいた、何故自分たちが大きな籠に入れられているのかすら、何故同族と争うのかすらわからなくなっていた。

 

鳥たちがそこへ入れられてからどのくらいの時間が経ったのか、どれだけの世代交代が行われたのかも…当の鳥たちにさえよくわかっていなかった。
いつだったか…籠に入り始める事になるはじめの世代が空を飛んでいたときに、考えられないほどの量の食べ物がいつも置いてある広場を見つけたのが発端だった、広場の発見者は群れの仲間たちに吉報を知らせ、その仲間たちがまた仲間を引き連れては食べ物を思うさま貪った。
当初はまだ、自分たちの大義名分は空を飛ぶということにあって食べ物の為だけに住処を決めるということまではしていなかった。
それでも日を追うごとに鳥たちは各々、広場のそばにねぐらを作るようになった。
暫くしてから食べ物の種類に変化があった、広場の何カ所かに分けて肉類、穀物、虫、果実という風に食べ物が置かれはじめた。

 

鳥たちは自然と、肉類を食べる大型の鳥、穀物を食べる鳥、虫を好む鳥、果実などを好む鳥というふうに…大して意図せずに種族ごとに集まって食べ物を摂取した。
何かがおかしいと気付く鳥もいたが、何、と具体的には言うことが出来ないで居た。
「鳥、というものはもっと…他の種類の鳥や、虫や植物や沢山のモノの中に存在する一つであったはずだが、最近は何処を向いても同族の鳥だらけだ」鳥の中にはそうこぼす者もあった。


そのうちに小さな諍いが起こるようになった。
普段散り散りに暮らしていた鳥たちが種類ごとに至近距離で食事するようになってからというもの、図体の大きいものがいつまでも食べ物のそばを陣取って動かなくなっていたのだ、そこで他の鳥たちはその鳥の隙をついたり喧嘩したりして食事するようになった。
鳥たちの中でいつしか、食事は争いになった、日が沈み月が幾度も生まれ変わる頃には食べる事とは即ち同種族と争う事だという認識が芽生えた、それでも鳥たちは広場から離れなかった。

 

はじめに籠の存在を知ったのは食べ物のそばを陣取っていた図体の大きい鳥たちだった、なまじ身体が大きいために彼等は籠を怖がらなかったのである。
彼等も何かがおかしいという気はしていたのだが、何、と具体的には言うことが出来ないでいた、それほどに食べ物が常に在るという魔力は凄まじかった。
「空に縞々のある場所が出来た…しかし最近は何処を向いても鳥だらけだし、何か果てしない場所で沢山のモノの中に存在する一つであったはずだが…果たして世界は狭くなったのだろうか?」鳥の中にはそうこぼす者もあった。
籠は大きく、数百羽の鳥たちをすっぽりと覆うだけの広さがあった、その中心部に食べ物が置かれていた。
相変わらず肉類、穀物、虫、果物といった食べ物ごとに籠が置かれたため、鳥たちは意図せずに種族ごとに籠に入って食べ物を摂取していた、それにすらもう慣れていた。

 

鳥たちの中には、家路に着くのが面倒だという理由からか、はたまたいつまでも食べ物のそばに居たいという願望からか、いつしか籠の中にずっと居る者も現れた。
現にねぐらへ一度帰ると、図体の大きい者が食べ物のそばにいるし、狡猾な者も食事の大皿にへばりついているし、ならば自分も食べ物のそばを離れまいとねぐらへ帰らずに居る者も時間経過と共に多くなり、そういった者たちは籠の中で寝起きし、交尾するようになった。

 

その時代はまだ籠の戸は開いたままだった、戸、という存在を知らない鳥も多く、「食事時はどうしてか争いが絶えず、空に縞模様が出来て、飛ぼうとしてもその縞模様にぶち当たるので喧嘩から逃れる事も出来ない」とこぼす者もあった。
食べる事は争う事、食べる事は飛べないこと…この認識が広まるにつれ、籠の鳥たちに奇妙なことが起きた。
食べる事は同族と争う事、食べる事は食べ物のそばに常に居るだけの気力や体力を有するという事…即ち食べる事の出来る者こそが同族の中で強く賢いのだという風潮が生じた、それでもまだ戸は開いていた。
鳥たちの中には同族に蹴飛ばされ、籠の底を這うように生きる者も出始めたが、他の者は彼等を観ても嘲笑するだけだった。

 

生きる事は争う事になっていった、序列を作る事が生きる事だという感覚が鳥たちを支配した。

 

食べ物のそばに居なければ食べ物を確保出来ないという思いに取憑かれた雌鳥たちは産卵することを厭うようになっていった。
「卵を抱えている間に飢えてしまう、飢えてしまったら卵も孵らない、生きる事は争いだから私も争わねば」
卵を抱えながら食べ物の大皿のそばの押し合いへし合いに参加する事が雌鳥たちを疲弊させ、いつしか抱えた卵が籠の底へ落下し、腐りはじめるということが起こるようになった、同時に二つの物事を命掛けで行う事は平均的にも難しい事だった。

 

食べ物を食べることが命掛けである、それも同族との小競り合いという意味で命掛けであるという認識に首を傾げる者もあったが、未だ何、と具体的には物事のおかしさを説明する事は誰にも出来なかった、そうしているうちに時間は過ぎ、世代が変わっていった。
「最近は何かが違う、果てしない場所はもっと近くにあったはずだった、第一我々以外の種族…植物や沢山の虫やら何やら…彼等は一体何処へ行ったのだろう?同族以外の数多の生物は何処へ消えたのだろう?世界のはじめからそうだったのだろうか?」そう言いながらも籠に来ない者は無かった。
それほどに、食べ物が常に在るという魔力は凄まじく、魔力が強まれば強まるほどに鳥たちは鳥であることを忘却しはじめた。

 

ある日何の合図もなく、籠の戸がひとりでに閉まり、施錠された。
「食べ物も、恋も、喧嘩も全部ある」
そう豪語するものもあった、「自分がどれほど偉いかで食べ物の量も変わってくる、偉くなるために尽力することが生きるということだ」そう言う者もあった、一方で「此処には大事なものは何一つない」と言い、癇癪を起こして暴れ回る者も続出した。
「いつから空に縞々が出来はじめたのか?この縞々の外には出られないのか?」飛ぶと言うことへの潜在的な想いが多くの鳥を狂わせ、籠の中で同族殺しが行われた、狂った鳥は籠にいつまでも体当たりし、それを不憫に思った者や厄介に思う者たちから殺されていった、そうやってつまはじきにされる者の中には自分よりも弱い者を狙って憂さ晴らしをする者もあった。

 

よって雌鳥はますます卵を産まなくなった…食べ物を得るための仲間との小競り合い、卵を抱えるという行為、尚且つ孵った雛を同族から守るという行為、この三つを「少しも狂わずに」出来る雌鳥など限られていた。
このあたりから正義という言葉が持ち出されるようになった、この概念無しには籠の中の同族の鳥たちは一羽残らず死んだだろう。
正義によると、強い者は食べ物の大皿の上に常に居る許可を得る、そして序列が生じ、一番弱い者は下等な生き物として扱われた、籠の底には数え切れないほどの卵や、同族との競争に敗れた者の亡骸が散乱し、地層のように折り重なっていた。

 

広場の籠…鳥たちがそこへ入ってからどのくらいの時間が経ったのか、どれだけの世代交代が行われたのかも…そこが大空の下の小さな広場に過ぎないということも…当の鳥たちはよくわかっていなかった。
「空に縞模様があるのは当たり前だ」
「食べるために同族と争うのも当たり前だ、同種族との争い、順位があるからこそ序列がはっきりする、これが社会というものだ、古来から我々はそうやって過ごしてきたのだ、こうやって存続してきたのだ」
序列のために羽の美しさや顔立ちの良さ、頭の良さ、肉体がどれだけ強靱であるかが雛鳥の頃から競って順位付けられた。
羽の一枚が美しさに足りなくて自殺するものまで出てきた頃には、鳥たちは飛ぶと言うことをおよそ完全に忘却し、肥え始めていた、そして肥えれば肥える程にとうとう食事まで摂らなくなっていった。

 

広場に幾つも於かれた大きな籠には数百羽ずつ、種族ごとに鳥の社会が形成されていたが、外を観る者は滅多におらず、ごく稀に籠の鉄柵から嘴を出して外の空気を吸うといった変わり者を除けば、後の者は籠の中の世界だけに終始した一生を送っていた。


「この籠というものはいつからあったの?」
この問いには「これが在る、ということが世界が始まったということの証明なのだ」と答える者もあった。
「この籠にはいつも不可思議な力で食べ物がある、これこそ我々の望みなのだ、食べ物が常にあるということを我々が望んだからこの世界は生じたのだ、だから社会秩序も恵みの一種なのだ」
この考えが籠の中の平均的な思想になった、「自分たちは同種族どうしで争わねば食べ物にありつけない」、漠然とした疑問が鳥たちを常に哀しくさせたが、最早自分たちの羽は階級のどの部位に食い込むことを可能にするのかを示すバロメーターでしかなく、羽を広げて飛ぶという事を話すものは空想癖として扱われた。
変わり者の鳥たちだけが各々の籠の外を観ては空気を吸っていた、息苦しさを感じていた。

 

そんな変わり者の鳥たち…籠に一羽いるか居ないかの愚鈍な鳥たちはそれぞれに空を観ていた、暮れなずむ夕日にいくつもの黒い影が見えた…影の鳥である烏たちだった。
広場から遠く離れた森のほうで聡い烏の群れが旋回しながら夜を告げ廻っているのを籠の中の変わり者の鳥たちは鉄柵の合間から凝視していた。


たまらなくなって「そっちに還りたいよう」と、堪えきれず突発的に叫び出す者もあった。

 

あまりにも本気の哀しげな鳴き声というものは、周囲の勘に障るものである、日々の序列を乱す叫びを敢て聞きたいと願う者など当の変わり者の他には籠の中には居なかった、遠くで影のような烏が一羽、呼応したように思えたが誰もそれに気を留めようとはせず、叫び出す者に対して次々に攻撃を与えた。
攻撃を加えるほうも一体何故烏を羨む発言を慎まなければならないのかはわからずにいた、何故自分たちが大きな籠に入れられているのかすら、そこが何処なのかすら、最早完全に理解出来なくなっていた。


そして自分たちが緩やかな命の中で、神秘によって計算し尽くされた生命連鎖の中で序列付けなどせずとも穏やかに暮らし、空を飛び回っていた頃の事など、仲間という概念があったことなど、各々がのどかに生きていた頃の事など…永劫に思い出しもせず、影の鳥である烏がいくら鳴いても、信じもしなかったのである。

 

 

 

スタンダード2 集団内の平均値

 

いつでも何処でも大抵感じる集団の違和感、自分がそこに居てはいけないような違和感と、その場のスタンダードか否かを軸に批判する会話をする人たちについて考えている。
「独身の人って幼稚だ」
「主婦の人って幼稚だ」
その場のスタンダードであるか否かは集団内で多数決でもとればすぐにわかるし、正直他者批判をするという場合の相場は「自分の属していない側の人間」の揚げ足取りをすることであるので、その批判内容そのものはたいして重要ではない。
私が感じるのは、自分がそういった批判の対象にされているような感覚が今まで生きていてしょっちゅう湧くということ、また一方で他者批判の会話がやはり何処でもあるということ。
どうしたらこの集団内で批判する側と批判される側が生じてしまう会話を防げるのだろうか?
もう一点言えるのは…その種の「その場でのスタンダードに属さない人へのそれとない批判」というものが、生物的には的外れとは言えないのではないかということ。
他者批判の内容そのものはたいして重要ではないし、例としてあげた幼稚というキーワードのようにどちら側からでも言うことの出来るレベルのものである、にもかかわらず何故これを生物的には的外れとは言えないのかというと、その集団内での平均値に於いて、何が正当性のある概念なのかをはっきりさせるという上では、的外れとは言えない見解なのである。

 

これは正しいとか間違っているとかでは無くて、その集団内での知能的平均値を測りたいという言外の感情のある人が一定数存在していると言う現実を示すものなのだと感じるのだ。
その集団内での平均値…偏差値なら偏差値、足の速さなら足の速さ…これらは数値化しやすいという点で、学校時代によく感じていた「有能者」信仰のようなもので、その技能に於いて無能な人には集団内での存在感が希薄になるという反作用がある。
わかりにくいのは、常識的な人間か否かという物差しで集団を見た時だろう、何処へ行ってもおおよそ溶け込むことが可能だという人は私が思うに、右脳も左脳もそれなりに発達し、知能的にも高い水準の人であると推測する。
そう、哀しいことなのだが、集団内での平均値を測りたいという欲望は「集団内での平均知能を測りたい」「自分はどのくらい強いのか知りたい」という生物的欲求の現れなのではないかという感じがしている。


これは本当にしんどい事なのだが、私が「何処へ行っても非スタンダードのような気がする」と感じるのはその実、「概ねどの集団の平均値よりも知能的に劣っている」ということなのではないかという答えに辿り着いてしまった。

 

多分、一生涯生きている限り続くのだろうという感じを直感してしまったので、結構ダメージを受けている。

 

理屈だけで考えると集団内の平均値を軸にするという思想を、私自身も何処かで信奉しているということなのだ。
で、この理屈にちょうどうまく入り込んだ概念が発達障害というジャンルなのだと思う、発達障害というものが嘘だと言っているのではないが、ここまで大流行するのは民族柄「平均値以下は恥」「村八分にあって当然」という弱者たちの究極の免罪符が発達障害という…「障害という味噌っかす」なので許して欲しいという思考の表れなのだろうと思う。
しかしこのスタンダード思想そのものを信奉している限り、「普通の人にはわからない」「発達障害の人にはわからない」という…独身者と主婦との永劫の対立めいた構図がどこまでも続き、しかもやはり連綿と「その集団内でのスタンダード」という、簡単に裏表のひっくり返るカードでのババ抜きが繰り返される事にしかならない。

 

独断と偏見で書いているのできつい表現になるかもしれないが…所属するということそのものに違和感があるので、冒頭に書いたように集団ごとにその場のスタンダードが変化するというのが滑稽に思えてならないのだ。

 

・障害という免罪符の中でのスタンダードは自分を低く見せる事、その集団内での異端というのは普通の人である(そのような人間が果たして存在するのかどうかは知らないが)。
・普通の人(主観的な意味で)という中でのスタンダードは都度ごとに変わるが、各々がどのように自分を見ているのかという事柄だけは神秘のままだ。
・逆に知能が高い人たちの中でのスタンダードは自分を高く見せる事であり、普通の知能指数の人こそが異端視され、嘲笑される。

 

・一番、何処へ行ってもボディーがガラ空き状態なのは、血液型から年代、性別、国籍、信仰の有無、夥しい病名や免罪符、自分の知能という客観的事実…そういった「自分以外の人間の決めた外部の物事」にさほどアイデンティティを見いださない人これがスタンダード思想信奉者のサンドバッグになりやすい。
そのような人が平均値攻撃を受けない唯一の回避方法といえば…本人が知能という客観的事象を軽んじていても、本人の知能的に平均値を若干上回っている場合のみ、どの集団でも人格が軽んじられることなくやっていけるだろうということ…。
なのでこれで知能が平均値以下であることを薄々気付いて、尚且つ病気や障害(精神障害も含む)…それが本当に在るとわかっている物事にも特段、感情的な免罪符やアイデンティティを見いだせない人は結構絶望的である、いじめの原理とも言うべきこのスタンダード思想、集団の平均値信奉により、いじめなどの事象が発生せずとも集団という状況では大抵窮屈な思いを生涯に渡って味わう羽目になる
所属に意味を見いだせない人(しかもその所属というのは、会社等だけではなく、星座なども含む実に曖昧なモノ)、尚且つ知能レベルの低めの人はどの集団にも馴染めないだろう。
…私の事だが。

 

さて、スタンダード思想というものの発生源がその集団内での知能的平均値を示す社会心理であるという事についてだが…どうして「知能」という、普段触れてはならないシビアな事柄に突っかかるのかというと、私の父親が「知能の高い人」だったからだ、私が自分の知能を低いと称するのは何も自分を低く見せているのではなくて、生物としての真実を体感したという…苦い思い出が沢山あるので、スタンダード思想というものがあながち間違いではないという感覚を生じさせているのだ。

 

いじめを肯定しているとか、平均値以下の少数を叩いて正当性を得るという生物古来からの動物的風習を肯定しているわけではない。

父親はいわゆる「知能テストがずば抜けて得意」というタイプ、今は老人(何歳から老人なのかの定義が曖昧なのだが…)なので知能も落ちたろうが、若ければ喜んで某団体とかに入ったのではないかと思う、ちなみに学歴は低い。
知能が高い人の悩みや苛つきというものに、「自分よりも果てしなく物わかりの悪い人に何もかもを説明しなければならない」「しかも果てしなく物わかりの悪い人というのがほとんど自分以外の全員」という重荷があるらしく、この宿命故に父は常に、喜劇的に苦労している風だった。
それでも生物的に選ばれし者の孤高の悩みといった感じもしたし、自分の能力の高さが数値として客観的に証明されているということが独自のダーウィニズムに拍車をかけていた様子だった、自分の子供も当然知能が高いとい盲信していた部分があったように思う。
父の兄も学力だけは優秀な人物であったので、当然のように「自分の子供くらいは自分の話が解るだろう」という希望を持っていたとも言える。
見事、その希望は打ち砕かれたわけだが。

 

ちょっと話はずれるが、血族信仰のようなものを持っている人には酷な話だが家系全体が一定以上の知能水準を未来永劫保つということは生物的に「起こりにくい」と感じる、これはもう経験上実体験としてわかっている事なので、どんなに知能指数信仰者が増えて、高IQの人の遺伝子が優れているという風潮になったとしても断固として言える、知能水準というものは小規模な集団単位だけで観測すべき物事ではないと言える。
障害児の発生レベルで考えても、1000組にひと組に障害児が生まれるとかそういう単位での話なのであって、果たしてその1000組というのが何処から何処までの血族単位なのかということは…実質誰にも解らないというのが生物の仕組みなのだと体験者として感じる。
父が私に絶望したのは父の思う普通の人間以上に物わかりが悪い子供が、紛れもない自分の子であるということだった。
私が感じている不安感というものは、父の言うことのみならず何処へ行っても、その場の基準というものに「理解が達していない」という事で、もうこれは笑える点の何一つない悲劇みたいなものだ。

 

知能指数についてここで述べるのは、「集団内での暗黙の理解に達していない」事への確信が、常々あったということ。

そして少数派叩きをする人というのがその実「自分よりも果てしなく物わかりの悪い人に何もかもを説明しなければならない」という負荷を感じている割合が高いように感じたということ、主観でしかないが。

 

例えばこうして書いている分には自然と「書くスピード」で自分の物事が整理されてゆくのだが、その場の空気や会話のスピードは私には「速すぎる」ので、発言する事が出来なかったりする。
一対一の場合は例外で、私の会話が遅くとも相手が私だけを置き去りにするということはほぼ無い(父以外)が、集団になるとその場の平均的な速さで会話は進むので、悪気があってそうしているわけではないのだが、大抵会話には加われないし、自分のスピードの遅さを自覚しているので話すのが申し訳ないというような気持ちもある。

 

敢て自分を律している人には…特段誰それがというわけではなく、接したときに解る暖かさのようなものがある人にはとても感謝している、平均以下を叩くという行為に加担しない人のことはすぐに解るのでとても感謝している。
これは個人に対しての感謝というのではなくて、世の中に案外優しい人が多いのだと感じさせてくれる振る舞いをする人の、その人の本性が「良くなろう」という働きによって制されているのを見るにつけ、秘かに感謝している。
そのような人を一概に全ての面で「善人」「良い人」と評したりはしないが、多勢に無勢の状況でも多勢に加担する事なく冷静にしている人を見ると心が安まる。
だが、生物はそのようには出来ていないのでこれからも連綿と多勢に無勢という、平均値を下回る人を嗤うという事柄には出くわすだろう。

 

平均値という呪縛はどこまでも続くだろうし、頭脳や肉体の平均値を上回る人の苦悩というものは何処か、世を喜劇的に俯瞰した様子だが平均値を下回る人の苦悩というものは救い難いほど暗く淀んでいる。
私も興味のある物事は他にもいくつかあるのだが、いつもこの集団内での平均値思想や平均値以下をそれとなく叩くという事象に出くわす度に足がすくむし、「物わかりが悪いので」迷惑をかけているという後ろめたさも感じる。
それとない初心者叩きや、去って行く人への苦言、自分たちはスタンダードなのだという盲信、自分たちの努力は正しいのだという叫び。
人を救うと称した場所でもこういった事は起こるだろう、平均値以上であろうとする人の人生の負荷というものはそれはそれで酷だとは思う。
集団内で非スタンダードを叩く発言をする人は、感情的には自分の労苦、平均値以上であることを労って欲しいだけなのだが、そこには必ず正当性というものがセットでついてくるので、そこでの非正当性に該当するとどこもかしこも一瞬で牢獄のように暗い場所と化す。
これは私自身が引き起こしている事とも言える、私の知能や言動がもう少し何かしら、まともであったらこのようにはならなかったのかもしれない、行く先々で少数派叩きが起こるというのは私自身が平均値以下であるから起こる事であって、別の人であったら皆が温厚である可能性も高い。
何だか絶望敵見解に達してしまって自分でも哀しいが、努力不足も自覚している、その一方で生物の残酷な原理というものもまた感じずには居られない。

 

…自殺者の多さを考えてみると、平均値以上を常に求められる社会というものの恐ろしさを感じるのだ、平均値以上を課されている人は平均値以下の人を叩きやすくなるのではないか?
結果的に多くの集団でスタンダード思想が広まり、それがまるで絶対善であるかのように…実際には単なる立場の差であっても、病気か否かという表裏一体の所属欲であっても…当たり前の理論として機能するようになってきているように感じる。
服装や、言動に至るまで平均的であることを強要されているように感じてしまう。

 

まあ、こういうことが嫌なら山奥に行けよという話なのだが…。
人生は苦であると正真正銘に信じていたらこのまま生活を続けるということもまた一つの修行であると諦観出来るかも知れない、だが子供時代に言われなかっただろうか?嫌という程教えられなかっただろうか?
「今の努力がきっと報われる」
このように教育されなかっただろうか?
私は信じた、幸福になる事を漠然と信じた、きっと多くの人が漠然と信じたと思う、でなければ学校生活など耐えられないはずだ。
一方で幸福になる事や、努力を続けたらきっと社会の役に立つということを軸に生きていた経験のある人は絶対に躓くと思う、これも絶望的な話だが、30歳くらいまでに幸福だと自他共に観測出来る「到達点」に辿り着いたことのない人は多分一生涯その到達点に至る事は出来ないと予想する。
何を以てして幸福なのかということを自他共に観測可能な地点に据えるというのはちょっと酷かもしれないが、自分だけが幸福でも他人にそれがわからない場合、幸福というものの基準が世の「スタンダード」からズレているので、「世の中で」成功する等と言うことには至らないと思う。
自他共に成功するとか、自他共の幸福といった物事を少しも考えてこなかった人は世のスタンダードからだいぶずれているので、世の中へ向けての働きというものを理解出来ていない可能性が高い。
世の中へ向けての働きを理解出来ていない場合、絵を描くにしろ何にしろ、それを他人に理解してもらうことで初めて成り立つという事象をわからないので、ほとんど宿命的に孤独になると思う。
私の事だが。

 

自他共の幸福を味わったことのない人は人生そのものを「人間社会的に」続けて行っても幸福にはなれないだろう。
幸福になる、努力すれば報われる、という思想の裏には必ず「人間社会的なスタンダードを基準に」という言葉が含まれる、こういうことを無視して生きていてもいいが、集団ごとに発生する非スタンダード叩きに完全に眼を瞑れるようになって初めて独自の平安というものが訪れるのだ。
そうでない限り生きている限り苦痛がつきまとうし、若いうちに到達点と思しきものを経験しているのであれば「人生でアレがまた訪れるかも」という希望もあながち間違いではないので、そういった希望を軸に努力するということが可能なのだろうが…到達点に触れた感覚のない人がズルズルと生きていても、いかんせんそういう人の視覚の的はズレているので、人生は苦であると完全に知らないうちは…その人の人生は地獄だろう。
そのような地獄、あるいは終わらない日常の虚しさから逃れるという意味では自殺もさもありなんだなあと思うようになった。

 

勿論、自分の思想をスタンダード思想から意図的に離し、そういう思想もあるね、そういう宗教もあるねえという観点で生きるという事に取り組めば何かしら独自の幸福が訪れる可能性はある。
かなりハードルの高い心的戦いではあるが。

 

私は決して自殺を推奨しているわけではないのだが、スタンダード思想を突き詰めると集団内での知能指数の平均値というシビアな結果が(主観的に)出たので、なかなかこの思想を覆すのは難しいと感じている。
それに昨今は平均値の人には平均値以上にならなければいけないという社会心理的負荷もあり、余計に非スタンダード叩きという現象が起きやすいのだ、それを止めるのは労うということなのだが…誰も彼もが労われたいので実質かなり難しい。
じゃあもう叩くか自殺か社会心理を無視するのか…この中で言えば社会的風潮など無視するというのが一番、楽であるし、余力があるのならば労うという行動を取った方が良い。

長々書いたが、何が言いたいのかというと、何かをやっても幸福になど辿り着かないという諦念だけが人を丸くさせるのかなと思いはじめている。

 

この世の何処に居ても苦痛だろうなという思いが、私を戦いから遠ざけている。
自他共の幸福を都度ごとに出現させるということはほとんど不可能なのだという体感が、私を夜ごとに死なせ、朝が訪れると共に目覚めさせている。
私の生きている内の願いは、スタンダード思想といかに距離を離すかということに終始している、それは他の宗教のようなものであって、勿論そこにも(残酷な)生物の真理はあるのだが、私はそれを信仰しないというスタンスを貫けるかという事にかかっている。

 

言い換えればスタンダード思想を生きている人の多くが自他共の幸福という意味で努力している人なのだ、そう思うと心苦しい部分もある、その努力が報われないので少数派叩きに転じてしまう人間心理は哀しいし、その叩き行為があるからこそ少数派は益々努力の場から離れ、努力無しにひっそりと生きることを選択する。
よって非スタンダードを叩くということは必然的に、スタンダード思想を保持する集団をさらなる努力へと…さらなる平均値上昇へと追いやるのだ、さらなる負荷が集団にかかるのだ。

 

乱されずに努力することがこんなに難しいとは思いもよらなかったと同時に、自分の人生の努力不足も感じる。
そしてそういった努力にはおよそ何の幸福も生じないということも、静かに感じている。

 

 

 

 

 

【詩】川が流れている


川が流れている
水は冷たく澄み
空の青と川底の土の色をそのままに映している
稀に水面が
決して辿り着く事の出来ぬ煌めきの炎を宿し
白色に輝いて手招きしている
全ての生き物の到達点においでと
手招きしている

 

些末な泥仕合から逃れ
やっと永遠の空白を見つけたと憩うていても
風がひと吹き
煌めきの炎をかき消してゆく

 

多勢が無勢を連綿と
命の続く限り追いやり
自らの血の中にさえ
多勢の血と無勢の血が今尚
犇めき呻いている

 

到達点が
一瞬
川の水面に瞬き
微笑んで消えてゆく

 

水面に手を浸し
洗っても洗っても汚れてゆく両手を
冷たさを感じながらも何処か
慈しんで引き上げる 日常に引き上げる

 

水は一瞬のち
泥を押しやりまた元のように清らかに
空の青と川底の土の色をそのままに映している

 

幸福になどなれないと完全に知ることが出来たら
どれだけいいか

 

 

 

 

スタンダード

 

私が集団というモノの何に堪えてしまうのかというと、往々にして集団内でのスタンダードから外れ、追いやられている感覚が生じてしまうから。
これは感覚の問題なので、相手が悪いというよりも私の問題とも言えるのだが…

 

未婚か既婚か子持ちか子供無しか働いているかいないか、年代、等など何かの共通項の多い人が何故か、多数だという後ろ盾のある状態で、それ以外の属性を持つ「漠然とした他者」を攻撃するというあの習性、あの村八分習性。
未婚者が多い場所での(イメージ上での)主婦叩き、労働者ばかりの場でのそれとないニート叩き、これらは話題の一環として行われているが、唯一のメリットは集団の団結力を強めるということ。
その集団でのスタンダードは何なのかを決定させ、発言者はその集団内での特性を強く持っているという事を外部に知らしめるため、攻撃的な保身という状態になる事が出来る。
だから既婚者が多い場所だと転じて独身叩きになる、表面上はにこやかでも失笑状態と言うべきか…既婚か未婚か等は単に契約上のものであるので最早その区別をする意味すら曖昧なのだし、誰でも独身にも既婚にもなれることからも、人を区切って少数を追いやるような発言というのは何の意味も成さないと、ちょっと考えればわかるはずなのだが。
これが拡大すると民族的なヘイト感情とかに繋がるのだろう。
あれは人間の持つかなり動物的な部分で、勿論動物だったらいじめや多勢が無勢を責めながら生きるとかいうことも正義なのかもしれないが、人間なのでやめて欲しいと思う事が結構ある。

 

集団というものに頓挫しそうになっているのには実はこの理由が一番デカい。
何も別にいじめが起こっているとかそういうわけではないのだが、正体の曖昧な少数派を指して「あいつらはこうですよね」というような会話が、聞いているだけで苦痛で苦痛で仕方が無い、皆唄でも歌っていれば良いのに何故攻撃メインの話になるのか…。

 

そんな私でも集団内でのスタンダードに属していた時もある。
掃除の仕事の時は人生に於いて珍しく、スタンダードに属していた私は身の振り方を考えながら会話していた、「独身だからわかんないのよ」というスタンスの会話などには加わらないようにしたり、「独身者の気持ちもわかりますよ」と言ったりした、そのツケは序列を守ることとたまに献上する酒でなんとか保てたし、幸いにもその程度のことで許してくれる相手だったというだけの事だ。
何故こういった「自分の属さない少数派」を責める会話というものが織りなされるのかというと、発言者は往々にして「今の状況にある自分を労われたい」という感情を宿しているように思える。
独身者をそれとなく嘲笑する主婦女性の気持ちというのは、毎日の「自分以外の人も含めた」生活雑事をしなければならない、また、生活雑事をしたところで全く誰からも顧みられないという現状をそれとなく嘆くものである。
この哀しみ、いつまでやっても終わらない誰にも気に留められない働きに対する哀しみがパート先での少数派叩きを生じさせているのは私にも、よくわかる話ではあった。

 

スタンダードに属しているという感覚は独特の高揚感があった、呪いのような子供時代から大人に成るまでの学校生活、会社での地獄の日々といつも曇り空のようなパート先、その霧が全て取り払われたかのように感じたのが掃除の仕事であった。
自分が日本人で結婚しているというようなただそれだけの事で保たれる人格というものが確かに在った。
でも一方でこのような物事が限りなくどうでもいい事だと、今までの人生で嫌という程思い知らされていたので、スタンダード崇拝には加担したくなかった。
スタンダード崇拝に加担しないようにするには、先ず第一に発言者を労わねばならない、これはもう理屈とかじゃなくてどんなに理不尽な相手だったとしてもそれとなく労うことが第一だ。
相手は本当は他者を責めたいのでは無くて、報われないということの正当性を言いたいので、「独身者の気持ちもわかりますけれど、確かに既婚だと毎日やること多くて、他人の世話をしても誰にも褒められないし、特に○○さん(発言者)は○○(何か具体的なこと)もあって大変ですもんね、私なんかは怠け者なので頭が下がります」というように多少図々しくも第一に相手を労うこと。
そうすると少数派叩きが過熱することなく、自分を軸に誰とでも等しくやってゆくことが出来た、相手を労うことを読みながら会話する訓練を掃除の仕事で行えたというわけだ。

 

…とか書くと人間関係が常に良好な人のような感じだが、問題は…「自分がその集団内での非スタンダードに属していると自他共にわかるとき」である、自分が少数派の時はどうしたらいいのだろうかという事の答え、これは未だにわからない、何故ならこの手の攻撃を受ける側というものにはそもそも発言権が無いと仮定されて会話が進むので、自分からのアクションを起こしにくいのだ。
少数派に属しているというのはつまり、少数派を攻撃することで正当性を保ちたい人にとっては存在自体がサンドバッグに近いということだ、非スタンダードであることが私の人生でのスタンダードなので、本当に悩んでいる。

 

仕事をしにいったのに、実際に疲れるのはこういった多勢が無勢を攻撃する内容の会話だったりする。
それ以外の場所でもそうだ、何も辞めちまえと言われたわけでもないのに辟易したりする(辞めちまえと言われる方がまだマシとすら思う)、大抵会話内容に一方的に傷ついてしまう、これは私自身の心の癖でもあるのでいっそもう耳栓して作業したいのだが…でもそれだと…その場の何の働きにもなっていないという分の、ツケを払わねばならない状態になるのだ。
となると会話に参戦すべきなのだが、多勢が無勢を責めるという空気が発生している場所での発言というのが本当に難しい。
その場の非スタンダードの人間がいくら発言者を労っても余計にムカつくだけだろうし、第一にこれは集団序列と関係している、集団内での序列が発言に力を持たせるのだ、よって序列の最下位に位置する人は実質発言権がない…ように思えてしまう。

 

例えば主婦は世間知らずだと罵りたい女の場合の、発言者の本音というものは「自分は毎日女だてらに心を殺して働いているのに誰も顧みてくれない」ということ、程度の差はあれ多かれ少なかれこの程度のモノだ。
断じて、このような発言をしたり、その発言に嬉しそうに加担したりする人の顔面を見て「なんて可愛げのない女なんだ」「如何にも」というような気配を見せてはならない。
これは全くの部外者を装う男性にも言えることで、誰かが発言者及びに加担者を見下したりするとさらに少数派叩きが加熱する恐れがある。
私だってこんなことは考えたくないが、私が集団をどうして忌避するのかという事の根本は少数派叩きの会話が多すぎるということにあるからだ、それを気にしてしまう、だから私自身の問題でもあるのだ。
一方的に無意識的な少数派叩きをやめろと言いたいわけでもないし、生物としての正当性を保つという動物的本能でもあるので多勢が無勢を責めるのはやめられないとは思うのだが…如何せん自分が少数派の時にとるべき最善の策というのが思いつかない。

 

有力なのが、土産物だ、その人の嗜好品を持って行く。
…とはいえやはりこれはスタンダードに属しているときにこそ効力を発揮する技である気もする、余計な事をして余計な反感を買いたくないという感覚も生じる。
もう一つは…自分には無関係だという姿勢を一貫して通す事。
私は女なので、女による主婦叩きや主婦による独身叩きというものの馬鹿らしさを見るにつけ、もう生涯に於いて人を既婚か未婚か、働いているか無職か…といった「一瞬でどちらにも変化する」事象で一括りにして自分の正当性を訴えるのをやめようと肝に銘じている。
ああいうものはたった一言、「あの人って独身だよね」とか「主婦の人って~」と言った瞬間に場の空気を負に転じさせるものである、もう魔術的と言っていいが所詮女の浅知恵(同性ながらほんとにそう思う)なので長続きしない黒魔術でしかないが、清浄だった空間がガス漏れレベルで穢れるのは確かであるので自分自身でも注意している。

 

で、問題なのがこのような会話や場の空気というものは何もダイレクトに明確な人を傷つけているというわけでもないのに、私自身がそれを過度に受け取って消耗してしまうこと。
何でこの空気にこんなにも適応力が無いのか、不登校にならずとも何故血の汗を流しながら学校、職場、果てには教室といった場所に過度に苦しみを抱いてしまうのかということ、これを直したい。
家で一人で仕事をしたり(食っていけるモノではないが…)、家で一人で好きに絵を描いたりする分には問題ないし、誰かと一対一で話す分にはそれほど支障をきたさないし過度に怖がったりもしないのだが、ひとたび集団となると、あの村八分的な空気を嗅ぎつけるやいなや窒息状態になる。
具体的に過呼吸になったこともあるのだが、そういうことにならずとも、場の空気そのものに消耗して帰宅した途端に倒れるように寝るみたいな状態に陥る。
…もしかすると私のような人は沢山いるのかもしれないとふと思った。

 

村八分的な状態というものが遺伝子に組み込まれているとしか思えないような重みで、私に問いかけるのだ。
苦しみを選ぶか、逃げ逃れるのがいいのか私に問いかけるのだ。
しかし逃れようにも、山奥へ行こうにも、人間が数人居るというだけでこの状況が作り上げられてしまうことから、結局逃げ場なんて何処にもない事がわかる、これは何処の国にも起こる人間の病なのだろうか?
病んでいるのは私なのだろうか?
それとも、自分はスタンダードだ、生きるべき人間であってこの労苦は素晴らしいモノだと宣言したいが、正々堂々とそれをし難いがために少数派を攻撃をする特性のある人の、独自の狂気なのだろうか?

 

一人一人に課せられたモノが先進国になるにつれ多くなる。
一人一人が多くのお金を得るようになればその分、一人一人の学ぶべき事も増えてゆく。
そして同じような目的を持った人の集まる場で、異質な人を無意識的に見つけ出し、排除することで自らの正当性を保ち、自らに課せられたモノの重みに負けないようにする。
いじめの仕組みとも言えるこの原理に有効なのは一人一人に対しての労いしかないのだが、その場のトップですら労いに飢えている場合はどうしたらいいだろうか?

 

頭が働いてくるとこの悩みは生じるが、夜間脱魂して夢を彷徨い朝方に帰宅したその時には忘却している。
自分が個別であるという識別そのものが薄れるために、他者を脅威だと思うこの感じ自体が薄れている。
これは村八分の病的風土ということと、私の村八分アレルギーが引き起こす束の間の悲喜劇なのだろうか。
窓を開けると空の色を川面がそのままに映しているのが見える。
水は透明なまま自分の思う方角へ進むだけなのだ、一切を気にしないようになりたい。

 

誰でもスタンダードにも非スタンダードにも成り得るのだから。

 

 

 

 

事件と凸凹カルマの解消 喜捨し合う魂(カルマ3)

カルマという物事は観測不可能であるのであまり話す気は無かったのだけれど、事件事故や教えや救いという物事と照らし合わせて考えると、書いた方が良いような気がしているので書かせて貰う。
開示する方が損をするというのも、まるで開示する欲求の無い人を軽んじたような言い方になっているかもしれないが、そういうわけでは無く、例えば私はこうして開示しているが洋裁は全く駄目と言う風に、それぞれの面での成長度合いというものがあるので、誰でも開示者になるし壁になるということを考えている。
はじめに断わっておくと、客観的に言えばこれは単なる個人の妄想や空想の類いの話である。

 

カルマという物事に、他者の救済=自己の救済という思想が入っていると、事件等の解釈や人間関係の解釈がし易いように思えるのだ。
京アニ放火殺人事件の起こったときに、何故善人が地獄の業火で焼かれなければならないのだという憤慨を覚えた人は沢山居るだろうと思う。
私もそういう人間の一人なのだが、何かそこに自己の救済のみを突き詰めてある到達点まで達した人間は他者を救わざる得ないという構図が見えた。
これは持つ者が持たざる者に与えないといけないという感覚に近い、どこまでも喜捨するより他無いのだ、その喜捨には時に人身供養も含まれると感じた、何故かというと物事原因は当事者だけにあるのではなく、無数のカルマが絡み合って極度の救済を求めるという事象が発生してしまうと推測するからだ。

 

これを元来の負のカルマ思想に当てはめたり、勘違いした引き寄せ思想に当てはめるととんでもない誤解が起こる、その人に見合った結果が「現世的に」還ってくるだけだという究極の誤解が、時に被害者のバッシングという現象をも引き起こす。
京アニの場合はこの現象は起こっていないようだが…哀しいことに大抵の事件被害者はバッシングを受けると思う、それは負のカルマ思想や勘違いの引き寄せの弊害だと私には思えてならない。
レイプされる人間は、その人間に落ち度があるからだというようなわけのわからない言いがかりが実際に横行するのだ。
強姦魔を引き寄せるのは被害者の人間性がその程度であるから、同属を呼ぶというのが引き寄せであるという誤解が生む二次的悲劇に被害者は苛まれる事になる。
これは本当にとんだ誤解なのだ。

 

私もカルマということを考えてはきた、幼少期の度重なる性的被害を負のカルマで説明するより他ないのが当時の仏教であったので、誰かに直接言われたわけではないが「前世の因業により今暴行を受けたのだ」と小学生の頭で考えては落胆していた、これは何も当時属していた仏教系新興宗教が悪いとか至らないとかでははくて、このような誤解が現在でも生じているので、何とかしたいと思っているわけである。
自己責任論と勘違い引き寄せの法則が、現在も尚思想的な悲劇を生じさせているのだと感じている。

 

いじめをされるのはいじめられる人間の落ち度だという考えもある、逆に「いじめをやった人間に全部因業が還ってくるはずだ」と言って被害を受けた側が叫んでいる場合もあるが、両者共々そうとも限らないというのが私の思う所なのだ。
私を性的暴行した相手、私を脅した相手に「人を脅した」というカルマが全部還る!!…そう思いたい気持ちはわかるがだとすれば、それは次の世でまた子供が性的被害に遭うという痛ましい事柄が永久不滅に生じるということになってしまう。
これではカルマは消化出来るはずがないのだ、永久に性的被害に遭う子供が生じ、永久不滅に負のカルマが残り続けるという地獄絵図になる。

 

無論、カルマというものを生きたまま観測する事は不可能であるので、この種の地獄がこの世というものの実相なのかもしれないが、では何故カルマを脱するという思想が古代から在るのかという疑問が湧く。
もし魂が個々別々のモノで在り続け、永劫に個の魂の救済のみを視野に入れている場合、永劫に「現世的な意味で」やったことが自分に負のカルマとして還ってくる状態であったとしたら…カルマを脱するという思想自体が、あまりにも無駄であるのでそのようなものがいちいち宗教の形を取ったりなどしにくいと考える。
何故宗教が生じるのかという事を考えると、やはり負のカルマ以外の、魂が繋がっており個々別々に永劫に存在するのではなくて、時に人身供養にも思われる人間界的惨事が生じるが、それによる学びや救いという現象が「起こっているように感じてしまう」事が多々あったので、人間は救いを「起こりうるもの」「しかし人間の尺度を超えた段階で生じるもの」という視点に於いて、在ると実感したのではないか?

 

子供が被害に遭うとか、善人が殺されるという事の裏に見えてくる独特の神秘がある…等と言うことを普通に喋ったりしたら私もいよいよ頭のおかしい人間として扱われるので言わないが、そこには何か聖書的なモノも感じるのだ。
聖なる生け贄という人類普遍のイメージが生じる。
念のために言うが私はこの種の事件や殺人を肯定しているわけではない、しかし「この者たちは自分が何をやっているのかわからないのです」というキリストの言葉通りの物事が実際に数多起こっている、古代から連綿と生け贄は捧げ続けられているのである。
生け贄を捧げる行為自体が人間の性であるという考えもあるとは思う、この感覚がカルマに結びついた時に、自分自身を捧げるという段階に至る人が居るような気がするのだ。
それが偉いとか偉くないとかいう話では無い。(人間レベルや、魂のレベルという換算の仕方そのものが間違っているように感じているし、有り体な階級思想はいかにも学歴社会での軋轢を反映するものである。)
一切の階級思想は無い状態で、自分自身の「持てるもの」を捧げるという事情が各々、人生のあらゆる場面で生じると思うのだ。

 

私が子供の頃は子供という、その幼児性そのものを他者に捧げた、ということ。
洋裁講師の人の場合は洋裁の恐るべき知識そのものを他者に捧げるより他無い、ということ。
今は訪れるインスピレーションを他者に捧げるのが私の独自の喜捨であり、それをやったところで何のリターンも無い、しかしやるより他無い。
京アニの人たちは凄まじい努力と画力とを他者に捧げ、創作的に生きるということに根源的な負のカルマを抱いている人を意図せず「強く引っ張って」救済し、大多数の救済という構図を生み出す人身供養という事象として、自らを喜捨した…というふうに私個人には見えた。

 

※誤解の無いよう言っておくがこの種の事件は起きてはならない事だったと今でも思うが、社会の個人性を無視するという病的原理が働いたために起こった悲劇であるとも考えている、肯定はしていないし犯人は死刑でいいと思っている…が、犯人のカルマの救済を考えると死して尚地獄の業火で焼かれても負のカルマは解消しないので、殊更に彼を叩こうとは一切思わない。
言わずもがな、京アニの人たち…これは一種の殉教者たちなのだが…彼等に何か前世の因業があり、罰としてこのように焼かれた等と言う負のカルマ解釈は完全に間違っていると私は感じている。
ここで思うのはやはり喜捨という思想だ。
喜捨することで他者のカルマを救うという構図が人間社会にはある。

 

虐待や虐めの報道などに関しても思うのだが、直接的に関係のある人たちはともかく、それ以外の第三者が過剰に加害者をバッシングするというのはカルマを深めるだけなのでやらないほうが社会全体のカルマの消化が早まると思っている。
報道の全てが悪い等とは思わないが、感情を煽るような仕組みでの事件報道はしないほうが、人間が「互いに部分部分を喜捨し合って生きている」という現状を早めに理解する為にも…事件報道はもう少し冷静な観点から行った方がいいように思える。
人間には何段階か本能があるが、何よりも先んじているのが保守本能である。
自分さえよければいい、という本能が誰にでもあって、事件等に遭ったことの在る人はわかるだろうが、自分さえ良ければ良いという部分まで現実的には傷つけられると、本当に自分を捨てたような気持ちになるものである。
特段自分を捨てた気持ちが偉いわけでも何でもないのだが、自分を捨てるしかないという状況に遭った人は、自分が自分だと思っている範囲というのが実は物凄く狭いということをわかっていると思う。
なのでこの、自分が自分だと思っている範囲は本当はかなり狭く、加害者と被害者の境目というものが本当はかなり曖昧だということも肌で感じていると思う。
現実的には果てしなく嫌だし、解せない事なのだが…両者は「喜捨」や「救済」という点ではほとんど同一化しているといっても過言ではない。
戦争で殺される人と殺戮を行う人というのはある地点ではほとんど同一の存在である…と、私は思う。
教える人と教えられる人の同一性と言い換えても良いだろう。

 

だからこそ、虐待などで子供が被害に遭うのが非常に痛ましいように思えるが、被害者である子供は加害者である親のカルマの欠損を補っているという風に思えるのだ、欠損は欠損であるので現実的な意味での学びという段階を超えて事件という形で露呈する。
では救済というものがいつも常に具体的な暴力を伴うのか?
人身供養がこれからも未来永劫、救済の為に起こるのか?
…究極的にはいつかこの種の物事は消滅すると思っている。
だが現段階ではこのようなカルマの欠損による感情爆発が生じてしまったというだけであって、その責任は加害者だけにあるのかというとそうでもないというのが私の見方だ。
これは人間そのもののカルマであって、至らないカルマという現象が引き起こした物事であって、責任問題ということになると全人類の責任とも言えると考えている。

 

私が、幼少期の自分に対して酷い行いをいした人たちに対して思うのは、彼等のカルマに足りない部分があったとすればそれは弱者や他者を慈しむ心だったのではないかということだ。
だからこの心を知ると、カルマが解消されるのではないかと考えている、これは現世というのではなくて来世等も含めた状態での話だ。
現実的に考えると、酷いことをした人が何の罰も与えられずに楽しい幸せな状態を感じて初めて無意識的に改心する、という状況になる。
これはよく、いじめっ子が何の罰も与えられずに気付いたら温かい家庭を作って実に幸せそうにしているという構図に近いものが在る、でもこれでいいのである、そんなのは許せないと思うかもしれないが、強姦魔に改心するという現象が起こるとすれば自分に大事な女が出来るとか、守らねばならない人が生じたとか、家庭を築きそれが一番の幸福に思えるとかそういう瞬間にしか、改心しようが無いのである。
傍目には何故罪人が許されるのだという矛盾が生じるが、相互のカルマの解消や全体のカルマの解消を思うとそれしか方法が無いのだ。
ではここで問題なのは被害者のカルマである、被害者が加害者を恨んだ場合、被害という喜捨をせざるを得ない状態だったにもかかわらず、被害者の負のカルマは加害者を恨むことで深まるのか?という問いが生じる。
これが、喜捨する側の大損、という現象だと私は感じているのだ。
恨むことをやめることは余程の内的啓示が起きない限り不可能に近いし、私も長い子供時代をかけて今ようやくこういった事が見えてきたので、辛いとは思うが…喜捨をする側はこの世的なメリットははっきり言って無い、というのが現実であると諦念諦観して生きるより他無いのだというのが現時点での答えである。

 

この答えを教えてくれているのが私に他の分野でモノを教えてくれている人たち、洋裁講師や瞑想講師(なんか講師ばかりだが…)なのだ、教えることと教えられることは同一であり、大抵喜捨する側がこの世的には大損をこくという縮図を意図せずまざまざと見せてくれたので、理解出来たのである。
何かの被害に遭った人は、喜捨をした人であり、大損する教え手であるので、何かの被害を受けた場合は「自分と同レベルの人を引き寄せた云々~」等と二次的に悩む必要性は一切無いと私は言いたい。
で、この教え手とか喜捨というのは各人の色々な面で起こりうる物事であるので、何も一人がたった一つの人間レベルとかで測れるような事では無いと感じる。
だから精神面の物事を語っていて、それがある程度的を得ていたとしても、その人がその他の面も完璧超人であるかというと当たり前だが個人のカルマには凸凹があるので、必ずしも善人とは限らない。
人間レベル、のように画一的な見方だと、グルやラビが一番偉いみたいな状態に陥りがちだが、カルマ凸凹を考えるとその人の得意分野や知っている事をどういう段階で他者に喜捨するかということの方が…欠点に対しても受け入れやすいような気がしている。

 

欠点という物事をカルマの欠損と考えると、この世に生まれている時点で誰にでも欠点があるということになる。

 

私には洋裁のスキルが無いし、物わかりも悪い、これは負のカルマ、惹かれる物事についての経験不足であるので改善の余地はあるので救済してもらっている。

一方でカルマの欠損、欠落ということを考える…改善しようのないカルマと捉えてもらえれば解りやすいだろう。

 

さてこのカルマの欠落、改善しようのないカルマについてだが…ちょっと独特の観点になるが…自分はどうにも子供っぽいなと思う事が多々あり、その都度恥ずかしい思いをするのだが改めようと思ったところで子供が大人の振りをしているだけという状態になるのでもう諦めて、自分が子供っぽいということ…成熟していないというカルマ的欠損を受け入れることにしている、大人っぽくなろうとか気配り出来るようにしなきゃとか余計な事は自分に課さなくてもいいんだと思って諦めるようにしている。
具体的に言うと集団が苦手というのも、大人の振るまいが解らないので苦手という感じが強く、当然ながら気配りも出来ないし、何となく楽しければ大人にしてはちょっと素直すぎるくらいの調子で笑っていたりしてしまうので、ともすると私の事を素直な人物だと思っている人も居るだろうと思う。
で、この感じで先生にも接してしまうので、先生からしても子供じみた印象を与えていると思うし、現にそうであると思うのだ。
この事に関して強くカルマを感じるのは、身体的にも股関節という生殖部分に近い部分が欠損しているから、「自分は未成熟なのだ」という感覚がより一層濃厚になっている。
産婦人科医たちは子宮の大きさなどについては現時点ではタブー視しているらしく、何も言わないが整形外科医等は如実に私の子宮の大きさが通常よりも小さいことや、出産にかなりの負担がかかるということを助言している。
私は6歳くらいの頃に唐突に子供を産むなという啓示?を受けたのだが、それから性的被害にも遭ったのでどの辺りから性の負のカルマを感じたのかはよくわからないが、何か出産ということに対して酷く恐れている部分があり、適齢期を過ぎたと思われる今現在は安心しているくらいなのだ。
永遠に子供であることが私の…特性というよりも、カルマの欠損なのかもしれないと思っている。
この欠損を補う為にはどうしたらいいかを言葉通りに捉えてしまうと、それこそ周りから言われたように「子供を産んで母親になれ」という事にしかならないが、私が思うに…欠損、それも身体欠損という事象がカルマとして生じている以上、この世でこの欠損を補うということは事実上不可能だと感じているのだ。

 

カルマの消化は現世だけでは終わらない、という感覚があると言ったらわかりやすいだろうか。
何かが「経験不足により駄目」であったり、「惹かれるのに今はまだ駄目」という場合は『学びや救済』というチャンスがある。
だが欠損という事態が示すのは「この世では到達不可能な地点」「やらなくていい物事」があるという感じがするのだ。
身体欠損というとなんだかパラリンピックとかを否定しているようだが、彼等のような人は欠損を超えるという学びをやっているのであって、当たり前だがそれは万人には当てはまらないと考える。
ちょっと極端な喩えかもしれないが、知的障害者がわざわざ勉強を凄まじく、「全く惹かれないのに」、頑張るようにする等と言うことはカルマの救済には繋がりにくいし、この人生ではやらなくて良いことなのだという暗示な気がするのだ。

 

ちなみにこの子供っぽさは母親由来である。
私の母親も歳の割に…というか常々、「他の母親とはなんか違うなあ」という感じのする女である、女っぽくない女というか、子供がそのまま女になったような違和感がある人物である。
違和感というと実の母親に違和感があるのかと言われそうだがそうではない、母親のことは彼女個人として好感があるが、いわゆる母親像とは合致しない人物であるということだ、大人の女性という感じのしない人物。
彼女の場合は一切、潔いほどに母親像を目指すということをやらなかったため、母親というよりも単なる一人の…子供がそのまま女になったような人物で居続け、彼女自身がそれを受け入れており、諦めているので変なジレンマが生じずに現在に至っている。
自分自身の違和感を「なんとか更生しよう」等と言う厄介な思想を持っている人ほど、余計な苦しみを生じさせる気がする。
自他共にどうしようもないことをカルマの欠損と考えるのはこのあたりの事情からで、欠損自体はどうすることもできない類いのものであるので、この世で超人になろうなどとは思わずに素直に…子供じみているのであればそのまま子供じみたまま老婆になるより他無いと諦めたほうが楽である。

 

だから私の描く絵もいつまでも子供じみていると思うし、それを昆虫を見るような感じで見ている先生も何処か子供っぽい人でもあるし、実際には何処か子供じみている私がこのような物事を書くということに身近な人は違和感を覚えると思う、時に反発を覚えると思う。
誰かが素晴らしいからといって全てが素晴らしく成長しているわけでも何でも無いので、互いにありとあらゆる面で成長度合いは凸凹であるので相互的な喜捨という現象は起こっており、それが全体的なカルマの解消に役立っていると私は考えている。
自分のカルマ的欠損については諦めた方が性格が歪まずに済むと考えている。

 

ちなみに、何故だかこの種の事柄を書くと元ネタは何だと気にする人が居る、こういった物事は個人的に体感した感覚でしかないために明確な元ネタは無い。
どういうわけだか私にはよく理解できないのだが、啓示や内的体感というものを全く信じない人というのが居る、直感を信じない人というのが居る
知識は全部何処か明白な出所があるのだと信じて止まないタイプが居る。
そのタイプからするとこういう物事を適当に書き殴っていること自体が許せなかったりする場合もあるようだし、許せないまでいかずともただただ「外部からの出所が知りたい」という感覚に固執する人が居る。
彼等が悪いとかいうわけではないのだが、私とは話が合わないだろうなと思う我欲の気持ちと、一方で確かに何の根拠も無く人の生き死にを書くというのはやはりちょっと図々しいのかなと思ったりもする。
多分この文章を読んでいる人は、他人の書いている物事というのにある程度の冷静さを以て、今日はこんな事を書いているなあというスタンスで読んでくれているということが解るが、いかんせんカルマ云々というキーワードを散りばめてしまうと色んな見解が生じるとは思うし、いろんな方が目にするとも思う。

 

あまりにも根拠の無いカルマ思想であるので、出典などは無いが…
読んだ本などを一応挙げておくと…
聖書
十字架の聖ヨハネの本(しかしこれは思想本というよりも単なる詩というレベルでしか理解していない)
骸骨の聖母サンタムエルテ
世界終末戦争
ムーミン

 

書いてはみたがあまりにも統一性が無いのでちょっと恥ずかしいが…個人的にムーミンは仏教的な気がしているのだが、話が長くなりそうなのでまた今度。
こうした広大な思想を個人が思いつきで語るというのは、読み返すと凄まじく恥ずかしいと言うことも含め、書き終えた時点で毎回後悔している。
読んでもらえるのはとても嬉しいのだが、恥ずかしくて後悔している。
後悔しながらもアップしている、それが凄い苦しいというわけではないので安心して欲しいが…こういった物事が小規模な喜捨なのだろうと勝手に解釈している。

 

 

 

喜捨の壁とカルマ(カルマ2)


開示するということに関して全般に言えることなのだが…作品にせよ何にせよ、さらけ出せば出すほどに現実的には「損」である、これは恥を基準にした場合でも、喜捨の心で開示提供するという場合でも、ただ漫然と書き連ねている場合でも損である。
その損は、あくまでも現実レベルでの損であって、例えば私が乗り越えようとしている「どこまで正直に(汚くという意味ではない)閃きを開示出来るか」「その閃きによる損を損だと感じない段階まで律する事が出来るか」等々を課題として設けているし、その到達点に至ったとしたら内的直感としては素晴らしく得である。
ただ、これはどの場所でも言えることだが、自分の想いを表明すればするほど、現実的に還ってくるのはその表明に付随する願望や反発であって、新しい発見が自分の手元に還ってくる割合はかなり少ない、よって現実的には開示は損である。
※誤解しないでほしいのは、読んでもらえるのは非常に嬉しいということ。

 

瞑想の講師もふっと思い出したように言っていた、「こうやって瞑想教室を開いて、情報を開示しても大抵の人はその場限りなんだ…」、状況は勿論異なるが、気質として開示する側である私には彼の言わんとする事がわかった、何かを開示するとか教えるということは往々にして損であるという点では、彼の虚無感は十分に理解出来た。
自分が努力して突き詰めて、これだと思った閃きを世に拡散したいのに、教えても教えても賽の河原状態で「教えの到達点」に至る事は、特に教える側、やり出した側、開示する側は…少ないと思う、やってもやっても現実的には誰も振り向かない努力をおよそ死ぬまでやるしかないのだ。
これが啓示というものの残酷性であって、何も瞑想や宗教ジャンルだけの話ではなく、創作ジャンル全般に対して言えることだろう。
仮に開示した物事に対して何か反応が起こったとしても、それは完全な願望の投影であったり、単なる「開示した物事」をベースにした反発といった泥仕合だらけなのである、新しい啓示や閃きといったものがそこに含まれることは実際の人生にはほとんど無い。

 

ちなみに私は祈りは好きだが瞑想というものを学ぼうとはこれまであまり思わなかったし、瞑想の本などもはっきり言ってしまうと読んだことは無いレベルである、何故手に取らないジャンルなのかというと現世利益を謳っている分野だから倦厭していたのだ。
引き寄せの法則とかはある程度本当なのは解るがやはり現世利益を謳っている時点で私個人の感覚とは全く異なるのでその手の情報はあまり見ない、それでも引き寄せという何かがあるのは解る、だがその解るというのは現実的な事柄とは少し異なる。
例えば、教えても教えても誰も無意味な気がするというのは何も教え方が悪いのではなくて…わからない人たちこそが、わかる人に引き寄せられているだけの話だからである。
それを十把一絡げに「自分のレベルが高いから~自分のレベルが低いから~」というふうに、引き寄せの法則自体を勘違いしている人が多いという印象を受ける。
あまりにも同じレベルだったり、あまりにも理解出来る分野に敢て教えを請うと言うことは考えにくい。
何が言いたいのかというと、極めた人や何か極めたい人や単に開示せざるを得ない人(私は勿論後者である)というのが必ず陥る到達点の一つに、喜捨すればするほど「損」もしくは「大損」という現象が発生すると言うことだ。
現実的な段階で、己が得をするか損をするかということを計測した場合、人に開示したり教えたりする人ほど…わからない人たちが解りたいと望むことを教える状況になるので必然的に…損をするのだ。
この種の損を、引き寄せを勘違いした状態で「レベルの低い人しか来ない自分は何をやってきたのだろうか」等と悩む事、これは小規模な悲劇である。
誤解が誤解を生む悲劇であると私には思えてならない。

 

良いことをしたから良い人ばかりに恵まれるということはあまり現実的ではない。
人がカルマというものを見据えて居たとすれば、何か極めた人が必然的に引き寄せてしまうのは、極めていない人なのだ、それを救いとか教えと言う。
カルマの消化をする場合には、最終的には自分だけが極めればいいという感覚を捨てきらねばならない。
自分だけが…瞑想で飛んだりとかしていても意味が無いのである、何か出来ることがあれば出来るようになりたいというカルマを背負った他者を手助けしない限り自分自身も助からない、という状態に至る、多分その瞑想講師もそうなのだろうと推測する。
皆が皆、他人に喜捨する人だらけだったら…その状態だったらいちいち個という単位で生きている事の意味とかすらもう無い段階なのだ。
個として生きていても、誰もが皆個という殻を脱ぎ捨てて他者を引き上げて自分も助かるという合一地点に至っているのであったとしたら…教えというモノは存在しないはずだ。

 

現実的には、他者を助けることで自分が救われるという段階に来ている人は、「やってあげても何も報われない」という状態に至る事が「出来ている」ということになる。
逆説的だが、自己精進を進めている人ほど「報われない」状態に「至って」居るように思う。
わからない人に手を差し伸べているのだから当然と言えば当然だし、その状態よりもわかっている人はその人のところでぬくぬくするはずがないのだ、だから必然的に自分を喜捨するという状態になるし、それを現実に訳すると苦しみの到来という状態に陥るだろう。
ちょっと話が逸れるが…やってあげても、とか、喜捨、という言葉に何か傲慢なモノを感じる人もいるかもしれないが、何か自分の得意分野を誰かに教える場合にはほとんど、個という自己を纏っている限り「やってあげる」という状態になる。
言葉尻では傲慢に思えても、事実としてそのような状態なのだ、言葉だけで「自分は少しも傲慢じゃない」と言っていても、現実的には普通、多かれ少なかれこの種の傲慢さというのはあって当然である…普通の人間なのだから。

 

現実的な感覚で利益を得るのはいつも後出しする人であるし、何かに対して「その何かのみを土台にして」反応だけする人である。
いいね!つまんないね、駄目だね、わかってないね、わかってるね、やっぱり凄い人だ、立場を考えろ…そういう風にただ単に開示物に対して反応するだけの人こそが、一番「現実的に」祝福されていて得をする。
どういうことかというと、自発的でない人は現実的には悪人にはなりようがないからで、知らないモノを得るという立場なので得をするのだ。
誰の期待も理想も裏切りようがないし、また裏切らないように常に発言を律しているという点で現実的な意味で善人であるので、現実的な段階では得をする。
何故かというと常に学ぶことが出来る段階であるので、新しい閃きを一方的に無数に受け取る事が可能だからだ。
カルマで考えると様々な方面に対して…自発的でないので…外部から受け取る事が出来るので、現実的には様々な閃きを得る事が出来る。

 

さて「教えれば教えるほど損をする」「開示すれば開示するほど損をする」「願望や反発だらけで見返りがない」ということについては、しばらく以前から思ってはいたが書くのを控えていた。
当たり前だが私の立場というものは現実的にほぼ無いのであって、開示に関しても個人的直感に於いて課題を見いだしたという状態であるので、それに関して損だの云々と書くのはちょっとおこがましいというか、常識的に考えてあまりにも図々しいような気がしていたのだ、それでも書くより他無いと思ったので書かせて貰っている。

 

では何故この物事について書こうと思ったのかというと、件の洋裁教室である。
そこでの私はあまりの不出来さ故に洋裁の講師の方には大変な迷惑をかけているくせに知識だけはちゃっかりと得ている。
迷惑をかけようと思って意図して彼女を怒りのパニックに陥らせようとしているわけでは断じてないのだが、指示した事と全く違うことをしてしまうらしく、講師の神経をすり減らせていると思う。
で、ここでの殉教者は誰かというとそれは不出来な私ではなくて、「その道を究めた人」である洋裁講師の彼女なのである、最早彼女の殉教無しには私は一着の服も縫い上げることが出来ないのだ。
義務教育的な考えで行くと、良く出来る人というのは良く出来ることに見合った幸福が手に入るのが道理だと教え込まれるのだが…そのようなことはあり得ないのだ。
私も洋裁講師の右頬を殴った後にさらに左側も殴るようなことはしたくないのだが、結果的にそうなってしまっている、これからもまだまだこの状態は続くだろう。
一見殴られているのは私であって、私のありとあらゆるエゴをそぎ落とすかのように指導されている感じがするのだが、それって裏を返せばそれほどの苦労を相手にかけさせていると言うことでもあるのだ。
講師からしたら「こんなに究めたのに」それに見合った報酬がない、それに見合った人材が来ない、レベルが低いままだ、というジレンマが生じている状態かもしれない、まあ、他人の事をあれこれ憶測しても仕方が無いのだが、はっきり言ってしまうと場にそぐわないので辞めた方が良いかなと感じていた。
申し訳ないので辞めた方が良いのかなと感じていたし、私にもエゴがあるので不出来さが恥ずかしいので辞めたいとも思っていた。

 

…が、このようにして辞めた人がきっと大量に居るという事も、また、それがより一層講師自身の「こんなに懇切丁寧に教えているのに、知識を開示しているのに、神経をすり減らして寄り添っていたのに呆気なく居なくなる生徒が大勢居る、大勢に裏切られる」、という思念を増大させてしまっているような気がしてならないのだ、これはかなり切実な感覚で迫るものがあったので概ね間違いでも無いと思う。
「してあげればしてあげるほどに損をする」「裏切られる」「どうせその場限り」
まさにその通りなのである、この種の裏切られる感覚が立て続けに起こるのは大抵究めた人であると私は思う。
開示している側の人間の苦満だと思う。
無論、実際に講師にこういう話などはしないし、私は現実的には自分の名前で物事を開示している人間でも何でも無いので、そのような人間が「お気持ち解ります」等としゃしゃり出て言うわけにもいかないので普通に黙るより他無いのだが、本当の所は何が壁になっているのかは感じている。

 

瞑想講師も洋裁講師の彼女も、究めた人であるので喜捨の壁にぶつかっているのだとわかる、この場合私こそがその壁そのものであるので、これはいかんと思ったのだ。
で、僭越ながら(僭越すぎるが)その根本原理である「自己の閃きを開示しても現実的にはリターンが無い、あるいは反発が起こったり、二次的な反応しかない、損をする」、という状態自体は私も十分にわかっているので、このジレンマを乗り越えるにはどうしたらいいかを考えている。
ギブアンドテイクという言葉の語弊は、閃きに対しては閃きを得られると誤訳した所にある。
それが現実的なレベルでの話なのか、それとも個人の自己精進などの思想を含めた直感の世界のレベルも交えた段階での話であるのかを履き違えてはならない。
自己精進をすると決めた人である場合、喜捨することも…また壁になっている人自身もその壁であることを簡単にやめてはならないと感じた。
「こんなに頑張っているのにリターンが少ない」ということを「間違っている」と解釈しがちであるが、実際には物事を開示したり教えたりする人は、自分が教える以上のことを完全に解っているような人は寄ってこないし、それは一概に悪いこととは言えないのだ。
カルマの消化を考えると、何か究めたら他人の手助けに意識が向くようになる、完全に理解し合っている人々だけの輪しか世の中に発生しなかったら、カルマの消化は何処までも不完全に終わるし、救われている人だけが未来永劫救われ続け、駄目な人は永劫的に駄目なままということになる。
よってこの種の手助けにはリターンとして大抵の場合苦しみばかりが開示者、自発者の手元に届く、本質的にはそれこそがやりがいがあると解釈すべき物事なのだが…虚無感も含め、何かを開示するというのは本当に虚しい事だと思う。

 

この思想に元ネタはあるのかとか気になる人もいるかもしれないが、残念ながら特に無い、だからこれをカルマ喜捨思想と呼ぶべきか単なる妄想かと問われると答えに窮する。
強いて言えば元カルト団体にいた人で現在ホームレス支援をしている方がいる、その人のブログを読んでいたときに自分の思う思想と似ているモノを若干感じた事はある。(読んでいると安心感が「得られ」るので感謝している、つまりこの地点でも私は持たざる者なのである、彼にとっては壁の一つなのである。)

 

開示するということに関しては、これからも迷うだろう。
例えばこういう思想を書いたところで「得られる」モノは私には無い、果てには身近な人に傲慢な阿呆だと思われて終わりというのが現実である。
私が思うことの一つに、創作意欲をそのまま保持した状態で単に年老いていく人の内省の記というものが、自我的にはいかにして他人を励ますのか、あるいは何かの二次的な閃きに繋がるのかということに関しての文化人類学的な興味がある…だが、当たり前だが現実的に考えたら何のリターンも無いというのが現状だろう。
言うまでも無く書けば書くほどに現実的には損をするのだ。
損得勘定が先んじているようだがそんなに何かが欲しいのか?と疑問に思う人もいるかも知れないが、開示し続けるということをしている人ならば私の言わんとしていることがわかると思う、開示するということの自分自身の傲慢さも含めて、究極的な地点に人生で至る事が可能なのかどうかを…どこまで閃きを追えばそれが訪れるのかといった物事が気になっていると思う。
社会的に成功している人にはちょっとズレた考えのように思われるかも知れないが、あくまでも内的視点に於いて到達という段階はあるのか、閃きによって「書かされている」が、それに意味はあるのか。
人間社会で考えたら開示されたモノに関する「反応」はあれど、それがどのように実を結んだかを観測する術は無い、面白いとかつまらんとかクソとか言われるだけで終わりであるのはわかっている。
それでも何故か、閃きに関してはネットに載せた方が良いという感覚があるので、やらざるを得ない感じで開示しているのだが…さらに言うと社会的な競争欲の外側という場所にしか本音を書けないという感覚もある。

 

絵に関して思うのも似ていて、私が絵を見せる相手は私よりも感性や実技が優れているので私の絵如きでは驚きようが無いのである。
この場合は私が切磋琢磨するという…開示者でありながら壁であるという状態になるのだが、相手には全くつまらないとわかりきっているモノをそれでもこさえ続けるという苦痛がある。
だがこの苦痛に関しても、内的啓示としか言いようのないものが、作品を完遂させない限り消えてくれないので、やり続けるより他無い。
そしてこの物事を第三者に相談したところで、やれとかやめろとかの反応しかない上…これは私自身にも言えることだが往々にしてそれは理想の投影でしかない。
閃きというものは、自分ベースのやり取りという段階では発生しないのである。
相談したら相談相手が閃きをくれるのであれば私も誰彼構わず相談するが、元の話題が自分である場合、それを超える閃きなど降りては来ないのだ、相談相手が私よりも優れた描き手であると解っていた場合でもそうなのだ。
これは残酷な原理だなあと思う、私が相談が無意味だとか、アドバイスが無意味と思うのはこうした理由からだ。

 

こうして書いた物事は何かの閃きの一端になっているのだろうか?
等と言う恩着せがましさを真っ先に捨てるのが真の喜捨だろう…が、これが難しい。

 

喜捨は現世利益に通ずるか…
喜捨には意味があるか…
その答えが、生きている内には哀しいほど見いだせないのだろうということだけは、件の講師たちが何にも増して先んじて、私に教えてくれているのだった。

 

 

 

 

卵黄ブルブル体験とカルマについて(カルマ1)

 

出来てしまえばしょうもないことだった、内的体感というものを言葉にすると呆れるほど稚拙で、出来たとか解ったとかイけたとかしか言い様がないのだが、突き詰めてしまえば達したところでどうということはない。
完全に達したのか、お前ほんとにイッたのか?と問い詰められるとちょっと確信が揺らぐ部分はあるが、大まか大体の意味はわかっている。
こんなに意味のわかることはなかった、男女関係よりもよく解る分野だ、というかそれ以外に意味のわかる分野というものが私には無いので、吃驚したのだ、意味が解りすぎることに対して非常に驚いた。

 

…何の話をしているのかというと瞑想の話である、本日瞑想体験らしきものに行ってきた。
多分勉強の凄く出来る人というのはこういう気持ちで勉学していたのだろう、何につけ講師の意図する意味が先に解ってしまうので、やってみて出来たところでたいして威張る事も出来ないし、こんなことが出来たところで何が凄いのかもわからない、でも人間というのは勝手に出来る出来ないを比べる生き物であるので、瞑想という内的体感をも比べ、こんなしょうもないことを比べて「俺は10点くらいしか取れない気分だ」等と言うのである、私もそのように生きてきたのだと今日知った。

 

瞑想を指導する講師の言う言葉の意味が解りすぎるので、その分野はやらなくてもいいとすら感じた、逆に言えば瞑想をやってみたけれど意味が全くわからなかった人ほど瞑想をやるべきである、つまり私は洋裁を引き続きやるべきなのである。

 

瞑想をやって、在る段階に脳内が至ると…インナーボディの振動という現象が起こるらしい、特段それだけを目的にやったわけではないが意図せずにこれを体感した。
実際、この状態に至ると身体の数段階内側の…本体、霊体?みたいな熱い何かが…卵の殻が身体だとしたら、卵の黄身のような部分がブルブルと高速で振動したのを感じた。
瞑想状態に入ると身体が通常とは別の感覚になるよ、というただそれだけの話、特段それを目指そうというわけでもなかったのだが瞑想中にそのような状態になったのだ。


内的体感というものは極論、個人の妄想でもある、個人的直感でしかないのでセックスでイったとかいうのとほぼ同レベルの話なのである、やってしまえばどうということはない、やれないといつまでも気になる体験というのは体感してしまえばどうってことはないのだなあと思い知らされる。
卵黄ブルブル体験とでも言うべき体験…体験自体はだから何という話なのだが…多分死ぬということは、この黄身の部分がスパッと身体から抜けてゆく現象を指すのだろうと直感した点では非常に面白かった。
これをインナーボディの振動と呼ぶらしい、変性意識状態でのインナーボディの振動。

 

講師の誘導瞑想という形で本日のレッスン?はスタートし、歩く瞑想や作業の瞑想などの話を聞いたが、歩く瞑想も作業の瞑想も日々の祈りによる瞑想も毎日やっていることなので何か摩訶不思議なモノは何一つ無かった。
それでも何故私が瞑想に惹かれたのかというと、毎日祈って(願っているのとは少し違う)いる時に見える次の絵のインスピレーションだとかそういういかにもな右脳的作用と、瞑想というものがどのように違うのかを体感してみたかったというのが一つの理由である。

 

あとは個人的な話(いつもか)になり、瞑想とは直接的な関係はないのだが…

数珠(ロザリオ)を使った祈りの時に(特段カトリック教徒というわけではないのだがこの祈りはとても面白いのでもっと沢山の人がやるべきであると思っている、イエスキリストのドラマ性による内面の客観視が出来るのでネガティブになりやすい人はネガティブな物事への客観性、あるいはハッピーになりすぎることへの耐性のつく、認知行動療法の一種だと私は感じる。)人生そのものを見たような気がしていたのだ。
この事については前にもどこかで書いたかも知れないが…今、35年生きてきて、急に、これから死ぬまでもこの「視点」即ちロザリオを繰る指の視点がいつも常に私を「見ていてくれるのだ」という確信が閃き、あまりの有り難さに咽び泣いた。
何もかも一つも余すところなく、クソみたいな出来事も何もかもが、この数珠の珠のように全部が必要であって、それは過去だと思っている部分も、未来だと思える部分も全部、既に今、手にしているのだという感覚が迫ってきて、クソみたいな出来事や自分が辛いと思った出来事、自分がしでかした悪事、意図せず生じた恨み、狡猾な知恵といったもの全てを含め、全部余すところなく良かったのだという圧力が凄まじい勢いで迫ってきて、喜びで泣いた。
こんなに許されていて良いのだろうかという喜びで泣いた。
この喜びを体感したのは数日前である。

 

この数日前の出来事を経てからは、日々の出来事に関して湧き上がる排出欲みたいなものが減ってきて、もう残りの一生、何も書かなくていいんじゃないかとすら思ったのだ。
書かなくて済む、と言った方が的確である。
醜部や恥部を見せずに済む、と言った方がさらに的確だ。

 

書くということについての話になるが…書くという事は全裸になることに近いので、近しい間柄の人ほど観たくないものを見る羽目になる。
ここには双方の苦しみがあって、片方は排出せざるを得ないという事情、片方はどうしたって他者に何かを投影してしまうという事情が生じる、これは誰にとっても同じ事である、私もそうだ。
…だから件の、かの先生は書いている文章を開示しないのだとわかる、投影と異なる思想や変化、これを開示することで第三者との関係性までもが意図せず変化する、これはとても疲れる事であるし、結果的に「開示する側というのは」常に閲覧者を裏切ることになるので、「書けば書くほど損」なのである。
書かないで投影だけしている人の夢や、思想までもを背負い、そして当たり前だがそのようなものと私個人の方向性は別であるので彼等を裏切ることになってしまうので、基本的に物事は「開示しないほうが人間関係上圧倒的に得」であり、常に弱者で善人で居る事が出来る、私だって先生の前では弱者で善人なのだ、そういう人間こそが…開示することを学ぶべきなのである、全裸になる事を学ぶべきなのである。
だから書いて開示しているという内的事情もある、何も先生云々というわけではなく、開示することは損であるのでこの損をいかに…乗り越えることが出来るのかという課題を見いだしている。

 

いつだったか先生は(私も先生先生と憧れを押しつけて申し訳ないし、いつまでも彼の事を口にしたくはないのだが、それでもやはり正直に書かざるを得ないので書くしかない、憧れそのものに罪悪感を抱いている事も含めて)、「全くの覆面で作品を公開したらいいんじゃない?」と言った事がある、全くの覆面で文章を書くとかそういうことだ。
「俺の親戚にも漫画家が居てさ、その人は何の漫画を描いているのかは絶対に家族にすら教えてないんだよ、だから俺もその人が一体『誰』なのか知らないんだ、知ってるのは漫画家だってことだけ」
そして自分の文章はネットには流さないようにしていると言った、「検索には載らないようにしているんだ」、そりゃそうだ、私のような人間が居るので…近しく、理想を投影しがちな他者がいるので、毎回の裏切りを避ける為に自分の本音や変容、どうしても言わずにおれなかった違和感、感動秘話等は伏せておくしかないのだ。

 

書くという行為に纏わる恥や、私自身の幸福の為の取捨選択の開示が、意図せずに他者を混乱させてしまうのも体感していたし、理想の投影だけをされると非常に苦しいのも理解出来る。
私はどうしても罪悪感を感じる物事というのがあって、それは今生のカルマになるのだろうかと思っているのだが、一方でロザリオの祈りで体感した強烈な喜びを思うと…カルマや罪悪感というものが妙に薄っぺらく感じたのだ。
これを現実に発言すると、凶悪犯などのカルマはカルマにすらならないのかという叱責を受けそうだが、語弊の無いように言うと………そうなのかもしれない、と思ったのだ。
凶悪犯が犯罪という地点、脳内の瞑想状態とは真逆の迷走状態みたいな地点に「至って」しまった時に事件事故は起こるのだが、じゃあその地点に至ってしまった犯罪を犯した人というのが死ぬまで罪悪感に苛まれ続けて死んだ後も呵責を受け、挙げ句に生まれ変わっても尚前世のカルマの精算せよというような思想は、言ってしまえばヒステリック過ぎる。
ヒステリーをまさに起こしている、まさに被害を受けたその瞬間その「苦しい地点に至ってしまった時」の「心情」であって、その信条の投影がカルマ思想なのかなと思ったのだ。
人間にカルマが無いとは思わない。

 

例えば私は集団という単位が非情に苦手であるし、瞑想の意味が解って卵黄ブルブル体験も出来て本日はさぞかし楽しかったのだろうと思われるかも知れないが特段楽しいわけでもなく終始緊張していたし、あのような場では全くと言っていいほど身体が動かないので哀しいほど女の割に(本当にそう思う、気がつくと手持ち無沙汰の男性と目が合い、見知らぬ男同士のように動物的敬意を以て逸らすしかない)手持ち無沙汰である、つまり、こういう物事がカルマなのだ。
私には、得意な事や苦手なことがある、これがカルマなのだと私は考えている。

 

で、私のこの集団が苦手とか勉強が全く壊滅的というカルマが、具体的に何をしでかしたからこのような苦しみ…「至れない」事による「他者との比較の上での苦しみ」に苛まれるのかというと、そんなことの原因はわからない。
仮にその原因を「前世の貴女は集団内での権力を振りかざして~~」等とストーリーを展開させて納得したとしてもちょっと無理があるのだ、考えてみて欲しい。
自分のしでかした悪事というのは大抵が、自分には勘の利く分野であると思う、金融なら金融、男女関係なら男女関係、軍事なら軍事…なので苦手分野で人を傷つけるということは出来ないだろう、お金の意味もわからないのにお金を使って結果的に良くないとされる事をしてしまうという状態は考えにくいし、男女関係の意味も解らないのに結果的に心が動いて離婚する要因になるということも考えにくい、銃の撃ち方も知らないのに敵国とされる国の人を殲滅させるということも考えにくい。
苦手分野というものはやっていないから苦手なのであって、過去生でやってきた物事というのは基本的に鼻が利くと思う。
だから感情的に「罪悪感に苛まれ続けるのがカルマを生じさせた人の因果だ」というのはちょっと無理があると思うのだ、よって私が集団を苦手とするのは集団単位での過去世があまり無いから、女であった過去世があまりないから振る舞いがわからないのだろう、勉強をした過去世があまり無いから苦手なのだろうと推測する…のが妥当だと思う、憶測でしかないが。

 

そこには一切の罪悪感というものはない。
カルマとは、その類いの物事であると思えてならない。
そしてカルマの出方というのは、感情論は一切抜きだと思えるのだ、例えば私は関節やら股関節やらが足りていないが、こういう物事こそカルマであると思う。(アトピーに関してはカルマというよりも現在の密閉密室状態での居住に原因があるので社会病だと思っている。)
これは親の因果が子に祟り…みたいな事なのかもしれないが、そこには一切の善悪も感情も無いと感じる。
これも安直に、「今生に運動能力が足りないのは過去世に於いて運動能力を悪いことに使ったからだ」などとは翻訳出来ないだろうと思う、善し悪しというものはその「地点に至った」状態に感じた感情感覚であって、その地点に至ったのが数人いるならばそれぞれに思う所があり、一概に善し悪しは言えないというのが私の見解である。

 

これも現実的には言おうなどとは思わないが、それでも正直に書かせて貰うと、京アニ放火殺人事件の犯人などが今生で生じさせたカルマを解消するとしたら、全く同時進行している前世や来世、枝分かれした数多の生に於いて、彼は創造性という分野での「至らなさ」を果たすべく邁進し、今生での苦しみを超過するほどの喜びを感じるしかないというのが私の思うカルマ解消法である。
つまり創造性を発揮している人を恨み、殺したというとても重いカルマを生じさせたのは、彼自身でもあるがこの社会の病理でもある、この社会のカルマでもある。
よってこの社会全体がカルマを昇華するには、創造性というものに真っ向から参加しなければ解消出来ないと私は考える、だから彼のような「凶悪犯」がカルマを解消する場合には、創作の喜びを以てその業を昇華するより他無いのだという確信が私にはある。
彼のような重いカルマを持つ魂がカルマを消化するには、創造性に対する努力というものや素直な喜びというものが何よりも必要不可欠である、だから来世も罪悪感に苛まれる等と言うことは…カルマが重くなるだけなのであり得ないと感じているのだ。
一般的な善悪感覚では彼のような人物は死して永劫に地獄の業火(まさに…)で焼かれるべきである!!という思想があるが…どう考えてもそれだとカルマの消化どころかカルマがさらに重く、さらに重大な事件が来世でも引き起こされかねない、よって悪業に対するカルマというのは…憤慨するかもしれないが、創造に纏わる素朴な強い喜び、これに勝るカルマの消化方法はあり得ないと感じてしまうのだ。

 

何かしら道徳に反する行いや、何か悪いことをしたりした場合、その人は「ポーズだけでも」「もっと悩み苦しむべきである!!」「どこまでも苦しみ生き恥を自らの手で締めくくるべし!!死すべし!!」という考えが非常に強いように思うが…罰でカルマは軽くなるだろうか?
まあ別に今世の彼が死刑になろうが無期懲役だろうがそれは今世の社会の対処方法で良いと思う。
ただ、カルマという考えからすると、何か悪いことをしたその物事をもっと重く苦しくする作用を皆が強調するということこそが、社会全体のカルマを重くしているとしか思えないのだ。
悪いことについて悩めば偉い、というのはカルマを重くさせるだけであるので、カルマの消化が人類の目的であると仮定したのであれば…どのような罪を犯した人であれ、そのままに生きるしか無く、それを過剰に指さすような事は全体のカルマを深めるので抑えるほうがよいと言うのが私の思う所である。
社会的弱者や善人と呼ばれる人…時に私自身が投影や、理想や、その理想と違うところの在る人を指さすその時に生じるカルマというものが…あるような気がするのだ、水に落ちた犬を打つみたいな事はカルマを深めるのでやらないほうがいいと感じる。

 

カルマや生まれ変わりというものはどこまでも憶測であって、事象として観測されていない分、私も特段口にしないのだが…本日の瞑想レッスンの講師が喫茶店で語っていたその時、窓の外に郊外の街灯りが広がり、何処か海辺を思わせるタイル貼りの広場を見て静かな悲しみを感じた。
「好みにカルマは関係している」と講師は淡々と語っていた、実に、どうということのない内容の話だった、だから意味が解ったのだ、全く凄くもなく、全く不可思議でもないので意味が解ったのだ。
私は紅茶をかき混ぜながらとても悲しくなった、きっとまた次の世々で…果たしてそれがこのような場所なのかも不明だが…紅茶を飲みながら、いつまでこの渡航が続くのだろうかと愕然とするのだろうという閃きがあり、虚しく、暗い洞の中に居るような気持ちになった。
私が名前を変えて文章を書いても私は私だし、近しい知人に醜部を見せるのを避けてネット上で幾度も転生を繰り返して尚、どこまでも私は私であり、私の課題や恥は残り続ける。
近しい知人が出来たら未来永劫、醜部を隠すという課題が残り続けるし、書けば書くほどに人間関係上損をするという自我の叫びもある。
いつまで書いても、また書くのを抑えても理想の投影は私自身も止められないし、やはりほとんど誰も理想の投影を止めることが出来ないだろう。

 

瞑想体験の後の講師と参加者との体験談は静かに続いた、私は卵黄ブルブル体験…もといインナーボディの振動の話をした、人の顔を全く覚えない講師は「それは早いね」と言って自身の感覚論の意味が通じたのを参加者に見いだしたようで静かに喜んでいる風だった。
個人的瞑想や祈りというものは結局の所人生の間ずっとやってきたので30年以上の感覚思想歴があるが、瞑想と社会的に呼ばれるモノをやってみたのは本日が初めてである、だから体感が早いのは当たり前といえば当たり前である、このような感覚的経験を既に積んでいるのですぐに意味が解っただけの話である、瞑想というカルマがあるので理解があるというだけなのだ。

で、この…インナーボディの振動、これが崇高で高尚な体験なのかというと風俗で楽しい思いをするのとさほど変わらないんじゃないかというのが私の見解である。
個人的体感というものは肉体面は堕落で、精神面の場合は崇高で高尚だと言われるが、では精神と身体の境目は何だというとそんな境目は実際、無いのである。
だからセックスでイって素晴らしい思いをしたというのと、瞑想して飛びましたというのの境目なんてものはない、あるとすれば肉体的に独立した状態で沢山の存在を感じられたかどうか、肉体的に他者が寄り添っていて独自の体感を得たかどうか、くらいなもんだ。(という話は勿論しなかったが)

 

私の体験やそれに近い体験の人が居る一方で、瞑想に参加したけれど意味が解らなかったという人が居た、主に男性たちだった。
「僕には全然わからなかったので…凄い体験をされた方もいるようですが」
「何だかテストで10点しか取れなかったみたいな気持ちです」
私はおかしくなった、それって風俗で良い思いをした人間と風俗で楽しめなかった自分とを比較して「すごいなあ」と比べて落ち込んでいるくらいどうしようもないしょうもない事なのである。
こんなしょうもないことで他人と比べて落ち込むなんて阿呆だと思った、まるで洋裁教室で自分が駄目過ぎて落ち込んでいるこの私のようだと思って可笑しくて仕方が無かった。

 

つまり、経験の無い物事ほど理解が遠いので『やるしかない、やったほうがいい』のだと、彼等に自分自身の姿を見せられたように感じたのだ。
私もこれから瞑想をやるとは思うが、瞑想した方が良いのは多分私よりも彼等であり、私も瞑想よりも(無論毎日整える為にやるが)洋裁を学んだほうがいいのだと解ったのだ。
解らないことで、尚且つ導きのある物事ほど手を出して、解りきっている物事はそれほど熱心にやらずとも良いのだと『言われた』気がしたのだ。

 

ちなみに仏教的には瞑想で飛んだとかそういうことは魔境と呼ぶ事もある。
この物事自体に大した意味は無いというのが釈迦の教えにあると…日蓮正宗系(全ての説得力を打ち消す作用がある)の母から学んだ、ただ、心身を整えるという点ではセックスしない人は瞑想したほうがいいんじゃないかという感じがした、どうにかして心身の平静を整える作用を日常的にやった方がいいとは思った、飛ぶとか飛ばないとかは無関係に。
そして多分世の数多の物事は、出来てしまえば本当にしょうもない事なのだ、だから出来る人と自分を比べて自分の不出来さを恥じるなんてことは、完全な無駄だと私は、ロザリオの全ての珠に宿る私自身へ助言したい。
幸福な数多の私にそう助言したい。