a.o独白個人ブログ

詩や創作文章を個人的に公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

善悪について考える


善悪というものについて考えている。

 

祈りだの何だのと色々絵の軸を支える物事を書いてきたわけだが…「先ず私生活を何とかして正してから、自己実現への祈りだとか、社会への意見を述べて欲しい」という見解の人も居ると思う。
だが私はそうは思わない。
私生活という自分自身を全て「正して」からでないと「発言」出来ないというのは…実質世の中の誰も、発言出来ないということになってしまう。
そんなに綺麗な完全無欠の人間は、誰も居ないと私は思う。
世の中に正真正銘、一人の人を愛していて、かつ、親切で、尚且つ、自我を超えた愛の念を持つ人しか発言してはならないというのであれば、多分誰も、世の中の事を考える事に参加出来ないだろう。
M氏のように実際の女は抱けない、抱かないという人も何一つ発言権を失うことになる。
私は男を止められない。
そのような自分をひた隠しにすることは自分の心身にとって妨げとなるため、自分への悪影響はあるだろうと思う。
ただ、自分自身を「社会的に正す」ということに専念してしまうと、世の中は「自分自身を正した人」と「自分自身を正さない人」という区分が生じて見えると思う。
そして後者を知らず知らずのうち、無視するのである。
「先ず自分を正してから物を言え」は、実質「立場を考えて物を言え」ということに他ならない。
社会生活という色眼鏡に於いては、立場は重要である。
だが個人では?
個人では、その人が社会に対して考えたことがあるのならそれを言った方がいいのだと、私は思う。
そのような意味で、自分の意見、想念に素直である人は私の目には非常に魅力的に映るし、文章も楽しく見える。
立場を考えて物を言え、のままだと思考停止のほうが美徳に映る。
確かに「綺麗」かもしれない。
だが建設的ではない。

 

建設的でないということが謙遜の一番の問題であると私は思う。

 

自分自身を社会的に正すことに専念すると…病気の人はいつまでも「自分は病気だから」という区分に留まり、その先を見ようとはしなくなる。
あるいは、一般的に言う悪人はどうだろうか?
殺人犯には発言権はないのだろうか?
強姦魔には発言権はないのだろうか?
浮気者には発言権はないのだろうか?
薬物中毒者には発言権はないのだろうか?
別に彼等を擁護しているわけではない、だがそれ以前にただの人間なのでは?と思っているのである。
多分、悪いことを直さないと善いことを言ってはいけないという社会意識のままだと、ますます犯罪とか、増えるのではないだろうか?
自分は悪人だから、自分を超えたような範囲の事は考えなくてよいという意識だと、人間の性質が低下すると私は思う。
だから死刑制度とかも実は結構、疑問である。
(まあそれ以前に、日本にもサムの息子法を導入しろよという話ではあるが…。)

 

何か「悪いこと」が起きた場合、その人やその行動を悪いというのではなくて、どうしてその行動に至ったのかを徹底的に調べ尽くす事が重要であると感じる。
それを決して、「病気だから」で思考停止してはならないと私は思う。
自分が何かをしたのならば、どうしてそれをしなければならなかったのか自問自答するのである。
しかしその答えが出ずとも、いいと私は思う。
自問自答を続けながら、社会的な意味で悪人であっても、自分の出来る、広範囲での楽しくて善いことを見つけ出す方が先決であると思う。
何故ならそのほうが、建設的だから、である。

 

例えば自分が強姦をしたとしよう、それについての自問自答を続けながらも、絶対的に自発的に楽しくて善いことをまず、実行出来るのであれば実行し、信じるのである。
全く同時に自分が悪人であるし、私的に恨まれ続けるということを受け入れるのである。
「先ず心身を身ぎれいにしてから物を言え、行動はそれからだ」
という先入観がある場合、いつまでも「自分は何故このような事をしたのだ」という部分で引っ掛かったまま、社会的にフラストレーションを抱えることになる。
結果的にそれはその人を、一度の強姦から連続強姦魔に変えてしまうだけだと私は思う。
ますます暴力的にしてしまうだけだと思う。
だからこそ、その人が社会的にどのような悪事を働いたにせよ、その人自身の自発的、根源的な喜びのある物事で、尚且つそれが広範囲に於ける他者への愛であること…この二つが一致している何かを突き詰め、そちらに想念をつぎ込んだ方が、結果的に社会的に「善人」が増え、社会が進歩してゆくと私は信じている。

 

これは強姦を受けた人間の意見である。
だから何かにつけ「性犯罪被害者である」ということに留まっているのもよくないと私は思う。
それだと余計に、強姦という目に見える暴力こそが真実であり、目に見えない愛の念が嘘であるかのように、「周囲に悪影響を」与えてしまうから、である。
暴力の被害に遭うということは本当に心が挫ける出来事である。
目に観える事しか真実が無いように思われるから、自分の弱さに挫けるのである。
信じていられないから挫けるのである。
だからこそ安易に自分の立場を、いつまでも「被害者」にしてはならないと私は思うのである。
だいぶ辛口だが、これこそが世の中の暴力現象に加担してしまっている行為だからだ。
想念の無駄遣いだからだ。
世の中の真実を、現実の暴力であると認めてしまうことに加担しているから、「被害者である」と言うことそのものに固執してはいけないのである。
それは暴力的に強い人間を、是とする事につながってしまう。

 

昨今の、引き寄せとか、○○の法則といった概念には日本土着の穢れ思想が見て取れる。
犯罪に遭うということは自分自身がそうであったからそのような目に遭うのだ」という解釈が見て取れる。
実質、それは「親の因果が子に祟り~」という、使い古した概念と一致する、いつまでも幼稚であると私には思えてしまう。
それが真実であるか否かは、全く、どうでもいいのである。
何が真実かはどうでもいいのである。
建設的でない、自分さえよければいい、ということが問題なのである。
根源的な意味での、愛着や愛情ではないレベルの愛が欠けている事がこの種の思想の問題なのである。

 

強姦というキーワードをつい、使ってしまうが…
例えば自分が、憂さを晴らすのに強姦が一番手っ取り早く、かつ、刺激を覚えるのでまるでそれが真実であるかのように感じている人間だとしたら、自分が強姦魔であったのならと仮定する。
どこで強姦するだろうか?
都内の高級住宅街で獲物を見つけるのだろうか?
交番の目の前で獲物を物色するだろうか?
国会議事堂の近辺でレイプするだろうか?
皇居の近辺で犯罪を行うだろうか?

否である。
どうしても、刺激=真実であるという概念から抜け出せなかったとしたら、私が強姦を楽しみとしていたのなら、豊かな地域では犯罪をしないだろう。
東京都内在住であれば都下へ。
それも、自分が特別に犯したい対象が居ないのであれば、より貧困層の地域へ行くだろう。
その中でも自信のなさそうな人物を狙うだろう。
じゃあその獲物となる人物は、好き好んでその地域に住んでいたのだろうか?
獲物は好き好んでその世界に住んでいるのだろうか?
獲物は単に、そこに生まれてきただけなのである。
確かにそのような意味では引き寄せの法則は残酷なまでに作用していると言えなくも無い。
確かに、「親の因果が子に祟って」そのような地域に生まれてきたのであり、他者の現実的な意味でのサンドバッグに成り果てるのである。
確かに、それは真実なのかもしれない。

 

でも、真理が欠けているのである。
愛という根源的な、他者の為になりたいという関与の念が、欠けているのである。
犯罪被害に遭った側も、いつまでもめげているだけでは駄目なのである。
犯罪をする側も、いつまでも暴力=己の真実のままでは駄目なのである、そこに自分の限界を設けては駄目なのである。
だからこそ、自分には暴力的な側面があることを自覚しつつも、自分の限界を超える考えを追求し、実行する事に自分の体力を注がねばならないと私は思う。
双方が、甘えてはならないと思っている、これは実感として常に胸に渦巻いて居る。

 

でも、目に見えない愛の概念をどうやって実行したらよいか…考えてはいるけれど、現実的には謙遜が美徳だし、自分なんかが恥ずかしいという気持ちに苛まれるだろう。
そのようなときに支えてくれるのが祈りなのである。
祈りは、信じているから祈るのではなく、信じさせて下さいという、実行への原動力なのだと私は思っている。
だから祈りそのものを有り難がる必要性は特段、無いし、宗派も無関係であると私は感じる。
特に「他者の祈り」を崇めたり、自分以上の素晴らしさがあるなどという「社会的地点」で思考停止してはならないと思う。
逆説的なのだけれど、そのような地点を自分に許してはならないと思う。
他者を崇めることが、他者を重んじることではないと私は思うからである。

 

祈り、お祈り。
その言葉自体はふわふわとしていて、どこか夢見がちで、カトリックの聖人の祈りなどというのは乙女チックでさぞかし、居心地が良いように傍目には見えると思う。
だが実際にこれらの祈りの「意味」が、あくまで「主観の範囲で」私個人に強烈に「作用」するとき…
彼等、彼女らは、決して甘い人間などではないのだなとわかるのである。
甘いどころか本当に厳しい、生きた一人格として私に迫ってくるのである。
泣いても許してはくれないのである、犯罪や罪を許すと言うことは、言い換えればどこまでも個人的探求をせよ、思考停止をするなという意味である。
つまり許すということはその実反語で、思考停止を許さないということなのである。
悪人だからということを許さないのである。
被害者だからということを許さないのである。
愛の念をどこまでもたった一人で追求し、実行せよと、祈れば祈るほどに、迫ってくるのである、そこからは到底逃げられないのである。
どこまでも喜べと、迫ってくるのである。
だからこそ、どの宗派の人間であっても、祈りというものをやっている人を馬鹿には出来ないなあと思う。
(日本古来の穢れ思想に基づく「御利益」という概念は、いささか幼稚であると感じているし、元新興宗教員であった私には実際よくわからないのだが…あえて馬鹿にしようと思っているわけではないと明記しておく。)

 


さて、私的な話になるが、私は一般的に言う愛人である鶴の人の存在を、一般的に言う旦那に明かした。
社会的に言う旦那であるM氏は私に一切触れない男ではあるが、私を、「あやちゃん」というキャラクターとして愛してくれている。
ショックだったと思う。
「あやちゃん」に純然たる性欲があり、大人の女であるということがショックだったと思う、嫌悪感すらあるかもしれない。
この手のことを言うと大抵、「それはあなたが悪い」「それは旦那が悪い」、「まずは向き合って全てを正してから、絵なりなんなりやるべきだ」と言われると思う。
良いと思う、悪いと思う、そういった二元論に終始すると思う。
だが私はそうは思わない。
人間は完全無欠には生まれついていないからである。
完全無欠になることは、さほど重要ではないからである。
脚の骨もそうだが、人間は完璧に生まれるという仕組みで、この世に生じるわけではないと私は思っている。
完全無欠という事を軸にした場合、それに該当しない人はいつまでも「病気」「障害者」であり、他者への理解だけを頼りに生きる事が課せられる。
この軸自体が、私からすると、ずれているのである。
だからM氏は「努力して」私を抱かなくっても良いし、私も特段「努力して」自分を抑え、男断ちをするということに尽力せずとも、互いを尊重出来るのだと私は信じている。

 

鶴の人と連絡を取る、鶴の人は言う。
「全部俺に話してね…またそこで絵を描き続けることが出来るって事なんだね?自分にも誰かにも嘘をつかずに、また絵を描いて行けるって事なんだね?
私は鶴の人の言葉に頷いた、さすが、軸が芸術に在る人は話が早いと私は思った。
私は言った、「元奥さんにも私が自分の旦那に状況を全て説明したことを、話して欲しい」と鶴の人に伝えた。
彼女は私を憎んでいるだろうし、それを顔に出すような人ではないのだが、夫の愛人の顔を醜く描くということが本当はどれほど辛いか…それを思うとそのような事は即刻辞めて欲しかった。
私は汚れても良いし、彼女から私的に殴られてもいい、だが絵は汚してはならない、魂は汚してはならない、個人的に(私的に)私を嫌いでいてもらって構わないのだが、絵に於いてそれをやってはいけないと私は思っている。
「溜飲が下がるでしょう」と私は言った、これは単なる私の個人的な期待である。
この期待が裏切られようが裏切られまいが、どちでもいいのである。

 

愛の念を実行すること、それが喜びの鍵であると、私は思っている。

 

 

 

 

 

婚姻関係者であるM氏との話と祈り

 


春の砂埃で私は汚れている、春の砂埃で家中が汚れている、春の砂埃で魂の汚れを洗い流そうとしている。
人間が創作に挫けたり、信じる(信仰、というのではなく)気持ちを軽んじたり、思考停止のただ中に留まる理由を実感した。
ある程度自分自身と向き合ったとき、どうしても自分自身を生きたいという渇望に囚われ、叫ぶのである。

 

私は、私自身の為に、理の高みへと達したいのです。
すなわち私は、私自身に成ろうと切望しております。
けれども私は、自分の無力を感じております、一人きりでは自分自身を嘲り、いくつもの顔を統合出来ぬまま潰えてしまいます。
それ故どうか…これまで数多の「自分自身に成った人々」の想念よ、私に信じる力を貸して下さい。
私はそれを、根源的な他者への提供という形でお返ししたいのです。
私は、愛着や親しい人への思いやりの箱庭の内側では満足出来ないのです、私はそのような意味に於いて至福を見いだせませんでした。
私は喜びの中で奉仕をしたいのです、自分の好きな事、楽しい事の中で愛の奉仕に身を捧げたいのです。
愛の中で生き、愛のために死にたいのです。
私を支えて下さい。
私は自分が尽きる日まで、この切望から目を逸らさず、愛を信じ、実行し続けてゆく覚悟です。

 

…ということを考えている、この祈りの文章の元ネタはカトリックのアイドル(別に茶化しているわけではない。)幼いイエスの聖テレーズの『神の慈しみ深い愛に焼き尽くす生け贄として自分自身を捧げる祈り』(薔薇の香りーテレーズの祈り カルメル会編 ドンボスコ社出版)である。
それを私なりに小さくまとめたのである(私はカトリック信徒ではないため、勝手に改編を行ったがそれはあくまで個人的な信念に基づく行為であり、聖人である彼女を軽んじてのことではない)。
神という言葉や、聖人という言葉を自分に合ったように変えればこの祈りは誰にでも通じる普遍の祈りである。
…で、この種の祈りをしていると私は非情に苦しくなる。
自分の「整合性のとれていない部分に蓋をする」事が、出来なくなるのである。

 

そんなわけで遂に私は春風とともに爆発した。
心で静かな念を燃やす毎に、私は純化され、不純物をこそぎ落とさねばならないという生理的欲求が爆発したのである。
「こんな生活は嘘だ!!!」
そう思ったのである。
確かに祈りは危険である、自分自身を無視するわけにはいかないので、祈れば祈るほどにその人は孤独になる。

 

確かに祈りは危険である、自分自身をある程度の段階で「無視」すれば、全てが事も無く過ぎ去るのである。
平和に、穏やかに、過ぎ去るのである。
「アニメでも観よっかな」といって一日に一分も自分自身と向き合わずに済む方が、和を保てるのである。
思考停止は実生活の鍵である。
私は聖人や修道士たち、出家僧が何故完全に愛着を絶つのかよく理解出来たのだ。
一人きりにならなければ、自分自身には成れないのである。

 

ただ、完全な黙想生活と集団生活(実生活)を上手くやり抜く方法があるとすれば…
同じ信仰を持つ人との交流、即ち私にとってそれは芸術である…その交流を自他に許す事。
性的な事を自他に許す事、だが性的な事柄は自分の世界観が「そうとは気付かないうちに」反転する恐れがある、それにこれは何よりも魔術的な要素が組み込まれているので、やはり一対一が望ましい…これを自他共に許す事。
自分の心の状態を、自他に開示すること。
偽りの状態を消すこと。
偽らない状態を自分で維持することではないだろうか?

 

社会的な意味での、婚姻関係者であるM氏に全て打ち明けること。
M氏に打ち明けて、何も私自身の全てを許してと懇願することが目的ではない。
私も傲慢だが、M氏も傲慢である、そしてその傲慢さを改めなくともよいと、私は思ったのである。
だって私は聖人に成りたいわけではないから。
M氏に完全無欠の男になって欲しいわけでもない。
ただ、全てを共有しようと思ったのである。

 

真夜中に帰宅したM氏は泥酔していた、いつものことである。
M氏は実に…男性社会に生きていて、立場が上の人間の命令は喜んで飲むのである。
彼の抜け殻となった状態を世話するのはいつも私である。
「社会的立場」で考えたら私は「M氏に食わせて貰っている」人間である、無論これも事実である。
だが私の行いは誰にも観測されないのだ、毎日の炊事、洗濯、泥酔したM氏の世話(吐瀉物の処理や洗濯など)、家の掃除(これは私が好んでやっている事だが…その事を享受しているM氏から特段礼もない)、M氏の親類の中でひたすら平身低頭というスタンスを崩さずに居る事…。
M氏の会社の人間に、実質10年も互いの裸を観ていないのに「妻です」と紹介され、M氏にそれとなく傅く風を装う事。
男社会というものは階級で成り立っているので、傅く誰かが居てくれるということそのものがステータスになるのだ。
妻帯者ということが、出世の鍵になるのだ。
M氏の居る会社は古い会社なので、M氏とて、そのことに気付いているはずなのだ。
勿論、私はその会社の恩恵を賜っている。
でもそれは、私の働きも少しはあるのでは?と思うのだ、立場で考えたら不遜な考えかも知れない。

 

その恩恵を、M氏個人に返すこと…それは違うと私は思うのである。
立場だけで考えた時の「飯を食わせて貰っているのだからそれ以外の世界を持つな、100%個人へ向けて奉仕しろ」とは思えないのである。
私は風呂場で眠りこけているM氏をいつものように起こそうとした。

 

その時に何かが弾けたのだ。
私自身がM氏の前では「立場」で生きていたので、自分自身の首を絞めていたのだと気付いたのだ。
私は実際にはその時何か叫んだ、泥酔したM氏の、自分個人を律しない有様を、わななきながら言葉にならない言葉で罵った。
それを「立場」だけで支えてきた自分を罵った。
M氏は裸で立ちすくみ、私はそのまま引き返して浅い眠りに就いた、心臓はどくどくと波打っていて、半身は力が抜けたようになっていた。

 

今まで、それでもM氏に甘えて過ごしたいという想念で生きていた数多の細胞、数多の血管がその時、死んだのだと思う。
死は本当は毎晩繰り返されている、冬の死が私を喚起させたのだと私は思いながらうつらうつらしていた。

 

翌朝、春分を迎えた日にM氏は、この生活がそれでも楽しい、自分と一緒に生きて欲しいと言ってきた。
私はどうやらもう出て行くと言ったらしかった、M氏はどうして俺が辛くなるようなことを言うのかと私に問うた。
私は力の抜けた状態で答えた、私が、M氏一人の幸福を支えるだけの人生というものが本当に楽しいと思うのか?
そう言ってから、今まで対面せずにいたことを謝った。
M氏「個人」に語りかけずにいたことを謝った。
「私は一生平和に、ケンカせずに暮らすことだけが幸福だとは思えない。」
「私たちが男女の間柄でないことを、もう責めてはいない」
「だが私たちのこの状態を…夫婦であるとするのは是としない、これを100%の夫婦で、嫁さんは家に居てくれさえすればいいとか、食わせてやればいいとかいうのは私は、個人の意見としては…それこそM氏の独善であるとすら思う。」
だから本当の事を言う、個人的に本当の事を言う、そう前置きした私は思っていることを言った。

 

芸術を軸に生きている事。
その軸で、わかり合えた人が居る事。
鶴の人の事。
鶴の人が離婚したこと…あるいは、離婚させてしまったこと。

 

鶴の人と一緒になることが幸福かというと、そうでもないこと。
何故ならそれこそ私は鶴の人への愛着で、自分の信じる事を忘れてしまうだろうから。
色恋の愛着が、幸福とは限らないこと。
…ただ、性的な間柄の人を大事にしたい気持ちはあるということ。
その人が芸術を軸に生きていたのなら尚更で、それは同じ信仰を持っている人間のような存在であること。
だから彼を責めないで欲しいということ。

 

元々の、M氏との個人面でのやりとりの無さが、私を外に向かわせた部分もあるということ。
でもそれこそが、心の自由な状態なのであり、無理に肌を合わせるような事や、社会的な立場だけで「離婚せずにずっと一緒に平和に居る事」だけが、大事なのではないということ。

 

そしてM氏との安全な生活があったからこそ、芸術に向き合えるようになったこと。
安全で平和であるからこそ、自分自身に向き合えるようになったこと。
それはM氏がもたらしてくれた社会的な立場としての努力があってこそであり、その点ではM氏にいたく感謝せねばならないということ。
そしてその感謝は、その恩は、M氏個人に捧げるのでは無く、根本的な意味での他者に捧げなくてはならないということ。

 

だからこれから、いつまでかは不明だし、心の声に従うその時には出て行くこともあるだろうが、それでも、「ここを間借りさせてもらいたい」事。
ここは私の家ではなく、紛れもなくM氏の所有する家であり、私にとっては「間借りさせて貰っている家」だということ。
M氏の情に、今まで私こそが甘えすぎていたのであり、私がいつまでも子供であることを「子供時代に得られなかった気休めとして楽しみすぎてしまった」事が、苦しみの原因であり、何もM氏が悪いのでは無いと言うこと。

 

ただ、立場ではなく、個人で観てほしいということ。
M氏と私が決して仲が悪いわけではないと言うこと、ずっと一緒に物理的に近く過ごす事よりも、こうして「個人としての本音を最高の隣人であるM氏にきちんと伝えられた事」を、私は喜んでいるということ。

 

真に、M氏という人物は、私の隣人である。
信仰(私にとっての芸術)が異なるからこそ、隣人なのである。
同胞にはなり得ない、隣人なのである。

 

M氏は静かに話を聴いていた、春分休みと言うことも作用してか、社会的な立場というものが彼の中で縮小し、個人として私の話を聴いてくれた様子であった。
M氏が根本的に納得したかどうかは、私がM氏ではないのでわからない。
離婚される日も来るかも知れない、来ないかも知れない、だが偽りのない状態でいたい。
それはM氏とも、鶴の人とも、その他の人ともそうである。
特段その他の人に私の現状を逐一知らせる事は重要ではないのだが、このブログに於いては、私は自分自身の内的真実を追求するにあたってどうしても必然的に「自分自身に正直であること」を課している。
だから結果的に全て知らせてしまうのだが…見苦しくてすまないと思っている。

 

M氏は一言、「思いの丈を言ってくれてありがとう」と呟いた。
私たちは何となく、握手をした。
人間社会で上手く立ち回るM氏に、私は甘えすぎていたのだと思い、はじめて対等に話が出来たように感じた。
「いつまでかはわからないけれど、それまでお世話になります」
というような事を言って私ははじめて、M氏に頭を下げたのだった。
はじめて私は、個人として、M氏に頭を下げたのだった。
茶化したようなフクロウの鳴き真似でもなく、性根としての飢えから何かをねだる子供でもなく、初めて、大人としてM氏に、頭を下げたのだった。

 

幾年か以前の春、こちらに越してきてから私の人生が始まったように思う。
M氏に子供のように甘えていただけだったが…先生に初恋をして、絵を再開した。
自分の軸を知って、その軸の人と男女の関係になり…今それを自他に許したように思う。
そして今からは、自分の出来る事で世の為になりたいと願っている。
これら全て、単なる前座なのである、芸術の前座なのである、祈りの前座なのである…まあ、M氏の気が変わって鶴の人を法的に吊し上げたり、私を明日にでも唐突に捨てたりするかもしれないが、仮にそのような事があるにせよ、私はM氏に個人として話が出来たことを嬉しく思っている。

 

この出来事を噛み砕いて「立場」の用語で説明するのならば、「妻の浮気を許した夫の話」とか「夫に自分の浮気を許して貰った妻の話」あるいは「セックスレス夫婦の邂逅」または「ダブル不倫の果てに」とか「不倫相手を離婚させてしまった女の心境」といった言葉になるのだろうが…その何処にも真実は宿っていない。
その何処にも祈りが入っていない。
個人的真実が、社会的な言葉には決定的に欠けているのだ。
だから有り体な言葉を使うことを避けているのだ。

 

だから祈りたいのである。
どうか私自身に成らせて下さいと、私は切望するのである。

 

※これをお読みの方にカトリックの方がいらしたら…大変申し訳ないことをしたと「社会的な立場では」思っております。
純真無垢の聖人である聖女テレーズを、中年男女の不倫といった泥沼合戦と混ぜ合わせて文章に登場させてしまったことはいささか軽率であったかもしれません。
ただ、私の行いの根源には常に祈りがあります。
自分自身に背いているときも、祈りがあります。
聖女の祈りが普遍的であったからこそ、このような醜悪な部分をも、私自身に直視させ、M氏との邂逅を促すきっかけとして作用したのだと私は思っております。
それ故、彼女の祈りを登場させました。
彼女が聖人たる由縁はこのあたりにあるように思います。
私は一人の人間として、「個人として」彼女の事をとても尊重している気持ちのあることを、ここに明記させていただきます。

 

 

 

 

解決策と祈り


根源的な意味での、他者の為になるようにという自分の想いの念を、どうか自分自身で嘲笑いませんように。
絵にせよ何にせよ、伝えると言うことを私に忘れさせないで下さい。
この熱の中で私を生かして下さい。

 

と私は祈る、何に?
信じていることに対して、信じるということに対して、である。
猜疑心に負けないように…想念を実行出来るようにと祈るのである。
だから祈りには宗派は、本当は無関係である。
(私は個人的に、イエス・キリストはこのような事を当時の、血統と集団性を重んじるユダヤ社会に個人的に言いたかったのではないか?と思っている…これまた個人的な見解だが、スピノザの特性はイエスキリスト的であると感じている。)
何かをやりたいと思う時、特に信じる軸が過去や集団に一切帰属していない場合、私は祈るしかないと思っている。
創作は信仰に似ている、一から全部…衣食住に無関係な代物を創り上げるという点で、信念がないと本当に虚無感に苛まれるのである。

 

「楽しくやればそれでいい」という見解も創作にはある。
「他者の為とか考えていると、ギブアンドテイクのテイクが欠けているように感じてしまって、いつまでも不満足な気持ちに苛まれ、結果的に創作者が鑑賞者を見下すような状態になる」…これにも一理はある。
ただ、一理しかないと私は思う。
これもシビアな見方なのだけれども、人間元来、「自分が楽しむ=皆も楽しめる」という意識の人と…「自分が楽しい=自分にしか見えない世界が楽しい」という人に別れると思う。
ここには結構明確な、先天的特質というべきものが作動しているように感じられる。

 

先天的に人が好きなのか、人間社会のルールそのものを先天的に理解出来る人間なのか。
あるいは先天的に自分自身が「生命体」の一つでしか無く、人間社会のルールを理解しにくく、人間を怖いと思ってしまう人間なのか。
人見知りか人見知りでないかの違いみたいなもので、この猜疑心が暗に作動してしまう人はどうしても、自分の楽しさを追う場合ひたすら自閉的になってしまうのである。
私は圧倒的に人見知りである、だから思想や行動理念として「他者への愛」に燃えていても、実際には戸の向こう側から他人を怖々観ているだけの人間なのである。
創作の質問をして、「自分が楽しくやれるかやれないかだよ」、と楽観的に答えられる人は単純に、資質として人間を好いている人であり、在る意味特別な人なのだ。
ここは本当に区分をしてしまうのだけれど、言葉だけを習って私が自分の楽しい事を追い求めても…山奥へ逃避するだけで終わってしまうのだ、特別な人の猿真似をしても無駄なのである。
山奥への逃避…それの何が悪いのか?と自問自答する。
愛の念が欠けている事が悪いのである、と私は答える。
愛の念、それが自身に在るとわかっているのに「無視」しているから、「自分の心や体にも」悪いのである。

 

子供の頃、女の子たちはこぞって「お姫様」に成りたがっていた、「おひめ」と私は思ったが、風景や鳥を見ていて凄く疑問が湧いた。
「おひめ」になったら何か別の景色が見えるようになるのだろうか?という疑問である。
それになったらもっと鳥と仲良くなれるのだろうか?
もっと景色が鮮やかに見えるのだろうか?
飛べるのだろうか?
その答えがNOである事だけは漠然と解っていた、つまり私はどうしても、人間社会の輪というものが遠いのである。
元々そちら側に属していないのである。
砂利とか土とか苔とかを観ていれば、その中に私も居るのだった、人間社会の側を視察、及び参加する場合には「人間社会という色眼鏡」をつけて挑まねばならなかったのである。
これに甲乙というものは存在しない。
発達の良い人というのは概して、元来の性質が人間社会の側にある。
人間社会のステータスや立場というものを瞬時に理解する、ゲームのルールを理解するのだ、それは悪いことばかりではない…だって世の中はそのように進んできたし、私だってその社会のお陰で、十字架の聖ヨハネの本を読めるのである。
苔や風景や鳥といった目の前の事象そのものに自分が居るばかりであったのなら、絶対に別の時代の別の地域の別の文化圏の人の考えそのものに触れたり、共感したりは出来ないのである。
だから人間社会というものが何も、悪を意味するわけではない、人間社会に対して他者の為になるようにという信念を抱いた数多の人々の想念の甘露を、私は現に口にしているのである。
享受しているのである。

 

だからこのような内向的な特質の人間が、「人間社会へ向けて」何かを創作し、開示するという場合には往々にして、その軸を自分自身に問うより他ないのである。
自分が楽しいだけでは、残念だが私の場合、関与にならないのである。
自分と自分の集団だけが楽しい!!!という人も、その実内向的な人間であるため、この手の人々の場合も「楽しくやろうよ」という事を軸にするのは、時期尚早であるように感じる。
人が好き、根源的に人間との交流が楽しいという人以外は「何を軸に人間社会に関与するのか」を一度、「それがどんなに小規模であっても」熟考したほうが良いような気がしている。
自分がお姫様(…女王と言い換えた方が適切かもしれぬ。)になるために人間社会に関与するのか。
人間社会の中で戦って、戦いに勝ち抜くためにそこで宣戦布告をするのか。
自分の信じた愛の念を人間社会で行うのか。

 

自分の信じた愛の念を人間社会で行うということを念頭に置かない限り、私の楽しみはいつまでも箱庭の中に留まるのである。
自閉的な空間を彷徨うのである。
これを考えると本当に挫けそうになるが…事実、自分だけが楽しく、穏やかで、平和で、絵を描いているという事の中には至福は見いだせなかったのである。

 

これは実際に何を描くのかというよりも、どのような意志で描くのかという問いに近い。
実際に描く絵はふわふわとした主体性のないものなのかも知れない。
あるいは風刺の要素が入った物になるのかも知れない、私の言う愛とは、愛着や愛情や、褒めそやしたり大事にしたりする事ではないからである、真実を言うこと、それが愛だからである。
真実を言い、そこからの解決策を提示するための風刺、なのである…勿論ここでの真実云々というのは私にとっての真実であり、全体で考えたら一理ある、くらいのものである。
だって私は、個人なのだから。
一人の人間なのだから。
何にせよ、描くということは何なのかと問われたときに、愛の念の実行であると一人の人間として答えたいのだ。
そうせねばならないというのが私の人間社会に於いての答えで在り、真実だと、自分を無視せずにそう発言したいのである。
(実際には絵を観に来る人はもののあはれを求めているので、誰もそのような質問自体、してこないと思う…だからこれは皮肉にも、実に自閉的な軸である、人間社会の事を考えれば考えるほど自閉的になるのである…だが私はこの軸を自分の軸にしたいのである、社会的立場に軸を置けば置くほど、自分自身の閃きから離れてしまうからである。)

 

解決策を描きたい気持ちもある。
解決策というのは、人間の苦しみについての解決策である。
人間の苦しみにもおよそ2種類在って、実際の痛みに対する苦しみや無力感と、人間社会に於いての苦しみである。
私には前者を取り払う力は無い…強いて言えば、その苦しみにも意味が在るのだと思う事である、他者の苦しみにも意味が在るのだと信じている事である。
苦しみそのものには意味は無いが、苦しむという体験には意味がある。
苦しみの最中でいかに生き、その最中で他者への愛の念を忘れずに居たら、その人は苦しみの中でも人間が生きていけるということを他者に示すことになる。
それが結果的に他者を救うのである。

 

もう一つの苦しみは社会的な苦しみである。
この苦しみの根源は「個人の無さ」であると私は思っている。
個人の無さに苦しむから、余計、社会的レッテルに逃げ込むのである。

 

例えば私は股関節が弱いが、乳児検診の時に「診断漏れ(というより…診断ミスとでも言うべきか?)」で「異常なし」と判定を受けた。
整形外科へ行くと(とはいえ整形外科ほどヤブ医者の多い分野もそうそうないだろう、整形外科にかかる場合は2つ3つ通ってみてから「自分が整形外科分野に於いて何に分類されるのか」吟味したほうがよいと思われる。)私は診断名を受け、「乳児検診で気付かなかったの?」と質問される。
でも私はこれでよかったのだと思う。
社会的に、自分の苦しみが「無視」されて、どこにも「所属」せずに自由でいられて、よかったのだと思う。
もし私が乳児検診時から「健常児とは言い難い」という判定を受けていたら、生まれてから死ぬまで、自分自身の「正体」を言う場合、「股関節の悪い人間だ」と、何の疑いも無しに言っていたと思うから。
それそのものがただの私個人という人間に付随したものではなく、レッテルそのものが、自分自身だと勘違いしてしまうだろうから。

 

社会的な立場や所属先、帰属先というものは個人を守ってくれる。
自分の意志を伝えたくても伝えにくい場合、「経歴」というものがその人を輝かせ、「病歴」というものがその人の苦しみを「正当化」させる。
「障害者」というのも一つの認定であり、一度障害者認定を受けるとその「外側」へ行くことは稀だろうと思う。
私は障害者を悪いと言っているのではない、どうか注意して慎重に読んでほしい、私が何を危惧しているのかというと、個人が見えないことを危惧しているのである。
どこにも「所属」しない個人が、無視されること、これが現代社会の歪みであると私は言いたいのだ。

 

個人が社会的に無視されると言うことを、危惧しているのである。

 

現に私を例にとってみても、私の身体的苦しみは「障害」とは認定されない。
よって私個人が「股関節が云々」と言っても、誰もそれを(まともな整形外科医以外は)聞かないのである。
これは実際、驚くべき苦しみでもある。
私の脚は「あと5年10年は大丈夫」だそうだ、だが実際は痛く、かといって手術も出来ない…何故なら人の身体はそんなに頻繁に「完全な」状態を目指して手術を繰り返せるほど、「強くはない」からである。
私が手術を断られるのも当たり前なのである、大前提として、人間は完璧な状態で生きているわけではないからである。
だが、「じゃあ11年後は、私は歩けているのだろうか?」という実に恐ろしい問いには、誰も答えてはくれないのである。
この不安が、どこにも「所属」していないがために、誰にも理解されないことを今、私は苦しんでいる。

 

だからこそ、ちょっと逆説的に聞こえるだろうが、私は「病名」に所属したくないのである。
だからこそ、私は乳児検診時に漏れていて、心底良かったと思うのである。
日本社会のレッテル貼り競争に、加担せずに済んだからである。

 

所属や病名といった概念そのものに、加担したくないからである。
それが社会的にどこにも所属しない個人を、尊重することに繋がると私は信じているからである。
…多分、社会構造が集団主義でない国や地域の場合、病名の「中に」その人が居る、障害の「中に」その人が居るという概念自体を理解し難いだろうと思う。
何処まで行っても個人が居ないことの恐ろしさを理解出来ないと思う。

 

この社会的な苦しみ、人間社会の苦しみを取り払うには「個人として自分と他者を観る」事に尽きると思う、その見方は「個人とは想念である」というものである。
社会階層やレッテルに、その人がいくら逃げ込もうとしても…それ自体を引き留めなくとも良いのだ。
それをただ無視するのである、でも無視しきるのではない。

 

「その人がどのような想念を抱いているか」
「自分がどのような未来への念を抱いているか」
「自分とは、何をしたいと思っている人間なのか」
「そのしたいことという中に根源的な喜びはあるのか」
と徹底的に問うのである。

 

想念こそが自分、あるいはその人であると思えたときに所属やレッテルなどは消え失せ、その人個人が浮かび上がってくる。
未来に向かって何をしたい人であるのかが、人間の状態であると実感したとき、私は至福を感じる。
色眼鏡をとったとき、私は幸福になる。

 

摩訶不思議なことに、この状態というのは実に自閉的で、鳥と人と苔とが同一であるとしか思えないような状態である。
完全に言葉も社会的ルールも消え失せた状態に、至福は宿り、自閉的な状態にこそ個人の尊重が実行されるのである、社会的になるのである。

 

言葉にするとこの世は荒唐無稽であり、メビウスの帯のような仕組みになっている。
自分の思考も果てしないように思われる…それを創作の軸にするというのは、本当に私個人の、閉じた世界での話なのだ。
だが私はこれを諦めたくはない。

 

だから祈るのである。

 

根源的な意味での、他者の為になるようにという自分の想いの念を、どうか自分自身で嘲笑いませんように。
絵にせよ何にせよ、伝えると言うことを私に忘れさせないで下さい。
この熱の中で私を生かして下さい。
愛の中で私を生かし、愛の中で死なせて下さい…と、私は祈るのである。

 

 

 

 

 

 

 

実験室にて


絵を人間社会に向けて開示するという題目に沿って思考を巡らせていたのだが…

 

もののあはれを理解しない私が、感受性の鈍い私が、感受性を軸にした「芸術」という世界で絵を開示するなど全く以て、ただの茶番なのではないかという演算結果が出てしまい、四苦八苦している。
感性の鈍い人間が絵を描く…悲喜劇的である。
何故自分が自分として生まれてきたのかを考える、三十路半ばにしてこんなことを考えているのである。
もしかすると私の「本体」は実験室でシャーレを覗いて居て、「ちょっと細胞の動きを、細胞視点で調査してくる」とか何とか言って、意識を細胞のたった一つ…つまり日本に生まれてきた私というひとつの細胞に落とし込んでいる状態なのかもしれない。
だからこそ自分の置かれた環境というものが、「帰属意識の欠けた状態の人間というものが、個人という働きを果たして社会的に実行出来るのか否か」の実験のように思われる。
私の日々の感情や、愛着や、死も、ひとつのフィールドワークのように遠く遠く感じられる。
私にとって一番しっくりくる「視点」というものがあるとすればこのような「自分が実験室に居る」という荒唐無稽な視点である…この視点を放棄することは避けたい。
このフィールドワークを「やはり帰属先の無い人間が人間社会に個人として関与するという名目は実行不可でした」と言って頓挫(頓死)したりすることは避けたい。

 

図書館で働いていた時の禁句は「わかりません、出来ません」であった、勿論状況として「今すぐに用意しろ!!」という理不尽な利用者には「現状、出来ない」と言うことは多々ある。
実際にこれを言われたという人も居るとは思うが…厳密な図書館員としてのルールは、その用語だけを発して「事態を終了させる」事は厳禁なのである、どのような状況でも利用者の問いに解決策を述べねばならないというのが根源的な「真実」として存在していた、だから「現在それをする事は無理です、でもこのような解決策を提示します」という対応になる。
どのような状況でも解決策を練り出し、開示せねばならないという概念が課せられていた事を…ふと思い出す。
あれは他者への言葉ではなく、自分自身への…個人としての自分への言葉のように感じられる。

 

これを読んでいる人の中には、何故私が自分自身の信念をいちいち組み立てているのかわけがわからないという意見もあるだろう。
「やっぱり信仰宗教やってた人だから救いとか信念とかが大事なのかな?」
と若干の色眼鏡越しに、そう思う人もあるだろう。
それについては必ずしも否定は出来ない。
そうなのかもしれないとは思っている。

 

伝統に於ける宗教概念というものは「自分よりも偉い人の言うことを暗に聞き、立場を守る」ということに尽きると思う。
だからこそ…意外かも知れないが、新興宗教内ではその「自分は無知である」ということは許されないのである、新興宗教というのは「常に思想を追うこと、発見し、共有すること」が課せられているからである。
政治を含めた思想的な事を一教団員、信徒、つまり「大人」として聞かれて、「わかんない☆」では済まされない世界なのである。
そのような幼稚さは許されないのである。
多分、外部から観たら本当に意外だとは思うが…自分の思考、思想に無責任であるということそれ自体が罪なのである。(だから創価学会員だからといって偉い誰かを崇めたりするだけで思考を止めてはいないのである…もし学会内部でその状態の人が居たら、それこそ注意される可能性がある…無論、思想について注意をされるということそのものが、日本では異質であるとは思うが。)
自分の考えなどを逐一更新させ、「あくまで教団内部で共有する」ということが新興宗教をやるということである。
だから新興宗教をやる人というのは案外、こうして自問自答する性の人だと思う。

 

自分と、人間組織という外部の輪について常に自問自答するのである。
…だから離脱するのである。
自問自答が元来の性質であるため、教団のおかしい点や、「自分を俯瞰して見た時に教団と自分とがまるで合致していない」という点にも早々に気付くことになる。
新興宗教的思考回路の持ち主ほど、宗教という輪に浸かれない仕組みになっているのである。

 

たまに「宗教をやめたら開眼した」というような事を言っている人が居るが、あれは「普通の日本人教」という新たなカルト教団に入信しただけの状態である。
元の宗教、元の帰属先に嫌悪感を抱いている人ほど危ういだろう。
ほどなくしてネガが反転し、結局何を信じて良いのか…というよりも何に帰属してよいのかわからないという苦悩に足をとられることになると予想する。

 

「こんなにこねくり回して考えずに、ただ自由に、好きな絵を好きなだけ描いたらいいじゃない?」と思う人も居るだろう。
それこそ「ニコニコ動画でも観て気を紛らわしなよ」というM氏と同意見もあるだろう、受動的な喜びで、考え癖を一端落ち着かせた方がよいというのも一理ある。
だがそれは実に、自閉的な楽しみということに…気がつかないだろうか?
自分の好きな絵を好きなだけ描く…それだけでは幸福にならないということを、気付いている人も居るのではないか?
ここで思考停止してはならないと、気付いている人も居るのではないだろうか?

 

ここでまたノブレス・オブリージュの思想を出すのだけれど、この意味するところは私は、立場のある偉い人だけが「周囲の益になるように自分を律する」のではなくて、個人個人にも当てはまると思っている。
個人個人の、自分の得意分野、自分の「好きなこと」…それは自分自身のためだけに楽しむのではなくて、根底に他者の為になるようにという思想の軸を当てはめた方が、自分自身がより「高みに」行けると、気付いている人は居ると思う。
自分の好きなアニメを観て自分だけが楽しい、自分と、そのアニメを好きというその時の共通点の在る人だけが楽しい…そんな状態は至福だろうか?
自分の好きな事をやって自分だけが楽しい、それは本当に楽しいのだろうか?
自分と自分の家族、自分の子供だけが助かればそれでいい…本当にそうだろうか?
いわゆる「普通の日本の(無論これ自体が幻想だが、個人よりも立場を極端に重んじるという感性のある人のこと)人」には、この概念が全く欠落しているように私には思われる。
ここで言うノブレスオブリージュに於ける愛というのはおせっかいな思想とかではなく、自分自身をより至福に至らせるためのものなのだと私は感じる。
だから何も、社会的地位のある人だけに課せられた思想ではないと私は思う。
これが立場の在る人にだけ課せられているのならば、下層は何をやっても許されるという事になる、感情的に振る舞う事が許されることになる、犯罪などが許されることになる。
結局、それは個人を救わない。

 

ノブレスオブリージュを一人一人に課さない限り、至福にはなれないと思っている。
だって…自分一人きりが地域で一番優秀だったとして、そのことそれ自体を本当の意味で、「楽しくて幸福だ」と思えるだろうか?
自分一人だけが沢山稼いで、それだけでそんなに楽しいだろうか?楽しいかも知れないが、至福だろうか?
自分一人が悟ったりしたら…それを仲間内とかだけでなく、万人に開示しないかぎり…周り中が馬鹿に見えて、かえって落胆するのではなかろうか?
だったら馬鹿で愚鈍で努力をせず、自閉的に内側へ引きこもっていた方がまだ、マシである。
しかし自分自身への嘘がつけないでいるから、その人は幸福にはならない。
そしてそれが許される「レッテル」の中へと逃げ込む。
そのレッテルをつけてくれるのはいつだって社会的地位のある人物である。

 

私はこれを一人きりで自問自答している、何も否定したくて書いているわけではない、これは創作の為である。
創作は信仰に似ている、それを本当に信じられなくなったとき、ついに一行も書けなくなると思う(私の文章は冗長なので、長けりゃいいという意味ではないが)。
どうしたらこの軸を失わずにいられますかと私は問う。

 

社会から本当に隔絶した場所に喜びはありませんと私は言う。
人間社会という輪の色眼鏡を完全に外したような感覚のとき、確かに私はとても幸福な気持ちになります。
人も鳥も物ですらも、想念を宿し、未来へ進んでいるに過ぎないとわかるからです。
でもそれはとても自閉的な幸福です。
誰とも、共有出来ない幸福です。
分け与えることの出来ない幸福です、多分私が死んでも、この種の幸福には預かるのだと思います。
ただ、それは生きている間の幸福ではありません。
想念について、人と鳥と物とが全く同一のようであるという平和さについてを共有することは出来るかも知れません。
それとて、人間に対して、説明と愛をもって開示せねばならない物事です。
完全に向こうへ抜けきっても、私は、私自身に成ることが出来ないのです。

 

キラリと天井の辺りが光って答えが返ってくる、ガラス越しに答えが返ってくる。
…例えば、絵の中に風刺の要素を入れたとしましょう、その絵がいけないのは「他者を」見下す要素があるということです。
その絵の中に「私」自身を描けばいいのです。
そうしたら画家が笑いものにしているのは画家自身であるという構図が出来ます。
それを鑑賞する人は、その時、絵の中に自分自身を見るのではなく、画家を観るのです、だから傷つけることを最小限に抑えられます。

 

私は言う、「つまり自分が笑われろということですね」、「あの醜い女としての、私を描いた怨念の絵のように」そうです、と私は答える、シャーレを覗いている私は実験室でたった一つの細胞に向かってそう答えるのである。
…大前提として、絵を鑑賞するのが好きな人というのは絵の意味を好きなのではありません、絵の意味が絵の中で泳いでいる様子が好きなのです。
物語風にするというのもいいかもしれません、自分がおかしな場所に生まれてきて、おかしいものを観させられている…でもその物語自体は、根底に慈愛があります。
その慈愛自体を信じ切るのです、これを信じ切らないと呪いの絵になります、強烈な切れ味の風刺の絵になります、慈愛それ自体を盲目的に信じ切るのです。
慈愛を信じ切って実行することが社会への関与の鍵です。
至福への鍵です。
たった一人きりで理想社会を考えていても…実際には考えれば考えるほどに、他者の事を考えれば考えるほどに一人きりになってしまいます。
だからこそ、慈愛を信じ切って下さい、慈愛を「出来ない、解らない」と言い切らないで下さい、その放棄は自己放棄ではありません。
…常に解決策を提示することがあなたの義務です、生まれながらの責務です、図書館であんなにも教えたではありませんか…。
愛を信じて下さい、恥をかいても愛を信じて実行して下さい。
真実を信じて下さい。

 

というような事を私は考えた、あまりにも落胆していて、自分で自分と会話しているのである。
実際には落胆しきっていて、もう芸術の輪の人とは対面したくないほどである。
帰属先というものがあるとしたら芸術という、不確かな人間の世界である、芸術の一員として、誠意を問われているようにこの前までは感じていた。
だが、ついに帰属したという意識が消え失せたため、芸術関連の人との間の魔術も消えたように思われる。
あんなにも浮気について書いて、一対一の性というものの示す思想にまで辿り着いたというのにもう頓挫しそうである。
何故なら、芸術という概念そのものへの帰属意識が薄れたため、そこでの正当性もまた、薄れたのである。

 

このような時は、「ちゃんとした」…つまり、未来へと進んでいくエネルギーを必要とする対面を避けたいと思う。
性欲が湧いたら自分よりも「ちゃんとしていない」、「思考停止している」男と会えばいい、みたいな気分に陥っている。

 

私は長年この根性で生きてきた、ちゃんとした人と対面するのがいつも恐ろしいような気がしていたのだ。
ああ確かに私は、馬鹿だった…。

 

このように人は何にも帰属先を見いだせずに居ると、どんどん性根が「悪く」なって行く、自分にとって居心地の「悪い」状況へ追いやられて行く。
誠意を試されるような場へ、出られなくなって行く。
私なんかが…とか。
極論、もうべつに逮捕とかされてもいいや、みたいな根性に成り下がって行く…犯罪が起きる仕組みもわからんでもないのだ。
帰属先の地位の低さや、帰属先そのものの欠如というものは人を凶暴にしやすい。
これも不思議な仕組みなのだが、落ちて行く感覚を止めずに居ると、だんだん内面の「声」というものが聞こえなくなって行く。
勿論、思考停止こそが「普通」であり、内面の声なんて異常だと言っている人にはわからないだろうし、現に私が異常なだけかもしれない。
だが、その種の声には導きの要素が含まれる、未来への、自分だけではなく他者をも含めた全体全部への導きが含まれている。
他者への関与が含まれた幸福というものについての道しるべの在る無しが、ただの妄想と「導きの声」との違いかと思われる。
(無論、創価学会などの新興宗教にはこの種の概念は無いため、これを学会員に言ったらそれこそ地獄に落ちかかってると揶揄されるだろう。だからこの導きの概念については私のふわふわとした創作?である。)

 

自分の足元が揺れそうなとき、私は聖人の本を読む。
「結局宗教かよ」
と突っ込みを入れたい人もいるだろう。
ただ、聖人の本というのは何百年も、内面の葛藤についてのあれこれや、思想をいかに軸にするかといった自己分析の走りみたいなものである。
自分が今何に躓きそうになっているのか、何が自分の理想なのか、何が「自分自身の身ならず他者の為にもなるのか」等の…頭の中での理論をそのまま言葉にした書物である。
だから案外、創価学会員とか、新興宗教の手合いは諸聖人の本を読むと納得すると思う。(まあ、現在進行形で人間革命しか読まないと決めている人は別だろうが。)
「普通の日本的感覚」では、このような内面の葛藤や喜びや強烈な「神=言うなれば、世界」への愛というものを決して、言葉にはしない。
だから苦悩も恨みもそのままに芸術に落とし込んで他者と一体化することが「許されて」いるのである…もっとも、それは私からすると醜いのだが。
一方でキリスト教圏の書物というのは逐一頭の状態を言語化している。
それは何故か?
他者の為なのである。

 

だから聖人の祈りや、書物というのは何一つ信じられないと嘆く、数多の他者の為に書かれた本なのである、宗教の本という意味合いだけの本ではないのである、信じるということについての本なのである。
何としてでも、自分だけでなく、他者の為にもなりたい…そのような自分を偽善者だと罵る自分に負けたくないと願う人のための、書物なのである。
だから聖人の書いた本や、聖人かどうかはさておき、発行から幾世紀を経た本というのは独特の想念が宿っている。
未来への力が宿っていると私は思う。

 

それをキリスト者として読むのと、私のように「対個人」として著者の言うことと対峙するというのは、勿論、違う理解の仕方だろう。
私には彼等が聖人でなくったって構わないのだから。
そこに意味は無いのである。
彼等の観た幻それそのものにも、意味は無いのである。
教義そのものには意味は無いのである。
だからそこに同意しなくても、「話が通じる」のである。
彼等が本当に言いたいことは、自分を信じるということへの、励ましなのだから。

 

…と、私は思っているのだ、実験室はそこまで広くないが、シャーレの細胞の一つ一つからは想像も出来ないだろう。
実験室の外側にもまた、宇宙が広がっているのだということを。

 

 

 

 

 

アイデンティティの無さ(もののあはれが解らない)


考えを更新させている、絵を開示するにあたっての考えである、しかし考えるほどに、自分自身を解剖してゆくにつれ、苦しい事実に直面している、絵なんて開示する必要無いのではないかという演算結果が出てしまい、胃は硬くなり、身体は震え、演算をやり直したいと言っているが…そんな元気も最早無い。


これはアイデンティティの問題と言ってもいいかもしれない。
自分が何者なのかわからなければ社会に対して発言しにくいということ…その発言というものが、本当に、社会を良くするものなのだろうか?ということを自問自答している、こんないい歳をしてまだその地点でうろうろしているという事そのものにも絶望感を覚える。

 

昨日自分が言った言葉について考える、他者を助けなければ、他者に関与しなければ自分は助からないという文言。
よくよく考えると「助ける」という言葉は常に語弊を生じさせる、私は助けが不必要な時にほど、「助けたい」と口ずさむ人々に手を引かれてきた。
それで助かったろうか?
…助からなかったのである、心底不要だったのである…。
だとしたら私の言う「助け」というものも、ちょっと見直した方がいいのではないだろうか?
自殺者とかも本当に助けを望んでいるのだろうか?
何も望みが要らないから死んだのでは…死ぬのではなかろうか?
それの何をもってして、「真実が欠けて」いると感じるのだろうか?

 

何をもってして私自身が「真実」だと、物事を認識してきたのだろうか?

 

助けるという行為は基本的には自分の出来る範囲の事を、根源的な意味で、他者に対して行う事である。
そこにはほとんど必ず、そのタイミングに於いては、他者には出来ず、自分が出来る事を指す。
つまり少なからず悪気の無い見下しの要素が入り混じる。
だからこそ、時に助けは不要なのである。

 

私は見下しているのだろうか?
自分の外部や、所属する集団や、特定の場所そのものを拝する日本人という存在を見下しているのだろうか?
奇異に思っているのだろうか?
正直、確かにかなり奇異に映る、神社でペコペコ頭を下げていたり、集団内だけが世界であるというような物の見方はかなり奇異で幼稚に映る…勿論実質彼等に見下されているのはこの私である。
輪で溶け合って存在するということの雅さを「わからない」のは私なのだから。
それを私は「それは違う」と横槍を入れようとしている…のかもしれない、そんなことは大多数の人々には全く不必要で、それこそ調和を乱すだけの行いでしかない。
私の視点が集団で溶け合うということから離れているのは、社会的な視点で一言で言うと「新興宗教の3世」だからである。
それもその宗教に心底ハマりきったわけではない、いつもいつも、どこか傍観していた3世だからである。
だから神社も寺もどこか遠く、意図せず日本人であることを祖父から否定されたように感じた出来事も相まって、帰属しようにも何処にも帰属出来ないというジレンマを抱えている。

 

ただ…私は新興宗教の3世であり、信仰を小学校の頃に辞めているが、新興宗教そのものは全く否定してはいない。

 

純血の日本人(この概念自体が信仰に近いものではある)であると大見得を切る父方(父シン)の祖父は、寺や神社といった先祖元来の信仰を守ってきた純和風の人間である。
純和風の人間というものは大概、自分自身の根拠というものを「集団」と「過去(血統)」に求める。
集団と過去さえOKなら、未来永劫何もかもがOK、何もかもが許されているのである…政治家とかを観ているとそうは思わないだろうか?辟易したことのある人も結構居るのではないだろうか?この気質は日本という土壌に結構蔓延していると私は思う。
だから日本人であると言い張れる人というのは老いれば老いるほど、過去の話をしたがるものであり、根拠もその過去に、自分自身の想念を過去に宿したがる。
「集団」と「過去」を持たない人間に対しては、それがたとえ血縁であっても、「格下」だと見下されている場合…関係性は驚くほどに冷淡である。
彼等が自分たちの正当性を誇るその時に、集団と過去を持たない人は存在しなくなるのである。
この恐ろしさを実感している人は結構居るのではないだろうか?

 

こうやって書きだしてみると、なにもこれは日本人に限ったことではないような気もしてくる、どのような人種や国籍であっても、血統の正当性を重視している人々は概ねこの種の冷淡さを持っているような気がする。
もっとも、これ自体が私の色眼鏡であるのだが…血統を持ち出してくる人間を怖いということ自体が、色眼鏡ではあるのだが。
だから私は、「新興宗教は怖い」とか「普通こう考える」という言葉を安易に口にする人の偏見意識というものを結構恐れているし、安易に共感してはならないように感じている。
「あの人は病気だ」とか、「あの人は宗教をやっている」と言う時の自分自身の正当性というものは暗に、「普通の日本人」という得体の知れない優越感から発せられたもののように感じられるからだ。

 

一方で新興宗教をやりはじめた母方(母ロミ)の祖父母たちは、自分たちの根拠や信念を「ほとんど常に未来に」抱いていた様子だった。
彼等が信仰を改め…というのもやはり、先の大戦は日本人の信仰心というものを餌にした部分も多々あるため、母方の祖父母はどうしても戦後にはそれを拒否したかったのである。
従って自分たちの過去というものを、その時母方の祖父母は捨てたのだと思う。
対面して昔の話を彼等から聴いたことが無い、一度も無いのである。
…これに関しては母自身もあまり答えないので、私の知る由の無い何らかの理由があるのかもしれないが…母方の祖父母の出生地というもの自体を私は、はっきりとは知らないのである。
だからというわけではないのだけれども、父方の祖父の言う「俺は日本人だ!露助は人間じゃ無い!」というあの感じがどうしても、過去の無い人間全般に向けられたもののように感じ、私の内側で殊更リアリティを持って迫ってきたのである。
母方の祖父母には、「来週集会がある」とか「祈りましょう」とかは勿論あった、でも彼等は老人だったが常に「次の予定」で生きていた、その予定の中には仕事も含まれていた。
だから老人というものが常に「昔はよかった」と回想しているのではないということを、私は母の実家へ赴く度、知ったのである。
過去に根拠を持たない人間というものが居るのだと、私は今でも嬉しく思っている。

 

ただ…新興宗教というものに弊害が起こるとしたら、まさに私の今感じているような物事なのかも知れないとは思う…伝統を忘れる事、そこに神性が宿るということを、実感出来なくなること。
つまり、神社とか、言語や理論で「これこれこうで」と説明の出来ないものに対する賛美のようなものや、静かな情緒、集団と一体化するという感性そのものを、理解出来なくなるということ。
言葉で逐一説明しない美。
「ガイジンにはわかんないよ」という静かな内輪の美。
メッセージという、鬱陶しい押しつけの無い、ただの美、それ故に哀しい美。
言うなれば「もののあはれ」。
これを私は理解しない、新興宗教というものに一度染まった人も理解しにくい頭になっているということ。
何故なら過去に脈々と続いてきた参拝などの伝統そのものを捨てければ、捨てきらなければ、「集団」と「過去」からの呪縛からはなかなか逃れられないから。
だが実際に「もののあはれ」の感覚を持たないということは、日本で、日本人として生きてゆく上ではかなりの弊害であると今、改めて感じている。
これが解らない場合、大抵のイベントごとや集団での価値観が…無色透明になってしまうからである。
大抵の集団行事が馬鹿らしいものに成り下がるのである、ひな祭りや夏祭り、正月や盆などといった行事も、正直なところ…その概念への帰属先が無いので何一つ重要に思えないのである。
その馬鹿らしい、には、脱退すると決めた新興宗教も含まれる、そこで一心に祈ることなど、もう出来ないのである。
一度信仰を辞めると言うことは一度、自分自身の軸が消えてしまうことのような気がしている。
確かに過去からは逃れられる、それと引き換えに、軸を失うのである。

 

宗教を辞めた人の苦悩というものはこのあたりにあるのではないだろうか?
帰属先が心底、徹底的に、無い、ということは案外辛いものである。
信仰を辞めた時点で血縁との繋がりも驚くほど薄くなる、いざというときのライフラインが完全に絶たれるのである。
それは善いことのようにも聞こえる、だが、帰属するという人間元来の働きが滞るので、特段「誠実さを求められなくなり」、結果的に不活発になる、経済的にも慎重になるので不活発になるのである。
人間は本当に帰属先を一つも持たずに個人として生きられるのだろうか?
個人など、幻想に過ぎないのだろうか?

 

創価学会のように、幻に過ぎないのだろうか?

 

神社参拝のように、私利私欲の偶像崇拝的妄想に過ぎないのだろうか?
個人など、理想に過ぎないのだろうか?
私がそう思っているなどということは、私自身の妄執に過ぎないのだろうか?
人間というものが色々な方面に帰属先を持ったときにこそ開かれた存在となり、自分自身と対面出来る生き物なのだとしたら…
個人はまさにただの孤人である。
帰属という概念も、あまり軽んじてはならない。
帰属先があると思うと「役目がある」と思える、人間の造りというのは実に簡単で、この役目を一切取り上げられると案外簡単に破綻するのである。
だから宗教をやめた人とかに言いたいのだが…そのやめた宗教団体を軽んじてはいけないと思う。
結果的にそれが、自分自身を軽んじることに繋がってしまうから、安易に軽んじてはいけないと私は思っている。
…だって私は今、結局、絵をただ描いて開示するということに、ほとんど誰からの励ましも得られずに居る。

 

励ましというとこれもまた語弊なのだが…バックグラウンド、帰属先、これが一切無いというのは、何かを一から始めるときには本当に「私がそう思っているから」ということだけを根拠にしなければならない。

 

…これは結構怖いことである、結構悲しいことである。

 

今まで散々集団一体型思想を私は批判してきたが…
ただこれ自体が、新興宗教的価値観なのかもしれない、新興宗教的価値観というよりも…新興宗教脱退後の、虚脱感なのかもしれない。
私の感じてきた無味乾燥とした空気は、私の視点の居場所が「どこにも帰属出来ない」ということへの苦痛を表していたのかも知れない。
多分、芸術も、音楽も、絵も、「楽しくやればいい」「皆がそれを綺麗だと思う瞬間があればいい」「それが一瞬でもいい」という、もののあはれに基づいた美学なのだろうと推測する。
でも私のような人間にはわからないのだ、それは綺麗事なんじゃないかとか、横槍を入れてしまうわけなのだ。
皆が楽しんでいるときに、その「皆」という集団性こそを重んじている集団に於いて、私はそれを重んじることが出来ないわけなのだ。
ここで居心地の「悪い」思いをするのは無論、この私である、私が居心地の悪い思いをするのは私が悪いのである。
だからといってあの集団主義と伝統主義を是とはしにくい上、私は自分の思考回路をこうして言葉として組み立て、その枝葉が果たして何処まで伸びたのか確認するように…
芸術に対してもそれを望んでしまう、これ自体を辞めるという選択肢は無いのだ、もののあはれを翻訳するということを辞めることが出来ない。
もしやめるという選択肢があるのだとしたら、それこそ自殺である、ある思想を捨てたように、生きるのを捨てること。

 

思想故に死ぬというのはおかしな響きなのだろうけれど…私にはよくわかる。
ただし、自害=美という形式ではない、自害の美というもの自体が、その美の宿る意識というのが個人ではなく、集団であるから。
自殺はとんでもなく汚い。
私は、いつか言葉というものが本当に誰にも通じなくなるのではないかと小さい頃から恐れている部分がある。
自分の話す言葉が誰にも通じなくなるという恐怖。
信仰を捨てたのも、創価学会に居ても結局誰にも話が通じなかったからである、それも幼少期からそうであったので…まあ、合わなかっただけなのだが、言葉の通じなくなる恐怖というものが私につきまとっている。
いざ創価学会を抜け出てみても、何処まで行っても人間の輪でこの世は構成されている。
その何処にも帰属するという感覚を得ないまま老いているわけであるが…こうして挫けそうになると本当に厄介で、このようなときにライフラインの無さというものがどれほど人間の自由度を奪うのか、実感している。
足の悪さも関係しているだろうが…結局M氏にしか頼ることが出来ない。
しかしM氏とは、話が通じないのである。
例えばこの文章を彼に読ませても、「えーっと…とりあえずニコ動でも観て元気だしなよ!」とかしか言わないだろう、はたから見たら微笑ましいだろう。
だが、無力感を、気を紛らわせてやり過ごすというのはただの対処法でしかないのだ。
そこには思想が宿らないのだ、何かを観たりして笑うということそれ自体が受動的である故、想念が宿らないのだ、だからこのような事を私は実際には誰にも言わずにいる。

 

絵の話に戻ろう。
私は先月から今月の頭にかけていくつかの展示を観てきたが、一様に皆上品であった。
その上品さに圧倒されたといっても過言ではない。
それ以上のものを感じ取ることが出来なかった。
そのことについて考えていたのだが…私にとってそれは「メッセージ性の無さだ!!」と思った、それは半分くらいは当たっているだろう。
だって作家はいちいち開示する上での理屈を立てているわけではないだろうから。
ディティールとかモチーフ、色などの技巧、その種のロジックは立てているだろうが…絵にメッセージを込めるということはやっていないと思われる。
元来その視点が無いと思われる、自分の主観での視点しか無いと思われる。
絵にメッセージを込める場合、自分自身が「社会的に(主観的にでは無く、社会的な立場というのでもなく…社会的にどのような意図を持っているのか、強いて言えばどのような政治概念を持っているのかまではっきりと答えられるくらいに)」どのような人間であるのかを必然的に、徹底的に洗い流す必要が生じるからである。
そしてある程度開示せねばならない状態に陥るからである、メッセージをただ単に掲げるということは実質、不可能である、透明人間がメッセージを発することは出来ないのである。
ただ、実際の画家たちにはそのような視点自体、無いと思われる。
私はそれを「どこか幼稚で奇異」だと見なした、そして思った、「メッセージの完全に無い絵なんて観ていてもつまらない」と。
「私に語りかけてこないから」「主体性がないから」と。
私は思ったのである。

 

でもたった一言で彼等画家を説明出来るのだ、それらは皆、先にも述べた「もののあはれ」を表現しているのだと、今日、唐突にわかったのである。
もののあはれを理解しない人間には絵の開示は難しいのかも知れない。
何故なら日本の美というものこそが、もののあはれであって、絵を好きな人間というのはもののあはれを求めてやってくるのだから。

 

もののあはれという感性を理解しない人には、それはただの「主体性に欠ける絵」にしか見えないのである、「ただのふわふわした現実味のないもの」にしか見えないのである。
感性が無いから、感性の塊である作品に、全く感応しないのである。
感受性が鈍いから、私にはわからないのである、説明されたり頭を殴りにかかるようなメッセージ性の無い芸術には、呼応出来ないのである。
こうして言葉で作家の想いを組み立てて説明されなければ、わからない人間…それこそが私なのだと気付いたのである、自分の感受性が鈍いから、作品を理解出来ないのだと、気付いたのである。
全ての行間。
言葉を超えた状態。
真空の状態。
…だが、息苦しい状態、集団で一定のもののあはれ予防線みたいなものが存在していて、ある程度この枠内でやらなければならないという「常識」が作動している場所。
勿論、もののあはれそれだけではメッセージ性に欠け、主体性に欠けている、それも一理あるのだ、未来への力になるものが役に立つものであるという図式に当てはめると、確かにもののあはれそれ自体は役立たずであると言わざるを得ない、よって、ただの上品な絵はそこまで売れないのである(本当に魂の役に立つのならもっと売れているはずである)。
ただ…皆がその輪で幸福めいたものを味わっているというその場所に…私の「私はこう思ってる!!!」という主体性の強い絵をいちいち展示しに行くのだろうか?
いちいち横槍を刺しに行くのだろうか?
そんなことが「助け」だろうか?
彼等は彼等の内輪で過去から連綿、未来永劫まで、美大というブランドと、受賞歴と、美大OBという内輪で上手くやっていくはずであり、もののあはれをお客とて、買い求めに来るのである。
主体性の強い「個人」の絵とか特段求めていないのである、そんなものを日本人は求めていないのである。
私の出る幕は無いのでは?

 

芸術というものは詰まるところ、「楽しく喜んで」やらねばならない、自分が楽しくないと駄目である。
だがここにも鍵があって…自分だけが楽しくやっていたらそれはもう、日本では悪事なのである、自分からどんどん相手に思想を開示することそのものが、悪なのである。
これは誰しも実感があるのではないだろうか?ジレンマを感じた事があるのではないだろうか?
「皆で一体化して楽しく」
やらねば、芸術は続けて行けないのである、少なくとも文化的土壌がもののあはれであるため…善かれ悪かれ文化がそうなので、その文化自体を理解しない私はいつまでもその内輪には入れないのである。

 

私の先日述べた「助け」という概念そのものが、日本的美的感覚では、悪なのである。

 

では一体どのように他者に関与すればよいのだろうか?
語弊はあるのだが、助け…補助、といったほうがまだ私の言いたいことに近いだろうか…自分の発揮できる何かがあるのなら、それが言語にせよ身体能力にせよ、必然的に最高に楽しみながら補助として自己放棄することにしか、真実は無いように感じる。

 

私は途方に暮れている、楽しくやればいいじゃん、というところの楽しさに、もののあはれは無い、私の場合無いのである。
この事に気付いて苦しく思っている、絵をやっている人間よりも絵をやめた人間に話を聴きたいような気もする。
絵というのは即ち、真実である。
真実といのは、その人の個人的な信仰心と言ってもいい、だから創作は往々にして信仰である。
創作活動というのは信仰活動である、内的に何処まで信じ切れるかを常に常に試されるのである。
そして「悪魔」に惑わされ、信仰を捨ててしまう場合もある。
悪魔とは…欠けた状態である、他者への関与を放棄した状態である。
でもその他者への関与こそが、悪そのものでないにせよ、うっとうしい悪事であったのなら?
私はどう生きて行けばいい?
…とたんに人生は途方もなく暇になり、唐突に腹がパンパンに張り、一切物が食べたくなくなり、私は泣きながら腹を押す、宇宙の片隅で自分だけが生き物として存在して、自分の指だけが指として存在していて、自分しか腹を押してくれる人が居ないように思われ、どうしようもない悲しさに嗚咽を漏らす、無論そんなものは幻想である、被害妄想である。

 

だがどれが妄想でどれが真実かの取捨選択を「行った」事により、自分にとってどれが真実であっても、そのどれもが妄想に成り下がるのだということを…一度でも信仰を捨てた人間は嫌というほど理解しているのである。

 

このような悲しみの最中に居る時、ストレスというものが身体にもたらす重圧を思い知る。
多分、身体の細胞の一部は「創作にメッセージ性をもたせる」という意志に賛同していたのだと思う。
だが思考の大木(その大木は私にとっては大木だが、何処にも属さない野原にただぽつんと生えているだけのわびしい木である)の枝葉により、剪定される部分が決まる。
その剪定が行われる時に細胞は死ぬのだと思った、腹が不自然に張っている、今日死んだ分の細胞よ、さっさと塵芥になるのだ、土壌に還るのだ、役立たずめと私は言って、鋏を持つのである。

 

自分自身を剪定するのである。

 

アイデンティティを持たないということの弊害を、今、感じている。

 

 

 

個人として絵を開示するにあたって(社会について)


絵を開示するにあたって、自分自身の視点を明確にするために考えている。
根源的に、他者に何か開示する場合や、話しかけられて答えるその答えも、それが個人としての言葉で無い限り、世界を善くする事は難しいような気がしている。
何故自分が今この時代のこの場所にいるのかということを考えたとき、「この景色を見させられている」ような感覚に陥る時が多々ある…この感覚で絵を描いたらいいのではないか?という閃きがある一方で、それだけでは観た人を傷つけかねないと警告する気持ちも湧いてきている。

 

絵を描くというのは…「まさに創り出している」人は共感するだろうが…やってみるとすごく難しい、大前提として人間社会の益になるようにという事を課すと、途端に難しくなるのだ。
ただふわふわとした主体性の欠けた物をこさえていても、それをたとえ50年やったって、それを何千個作ろうとも、心底誰の為にもならないのだと「理屈を超えて実感」してしまっているところだ、現段階ではそうなのである。
作品を観ていて心の奥底で…何もその絵が全てだというのではなく、それでも誰かの何かを救うような意図で描かれた物には、想念それ自体が宿る。
そうすると絵は、生きている絵になる。
芸術と呼ばれる物の目指す究極は、「作品それ自体が未来への力を内包している状態」だろうと思う、誰かの未来への推進力になる「物」、使い捨てではなく…生きている芸術。

 

実際に昨今の絵(ものすごく一部である)を観ていて「そこまで面白くない」と判断してしまうのは多分この、「個人に語りかけている部分が少ない」ように判断するからだとうと思う。
「私に語りかけてきている!」と感じる作品が、あまりない。
無論それには私の感性の鈍さという原因もあるだろう、老いたからかもしれない、でも作品というのは音楽も演劇も…若い人、老人、そのような一定層の誰かに向けてのみ開示されると、「その他」の層はどんどん無反応になってゆくものである。

(この感覚でいうと私は常々「その他」の層にいるため、テレビやニュースなども感覚が鈍化して、ここ10年でとうとうすっかり観なくなってしまった、社会そのものがどうでもよくなってしまったのである…昔から興味は無かったが、世界基準で考えると病的に無関心なほうである。)


だからこそ宗教画のもたらす力というのは大きい、どの国、どの時代、どの年代、どの性別、どの階級の人にも個々に語りかける意匠を持っているからだ。(宗教パンフレットの絵ではない、それは団体への「勧誘」というものを目的としていて、画家自身が強烈に救われたという想念を発しない限り、個人に届く絵にはならないだろう。)

 

一方、「絵が好きな人という層のために描かれた絵」には行間が宿る、逆に言えば行間しか、隙間しか宿らない。
風景の絵、ふっと視界が開けたときに見える…身近な物の美しさ。
季節の幻想性、空想と現実との境目。
日本のアーティストの視点というのは常に行間である、そのような意味ではとても技巧的にも上手いし、一言で言って上品である。
多分世界でこれ以上絵を上品に描ける民族とか、居ないと思う。

(グロテスクに描ける才能もあるだろう、本当に根源的なグロ、でしかなく、それ以上の意味を全く含まないという点でも日本人という存在はずば抜けていると思う。)
日本人でなければわからない「自分の血縁」や「社会的立場」や「自分の圧倒的想念」の、見事な「中間」を描き切る感性というのは凄いと思う。
見事なまでに、政治的メッセージもなければ、個人的な「未来への想念」も無い、創作というジャンルそのものを決して抜け出る事のないように徹底的に「配慮」されて描かれている。
ただ、それがどうにも、実際の現実の生身の他者、つまり鑑賞者にとって…メッセージ性が薄い、というデメリットも生じていると思う。

 

私にはどうもその「中間を描き切る上品さ」が欠けている、これは私のデメリットである。
この上品さが一定のラインとして存在しているため…というかそれ自体が具体性を持って存在しているため、「絵が描きたい!」「自分自身のメッセージが!!」みたいな「層」が絵を発露出来ずにいるのではないかと推測する。
私とて、この「日本の美術業界」の「空気」それ自体を読んで、尻込みしているのである。
絵をやめてしまった数多の人たちの絵を観たいと切望する時がある、何も彼等と対面してお友達として過ごしたいというわけではない(過ごしたくないというわけでもない)、そんな時間も無いほどに共に絵を描けていられたら、至福だなとは思う。

 

この文章も、何も「創作の人」に向けて開示しているわけではないのだ、それと同じように、絵を絵としてだけ好きな人に向けて絵を描いているというわけでもない。
じゃあ何に向けて?と思うと、それは個人に向けてなのである。
私がこう思うのも理由があって、それは私自身という個人を救いたいからである。
救いたいから、救いたいという思いで行動しない限り救われないのである。

 

苦しみから救われたいのである、その為には、その分だけ救う行動をしないといけないのである。

 

人身事故とかが起こる度に思うのだ、この世はやはり地獄なのではないかと。
で、あまりにもその地獄と、描かれている作品の接点が無いと…その作品は無力であると言わざるを得ないような気分になるのだ。
綺麗なだけの作品には、未来への魂は宿らないと判断せざるを得ないのだ。
「救いならありますよ」
と、宗教に属している人ならば言うだろう、血縁の絆の薄い人でも、社会的に何処にも帰属していないような人間でもちゃんと帰属先がありますと手を差し伸べてくれるだろう。
でもそれじゃ駄目なのである、その集団だけが救われているという体では駄目なのである、それじゃあ実体が無いのである。
同様に「自分がアニミズム的視点なのかそうでないのか」すらもはっきり客観視出来ていないようなスピリチュアル関連の人々も、言っていることが「自分とその集団だけが悟っていればいい」という状態なので、結局そこに帰属するというシステムが(無論金銭的に)作り上げられているという時点で、個人を個人として救う事を放棄しているように感じるのである。

 

金銭が悪いというのではない、その目的がいつまでも自分や自分の属する集団だけの為に回っているからおかしいと思うのである。
才能という言葉にもおかしな気配が含まれる、本人だけが凄ければいいという話ではないのである。
たとえば音の色に関してもそれを才能と言う人もいるが、そんなものはただ個人的な視点でそう見えているだけであって、それだけでは何の役にも立たないのである。
対人能力、言語能力、計算能力、身体能力、暗記能力…なんだっていい、それが結局の所他者の為に働いていない限り…そして根源的にそのことを本人が誰よりも喜んでいない限り、いつまでも無用の長物なのである。
単にそれを「人の為に活かしなさい」という外部からの圧力や正当性、道徳性、「品性」だけではただの「滅私奉公」なのである。
この事を考えると、共産主義が破綻するのは当たり前だなあと思う、自分自身が喜んでいない限り…そのような人の割合が少ない限り、その国は破綻する。

 

日本の事を考えると、日本も個人(その人の趣味だとかそういう部分では無く、公私でいうところの私というわけでもなく…一人の人間を、個人として観る、という根源的な概念の話)を観るというよりも、その人の所属する集団を優先させる文化が元来根付いている。
そこに資本主義が流入してきて、結果的に個人を尊重するということもままならない状態で、自分と自分の属する集団だけが助かりますようにと偶像崇拝しているような状況なのかなと思う。
だからまあ、破綻すると思う。
株の「信用」をチェックするサイトがあるのだが(EDGAR)、み○(○の中になんでも好きな一文字をお入れ下さい)ほ銀行とかおかしい数値を叩き出している。
…このような事を書くこと自体が、その銀行の信用価値を下げてしまう行いに加担していると見なす視点もあるだろうが…それこそが、個人よりも集団を優先している視点だということがわかるだろうか?
個人個人が、他者に対して行う「未来への実行力」を価値と見なす風土そのものが欠けているので、いつまでも「どこにも所属しない人」は軽んじられるのである。
それじゃ誰も救われないのである、それじゃあ誰も、他者を救いたいという気持ちが湧きにくいので、国が破綻するのでは?と思うのだ。
少子化だってそのような事の表れだと思う、子供を産んでも結局競争させるだけということを、身を以て知っているから生むだけ無駄だと感じるのである。

(ただ少子化については思う所がある、世界規模で考えると我々は人口爆発の時代を生きている、集合的無意識の状態では人間はひとつの生命体なのだと思う、だから「人口を調整せねばならない」という信号が行き交っているのではないか?と推測している…これは女としての実感でもある。)

 

自殺も、単に「外部から」死んじゃ駄目だとか、死なないで欲しいとか言うだけでは力不足なのである。
それはあまりにも外部からの声であり、そんなものは近所の川に居る鴨を指さして「あの鳥かわいいから死なないで欲しい」くらいのレベルなのである。
猫が好きとか鳥が好きとか、そのレベルなのである。
対個人の声ではないのである。
でも犬は嫌い、あるいは「ワンちゃん猫ちゃんだけは!生きていて欲しい!殺処分なんてあんまりだ」、でも「あいつは死刑でいい」、そして「性犯罪者は死ねばいい」、それだけでは個人に対して個人で語りかけることなど出来ないのである。
精神科医というのも、医学という集団思想から語りかけているだけであって、個人として語っているわけでは無いのだ、だから患者を救うことはとても難しいと思う。
何故なら、患者と呼ばれる立場の人々その人自身が、他者に向けて自分自身の想念を生きない限り、助けようと思わない限り、助からないからである。
助けない限り助からないのである。
これは本当は、心理的にも経済的にもそうなのである。
自殺者というのは詰まるところ「個人」としての部分、未来への「想念」、「他者(個人)に対して出来る事への実感」が欠けているからこの世を去ろうと思うのだと思う。
少なくとも私はそうだ、死にたくなる時というのはいつだって無力感に苛まれている。
実際に恋人がいるからとか、そういう外部的理由では「個人」を生き抜くことは難しいのである。
恋人が、会社が、集団が…という外部的要因だけでは、その集団にとって価値がないと見なされた時に本当に孤独になるだろう。
それで孤独になっていては駄目なような気がするのだ。
自分自身で、特定の誰かというのではなく、個人個人へ向けての「喜びをもって出来る事」で貢献したいという想念が湧き出さない限り、本当に救われることも、本当に個人として誰かに語りかけることも難しいと考えている。

 

個人に全てが集約するようになったときに、社会全体の幸福というものが訪れるような気がしている。
社会や組織が解体すればいいとかではなく…個人個人が、自分自身の想念を生き、他者を励ましつつ生きたときや、その理由や根源的な尊重というものが、その人の所属ではなくその人個人であると見なされる時が訪れたときに、全体全部の幸福というものが訪れるような気がしている。

 

私が最も挫ける事というのは…無力感である。
この話なども社会的な視点で考えると「たかが絵を描くのに何故そこまで思い詰めるの?」とか、「あなたの立場を考えたら、抱え込まなくていいものまで抱えている」ように見えるだろうということ。
「目の前の幸福を観なさい」と諭す気持ちも内部にある。
だが、それじゃあ誰も救われないよと私は思ってしまうのである、目の前の景色の美しさとか、はっとした光景とかだけでは足りないのである。
愛が足りないのである。
だってその目の前の景色の美しさの向こう側では現に、誰か苦しんでいるのである、自殺したり死んだように生きていたりするのである、それを既に私は「知って」しまっているのだ。
だから無視するわけにはいかないような気がしている。
愛が足りないというのは…愛情や愛着ではない、根源的な関与が足りないという意味である、個人としての関与や慈しみが足りないという意味である。
仏教思想によくあるような無欲に生きるとか、毎日の幸せを噛みしめるとか…そこでいう個人とは、公私に於ける私の部分であって、社会的な関与を文字通り絶っている内輪の状態なのである。
それじゃあ隠居した人間のただのぼやきなのである、内輪だけの幸福では、至福には至らないと私は考えている。

 

世界を良くするにはどうしたらよいのかという、立場で考えたら実に分不相応なことを、絵を描くにあたって考えている。
何も一枚の絵が世界を変えるとか言いたいわけではない、作品をコンスタントに作って、生きている限り開示するにあたって、自分がどのような人間であるのかを明確にしておきたいのである。
何度も言うが、この種の話は創作に携わる人にだけ向けているのではない。
だから言葉だけを文字通り受け取ると、私の言っていることというのはともすると誇大妄想的に聞こえるかも知れないが…個人で想う理想への念というものを軽んじてしまってはいけない気がしている。
それを「たかが私なのだから」と個々が軽んじてしまう事を許したら駄目だと思っている。

 

それが個人の質を下げてしまっている原因だと思う。

個人の幸福を蔑ろにしている原因だと思う。


だからこそ、自分と他人とを重んじる方法を、模索している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所属概念(帰属意識)の無さと自分主義その2(差別感情と絵の開示)

 

引き続きセンシティブな話を書く。

 

私がロシアについての血筋を言うのは理由があって、それは自分のアイデンティティが揺らいだように感じた出来事があったからである。
見た目とか振る舞いも日本人そのものである私が、どうして自分が日本人であるということを「信じ切れ」ないかというと、一つは宗教的理由(元創価)により日本のアニミズム的視点がほとんど欠けているということ。
だから昔からテレビを観ても、文化的なものを観ても、何かそれを「だいぶ外側から」覗いているような違和感があった。
何も創価学会が悪いとかではない、日本文化そのものを拒む理由としては、母方の祖父母が戦争を忌み嫌ったから、というのが正当な理由だろうとは思う。

 

もう一つの理由を話そうと思う、これも「普通の日本人的感覚であったのなら、あまりにも個人的な出来事故、絶対に外部に喋ったり開示したりはしない」であろう出来事である。
いわゆる「家族内の恥」みたいなもので、「どの家庭にもある」出来事なのかもしれない。

 

少なからず差別的な表現があるのだが、どうしても自分自身が何者かという問いにはこの表現をそのまま開示したいと思うので、そのまま書かせて貰う。
(ただ、差別用語として禁止されている言語ではない様子ではある。)

 

父方の祖父母の家で起こった出来事である。
父の血液の中、遺伝子の中にロシアの血があると意図せずに知ったとき、私たち一家は単純明快にそれを面白く思った。
そしてよく父方の祖父母のところへ顔を出しに行っていた私たちはそのことを彼等に告げた。
血族で輪になってこたつを囲んでいた時だった。

 

その話を聞いた祖父は唐突に祖母に言った、「俺の方はちゃんとした家系図があるから、露助はあんたの方だな、あんたんとこはほれ、鼻がこう、高いけえ…」それから祖父は自分の鼻をつんつんと指さす仕草をし、祖母の顔を見て嗤った。
祖母は俯いていたが、笑って居た、「そおね、こっちゃ甲府のあたりにずっと居たから、あちらさんの血が混じったのかもしれんね」、何か冷え冷えとした空気を感じた。
祖父は言った、「ずっとって、へえ、そらいつから?いつからかもわからんでしょう、ご先祖様を知らなんだら、ご先祖に露助が居たなんざ知らなんだから、いついつから、この辺りに居たなんてことも、わからんでしょうなあ」、祖父の口調は終始穏やかであった。
穏やかな厭味であった。
祖母は吐き捨てるように言った、「まあ、山奥にずっと籠もってた人たちにゃあわからんだね、色んな事があるっちゅうことも、大人になってもまだわからんだね、やだねえ…」、祖父は言い返した。
「へえ、そらそうよ、色んな事がある、俺もシンガポール(この父方の祖父は戦時中にそこに行っていた)行ったら『よう、父ちゃん!』て声かけられるかも知れん、その露助もまさかこんなとこで代々、家が続いているだなんて思いもせんだろうな」、そして再び祖母を見てかかかと嗤った。

 

今となってはこのやりとりを覚えているのは私だけだろう、両親も嫌な思い出はさっさと忘れているだろうし、祖父母はもう故人である。

 

祖父母以外はこのやりとりに皆絶句していた、唯一母ロミだけが「あわわわ」と喜劇じみた口調で言った、母なりの抗議らしき声音であった。
けれど、ただの嫁である母の声など祖父母は気にもしなかった様子で冷ややかな空気が辺りに充満していた。
祖母は私と妹に向き直って言った。
「あやちゃんたち、ちゃんと、自分の好きな人と結婚するのよ、ほうでないとこんなこんになるけえ…」
これはわざと祖父に聞かせるための最大の厭味だったのである、これすら厭味なのである。
二人は表面上は殴り合ったりはしない。
後ろのほうで母ロミが、先ほどと同様の「あららら」という声音を発しているのが聞こえた、要するに、彼女なりにぐうの音を出していたのである。
父はというと終始黙り込んでいた、これは団地に帰宅したら些細なことで怒り出すだろうと私は思って、さらに疲れていた。

 

ここまで読んだ人も少し気になっているとは思うが…祖父にとっては孫である私たちのことすらをも、意図せずして「露助」という枠内にくるめてしまったことについての見解を一応、補足しておこうかと思う。
この祖父母の元に生まれたのが我が父であるシンと、彼の兄である。
彼の兄はとても優秀な人物だった…少なくとも大学を出るまでは、非常に優秀だったそうである。
当然の事ながら祖父母は兄弟のうち、優秀な方の兄を可愛がり、兄の子供、彼の孫を見るのを非常に楽しみにしていたのである。
しかし現実はというと出来の悪い弟、シンだけが「できちゃった婚」をしてその孫を見せに来ているのである。
私が小さい頃はまだ、祖父母は兄の結婚と子供を夢見ていたように思う。
しかしいつしか夢を諦めたのだ。
その夢が乾ききって、とうとうどうでもよくなって、その矢先に「先祖に外国の誰かがいる」と馬鹿息子に無邪気に言われたので若干自暴自棄になっていた部分もあるとは思う。

 

彼等にとってみれば苦痛だったと思う、優秀な子供、俗に言う天才児という存在を肌身を以て知っているのだから…当然ながら、孫である私の出来の悪さにも気付いてはいたのだ。
というのも私は幼少期によく脱臼した。
脱臼せずとも往々にして関節の痛みを訴えていた、両親に言うと「またなの?」と呆れられ、果てには怒られるため祖父母の家に行った際には存分に素直に身体感覚を発言出来たのである。
「手が痛い」と私は言った、「足が痛い」と私は言った、先日脱臼して治して貰ったばかりで既に脱臼しかかっていた上、重度のアトピーだった。
ある日祖母はため息をついて言った、いつもは「かわいそうに」と可愛がって貰っていたので、この件に対する祖母の言葉は良く覚えている。
「…あやはまあ、年寄りみたいな子供だね…」
そして祖母は遠くを見て言った。
「…シンの子だからしょうがないのかね…」
私はその時に、祖母が本当の気持ちを言ったのを聞いたというわけである、その時に初めて、祖母と孫という間柄では無く、個人対個人になったような気がした。
シンの子だから、には「あの馬鹿息子の選ぶような女の子供だから」という意味合いが含まれる。
勿論感情的には「孫が可愛くない人間なんていない」と祖父母は言い張るだろうが…実際には、本音の部分では、彼等は兄の子供を待ちわびていたのである。

 

だから彼等にとってみれば、どうでもよかったのである、出来の悪い息子のもたらした孫子の存在自体が半ばどうでもよかったのである。
仮に、出来の良い兄のほうが結婚し、子供をつれてきたのならば、件のロシア人の件も「そういうこともあるかもしれない」で済ませていたと思う。
厭味を言い合ったりはしなかったと思う。

 

話を戻そう、私がここで伝えたいのは祖父の発言により、「自分は本当に日本人なのか」という疑問が生じたことである。
言ってしまえばこの件は、「血の繋がった人に差別された」ように感じたという奇異な話でもある。
祖父が父を見下していなければこのようなことは起きなかったので、これは差別というよりも個人的な感情による出来事だと私は「客観視」した時点では思っているが、「主観」では、自分自身のアイデンティティが揺らいだ出来事であった。

 

見てくれも日本人であり、話す言葉も日本語である…だが、その心を私は知らないように感じる事が多々ある。
そして「枠の中」に区分されてしまう感覚を恐ろしく思っている。
日本人の差別感情というものが、どうにも理解出来ないと思うのは結局の所「血縁などの過去」や「思想区分」、「所属」で人を見る度合いが多いということ。
ただ単に「創価学会という思想を知らないから怖い」とか、「在日は怖い」とか、知らない事への嫌悪感があるということ。
で、結局私はその団体や所属する血縁では物を見ていないということ。

 

高校のときの男の子(彼氏)は自分が「在日である」というリアリティを軸に生きていた、日本を外側から見ているという点では私と彼の話は合ったのだと思う。
私がこうして考えや疑問を述べても、多分…祖父のような多くの「自分自身が揺るぎなく日本人である」と思っている人々には、話がなかなか伝わらないとは思う。
反日感情があるの?」
と危険視さえされてしまう可能性すらある、断っておくが全くそういうものは無い。
だが疑問なのである、ただただ疑問なのである、私が人間ドラマやある特定の概念を描いて「他者に開示」する場合、そのリアリティを生きている人を傷つけてはならないと気を配らねばならない。
配慮せねばならない。
これは開示する側の人間の、絶対条件である、そのような意味で確かに「愛は配慮である」と言える。
この愛が欠けている展示物が多い…というか…

 

この概念自体が欠けてない?
と思う、開示するということや関与には、それがほとんど絶対的に愛でなくてはならないという概念が無いのでは?と思う。
自分が何者なのかを隠して、ただ表面上の物事を開示しているのでは?と感じてしまうことが多々ある。

 

自分自身が社会的にどの視点に居て、社会的に何者なのかを理解した上で発言している人という存在自体が少ないように思う。
絵についても、「単に上手く描けたから」、で済ませているように思う、万人への配慮という概念自体が欠けているように思う。
…そういうことは美大では教えないのだろうか?
甚だ疑問である。
センシティブな事や、個人的な視点は「ただ隠せば良い」という風潮に疑問を感じてしまう。
それだとどうやっても「物事を万人に開示」する時に歪みが生じるのだ。
モチーフが歪み、ふわふわしてしまうのである、中身の無い事象に成り果ててしまうのである。
何を言うにも「発言者がどのような立場で発言しているのか」が問われるのである、それを問うのは自分自身なのである。
この問いを全く考えずに磔刑図を描く人間なんて居るか?
全く考えずに普遍的なテーマを描く人間なんて居るのだろうか?

 

例えば私が「レッテルを貼られに行く人々」という社会風刺を描いたとする、昨今の発達障害系、病名商売についての批判である。
しかしそれを見た人は「障害を差別された」とか的外れなことを思うだろう、それだけでは私の本意は伝わらないのである。
で、私の個人的な「所属するという概念への疑問」を言う事が必要になってくるのである、ひいては「個人として生きる事」というテーマが潜んでいる。
配慮のためにもこのテーマを開示することこそが、必要不可欠なのである。
だから風刺に必要なのは風刺に対する説明書きである、そうすると風刺が愛の絵であることが伝わるとは思う、その為の努力は描く側に必要だろうと思う。
この努力のためには「じゃあそれを描いている自分自身とは何者であるのか」「どういった視点から描いたのか」が必要になってくる。
だから絵を描くというのは常に問いなのである。

 

そして私はまだこの問いに答えられずに居るのである。
だからまだ、描きたいものを描けずにいる、恥ずかしながら「ふわふわとした実体性の欠けたもの」をこさえている最中である。
暗夜のただ中に私は居る。

 

この種の問いを、ただ「アーティストだから」で済ませるのは、人間社会に対して開示しているのだから、ちょっと難しいと思う。
せめて自分が「宗教的視点で描いているのか」あるいは「無宗教的視点で描いているのか」…無宗教と一言で言ってもそれが「アニミズム的視点」であるのか、「全く以てそうではないのか」が重要になってくる。
そんなこと重要?
と思う人もいるかもしれないが…ちょっと考えてみて欲しい。
自分の文化(だと思っていること)が、勝手に茶化されて描かれていたら、なんかモヤモヤすることがあると思う。
私はこの種のモヤモヤにこそ、人間がアイデンティティを持つ根源的な理由があるような気がしてならないと思っている。
誰かのアイデンティティを軽んじてはいけないのだ、それを自分に課しているのである。

 

たとえ自分が「私は本当に日本人だと言えるのだろうか?」と文化的にも自分を疑問視していたとしても、それでも開示する側というのが他者への配慮を忘れてはならないと胆に命じている。
アイデンティティそのものの概念が希薄でも、所属概念そのものが疑問でも、それでもその所属概念やアイデンティティといったものを軽んじてはならないのである。
ただ、「所属概念を疑問視している」ということそのものを「隠せばよい」とは一切思わない。
絵に於いても、「私はラベリング行為や所属で人を見る事を疑問に思っている」と開示してよいと思っている。
何にも所属していない自己を軽んじる事、自分の疑問や意見を抑えてしまうことだけは避けたい。
それは私自身が「そう思っている」からである。
私がそう思うから、私はそのように行動するのである。

 

私がそう思っているから、という所に想念は宿っている。
そこに行動の発端が宿っている。
だからこそ想念は軽んじてはならない、そこに生きるエネルギーが宿っていると私は思っているから。
これを軽んじられるから、自殺が多いのではないかと思う。
誰かに愛されている自分は価値がある、どこかに所属している自分は価値がある…じゃあ愛されていない人は?どこにも所属していない人は?
各人の想念を大事にすればよいのである。
…と、私は思っているという、自分主義を私は生きている、だからこそこの軸をしっかりと固定しないと、足を掬われてしまうのだ。

 

今回書いた文章にも、何らかの刺激の強さみたいなものを感じてしまう人は居るだろう、なんでこんなことわざわざ書くの?という疑問を持つ人も居るだろう。(…精神的猛者しか読んでいない可能性も多々あるので、誰も気にしていないかもしれないが。)
だが私が自分自身を生きるにあたってはどうしても必要な問いであり、絵を描く上でも必要であり、絵を描くということによって社会に関与出来るとある意味信じているので、どうしてもその過程を書かずにはおれなかったのだ。
私自身がしっかり生きる為に、考えを開示しているのである。
どうしてもそれを開示しないといけないような気がして、毎回開示している。

 

そういう意味では私はこの時代を愛している。

 

※所属概念=帰属意識…とは言い難いのですが、所属概念という言葉自体が自分用語過ぎて文章として伝わるのか危うい気がしたため、タイトルのみ訂正しました。

帰属意識そのものについては私は肯定的です、しかしこれについても私自身はあまりこの感覚が芽生えにくいため、社会というものが遠く感じてしまうのです。

ただ、今回述べたかったのは…帰属意識が強い=固定概念に囚われている…ということではありません。

帰属先を「選んで」その内側に個が埋没してしまっているかのような社会現象に違和感を覚えたため、今回の文章を書きました。

 

 

 

 

所属概念(帰属意識)の無さと自分主義

 

 

少し慎重に取り扱うべき話題ではあるが…所属についての価値観や、差別感について話そうかと思う、今苦しんでいることについて話そうと思う。

 

絵を描くにあたって私が今一番困難に感じていることは、「題材の無さ」である。
題材は無いわけではないし、描くということそのものをとってみれば、春とか、草花とか、静物とか夕方とか…何だっていいのである。
その何かについてほとんど全て、線と形とリズムとが画家を物語ってくれる、題材は何でもいいのである。
しかしそれでも、描きたいと思う人間ドラマや普遍的なテーマ「死」「愛(愛情や情欲に対する想いの念であって生物的欲求そのものではない)」「親子」…こういうものを描く場合、少なからず、描く側は問われるのである。
人間ドラマを描く場合、「それをどのような視点で描いているのか」問われるのである。

 

「あなたは誰」と常に自分自身に問われるのである。
ここで言うあなたは誰というのは…往々にして、「人間社会に於いてあなたは誰?」という問いなのである。
何故なら絵という物自体が、根源的にはそれだけでないにせよ、概ね人間に対して見せる物だから。

 

私には、物語の一場面を描きたい、ある宗教的テーマに内的直感を得たのでそれを描きたいという欲求が比較的強い。
だが、「果たしてその宗派に属していない私」がそれを描いても良いのだろうか?という疑問が残る。
私はキリスト教徒ではない。
カトリックにせよプロテスタントにせよ、「洗礼」という感覚が「なんか嫌」なのである。
多分それが主観的リアリティを持つのは洗礼によるものなのだろうが、頑として拒みたい欲求がある。
洗礼により「集団の一部」に属するのがなんかもう、違うのである、キリストら(ら、というのはキリストそのものに強い感銘を受けたというわけではなく、概念全体に愛着を持っているので)が遠くなったように感じるのである。

 

例えば、手先の器用さにしてみても、現実的に考えて、他が駄目だからと言ってただそれだけを磨いても人間社会に於いては無駄なのである。
その思考回路のままだから、器用貧乏なのである、無論これは私の事だ。
独自の得意分野で人間社会に貢献し、自ら与えることによって益を得るのである、自分のためにも繰り返すが…人間社会に自ら関与し、自分から与えない限り何も始まらないのである。
だからただ単に「普通に生きていくのが大変だ」とか「障害が~」とか喚いていても、無駄なのである、自分から与えない限り社会からは見えない人のままなのである。
そして、そのためにはある程度は人間社会を信じなければならない。
信じなければ何も始まらない。
しかしどうやって?
どうやって、人間社会の「何を」信じたらいい?
どのような視点で信じたらいい?

 

私にはどうにも、人間社会それそのものが遠いのである、これは本当に悩みで、どう解決してよいのかわからず三十路半ばで途方に暮れているところだ。
これは切実な悩みである、たぶん一生悩むと思う。

 

昔、保育園に通っていた頃、お買い物ごっこというのをやった。
虹色のお札や金のコインを渡され、これで「買える」ということを訓練するための遊びだったが、私は途方に暮れた、欲しいものが無かったのである、私の欲しいのもというのは…直感の中で観る景色そのもので、目を瞑っていれば得られるものだったから。
遊びとして、「概念として売られている」食物を模した玩具を「概念として買う」ということが、とうとう理解出来ないまま私は卒園した。
万事が万事そんな調子で、いつも「遊び」の時間が苦痛だった。
そこで言う「遊び」というものが、「人間社会に於いて」という限定されたものだったから、常に理解不能の苦しさが私をがんじがらめにした。
そういうわけで私は「人間社会のルールが理解出来ない」「何故このルールの中で生きねばならないのか理解出来ない」という根源的な絶望感で毎日のように泣いていた。
小学校に上がっても事態は進展せず、私はわけのわからないまま文字を書き、それと口の動きとがどのような関連のあるのかいまいち理解出来ぬまま、数字を書き、数字が何を示すのか意味不明なまま中学に入り、高校に入り、途方に暮れ、その間「馬鹿者」として叱咤され続けた。
そして人間社会に食い込むために結婚をした。

 

人間社会に於いて自分が誰なのかという問いに対し、一般的に人は「所属」している概念を答えるだろう。
宗派、病気、会社、地域、あるいは婚姻関係。
自分以外の誰かが自分を観測している状況を答えるだろう。
私にはそれそのものに違和感があって、拒絶しているのである。
にもかかわらず私自身がそのことに非常に苦痛を覚えている。

 

センシティブな話を書くが、どうか「俯瞰した視点」で読んで欲しい。

 

私が底辺高校へ通っていた時分、自分を「在日」と称する男の子と付き合って居た、彼が事ある毎に「俺は在日だから」と言うの聞いて私は興味を覚え、彼に聞いた。
「それってなんなの?」
彼は、自分たちの祖父母が北朝鮮と思しき場所から日本に入国してきた経緯をざっくりと話した、「船の甲板に板を打ち付けてさ、お婆ちゃんたちは貨物室に隠れてたんだよ、上を日本人が歩き回っている音がしてヒヤヒヤしたんだって」、「父方も母方もそっちの血筋だよ、俺の血の中には朝鮮人の血が流れているんだ」、私は地団駄を踏んだ。
「で、それってなんなの?」
私にはいまいちまだわからなかったのだ、それがどうしてそこまでの「リアリティ」をもって彼に迫るのか、まだわからなかった。
彼は言った、「俺らを死ねって思ってる日本人は結構いるよ」、私は言った。
「でも私は思ってないよ?というか…結局、それってなんなの?どうしてそれが君の内側で「本当」になっているの?」
私は聞きたかった、君は誰なの?
君は、何にも所属していない君は、何処にいるの?
それとも何にも所属していない人間なんて、この世に居ないの?
君の作る音楽はいつも楽しげで、いわゆるラップで、私はもうその音源を無くしてしまったのだけれど、君は良い声で唄ってる、歌が上手い人はいるけれどラップが上手い人はあんまり居ないんだ。
ねえ、それを君は、在日という存在として唄っているの?

 

結局話はここで終わるのだった、「あやは日本人でしょ」、彼がこう言うと私はさらに問うのだった。
「でも血筋にはロシアの人もいるみたいなんだよ?」
彼は言う、「じゃあ日本人とロシア人だよ」、私は返す。
「でもロシア人のその人の事なんて誰も知らないの、父親の会社の遺伝子研究班の人が血液サンプルとして父の血を、解析しただけだから」
彼はうんざりして言う、「じゃあ日本人だよ、あやは日本人だよ、日本の文化の中で生きているんだから日本人だよ」、私はますますわけがわからなくなる。
…でも私は頷くのだ、彼の中で彼が朝鮮人であるというそのリアリティに対し、私は頷くのだ。
「君は朝鮮人だね」、そして彼も頷くのだ、「そうだよ、俺は在日だよ」。

 

私が解らないのはこの種の「カテゴリー」、所属の「中で」生きるということそのものへのリアリティについてなのだ。
私は小さい頃は創価学会に居た、だがこの「元創価学会員」というカテゴリーこそが、これを話すことにより他者の中で強烈な「リアリティ」を帯びてしまうということそのものに、私は時折恐怖する、日本は恐い国だと思うことすらある。
所属区分それ自体を「信じて」いる人がとても多いように感じるのだ。
そこに私は居ないのに、と私はいつも思うのだ。
創価学会には生まれた頃から居たにも関わらず、私は祈りを「熱心に」あげるということそのものに結局なじめずにいた、その中にも居場所はないように思われた、これが私のリアリティなのだ。
しかしいざ退会してみても、人間の組み上げた世界というものは本当に…枝葉の先々に至るまで、「それが誰のものであるか」「それがある人間世界にとってどのような場所であるか」「ある世界観に於いてどのような事象を善悪と見なすか」…というように、そこかしこに「人間の視点」が宿っているということそのものに私は辟易した。

 

これを宗教的な軸の完全に欠落した人間の弱さと見てもらっても構わない、実質、そうなのかもしれない。


神社というものに関しても、私は「そこに参拝する人間の、主に日本人のリアリティ」を見る事が出来ない。
「穢れ」や「清める」ということそのものに違和感を覚える。
それが自発的ではなく、「誰か自分よりも清らかな誰かに清めて貰う」ということそのものに疑問を覚える。
よって私は神社へはやはり立ち入ることが出来ないままなのだ、自分が本当に何者かもわからない人間は、遠慮する事でだけ、他者のリアリティを尊重するより方法が無いと思い込んでしまうものである。
だから神社の絵も描けないのである。
描いてもよいのは頭では理解している、だが抑制してしまうのである。

 

これは幸福な視点であり、不幸な視点でもある。
この所属に関する人間の根源的な肯定観が私には欠けている。
だから経歴などを観てもそれが何を示すのか根源的にピンとこない、何もかも、視点がずれているように感じる。
多分、私と話していて何となく私を「遠い人」のように他者に感じさせてしまうのはこのあたりの事が原因かと思われる。
私は立ち振る舞いをそこまで奇異に思われる類いの人間では無い(と思っているだけなのかもしれないが)、しかし何故かこの、自分が何処に所属していて、所属している人間との間を守る、という感覚が遠い気がしている。
この軸の違いを、有り体な言葉で、さらなる区分を促すような「○○症」といった言葉で示すことそのものにすら、違和感を覚えるのだ。

 

誰の中にも根源的に、素っ裸になって叫びたいだとか、自分は何物でもないのだ!!!という強烈な閃きは宿っているとは思う。
そのような閃きの強い文献やジャンルには興味が沸くし、話が通じたと思う、書き手が故人であっても友のように感じる事が私には多々ある。
しかし実際には私は今の時代を生きている人間なのである、今の時代に関与せねばならないのである。
しかし…どの視点で?
何者として?
私は立ち往生している。
自分自身が人間社会の網目を窮屈に思っていて、実際にそこからふわりと浮いていて、最早私を「何処何処の」と特定することすら現状、難しいわけだが…
これはなかなかに苦しい、なぜなら他の人のリアリティが遠いから、つい遠慮してしまって、感銘を受けたリアリティについて描くということそのものを制御してしまうのである。

 

絵という、人間社会への関与を制御してしまうから、辛いのである。

 

この「所属」に関する概念そのものに、良い面も悪い面も含まれている。
所属そのものに関する欲求や、何故所属するのかに根源的な疑問を抱いているため、私は「禁治産者」とか聞いても全くピンとこないのである。
運動会の「赤組白組」とかも同様に意味不明だった、その所属に関する意図がいまいち読み取れないまま私は生きてきた。
だからある意味では差別的な考えが湧きにくい効果もあるように感じる。
あなたは誰?
というときの答えは私自身であれば、「これから何をしたいと考え、何が喜びであり、どのように行動をする人間なのか」だけである。
恋人などに関してもそうだ、その人が何処の人、とかではなく「これからどうしたいのか」の人、という風に見ている、だから「在日」と言われても、「へえ~」で済んでしまうのである。
過去に何をしていたか、過去にどの団体に所属していたかで人を判別するのであれば私は「創価学会員という子供時代を過ごした人」である、その後私自身がどのように行動し、どのような考えを抱いても私は過去のままだろう、これはあまり建設的でないように私には思える。

 

勿論私は幸福である、恵まれている。

所属に関して外部から実際にとやかく言われる必要性もないまま、差別すら受けないまま、根源的な…赤子のような状態で夢想する毎日を、実際に送れているのである、これが幸福でないとしたら一体何が幸福なのだと自分自身に詰問したいものである。

 

ただ、ここで言いたいのは…
ここで躓いているのは…
「これからどうしたいかの人」という、区分ではない、人の見方をしているのが「私だけ」のようであるということなのだ。
つまるところ「~と私は思っている」ということだけが、私の軸でしかないということに心細さを覚えている、今に始まったことではないが、私は自分主義に不安を覚えている。
これが一番の躓きどころである、だって実際には私も区分や所属、所持といった概念体系の内側で飯を食っているのだから。
実際にはその概念が実在しているということを突きつけられて過ごしているのだから。
それを飲むにせよ拒むにせよ、それは在るのだ。
絵ですら、ある程度はその概念へ向けて開示しなければならない…なぜなら、私自身が人間に対して何かを訴えたい気持ちがあるから。
人間社会に関与したいと思っているから。

 

一方で、個人に直接関与し得るのが絵や芸術であるとも言える。

心細さを拭えたのなら「~と私は思っている」ということだけが真実である、と堂々と鑑賞者に突きつけてもよかろうとは思う。

だが実際には人は区分や所属の概念で生きている。

 

例えば職場に誰か奇異な人が居たとして、それでも私はその人を見て「あの人は○○だから」と区分はしないだろう、その人はその人なのである。
これは綺麗ごとのように聴こえるかもしれないが、実際、区分そのものが幻であることのほうが、私には現実味があるから、個人を個人と思うのである。
自分自身を「普通」あるいは「異常」だという区分にあてはめて、「区分自体を信じて行動する人」とは言葉そのものが食い違う可能性もある。
だから私は実際にはとても無口な方であるし、実際にはこのような事は喋らない、だが…それだけでは関与できないのだなと最近、思うようになった。
自分から社会に与えるということそのものが、出来ていないのだなと、思うようになった。

 

要するに、自分主義への限界を感じるようになったのである。

ここが分かれ目で、自分主義を貫き通すだけの覚悟があるのかと問われている所である。

この辛さは多くの芸術関連の人に共通しているような気もする。

私が多くの人とおそらく、少し違うのは、私には幸か不幸か自分主義以外におよそ選択肢が無いということ、ただそれだけだろうと思う。

 

折衷主義的にまとめるのであれば、「自分は自分でいいんじゃない?」というところだろうが…その自分とは何者か?という疑問は一向に拭えない。
自分は自分だからという視点で、安易に宗教的モチーフを描いたらまずいのではなかろうか?
私が神社を描けないのも、それが誰かにとってリアリティを帯びているからなのである。
受胎告知を描けないのも、誰かにとっては本当だから、描けないのである。
私がこうもモチーフ選びに苦戦するのは、私自身が「人間社会というものそれ自体が遠い」と感じながら育ったことが関係しているだろう。
同時に、「人間社会というものや所属概念そのものが疑問」だからこそ、「永遠の人間ドラマ」である宗教的モチーフに心惹かれるのかもしれない。

 

そのようなモチーフを描く場合、一体…ただの興味というのではなく、風刺でもなく、敬意を表して感嘆して見つめているという事そのものを、「そこに所属せずに」「それをリアリティだと思わずに」どうやって表現したらよいのか、途方に暮れている。

 

一言で言えばアイデンティティの無さ、なのだろうが…なんというか、アイデンティティそれそのものに疑問があるということその事自体に、私のリアリティが宿っている。
だから好き放題に題材を描いたら、それこそただの呪いや風刺になりかねない、それだけは避けたい。
私は自分が誰だかわからずに、途方に暮れている。

 

※芸術家と呼ばれる人たちが、何に躓くのかというと、おそらくこのような自分主義の限界に躓くのではないかと推測している。

自分主義を貫き通せるほどに「自分を信じて」いる人なのかが常に問われるからである。

だから結果的に途方もなく我の強い人や、経歴や集団主義といったごくごく普通に恵まれた人たち(無論こちらのほうが圧倒的多数である)が、絵を描き続けるのだろうと思う。

 

 

 

 

 

いかに人を信じるか

 

よく、「あの人を信じて良いのか不安だ」とか、「この著者の言っていることが正しいのかよくわからない」といった言葉に出くわす。
それに対して「あの人は信じて大丈夫」とか、「この著者は私生活が駄目だからクソ本」とかいう言葉も溢れかえっている。
そして有名な誰かの言葉を「○○さんがこう言ってたから」と、自分の信条にし、その有名な誰かの欠点が見えると途端に「騙された」と喚く人も多々ある。
何かの本を読んでも「この人の言うことはよくわからない」か「良いと思った」「悪いと思った」という是非だけの感想。
あるいは折衷主義的に「良い点だけ引き抜けばいい」とか。

 

私がこれらに違和感を感じるのはその人自身の想念が見えてこないからなのだ。
その人自身が何を「未来に向けて考えているのか」が一向に見えてこないから違和感があるのだ。
どのような本や情報を読み込むにせよ、是非というものは単なる結果的なものであり、先ず軸に自分自身の考えが宿っていて読む物だ。
だから原則、「自分の想念を信じていれば、他人の想念もおのずと、想念が在るということそのものを信じられる」から、特段「この人は信じるけれどこの人は信じない」という取捨選択そのものが不必要になってくる。

 

私がいいなあと思う文章というのがあって、そういうイイ文章の書き手というのは無意識的になのだろうが、自分自身の想念、未来への「考え」に対して非常に素直である。
上手い文章をイイというのとはだいぶ違う感覚かもしれない。
読むだけで元気が出てくる文章の書き手が今のところ二人ほどいる、逆に言えば二人しかいない、ネット広しといえど彼等しか現段階では居ないのである。
(過去にはもう二人ほど居たが、現在も文章を書き、さらに開示している人はこの二人くらいだ、もっとも…私は情報を処理するのがかなり苦手なため、必然的に狭い視野になっているが)
そういう意味では私も取捨選択をしているが…ちょっと上記のそれとは違うのだ。
何が違うのかというと、書かれている内容や意見、個人的信条は特段気に留めないのだ…内容は勿論読むが、その内容そのものに対する是非など必要ないのである。
そのジャッジは全く要らないのだ、自分の想念に対して、自分の考えそのものに対して素直な人そのものを、私が是としているからである。
そしてふと思う。

 

この感覚を持っていれば、別の宗教や別の国籍、障害者や健常者という差異などどうということはないのではないか?
その人本人が自分自身の「想念」「未来への考え」そのものに素直であるというただそれだけが私を嬉しくさせるのだ。
一致させる必要なんかさらさらないのである。
それで十分楽しいのである。
何を書いていてもいいし、その人の個人生活が聖人か極悪人かなんてどうでもよいのである。
大体、人間の欲求や身体構造なんてそうそう違わない。
仮に「あいつ実はこんな悪事を働いてるんだってよ」と聞かされたとしても、彼等の自分の想念に対する思いが揺らいだのだなと思うくらいだ。
それによって書かれた文章が損なわれることは無いのだ、何故なら、それを書いたときに生じた「自分自身を信じるエネルギー」自体が、そこに留まっているから。
そして私が信じるものというのはそのエネルギー自体だからだ、想念自体だからだ、何も彼等の私生活を信じているわけでは無いのだ。

 

例えば、聖書を読む。
じゃあ私は聖書に書かれた「事象そのもの(天使が出てきて~悪魔が出てきて~等)」を信じているのか?
否である、特段それを信じる必要自体が無いのである、私が信じているのは私の想念それ自体なのだ。
想念が呼応するものを私は好んで読んでいるのだ、読んでいるからといって信じているわけでは無い。
信じていないからといって雑にするわけではない、そこに書かれた文言に宿る「著者たちの想念」や「著者たちが自分自身の想念や概念を信じ切っている」事がまだ聖書という書物の姿で現在も尚「実在」し続けているということそのものに私は神秘性を感じるのだ。
この瞬間に宗教の多次元性というものが生じる、だから私は聖書を読むのだ。
聖書を読みながら、痛快な聖書解体本(預言者の預言は思い込みであるとしか言いようがない等の率直な意見が書かれたもの)も読むのだ、それを読みながら笑うのである、それを書いた著者の「自分自身の想念を信じ切っている」様子に、元気づけられるのである。
時に風刺本とさえ分類されるようなものに対しても、ありがとう、と思うのである。
そして聖人の書いた本も読むのだ、同様に彼が自分の想念のただ中に生きている事それ自体に、私は感嘆するのだ。

 

時代の異なる本を読むと、こんなにも切実に想念を生き抜いた人が居るのだという思いから、涙を超えて笑ってしまったりもする。
このとき確かに私は笑う、しかし断じて、私は嗤わない。

 

嘲笑は断じてしないと決めている。
それは自分自身の信じる気持ちを削ってしまうことだから。

 

想念というのは「未来への考え、エネルギー」と私は思っている
人間や生き物はどうしてもこの時間枠に生きているので、必然的に「生きる=未来へ」という構図が出来ている。
だから未来へと、考え(厳密に言うとただの念)を持って、それに従っていると至福に近づくと私は推測する。
想念というものは自発的な他者(人間だけでは無い)への関与の欲求でもある。
関与によって肉体を纏って生じたのだから、生き物が根本的に他者への関与を軸に生きていても何ら不思議はないだろう。
そしてその関与とは、つまるところ「善い」働きであると私は考える(人間社会的にという意味では無い)。
だから意見が異なっていようが、価値観が一致してなかろうが、無関係なのだ。
想念それそものを慈しみ、信じるようになると必然的に他者の想念も「在る」と認識せざるを得なくなる。

 

だから、自分自身の外側の誰か「そのもの」や事象「そのもの」こそが本物であるか否かに囚われてしまうと…
そもそもの、自分自身の想念が置き去りなので、いつまでも「他者の善悪」に拘るようになってしまう。
それは世界を狭めてしまう。
この出来事は「悪魔」あるいは悪霊の仕業だとか、自分以外の他者のなかに「悪いエネルギーの人」がいるとかいないとか…
何か自分の外側に至福があるのだと思い込んでしまうと、他者を善悪で仕分けしてしまうようになる。
あの宗派は駄目、とか。
差別感情とかここらへんが発端ではないだろうか?
自分自身の想念を信じて、他者の想念それ自体を「在る」と仮定すれば、それこそ神の見えざる手によって必然的に世界は運行してゆくように思われるのだが…甘いだろうか。

 

確かに、自分自身の想念それそのものは「目には見えない」、目には見えないものを「在る」と言いにくい感情はある。
こんなにもネットが普及して、こんなにも多くの文章を見る機会があって、それなのにイイ文章に当たる確率が低いように思う。
それは私が「自分自身の想念に素直な人の素直な文章」を好んでいるからであって、私こそが取捨選択をしているからなのだが…。
どうも、それだけではないように感じるのだ。

 

修学期から点数制で生きてきた人間というものは、自分の価値というものを、社会的な立場や目に見える業績で測るようになってしまうのかもしれないと思った。
これがここまで深く根付いたのにも理由があって、ただひたすら自分自身を押し殺すのが美徳という、纏足めいた価値基準がこの国にはあるのかもしれない。
想念とは、感情ではない。
損得勘定でもない。
ただ純粋に自分がやりたいことである…唄いたい、泳ぎたい、走りたい、空想したい、絵を描きたい、素裸になりたい、何でも良いのである。
これを心の奥底で盲目的に、この欲求についてだけ、是とするのである、実行するかどうかはさておき、是とするのである。
そうしない限り、表面上の作り笑いだけで過ごす事になる。

 

知らず知らずのうちに嘲笑をして過ごす事になる。
何にも無感動に過ごす事になる。

 

人間の軸がぶれるのはこの関与を抑制されたときである、抑制があまりにも長引くと人は無気力になる、そして自分自身の想念が信じられなくなる。
自分自身の考えを信じられなくなる。
そして無気力になる。
無気力になると目に見えるものしか信じられなくなるので暴力が出やすくなる。
暴力欲求や強姦欲求みたいなものは、根底に自分自身への不信感があるのだと私は思う。
そして立場だけで生きる事になる。
立場だけで生きる人の割合が…多分民族的な価値感覚により、多いので、自分の苦しみにも自分で対処出来ない人が多いのではないかと思う。
自分が「何に」苦しんでいるのか、原因の解明を自分ではせず、「立場のある他者」に任せているような印象を受ける。

 

以前、「俺は禁治産者なんだ」と話す男に会ったことがある、躁鬱病で大変だったらしく、障害者手帳を持っていたと記憶している。
でも私は思ったのだ、そして言った。
「だから何?」「で、あんた誰?」「あんた自身はどんな人なの?どんな考えを持っているの?」
勿論、躁鬱病という存在自体が無いとか言いたいわけではない、彼の苦しみそのものは確かに在る、だが彼自身は?と私は思ったのだ。
その病名の「中に」留まっているような彼に違和感を覚えた。
私も足が「健康かどうかを判断したら異常である」が、その異常さの「中に」私の痛みは無いのである。
痛みを認識される事に対する根源的な安堵は、確かに病名には宿っている。
だが、痛みそのものは何に宿るのか、何を邪魔されたように感じるから痛みを煩わしく思うのかというと…全て「想念」であると私は結論付けている。
想念を実行出来ないと「判断してしまっている」事に対する苦しさなのだと私は思う。

 

だからこそ、その人が何者かを判断する際には経歴、病名の中にはその人は居ないと思う。
善悪の「中」にも宿っていない。
その人が何者かは、その人が何をしたい人なのかにかかっている、何をやっているひとなのかにかかっていると私は思う。
そしてその人自身が自分の想いの念について非常に「立場や経歴を度外視した視点で」素直であればあるほど、私にとっては良い人なのである。
励まされるから良い人なのである。

 

これを読んでいる人の中にも、私という人間や、私の書く文章の中身を「信じて良いのかわからない」と逡巡している人も居ると思う(居ないかも知れないが)。
想念とか、影とか、なんか目に見えないものを信じて良いのかわからない。
あるいは私という人間が単なるセックス好きのメンヘラ女なのか、案外まともな人間なのか…そういった分類をしてしまったほうが安心なので「どこにカテゴライズしようか」と迷っている人も居るかも知れない。
足の痛みというのも怠け者の言い訳なのか、それでも図書館に長く勤めていたというのだからそうそう怠け者でもないのか、区分に悩むという人も居るかも知れない。
でも、一言言わせて貰うとそんなところに私は居ないのである。
例えばこれから絵を描いて、再来年とかそのくらいには個展をやると思うが、じゃあ個展という経歴のある人という分類の中に私が宿るのかというと、そこにすら私は宿らないのである。
描いた絵には私の想念は宿る、だが私自身の抱く想念は私自身の身体に宿っている。

 

だから、私の振る舞いや人間性、社会性を特段「信じなくていい」と言いたい。
だって私とてただ寝て食って排泄してごくたまにセックスするだけの生き物である、私の人格が怨念にまみれているのか、売春婦なのか聖女なのかという所そのものには私の想念は宿らないのである。

 

強いて言えば、「私自身が自分の想念を素直に信じて書いた」事だけを信じてほしい。
それはこれを読んだ人ご自身の想念を信じることに繋がると、私が信じているからである。

 

そのような意味で、私は人を信じている。

 

 

 

 

 

社会への違和感と想念

 

私は内職で本のフィルムかけをやっている、言ってしまえばこれは私にとって一種の「遊び」である、どうしても手を動かしていたいという欲求そのものを叶えてくれる無害な遊びである。
年度末なので大量の本(私にとっては)が来ている、だが、独断と偏見で言わせて貰えば「何故こんなものをいちいち製本したのか?」と疑問が湧くような本も多々ある、人を騙すような経営本だとか綺麗でなければ人ではないと言いたげな美容本、著者がただ経歴のためだけに出しているような薄っぺらい本の類いである。
社会的な本といえば介護本は一見役立ちそうだが…介護ホームのためのレクリエーション本なんかは「いくら読んでもひとつも面白そうな要素がない」上…根本的な事を言うが、やっている側が「やってあげている」体で全く楽しんでいないという点で、既に遊びとして破綻している。

 

本人の想念を観るという概念が福祉系の本には欠けている、だからどこまでも何一つ、救いの要素が無いように感じる。

 

というのも昔、資格のために介護施設に研修に行ったときに、老人たちと一緒に輪になって「遊び」をした、研修の一環としてである。
結論から言うと、私は恥ずかしながら「ルールそのもの」が理解出来なかった、よってビリだった。
痴呆老人よりもゲーム読解力が弱かったのである。
これは地味に当時の私にとってもショックだった、私は苦笑いしつつも、道化となって和を保った…それも仕事のうちだと私は思ったのだ。
しかし帰宅時に思った、「私があの老人たちのうちの一人だったとしたら…毎日の遊びの時間が苦痛だろうな…」、そして実際にあの手の「レクリエーション」が心底性に合わない老人も居るのだろうと思った。
私だって笑って居た、そのような人が居たとしても表面上は笑って居るのだろうと思う。
彼等の心の内側は大抵夜に出る。
「もう死にたい」
と老人たちは言う、昼間は確かに「表面上は」馬鹿らしい遊びに身を投じながら笑って居るのだが、夜には本音が出る。
そして薬で寝かされ、朝になると起こされて半ば無理矢理に飯を食わされる。
時間感覚もあいまいな上、なにせもうかなりの年齢なので見た所誰も腹が減っていないのだ(私も若い頃に比べて年々腹が減らなくなっている、だから自分が後期高齢者になったらどれだけ飲まず食わずで平気か想像がつく、それが自然なことなのだ)…それでも前掛けをつけて飯をスプーンで食わされるのである。
そのような中で「遊び」がなされる。

 

明日死ぬかも知れないのに「遊ばされる」のである。

 

何故この手の感覚に私が違和感を持つのかというと、そこには介護職員本人、そして要介護老人本人双方の「想念」を尊重するという概念が欠けているからなのだ、誰も個人を観ようとしていないからなのだ。

 

想念というのは「今日明日、自分はこれをやりたいと思っている」という強い気持ち、念のことである(と私がここでは勝手に定義しただけである…まあでも意味は伝わるだろう)。
そんなもの無いよと言う人もあるかもしれない。
でも多分、自分自身のやりたいことが「社会性」を持たないから「やりたいことなどない」という回答が出てしまうのだろうと私は思う。
やりたいことというのは社会性がなくても良い。
完全な主観でよい。
主観主義はわがままのはじまりだという感覚がピンとこない。
何を言うにも立場を考えてものを言えという呪いが、この国にはかかっているのかなとも思う。
社会というものそのものが、一過性の風習によって成り立っている側面が強いからだ。
個人の主観が蔑ろにされる因習が根付いているからなのだ。

 

子供関連の図書を見ていても辟易するほどに「自閉症」や「発達障害」関連のタイトルばかりが目立つ。
私は何もこの種のカテゴリ分けそのものを否定しているのではない。
誰かの苦しさを否定しているわけではない。
実際に普通のカリキュラムでは修学が不可能な子供とか居るとは思うし、カテゴリ分けをすることで教える側も楽になるのもわかる。
私も勉強も何も出来なかったし、「分類」をされたいと思い立って何処かへ「分類」されに行ったら何かに「分類」されるのだろうとは思う。
だがそこに私個人の主観、想念、私自身の思うやりたいことや「真実」は皆無なのだ。

 

なんかここら辺の事が本当に…伝わりにくいように感じる、私は介護施設は壊滅したほうがよいとか、発達障害は甘えだとかを言いたいのではないのだ。
つまり、「他者からのカテゴライズ」がどうしてそんなにも重要なのかが私には解らないのだ、なんで他人目線なのだ?と思う。
あまりにも疑問で、でもこの疑問を口にすると語弊が生じてしまうのでこうしてネットで開示するのである。
だってこの種のカテゴライズなど、分類、仕分けを生業とする医者個人のただの「主観(どのように知識があっても人間そのものは主観を超えられない)」で患者(人間)が分類されているに過ぎないと思うからだ。

 

実際に大変だとか、障害と健常という概念があった方が人類が発展するからとか、そういう大前提は理解している。
確かに人間には種類があるようには思う。
何も全部デタラメだと言いたいわけでない。
だがはっきり言って毎年毎年新たな分類、名称が出来上がってないか?
それが誰を救うの?それが個人を救うの?と疑問である。
そこに個人の「想念」、他者の「真実」を肯定するという感覚の無いまま、ただ分類だけがなされているような気がしてしまうのだ。
医者という他者の主観からのカテゴライズにより、自分自身のアイデンティティを見いだすというような社会の風潮に強い違和感を覚えるのだ。
まあ今は科学様々だものね…と思う。
今の宗教なのだよね、と思う。

 

このカテゴリ分けが本当に役立つのならばまだ許せるのだけれど…結局の所、カテゴライズした先に個人、及び職業が無い限り、何処へ行ったって余計者になるだけなのである。
この種の本の気持ち悪さは根底に「物事を平均的にこなすことを是とする」という大前提があること。
そして「余計者の感情的な苦痛」があること、である。
後者の感情の叫びが、何故だか「お医者様に分類してもらうこと」に流れ込んでいるのが私に嫌悪感を抱かせるのだ。
感情的な苦痛を他者に委ねていることに危うさを感じてしまうのだ。
この苦しみは職業選択の狭さから来ている、こんなの誰でもわかっているのだ、職業さえ、種類が沢山あるのならばここまで「不出来な理由」を求めたりはしないだろう。
それを印籠の如く掲げたりはしないだろう。

 

戦後からの職業の移り変り…もっと以前からかもしれない。
物事に過敏だということも、最早誰の役にも立たなくなってしまったと思う時がある。
両親もどうしても引っ越しをしないと気が狂うと言っている、言葉に言いようのない「想念」の形だけは今も残っている…両親とたまに「今日は何だか怖い気配がある」というような話をして頷き合ったりしたことが多々あった。
「もしも私たちが物凄く以前、人々が農耕を始めるよりも以前に家族として存在していたら、様々な場所を歩いて気配を察知して、私はその場所や時空間と対話するための呪いとしての絵を描いたのかも知れない、そのようなことで周囲の人を安心させてあげられたかもしれない」そんな話をした、そのような時の両親は妙に大人しく私の話を聴いている様子だった(私は両親が幼く見えるときがある)。
絵というものも人間の為だけではなくて、思考に於いて、人間と自然とが結ばれた徴のように感じる時もある。
それぞれの人間の特性…つまり、自発的な「これをやりたい」という思い、想念というものがその人の人間性であり…それは元来、人間だけではなく自然も含めた他者を助ける働きをしていたのかもしれないと私は夢想する。
一カ所に留まったらそこの動植物だけが人間に食べられてなくなってしまう。
1~2ヶ月で引っ越ししたいという両親は、現代の風習…現代の視点からみたら「病気」と「分類」されるだろう…だがこのような現代的には無益な想念にも根源的な意味は宿っていると私は思うのだ。
私の音の色に関してもそうだ、音が色に「翻訳」されている感覚ももしかすると何か危険信号などを察知するためなのかもしれない。
その危険信号というのは何も、自分たち人間に害をなすものというのではなくて、「これ以上留まるとこの土地が疲弊する」とかそういうものかも知れぬ。
でもそのようなもの自体が「ただの個人の主観」に抑えられてしまった、立場でものを言うべきであり、苦しみを肯定するには「権威のある人物のラベリング」があってはじめて可能になる…それが現代なのかもしれない。

 

私は「遊び」も苦手だった、冒頭で述べたようにルールを理解しにくいのだ。
認知症チェックドリルという類いの本も大量に出版されているが…これ、今の私がこのテストを受けても普通に「認知症」と「分類」されるだろうと苦笑している。
この種の本の「普通の人」というのは本当に実在するのだろうかと疑問になってくる。
そしてまた、さっきの子供の発達障害系の本もそうだけれど、本人の思想は置き去りになったままなのである。
何をもってして「遊び」とするのか、何をもってして「仕事、職業」にするのか。

 

例えば私の感覚で言えば本のフィルム掛けは「遊び」である。
一日100冊弱の本を大体3~4時間で終わらせる、無音の中でただひたすら手を動かす、だが思索はしている、その間自由に空想出来るので楽しいのだ。
テレビや音楽はつけない。
でもこれはやはり、遊びなのである。
オシャカ(失敗)が出ないように、空気がはいらないように「綺麗に」仕上がると「楽しい」、手触りもよい、だから独特の快楽がそこにはある。
そしてなによりこの遊びは「誰かの役に立つ」のである。
この速度と完成度を、私ではない別の大勢に向かって「これが世の中の普通だから」という体でやらせたら、泣き出す人が多々居ると思う。
「こんなの楽勝でしょ、3時間ちょいで一日の仕事が終わるし遊びにもなるんだよ、その間色々考えられて楽しいよ」
と私が笑顔で言ったら最早憤慨する人もいるだろう、100冊を8時間かかっても終了出来ない人も多々居るだろう。
勿論、これは単価の低い仕事で、これだけでは到底食っていけない…だが、「物事に平均的な人間」を創り出すために義務教育があるというのがなんかもう、違和感があるのだ。

 

手先がよく動くのならどんどん動かした方がいいし、一つの物事に集中出来るのならば何かに集中したほうがよいのだ。
無論、何となく平均的にこなせるのならばそれはそれで十分よいのだ。

 

ではどのような風にして自分は社会に接してゆけるのだろうかと考える。

 

職業的な問題を現時点で私だけの力で解決することは現状、不可能である。
「それでも、自分の生きている時代を愛しなさい」と私は思う。
なので社会的なことはさておき、想念そのものを見るということを念頭に、今日、人を見た。
少しだけ外を歩いて、すれ違う人を見た。
人の姿を見ずに想念を見るように見た。
すると、それは鳥を見るのに似ていると思った。
人と鳥が全くおなじように見えた。

 

なんかもういきなり自分ワールド全開で申し訳ないが、そんな風に見えたのだ。

 

私は鳥が好きでよく見ている、白鷺や青鷺を見たり、鴨や烏やムクドリを見て、彼等が「何をしたいのか」を常に心の奥底で配慮している、鳥が好きだからだ。
つまり私は鳥の「想念」を見ていると言うことだ。
フクロウカフェとか言語道断である、ああいうものは早く潰れてしまえばよいのだ、飛ばない鳥はただの鳥肉である、虐待である。
鳥の表面上の可愛さを愛でるだけでは無意味なのだ。
鳥が「何をしたいのか」を常に「観る」のである。
鳥が次に何処へ行こうとしているのか、何を合図したいと思っているのか、何を嫌がっているのか…逆に言えば鳥にとって何が楽しいことであるのか…それを観るのである。
想念を観るというのは、見るというよりも、観ることなので、この時点で人と鳥との境目が消えるのを感じた。


コンビニに入る、「あ、あの人は暖かいものがほしいのか」「あの人はATMに何か用事がありそうだな…」これは大抵当たる。
当たるというか、その人の「やりたいことは何か」を、その人本人の表面は見ずにふっと感じるようにするので必然的に「想念が見えてくる」のである。
そこには最早、鳥や人や植物に差は無い。

 

唐突に私は思ったのだ、私が嫌だ嫌だと思っているこの社会ももしかすると…そんなに悪くは無いのかも知れない。
言うまでもなくこれは主観である。
社会的な物事は皆無の主観主義である。
だがふと思うのだ。

 

もしこの「他人を見るときにはその人の外見や服装、経歴や病歴や年齢よりもその人が何をやりたいと思っているのか」「その人が(それが5分後、明日、明後日などの短期間でも)未来に向けてどのように動きたいと念じているのか」「個人とは即ち、想念そのものに宿る」という概念が…広がったら。
経歴や、病気などのカテゴライズ、要するに「権威のある他者の視点」や「過去」といった呪縛から逃れたら。
誰もが、すごく楽に生きられるのではないか?

 

これ自体が私個人のただの「主観」であり、考え方の一つでしかないのだが、今日は「人が鳥と同種である」というような、個人的に目の覚めるような感覚が生じたため、書き記しておいた。

 

私は自分の生きる時代や、地域を(愛情や愛着ではなく)愛したいと考えている。

 

 

 

 

人を信じるということについて

先月から4枚の絵を描いた、4枚の絵のうち2枚は完成し、もう2枚は手詰まりとなった、これが私の現在の内面具現化力の限界である。

 

絵というものは空想の産物である、文章も詩も空想である、しかしそれが完成したときには具現化する。
風邪も引いたし内職も年度末ということもあって大量に来ている、いつも具体化する物事には相互作用の力が働くのだ、神秘的なまでのリズムを刻んで私たちは生きている。
風邪というものに関しても、私はこれを「単なる個人の怠慢」とは考えない、これは地球の働きの一部なのだと思う、鼻水を出して咳をするという「働き」に身を投じているのだと考える。
そう考えるということはつまり、私自身がそう信じているということである、そして自分自身の考えを信じたとき、それは現実味を帯びる。
絵が湧き出てきたように、物事は具現化する。

 

今回は人を信じるということについて、想念という概念を用いながら、いつものように気の向くままに書いている、よければお読み下さい。

 

なぜ私は浮気について書いたのだろうかと考える。
それは、人間の本性というものは肉体の奥深くに宿っていて、その人に対面したと本当に言える瞬間というのは、その人の肉体と精神(感情ではない)の軸となる概念…想念とでも言うべきか…その両方と相対した時だろう思う。
誰かと会って話す時、誰かとセックスするとき、自分自身をその時の感情や快不快だけではなく、この想念を互いに理解し合えるかが鍵になる。
誰かを見つめようと思ったのなら、その人の想念とは一体何なのかを見つめないといけない。
誰かを信じるとき、その誰かの軸となる想念を信じねばならない。

 

誰かを信じるということ…それは具現化していない想念そのものを信じるということに他ならない。
だからその人の経歴だとかはあまり信じてはならない、その人自身の想念が今尚そこに宿っているとは限らないからだ。
誰かを信じるということはその人本人を信じるということとは少し異なると私は考える。

 

その人の「何を」信じているのか

例えば、私は友人の「親切心や善人であること」を特段信じていない、友人は俗に言う善人気質だが、友人の社会性そのものを、特段信じては居ない。
だから友人がある日唐突に何か犯罪をしでかしても別に驚かない、繰り返しになるが、私はそのような意味で友人を信じているわけではないからだ。
社会的には友人は児童に関する務めをしているので、社会的な意味での世界観を友人は、仮に何か犯罪を犯した場合は、失うだろうとは思う。
周囲の人は友人に対し「裏切られた」という「感情」を一時的に持つかも知れない。
でも私は裏切られないのである。
何故なら私が友人を信じているのはただ一点、友人自身が胸に抱いている想念そのものだからだ。
彼の感情や社会的価値観や振る舞いを信じているわけではないのだ。
誰だって感情的になる事はあるし、前後不覚に陥ることだってあるだろう…いや、何も友人が犯罪を犯すと決めているわけではなくて…仮に、の話だ…そうなっても私は友人に「裏切られない」ということを言いたいのである。

口酸っぱいようだが私は友人の想念そのものを「信じて」いるのだ、想念というものをざっくりと言うと、その人が自発的に持つ未来への方向性である、「演劇やりたい」という友人の念そのものを私は「在る」と信じているのだ。

 

経歴の無意味さ

傍目に見て「○○を頑張っています」とか、「このような会社に勤めている」とか、「この立場にある」とか、そのような物事からは個人の生まれ持って抱える想念は見えにくい。
たとえそれが「画家である」「舞台演者である」という経歴及びに職業的紹介であっても、である、何故なら経歴というものは根本的に「過去のもの」及び「ある一点から見た客観的事実」でしかないからだ。
だからいくら対面していても、その人本人と対話出来ないのである、経歴は二次的な補足には成り得る…病歴もである、だが経歴や病歴は根本的にその人本人を表すものではない、環境や経歴や病歴はその人本人の自発的な部分ではないからだ。
ちなみに、対話とは、考えを一致させることではない。
人間は先ず、意見や考えを述べなくては何も始まらないと私は思う。
その意見や意志というものが聞いていて感情的に乱されるものであったり、感情的、及びに現在の風習(勉強が出来た方が素晴らしいとか一夫一婦制を、その制度そのものを尊重するとかである)と照らし合わせると違和感を拭えないようなものであっても、まずは個人が抱いている感覚を吐き出さない限り、その人本人にも自分自身の抱える想念が見えにくいと私は思う。
ただ難点を言うなれば、想念というものは「客観的に言うとただの主観」であるため、傍目には大抵整合性がないように映る。
整合性が無いために「生きるとは一つの芸術作品を創り上げる事である」等と言われても、表面的な感覚からすると失笑してしまったりもする…だがこれを重んじない限り、人間は自分自身を生き抜くことすら不可能なのだと私は思う。

 

自分自身の社会的立場の無意味さ

一つ、また例を挙げる。
M氏の親族に対面したとき、私の立場は「M氏の嫁」である、彼の親族の誰一人、私自身の「想念」には目もくれないのだ…当たり前といえば当たり前だろう。
これは私も悪いのだ、私も性質上どうしても受け身なので、対人関係に於いてはまず誰かからの関与ありきで精神を動かしてしまう癖がついている、だから相手の想念も見えにくいのである…よっていつまでも「立場」でしか会話出来ないのだ。
ただ、私が「個人」に話しかけようと思ってもどうしても、「立場」を尊重するという文化的気質が、M氏の出生地には深く深く…本当に呪いのように深く根付いているのも客観的事実でなのである。
仮に私がM氏の実家近辺に「嫁」として、彼に嫁いだとしたら…私ですら、自分が誰だという自分自身の問いに対し、「M氏の嫁」としか答えられなくなっているだろう。
私は何だかそれが怖いのである、だからこそ私は社会的な立場でものを答えたくないし、「自分は嫁である」「主婦である」「都内に住んでいて血液型はこうで持病はこれこれで」等と安易には答えたくないのだ、そこに私自身の想念は皆無だからである。
「M氏の嫁」とだけ関知される世界で生きていたら、私は自分の想念を関知できないだろうと思う。
もしそのような環境で生きていたら、私は誰でも無い私と成り果てていただろう。
最早自分が何の為に生まれ、何の目的を抱えているのかを早々に忘却していただろう。
少し話が逸れるのだが、痴呆というのも詰まるところ、自分自身を生きてこれなかったという魂の叫びなのではないかと、思う時がある。
勿論これも風邪と同じで、何か不可思議な地球上のリズムにより、忘却するという「働き」が脳という肉体に出るとも思うが…どうもそれだけではないような気がするのだ。
「M氏の嫁」である「立場」は事実だが、私の真実ではない。

 

一方で、じゃあ「鶴の人の愛人」というのが私の真実かというとまたそれも違うのだ、それもただの事実のうちの一つでしかないのだ。
そこに私自身の想念が無いからである。
「沢山の元セフレの居る女」というのと同じく、これらの事実はただの事実でしかないのだ。
肉体関係の有無だけでは物事は測れないのだ、事実であってもそこに想念が宿らない限り、ただの一過性の事実でしかないのだ。

 

想念とは?

この想念というものは大抵、言葉に翻訳しにくいものである。
何故なら想念というのは「自発的な主観」「胸に抱いた未来への方向性」でしかないからだ、物事の最後に「そう思っている」を付け足すと想念は見えてくる。
自分自身にとって暗い、悲しい想念を抱くのか。
無力感という想念を抱くのか。
愛の念それ自体は根源的なものであり、「絵を描きたい」「発表したい」という関与の欲求はどのような精神、肉体的苦境にも左右されない。
愛の念はただそこに在るだけである。
この愛の念をどう「実行するのか」という点を司るのが想念だと思っている、私だったら「絵を描いて生きて行きたい」「人生とは私という作品を創り上げることである」という部分にあたる。
自分の想念を生きる(自分の主観的真実を生きる)には、愛の念を確実に実行できると信じ切る事が重要になってくる、想念(胸に抱いている主観的真実や未来への方向性)を信じることが、愛(愛情や愛着ではない)の実行の手助けになるのだ、結果的に社会的な意味合いをも持つのだ。

 

再度言うが、私が今抱いている想念は「絵を描きたい」「私は私自身という作品を作ろうとしている」ということである、その作品というのは死をもってして完成する。
人と語り合うときもこの想念の部分で語り合いたい、全部が全部とは言わないが、感情的な喜怒哀楽にだけ左右されていたのではいつも虚無感がつきまとうだけだろう。
この想念を一笑に付すということだけは、私はしたくない。
これは他ならぬ自分自身に対しても、である。

 

想念を軽んじる視点の危うさ

自分の想念を馬鹿にしたくなるときは多々ある、客観的に見て阿呆なんじゃないか、思春期の病が中年になっても尚抜け切れていないのではないか…等とよく思う。
自分の意見なども後々読み返してみると馬鹿すぎてため息が出たりする、それでもそれを軽んじてはいけないのである。
もし自分の「想念」を軽んじる事に慣れた場合、他者の想念の一切も知覚出来なくなるだろう、他人のことも無意識的に馬鹿にしてしまうだろう
世界は急激に狭くなるだろう…それがどんなに苦しいことなのか、私は身を以て知っているのである、絵の描けなかった年月は結局の所、自分の想念を軽んじてしまっていた時期だったのだ。
それを全て社会のせいにもしたくはないが、文化的気質というものの創り出す闇を感じる事は多々在る。
本人の想念が死んだとき、自殺は起こるのだと思う、自殺は本人のせいだけとは言えないのである。
自分自身をはじめ、各人の想念を無視することに慣れてしまった社会には自殺が多くなると私は思う。
だから私が自分の意志や、その根幹となる想念を大事にし、社会的にも絵を発露させるということそのものは、社会の役に立つ「働き」に成ると私は「信じて」いる。
そのような意味で、確かに「他者とは自分自身」なのだなと思う。

 

想念を信じるといういこと

私が鶴の人の何を信じているのかというと、彼の抱く想念それそのものを信じているのである。
鶴の人が浮気をしないかどうかとか、鶴の人が社会的に善人かどうかについては残念?ながら一切信じていない。
信じていないというよりも、もし仮に彼がどのような行動をしても、先に述べた友人と同じように、結局本人の表面上の振る舞いや行いそのものに期待値をかけているわけではないので、裏切られようがないのだ。

 

裏切りは「起こりえない」

だから裏切りとは、「概念上は」、成立しないのである。
表面上は鶴の人に他にもわらわらと女があったら私は泣くだろう、感情的に…または一切の感情が消え失せ、怒りから彼を無視するかも知れない。
だがそれは例えば歯医者に行って、術中に神経に触れて思わず呻き声をあげるのと同様である。
その表面的な光景を見て「お前歯医者で泣いてたじゃないか」と言うのは容易いが、歯科に行くという行動に至らせたのは歯の健康を考えるという各人の「想念」である。
だから表面上は例えば鶴の人に浮気をされて呻いていても、想念それそのものの価値観、視点は損なわれないのだ。

 

規律の必要性

だからこそ、鶴の人の「想念」が逸れるような事があったら駄目だと私は思うのである。
私自身の想念が崩れるような事があっても駄目なのである。
私が彼を好いているのもこの「想念」に於ける愛情故なのである、私を芸術の人間だと正真正銘、何一つの気恥ずかしさも無しに言ってくれたのが彼なのである。
私も彼の作品を見て圧倒された、それが答えなのである。
だから彼とやりとりをするとき、そのやりとりだけを表面的に見たらただの男女でしかないのだが、その中にはいつも「互いの想念への信頼」が籠もっている。
私は、想念というものはただ一人では構築出来ないもののような気がしてならないのだ。

 

主観的真実が現実を作る

想念同士で会話したとき、どうしてもその会話にはある種の主観的真実が宿る。
想念それそのものが、その瞬間には「真実」になるのである。
勿論「主観に於いて」である。
宗教などもこの原理だろう、想念と想念が互いに「在る」と認識したときにこそ、各人が不可思議な力を帯びるのである。
そしてこれもまた、この真実を認識した他者がいるという点では、社会的事実ですらあるのだ。
この原理によって実際に今月は4枚の絵が「出現」しているのだから。
実際に数多の宗教が「出現」し、科学が「出現」し、音楽が地上を取り巻いている、これが私たちの生きる現実なのだと私は実感している。

 

だから個人の想念ほど大事にしなければならない。
愛の念を信じねばならない、関与する念である、その関与が裏切られたと「感じる」時、人は無力感に苛まれる。
無力感に苛まれる人が一定数を超えると、世界は再構築を始める…戦争や病気が広まるのだと私は考える。
あれらもまた、ひとつの「働き」のように私には思えてならない。

 

ちょっと話は逸れるが…世界平和について

自分の「想念」、主観的真実を重んじたとき、必然的に他者の主観的真実も重んじることになる…自分が芸術を生きているという自覚が湧くのならば、他の主観的真実…たとえば世界的な例からいくと「ユダヤ人であること」「華僑であること」「神の啓示を受けた」「引っ越しすると生き返る人種」「素っ裸で過ごしたい人々」…傍目に見て疑問に思うような事でも、軽んじてはいけないとわかってくると思う。

だから自分を「アーティストである」と思うならば、むしろ必然的に他者のことを尊重するようになると私は思うのだ。

これはユダヤ人でも日本人でもそう、自分自身にその自覚が湧くのであれば、必然的に自分とは違うリアリティ…つまり、主観的真実を生きている人々を邪険に扱ったり出来なくなるはずなのだ、その国籍や宗教に於いて「○○人である」というリアリティが経歴や社会的事実だけではなく、本当に自分の主観的な「想念」に属する部分で実感するのならば、世の中に偽物は存在し得ないと気付くはずなのだ、誰もが本物であるという実感が湧くはずである

世の中に本当しかなくなるということは、真に平和な働きを生むと私は思う。

自分が「主観的真実に於いて」本物になるのであれば、他者は偽物ではなく、属する集団以外が偽物になるのではなくて…世界には本物しか存在し得なくなるのだと実感すると思う。

そうすれば無駄な争いとかなくなるのではないか…?

そうすれば世界的にももう数段階(これは主観的真実の話なのでそれをどのような社会的数値で表したら良いのか見当がつかないが…)平和な状態に至るのではないか…?

なので自分自身の想念、主観的真実を信じる事はその実とても社会的な意味があると私は秘かに信じている。

 

あの人への責任

かなり広大無辺な話を書いては居るが…私にとって鶴の人を信じるということは、そういうことなのだ、それくらい責任の伴う愛着なのである。
だから鶴の人の「想念」に対する気持ちが逸れたときには、彼から離れなければならない。
何も社会的な事実として「彼を離婚させてしまったから」付き合って居なければならないなどという話ではないのだ。
「責任をとるために彼と長く居なければならない」という話ですらないのだ。

もしも私の主観的真実及び想念を彼よりももっと深く理解し、私もまた理解出来る相手が現れたとしたら…私は無論鶴の人を振るだろう、私は男の夢想するような優しい女神様になる気はないのだ。

それこそが本当の付き合いというものだと私は思っている、ここに有り体な思いやりや時間的な束縛や努力を「愛」だ等と言い換えたくはないのだ、純然たる男女でいたいのだ。
ちなみに私はよく、鶴の人に「いつか合作出来たらいいね」と言うが、何もそれを「目的」にしているわけでもない、むしろそんなものは互いに想念を信じていたらごく自然に到達?出来るだろう、一過性の客観的及び主観的事実として、である。

 

肉体関係と想念の魔術的意味合い

ここまで鶴の人を好きなら、その「想念」を好きなら、自分自身や鶴の人の浮気癖くらい許せばいいのにと感じるかも知れない。
だが、性的な繋がりというものは念の魔術のようなものである。
性的な繋がりを拡散させると、想念そのものが拡散してしまうと私は感じている…なんというか、そうとしか言えないのだ。
人間は有限である、私も一度に何人もの人と付き合っていたら、このような文章(まあ勿論…乱雑な文章ではあるが…それでも紛れもなく、想念から発せられた文言なのである)は書けないのである。
何故それをわかるかというと、過去にそうだったからだ。

 

性的な奔放さの代償は確かに、在る。
裏切りは無い。
だが、代償は本人にあるのだ、だから想念の関係に於いては、浮気は自分自身にすら、許してはならないと思うのだ。

 

もう少しこの話を進めると…肉体関係を持ちながら、想念でも会話出来ている関係を維持すると…想念が具現化しやすいような気がする
本当にこの類いの事は言語化すると全て主観的故、内容が雲を掴むようなものになりがちだが…肉体関係の持つパワーというものを侮ってはいけない気がするのだ
セックスそのものが本当に生殖、増殖だけを目的としたものならば、男女互いの浮気は正当化されるべきだろう。
男は精子をばらまき、女は出産と子育てに控えて「成るべく沢山の男という後ろ盾」を作るためにも、沢山の男から「秘密裏に(これほど女の得意分野はないだろう…)」可愛がられておく必要性があるからだ。
ただの生殖だけが目的ならば、浮気は男女ともに正義であると言わざるを得ない。

 

男は自分の生殖能力をひけらかし、女は自分の生殖能力をひた隠しにする、よって世論はいつまでも「男は浮気をする生き物だ」と迷信を頑迷に貫くのである。

 

だが実際にはセックスそのもにには最早、生殖よりも重要な魔術的な意味が込められている、だからこんな迷信めいた時代はもう終わらせるべきなのだと私は思う。
これを魔術的というのは…想念というもの自体をまだ、人間各人が信じ切れていないからである。 

芸術は魔術である、と私は秘かに思っている。
実際には目に見えないものを具現化させる魔術である。
そしてこの魔術を作動させるにはどうしても念の力が要る、ような気がする。

人間がどうしても「一夫一婦制」や「永遠の恋人」というようなロマンチックな幻想に惹かれ続けるのも、セックスが生殖だけの意味を越えた事を意味しているように思う…それが人間の進化に関係している物事で、今は解明出来ないので私もそれを魔術と言い換えているが…信頼し合った男女のセックスというものに何か不可思議な力が潜んでいるような気がするのだ。

 

本当に強い人など実在しないのではないか

本当に正真正銘の強い人が居るのならば、その人は「世界の誰一人にも自分の想念を理解、知覚」されなくとも、愛の念を発露出来るのだろう。
だがそんな人はなかなか居ない、仮に居たとしてもそれこそ「誰も知らない」人である、誰も知らない人が他者に愛を行うことが可能だろうか?
そのような人をイエスキリストと呼ぶのかも知れない。
ただ…彼ですら信者という「想念を知覚した朋友」とでも呼ぶべき他者を連れていたのもまた客観的事実なので、人間には根源的に他者が必要だという回答も同様に生じてくる。
信者や信徒という呼び方には社会的な軽蔑がつきまとうが…何故嗤われるのかというと、想念そのものを「見る」ことが人間にはなかなか難しいからである。
主観主義が嗤われるのはこの仕組みによってなのである。
そして人間は、自分の主観…感性が鈍ってくると、書物や絵画などよりももっとわかりやすいものを「在る」と言うようになる。

 

例えば…女、異性、などを在ると言うようになる。
女が何人居る、新しい男が何人居る、とかで物事を考えるようになってしまう。

 

だから、私は鶴の人の想念を信じていたいのだ、だから浮気は駄目なのだ。
彼だから駄目なのである。
私だから駄目なのである。
だからこそ、彼との肉体関係は大事にしたいのだ、彼を信じていたいからである。
私の念が、自分自身の想念を構築し、さらには彼の想念の手助けになるようにと願ってやまないのである
私は彼のためになりたいのである。

 

自分自身の想念を信じていたい、鶴の人の想念を信じていたい。

 

さて、ここまで読んでくれた方の中には、このような話をぐだぐだと書かずにもっと素直に「鶴の人を愛している、側に居て、あたしだけを見て!」と言ったらいいじゃないかという意見もあるだろう。
だが、それだけじゃ駄目なのである。
その言葉はもう沢山の人に言ってきた使い古しの台詞なのである、裏表のない素直な恋愛感情で色んな男たちに言ってきた言葉なのである、「好きだから側に居て」「私だけを見て」…残念ながらその言葉や実感だけでは世界観は何一つ変化しないのを私はもう知っている。
感情的な愛着だけではその人との未来は見えてこないのを知っている。
勿論、鶴の人は身体もいいし、和やかで楽しいし、はっきりいって色々最高である、いい雄を捕まえた感覚である。

でも私は自分の惚れっぽさや気の多さを痛いほど知っている、他ならぬ自分自身だから、好きとか恋をしたとか素敵な異性だとかいう感覚は案外誰にでも抱いてしまうのを知っているのである(友人も苦笑している事だろう…)…自分の弱さを知っているのである、だから恋の言葉だけでは本心にはならないのである。

 

さいごに

強いて言うなれば…

「鶴の人よ、想念に於いてあなたを愛しています。

時間の長さは関係ありません、私は沢山絵を生じさせます。

あなたがご自身の想念を信じている限り、私の想念の側に居て下さい」

これが彼に対する最も深い愛情表現である。

 

そういう訳で私は鶴の人を、正直、かなり深く愛している。
かなり深く彼を、信じている。
生まれて初めて、人を信じようとしている。

 

自分自身と他者の想念を、信じようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

【詩】ああこれが私の死

ああこれが私の死
死というものに私はすっぽりと収まる
棺は
この世で一番の居場所

 

足が鈍い呻きを出す度
私は言う
ああこれが私の痛み
他ならぬ私の痛みにすっぽりと収まっている
私の痛みは
私の居場所
死への道を私は歩いている

 

坊や
よく聞きなさい
まだ道は半分
今お乳をやるから
ちゃんとちゃんと飲むのよ
そして飲んだお乳で
魂を磨きなさいね
感性は
ただ擦っていたら傷ついてしまうの
だから愛しい坊や
私の水をちゃんと飲むのよ

 

他の誰のものでもない私の死よ
あと半分の道の先、手を広げたまま、私を待っていて
死が全てを完成させるのならば
私は何も怖くはない
そして死に辿り着いた時に私は
生まれて出でてから初めて
安堵のため息を漏らすのだ

 

ああこれが私の死
私の死に私はすっぽりと収まり
微笑むのだ
私の死よ
この世で一番の居場所
この世で一番の愛
私自身の完成

 

 

 

 

 

浮気について考えるその2


はじめに断っておくが…私はたまにどうしようもなくなって意見を書くという行為をする、だが何もそういうものを100%同意、賛同してほしくて書いている訳ではない。
論破出来ないのならば服従、同意、賛同しろという意味で書いている訳では断じて、ない。
ここは結構勘違いされやすいのだが、同調してほしくて書いている訳ですらないのだ、だよね~とか言って欲しいわけですらない。
だから友人とは意見そのものが平行線であっても、友人とは友人なのだ、だって他人なのだから。
世の中に沢山の本があるように、沢山の意見のうちの一つとして「目安として10%くらい理解してもらえたら非常に嬉しい」という感覚で書いている。
意中の鶴の人には「10%くらい理解、及び同意してほしい」とは思っているが…まあ、同意が欠片ほどもないと男女の付き合いというものが成立しないのだが…それでも、感覚的には理解のほうが同意よりも上回る状態で男女関係を維持したいと思っている(鶴の人は何故かこの度合いを言わずとも汲み取ってくれる人なので解っているとは思うが)。

 

例えば聖書を読んでいて、不可思議な物事が数多書かれている書物なわけだが…あれを心や気持ちの面で100%信じていたとしても…
聖書を理詰めで痛快に分解してゆくようなスピノザ著の「神学・政治論」を読んだからといって、聖書の持つ神聖みたいなものが損なわれるわけではないということを誰もが「理解」していると思う。
宗教と、科学や哲学といった別の意見、別の見解というものが存在するということを理解していると思う。
他者の意見というものが時に自分の内部の何かのリアリティを脅かすように「感じる」事は肉体を纏って生きていると多々在る、だがそれは感情面での揺れであって、概念そのものを脅かすようなものではないのだ。
だって、同じ小説ばかり読んでいたらつまらないだろう?
色んな話や意見(意見というのは一つの小説みたいなものだと私は思っている)があったほうが、実際楽しいし、その、色んな見解や意見というものを「実際に誰かが体感実感している」という事実そのものに私は世界というものの神秘性を感じるのである。

 

透明な気持ちに至るまでにはどうしても自分の垢みたいなものを削ぎおとさなければ次の啓示が見えてこない…という内面的理由により、引き続き浮気について書かねばならない。
もう自分でも何故こんなことを書いているのかよくわからないが、心情的には不明確でも概念を開示しなければならないという気持ちに駆り立てられている。

 

よって今回は、「もし自分が浮気したら」ということを延々と妄想し、「何故自分は浮気を我慢するのか」に繋げたものをだらだらと書いている、だが思いは籠もっているので、よければお読み下さい。

 

私は今鶴の人というとある男にぞっこん(…)入れ込んでいるわけだが、それでも浮気心というものは在る。
女にも浮気心それ自体が実在する、女であるところの私がそう言うのだから、この時点で立証されている。
本命が居ても浮気はする、本命との世界観があるからこそ浮気したくなるという気持ち自体がある。
浮気心のある女というものをやたらと色物みたいにセックス依存症だとか定義する事自体がナンセンスであると私は思う。
そんなものは誰にでもある欲求だと思うからだ。

 

鶴の人と食事している。
彼が手洗いに立ったときに何気なく携帯を見ると元セフレから連絡が来ている、男によくある「元気?俺は仕事が変わったよ」意訳すると「暇があったらセックスしない?」という有り体な文言である、その場では返さないが、心の奥底で何か嬉しいような気持ちになる。
元セフレ、と言ってしまうのは彼との間に一切の未来や概念上の理解が互いに及ばなかったからである。
正真正銘、潔いほど「単にベッドで寝て飯食って笑顔で手を振る」仲だったからである、いっそ清らかな関係とすら言っていいだろう。
互いの具体的な環境やその場の感情的な付き合いでのみ逢瀬していたので、それほど「捨て去った概念、古びた使用済み概念め!私はもうアップデートしたのだから、お前はもう私に気安く近寄るな」という、あの女特有の元恋人への残酷な拒絶感が湧かないのである。
鶴の人がテーブルに戻ってきてからは、元セフレの存在自体を忘却している、目の前に素敵な男が居るのに元セフレのことなんか思い出さないのだ、未来への期待値の湧かない人間の事など思い出さないのだ。

 

しかし帰宅してふと思う、元セフレに再会したいような妙な気持ちに駆り立てられている自分に気付く。
足が痛む、意中の人と会うときには私は多少着飾るし、足が痛いのも無意識的に隠してしまう。
「あいつが相手だったら格好つけずに済むから楽だろうな…」と、元セフレのことを思い出しているのである。
惰性の重力に引き摺られているのである。
つまり浮気とは大抵、本命との関係性に於いて、イニシアチブを持たない方が陥りやすい誘惑なのだと私は考える、劣等感を抱きやすい人が陥りやすい誘惑なのだと考える。
そして一見イニシアチブを握っているかに見える歴代の王様だとか、位の高い男だとかも、他者と自分とを比べる機会も多く常にプレッシャーに苛まれており、自分自身に劣等感を抱きやすい環境にある…よってほとんど必然的に英雄色を好むという構図が出来上がったのではないか?と私は推測する。
勿論それだけではなく、純粋な交流への欲求も根底にはあるだろうが…。
私個人の浮気欲求というものを考えたとき、あくまで本命と思しき異性の「居る」浮気については私は、ガス抜きの要素が強いように思われる。

 

唐突に元セフレと再会している場面を思い描く、これは妄想である。
「一年以上全く会ってなかったね~」等と言いながら歓談している、何というか全体的に「楽」である、楽で楽しい。
綺麗にする必要も無いし、足が痛むのなら「もう歩きたくない」と我が儘(?)をあけすけに言えるし、物事を伝えるのに「すごい~!」「やだ」「いいよ☆」くらいしか言わなくて済む。
この三つの言葉の繰り返しで場が成り立つということ自体が喜劇じみていて無性に楽しい、だから終始笑って居られる。
そのうちなんだか身体がモヤモヤしてきて、「ホテルいこっか!」という雰囲気になる、ただ、唐突にそうなるのである。
それは最早手洗いに立つのと同じくらい、ただ催した、それだけなのである、そこに理由なんてないのである。
ホテルに着いてから楽しいままにキスをして、楽しいままに身体を貪る、そういえばこいつの急所はここだったなあ~等と身体的記憶が蘇るのも楽しい。
一人一人セックスの楽しさが異なるということそれ自体を再認識するのが楽しいのである。

 

この裸の付き合いに関して難点を言うのなら一言。
「強いて言えばあんたが元セフレじゃなくて、新しい未知の誰かだったらもっともっと楽しかったろうな☆
ということ、これは勿論心の声、ただの本音である。
つまり女の浮気欲求というものそれ自体も、新しい誰かへの欲求である、新しい誰かへのガス抜き欲求でしかないのだ。

 

新しい人への根源的な交流欲求、ガス抜き、一切の悲観的視点(自分の足が悪いとか美しい人と比べたら醜いだとか歳を食っているだとか…そういう誰もが抱えるある種の客観的真実)から逃れたいという哀しいまでの切望が、浮気の正体であると私は思う。
本命という存在がない場合は純粋な「肉欲」も含まれるだろうが…
浮気心そのものの正体は肉欲だけではないと私は思う。

 

男の浮気の思考回路なんて「おっぱいやおまんこが沢山在る=すごい嬉しい」「おっぱいとおまんこが一個しかない=飽きるし心許ない」くらいで済むのかもしれない…
女の場合はもっと寒気のするほど単純で、根源的には「沢山の人に構ってもらえる=幸せ」くらいかもしれない。
「楽しさ=幸福」という方程式で生きている部分は誰にでもあるとは思う。
強いて言えばその裏に「誰にも構ってもらえない=不安」もあるだろう。
浮気者は男女両者とも「新しい異性=価値のある楽しさ」という式の内側で生きているとは思う、ある意味でそれは正しい。

 

でもその中に先に述べた自分自身へのやりきれなさが本当に微塵も無い人は居ないと思うのだ。
浮気者というのはその心中、哀しんでいる人なのだと私は思う。
自分の性根に向き合えずにいる人なのだと思う、男女ともにである。

 

再び元セフレとの逢瀬の妄想へと思考を戻す。
事後、また何となく歓談している、しかしもう楽しさが薄れてきて二人とも早く帰りたくなっている。
何故なら、相手と居たくないという気持ちからではなく…ただただ自分の本音に気付きたくないからである。
「今日も一日無駄にしてしまったなあ…」という本音を、自分自身に対してひた隠しにしたいからである。
だから適当なことを言って余計に楽しくしようとしているが、大抵空回りする。
元セフレが服を着ながら唐突に言う、「そういや、あやってまだ絵とか描いてんの?」、私はぎょっとする。
…私こいつに絵の事とか言ったっけ?
言ったかも知れないとふと思い出す、しかし表面的な意味での「絵を描いてます」ということと、「人生とは芸術である」という強固なまでの個人的概念とは最早別物である、私は急に気恥ずかしくなる。
元セフレは続ける、「個展とかやんの?賞とかとるの?」、私はおろおろする。
「ちょっとわかんないけど…絵は、描いているかな…」
私はなんとかそれだけ言ってそそくさとパンストに足の片方を入れる、待ってましたとばかりに伝線する、急に何もかもが嫌になる。
元セフレは言う、「また美術館行こうよ~!趣味があるっていいよね~」、彼は間違ってはいない、彼の言うことは客観的事実である。
ただ一言言うなれば、彼は私の肉体や感情は知っていても私の概念そのものを一切知らない。
私は何となく両腕で自分を抱え込む動作をする、現在ハマっているスピノザ先生だとかエックハルト先生だとか十字架の聖ヨハネ(特に彼は絶対に守らねばならない…主観主義というものがどれだけ危ういものなのか私にはよくわかるからだ)氏らと構築した「概念」そのものを抱きかかえて、ラブホテルのベッドに着替えも半ばで座っている。
私は概念そのものを抱きかかえているのだ、世界観そのものを抱きかかえているのだ、主観そのものを抱きかかえているのだ。
これが絵の根源だからだ、私の宝だからだ。
私は立ち上がり、それ以上会話が続かないように素早く着替える、伝線したままでも特段気にしない、足は元々半壊しかかっているのだ、それら全てどうでもよい出来事でしかないのだ。
「また今度会おうね」と私は言う、本心は「もう二度と会わねー…」である、何も元セフレに対して言っているのではないのだ、表面主義的に時間を生きてしまうような自分自身とは、もう二度と会いたくないという意味なのである。
そして悔やむ。

 

何てつまらないものを食ってしまったのか…こんなことで貴重な時間を使ってしまった…
ちょっと普段とは別の人と寝たいという誘惑に抗いきれず、絵を描く時間を潰してしまったと私は歯ぎしりする。
確かに気楽で楽しかった、だが楽しいという感覚と「至福」のそれとは全く別物である。

 

何だかんだで丸一日が潰れたことをひたすら悔やむのである、何度も言うがこれは妄想である、浮気したらというシミュレーションである。
もし私が現在もまだ絵を描き始めていなければ、これほそには悔やまないだろう。
特に内面的直感や使命感といった、主観要素の強い思考回路で無い限り、異性と遊ぶのも人生のうちと割り切って遊べると思う。

 

どうしてこの種の密会を「時間が潰れた」と思うのか?

 

鶴の人とだって表面上は同じようなことをやっているのである、肉体的、物理的には「会って話してセックスして飯食って帰宅する」ただそれだけなのである。
そして新しい人と寝たくなる時くらいあるのだ。
しかし駄目なのである。
その付き合いに概念の構築という力が互いに無い限り、浮気はすればするほど自分の世界が崩れて行くのである、時間の無駄なのである、世界観が崩れるのである、だから駄目なのである。

 

再び妄想に戻る、浮気の逢瀬の後に携帯を見る、本命である鶴の人から連絡が入っている。
「新しい絵を描きたいって言ってたよね、そういう時はどんどん描いた方がいいよ、完成させられなかったぶんはとっておいてね、また後で描けばいいんだから」
ただこれだけの文言にどれほどの価値が込められているのか私は実感する。
この人は私の概念をそのままに見ているのだと私は感嘆する。
人間は本当に「誰からも内的真実を心底一切理解されない」状況では、各人の能力を発揮できないと私は思う、その人は精神的に枯渇して生きながらに死んでしまうと思う。
そして浮気をした場合、次に鶴の人に会うときにどうしても彼を直視出来ないと私は思う、そこで直視出来ないのはその実、自分自身に対してなのである。
それの何が困るのかというと、私自身の大事にしている芸術を生きるという概念を、直視しにくくなるという実害が起こるからだ、この概念を後押ししてくれた人を直視しにくくなるということは実は結構被害がある、自分自身に対しての甚大な被害なのである。

 

だから、浮気は、自分の浮気も許してはならない。
これを許すと「絵を描かなかった一日」というものがどれほどの損なのかすらもわからなくなるのだ。
結果的に「創作をせずにいた人生」の何が悲惨なのかすらも、感覚が麻痺して認識不能になるのだ。
これはあまりにももったいなさ過ぎる。

 

一方で、人間が男女ともに持つ根源的な浮気欲求というものをどうやって解消すればよいのだろうか?
それは簡単に言ってしまうと交流である。
新しい人と会う機会や、周囲の住人との挨拶とかそういう事で十分に浮気は我慢出来る。
前回も言ったように、浮気は結局の所「自分自身の世界観が崩れるので」性的な関係は唯一無二の人を作った方が、「より良いリアリティを生きられる」ので、しないほうがよいのである
自分自身の世界観は一人きりで保持していられるし、新しい異性に会って歓談してセックスするその過程がもう、脳内のシナプスとかが歓喜しているので堪らない!これを悪いだなんて思えない!という人も居るだろう。
特に、「男ならそれが可能だ」とか阿呆みたいに言う人も居るだろう。
鶴の人とかも元来そういうタイプだとは思うが…念を押すようだが、その彼ですら、気付いたら10年、芸術というものを考えてはいたが、芸術というリアリティを生きられずに時間が過ぎ去ったのである。
これは事実である。
勿論無駄ではない、だが、これ以上の浮気は時間の無駄であると…これは鶴の人に言っているのではなくて、これを読んでいる誰もに対して、そして他ならぬ私自身に対して漠然と言うのだが…浮気をするときの脳内の回路で、性的な部分を制御さえ出来れば、もっともっと有益に時間が過ごせることはほとんど確実なのだ。

 

交流も大事だが、至福に至りたい、と最近思う。
概念と肉体とは別個に存在しているように感じるので、鶴の人と対面してもその場の感情だけで話をしてしまう時もある。
だがなるべく概念の段階まで掘り下げて、ゆっくりと語り合いたいと思っている。
その為には相手の概念も直視して、それを未来につなげるようにしなければならない。
とても静かな気持ちで彼と語れた日は嬉しい。
セックスもそのような静かな感覚で行えたらどんなにか素晴らしいだろうかと、考えている。
楽しいと至福は別である、至福を求めている。
もっとも、至福そのものは一人でも感じ取れるのだろうが…出来ればパートナーと感じたいものである、それが人間の異性関係というものの目指すところだと私は考えている。

 

ということで、10%くらい、同意や賛同ではなく「理解」してもらえたら私は嬉しい。
女にもごくごく普通に浮気欲求があって、それでも尚本命を選ぶ心理を「ちょっとだけ頭の片隅で理解」してもらえたら私はもう言うことがない。
女も浮気を堪えながら男と居るのだということ、そこにも意味が在るのだと言うことを私は言いたいだけである。

 

以上!

 

 

 

 

 

浮気について考える


浮気の何が悪いのだろうか?
浮気とは、何を損失させるものなのだろうか?
ここで言う浮気とは、性的な関係の相手が一対一を超える場合を指す。
婚姻関係それ自体は性的な関係性を示さない場合が多々あると私は思う、婚姻関係=性的な関係とは限らない。
だが…それでも損失は確かに在る。
一対一を超えた男女関係(便宜上男女という名称を使わせて貰う)を構築した場合、それを構築した本人こそが、損を被るのである
ごく稀にこれが得(徳ではないが、徳にまで至る道もあるとは思う)に変容する道もある、それは本人にとっての真理に触れた場合、本人にとっての愛を社会的に実行するのが、不貞により「行いやすくなった」場合に限り、得を生じさせるとは思う。

 

浮気により損失を被るのは誰か、何か
浮気により損失する物事、それは浮気をした「本人」の「世界観」であると私は思う。
私の場合、婚姻関係の外側に性的なパートナーを得た事により失った物事…それはM氏と構築した「世界観」である。
M氏との世界観を私は失っている。
失わないまでも、私はM氏との世界観そのものを半減させている。
この土地に住んでいるということ、この場に於ける所有権や正当性を失っているのは…純然たる事実である。
私は出生からして生来の無一文であるので、所有するとか何処かへ所属するといった物事を半減させる行いは、私自身を精神的窮地へと追いやる性質を持つ。
私がどれほど「不安」がっているのか、私自身の行いによりどれほど「世界観」に歪みが生じたかを考えると確かに、浮気というものは、不貞というものは怖い。
不貞は、やったほうが怖いのである。
M氏は世界観を失っていないので、M氏には被害はないと私は考える。
ここではM氏が性的に相手を無視しているという事は差し置いておく。
やったほうが悪いを言い続けていると誰も何もやらなくなる、何も関与しなくなる…そこには結局究極的な意味での愛はないのだ。
だから法律を守ることだけでは愛は実行不可能であると私は思う。

 

浮気は相手への裏切りだから悪いというのは安直過ぎるというか、感情論すぎるような気がしてしまう。
ここに書いているのはあくまで「私の概念」であり、肉体を纏った私ではないと断っておこう。
私とて浮気をされたらショックだし泣くだろう、殴るかも知れない、表面上、肉体上はそのような反応になるだろう…けれども損は被らない、と私は概念上では思うのだ。
自分自身の見た世界観そのものは、自分自身しか見えないのだから根源的には崩れようがないのだ。

 

不貞の生物学的是非
ではばれなければ浮気や不貞は良いのだろうか?
私は、表面上は良いとすら言えると「概念上は」思っている。
誰もが品行方正で、一対一のパートナーから逸れずにお付き合いや結婚をしていたとしたら誰も売春婦にはならないし、誰も格好つけたりもしない。
それが何を示すかというと、恐ろしい事に「セックスに於いて誰かが必ず余る」のである。
どういうわけだかこの世は「誰かが必ず余る」ように出来ているのである、生物学上絶対に余りが出るように仕組まれているのである。
誰か浮気者がいない限り、誰かが自慰行為をしながら泣くことになるのである。
その誰かが別に自分でも構わないという人も居るだろう…ただ、それが本当に本心から発された、喜びをもって発された言葉なのかどうかよくよく吟味して欲しい。
喜びが言葉の内側に籠もらない限り、その言葉は嘘である。
嘘は悪である。
悪とは、純然たる喜びの、欠如である。
だから浮気者というのは男女ともに生物学上「善なるもの」として、喜びをもたらす者として必要不可欠な存在なのだと「概念上は」思う。
浮気をすればするほど、食いっぱぐれていた誰かが美味しい思いをすることが可能になるのだ。
私とて誰かにとってのご馳走であったし、誰かをご馳走のようにありがたく食べさせて貰った、助けて貰っていた。
だからシステム上、出会い系サイトなども大変お世話になった、あれを到底悪いとは言えないのだ。

 

浮気をすることは善なのだろうか?
性的なパートナーや婚姻関係者に黙っていれば、沢山の人とのセックスそれ自体は許されるのだろうか?
許されるのである、表面上では善ですらある。
「相手に対して」ばれなければ良い、というのはある程度までは事実なのである。
私なんかは対人関係に対して疎いので、浮気されても一生気付かないだろう。
(※これも個人的な感覚だが、【男は浮気者で女は好きになると一途だ】…というのは実に悲喜劇的な迷信だと言わざるを得ない、男という性は、対人関係や浮気感覚に悲しいほど盲目的に疎いからだ。
女の浮気に気がつける男など実在しないと私は思う、つまりそのような感度の高い男は実在しないから、したがって女の浮気というものも男の視点では実在しなくなるのである。
女の浮気そのものが男にとってみれば迷信と化すのである。
現在の道徳概念もこれに大方基づいているので道徳を守るということに対して私はいつも疑問を抱いてしまうのだ、良妻賢母の幽霊だけが一人歩きしているような違和感を覚え、不気味さに震えるのである、自分の本心との差に愕然とするのである、あの幽霊は果たして何処から来たのだろうか?と私は問うのである。
男女とも、思う所があれば逐一道徳そのものを疑うほうが人間の性そのものに近づけ、発展すると私は思う、だからこそ秩序よりも自発的な疑問や意見は口にする方が善いと思うし、実行してみて経験すればよいと思うのだが…。)

 

さて、浮気をされている状態を安易な言葉で「騙されている状態」とは言えないと思う、それは客観視だからだ。
私自身の視点で真実が見えるのならば、それこそが私にとっての圧倒的真実であることは変わらないからだ。
しかし被害はある。
それは、先に述べたように、「その相手との世界観が崩れる、半減する」という浮気した本人の内面に被害が生じるのである。
だから浮気はある程度までは善を含んでいると私は思う、喜びが生じている状態はある程度は善なのだと私は思うからだ。
しかし「最善ではない」というのが浮気や不貞に関して言えることである。
本人の世界観が保てなくなるということが、善を欠けさせている。

 

自分が「最善の方法で生きる」なら、性的なパートナーは一対一のほうが世界観が歪まなくて済むという点で、複数のパートナーが居るよりも善いと言える。
それでも私の場合は現に、M氏との世界観は半減しているのである。

 

社会的な安定性という意味で考えると婚姻生活という社会的な枠組みに於いて不貞をしている私は損をしている。
私はかつてこの家や土地の女王様だったが、今は召使いなのである…一生この物事が表沙汰にならずとも、この内面的事実は私の世界観に於いて真実なのである。
そこからは逃れられないのである。
それをしてでも社会的にも有益だと思える利潤を、M氏とだけの世界観よりも多く生み出せる相手として、損よりも得が多い相手として鶴の人を選んでいる。
これは醜いやり方のように見えるだろうが、「私にとっての最短で最善へ辿り着く方法」としてこれ以外の選択肢が見つからなかった。
社会的には私はこの程度の人間である、社会的な整合性について他人から言及されたらぐうの音も出ない、善い悪いというよりも美しくないというのが私の生き方の欠点である。
主観的には、愛のためだと言いたい。
愛というのは愛情や愛着ではない、舞台俳優が全観客に対して抱くような自己放棄の愛である。
こんなにも整合性のとれない生き方をして何が自己放棄だと思われるかも知れないが、まあ、ここには正直なことだけを書いておくという自分に対しての誠意みたいな感覚が働いているのでその通りに書かせて貰う。

 

体力や念の有限さ、何故一対一がよいのか
性的に唯一無二と仮定する関係性を保つ利点としては、世界観が構築しやすいということだろう。
その人との世界観である。
私が性的な関係は皆無であってもM氏との関係を尊重したのなら、私はいつまでもこの家の女王様だっただろう。
一方で、M氏だけではなく浮気を…
A氏
B氏
C氏
D氏
E氏
F氏

という風にどんどん果てしなく関係を広げていったとしたら、何が困るのか?
それはその分だけ自分の「念」が分散されてしまうということである。
表面上、肉体上、生物学上では私は自分自身を分布、拡大させたことになる、それぞれの男に惚れて、誰もが一見幸せな状態なのだ。
しかし肉体や時間、私自身の持つパワー…つまり人間個人「念」は有限である。
本気の恋をそれぞれの男としたとしたら、私自身が困窮するのである、体力や意識が分散するので私自身の世界観が構築しにくいというのが浮気の一番の難点なのである
そしてあっという間に10年くらい経っているのである
何が困るのかというと、元来私が持っていた自分自身の未来の在り方へちっとも近づけずにいるから、だから浮気は、やったほうが相対的にほとんど確実に損をする仕組みなのである。
気が逸れてしまう事が、損なのである。
自分の追い求める世界観を信じ切れなくなることが、損なのである。

 

手段としての浮気、目的としての浮気
だからこそ、付き合って居る人や結婚相手と世界観がずれてきたのなら、それを保ちつつ浮気をして次の人を探すというのは許されていると私は思う。
浮気をされたのなら、多分世界観にずれが生じたのだと思いたい、私が浮気をする場合もそうだろう。
常に自分自身の最善を尽くすという目的をもって生きているのなら、浮気はそれ自体が有効な手段であると私は思う。
だが、浮気と浮気依存は少し事情が異なる。
浮気依存の場合は空気を吸うように新しい相手を求めてしまう上、新しい相手の素晴らしさを受け入れて感嘆してしまう、その時はそれでいいのだが…そうしているうちに自分の「手段」であった浮気が、いつの間にか「目的」に変わってしまっているのである。
…ここのずれに気付ける人はなかなか居ない、私だって鶴の人に出会わずに居たらこの差を理解しきれなかっただろう。
つまり、「手段」としての浮気は生物的にも都合がいいが、それ自体が目的性を帯びてきたら要注意である、それもう依存である
本当にやりたかったことを忘却している場合、一日に一分もやりたいことを実行出来ていない場合は、異性(便宜上そう書かせて貰う)そのものから身を引いた方がよいと私は思う。

 

唯一無二のパートナーの利点
浮気の難点が本人の「世界観」の分散だとしたら、唯一無二のパートナーだと仮定する付き合いの利点は、本人の「世界観の構築の圧倒的補助」、「未来への手助けの力」だろうと私は思う。
肉体関係のもたらす癒やしの力、肯定力は素晴らしい、だからこそ分散させると強力な無力感すら引き起こすのである。
私は現在のパートナーである鶴の人の事を考えている。
彼の「未来」について考えている。
私は恥ずかしながら、誰かの未来に対してこんなにも愛着を持って考えたことが今まで無かった。
仮に鶴の人が「自分自身の世界を構築するために」都合の良い相手が私ではなく、他の女性になったというのなら私は(実際は泣いているだろうが)概念上は喜んで身を引く。
でも鶴の人が「目的としての浮気」に身を浸して、一日のうちにほとんどの脳の回路を使って蛍光色の会話にだけ…せっかくの感性の玉を放置してまで…ただのやり取りそれ自体を愉しむというのならば、どんなことがあってもそれを是としてなならないと思っている。
そういう意味で、浮気を目的としているのならば、私はもう二度と彼には会うまいと決めている。

 

このような覚悟が生じたのは、とどのつまり彼を愛しているからだ、情というよりも「芸術という世界観に於いて」、彼の世界観を愛しているからだ。
彼には未来を見ていて欲しいからだ。
自分の世界観に於ける未来を常に見ていて欲しいからだ。

 

性的に歓喜することは誰とでも可能だ、新しい恋をすることも。
格好いい人は沢山いる、誰とでも恋に落ちる。
その人と会話して、深く知り合ってゆく過程は素晴らしく煌めくものがある。
でもそのような情で恋に落ちている「時間」がないのである。
私も元来非常に惚れっぽいので、誰とでも世界観を構築出来る、だから大して目立たなくてもいつでも異性が居るのだ。
これは利点でもあり欠点でもあるのだ。
相手の世界観、相手の世界観に於いての「未来」を思いやったことがあるのかと自問自答するのだ…私はそのような意味で、誰の事も思いやったことがないと気付いた。
誰の事も愛した事がなかったのだとふと気付いたのだ。

 

だからといって今までの遊びや恋、本気の情熱のその全て無駄だったかというとそうではない、だが、随分遠回りをしてしまったと思っている。
例えばこのような物事を文章にする場合、体調にかかわらず大体1時間くらいかかっている(推敲などをしない乱雑な書き方なのでこの時間で済むのである)。
しかしこのような物事を文章にすると考えた場合、大体1日~3日くらい思索(勿論これも恥ずかしいほど乱雑な代物ではあるが…)して、その都度結論を出してから書ている。
漠然と自分自身を見つめる感覚にあたっては、生来の気質故、物心ついた時からこの種の訓練を自動的にしているとも言える…もっとも、社会性は皆無だが。

何が言いたいのかというと!!

たかだかこの文章での「答え」を見つけるにあたっても実は莫大な時間がかかっているのである、実際には1時間の文章を書く場合でも数年、数十年を要しているのである。
これは沢山遊んだ人間だから思う事なのである、遊んだのは無駄ではない、だが時間の無駄であったと思うのである。

 

さいごに
私が浮気に関して言いたいのは、「浮気はやってはならない」「相手が可哀相」ではなく、「自分自身の世界観が崩れるので」「手段ではなく目的の浮気はもうやらないようにしようね」ということ。
一枚の絵は唐突に閃く。
そこに時間感覚は存在しない。
だがその絵を綿密に実際にキャンバスに起こすとなると、実際的にかかる時間がたった数時間であれ…その絵について漠然と「信じて」いた時間は計り知れないのである。
そこで言う「信じて」いた物事とは何か?
それは「自分の世界観」である、自分の世界観を信じている時間こそが人の原動力だからだ、だから自分自身の世界観を信じている時間が長ければ長いほど、夢は具体化実現化しやすいのである。
だからこそ、世界観の補助に互いが成り得る相互的な関係性やパートナーシップというものは本当に大事にせねばならないと私は思うのである、その世界観が崩れるような付き合いは…特に肉体関係に於いては出来る限りしないほうがよいのである。
よって「あるパートナーと共有している世界観が大事ならば、浮気はしないほうが身のためである」と結論づける。


以上!

 

 

 

 

 

 

【創作文】真理を購入する

 

Amazonで珍しいものが売っていた、「真理」と名付けられたその商品の価格は3万円、おお、真理が3万円で手に入るのか!
ちょうど手元に余ったお金と同じだった、私は嬉しくなった、というのも最近は長年放置していたこの「真理」に対する神秘的な内的体験を人生で再び追い求めるようになっていたのだ。
本当に長年、私は自分自身の「真理」への視点をおざなりにしていた。
「真理」を買う3万円で化粧品やら服やら買っていた、ようやくだよ、数百年前の著者が書いたものを読んで感じる神秘的な気持ち、時間を超えて真理に触れているその瞬間自体には、古いも新しいも無いということ…そのような物事に感嘆するようになったのは本当に最近に入ってからなんだ。
という訳で私は「真理」を購入した、Amazonで「真理」を購入し、家に届くのを待った。
Kindleでも購入できますという表示が出たあたり、きっと書物だろうと私は期待した。

 

届くのを待っている1日目、私は考えた。
真理というものは一体何なのだろうか?
でもそれは「在る」と私は言いたい。
およそ全ての書物や絵画や音楽、創造作品と呼ばれる形態を取るものは全て、この真理を追究している。
真理に触れたと思うその時に、全く同時に自己放棄が起こること、その自己放棄が…これもほとんど例外なく、他者への愛に通じているということ。
だから真理とは社会的な性質を帯びたものである。
自分一人が悟ってハッピー、自分一人が金持ちになってハッピー、という類いのものは真理ではないと私は考える。
ここで言う愛とは男女間や親子間の愛ではない、誰かは好ましい、誰かは本物だという類いの愛ではない、愛着や愛情や親切心ですらない。
舞台俳優が感じるような歓喜と自己放棄こそが愛である、純然たる他者への愛こそが真理である。

 

2日目、私は考えた、雨が降っている。
内面の葛藤が終わることは無いのだ。
例えば舞台俳優が舞台を降りたら愛は終わるのだろうか?
ずっと舞台に居たい、そのような人こそ魂の探求の道へ入るのだろう、愛のために尼になったり修道士になるのだろう。
舞台俳優が本気で舞台をやるのなら、毎日稽古の中に居るのだ、画家だったら毎日絵筆を持つのだ、死ぬときまで。
そして思索する、起きている物事の一体、何が真理なのか常に思索する。

 

3日目、私は考えた、今日も雨が降っている、あの人から連絡は無い。
あの人は何をしているのだろうか、新しい女のところだろうか?
本気だと思う人の何が本気なのだろうか?
互いに本気だと思うその瞬間に誰もが本物の本気の人になる、誰にだって恋が出来る…素晴らしくない人なんか居ないから。
それは真理に似ている、真理そのものは一つきりであり、全く同時に偏在している、汎神論は正しい。
正しいという事は即ち…全く以て不完全だと言うことだろう、例外なく全てものもがそうなのだ。
スピノザのエチカを絵にしよう、とあの人に話した。
そういう事が私を一番歓喜させるのだ。
次の絵の話、未来の話…心理学的に言うのならば未来への期待値で対人関係の価値は決まる。
未来への期待値の無い間柄では、どんなに惹かれ合っても刹那的な関係に終始するだろう。
バグダッド・カフェを観る、もう何十回も観ている、恥ずかしくなるほど私はこの映画が好きだ、ちなみに映画というものそれ自体は特に好んでいない。
時間が勿体ないからだ、思索をする時間が削られるからだ、浸ってもよいのだが身体が怠くなる、自ら食らいつくという点では映画より多少時間がかかっても本を読む方が楽しい、真理はどこにあるのだろうか?

 

4日目、今日は新月だ、私は体調を崩した。
熱が出ている…いや出ていない、熱は出ないのに風邪を引いている、たちの悪い体調不良だ…ああ、目的地に行くにはどうしたらよいのだろうか?
目的地への最短の道が私には必要だ、あの人が必要だ。
憧れの人や格好いい美容師、私の周りにも素敵な人は沢山居る、はっきり言ってしまうと誰とだって恋に落ちてしまえる自信がある。
私は惚れっぽいのだ。
前の人の事なんか綺麗さっぱり忘れてしまえるほど、惚れっぽいのだ。
お互いが本物だと思ったらその時にその関係はまさしく本物になる、友人から言われた言葉を思い出す。
「お前は間違ってる、入籍しているのに何故入籍相手ではなく余所の男と肉体関係を結ぶんだ、誠実に生きるなら誰ともセックスするなよ」
正真正銘の本物になる、自分自身の社会性と内面性とを本物にさせる。
だがそこに愛はあるのか?入籍相手への個人的な愛情ではない、件の…舞台俳優の感じるような愛はあるのか?
一般的な愛情では無い、親切心でも無く、自ら湧き出るような喜びはあるのか?
そのような愛のある未来が、社会的な制約の中にあるのか?我慢の中に在るのか?
昨日と今日とが変化しないということそのものに愛はあるのか?
「元奥さんとお子さんに償うんだぞ」
その通りだ、だが友人よ、償いというものが頭を垂れて自らを封じ込めるものだと思っていやしないか?償う場合こそ愛さねばならない、自らの喜びで愛さねばならない。
しかも特定の人ではなく、数多の…全他者を例外なく愛さねばならない。
それが可能なのは、友人よ、君ならば演劇で、私ならば絵なのだ。
…30年以上かけて見つけた人なんだ、絵のために必要な人があの人なんだ。
恋はいつでも出来るけれど、あの人にはもう、巡り会えないんだ。
私は魘されて手を伸ばす、未来へと手を伸ばす。
あの人の目的地は何処だろう?あの人にとっての真理は何だろう?

 

5日目、今日も体調は悪い、腹が減っているにもかかわらず何か口にすると嘔吐しそうだ、まだ体内では革命が起こっていて今までの高貴な女王様が処刑台に上がっている。
民衆は叫ぶ、貴族制度反対!
大丈夫、そしてまた新たな王制が始まるのだ、骸の上にこそ命は成り立つのだ。
私は絵筆を持つ、そして絵を進めてゆく、熱は測っていない(私は低体温気味で熱が出にくい)、私は外に出て働いているわけでは無いので具合が悪ければいくらでも引きこもることが可能だ、迷惑はかけないと私は叫ぶ。
朦朧としていても案外描けるものだと私は叫びながら笑う、視界は歪んでも絵は描けるのだ、これなら死ぬまで描けると頷く。
熱を測るとその熱の表示の通りの反応をするのが人間というものの愚かさなのである、数字や科学、医者などの「他者」だけを盲信した場合、真理はたちまちに自分の内側から無くなってしまう。
自分がまがい物になってしまう、大丈夫、以前40度以上の高熱を出した事があったがそれよりもずっとずっと楽だ、つまり30度台だ…熱はいっそ出た方が楽なのに出ないからしんどいのだ。
もう二度とササミの焼き鳥は食べない、かつて40度の熱を出した発端が生焼けの焼き鳥だった、生焼けの肉で死にそうになったのだ、鳥の死肉如きで死んで堪るか!
強烈な悪寒で震えながら立っていると、骨の髄まで痛むような痛み生じる…凄まじい痛みが在ると私は思うがそれは思い違いで、たぶん癌の方が遙かに痛いだろうと推測する。
このように、残念ながら身体にはいつも限界がある、沢山の恋をして、誰の内にも素晴らしい霊性と真理を観る眼差しのあるのに驚くだろう、恋の度に驚くだろう、だがそれは真理を観る遠回りの道だ、そんな時間は我々にはないのだ。
どんな天才でも一度に2本ないし数本(握れる範囲)の鉛筆を持ってそれぞれの式をそれぞれに回答することは、この肉体を纏っている以上実質不可能なのである。
それと同じで、誰もが素晴らしい人だが、沢山の恋をそれぞれ全く同時に行えるほど人間は器用ではない。
だから私にはあの人が必要だ、あの人の抱える虚無感も、あの人の未来も必要なんだ、私たち二人の真理が必要なんだ。

 

6日目、猜疑心が募る、本当に「真理」は届くのだろうか?
時差があっても届く励ましというものを私は実感している。
真理を観ていて、その「観ている」という主観そのものを励ましてくれるような著作物に私は度々励まされてきた。
時空を超えて著者たちと会ったと言っても過言ではないだろう、本物の作品とは、そのようなものだから。
内職がわんさか届く、「具合が悪くて手がつけられそうになかったら早めに言って下さい」、引き取り人は私の容態を見て(たぶん風邪がうつらないように)早々に立ち去ってゆく、家の壁面を観る、こんな家に私は住んでいるのかと妙に感嘆する。
壁面一つ一つの小さな隆起が広大な野山のように見えたのだ、広大な野山の果てに私は王女のように住んでいる、小さな虫が私に挨拶をする、蜂には言葉が通じるのを私は知っているがその虫は小さすぎる…だが虫は確かに挨拶をしている…その挨拶が、私を励ました遙か以前に死去した人物らに、今、確かに伝わるのを私は秘かに実感する。
スピノザ、マイスターエックハルト、十字架の聖ヨハネ…神秘の宿っている書物というものは本人たちがこの神秘を何よりも重視しているからなのだ、だから素晴らしいのだ、根本的な矛盾と無力さの上に成り立っているから神秘は素晴らしいのだ。
世紀を超えて読み継がれる本というものには例外なく著者たちが個人的に実感した「理屈を超えた神秘」が宿っている。
「哲学よりも科学や物理学の方が神秘が宿っているよね、哲学にはもう神秘がないから…」
そんな話をした、あの人と。
そういう話をしているときが何より楽しいのだ、いつでも毎日次の絵に繋がる話をしたいんだ。
ああそうだとも私は利己的だよ、自分の絵の為になる人こそを求めているのだから…でもその利己心こそが自己放棄に繋がるのだ。
でも全く同時に、あの人の芸術の為になる事をしたいと思っている、あの人の芸術の為になることを私はしたい、あの人の芸術を観測したい。
だって私はあの人を、あの人そのものではなく…だって誰もが弱いただの人間でしかないのだから…あの人の芸術こそを信じているのだから。
あの人の芸術を信じている、あの人の真理は果たして芸術だろうか?

 

7日目…郵便受けを見たらピザ屋のチラシに紛れて一枚の封筒が入っていた、春の日差しが暖かに満ちていた、セキレイが踊りながら唄い羽ばたいて次の居場所へ飛んで行くのが見える。
手にした簡素な封筒には「真理」と書かれている、私は早速開封してみた。
…妙に薄い…中身にはなんと書いてあるのだろう?なんとなく嫌な予感がした。
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あるいはE = mc2  
なんて書いてあるのだろう?
封筒の中は便せんだった、私はそれを広げて唖然とした。

 

『全ての問いに解なし』

 

『大変申し訳ございませんが、商品をお届けすることが出来ませんでした。
これを私どもからの精一杯のお詫びの言葉としてお受け取り下さい。
現段階に於いて、完成したと見なされる事象そのものが、まだ、存在していない事に私どもは気付きました。
式に当てはまる正確な回答というものそれ自体が存在し得ないのです。
よって「真理」を制作、発送することが叶いませんでした、誠に申し訳ございません。
簡単な数式の、その数字すらも揺れ動いていると気付いたのです、未来に向かって揺れ動いているので回答とそれを観測する者との間には常に時差が生じてしまうのです。
完成品というものが根本的にはこの世には未だ何一つないのです。
完成した数式、完成した数値、完成した人格、完成した作品、完成した社会構造、完成した家族、完成した対人関係…
そのようなものはまだこの地球上に実現しておりません。
我々はまだ有史と呼べる事象「以前」を生きているのです。
しかし、私どもは諦めません、物事を完成させるために今日も尚、進み続けます。
したがってこれは悲報ではなく、吉報なのです。
だって世界は、必ず完成するのですから…それだけは確定しているのです。
ですので皆様が個々にご覧になった「真理」というものは確かに実在いたします、これは非常に内面的な物事だと思いますので、皆様が「思い込みである」と各々、ご自身の内側へ押しやったり蓋をしてしまった物事の中にこそ「真理」があります、つまり皆様が個人として見た事象全てが真理なのです。
皆様自身にこそ真理があります。
尚、世界が完成しました時に(あるいは完成という事象が何処か一カ所にでも生じ、それを観測した時点で)、私どもは改めて本編「真理」を制作し、「真理」が完成しましたら無料で差し上げます。

お手数ですが「その時」にご住所お電話番号、国籍、国籍の有無、等ご変更がございましたら、ご面倒かとは思いますが、その時の共通言語でご連絡いただけると幸いです。
密林に偏在する三千世界社より』

 

私は笑った。

つまり私は騙されたのだ!

 

Amazonで真理を買うなんてことがどれだけ馬鹿げているのかようやくわかったのだ、早い話が3万円をぼったくられたのだ。
最近のAmazonのマーケットプレイス制度はいまいち信用出来ぬ、等と思っては居たが…スピノザ先生やエックハルト先生、十字架の聖ヨハネ氏(彼は聖人なので先生とつけるとむしろ品位が下がってしまいかねない)らとの時空を超えた会話に勤しんでばかり居たので周囲が見えなくなっていたのだ、交流が必要だ、生身の人間との交流が必要だ。
レビューはどうやらその手の業者に書かせているらしかった。
…しかし、まあ確かに読み返してみると納得してしまう部分もある。
未来というか現在もそうだ、もしかすると過去も動いている。
携帯を見る、あの人から長い便りが来ていた、その中の一文に「芸術に囲まれて過ごしていたい、カフェギャラリーのマスターなんていいかもしれない」と書いてあった。
こういうことこそ解なのだ、解かもしれない、解になってほしいと望むことこそ解なのだと私は思った。

 

まさにその時、私はとある喫茶店を見た、入り口の戸が開く音も聞こえた、床が少しだけ軋む音も聞いた、私はその喫茶店に「居た」のだ、初夏だった、時代が進んでいる。
奥で誰かが微笑んでいた。
私のよく知っている人だった、あの人だった。
外からの木漏れ日が差し込んでいた、あの人は言った「偶然の繋がりでね…」そのお店に関する偶然性や、人との繋がりについて和やかに語っている。
私は未だ見ぬ使い慣れた杖を傍らに置き、壁に掛かった絵を観ながら珈琲を飲んでいる、帰りがけに少し呼び止められる、あの人は言う「来月遊ぼうよ」、私は笑顔で彼に耳打ちする「抱いてくれる?」。
私たちは笑い合う。

 

…今…

 

たった今、見たこの出来事はそりゃあ、空想だろう。

私は鳥肉にあたって、あるいは熱の出ない風邪で運悪く早々に死んで、この「出来事」まで辿り着けない可能性だってある。
私はたった今、「未来の」あの人に手を振る。
物事に確証は無い。
解はいつでも揺れ動いている。
そして解は、解を見つめるその人本人が本当に「解である」と思わない限り浮かびあがらない。
でもね…私はあの人の解を頷くことが出来るんだよ、肯定することが可能なんだ、この未完の世界に於いてあの人の完成を祝うことが私には可能なんだよ。
あの人の…私の視点から観たバグダッド・カフェをどうか作ってと私は思った、そしたらたまにそこへ寄らせてよと私は、誰にともなく言いながら「真理」の手紙を手帳に挟んだ。

 

確かにこの手紙は「真理」だった、つまり私は騙されていない、これを真理だと思ったのならばそのときにそれは真理になるのだ、真理は売られ、そして私は真理を購入したのだ。
次の絵のために、未来のために。
私たちの未来のために。