散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

京都アニメーション放火事件② 個人の意見表明と悲しみについて(翌々日)

 

京都アニメーション放火事件について感じる自分の意志を書いております。
亡くなられた方のご冥福と、被害に遭われた方の回復を祈っております。

実際の事件について書いたことをネットに載せるということについては、毎回どうしようか悩みますが、やはり一個人として思った事を表明せねばならないような気がしたので載せます。

 

一瞬の人災で多くの方が亡くなられ、貴重な文化が失われる…戦争が起きたらこんな感じなんだろうな…と、ふと気がつくと京都アニメーション放火事件というものが実際に起ってしまったという現実にやはりショックを受けている。
ぼうっとする瞬間瞬間に私は「京都アニメーションがテロ襲撃を受けた」などということを、「束の間の悪夢」のように感じたりもする。
京アニが爆発?」なにそれ、本当のことなの?…と一秒に満たない間に繰り返し、無意識のうちに問うていたりする、はっとして我に返ると本当の事なのだと改めて気付き、喪失感に襲われる。
こんなに悲しいとは思わなかった。
この事件の反応として沢山の人がネット上で言葉を発信していて、それについて不謹慎だとか、被害に遭われた方よりも次作がどうなるのかの心配をする人への反感をあらわにする人も居るし、炎上商法も発生しているが、私は事件についての個々の反応は誰が何をどのように表明してもよいという大前提を心に抱いているので、だから自分も思ったことを書かせて貰おうと決めている。

 

【思った事を表明する事について】
現実に被害に遭われた方が居てまだ苦しんでおられるのに、第三者の気持ちを表明するということ自体についての批判感情を抱く人も居るだろうが…
それこそ、隠す事こそ美徳という精神でしかないように感じる。
だって苦しんで死んでいる人は近所にだって居るのだ、飛び込みだってしょっちゅう起きている、その都度自分を抑えて過ごすのだろうか?
苦しむ姿を見て苦しい、と感じる自分自身の感覚を表明する事自体を抑えてしまうと、多くの人がフラストレーションをさらに溜めることになる、結果的に不安定な社会風潮になるだけだと私は思っている。

 

何を見て何を思ったかについては、正義や正論というものは無いし、悲しみを怒りとして表明する人も居れば、特段悲しくはないので注目を稼ごうとする人が居るのも至極当たり前の話だ。
ネットを見ていて個人的にひっかかったことについて書かせて貰う。
「第三者の悲しみ方」や「表明の仕方」について怒りを表明している方々だ。
何だか敵国に攻められても身内同士で内戦を始めたみたいな感じがしてならない、事象として犯人は一人である。
その犯人を責めようが、次作を心配や期待しようが…それが各自のこの事件への反応なのだからそれくらい許せばよいのに、過剰な正義感をあらわにする人が居るということに私は恐ろしさを感じている、犯人に対して怒りを露わにするのはごく自然な感情で理解出来るのだが、三者への怒りを露わにする事はちょっと意味がわからないので、ネットに物事を書くのが怖い気もする。
三者は実質、何もしていないのだ何もしていない第三者に対し、怒りを向ける第三者というのは構図的に何だか違和感を覚える、行き過ぎの正義思想は統一思想以外を排除する暴力性を必然的に帯びる。
…まあ私とて、第三者へ怒りを向ける第三者…へ向けて理解不能だと感じる第三者でしかないのだが。
…私自身が「事件の犯人へではなく、第三者に向けての過剰な正義感、義憤を持った人」や「第三者に悲しみ方の作法を押しつける人」、の反応を、許せるようになればよいだけの話なのだが…。

 

【悲しみという感情は何処からやってくるのか】
今までニュースを観ていて悲しいと思った事は私には原則、ない。
電車が人身事故で止まっても悲しいとは思わないし思えない、だって見たこともない知らない誰かなのだから…勿論やるせなさは感じるし、死んでしまったのかあと思うと何だかこの社会全体が恐ろしいし、自分の行動や思考を少しでも利他的にすればこういったことは防げるのだろうかと身体の軸のほうで考えたりはする、でも悲しめるだろうか?泣くだろうかと思うと泣けないだろう。
関与したことのない人の苦しみや死、そのものを「社会的義憤ではなく」、悲しめるかと問われたら首を振る、ウイグル自治区問題での強制収容所は今現在でも何万人もの人を収容し、民族を根絶やしにさせようとしているがそれについて号泣は出来ない、「酷い!」と思っても泣けはしない、知らない人についての苦しみはもっと理論の方で考えている。(私は個人が考える事は、それが直接的な解決をもたらさなくとも無駄ではないと思っている。)

 

私が悲しいと思うのは、私自身が欠けたように思うからだ。
自分が少しでも愛したもの、好んだものというのはこんなにも自分自身になってしまうのだ。
だから京アニ作品を観た事のある私は、単に「職場の一階に暴漢が来てガソリンが撒かれ、およそ数十名が一瞬にして空気爆発の状態を経て亡くなった」という事そのものに対して涙しているわけではない。
その数十名(現在34名…多い、、、)が手作業のプロだったから泣いているというわけでもない。
もしこの放火テロが大企業や、国会議事堂で起っていても私は泣かないだろう、優秀な命が失われましたと解説されても平然としている可能性もある、関与感覚が薄いからである、危機感は覚えるし恐怖も覚えるが悲しくはないだろう。
仮にこの放火テロが刑務所の終身刑の人々や、性犯罪等救い難い罪を犯した人たちの身に同様に降りかかり、同様の死者を出したらどうだろうか?
悲しむどころか笑う人も居るだろうし、やはり私も平然としているだろう、特段同情すらしないだろう。
命は平等で、何よりも…アニメの次期とか今後とか資料とかよりも先に人命を貴ぶべきと正義を過剰に叫ぶ人は、もし本気でそう言っているのならば彼等は極悪人が同人数テロで死亡してもそう言えるはずである…まあ言えなくてもいいのだ…彼等だって京アニを好きなのは私にもわかるから。
少なくとも私は命は平等だとは言えない、つまり私にとって命は不平等であり、命は関与感覚によって価値が左右される。
でも今、京アニの34名…と打ち込んだその時にもう私は、ずしんと重い何かを感じている、34名…と打つだけで悲しい気持ちになる、信じられないけれど数字自体が重い。
物理的に私は彼等そのものを知らない、一生対面しない相手だったのだ、でも対面していた、アニメの中で関与していたのだ。
だからアニメを全く観ない人とか、興味無い人とかにとってはこれはただのテロであり、悲しみというよりも単なる危機なのだが、私には明確な悲しみだった。

 

私の後天的資質の一部がアニメで出来ていたのだと強く再確認させられる出来事なのだ。

 

京アニ作品は深夜アニメ枠の中のジブリのような存在だった、私にはそうだったというだけだが、他の会社の冒険作品を観たあとの口直しみたいな作用があった、口直しというと言葉が悪いけれど、絶対の安心感が京アニの絵にはあるので、在る意味ドラえもんちびまる子ちゃんみたいな感覚で観ていた。
ドラえもんちびまる子ちゃん、というと子供時代を思い出す人も多いだろう、ドラえもんちびまる子ちゃんの中ではキャラクターが強姦されたりすることもなく、根底的に平和であり、完全な世界観がそこに投影されている。
それが観る者の安心感に繋がり、情緒的にも安定した作風になる、京アニも多くのアニメ制作会社の中では抜群の安定、安心感、加えて絵の綺麗さがあった。
暴力表現もなく(…初期作品には元気の良すぎる女子みたいな表現はあるし…辛い場面もあったりはするが、毒そのものはない。)、キャラクターが死ぬこともなく(…あるか)、意味不明なエロ連発とかもないし、媚びすぎる表現もない。
美しい綺麗な世界、根源的な悪人の居ない世界…私がアニメを(全くどっぷりではないのだが)自然と見始めたのは20代に入ってからだった、若いうちは正直、綺麗すぎると思って辟易する事もあった。
アニメの世界やキャラクターは極限まで傷つくことはないし、アニメというものは夢物語だよね~と思ったりもした、その夢物語に自分自身を見いだしているとも知らずに。
ちょっとした気晴らしというものが、どれほど自分自身を形成しているかも気付かずに、私は京アニ作品を観ていた。
夢物語を現実に観て安心するという行為そのものが、どれほど自分を変化させたのかわからない。
ドラえもんちびまる子ちゃんの会社がテロを受け、ドラえもんちびまる子ちゃんが唐突に消滅したら、きっと多くの人が喪失感を覚えるだろう。

 

絶対の安全を誇る何かが凄惨な被害を受けるなど、あってはならない事のように思える。
そのあってはならない事が起ってしまったのだ、今もふっと、一瞬集中力が切れ、私は亜空間に飛び去って自分に問う、「京アニが甚大な被害を受けたって本当?京アニじゃなくて別の何処か、よく知らないアニメ会社の話じゃなかったっけ?」、そして私ははっとして首を振る、あってはならない事が起きたんだ、これは悪夢じゃなくて本当なんだと思ってうなだれる。
アニメはここ1~2年はすっかり観なくなっていたのに、20代からの10年ほど…つまりM氏と過ごしている期間、彼の流すアニメにこれほど影響を受けていた自分に気付いて戸惑っている、M氏のもたらしてくれた恩恵でもあるのだ…。

 

キャラクターたちの居る世界を今、直視出来ない、今はまだ京アニ作品を観ることが出来ない、何故かというと京アニ作品の世界というのは美しく…観る者の現実を忘れさせる効果があるから。
あまりにも誤差があって、作品の完成度が高いので作品内の世界観こそを本物だと思いたくなってしまうのだ、そして作品の美が内包するのは絶対の安心感である、それなのに…。
それなのに、現実には凄惨な出来事が生じてしまった、原画ももう無い。
私が悲しいのは原画が無いことではない、サーバーが焼けてしまった事ではない。
私が悲しいのは厳密に言って、従業員の方々に対する個人的感情では、ない、手を合わせてはいるし、数字を入力するのも重いし泣きたくなるが、厳密に言うと個人個人に対して心配や情を感じているわけではない、だって知らないのだから。
知らない方が亡くなって、本当に悲しめるのかと問われても私は首を振るしかない。
でも現に悲しい、それは何故か。
キャラクターの故郷が焼き尽くされたから…というのが一番近い感覚だろう。
あの子たちの故郷が理不尽にも、よりによってあの子たちの故郷が、暴力によって破壊されてしまったという虚無感だろう。

 

【肉体外繁殖、第六感でのアニメ鑑賞】
ここからは超独自概念だが…私は思った事を表明すること自体を是としているので書かせて貰う。
鑑賞者が愛おしいと思った作品というものには作り手の、目に見えないDNAみたいなものが付随していて、鑑賞者はその人たちのことを無意識、というよりももっと果てしない第六感のような場所で「慕う」という仕組みが人間には備わっているのではないか、ということを考えている。
これは異文化間でも頻繁に行われる体外交流、新概念の発生ではなかろうか。
人間は肉体でも生殖を繰り返すが、肉体以外…つまり美意識や概念といった脳や霊の部分でも相互補填をし、新しい美という「肉体を持たない概念体」を「実際に」創り上げているのではないだろうか、肉体以外で繁殖しているのではないだろうか。
芸術愛好家、美術愛好家、アニメ愛好家…呼び名はなんだっていいのだが、作品の鑑賞というものはただの情報のやり取り以上に、人間の未だ知覚しない部分で増殖したり進化したりしている…肉体を持たない繁殖行為なのではないだろうか?

 

私が京アニのスタッフが亡くなられた…ということにこんなにも悲しむのは、美の「産みの親たち」が亡くなってしまったという強烈な喪失感であり、言うなれば京アニを観ているときの私というのは京アニの美の概念という乳房を吸っている赤ん坊のような状態なのかもしれない。
だから親が死んでしまったような言いようのない喪失感を覚えるのかも知れない。
アニメ画面の向こう側に糸が繋がっていて、作り手と同じ命の海に居るということを第六感で知覚していて、だからこそ「この安心感は本物である」と今まで思っていたのだが、今京アニを観ても「作り手の波動」が知覚出来ないので「この安心感が覆された」と第六感が判断し、余計に矛盾と悲しみを倍増させるので、今京アニを観ることは出来ないのかもしれない。
こんなふわふわした個人概念を現に甚大な被害を受けた方がまだ苦しんでいるのに書くなんてと思われる方もいるかもしれないが…
私は悲しい、というのが私の表明であり、この悲しみがどこから来るのか、何と違うのか、ということを追求して表明すること自体を私は是としているだって…

 

それが生きているということだと私は思っているから。

 

【感情表明の是非】
悲しみをまき散らすのはよくないとか、怒りをぶつけるのはよくないという意見もあるが、私は悲しいのだから悲しんでよいと思っている。
悲しみが増幅し、大変な事になる等と言う人もあるが…悲しみは目に見えるだろうか?
悲しみが沢山になると社会がパニックになる!!!という恐れを根源的に抱いている気質の人も居るようだが…そうなったらなったで、このような反応が起きたというそれだけの話だと思う、どうも感情そのものを怖がる人が多いような気がする、これこそが…フラストレーションの起爆剤となってしまうし、文化的にもそのよな素質のある場所こそが、日本という国なのだろうと改めて感じている。
土地柄、喜怒哀楽は隠す事こそが美徳であり、行動しないことこそが敬意を示す最も的確な行動であると無意識のうちに教えられてきたので、事件について第三者が書くのはよくないとか、悲しみをコントロール出来なくなるという意見もあるが…
それは礼節の話であって、情の話ではない。
情を表明出来る時代に既になっているのだから、誰が何を言おうと「許されて」いるのだ、勿論これは恐ろしい事のようにも思えるが、実際には少し違うと私は思う。

 

実際に怒りをぶつける、怒鳴る⇒×
「○○しね」等と発言する⇒×
「自分は怒っています」と言う⇒○
「自分は○○について怒っています」と的確に述べるのであれば、その対象が何であれ、それは個人の自由なのでどうしようもないのだ。
自分の感情そのものを言葉にすることは誰にでも許されるべきであると私は思っている、だから京アニの次のアニメ作品についての気持ちや、過去の資料というものへの興味そのものを押さえる事は、特段、倫理に反さないと私は思っている。

私は怒っています
私は悲しんでいます
私は戸惑っています
私は喪失感があります

これを言葉の上で表明するのは何の問題もないと私は思っているし、この点の自由は保障されるべきだと感じている、不謹慎な発言もあるようだが特段過剰反応する必要は無いと思う。

 

【ストレス値】

戦争というものは大規模なフラストレーションの爆発である、表面上は利害があるからこそ行われる行為だし、戦争を決断するのは上層部であってフラストレーションをため込んだ民衆ではない。
だが…守るものの何一つ無い無敵の人の起こしたこのテロは、実は誰の中にも起爆剤があるのではないかと私には思えてしまう。
彼の書いたとされる文章を読んでも意味がわかるようなわからないような感じでしかないが(私の文章もそんなもんだが)、彼は書き込みだけが表明の場だったのではなかろうか。
全く同情しているわけではない。
精神疾患があるから凶行に出たと言うが…どっちが先かという論争になりそうだが、私は、窮地に追いやられた人だから精神疾患になったのだと考えている。
その人が悪くない等とは一切思っていないが、何だかんだで憤りが溜まる状態だったからこそ爆音を鳴らしたりしてそれを和らげていたのではないか。
勿論この人を救うなどということは誰にも出来ないだろう、個人の力の範疇を超えている。
この犯人のような人は何処の年代の何処の地域にも本当は居る。
私だって追い詰められれば凶行をするかもしれない、精神疾患に陥ってしまうかもしれない、常人と狂人の境目は不明だが、ストレス値の高さを定期検診で測るとか出来ないのだろうか?
ただこれを悪人探知機のように使うのではなく、ストレス値がどれくらいか「本人が自覚」把握するという社会システムにしたほうがよいと思う。
自分が風邪をひいたのかそうでないのかを自覚しながら生きるという社会常識が必要のように思えた。

 

【被害を受けるということに纏わる喪失感の共有共感】

ガソリンの引火や、何か凶行について防御出来る術はほぼ無い。
私は子供の頃襲われたときに、自分が何の悪いことをしたのか、何の「隙」を見せたのか、どう誘惑したのか、幾度も考えたが結論が出ないまま数回被害に遭った。
でも今私は、個人的に何処か納得している。
京アニのキャラクターたちですら…外の世界で故郷を焼かれたりするのだ、それくらいこの世は矛盾に満ちているのだ、なんか、不謹慎極まりないのだけれど、私は人生の謎が解けたような気がしている。
と同時に、多くのアニメファンの心が「外部からの不条理な攻撃」に傷ついているということそれ自体に…
なんと言ったらいいのか、善くも悪くも、「こういうことがあるのがこの世なのだよ」と、唐突に襲われて傷つくということは起るし、その傷が癒えることは無いし、恐怖は恐怖のままだし、それがこの世界なのだという…今まで私が若い頃に孤独に抱いていた自分だけの理不尽さが急に、今になって多くの人に理解してもらえたような気がして、何故か、悲しいのだが、癒やされている。
おかしいだろうか?

 

自分が元来抱える喪失感を、多くの人が抱えるようになった事を、私は、この世というものが解せないものだということに関する理解者が増えたように思い、そのこと自体に関しては…言葉が見つからないのだが、不適切かもしれないけれど、安心していると言ってもいいかもしれない。
可愛いものや可憐なものを見た時に、それを壊されまいとする心理が働く。
全く同様にそれを壊したいという心理が働く。
あってはならない事だったが、それが具現化されてしまった、それは私にとっては私の子供時代こそがそこに当てはまっていた。
帰宅すれば何事もなかったことに出来るだろうか?両親に黙っていればいいだろうか?そう何度も考え、「これは悪夢なのだ、こんなことが起こるはずがないのだ」と何度も、この世こそが夢であり、あってはならない事が起きたのは幻だと感じてしまっていたが…今はようやく納得出来た、何故か。
それは、破壊の悲しみを多くの人が共有しているから。
悲しみを表明しているから、私は救われたのだ。
あってはならない事が起ると人間は混乱する、だが…超個人的には、私はこの世には理不尽なことが起るとようやく納得出来たのだ。

 

多分明日目が覚めても私は戸惑うのだろう、「よりによって京アニが襲撃を受けたなんて…私寝ぼけてるのかな」と、一秒に満たない朝のまどろみの中、自問自答するだろう。
そしてこの先半永久的に、京アニがテロ放火されたこと、34名、と打つそのときの数値の重み、キャラクターを見た時に感じる被害者というキーワードに、喪失感を抱き続けるのだろう。
悲しみは表面上は癒えるし気にしないようにはなれるが、喪失感は死ぬまで続く事を私は既に知っている。
これは日本の悲しみである。
戦中を生きた方の言う戦争の悲しみに近いのではないかと思う、被害というものは…本人が思う以上に、軸の部分に触れているのだ。
戦争ではないが…アニメ作品という、情緒世界が破壊された悲しみである、それを私は、無意識的には一生抱き続けるのだ。
こんなものが癒えるはずはないのだ、今は、それでいいと思っている。

 

 

 

 

 

 

京都アニメーション放火事件について① 超個人的感情と概念上での解決策(事件翌日にて)


意外なほど悲しいので飛行機を観に行った、京都アニメーション放火事件について、それそのものを書こうか書くまいか迷ったが、遠ざかる尾翼を見ていたら、今のうちにこの惨事について言葉にしておきたい気がした。

(注:事件の主観的な部分は前半に、倫理的な観点については後半に書いています。全体的に自分の主観に於ける暴力と暴力の昇華という観点から感情的に書いているので事件に対しての直接的な記事ではありません。京都アニメーションを(頭の中では話し言葉で考えているので固有名詞の性質上)京アニと略している箇所も多々あります。被害に遭われた方のご冥福をお祈りいたします。)

 

【前半】超個人的感情

ガソリンの気化と爆発による恐ろしさ、最早ナザールボンジュウ(トルコのガラス目玉魔除け)でも掛けておくしか予防方法の無いような…ほとんど防ぎようのない逆恨み、三次元の物質というものはそれが感情であれ物であれ数値であれ回転速度が一定以上を超えてブレイク状態になると自然崩壊するという私自身の思想(妄想)が入り混じった状態で昨日の、アニメスタジオ放火テロ事件について考えては居た。
昨日の段階ではまだ悲しいとかいうよりも、暴力性について考えを巡らせてはため息をついていた。

 

今日の朝目が覚めたとき、自分が何処の誰かも曖昧なまどろみの瞬間に既に悲しみが広がっていたことに自分でも戸惑った。
目覚めた瞬間の頭で私は自分に問いかけた、私は何を悲しんでいるのだったっけ?
誰か近しい人、誰か近しい可憐な何かが何処か遠くへ行ってしまったというような気がした、「誰か死んだっけ?」「近しい人の葬式の翌朝だったっけ?」、と思って起き上がるとM氏も寝起き早々無意識のうちにうなだれているようだった。
私もM氏も、自分たちにとって共通の愛らしい何かが死んだような気持ちになっていたのだった。

 

私は元々あまりアニメ自体を観る方ではないし、京アニを齧り付くように観ていたわけでもないのだが、私の京アニの思い出というとM氏と生活するようになってからアニメというものに触れるようになったので、いわば「家に怖い人(父)の居ない安心感」「好きなものを自由に観ることの出来る安心感」が、私の思う京アニのイメージである。
テレビを観るといったら、M氏も私もバラエティなどはほとんど興味が無く、年代的にも必然に「普通に」アニメを観て過ごしていた、文化のうちの一つとして、親元を離れてからは部屋で流していたのだ。
アニメといものは「誰かの監視を逃れた先」での安心感の象徴のような感覚なのだ。


とはいえ私は実際には自分からはあまり観てはいなかったのだが、それでも、京アニの制作するアニメの安心感や可憐な少女たちは遂に私の魂と知らず知らずのうちに一体化していて、私自身はそれに気付いてすら居なかったのに、こうして制作スタッフの方々が亡くなられ、現場も凄惨な状態に焼き尽くされるとまるで、自分自身が焼却されてしまったかのような欠乏感を覚え、驚いている
悲しみを覚えている自分に驚いている。

 

昨日知った悲しみが、一日眠って回復するどころか体内をさらに深く駆け巡り、こんなにも自分を浸す事になるとは思ってもみなかった。
ウイグル自治区の痛ましい状況とか、海のプラスチック問題とか、それを報道しない日本の報道についての憤りみたいなものを直訳するのであれば義憤と呼ぶべきであろう、そのような(勿論私なりの)義憤はニュースを観ると大抵湧き起こるのだが、ニュースを観ていて極度に悲しいと思った事はそういえば、今までの人生のただ一度たりともなかった。(震災は悲しいというよりも現在も続く危機であるので情緒の範疇を超えている。)
ネットのニュースを観ていて悲しんでいる自分に驚いた、昨日の私だったら悲しみを割り切ろうと努力しただろうが、悲しみというものが自然な反応であると今日の私は思った、それほどに一夜経っただけで私は変化してしまった。

 

アニメというものは手作業である、作画や制作スタッフが大きく異なれば…やはり何かが違うと気がついてしまう。
その微妙な線のずれ、いかに「リズムを楽しんで描いているのか」という表現力、繊細さや緻密さはともかくあの踊るようなリズムで描かれたキャラクターたちを観て先ず感じるのは喜びの感覚だ、京アニ京アニたる由縁はこの喜びに宿っていると私は感じていた。
絵を描く人ならわかるだろう、無理矢理素早く描かされた絵は描いたというよりも、それがどんなにデッサン的な均整がとれていても「書いた」という感じになってしまうことを。
京アニにはそれが無い、私も全てを網羅しているわけでは全くないし、私自身の観るアニメといってもその実攻殻機動隊を繰り返し観ているに過ぎないのだが…京アニの映像作品をM氏の肩越しに観る場合、およそどれを観ても根源的に楽しんで描かれているのがわかる。

 

ここから先は私の独自思想なのだが…だから、京アニの制作の場所のエネルギー回転速度が三次元には耐えられない状態になっていたのだろうか?
絵も話の内容も、何もかもが綺麗で描き手も喜んでいないと描けない絵柄なのだ。
一点の曇りもない状態であったがために、表面上は大惨事という形で崩壊せざるを得なかったのだろうか?
仮にとんでもない、目も当てられないような駄作を出していたら、京都アニメーションという場所のエネルギー加熱は収まり、このような事件は起らなかったのだろうか?

 

昨日ちょっと書いたように、人間対人間が対面した時というのはその場の均衡を取ろうという必然的なはたらきが生じてしまうものである、だから綺麗なものや、あまりにも完璧なもの、曇りの無い少女たち…という京アニの要素が、それに対峙した人間を敢て真逆の行為に向かわせてしまったのかも知れない。
倫理的に普通に考えれば創作者と、社会的には非創作者の間の歪みによる痛ましい事件であり、情状酌量の余地などこの世の質量で言うところの果てしなく0、であるのだが…均衡を保つために逆の行為で穴埋めをするという人間の感情的仕組みを考えると、綺麗すぎたから、真逆のむごたらしい現象が引き起こされたようにも感じる。
綺麗な物や穏和なものが圧倒的『正』を担っているとすれば、むごたらしいものや禍々しい人物というのはまさに、京アニのキャラクターの少女たちの真逆の存在、すなわち『負』の存在である。
犯人の自覚する表面的な動機の整合性はともあれ、俯瞰した目で見ると、崩壊と、気づきが起きたのだなという気がする。

 

気付き、と称するのは何故かというと、多くの京アニ視聴者もそうだと思うのだが…私にとって何が自分自身であって、何が外部であるのかの境目や範囲が意外にも広かったという事実についての気付きである。
作品は永遠なのでキャラクターたちは半永久的に踊り続けるだろう、それでも私は今、京アニ作品を観たら、自分の大切な何かが死んでしまったように思えて号泣するだろう。
明確にこの種の気持ちを表わす言葉が見つからないのだが、私は作品という物が何をもってして完成するのかという事について常々、作り手と鑑賞者双方の愛であるという風に考えている。
愛していなければそれは作品以下であり、愛していればそれは…レベルはともかく作品なのである。
作品自体に嫌悪の対象を投影したりする手法もあるにはあるし、そのような毒をフラストレーションの通り抜ける点と考えるのならば、それもまた作品の在り方ではあるのだが、私自身、自分自身を悪く醜いものとして作品上で投影された事が在るので(そのことについての倫理的な解釈は省く)、この手法の作品作りは作品以下であると思っている。
となるとやはり京アニの作品というものは正真正銘、作品なのだなと感じる。
キャラクターたちを観ていて私の思う感覚は娘や息子に近いのかもしれない、実際の子供は私は苦手である、作られたものだからこそ生じる不可思議な可憐さを帯びている、だから人形にも目覚めたのだと思う。

 

内職の担当者がやってきて荷物を置いて行く、彼も何処か悲しげなオーラを放っていたので何となく、「京アニの事件、悲しいです…」と話す。
彼も凹んでいるようだった、ゲーム会社や制作の会社というものはしょっちゅう脅迫状を受け取るらしいが、まさか本当になるとはと話す。
「なんだか、キャラクターが居なくなってしまったようで…こんな考えはおかしい事はわかっているんですけれどね」と私が言う。
すると担当者は毅然とした様子で向き直って言った。
作品は不滅です、キャラクターは生きていますよ
彼のはっきりした言葉になんだかはっとした。
それを肉声で対面して言われたので魔法のように強く響いたのだ。
気持ちを正直に話した事により、彼も恥ずかしげも無く正直に答えてくれたのだ。

 

悲しいときや怒りの時にそれを抑えこむよりも、態度には出さずとも、「言葉」に訳して「自分の感情状態を冷静に」伝えるということは仕事上でもやったほうが効率が良いと思う。
悲しい気持ちですとか、怒ってますとか、今日は元気ですとかを言葉にしたほうがわかりやすい。
対人関係の誤解というのは双方が何を的確に考えているのかが、時に自分自身ですら不明確であり、開示せずに居るということが余計な問題を引き起こしているのであって、開示してしまえば何てことはないものだと私は思っている。
怒りや悲しみの開示は特段駄目とか弱いとは思わない、情というものの本質は開示という性質を帯びているので隠しようがないからである。

 

悲しみを宥める一番の即効性特効薬を知っているだろうか?
それは土である、土や草といったそのままの地面を踏みしめて歩くと、身体の中の悲しみがさらに循環し、詰まっている物が出やすくなり、回復が早まる…と私は思って(妄想して)いるので、悲しいことややるせない事があると私は土の地面を歩きに行くことにしている。
悲しみに付随して暴力感情が渦巻いて居たら飛行機を観るとすっと治まるので、特に自分自身の暴力欲求に喘いでいる日や、やりきれない、やり場の無い怒りや義憤、そういう暴力という運動と悲しみが連携しているときには飛行機を観に行く。(飛行機を観ている女ってあまり居ないが気にせず観ている。)

 

飛行機というものの何が素晴らしいかというと、「暴力の昇華」を体現した存在であるように思えるからだ、飛行機自体がロケットに次ぐ極度のエネルギー物体であるということが、私の暴力感情と暴力というエネルギーの昇華を連想させるのである。
飛行機のエンジンに人が素手で触れたら大変な事になるし、回転するプロペラに巻き込まれたら死ぬだろう、そのような人間を超えた動力…すなわち暴力とすら言って良い熱量で空を飛ぶ代物なのである。
鉄柵の向こう側に広がるなだらかな滑走路に、一羽、のように見える一体の飛行機が進み出てくる、印のところまで来るとエンジンを強烈に稼働させて「機体の発する合図を待ち」、その合図が出て、エンジンの回転速度が一定を超えると周囲の空気は振動する。
離陸時のエンジン音はどうしてか音楽的で情緒に溢れている。
限りなく暴力に近いのに暴力にならず、前進する力として活用されている、それが私の心の琴線をどうしてか刺激し、涙が出そうになる。
飛行機が唐突に滑走路を滑り出す、観ている側からは不安になるような圧力でふわりと空に舞い上がる…どうしてこのような摂理が世の中の全てに当てはまらないのだろうか?
悲しみとも情ともつかない何らかの切望を私は感じ、私は静かに、遂に立ったまま涙を流していた、涙は草の茂る地面に落ち、小さなバッタがこちらを見ている。

 

どうして自分はこのように生きられないのだろうか?
あるいは出来るのだろうか?
本当は暴力性を稼働エネルギーにする事は容易いことなのだろうか?

 

飛行機は乗客を乗せて亜空間へ飛び去って行く、私には知覚出来ない空の上に人を攫って行く。
するとまた次の乗客たちでいっぱいになった飛行機が、地上から人をつまみ上げ、空の果てまで乗せてゆく。
まだ生き残っている数少ない手仕事のうち、日本で最も有名なもの…それがアニメである、亡くなった制作職人の方々は「作品が完成」してしまったので次の世に行ったのだろうか?
連れて行かれてしまったのだろうか?

 

見上げると曇天から光が漏れ、太陽の帯が地上に降り注いでいた。
絵みたいな青空が雲の切れ目から輝いている、「京アニの背景みたいだ」、と私は呟き、悲しみが少しずつ癒えていることを自分に言い聞かせながら帰宅したのだった。

 ーーーーーーー

【後半】※京都アニメーション放火事件、これは事件というよりもテロ襲撃である。

社会的表現が可能か否かということがフラストレーションの引き金になっているのだろう。

犯人の動機の表面上の整合性についてはほとんど意味不明だが、犯人同様の「表現手段を持たざる人間」の抱える社会へのフラストレーションは案外多くの人が潜在的には理解しているのではないだろうか?

自分が何をやっても世界は変わらないというようなフラストレーションの事である。

このフラストレーションをやりすごすには「こんなもんだよな」という諦めの感情と向き合うことになるが、それだけでは本心をひた隠しにしているに過ぎないので問題解決には至らない。

例えば、苛々している人とかが根源的には全く納得していないのに仕方なく何か作業していて、尚のこと苛々し、周囲が迷惑するという状態を引き起こす…この状態は何処の家庭でも職場でも恐ろしく頻繁に起きており、誰も気に留めないが原理としては、京都アニメーション放火事件と同じ仕組みだと私は思う、実にありふれた怒りの爆発なのだ。

無力さの爆発なのだ。

実際問題、創作というものを突き詰める場合、こんなもんだよなという段階で終わらせてはならないので余計にフラストレーションが溜まったりもするし、自分にとっての完成というものが人間関係のどのような地点に到達した状態を言うのかも定かではない。

だから無力による逆恨み感情(自分自身の)というものに対しての対処法があるとすれば、闇雲に成功するために努力して頑張るなどということよりももっと根源的に…自分の感情を素直に見つめ、それを言葉にする訓練を多くの人が(勿論私含め)したほうがよいと思う。

その言葉を冷静に人に伝え、冷静に言葉と言葉で「どのような感情状態か」をやりとりするだけでフラストレーションというものは癒えてゆくものであると、私は今日強く実感した。

また自衛という概念についても思うのは、いくら自衛してもこのような崩壊の摂理は起るときには起ってしまうのだ。

私は道ばたを歩いていて襲われたことが度々あるので、普通に出勤して呆気なく死ぬ、ということが実際に起ることを実感している、よって事件の凄惨さそのものには実はあまり驚いてはいない。

悪い物を引き寄せる人は何か原因があるのだとかいう思想もあるが私はそうは思わない。

ヨレヨレの服を着ているよりも綺麗にビシッと決めたほうが痴漢されにくいという原理は確かに実在しているが…職場の一階に不審者が乱入し、二階よりも上で作業に没頭していた人たちが逃げ延びる事など到底不可能である…特殊訓練を受けた自衛隊でもない一般人が、気化したガソリンによる爆発から逃れる事など出来やしないのだ。

どんな人物であれ黒煙を一口でも吸い込んだら喉は焼けてしまう。

これは何処の誰だって防ぎようがないのだ。

またガソリンの揮発や沈殿について知れば知るほどにガソリン販売を容易くしないでほしいというような気持ちにもなってくるが…それだと包丁も危ない、ハサミも危ない、ペンも危ないという阿呆のような連鎖が続くだけなのだ。

危険物が危険なのは当たり前だが、危険物が本当に危険性を帯びるのはフラストレーションと繋がったときである。

だったら危険な事件の【社会全体の】解決策としては、フラストレーションのやり過ごし方を各自覚えて訓練した方が話は早い。

繰り返しになるが、世の中のアクシデントを未然に防ぐ解決法としては、フラストレーション感情のやり過ごし方を誰もが訓練することが必要な気がする、つまり「自分の感情状態を言葉にして冷静に互いに伝える」事が重要だと思っている、喜怒哀楽を冷静に伝える事が、凄惨な事件やケンカを引き起こさない鍵であると私は信じている。

勿論人間が生きている限り死ぬという出来事やぶつかり合いは避けられないし、この解決策も包括的すぎてただの空論に聞こえるかも知れないが、自分の感情について言えるようになれば不要な厭味などもなくなるわけで、それが文化になればもっと過ごしやすい人間社会になるのではないだろうか。

義務教育時代からこの訓練を積めばもっと話しやすい社会になるのではないだろうか?

フラストレーションすら、暴力すら、元を辿ればただの運動エネルギーなのだ。

しかし情だけは自分だけではどうすることもできない、だから喜怒哀楽は言葉にして「態度ではなく」言葉にして他者に冷静に伝えるということを本気で、いつも心の隅に置き、自分でも訓練した方がよいと思っている。

暴力性を稼働動力にする方法を考えつつ、先ずは自己開示ということを優先したいと思っている。

 

怖い人、悪い人、の引き起こした事というよりも、潜在的には多くの人の無力感を表わすような事件であったように私には思えてならない。

 

 

 

鶴の刺繍、生命とはバグなのです。

 

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鶴の刺繍

お針子地獄と呼ばれる亜空間に梅雨の間しばらく居ました、私は自分は針というものがひょっとしたら怖いのではないかと危惧していましたが、縫え縫え縫うのだと見えない影にせっつかれてこれを仕上げたのです。
知っている情報と、未知の情報というものが世の中にはある、と私は思っているのです。
その点から言えば刺繍については私の遺伝子が知っていたのでしょう、勿論この刺繍を販売しようとしたらあまりに素人臭くて値段なんてつかないでしょうが、情は籠もっているのです。
あの人は鶴という名前だから鶴が、明星の灯りに向かって飛び立つのをイメージし、数種の糸を使って縫ったのです。


この刺繍の鶴の大きさは、ちょうど男の人が手を広げたくらいでしょうか、あの人に持っていたかったからそうしました、それより大きくても小さくても嫌だったのです、だってあの人にあの時、御守りに手渡すものとして作ったのですから。

 

私を構成する身体が知っている情報は糸と針でした、それが解っただけでも儲けものです、この刺繍に縫われた明星よりももっともっと遠い海の果てから私は来たのです。
荒波が何度も私を攫い、宇宙の運動の海に引へと戻しました、本当はもっと色を揃えたかったのです、渋く、明るい色を、そうしたらどこぞの民族衣装のようになった事でしょう。
刺繍については見よう見まねで出来ましたが、これが平面裁断で洋裁をやるとなると歯が立ちません、私の細胞には型紙から服を作るという概念は無いようでした。

 

もし生命が、何の予備知識も無しに、何一つ知らずに男女のペアで何処かに流されたとしたらどうなるのでしょう?
そのうちの女の方が私であったら、私は自分の身体に備わっている知識を超自然的な力で三次元まで引き下ろすのでしょうか?
相手の男とセックスをし、道具さえ在ればふとした閃きで刺繍をするのでしょうか?こんなふうに習わずに縫い始めるのでしょうか?
私は海水から上がって、今居るこの場所が最果ての地であることを知っているのです、そうです、知っているのです、これが未知の情報というものです。

 

この最果ての地の土を穿って作った庭に、夏に咲く涼しげな花が今、その生命の絶頂期を迎えています。
蜂が蜜を美味しそうに舐めたり蓄えたりしています、彼等の運動を邪魔してはなりません、蜂には言葉が通じるからです
蜂は怖がりなので睨み付けたり、こちらが過剰に怖がるのを厭います。
その代わりに『大丈夫だからね』とか、蜂のそばを通る時には『ごめんね、気にしないでね』と声をかけます、蜂に言葉が通じるということを私は身近な人に知らせているのですが、なかなか誰も信じてはくれません。
…考えても見て下さい、以心伝心は人間に限った事ではないとすぐに気付くでしょう、だから瞬間的に蜂を怖いと思ってしまった時にほど、小さく優しく、蜂の『気配』に向かって言葉をかけるのです。
そうすると蜂は何事も無かったかのように飛んでいってしまいますよ、鳥のように。

 

以前からその鳥の鳴き声がすると私は心で呼応することにしています、恐竜のような鳴き声の主は青鷺です。
青鷺が厳密に何を言っているのかの判別なんてつきません、私とて、言葉ではありがとうと言っていても別のことを腹の中で考えていたり感じていたりするものです、青鷺の言葉はわかりませんが彼の心の呼吸はわかるのです。
最近になって青鷺の呼応に手応えを感じるようになりました、ボールが跳ね返るみたいな感じですよ。
え?
これが世の中の何に役立つのか?ですって?
人間社会で言ったら無益も無益でしょう、蜂や鳥とお喋りしているなんてただの阿呆です、でも知覚出来ないはたらきというものがあるとしたら?
それがある、と仮定しましょう…電波だって目に見えないものです、音だって目に見えないものです…とはいえ音に関しては色を強く纏うので目に見えると言えなくも無いのですが。
そういう目に見えないようなあいまいなもので世界は構築されています、目に見えない運動の痕跡と渦で世界は構成され、相互的に否が応でも補填し合うのです。
それは暴力だって同じ事なのです。

 

暴力といえば…私はこの前酷く狼狽しました、件の先生の所へ行くのがとても辛い時があるのです。
それというのも私は結局、自分の情熱だけで創り上げた物事を信じる積極性が無いので、情熱的であった自分を恥じてしまうのです。
この前診療所に行ったその時もまた恥じ入っていました、傍目には平静を装ってもあの瀟洒な建物の中ではより一層、初恋というものがこんなにも人生の遅くにやって来るということに我ながら恥じ入っていました。
終わった初恋に恥じ入っていたのです、私がありったけの情熱を込めて開示したものを冷静に見られるというのは…もしそれが作品を販売する側と購入する側のやりとりだとすればさしたる矛盾もないのですが、人間対人間の情の行いであったために、私からすると、自分が支払い過ぎている状態だったわけです。

 

勝手に支払ったのですよ、情熱に浮かされていたので至極勝手にやったのです、エネルギーが溢れてどうしようもなかったのです、でもふと恋の波が収まってくると…物事は物々交換であるという囁きが私を貫いたのです。
私が彼の内面を知る事はないのです。

 

この前、丁度そうやって気恥ずかしさに耐えていたとき、目の前を小さな子供が歓声をあげながらぐるぐると走り去ってゆきました。
建物内を走り回っていた彼は特段、誰にも諫められず、まさに天真爛漫といった様子で笑っていました、子供が笑って居るという事はすぐに泣き出す危険性もあるということです。
危険性?
一体何が危険なのでしょうか?
そうです、私の暴力の渦が発動する危険が迫っている、ということを私は影に告げられ、さらに自分を抑えたのです。
もう耳元には鈍く重い音が響いていました、父が子供を殴るまいとして代わりに、サンドバッグを一心不乱に殴る音がすぐ横で聞こえ、その時に先生に呼ばれたのです。

 

扉の向こう側の先生は晴れやかな笑顔でした、彼は暴力というものを形式上は乗り越えているのです、それよりも何よりも子供が好きで堪らない人なのです。
子供と接した余韻が彼を一層輝かせていました、その輝きを見た時に、私は私で一層自分が惨めになるような気がしたのです、私は動き回る子供を殴りたい、殴るまい、としているのに目の前のこの人にはそのような渦は無く、代わりに愛と呼ぶべき何かを身に纏って悠然としていました。
それが私を余計に狼狽させ、一刻も早く立ち去りたい気持ちにさせ、創作に関する問いに対しては冷笑しつつ『文章も、絵も、そのほかのありとあらゆる創作は一切行っていない』とここ暫く毎回のように、天邪鬼じみた発言させる結果となっているのです。

 

子供と動物を一緒にさせるなんてと言われそうですが、犬嫌いという人が居たとして、その人の真に厭うものはその実犬そのものではないのです。
往々にして何か嫌いな、あるいは苦手な対象物のある人間というものはその対象物を選り好みする人の『素振り』に『反射』して、嫌いだと喚いてしまうのです。
だから嫌いということは…とても消極的な精神状態なのです。
○○だから嫌い、という『外部からの要因の反応』、そんな小さな箱庭で四苦八苦している人が、何かを嫌いな人というものなのです。
一番強く『負』の振る舞いをしてしまう要因は、何か『圧倒的に正しい状態』を見た時なのです、そうです、だから私は先生に対して反抗的にさえなってしまうのです。
正しい、守りたい、そんなことは言わない方が世の中から暴力は消えます、帰宅した私は数日考えあぐね、去年描いた絵のうちいくつかを蹴り飛ばし、ばらばらに折って捨てました。

 

私を怖い人間だとお思いでしょうか?
もしそう思うのであれば、女や子供を守るだなんてことは死んでも口にしない方が良いのです、女嫌いはますます女嫌いに、子供嫌いはますます子供嫌いになりますから。
これを思うと人間関係というものは至極、情の物々交換であると私は思うのです、先生が正義を纏うほどに私は打ちのめされるのです、そして煌めきを纏っている人ほどそんなものには気付かないのです。
繰り返しになりますが、打ちのめされるということ自体が、理由ありきの反応に過ぎないからです。

 

理由ありきの反応に囚われている限り、その人の本心は出てきません、本当にやりたいのか、苦しいからやりたくないのか、苦しくても何故かやらざるを得ないのか。
鶴の人もこのような導きによって、苦しいけれどやるという選択をしました。
彼がこの選択を敢てしたのは、彼が今まで居た職場を『完成』させてしまったからなのです、その職場に愉快な人物が加わり、その人とのやり取りを最大限に仕事に生かしたのが鶴の人なのです。
だから鶴の人が好かれていたのです、概念を最大限に活用すると信じて実行したのが彼だから、彼は好かれ、その職場で沢山発生する好意が五感を超えた目に見えないスパイスとなって料理にすら旨味を加え、売り上げも伸びたのです。
仲良しごっこと揶揄する人も居たでしょうが…食べるという行為は人間の大きなはたらきでもあります。
食べものは果たして物体なのでしょうか?
それとも知覚出来ない色が混ざっているのでしょうか?
私たちは何で出来ているのでしょうか?

 

情景が流れ込んでくる時が多々あります、私は情報の波というものが在ると思っています、その波に触れたり首元まで浸かったりするとその世界の匂いが知覚出来るのです。
嘘だとお思いですか?共感覚と言う言葉が近いかも知れません。
鶴の人の仕事についても見えるのです。
人形愛についてもそうなのです、その渦に引っ張られているので抵抗はしません。
仮に私の脚が痛まなかったとして、そうしたら私は定年までホテル清掃をやっていたでしょう、はたらきというものが根源的には運動であるということの証のような仕事でした。
その職場で一番解ったのは暴力とフラストレーションと女同士の情についての関係です、エネルギーの使い方について私は学んだのです、最後の半年はいわば黄金期でした。
その時のその場に居た人たちの想念が私にはわかったので、非常に良い関係だったのです…それが仕事というもので、そうなってくると皆、作業も速くなります。
いわばブレイクしている状態だったのです、鶴の人の元居た職場に起ったのと同様の現象がそこにも発生していたのです。

 

知覚を超えた物事…情を含めた凄まじく『正』の状態が引き起こす三次元の臨界点、多人数が各自消極性を超えて呼応する状態。
このようなブレイク現象が起きるとどうなるか。
そのような『完成』した場所や事象は程度の差はあれ、一端壊れるのです、それが宇宙の仕組みなのです、終末予言などもこの摂理を示していると私は思っています。


清掃の職場での黄金期を迎え、何ヶ月か心身共に楽しく働いたそのタイミングでもう駄目だと私の脚が根をあげたのと同じ摂理で、鶴の人も黄金期状態の職場を後に長らく出張するのです、上がりすぎた場というものを三次元に留めるためには一度臨界点を下げないとならないからです、株などもおそらく同じ原理でしょう、三次元には三次元の限界点というものがあるのです、たとえそれが数値であっても。
あまりに熱すぎる夏の午後、突然の夕立、それと同一のはたらきが世の諸処の場に生じるのです。
私はおかしいことを言っているのでしょうか?
鶴の人は私のエネルギーのガス抜きであるこの文章を、おかしいと言って笑います、「文章と、実際のあやさんを見たら差異があるから驚くだろうね」と言って可笑しそうにしています、その笑顔は何故か私をほどよくほぐすものなのです、頭がおかしい位が丁度良いのですよ。

 

いつだったか理科の教師が授業で言った言葉のうち、唯一明確に覚えているものがあります。
『物理の原点は、この世に在るものは全てよじれるように出来ていると言うことだ、それが物体であれ人の情というようなものであれ、目に見えない何かのエネルギーであれ、この世はよじれの相互作用が生じるように出来ているんだよ、バグが生じるように出来て居るんだ、だから部屋は必然的に汚れるし散らかるし、糸は絡み合うんだ』

 

完成された状態を併走するような事はこの宇宙の仕組み上、起らないのです。
清廉潔白な人間だけで構成された世界など存在し得ないのです。
いつまでも永久に仲良く、穏和に、ということは起こりにくいので、人間は調整に調整を重ねるのです。
掃除するように、本当に美味しい料理を作るように、創作するように…宇宙の運動に逆らう動きをしてようやく、人間は自由意志を得るのです。
もうひとつ言うなれば、実は私は、この原理によって暴力が生じている気がしてならないのです、よじれが大きければ大きいほど、それを戻す作用として暴力が生じてしまうのではないでしょうか。

 

よじれを戻すために私もある日唐突に殴られたり、あるいは誰かを殴ったりしてしまうのでしょうか?
生命エネルギーを飛ぶ事にのみ活用出来るのでしょうか?
それには抵抗が必要です、自ら進むには抵抗が必要なのです、今日の鶴の人は不安がっています。
労働は労働、という雰囲気で料理人たちが、一切の情を込めずに調理しているからです、私はそれを聞いて安心しました。
彼が完成された仕事という状態を知らなければ、『こんなもんだよな』という感想しか、料理に対してだって抱かなかったでしょうから。
こんなもん、は平和を突き詰めた結果です、消極性の結果です。
これでいいじゃん、は、全く良くはないのです、少なくとも完成にはほど遠いのです。
鶴の人はそれをただ調べに行くのですよ、そういうことを彼の人生に於いては、彼はまだ知らないのです…。
私が彼と深く話すのは創作の妥協をしたくないからです、だって生きているということは抵抗するということであり、それが創作を帯びた手作業であればあるほどに、抵抗せねばならないからです。

 

すなわち私は抵抗するため、反発するために生まれてきたのです、私だけではありません…この世に納得していない人は皆、抵抗すべく生まれてきたのです、宇宙運動に何処まで耐えられるかの、バグの視点を生きているのです。
生命とはバグそのものなのです。

 

全てのバグに記された遺伝子記述の中に一番堂々と記されているのが抵抗の文字なのです、そして抵抗の実行とは、生命の極限の喜びなのです。

 

だからお針子地獄は本当は、お針子天国なのです、私が居たのは天国なのです。
この鶴の刺繍は私が自然に縫ったものなので、これは私自身なのです、なんの為に大阪に行くのか、自分にとってそれが何になるのか…多分鶴の人にとって、料理のうち何が完成で何が未完なのかを見極める旅のようなものだと思うのです。
この刺繍は拙く、縫い目も乱れているけれど、鶴が飛んでいるのが私には解ります。
『御守り』
とはこういうものです、男の旅路の御守りに吉兆の象徴を刺繍するなんて我ながら脳ミソが戦前の女のようですが、これは確かに御守りなのです。
大きな目的を忘れないようにという御守りなのです、料理も創作の軸に合致していると彼が忘れぬようにという御守りなのです。
この刺繍を見た方にも、明星の幸がありますように。

 

 

 

 

Don't forget to call me.


私を忘れないで、いえ、忘れないでなんて生易しいものじゃない、忘れないでどころじゃなくて常に立ち返って思い出してそして電話して話して。
私を忘れないでというよりも私を忘れる事なかれ、私を忘れる男に呪いあれ、私を思い出す男に幸あれ。
だから言葉としては、厳めしくForget me not.しかし伝えたい本心はDon't forget to call me.
休みの日には電話してね、そうねそうよね、地続きの何処かへあなたは行く、言葉の少し違うゲッセマネの園へ鶴は羽ばたいてゆく。

 

あ!
と思った時には彼に抱きすくめられ、口づけされそうになったが私は身をかわしてしまった。
「今は駄目!今したら思い出だけで満足しちゃうでしょ、帰ってきてからだよ」
晴れ間が差し、雨で洗われた東京の街がさっと煌めくのが見えた、このような光を新しい街へ行く人は誰もが胸に抱いているのだ。

 

プラットホームは空に近い場所だった、鶴の人は荷物を新幹線内に置いて自分は外に出て、発車時刻ギリギリまで私と喋っていた。
「新幹線が鶴ちゃんの荷物だけ載せて行ってしまったらどうする?」
と私は茶化した、「鶴ちゃん行かないでって引っ張って馬乗りになって無理矢理東京に居させるかもよ」、鶴の人は笑って言った。
「もしそうなりそうだったら、俺もあやさんのこと抱えて大阪連れてっちゃうかもしれないよ」
連れてって…と言ったのは私の内部に宿る何者かだった、連綿と命を受け継ぐ根幹、海の底からの囁きを送るあの「影」そのものだった。
鶴の人の腕が私の身体を掴んだ、光の中の街、本当は何処へだって行けるのだ本当は、お金が無いなんて嘘、身体が痛むから不安だなんて嘘、自分を養ってくれている誰かに悪いからなんて嘘。
自分じゃやっていけそうにないからなんて嘘。
相手に唐突に身体を持ち上げられて新幹線に一緒に乗り込んでしまったという女たちこそが、命というものの根源を誰より知っているのだ。
ただ一つ、私にとって何よりも本当の事は創作の導きに身を任せることだった、ミシンを置いて好いた男に攫われるのは私の本懐ではないし、鶴の人とて、創作を軸に生きているのだ。
そして実際には、私は連れて行ってとは言わなかった。
私たちは新幹線のドアの閉まる寸前、互いに「待ってて」「待ってる」と言い合った、時空が歪むような感じがして鉄の巨体は鶴の人を飲み込み、濁流をするすると進んでゆき、やがて見えなくなった。
彼は大阪へ行った。

 

…さて、つい先日までは私も鶴の人も「二ヶ月後に成長した状態で会おう」等と歳に似合わず青臭いことを言い合っていた。
何故青臭いのかというと成長というものを何をもってして観測するのかということ自体が不明確であるというのが第一。
第二に、そもそも何を、的確な達成目標としているのかも不明確。
第三に…互いに自己開示して助け合う要素が一切無いということ、絆という要素が足りないということ。
この要素が欠乏した場合、これが男女の間柄のみの「相互理解」である場合、二人の仲等というものは全く以て、ただの幻想に過ぎない。

 

この三つの青臭い要因から導き出される答えは一つ、この出張が少しでも延長されたりした場合、呆気ないほど簡単に、私も鶴の人も新しい相手と巡り会ってしまうだろうということ。
私たち人間の働きが根源的にはただの運動であると仮定して、その運動をどこまで予測出来るのかということをラプラスの魔的に「過去の事象やその人の置かれた環境」や、その人の運動パターンに当てはめて未来予測したならば、私も鶴の人も短期欲求に弱いので、窮地+物理的に近い人が居ない場合、ほとんど避けようもないくらい確実に新しい恋の果実を囓ってフラストレーションをやり過ごすであろう事は簡単に予測できる。
『自分たちの軸である創作』と日常の全てが絡み合っているという私たちの大前提を忘却し、他の人に些末な話や相談事をした場合、私たちは互いを忘れてしまうだろう。

 

およそ全ての事が詰まるところ創作の神に通じている…というのが私と鶴の人の自分の軸である。

 

出発前、東京駅にある大型バルコニーのような見晴らしのいい場所で彼は本を広げ、私に見せた、そこには和洋折衷の魚のレシピがふんだんに載っていた、「要するに、大阪の店ではこういうものをじゃんじゃん作って手早く売れっていう業務命令なんだ」、面倒くさい処理の不要な簡単なレシピ、インスタ映えするレシピ。
彼の短期的な職務は、「新規開店の店を回せるまでにメニューや稼働動線の下地を練って稼働させて、後継スタッフに任せる」事らしいのだが、問題はそれが駅の内部の店である、ということ。
私は彼の仕事などの話はいつも興味深く聞いている、だってそれすら創作にまつわる話であるので私には彼のいわんとしていることが解るのだ、だからこそ安易に頑張ってとか、きっと出来る等とその場の空気を盛り上げるだけの台詞は吐かないようにしている。
傍目には憎たらしい女のように見えるかも知れないが、正直に「それじゃあ今までとは勝手が違うんだね」という感想を述べた、鶴の人も素直に頷いて話続ける。

 

「魚料理は出来るけど、そりゃあ出来るけど、でも原価の3掛けで売らないと元は取れないんだよ、原価が1000円なら3000円は取らないと採算つかないよ、そういうことを考えて口出ししてくれる人が…いないのかもしれない」
新店舗でのメニューを手渡され、ざっと目を通すとランチメニューだけで沢山種類ある、「駅の中の小さいお店でしょ?」と素人でも問い返したくなる品揃えであった。
つまり鶴の人のこれから二ヶ月働く現場は、品揃えが良すぎて、売値が安すぎて、料理人のやれることの本来の許容量を超えているのだ、それを新規開店なので一からこなすのだ、難しい仕事(あるいは意味のわかりにくい仕事)である事は素人目にも明らかだった。
「でも俺はやってやる、なんかここまで舐められると逆にやる気が湧いてきたよ、これ全部やってやる!」
と鶴の人は私に向き直って目をキラキラさせていた、かわいい鳥のようだった、「格好いい」、少なくとも出会い系にハマっていた時期の鶴の人より数段もかっこ良い事は確かだった。

 

難点を言うなれば、よしんば鶴の人本人が怒濤のメニューを料理人としてさばききれたとして…それを後継者にも引き継げない限り、ただの一職人芸にしかならないのだ。

 

私は果てしなく続くビル街を見ながら思った、鶴の人には料理人のツテがあるので何もこの会社の命令を聞いて、大阪まで行くことはないのだ…料理そのものをお酒とゆっくり楽しむお店、単価の高い(安くはない)お店に彼は既に導かれている様子だった。
でも彼は、それでも先ず大阪に行くのだ、それは何故か?
きっと「やったことのない事」や「難しい事」あるいは「憤りや醜さを感じること」そのものに彼は価値を見いだしているからだろう。

 

政治について話したときに、彼は「あやさんは世の中の何に対して憤りを感じる?憤りを感じることにこそ、これからの事が懸かってるんだよ、意義がね」と言った、それはきっと彼自身の仕事に根ざした無意識の言葉なのだろう。
写真で見た駅の中の新店舗は、さながらこれからさばく魚を泳がせる小さな水槽のようであった、魚たちは己の磔刑を解っているのだろうか。
エスの苦しんだゲッセマネの園が、彼の2ヶ月間の行き先なのであった。

 

本を読みながら語り合った後、新幹線のプラットホームに行くその前に、小腹を満たすために私と鶴の人はまさに、引き寄せられるように東京駅構内を歩き回ってから「駅の中のさっと飲食出来るお店」に入った。
入るなり店のルールがわからずに苦戦したその小さな飲食店の床には「初見の客には意味不明」の矢印が記され、これまた「初見の客には理解不能」の立て札があった、全体的にごたついている、飯を食べるというよりも捌き捌かれる場所であった。
今度からはこういう店で働くんだね
二人して頷き合い、急かされるように会計し、急かされるように食べ、そして私は言った「鶴ちゃん、今私この場所で何を食べても何の味もしないよ…不味くはないの、案外美味しいのだけれど」、突き詰めるとカロリーメイトでもよい、駅の中の食堂というものは概してそういうものだ。
鶴の人は頭を抱えて苦笑していた、相変わらず目はきらきらしていて、実に快活に言った。

 

うん、無理だね!

 

だが私も鶴の人も笑顔だった、凄く楽しい気分ですらあった、それでもやるしかないという自覚めいたものが芽生えたからだった、おそらく二人同時に腹を括ったからだった。
誰かに嫌われたら…そして実際に嫌われた過去、お金がなくなったら…そして実際に苦しんだ過去、身体が痛いから…鶴の人が遠くへいってしまったら…。
鶴の人が遠くへ行くから、近場で話せる誰かにまた恋をするのだろうか?
だとしたらそれは随分と消極的な恋だ。
例えば洋裁を習う時にだれかに嫌われたら逃げるのだろうか?
それは随分と消極的な熱意だ、元来誰に好かれても嫌われても、やることはやるしかないのだ。
傍目には無茶な課題があったとしても、鶴の人にとって根源的に挑戦したい物事…それがたとえ嫌悪感すら覚える物事であっても、それでもやるという決断がそこに在るのなら、そのはたらきをしに行く他無いのだ。
それならば私も鶴の人を待つほかないのだ、これは私の課題でもあるのだ、消極性を超える課題でもあるのだ、鶴の人を待ちながら、洋裁をやらねばならないのだ。

 

私と彼が本当に待っていて欲しいと望んでいるのであればやることは一つ、話すこと。
概念を共有した状態で話すこと。

『話す相手』…話し相手とは少しニュアンスが異なるのだが、自分から話す、その相手…それが鶴の人と私との関係を一番よく表わしている。
話しをするのは本当はセックスよりも深いことなのだ、これをしなくなったらすぐに気晴らしが欲しくなってしまう、ただのセックス相手に成り下がってしまう。
先日までは二ヶ月後に互いに達成していようと誓っていたが…達成か未達かはどうだっていいのだ、二ヶ月後に成長しているかどうかを測定など出来ない、格好つけている場合ではないのだ。
短期的な恋の輪廻を私も、鶴の人も、もう若くもないのでいい加減抜けた方が良い、新しい出会いや恋は日常を塗り替えてくれる格好のスパイスだが、それに快楽の基準がある以上、その快楽から先を見ることは出来ない、死ぬまで課題に辿り着けないなんてもう懲り懲りだ。
私に問題があるとすれば消極的であること…自分の導きに対して、自分の人生に対して消極的だったのだ、苦しいからやらない、それは整合性がとれているけれど命が無い。
苦しいから待てない、苦しいから次の恋なんて言っていられないのだ、未来が懸かっているのだから。

 

忘れちゃ駄目だからね!
と私はプラットホームで小さく叫んだ、私を忘れちゃ駄目だからね!
鶴の人の夢や軸を信じて共有して忘れずに居る私を、忘れちゃ駄目だからね!
忘れる事なかれ!忘れる事なかれ!創作の神を忘れる事なかれ!
もし私を忘れたりなんかしたら料理人が調理されたというニュースで持ちきりになるでしょうよ。
Forget me not!Forget me not!Forget me not!
ゲッセマネの園ならば英語かしらと思って思わず心に浮かんだ言葉を言ったけれど、本当に言いたいのは電話してってこと。

 

鶴の人のくれた手紙には「あやさんと居ると何かが起る予感がします」と書かれていた。
終末予言かよ…と苦笑したが、もし私の下す終末があるならばそれは創造だよ。
だって私はあなたを、あなたの未来を、これほどまでに愛おしいと思っているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

青鷺輪廻考


家のアンテナの上によく、青鷺が止まっている。
この個体は「最近来ている個体」だ。
以前、この辺りに訪れていた個体は大柄で鳴き声も大きく、私とM氏は愛情を持ってその個体を「灰色」と呼んでいた。
大柄な「灰色」は一昨年の終わり頃までこの辺りを周遊していたように思うが、その後ぱったりと現われなくなった、「灰色、何処に行ったんだろうね」とM氏と話していた折、新しい個体がやってきたのだ。
新・灰色は「灰色」よりも若干小柄だったのですぐに「あの灰色」ではないことが私とM氏には解った。
「灰色は生まれ変わったんだよ」
私とM氏はそう話しては笑った、というのもこの個体も元灰色と同じような流域を散策し、我が家のアンテナにたまにとまり、彼なりに鳴いて唄っていたから。
青鷺という鳥は輪廻して別の個体として生まれ変わり、また同じような周遊をして生活し、同じような趣味趣向でこの家にとまりに来るのだろうか?
そう思えるほどに、個体が入れ替わってもその行動は同一に見えた。

 

個体が変容しても行動が同じ生命体を目にすると、必然的に魂や輪廻の思想が思い浮かぶ。
実際には元・灰色は生きていて、何処か別の流域を散策しており、その情報が青鷺ネットワーク内で共有されている為に、縄張り争いを避ける目的で、一羽ずつ一定の範囲に生息し、一定の間隔で別個体が入れ替わり、生息する…という青鷺の掟なるものがあるのかもしれない。
傍目に観ていると実に不可思議で、個体が変わったのに行為や趣向が似ているので思わず、「あんた生まれ変わったの?そしてまたここへやってきたの?」と聞きたくなってしまう。
青鷺はこの問いに何と答えてくれるだろうか?
青鷺について(ものすごく浅く)調べた所、死と再生の象徴になっている地域もあるようだ(エジプトとか…といってもエジプトの動物神は沢山居るようだが)、多分現代の私のように、別個体なのに行動が同じで、まるで「舞い戻ってきた」かのよう、なのでこのような崇められ方をしたのだと推測する。

 

そんなわけで私は鳥の中でも青鷺が特に好きだ、顔つきの好みもあるが、生態が不可思議だからだ、輪廻を思わせる不可思議さがある鳥だから好きなのだ。

 

一方、同個体なのに趣味趣向が変化し、表面上は別の生命体のように見える場合もある、三つ子の魂百までとは言うが、私も結構変容するタイプではある。
これまで習慣化していたことを打ち破る時の快楽故に、新しいことを始めたり、家を出たりもした、本当の事を言うとまだあと人生で2~3度の引っ越しが必要なように思う。
ただ、変容のロジックを解き明かすのであれば私の人形愛も、「人間全体の割合」により調整された趣味趣向なのかもしれないと強く思う、それ故惹き付けられている。
人形愛に関しては、私はビスクドールが好きなのだが、特段産業革命時にそれを手にしたであろう上流階級の少女たちへの生活様式や文化的な憧れ、というものは感じない。
ビスクドールに関しての書籍を読むと、実際にビスクドール工房で働いていたのは孤児であったりした、という記述もあった、それがどこまで真実か否かはさておき、私が憧れるのはそれら人形を精魂込めて作り出した人間たちである。

 

私が現段階で目指しているのは今の内職と、人形の服とでコンスタントに「一般的なパート代」くらいを稼ぐとういこ。
私は脚がよくない、脚が良くないというのはどの程度かというと、レントゲンに映るものを観る限り良くないとわかるレベルである…歩くのは好きだ、でも歩くのが好きということと「毎日確実に出勤する事が可能か」という事象は最早別物だ。
誰が観ても脚の悪そうな老人がよたよたと歩いているのを毎日何処かで目にすると思うが…その老人たちに何故歩くのかと問うたらきっと答えは「歩くのが好きだから」「歩いておこうと思うから」だと思う。
歩くのが好きであることと、毎日歩くよう心がけるということは必ずしも健康を意味するわけではない、私の場合は見た目には一切解らないので自分でも「恐ろしくなる」時がある。

 

このような健康の不具合、身体の状態というものも俯瞰的な目で観れば「人間全体の割合」の調整によるものなのだと解る。
この調整を摂理と呼ぶのだ、摂理には一切の人間的感情は無い、ただ呼ばれる方向があるのでそちらに従うしかないのだ。
抗うよりも従った方が楽なのだ、ぴんと張っている糸を私は手に握る、普通にバイトするということが叶わなくなると人生の可動域は恐ろしいほど狭まる、稼ぎ方も。
だから人形愛や人形服というものを私が制作したいというのは単に趣味というよりも、割と現実的な話で、現実的に稼ぐ話に繋がってくる。
仕事さえ選ばなければ何だって出来るとよく言われるが…そうもいかないということを、私と整形外科医、あとは実際に脚の悪い母親の居た「私の母」だけが知っているというのは、結構恐ろしいことだ。
世界に言葉の通じる人がたった3人ほどしか居ないということ自体にめげそうになる事が多々ある。

 

決して甘くない摂理の司るこの世とは、一体何なのだろうか?
毎日とは、一体何なのだろうか?
全ての生物には修行的要素が生まれながらに課せられているのだろうか?
青鷺の灰色も私も苦しんだり喜んだりしながらもある一定の枠組みの中を永遠に泳いでいるような存在なのだろうか?
ひょっとして生まれ変わってもまた私は「道筋」として、同じような趣味趣向に「人間全体の割合」の呼ぶ声により導かれ、手作業の輪に加わるのだろうか?
また、職人になりたいと思うのだろうか?
それが実際には孤児に割り振られた「高貴なビスクドールを作る」という名目の単純労働であったり、低賃金の内職であっても、私はそれをやるのだろうか。

 

私は針を進めながら思う、この作業を私は嬉々として行っているが私は心の性根から捻くれてしまうときがある。
団地に住んでいる子供が暴行されても、現実的に、世の中の誰もさほど同情しないものだ。
かわいいマナーの本を読んでいて痛烈に感じたのは、「この本を子供時代の私が読んでも、それを実践する前に父親に怒鳴られたりして全てのやる気を削がれるだろう」ということだった、父親が仏間に置いてあるサンドバッグを毎晩ぶん殴る音を身を縮こまらせ、耳を塞ぎながら聞いている生活にはマナーもクソもなかった。
マナーには根源的な明るさが求められる、実際に私が怒られて過ごしたのは根暗だったからだ、だが仮に私がきちんとした言葉遣いできちんとした振る舞いをしたとしても、悪漢(の状態の人)は「下層階級」の子供らを狙って都下までやってくるのだ。
貧しい地域までやってくるのだ。
命の値段の軽い順から軽んじられて行くものなのだということを、今の私よりも当時の私の方が身に染みて実感していただろう。
マナーが通じるのはマナーという概念のある人間関係内であって、それ以外の所では何の意味もないのだ、何の意味もない場所に私は居たように思う。

 

だがこのかわいいマナーの本には重要な事が載っていた、それは当時の私にも読ませるべき内容だった、「自分の身だしなみをきちんとし、ある程度の自尊心を外見に宿らせることによってのみ、他者に一人の…人格を宿した人間として強く認識させる事が可能だ」という、生命の絶対前提である。
一度他人に唐突に暴力を振るわれた人間というのは自然と自分自身から脱魂し、周囲を周遊する、その間身体は適当なものを身に纏ってぼうっと上の空で過ごす、そして次の暴行に自然と引き摺られて行くのだ。
適当な存在として扱っても良い、というシグナルを出してしまうのだ。
これも一種の摂理だが、その摂理に「NO」と言う事は実は可能だ、「人間全体の割合」の呼ぶ「暴行被害者」という穴の手招きに私はNOと言うべきであった。
人間に与えられているのは真の自由意志ではない、だが目前の何かを拒否する権利を元来誰もが有している…この本は思ったより奥が深い本であったが、一つ言うなればこの本を手に取った少女のうち、素直に実践出来るほど「強い」女の子が居たとすればその人は元来選ばれた人なのだ、元来、強い人であり、勿論狭い家で父親がサンドバッグをぶん殴っている家庭で、息を殺している子供ではない、ということ。
選ばれた人、のように見える人が居る、その人たちへのやっかみは普段あまりないのだが、ふとしたことでふつふつと湧き上がったりするときが私にも、恥ずかしながらある。

 

命の値段、ということを考えると…有名私立小学校に入り込んで惨殺を行うということはこの問題への抗議行動のように見えてしまう時がある。
私の内部の「子供の部分」が言う、「私が酷い目に遭っても誰も何も反応しなかったよね」、「でもこの子たちはこんなに世間が騒ぐんだ?」、「やっぱり命の値段が違うからだね」、私の内部にはそのような子供が居て、報道を見て嗤っているときが確かにある。
多分この種の犯罪への共感というものを抱いてしまう人は、子供時代が「本人にとっては」酷だったのだろうと思う。
酷いことをされた人が酷いことをされた人を嘲る、ということは実際に起る。
綺麗事を言うと命の値段は皆同じと私も表現するとは思うが、同じなのは主観に於ける命の値段であって、客観的には一人一人の人間の値打ちは異なる。
別に有名私立の子供たちが全員惨殺されれば良いとかは一切思っていない。
バスに乗っていると私立の学校に通う子供たちが乗ってきたことがあった、彼女らの振る舞いや言葉遣い、歩き方などを観ていると実に軽やかで全体的にしなやかであった。
私の子供時代に団地の中を意味不明に絶叫しながらフラストレーションを発散させる汚らしいガキは、その集団には一人も(というよりも一匹とカウントしたいような子供は…一人も)居なかった、そういうものなんだ、と私は自分に言い聞かせた。
反感を持ったわけでもない、哀れみを乞うているわけでもない、その摂理に自分は呼ばれなかったのだという事実だけを私は実感し、内部の子供の絶叫するその口をぎゅうぎゅうにふさいでやり過ごした。

 

私は美しさに傷つけられているのだろうか?

 

いつだったか鶴の人が「政治ってさ、結局誰がやっても同じ事なのかな?」と悲しげに呟いた事があった、寒い雨の夜だった。
「そんなことないよ!」
と私は反射的に言ったが、単にそう信じさせて欲しいという欲求を口にしたのであって、実際にはどのようなものであるのか判別がつかなかった。
鶴の人がこう口にしたのも何だかんだで政治活動に於けるマニフェストなど実行されてこなかったから、庶民の目から見たら政治というものが舞台上の空虚な演劇のように見えた、という話なのだ。
そんなことないと私も思いたかったし、個々の政治家の指揮というもので現実に株価などに変動があって、母の資産が増えたりもしたが…でもこの母の資産だって世間的に見たら雀の涙である。
もっと俯瞰したら、母の資産が増えようがどうだろうが大まかな人類の道筋に変化は無いように思う、だとしたらやはり、政治は誰がやっても同じ結末を招くのだろうか?
その日の朝、ワールドニュースを観た私は参っていた、ウイグル自治区の巨大監禁施設を見て恐ろしくなったのだ、調べてみるとウイグル族は民族的に根絶やしの憂い目に遭っているようだ。
そんな遠いこと、と思うだろうか?

 

私にとって遠いことは突き詰めると私の道筋上触れる事の出来ない全てである、有名私立の子供たちに起った悲劇とか、鶴の人の大阪行きとか、先生の内面とか、それら全てが私には遠いことなのだ。
従って、逆説的だが遠いことも私の一部なのだ、だから世界のニュースを私は比較的好んで観ているのだが…何より恐ろしいのはこの手の真実を日本の報道機関が一切やらないこと。
「NHKをぶっ壊せば日本は少しずつ変わるし、一票というもので貢献出来たら面白いよ、誰がやっても同じなんて事はないよ☆」
と私はその後を考えずに鶴の人に言ったが、本当にそうだろうか?
かの党はかの放送局がスクランブル化したら解党するという、では実際にスクランブル放送になったら…BSニュースを適宜に観る為にはさらに金を支払う必要性が出て、さらに言うと「今よりももっと世界の状況から日本という国が取り残される事になる」のではないか?
ウイグル自治区の悲劇、中国の凶行などは現在でも日中記者協定らしき掟により報道されないが、さらに情報が少なくなり、馬鹿らしい、資本主義だけを追求するような映像ばかり垂れ流されるのではないだろうか?
テレビという媒体は既にネットよりも「劣った」情報機関でしかないが…唯一の強みは「情報をいちいち獲りに行く労力や知恵が無くても比較的簡単に情報を入手出来る」ということ。

 

どうやったら全体が全体を「同種のもの」として認識し、見渡せるように、人間という種が進化出来るだろうか?
それともこんなことは、果てしなく遠い遠い事であって、やっぱり誰がどう足掻いても、摂理によって統率者は決まった動きをしてしまうものなのだろうか?
誰がやったって同じ結末なのだろうか?

 

私一人が足掻く事なんて無駄なのだろうか?

 

私は同じような事でもう何回も、ひょっとして何千回も何万回も何億回も悩んだように思う、その都度投げ捨て、どうだっていいと吐いたように思う、そしてまた同じ輪廻の枠の中に引き戻され、同じ問いかけをされる。
私は居ても立ってもいられなくなる、こんなことやったって無駄でしょうと思う、私がやったって無駄で、誰がやったって結末は決まっているのでしょうと叫ぶ。
私は何度もミシンを買って、その都度何度も諦めたように思う、既視感が湧くのはこのせいだ。
私は何度も針を動かす、きっともう何万回も、ひょっとすると何億回もやったのだろう、だから刺繍ははじめてなのに針は勝手に進んでゆき、図柄がひとりでに浮かび上がる。
その時ようやく私は自分が、「以前」見ることのなかった絵を見てはっとする、確かに救済というものは一定の摂理に従って行われ、特定の人間だけが選ばれるような仕組みにこちら側からは見えるが、それでも修行を辞してはならないのだと私は、糸の織りなす文様に語りかけられる。

 

ちなみに模様、というものの和風の言葉は「綾」「あや」である、あやであるところの私はあやに語りかけられている、もっとも、私の名前は「何の意味も宿らないように」という念の込められた、ひらがな名なのだが。
名前に意味が宿るなんて恐ろしい事だよ
と母ロミは言う、あやという言葉の意味が模様であると告げても彼女は笑い飛ばすだろう、彼女は「道筋」を嫌っているのだ、このような人間になりますようにという願いそのものを厭わしく思っているのだ。
摂理は働くがNOともYESとも言えるのだ、私はYESと答える事にすると、誰にともなく告げ、針を進めている。

 

青鷺の灰色と同じように、私も何度生まれ変わっても私なのかも知れない。
何度生まれ変わっても同じような階級に生まれ、何度生まれ変わっても同じような事で悩み、何度生まれ変わっても見えない欠損を身体に生じさせるのかもしれない。
何度転生しても人形愛に目覚め、何度も何度も創作に挑戦するのかもしれない、何度も何度もパート代を稼ぐ事を現実目標にし、何度も何度も挫折するのかもしれない。
きっと刺繍は沢山やってきたのだろう、はじめのうち刺繍をするのはとても「恐ろしい」気がしたが自然に手は動き、静かな糸が私を導いた。

 

今日も屋根に青鷺が居る、どの個体だろうか?
…どの個体でも、関係無いのかもしれないが、それでも「灰色」は青鷺の一生を生き抜くのだろう、輪廻の中を周遊しながら生きながらえるのだろう、結末が決まっていても、個体が変容していても、青鷺の「灰色」は灰色なのだと私は思っている。

 

私は青鷺が好きだ。

 

 

政見放送と私

 

涼しいのは幸いだ、私は汗まみれになって手を動かしている、手と言うよりも腕と手の先だ、手先ばかり動かしていると腱鞘炎になる。
今まで、人間が進化の過程で間違えたのは食道と気管とを分ける働きを喉頭蓋にのみに頼っていることだけだ、と思っていたのだがそれだけではない、手の甲に筋力をつけられないこと…これが人間という生物を未成熟なままにしている。
もし人間という種族が手の甲の筋の上にも隆々と筋力をつけることが出来ていたのであれば、人間はおそらく永久不滅の種族だっただろう、私が今欲しているのは手の甲の筋力だ、人類がこのまま食道と気管との隔たりを喉頭蓋にのみ任せ、手の甲を未発達にさせているのであればまさにこの弱点によって生命ピラミッドの頂点からいずれ転がり落ちる日が来るだろう。

 

よって私の欲している手の甲の筋力は人類の望みでもあるのだ!というゴタクはともかく、作業を推し進めなければならない、そこには愛の作業も含まれる。

 

本のフィルムかけという作業の効率を上げるためには手の甲を守り、尚且つ本の構造を知っている事が重要だ、人間の弱点が手の甲ならば、本の弱点は「角」である、逆に表紙や裏表紙は「多少のことではへこたれない」強い部分である。
私は今100冊の本をいかに素早くフィルムかけ出来るかに命の何割かを使っている、本の表紙を裏返し、なるべく手の甲に無駄な労力をかけないようにして「落とす」、そうやって本を表裏に「落とす」たびに暴力的な音が鳴り響いている、ここは部屋の中というよりも競技場のようだ。
本のフィルムかけ世界選手権、なるものが開かれたら全国で何位目になるだろうか、ああ今、今の私ならひょっとすると世界最速なのではなかろうか?
フィルムかけは水泳に似ている、手の先や腕全体を回すように滑らかに行うと意外なほど速く仕上がる、でもこの速さは水の中のように身体に纏わり付くような圧力を放っていて、この圧力から開放される位に動作を速めるのであれば、よもや三次元を超えなければならない。

 

それもこれも全て愛のためであった、愛の証のためであった、愛の証を行うための時間を作るための、素早いフィルムかけの作業が必要だった。
内職担当者に事情を説明してその日のうちに引き取りに来て貰う、仕方ないことだよ、火曜日は私は本来居ないのだし、予定も伝えていたのだから。
全てを秘密裏に進めるためには努力と犠牲がつきものだ、犠牲というのは担当者が私の予定を完全に忘却していたことと、その日に引き取りを行うための時間を敢て割く羽目になったということ、努力とは、一針一針縫うこと。
努力とはなにもフィルムかけ100冊を3時間半で済ませることではない、努力とは、心の伴う作業なのだ、ただの水泳大会とは違う。

 

はさみとフィルムかけ定規だけが私の仕事道具だが、はさみが滅法切りにくい、はさみは「ボンドコート加工」なるものを数本持っているがそれでもフィルムのりがペタペタとくっついて私の静寂を乱す。
思わず舌打ちしたくなる、駄目だ、かわいいマナーの本には一切の悪態は醜であるとあれほど書かれているのに!
そういうことはよくないよ?☆
とかわいいマナーの本に出てくる少女に語りかけられる、そうだよね、私、間違ってたよ!と私たちは手を取り合い言う、「素敵な女性になろうね♪☆」、ここでふと我に返り汗まみれの自分を客観視してしばし心の中で無言になる。
そういうことじゃないんだ、何も煌びやかにしていろってことじゃあないんだ、汗まみれで部屋着で本のフィルムを鬼気迫る勢いでかけている、そのことはマナーに反していない、マナー違反は舌打ちについてだ。
舌打ちというよりもああもう!というような悲鳴みたいなもの、これがマナーがよくないということ。

 

「かわいいマナーの本」と私が呼ぶその本はいわゆる「女の子向けマナー」本である。
ついうっかり買ってしまった、睡眠時の夢では男になって野山で立ちションをしている場合が多いので折角だからかわいいものを現実で買おうという心理が働いたのも事実。
キラキラした児童向け少女漫画の挿絵が私の情熱を刺激した、これを全部ぶっ壊してやりたいというような意味不明の感情の渦も湧いたが何とか冷静に読んでいる。
ちなみにそのマナー本を知ったのは本のフィルムかけでだ、内職用の積み荷として知る本が最近多い、そして自分で購入した本をフィルムコートしたい欲求に苛まれる…というのも既に図書館員時代に買った本のフィルムが切れてしまったからだ。
まるでパチンコで勝った金額をそっくりそのままパチンコにつぎ込んでいるかのような「本+フィルム」への散財、本のフィルムかけで稼いだお金をそのまま本とフィルムコートにかけてしまう、パチンコ輪廻そのものに今私はハマっている、これが地獄というものだろうか?あるいは浄土への道なのか?


ちなみに私がそのマナー本を購入したのには訳がある、①政見放送を見たということと、②これから教室に通うにあたって(私にとって)多くの「人様」及び「女性たち」に接する事になるので、そのことへの不安を軽減すべく買ったのだ。

 

後者はともかく政見放送とマナーの何が合致するのかと思われるかも知れないが…結局、人間、「振る舞いが全て」なのだと何故か思い知らされたからだ、ちなみに私は政見放送というものを恥ずかしながら生まれて初めてちゃんと見たが今回のものは結構唖然とした。
政見放送での自己アピールって麻原がその原型で、又吉イエスとか愛すべきキャラクターなども登場してきたように思うが…この流れが「公式」と化してきているような印象を受けた。
あまりに文化祭じみている、というのが政見放送への印象だったのだが、確かに目先だけ良いことを言われてもマニフェストをはなから実行する気も無いボンボンばかりに政治家をやらせていても無意味だろうし、服装が「敢て」変な人であっても、その印象の強さと知恵のある人間というのは案外一言喋っただけで伝わるものである。
一見変なことをしていても、変な服装でも振る舞いが一貫していると言葉選びも自然に「その人たるもの」が生じ、見ている側も安心する。
そのような人の何を信頼しているのかというと、喋っている内容に筋が通っている事は当たり前だが「振る舞い」が「大人」であるということ。
政見放送という場面に於いて、喜劇的な要素はふんだんに盛り込んでいても、根源的に「他人を不快にさせない」という部分、マナーが出来ている人が多数居たことが、私の「人間に対面するにあたっての迷い」という部分を刺激した。

 

そんな風に政治的認識とは無関係な個人的趣味の領域で政見放送を見ていた私であったが、もし自分が政見放送に出るとしたらどんな風だろうかと想像し、狼狽した。
今の私では、俯きがちにごにょごにょ喋ってしまいそうだし、鼻が垂れるのでついうっかり鼻先ばかりを触ってしまいそうだし、何故か腕の肉をつまんでばかりいたりするので鬱陶しいだろう、鼻炎のために口を開けてしまいがちなのもマイナスポイントだ。
だから良いことを言っても響かない可能性が高い、相互的に語り合う場合はともかく、根本的に「広く浅く」話を聴いたり話をしたりということへの私の集中力は驚くべき低さで、「誰かが教えてくれている等という一方的な情報交流の場合は特に」気付くと脱魂状態のようになっている事もある、これではただの阿呆である。
良い点としては笑顔になりやすいということ、でも笑いすぎている女というのは傍目にはだらしない印象を受ける、自分で言うのもなんだが性にだらしなさそうな印象だ、しかももう中年である、微笑むという筋力をつけるべきなのである。
総合的に言うと私よりも故・又吉イエス氏の方が「マナーとして」は客観視に耐えうる人材であるという揺るぎない結果が浮かび上がってきた。
でもって人間の好き嫌い、好感や嫌悪感というものの根源は「マナーの実践」にほとんどかかっていると言っても過言ではない。
直接喋る人とは大抵の誤解は乗り越えられると信じているのだが、間接的に同性に嫌われる事がある、それは元を辿れば私の振る舞いの未熟さが原因なのかも知れない。

 

私も悪かったのよ…とマナー本に語りかけても仕方が無い、ピンク色の表紙が麗しいその本は少女向けであるが、内容は充実していたし何より可愛い、夢の中での自分の行為…野山での野郎の立ちションとは対極の力を宿している。
これから(たぶん)可愛いもの(?)を作るのだから、作り手が性根の悪そうな、頭の弱そうな、育ちの悪そうな女だったらやっぱり作品の品質も落ちる気がする。
教室の方々に対してもそうだし、習うという作業には確実に対面の要素がある。
販売するという段階に於いてもそうだ、人間が肉体を纏っている限り、自分の振る舞いを自負出来るということはそのまま、正の原動力となる。

 

私は人形の服を作りたい、洋裁の基礎の教室にも行かねばならない、と再三言っているが給料が振り込まれてからの話である上、先ずはマナーからという思考回路である。
そのマナー本を買うためのフィルムかけの怒濤の作業、マナーなんて何のその、本を滑らせている音はスパンキングでもしてるんじゃないかという音だ、角さえ守られていれば本は傷まない。
それよりも手の甲を守らねばならない、手の甲には加重をかけてはならない、だって愛の作業が進まないから。
そういえば鶴の人ってマナー良いよなあ、鼻炎等の患いが無いせいか食べ方もちゃんと口を閉じているし、女に対する奢り方もスマート、だてにナンパが趣味だった男ではない…そういえば男の子向けのマナー本ってあんまり見たことが無い…私が男だったら終末に野山に出かけて立ちションやオナニーをするのが一番の気分転換だろうから、当然と言えば当然、故・又吉イエス氏よりも人前でのマナーがやはり、なってなかっただろう、女にもモテなかっただろう。
食べ物も、基本的にめんどくさがりで酒も飲まないので牛丼一択だろう、そして思い出したように攻殻機動隊を観て…本質的には男であっても女であっても私は私でしかないのだ。

 

残念な私でしかないのだ、なんとかこの残念さを学習して補っておきたい気持ちが強い。

 

客観視したときにそこはかとなく残念な私を、精神の土台から支えてくれている鶴の人がもう、すぐに居なくなる、別に最果ての地に流刑になるわけではないのだが不安である。
不安と平静の間を行ったり来たりしている、鶴の人が居ない限りセックス出来ないので、そりゃあしたければすればいいんだが、する気は無いので操立てして待っている、何が不安って…セックスする相手が居なくなることが不安である、二ヶ月で戻ってくるという話を彼は社長につけたらしいが…新規開店の場所から二ヶ月足らずで戻ってこれるものなのだろうか?
その間だらしない笑顔と真顔との両極を行ったり来たりしながら、ついうっかりフラフラしてしまわないだろうか?
そうならないために、秘めたる愛の証の作業を推し進めている、その作業故に私は、人生であまり口にしてこなかった台詞を吐いている。
…忙しい…私は今、汗まみれになって手を動かしている。

 

 

 

鶴の人について思う事


『あやさんが色々な事に挑戦しようとする姿は俺も大好きだよ。
どんなものを作るか、よりも、いつも何かを作り出そうとしている気持ちをあやさんが持っていることが俺は凄く嬉しいよ。
挑戦する事は、一人だけでは大変だよね。
俺はあやさんの味方だし、いつも応援しているし、助けるよ。
作品の出来よりもあやさんの気持ちを褒めてあげたいし
いつまでも、そういう気持ちを持っていて欲しい。
いつもそばに居るよ、大好きだよ、あやさんありがとう。』

 

鶴の人の事は、実は今年に入ってからもまだよくわかっていなかった。
彼と私の間柄というのは恋の憧れというよりも、自分自身をそこに見いだすような感覚が強かったため、互いに、惚れているというよりも何か補うような気持ちが占めていた。
今年の初め頃、鶴の人はとても素直な目で「出会い系が楽しいから、出会うまでが楽しいから、たった1回だけ誰かに会うのは駄目?」と私によく聞いてきた。
射精後には誰かに会いたいと言っているような男だったが、私は彼が気持ちを素直に言っているのだということが…腹が立つ反面嬉しくもあった。
普通だったらこの時点で男女の間柄を切るだろうが、私には何故だか、素直に気持ちを述べられた嬉しさ以上に、彼が本質的には全く別のことを言いたいのではないかという感じがした。
その全く別のこと、というのは言うまでもなく、創作についての内面的真実、それを吐露したいのではないかという気がした、無論私の思い込みである。

 

面と向かって浮気をしたいと言われたらどう対応するのが良いだろうかと当時の私は考えた。
私たちの関係性に於いて、一番深い繋がりは創作であった、創作に関しての的を互いに得ているし、尚且つ誰よりもそばに居て励ましてくれたのが彼だった。
私は彼に助けられていたし、今も助けられている、反応があるということはそれだけで助けになる。
ギブアンドテイクの原理で考えると私の方が彼にいろいろ手助けされているので私も何かを彼に補ってあげたほうがいいような気もした、じゃあ浮気を黙認しようか?
黙認?
という権限はそもそも私には無いし、本来誰にも無いのだ、彼がしたいならしたいということだけが答えであって、それ以上の真理は無いように思えた。
でも反応としてはどうだろうか?
自分の反応というものを彼に与えるとすればどのような反応をするのが「自分の本音」を尊重し、彼に伝えることを可能にするのだろうか?
私がこの事について迷っていたのは実際には5分くらいだ、5秒くらいかも知れない、とにかく長い長い時間だった。

 

自分の本当の気持ちを言わない限りはその人と対峙した等と言えないのだなと私は心の何処かで反省していた。
語る、というのは自分一人で出来る。
会話、というのはその場が楽しければ良し、出来れば本音がいいけれどそこには真実が無くとも誰も気にしない。
でも対話、というのは自分の真実をある程度「恥を忍んで」「覚悟して」相手にさらけ出さないとならない、自分の無知も、恥も、自分だけが相手を求めているという事実も含めて相手に伝えないとならない。
何かを習うときも、何か同一のものを進めてゆくときにも対話が必要になる。
自分が相手を求めていて、自分なりに求めているということを素直に言わなければならなかった、そのような時が訪れているのだと私は思った。
「嫌だよ」
と私は鶴の人に答えた、鶴の人の当時の浮気癖は果たして邪悪なものなのかどうかもわからなかったが彼の言う未来の話はだいぶ漠然としていたので、エネルギー配分がうまくいっていないようにも思えた、だがそれは彼の問題であって…その問題に、私が関与出来るとすれば私が彼に素直になるより他無いような気がした。
「私、あなたのこと好きだから嫌」
私は繰り返し鶴の人に伝えた、あれから彼の中でどのような変化が生じたのかは解らない、彼は「気持ち」をあまり表面に出さないので私には伝わりにくい時があるのだ。
少なくとも半年前はそうだった。

 

最近鶴の人はとても楽しそうにしている、仕事が楽しいらしい。
「もう女に会いたいとか思わないよ、女は…あやさんが居るから、あやさんが居ればそれでいい」
泣かせるねえ、と思う反面、人ってこんなたった半年程度で変わるんだなと思うと興味深い。
仕事にエネルギーが行ったのだと私は思っているし、何より目の焦点が以前よりもはっきりと「合って」いるように思える。
目が淀んでいたら多分また女の沼にハマっているのだと予測する、仕事が楽しいというのは仕事仲間が楽しいということでもある、男同士の絆が彼を救ったのだろうか?
だとするとそれはそれで、とても喜ばしいのになんだか悔しくもある。
あるいは単にある一定基準の年齢を超えたから男の性が落ち着いただけだろうか?それも十分あり得る。
だが一番の変化といえば、鶴の人が前よりも「気持ち」を出してくれるようになったこと…それが一番嬉しいことだ。

 

しかしいざ、これは今もなのだが、恋い焦がれているのかというと…「好き」は好きなのだが、それ以外に形容する言葉が無いので本当に困るのだが、もっと何か別の愛の言葉が必要なのだ。
だが生憎私にも鶴の人にもそのような語彙は無く、漠然と「好きだよ、愛してる」と一種のギャグのように伝え合うほか伝達の手立てが無い。
好きと言う言葉の持つ魅惑的な響きと、鶴の人という現実の男が合致しない時も結構あった、向こうもそうじゃないかと思う、だからこそ私も何処かの地点では「ママ」なのだと思う、全てを許してくれる存在としての「助け」になっているのだと思う。

 

鶴の人は対面すると非常に魅力的な男だが、何よりも「身のこなしにそつが無い」のが彼の特徴なためか、心地は良いのだが「今日どのような気分でどのような身体の状態で、どのような…」という「色」が見えにくい人なのだ。
色、感情、オーラ…とでも形容すべきものが見えにくいのでつい、「今どんな状態?どんな気持ちで居るの?」と私は訊いてしまう。
「俺は人に顔を覚えられにくい」
といつだったか鶴の人は言っていた、確かにそうだった、今はもう解るが彼の顔も然り、服装も本当に趣味が良く良い意味で目立たない為、確かに覚えにくい気はする。
こうなってくると上品さとか、嫌な癖の無さ、顔立ちの無難さというものが仇になっているのかとすら思う、無論この種の「一歩、あるいは二歩三歩引いた美しさ」に於いて、彼はモテたのだろうが。
多くの女は彼に対して嫌悪感は抱きにくいと思う、断っておくが全く美男子とかではない人だ、結構な痩せ型でこれを美と判断するのか巡り巡って醜と判断するのかは各人によって異なるだろう…敢て言うが、だからこそ女は自分の容姿を気にせず気楽に彼に会えるし、気負わずに裸になれる。
下品な癖も無いので食事も美味しく摂れるし、何よりも彼は「相手が言って欲しい事を察して言う」事をするので会いやすい。
でも彼の気持ちは?
鶴の人の本心は?
そういうわけで鶴の人は関係してきた女の人数的にはモテてはきたが、取り立て求められずに生きてきた人なのだ、求めずに生きてきた人なのだ。

 

鶴の人の本心、本質が見えるのは作品だ、彼の作品は巨大であるので簡単に作る事は叶わないし、気持ち的にも切り替えが必要なようだ。
どのくらいの切り替えが必要なのかもわからない、その位、内外が押しつぶされそうな作品を作る人だ。
彼の作品には強烈な激しさがある、絶望みたいなものがある…ように私には解釈出来るというだけであって本心は不明だ、作品ってそういうものだ。
彼の作品を欲しいか、と問われたら…あまりに宿す力が激しいので所持している空間が歪むんじゃないかという恐れが、所持欲、鑑賞欲よりも上回るので遠慮してしまうと思う。
土着の神みたいなものを所持する勇気、剛気が私には無いので遠慮してしまうと思う、つまりそれほどに彼の作品は強いのだ、私の気質よりも鋭いのだ。
私の個人的な趣向に於いて、毒のある作品は陰湿な気がしてあまり好まないが、彼の作品に宿っている鋭さは毒ではなく雷のような激しさであるので、その激しさに私は共鳴するのだ。
雷のような激しさを私も持っているから。
轟音を持っているから。
私の中にも土着の神は居るから。

 

…作品という「点」に於いて鶴の人とわかり合えている感覚が確かに強く、ある、ちょっと包括的過ぎるかもしれないが、彼の激しさに共感すればするほどに、彼に対して見いだすのは「自分自身」になる。
私と彼との境界線が曖昧になる感覚が、彼の作品を見ると生じるのだ。
私と鶴の人が赤の他人であることなど百も承知だ、人との境界線が曖昧だなんていわゆる病的な関係なのかもと自分でも引いているのだが、作品の鑑賞眼等というものは概ね主観であるため、それが答えだというのならば仕方が無いのだ、倫理的にどうのこうのと理屈をこねくり回したところで一目、彼の作品を見たならば私はそこにやはり自分と同質の何か、あるいは自分自身を見いだしてしまうのだから。
まさにこの芸術という点に於いて、私たちの関係性の軸が同質であるということが、彼に対する気持ちを一概に「恋」だとは認識しにくいものにしている。
だって自分自身なのだ、自分と同質のものをそこに見るので…鶴の人の事は彼が元気であれば自分が元気で、彼が落ち込んだり焦点がぼやけて女の尻ばかり追い求めていたら自分のエネルギーが分散している姿のようにも見え、苦しかったり憎いというよりも、心配になったりする。

 

「自分の軸がもっともっと定まっていたら…誰に会うときでも自分というものを無理に変貌させずに居れて、一つの歯車で芸術と仕事と男女とのエネルギーを効率よく回転させることが可能なのだろうか」

 

夕刻のあぜ道で鶴の人とキスをした、そのようなときは確かに男女なのだが、この状態を取り立て隠さずに居られる方法はないのだろうかと思索する。
これは隠すべき事なのだろうか?
もしかするとこの森林地区一帯が、秘めたる逢瀬の場として連綿と…続いてきたのだろうか?
私と鶴の人が男女というものと、自分自身の生活、周囲の人への顔というものをその都度分割し、自分の様々な面が互いに「混ざらないように」気を配り、半ば潔癖症気味に性欲とその他の人間関係を分けてきたから、だから、性欲は悪事になってしまったのだろうか?
もし仮に、性欲というものをある程度受け入れていたのなら、鶴の人とその他の人と一緒に会話したり対話したりする事も可能だったろうと思う。
性欲は二人きりのものだけれど、それを受け入れていたのならば、もっと…家庭というものの形も違っていたのだろうと思うし、家庭と仕事の切り替えなどはそこまで必要では無いと思うし、創作もしやすいだろうと思う。
だって切り替えほど消費力の強いエネルギーは無いから。

 

浮気や不倫、不貞の根源的な誘発要因としては、私も鶴の人も自分の性欲を「日常」と見なさなかったことに原因がある、多分M氏も。
だけれど私の場合は性欲が旺盛になる以前に性欲とは恐ろしいものであるという刷り込みが生じてしまった、幼い子供にいたずらをしようとした人に全ての原因があるわけではないが、そのことによりだいぶ認識は狂ったようにも思う。
ただそれだけではなくて、思春期以前からの道徳教育での性欲の在り方というのは不自然でしかないように思えた、性欲は「危ないもの」で、「妊娠もまた危険」で、「子供であれば避けるべき」という漠然とした認識。
「良いセックス」と「悪いセックス」がある、というような認識。
でも性欲というのはそれこそ…鶴の人の本質的な激しさのようなもので、それを良いとか悪いとか形容する事は出来ない。
誰としていてもその瞬間が「どれだけ鮮烈であるのか」あるいは「どれだけ穏やかで温かいのか」あるいは「全てがない交ぜになっているのか」…それをいちいち分けることなど出来ないのだ。

 

家庭というものや日常というものが「穏やかでよいものであるべき」という認識は確かにある一定の地点に於いては正しいが、その穏やかさの中にどれだけの本音が込められているのかが一番重要な点であるように感じる。
勿論、本音を言いながらも相手の触れられたくない部分には触れない、本音を言い合うけれども意見の違いは互いにそれはそれとして頷く、というのは非常に難しい事だ。
鶴の人のお父さんの話を聞いたとき、一番印象深かったのが「SMの本を秘かに愛読していた」ということ、「書斎に隠されたSMの本」を秘かに愛読して自分を慰める姿をそこに見た、鶴の人のお父さんは性の本音を自分の妻に話したことがあるのだろうか?
もしかしたら、鶴の人のお父さんの影、本心こそが鶴の人の行動として表れたのかも知れないと私は思った、鶴の人が実際に浮気癖があったということは…鶴の人の持つ特徴というよりも、彼の父親の本音も混ざっているのではないかというような気がした、そのような気配がしたのだ、彼の父の欲望を彼が引き受けたようにも感じたのだ。
少年期の鶴の人も射精のためにその本を使用していた…勿論父親に隠れて使用したらしい、その本に登場する女の原型が私の内部にも偶然在ったのだろう、だから私なのだろうと思う。
鶴の人も「とても穏やかな人」である、特に表面上の問題も無く思春期を終え、快活に若い時期を過ごした人だ、影で激しく自分を慰め、性欲を何処かで切り離しながら生きてきた人だ。
本音をなかなか出さないまま穏やかに生きてきた人だと思う。

 

鶴の人とセックスをしていると、両親が何故桑田佳祐の曲を狂ったように聴いていたのかがよくわかるようになった、醜悪なもののなかに情があって、暴力の中に優しさがあるというような、全部の色が混ざったような感覚になる。
音楽の歌詞というものの意味がようやく理解出来るようになったのは、彼と寝たお陰だ、だってそれ以外の人ではわからなかったから。
彼と寝ていると自分自身と寝ているような感覚にもなる、先生に憧れる気持ちは全くの異質な何かに惹かれる気持ちであって、何を見てもそこに自分自身が居ないので私は先生のことは恋だと言える。
虚しい恋だなあと思うし、十分に恥じている、でも鶴の人と寝ている時に感じるのは自分がどれだけ開かれるのかというただそれだけであるので、恋しいというよりも何か近親相姦的なものを感じたりもする。
これは肉体的に近いという意味ではない。
肉体的には全く異なる遠い人なのだが、あまりにもよくわかり、あまりにも愛おしく、あまりにも「近い」ので自分が鶴の人の母になったような気持ちに陥ってしまう。
恋をした人に対してはそのような気持ちにはならないだろう、いつまでも異質で魅惑的で、理解を超えた相手に対しては、互いに一種の幻想を追い求め合う事が続くと思う。
鶴の人のことはすごくよくわかる、彼が何をしたいのか、気持ちは相変わらずあまり口に出さないが彼のエネルギーがどのような状態であるのかは何となくわかる。
だから何でも聴けたのだ、恋とは言い難いので、反発せずに聴いていることが出来たのだと思う。
駄目と言わずに、嫌と、素直に言えたのだと思う。

 

この情をなんと呼ぶのかは解らない、単なる情婦=情夫の情だろうか?
その彼が遠くへ行ってしまう、遠くっていったって大阪だが、今ですら「自分と同質の何かがある」という点に於いて彼の存在が薄らぐときがあるのに、もっと遠くへ行ってしまう。
彼が私をどう思っているのかは私が書く事ではないが、いかんせん本音や気持ちを元来出しにくい性質の人であるため、こちらも待っているのが不安ではある。
そんなわけで一緒に蕎麦を啜りながら彼に手紙を書いて貰った、薄暗い梅雨の夜、隠れて啜る蕎麦の味だけが彼と私の存在を示しているみたいだった。
もし私や彼が自分の本性に向き合っていたのなら、彼はまだ創作をしていただろうか?
あるいは彼は浮気性などではなかったのかもしれない、そのような時期を経験する事無く一生を終えたのかも知れない、だとしたら出会わなかったのかも知れない。
私が自分の本性に向き合っていたのなら…いいんだ、とりあえず目前の目標を私はやるしかないのだ、誰が決めたわけでもないのだが目標というものは唐突に目の前に啓示される。
私はこの壁を今までは憎んできたが、最近は壁に近寄ってよく観察することにしている、この壁は七夕の短冊みたいなもので出来ている、願い事で出来た大きな大きな壁だった、その壁に私は自分で裁縫が上手になりますようにと書いたのだ。


鶴の人は紙にさらさらと文字を走らせていた、よく見るとそれは私だけではなく、数多の誰かへの応援メッセージでもあった。

 

私は鶴の人の書いた手紙を読みながら、蕎麦ってこんなに美味かったのかと感じ入りながらその時、瞬間的に泣きそうになったが、実際には平静を保って笑った、涙は目の奥で出口を探して泳いでいる。
素直に、あの時食べながら泣けばよかったと、今私は少し後悔している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義に於ける飢餓感思想は嘘(捏造)である

 

毎日沢山の本を仕事柄見るけれど、時代は変わったのだなと感じる。
子供用の本の割合に「仕事」や「発達障害」の文字が異様に増えた、もう子供という存在と仕事と発達障害が融合したかのような感じだでも全く変化しないのは価値観を「受動的」に受け入れるという視点そのもの、盲信するという思考回路そのものは悲しいほど不変のままだ。
私は仕事や、発達障害というジャンルを馬鹿にしているんじゃなくて、そればっかり馬鹿の一つ覚え状態で連呼している教育関連の人々の危うさみたいなものを、個人的に気味悪く思っている。


子供が正常かそうでないかの判別にだけ時間を割いて、児童用の仕事紹介の本といっても中身は「こんなにたくさんの職種があります☆」みたいな希望とも絶望ともつかない曖昧な職業紹介。
その職業紹介の中には、驚くべき事に内職とか清掃も含まれるが…はっきり言ってしまうとこれは学校になんか行かなくたって出来る仕事であって、自分でやっててなんだけど全く食っていけない。
「仕事」というものの本質をもし、しっかりと食っていくということに当てはめるのであれば、この手の「児童関連の仕事本」というのはもう滅茶苦茶な事を謳っているだけの書籍だと私は感じる。
成人するということと自立するということを全く同質に扱うのであれば、酷なようだが頭の出来の良い子だけが自立すべきだろう。

 

つまり文化自体を変えてしまった方がいいと感じている、家賃や諸々の経費を自分一人で賄うのは結構大変な事で、そもそも効率が悪い。
いっそ同じ家に暮らし続けるとか、血族で緩やかに固まって生活するとか、一見時代に逆行しているように見えるかも知れないが相互的に生活連携の取れた状態を保つのであれば、稼ぎが少なくとも生きて行ける、私は母系社会的な思想が生じればこのような緩やかな思想が普及すると思っている、有史以来父系社会が幅をきかせてきているので全体的に視点が歪んでいるのだろうと思う。

 

成人という存在を、いつまでも「自立して完全自活している健康状態も良好な人」と見なしているから、そうでない人がまるで「不良品」のように見なされるのであって、根本的な部分で「ライフラインは相互的に補う」という大前提が生じれば、「引きこもり」や「ニート」という状態を「危険」視することは無くなるのではないだろうか?
だって誰もが常に健康的に活力があって自活できて多くの貯金も出来るほどの人間ではないだろう。
「出来ない」ということに着目しているから発達障害というジャンルだけが一人歩きするのであって、そこに理由とかは本来あまり必要で無い気がする。

 

原因探しの迷路に入っているような気がしてならないと感じているということ。

 

仕事が無くなると煽る本もよく出回っているが、ああいう本の著者って何なのだろうか?人の飢餓感を煽って何がしたいのか…意図がいまいち理解出来ない。
昔の銀行ではお札は手で数えてたから手先の器用さが問われたけれども今はそんなものはどうでもよい…じゃあ手先の器用な人は機械に仕事を奪われたのだろうか?
この、何かの脅威に仕事を奪われる思想、自分が役立たずになる思想の背景には自分だけが助かってよかったというような、ノアの箱舟に自分だけが乗り込みたいというような我欲を感じる。
例えば本当に誰かが仕事を奪われたとしたら、その分の飢餓感を全体が必然的に引き受けねばならない、人間社会というものはそういうものだ。
結局の所本当に自分だけが助かるなどということは現実的ではない、相対的に助からない限り意味が無い。

 

だから自分にだけ仕事があって誰かには無いということは結果的に、誰も幸福になれないという認識が広まらない限り、資本主義がこれ以上発展することってもう無いのではないだろうか?

 

一つ一つの仕事の賃金が減ると同時にこれからは副業の時代になってゆくようだし、かくいう私も内職+職人という状態になりたいと思っている。
人形職人、絵画職人、そう、やっていることは製作であれ創作であれそれって独自の感性が入り込むと固有名詞的には作家になるが、行為としては職人であるので私は職人になりたい。
だがこの副業というのも…私とて内職+職人という状態に達したとして、果たしてそれが食べて行けるレベルなのかどうかは甚だ疑問である。
ただ、これを一言で趣味の世界とかいう言葉で納得はしたくない、手作業というのは今も尚純然たる「仕事」であると私は思っている。
信じていると言ってもいい。
手作業は軒並み低賃金である。
手の器用さ何てものは最早あってもなくてもその人の人格に何の影響も無いほどに…無価値化している。
特技というものがもう仕事面で通用しないので、「機械に仕事を奪われた」ようにはたからは見えるだろう。
私の両親だって私が「今内職をしていてこれからは色々と習って職人になりたい」等と言うのを苦々しい思いで見ているはずである、何故なら手作業は何の益にもならないという感覚が強い人たちだから。

 

手作業の仕事は私は価値があると思っている、飲食店とか美容室なんかは永久に無くならないだろう。(人間が肉体という器を捨てきらない限りは。)
美術品の制作、創作、価値観も永久に無くならないだろう。
そして機械に仕事を奪われたように見える私ですら、ミシンやPCという機械と協力し合いながら思考を組み立てている、奪われているというのは甚だ誤解である。
さらに言うとその機械を調整する仕事というのも必然的に生じるわけであって…何かが生じたら必ずそれを手助けする思考が生じるので、この世の中に「無くなる」とか「奪われる」という事象そのものは元来、生じ得ないのだ。
資本主義に欠点があるとすればこの「飢餓感妄想」や「奪い合い」という「妄想」までもが、金銭の原理に組み込まれてしまっている、ということ。

 

副業支援について考えるのは…それって本業だけじゃ食ってけないのを「大前提」にしてしまうって風潮を広める価値観なわけで、飢餓感を煽ってしまいかねないということ。
副業しないと「損」とか、空いた時間は徹底的に「使う」とか。
その時に「使って」いる時間って本当に「必要な」行為なのだろうか?
個人で終始した世界でならば必要かも知れない、お金はあるだけあったほうがいいと私ですら思うが、私がお金を欲しいと思う理由は本当の所、創作に必要な経費が欲しいというものであって、数字そのものには愛着が湧きにくい、だがまあ確かに必要ではある。
で、この必要なお金というものを殊更、『お金が必要だ必要だ、これがないと路頭に迷う、副業が出来ないと損をするぞ、頭が悪いと大変な事になるぞ、頭の悪い理由を言わないと辛い目に遭うぞ、頭の悪い人には理由が必要で、その理由にもさらなる理由が必要で、適切な仕事が必要で、そうしないと大変な事になるぞ』…とまあ、こんな感じに延々と聞かされているのが私たちの世の中なわけ、そんな本が延々出版されているのが私たちの世の中なわけ、病的だ。

 

これってさ…『修行しろ修行しろ』…みたいなさ、サブリミナル効果でしかない、いつぞやの宗教集団を馬鹿になんて到底出来ない状況なのではないか?


副業という概念を広めると、それには勿論私のような創作好きには美味しいような言葉も添えられていて、自分の好きな事で稼ぐ、みたいな文句もサブリミナルの一種なのだ。
自分の好きな事で稼ぐということをサブリミナル効果で広めた場合、自分の好きな事で稼げていない現状というものを直視せざるを得ない、という現実が浮かび上がってくる。
で、この現実を超えるには先天的にポジティブでポテンシャルが高いか、あるいは消極的かで随分差が開いてくる。
金銭=幸福というサブリミナルは狂信者の呪文でしかないのだ。
私ですら思うよ、なんかキモいなあ~って。
『私らしい働き方☆』『好きを仕事に☆』『副業で稼ぐ☆』
って、内職+職人になろうとしている私ですらなんか、ああキモいな~、狂信的だな、と思う。
資本主義というものや、金銭+幸福という「主観的な部分」を、強引に強引に金銭に結びつけて流布している状態だなと思う、これって何なの?
もうどんな本でもそう、いちいち製本しなくていいような(それこそネットにだけあげとけば済むような)薄っぺらい本とか、ありとあらゆる児童書に至るまで「働こう働こう」って…いい加減キモいんだけど??と首をかしげたくなる。

 

私はこの資本主義絶対思想に対して危機感を覚える。
今の時代の本を、あと半世紀くらい経ってから読み返したら正直だいぶ異様だと思うよ。
そこには常に思考だけを優先させる思想があるから。
身体的な感覚が置き去りにされたままの育児書、手作業やハード面での感覚を軽視した思想。
だって人間は肉体を持つ限り感覚が生じる、あまりにも思考面での優生思想が行き過ぎていて、その優生思想からはみ出た人は即刻病名がつけられる…相互理解という思想は一つの思想でしかなく、それ自体が一つの宗教みたいなものなのに。
この優生思想の背景には資本主義がある。

 

そうまでして資本主義社会を永続的に続けたいのか?
数値への魅力というものが人類のある地点に於いて半減した場合、人はその「軸」では動かなくなる、よってその軸であるところの数字は、ある地点を境に目減りする。
今更ながら抽象的な話なのだけれど、私は資本主義はいつか崩壊すると思っている、別にそれを楽しみにしているわけでもない、それが終末思想というわけでもない、特段「信じている」わけでもないが直感的にそうなるだろうなとは思っている。
その崩壊はほんとうに緩やかで、私がそのような時代に生きていても気付けないと思うし、感覚的にも和やかだろうと思う。
…今がその時代のはじまりなのかもしれないが。

 

もし金銭というものを誰も「信じなく」なったらどうなるだろうか?
…結論、どうにもならないと思う、テクノロジーはテクノロジーで在り続けるし、何も機械やテクノロジーが人の仕事を奪うというわけでもないだろう。
大体、奪われて困るのは金銭が稼げなくなるからだ。
資本主義という大前提を盲信しているからだ。

 

このような話は夢物語のように聞こえるかも知れないが、金銭というものが消失しても人は農耕をするだろうし、食べ物を生産、保持、調理し続けるだろうし、創作し続けるだろう。
だから「労働」はだいぶ減るかもしれないが「はたらき」は無くならないだろうなと私は思う。
だって人間は肉体というものをまだ保持しているのだから、虚しく手を遊ばせる事こそが苦痛なのであって、何とかして刺激を作り出そうとするだろう。
テクノロジーそのものを作り出そうとするだろう、だからテクノロジーは誰かの何かを奪ったりは出来ない、それこそが誰かの刺激になるのだ、それをはたらきというのだ。
その刺激に感銘を受けたり、美味しいものを食べたり、緩やかに飢えたりしながら人間はジクジクと生き続けるだろう。

 

テクノロジーは無くならない…テクノロジーはミシンのような物理的なものでもあるが、同時にプログラムで出来ている、だったらプログラミングを出来たら楽しそうだなと思ってあれこれ、全くの空想を考えてみた。
宇宙の始まりからの働きを倍速で再生、そして宇宙の終末までもを計算してくれるプログラム。
地球の生命と地球のアルゴリズムの解析。
まあこれがいかに無理難題かもよくわかっているのだが、仮にこのようなスーパーコンピューターが物理的にも実現化したとして、その計算式に終末という答えが生じたら、人間はどのように対処するのだろうか?
先ず、その演算を盲信するのか、その演算自体をそれはそれとして受け入れるのか、全く受け入れないのか。
これにより世界に新たな思想が生まれるのだろうか?
今思うのは通貨の流通、人々の幸福度、というものを基準値にして資本主義というものがあとどれくらいの間世界の基準で在り続けられるのかの演算を見てみたい、そのようなプログラムを組み立ててみたいと夢想した。
この演算が可能だったとして、「明日、資本主義は消滅します」という結果が出てもやはり大半の人は通貨を手放せないだろう、それが金貨でもなくただの数値であったとしても。
ここにも答えを前に自動的に、この答えを盲信するか、受け入れるのか、あるいは完全に無視しながら資本主義を頑なに続けるのか…で思想は分割するだろう。

 

その分割した視点の分だけ、資本主義は「弱まる」だろう。
何故なら資本主義の一番の脆弱性は「視点の共有」にあるのだから。
皆が皆資本主義を盲信しているのであれば、その世界に於いて資本主義は絶対の脅威となり得る。
だが資本主義を盲信しなくてもよいという緩やかな視点になればその分だけ、この「働くのが美徳」という視点は弱まる。

 

私は一端、社会全体が母系社会に傾けば今の「自立こそが美徳」という概念も薄まり、やたらめったら「引きこもりは悪」という悪者叩きでフラストレーションを解消する風潮も薄まると思っている。
皆が「英語が出来てプログラミングが出来たら食いっぱぐれない」と信じていたらそうなるが、テクノロジーがもっと進んだらプログラミング自体、人がいちいちブラインドタッチで文字列を入力するなどということは作業として、無くなるのではないかと感じる。
人間が人間根本の知りたいことをテクノロジーそのものに問いかけて、プログラミング自体がその問いかけに沿った演算を導き出して行く…というような現象が起ると思う。

 

あと50年経ったらプログラミングを手入力で行っていたなどという時代のあったことの方が…物珍しい過去の現象として扱われるだろう。
私があと50年経ってもまだ生き延びていたら、父親のことも「プログラマーだった時期もあった」という風に懐かしく語るのかもしれない、老婆となった私はPCに向かって演算を入力していた父の姿を懐かしく思い起こす事もあるのかもしれない。
その頃には、懐古主義の人々だけが趣を感じながら手入力でプログラムを組み、独自の演算を楽しんでいるのだろうと思う。
「自分の手で入力した演算が稼働しているのを見るのが楽しい」というような言葉と共に語られるだろう、プログラミング自体が手作業の一環として語られるだろう。

 

それは洋裁と一緒で、裁縫と一緒で、刺繍と一緒で、感覚主義の美徳であり、それでも生き続ける人間のはたらきなのだ。
絵画と一緒で、ありとあらゆる創作と一緒で、スポーツと一緒で、調理と一緒で人間が宿命的に行う肉体的な、はたらきなのだ。

 

…つい視点が包括的になりがちなので断っておくが、社会的には単なる内職工の戯れ言であるため真に受けないように。
私自身全身全霊で書いたことを「信じている」わけではない、本音ではあるが、その本音を笑い飛ばしたいような気持ちですらある。
また本という存在があるので私の仕事もあるわけであって、それなのに一方で私自身が「これは製本する必要性を感じない」等とのたまうことを不義理に感じたりする方もいるかもしれない。
念のため言っておくと、目の前に在る本という存在それ自体を私は愛でている。
だからフィルムかけも根源的には楽しい作業で在る。
が、手作業というのは「自分独自の創作が入り込まない限り」心が飛んでいる状態である、忘我している状態である。
内職に於いてはどのような本であれ私は愛でながら作業しているが心では、別のことを考える余地が生まれる、その余地の部分の囁きを私は無かったことにはしたくないし、すべきではないと思う。
自分の「心」が感じた部分は正直に表明すべきであって、決してそれが内職の仕事を脅かすものではないと断言出来る。
だって、目の前の労働と自分の心のはたらきが異なっていても、それ自体は悪ではないと私は思っているから。

 

私の「心」の思うとおり、人をいたずらに煽ったりする内容の薄い本が潔く淘汰され、児童書の大半から病気の文字が消え、代わりに肉体感覚を引き延ばそうというはたらきが増えたら…。
そのような未来が訪れたら、本の冊数自体が減ったら、私の仕事は無くなるだろうか?
私は、無くならないと思う、価値のある本を保存するというはたらき自体が逆に増えると思う。
また一方で、自分の「労働」がなくなっても良いと思っている、私自身は本の紙のページをめくったり、偶発的に開いたページなどに神秘性を見いだす質の人間であるので本そのものを好んでいる。
概念や思想というものが物理的な次元で発現しているということそのものに面白みを見いだしているし、指で楽しめる質感というものにも価値があると思っているが、その折角の質感を恐怖心や飢餓感と結びつける出版物が増えている現状を思うと…本ってもう無くなってもいいのかな、と思ってしまったりする。
本というものの唯一の欠点を挙げるならば、思想に「触れられる」ということ。
これは善くも悪くもなので、飢餓感に「触れている」ということが多くの人の主観的真実になるような…異様な思考上のもつれを社会全体に生じさせているのであれば、本の製本冊数は減少すべきなのではないかとすら思う。
こんな本を増やしてどうするのだろうと疑問にも思う事が多々ある。
飢餓感を煽る本をフィルムコートしていて思うのは、「このような不自然な時代もあったのだという証を作る作業をしているのだ」ということ。
主観的な思いとしてはそのような認識で作業している、勿論良い本も沢山あるが…全体的に一冊一冊の濃度が薄められている気がするのは思い過ごしではないだろう。

 

人間という生命の演算の中にはどうしても、本音を表明するというはたらきが組み込まれている。
どうしても何かを作り出したい、創作したいというはたらきが組み込まれている。
私の書いているこういった文章もこのはたらきによるものだと思っている、だから日々生きていて感じたありとあらゆる物事についてを演算して進化させたいという欲求だけが根源の軸であって、それ以外には答えは無いのだ。
私がいいたいのは「資本主義に於ける飢餓感は、嘘である」ということ「資本主義に於ける奪われるという思想もまた嘘である」ということ。
この嘘は作られたものであって、人間元来のはたらきから外れているということを、何故だか私は言いたくて堪らないのだ。
客観的には私は主観的な妄想を話しているに過ぎないし、自分でも笑い飛ばしたくなるのだが、それでも思っていることを素直に言うとうことを私は是としている…それこそが根源的な意味でのはたらきであると私は思っている。

 

 

 

 

 

 

はじめの一歩が重すぎて

 

はさみ一本で何千冊、ひょっとするとそれ以上、本にフィルムをかけてきたわけだけれども、はさみ一本でこれだけ稼働出来るのだから針や糸やミシンは根源的にはそれ以上の稼働率を秘めているはず。
なのに私ときたら型紙から布にチャコペンで型を写すのに一苦労、ミシンはまだ練習の稼働として延々と同じパターンを縫い続けている。
私はその時に何だか、危機的なモノを感じて戸惑った、一体何に私は怯えているのだろうって不思議になってきて、型紙を写す手を止め、自分の目で見ているモノと自分の感じている事を単に、手で掴むみたいな感覚でしばらく見つめてた。
それから一体全体自分が本当は何に直面しているのかってことをチャコペンでそのまま布地に書いてみた、これは消えるペンだからね、大丈夫、私の書いた情けない孤独感なんてものはすぐに蒸発してゆくはず。

 

第一に、ミシンへの投資で私にはそこまで軍資金があるわけではないから、超初心者から脱するためにも手早く、都度払い式の洋裁教室に行きたいわけなんだけど…それすら来月に回したほうがいいってこと。
第二に、それでもやりたい事はちゃんとした人形ドレス教室に通った方がやっぱりいいわけだから、月払い式の教室にも行きたいわけなんだけど…それは最早再来月に回したほうがいいってこと、何か物事を始める時っていうのは揃える物が要るからね、それに私はそういう物にはとことん拘ってしまう質だから。
でもこの第一と第二、つまり二つのお金マークを布地に描いた時に私は、それを見た時に私は何だか…これが自分の事のようには思えなかった。

 

これって悩みではなくて、これは単なる現実、私という人間が月々いくら使えるか、散財出来るかという観測可能な事象であって、本心とは別の物じゃない?
これは現実であって悩みではない、じゃあ私の感じているわだかまりって一体何なのだろう?
私は、何を私自身に隠しているのだろう?

 

胸がざわざわしてきて私は参議院選挙の事を考えて気持ちを落ち着かせた、とりあえず巨大組織をぶっ壊すって言っておきたいような気分だった、でも本当に考えているのは別のことだった。
本当に壊してしまいたいのは別の何かだった、壊してしまいたいもの、殴りたいもの、叩きたいもの、自分が対峙出来ないような大きな何か。
…漠然とした他者への恐れ、何かを習うということへの抵抗感、あるいは従うということへの心理的抵抗なのだろうか?

 

その抵抗感を持ったままの自分自身を壊したいのだろうか?

 

思えば私は自分で自分を律して訓練をしたことがない、学校へ通うというのはいわば絶望的な訓練だったが、何の成果も出ないただの刑罰であり、それでも訓練だった。
訓練、というのは自分の上限値を目指すことを言うから。
だから訓練しないよりは、したほうがよかったんだ、でも私はそこから逃げ出したくて堪らなかったんだ…別にこれから「学校」に通うわけじゃない。
教室に通うだけ、どちらかというと「お教室」に通うだけ…それでも何か習うってことは訓練なんだって事を、私は直視しなきゃならない。

 

私は布地に①訓練⇒苦手、怖いと書いた、その文字は見れば見るほど…小学生そのものの筆跡だった、常に目標が未達成だった当時を思って私は身震いした。
身震いしたということに私はさらに怯えた、「こんな、学校という組織を離れてこんなに経つのにまだ拒絶感を覚えるなんて…」、私はこれ以上何か書いたらこの布地が「穢れる」ような気がしてきて冷や汗が出た。
布地は練習用のシーチングだった、隣に何気なく描いた鳥ももう消えようとしていた、空に羽ばたいていったのだ…刺繍もまだなのに。
訓練を上手く出来た試しがない、という過去の思い出がまだ根付いていて、それが今やりたいことよりも大きく軸を成している。
果たして苦手なのは訓練だけだろうか?

 

もう一度自分の目で見ているモノと自分の感じている事を単に、手で掴むみたいな感覚でしばらく見つめ、そこに文字が浮かび上がるのを感じて私はさらに布地に書いた。
②人と話すこと⇒苦手、怖い、意味が伝わらないかもという恐れ、傷つけてしまうかもという恐れ…四半世紀も前のお絵かき教室での出来事すら思い浮かんだ自分を私は恥じ、布地を穴の空くほど見つめて途方に暮れた。
そうだよ、私は遊ぶ時にすら「もっと元気に!」と言われていたんだった。
わかってる、別にお友達を作りに行くわけじゃない、仲良しをやるために行くわけじゃない、だけど殺伐とした気持ちで行くところではない、仕事しに行くわけでもない。

 

ああそうか、私、人との関係性の訓練をも、やらないまま就学期間を終えたのだ…その訓練もまた、規定値に達さないまま私は成人し、漠然と「仕事」だけで人と関わりながら生きてきたんだ。
仕事とは言っても食っていける賃金ではない、清掃や内職という裏方で一人きりでやるものを選り好みして、そこに就いているのだ。
もっとも、この一見柔らかいような響きを持つ裏方世界にすら厳然たる生存競争はあって、手が速ければ早々に一人前に扱われ、鈍足は舐められる、単に手の速さがあったから私には…清掃も内職も居心地の良い場所だったというだけ。
それは人間関係などでは無く、生存競争に於いての、居心地の良さだったというだけ。

 

皆がある程度の速度である程度の理解度で一緒に進んでいくのが煩わしくて、嫌だっただけ、遅すぎて嫌だっただけ。
あるいは、皆がある程度の速度である程度の理解度で進んでいくのが大前提の場所には、全くついて行けないから、恐ろしかっただけ、速すぎて嫌だっただけ。
それって突き詰めると、事象としては速度を合わせにくいっていう問題があって…でも悩みとしては本当は…本当は、皆のペースを乱して恥をかくのはもう懲り懲りっていう気持ちが渦巻いて居るっていうことなのだろうか?
①と②の悩みの正体というのは、もう叱られたくないという気持ちと、自分の消極性と、理解度の低さ、それらを漠然と「隠したい」気持ちが渦巻いて居るって事、これはプライドの問題。
隠したいのに、「何をしたいのか」言わなきゃ訓練にならない。
隠したいのに隠す事が出来ない、相反する行動をとらなければならない、だから最初の一歩が踏み出せないんだ。

 

私は悲しくなった、理解度の訓練…手の速さっていうのは足の速さと実は同じ仕組みで…要するに生まれつきっていうこと。
私はこの生まれつきの部分に賭けてみようと思っている、生まれつきの部分は生存競争みたいな原理が働くから仕事も楽。
足の速い人の持つ独特の余裕を実は私も持ってるんだって、近くの運動場を通り過ぎたときに思った、私だって与えられているんだ。
そして取り上げられているものもある、平面的な理解度、計算や言語の理解度。
それを補いに行かなければならない、それにはやっぱり努力が必要で、本のフィルム貼りが一日に100冊出来るのは努力なんかじゃなくてただの適性、努力というのは…行動のこと。
そして行動を「素直に開示」しなければ、本当は誰も手助けなんか出来ない。
誰も助けに来ることすら出来ない。

 

私が素直に開示しない限り、恥を恐れて隠さない限り、馬鹿みたいなプライドが傷つくのを恐れて頑なにならない限り、助けを呼んで、努力の仕方を学べば、努力は出来るはず…。
でも私は努力したことがない、③努力⇒未知の事、と私は書いた、①は既に消え始めていた。
私が今までやってきたことっていうのは「馬鹿」という罵倒に耐えていたというただそれだけなんだ…その過去の思い出を、ただ黙して耐えたということを延々に引き摺っているだけなんだ。

 

はじめの一歩を踏み出すのがこんなに大変だという事に堪らなく悲しくなってきて、夕刻の部屋の中で私は立ちすくんだ、空は妙にはっきりとしたピンク色で何かを訴えかけているようだった、そのピンク色に対して私は「繁忙期だから」と呟いてPCの電源を入れてネットを見始めた、現に内職は繁忙期で最近は半日ほどマラソンをしている。
ラソン、というのは内職の一時間はマラソンの一時間に相当すると私は感じているから。
例えば本当に1時間30冊やろうとおもったら本当にマラソンをする要領でやらなければならない、合間に「休憩」なんかしてしまうともうマラソンコースには戻りにくい、だから実は一日で出来る「量」は正確に何冊かは決まってないけれど、時間で言えば大体4時間が限界、4時間を過ぎると集中力が切れてきてしまう。
だから限度で言うとやっぱり一日100冊がギリギリで、その100冊というのも文庫本や単行本なら3時間半ほどで終わらせることが出来るからまだしも…処理の多い絵本となると気付くと5時間ほどかかっていたりする。
単行本の100冊は楽しんでやれる、絵本の100冊はしんどい…何故か?処理の判断をしなければならないから。
心が飛ばないから。
でも飛んだ先の心は今、はじめの一歩を踏み出せずに居る、だから私はその実「繁忙期でよかった」って安堵している。

 

「先生」の病院のHPを久々に見る、閲覧者数とか様々な、彼に関連する数字が表示されている、数字が全てって訳じゃ無いけど…この人は何かをやろうと思ったらすぐにやってきた人なのだ、医者になると思ったら医者になるための努力をして、芸術家になると思ったら芸術家になるための努力をしてきたんだ。
でもそれは、人間に対する適性があったのだろうとも思う、斜に構えた見方かも知れないけれどここまで素直に突っ走れるというのは、私の手先同様何らかの勘が人間社会に対して働く人なのだ。
勿論その勘が全てとは言わない、ただ、「向こうから誰か来る」と言われて「どんな人かな?」とわくわくするのか、押し黙ったまま身構えるのかは…表面上どう取り繕えたとしても、半分くらいは勘の世界、先天的な要素の話。
何だか悔しい気持ちで私は呟いた、「別世界の人」、手の届かない人、憧れの人…ただの凄い人。
見えている世界が違うんだ、住んでいる世界が違うんだ、認識出来る枠が彼は広大で、私はとても小さい、小学生みたいに小さな枠のままここまで、その枠を広げる訓練もせずに来てしまった。

 

ああ…恥ずかしいな…洋裁教室に行くのが難しいなんて恥ずかしいな。
行動するって、この恥ずかしさを超えないとならない、弱さを超えないといけない。
素直にならないといけない。
変わらないといけない…でもそう思えば思うほどに、自分の情けなさが染みこんできて、それが今までの過去という事象で裏付けられる気がして…そんな自分のエゴの強い所も許せない、だって恥ずかしいって事は…プライドの問題だから。

 

右手に触れると親指の付け根がぽこりとしていた、たこだった、はさみのたこが出来ていた、身体の組織も変化しているのだ…本人の気持ちなんかとは関係無く、行動によって変化しているのだ。
別人になると言うことはやるべきではないけれど、本当なら身体の組織は、四半世紀前とは別人になっているはず。
私が私だって決めている規定値があって、それに合わせて行動せずに居るのは安心。
こういう悩みを話せる、手を繋いでいるあの人はもうすぐ遠くへ行ってしまうし、心細い、チャコペンで描いた鳥は完全に居なくなっていた。
私は危機と直面している、これが規定値だと定めたところの私は危機を感じている、だって私は、自分の規定値に満足している私をぶっ壊そうとしている。
もし人が本当に前進しなくちゃならないのだとしたら、確かに、毎時壊さないとならない、自分の決めた過去の模範を壊さないといけない、自分を壊さないといけない。


現実的には、ミシンという機材を選んで、本社まで行って吟味して、その他の道具を揃えたという行動は出来たけれど、次の行動がまだ取れずに居る。
はじめの一歩ってなんでこんなに重いの?
「繁忙期でよかった」とつい言ってしまう私は、はじめの一歩が重すぎて、まだ前進しきれずに居る。

 

 

 

人類史に於ける手仕事について話がしたくなりました。


日本十進分類法によると芸術は第7類に該当します。
概念としては第0類の哲学などから順に人類史の発展に伴って9類の文学まで進んで行くのです…等と教わったような気がしますが、0類に情報という項目があるため0類にはパソコン関係の図書も大量に置かれているのでまるで人間の根幹がPCで出来ているかのような違和感を覚えます…これからの人類が機械と融合する事を示唆しているのでしょうか?


さて、芸術というと哲学や宗教学のような風合いを帯びているような文化的位置づけですが、実は6類の産業の、その次に分類される概念です。
7類…大きく芸術と題されたその図書概念の中に、「工芸」という項目があります。
私が思うに、今芸術と呼ばれているものこそ、工芸なのです、手仕事なのです。
産業革命以前は芸術は工芸だったのです。
ここでまた戸惑うのが、何処までが工芸で、その何処までが家庭に於ける手仕事であったのか、です。
5類の終わりに家政学があり、そこにも洋裁や刺繍といった工芸的手仕事の項目が設けられているのです。
つまり私が芸術だと思う概念は…思想と、工芸と、そしてその手仕事を何処で誰がどの思考の位置づけで行うのかということによって無理矢理に変形させられてしまうのです。

 

庭で摘んだラベンダーはまだ生きています、植物は毎朝声をかけ、水をやったり水をあえて切ったりしていれば好き勝手に伸びて行きます。
私が顔を見せない日が続けば彼等は確かに悲しみますが、顔さえ見せて撫でてやれば勝手に育って行きます。
何も私の力で生きているのではないのです、勝手に生きて、勝手に死んで行くのです。
だから私は庭が好きなのですが庭は芸術ではありません、庭は十進分類法では6類の産業に分類されます、この庭も産業の一つなのです。

 

農耕というものは第一の自然破壊なのです、私がこの庭の土に根付くドクダミを抜いて抜いてラベンダーを植えるということも自然破壊なのです。
石灰を多く混ぜた土は最早この土地の土とは言い難いのです、石灰の多い土はアルカリ度数が傾き、虫はあまり来なくなり、代わりにハーブなどの植物とは相性が良いのです。
そしてラベンダーは伸びに伸び、私はそれを園芸ハサミで勢いよく断ち切るのです…ラベンダーの声がします。
「私には効能がありますよ、石けんに混ぜるとか、オイルに漬けても香り立ちますので便利ですよ」
私はその声に対し答えるのです、「石けんを作るには石けんを買わなければ、オイルに漬けようにもオイルも買わなければ…でももう裁縫用具やらで素寒貧だから何も出来ないのよ、あなたたちはただ死ぬだけ」、手の中に握りしめられた大量のラベンダーが悲しげに俯いているのが見えました。
私は思ったのです、私は手仕事がしたくてもどかしいほどにミシンやら洋裁道具やらを買いそろえて尚、刺繍針や刺繍糸までもを指先に吸着させようとしているけれども、このように「はたらき」をしたいがために、散財するのだと。
手を遊ばせておくのが我慢ならないから、手仕事をしたいから、散財してゆくのだと私は気付き、摘んだばかりのラベンダーに顔を埋めました。
そこからは、遠い土地の匂いがしました、何だかこんな風に何度も何度も埋葬されたような気さえして私ははっと起き上がり、それを大きな皿にのせ、その日は薄紫色の香りを楽しみました。

 

産業革命以前であれば、多くの人が手仕事をしていたように思います。
今洋裁教室に通っている数多の人、多くの「趣味人」たちが手仕事をしていたように思います。
産業革命移行、何も全てが機械に取って代わった等と言いたいわけではないのです、先進国となった国々が手仕事などの物理的な仕事を低賃金にし、どんどん通貨の威力の低い国々へ流出させたのです。
よって、家庭でも出来る手仕事は工芸となり、工芸は芸術という怪しげな概念に進化…あるいは退化したに過ぎないのです。
だから私が「お裁縫を楽しみたい」等と言おうものならとんでもない暇人、頭の中がお花畑の「主婦」と揶揄されるのです、これは穿ったモノの見方でしょうか?
炊事、洗濯、手を遊ばせておくよりも針仕事がしたい…この欲求そのものは実にシンプルで動物的でさえあります、産業革命というものがまだ存在しない世界であればこの物事を好き好む人々は押し並べて「はたらきもの」と呼ばれたでしょう。
だから私の欲求というのは本能でさえあります、でもこの本能自体には性別はありません、だって手作業は、ただの工芸なのですから。
工芸という、人間のはたらきなのですから。

 

工芸と家庭で出来る手芸の違いはただ一つ、それをやっている場所が何処であるかということだけなのです。
家事の合間に出来る手作業が手芸なら、工芸は工房でやる、それだけの違いでしかないのです。
もう一つ違いがあるとすれば「賃金」という概念でしょう。

 

人新世という言葉があります、この言葉自体が曖昧なものであるようですが…大きく言って地球史に於いて人類が大きく影響を持つようになった時代を指すようです。
いつからが人新世であるかには諸説在り、農耕のはじまりがそれに値するという人も在れば1950年以降、第二次大戦以降だと言う人も、産業革命以降であるという人もあります。
私は個人的には「通貨」が生じてからが人新世だと考えています、だって今私が悩んでいるのはまさに、「お金がなければはたらけない」という現状なのですから。
そして「はたらき」というものと「労働」ということの区別が無いということにも疑問を感じているのです。
だって「労働」が全ての正義のような風潮に、私は危機感を覚えます。
そこで言う労働は本当に意味の在る「はたらき」なのでしょうか?
本当に意味の在るはたらきというのは「慈しむ」という心のはたらきを言います、それが生じない限りその労働の場は悪循環ばかり生じます。
労働するために消費して、資源まで消費して、季節に抗うようなものを作り出して、結果、農作物の品質は落ち、海産物にはプラスチックが混ざり、空気は薄れて行く…。
それなら部屋で寝ていた方がマシだったのではないでしょうか?
頑張って労働した結果がこれです、本当に良い「はたらき」だったのでしょうか?
…高度成長期など何の意味も無かったのです、引きこもりという現象を私は一種の「はたらき」と見なします、世界が一枚の布であったのなら通貨や労働という概念が酷くその布を引っ張り、歪めています。
この歪みを補正するための「アクションの無い」「はたらき」、これが引きこもりなのです。
だから別にそれは、善い事でも悪いことでもないのです、補正なのです、誰かが「不自然に一生懸命に労働すればするほど」「誰かは不活発になる」、それは当たり前の事なのです。

 

人新世、と名付けられたこの時代はいつまで続くのでしょうか?
私は今、ミシンで「遊んで」います、刺繍針で「遊んで」いますが…いずれこの遊びすら、さらにお金のかかる道楽と成り果てるのでしょうか?
私は都市部に出てきた若者であるところの両親から生まれ、その所得の層の住む団地にすし詰めで生きてきました、思えば当時からその土地では裁縫という概念は嫌われていたように思います。
私たちの所得の親たちというのは大抵古い概念にひどく反発していました、そのような人々の群れが都市部の影のような場所に数多、暮らしていたのです。
第二次世界大戦以前、あるいは産業革命以前の人々の概念に歪みがあったとすれば、それは「手仕事」と「女」と「美徳」と結びつけすぎたことでしょう。
それが歪みを生じさせ、爆発的な概念の崩壊と再生を促したのです。
そのような道筋の元、私もこの時代に生まれたので周囲に洋裁、および裁縫をしている「大人」というものと接したことがありませんでした。
家庭科では勿論習うのですが、家庭科というのは学校という均一化された組織に於いての、「消化すべき」ルーティンのうちの一つでしかありませんでしたから、全く魅力を感じなかったのです。
作業というものは「均一化」したときに「情緒」が失われるのです。
均一化する毎に美が失われるのです。
美を失い、作業と化した裁縫など誰がやりたがるでしょうか?
…たしかに、そんなモノは機械にでもやらせておけばよいのです。

 

機械にでも…と言いましたが私は自分を暴力的な直感が支配する時に、家を抜け出て飛行機を観に行くのです、そこでの機械は素晴らしく情緒的なのです。
都市部の感覚としては広大な土地に滑走路があり、私はその周りをぐるりと取り囲むフェンス沿いをてくてくと歩いて行くのです。
エンジン、というものの持つ魔性の魅力…あれは心臓を代弁しているのでしょうか?
あれは魂を代弁しているのでしょうか?
エンジン音というのは魂の叫びなのでしょうか?
人為的に大きくした機械音は好みません、そんなものはただのエゴです、爆音で走るバイクなどは嫌いです、バイクは本来そのような乗り物ではないのです、バイクも飛行機も純粋なエンジン音を持っているのです。
本当に飛ぶのに必要な分だけの音、というものには音楽的な要素が含まれます。
本当に布を縫う分に必要なだけの音、というものには美が含まれます。
そして暴力も。

 

暴力というものと、何かをやろうと言う時のエネルギーは本来同一のモノ…この感覚が、飛行機を見ていると強く呼び覚まされるのです。
飛ぶということも、モーターを凄まじい速度で回転させて針を打つということも、一種の暴力なのです。
布を切る、という行いにも暴力が含まれます、破壊が含まれます。
暴力が暴力と化すのは引き金が「無力」であるという自覚です、無力感から暴力は生じます。
空を飛んだり布を縫ったりするのは真逆の引き金です、「信じて」いるときに暴力はエネルギーになるのです、だからミシンを使うときもミシンを信頼したほうがよく縫えるはずなのです。
飛行機を操縦するときも飛行機自体を信頼するのです。
自分を過信するのではなく、機械をある程度信頼するのです、相手を信じているときには暴力は生じません、世界を信じているときには戦争は起りません。

 

遠い遠い海の果てで私は恋をしました、それは現実ではないのです、現実の私は、毎月妊娠しないかどうか怯えながら、それでもセックスをする哀れな生き物なのです。
あの人がパイプカットをするなどと言うので慌てて止めました、そういう事ではないのです、私は確かに相反しています、生命の原理に相反していますがそれでも命の根源を感じていたいのです。

 

戦争のほんとうの原因が人類の増えすぎだなんて事を公に言ったのなら、多くの人は目を逸らすでしょう。
あの人は何処かへ行ってしまいます、私はそれを小さな島に居て、見送っているのです。
この、今にも沈んでしまいそうな島に居て私は、本当はここから出たいのに出られないというジレンマにがんじがらめになって、夕景の海の泡立つのをただじっと見ているのです。
ここは傍目には美しいけれど、それは数多の世界を巡ってきたら解ることであって、船乗りになれない女にはわからない概念なのです、見えない景色なのです。
この苦しみはどこに分類されるのでしょうか?
私には今、解るのですよ、どうして家で針仕事をするのか実は痛いほど解るのですよ。
それは遠くへ行きたいからなのです。
行ってしまえばいいって?
行けないんです。
だって遠くというのは地球の外側の事なのです、時間の外側の事なのです、そこからこちらを見たら…宝箱のように綺麗でしょうよ、どの時間も隙間なく生命というエンジンが稼働しているのを見るのは、さぞや楽しい事でしょう。
…私がそこへ「今」行くことは叶わないのです。

 

そういうわけで私は、過去の人類史上誰もが経験した自分の「無力さ」に囚われています、毎日の繰り返しに滅入ってすらいます、それによる暴力に遭っているのです、健康を害するということはこの摂理が働いているに過ぎないのです。
数多の女たちが無力さと戦う為に針仕事をし、特段手作業を好んでいなくとも「遠くへ行きたい」が為にエンジンを稼働させ、それを実際の暴力にしないためにひたすらに手を動かし、作業をしていたのです。

 

十進分類法に表わされる人類史というものは、悲劇だったのかって?
どの母親も、あるいはどの父親も、皆が皆、何故?という問いかけと地の果てまで行きたいという叶わぬ望みのために手芸や工芸にかまけていたと言いたいのかって?
とんでもない。
私の作り出したいものが地の果てのロマンスであるのと同様、誰もが、まだ見ぬ地球の外側の美をこの世に送り込みたくて「創作」をやっていたのですよ。
いつ何時もそうだったのです、それが賃金による工芸でも、家庭内での手芸でも、作品はいつだってひとつの宇宙なのです。
地球の生命は6度滅びたようですね、7度目に人類は滅びるのでしょうか?
遠い遠い海の果てに、最後にたった一人だけ、空を見ているなんてことが起ってしまうのでしょうか?
あと100年後には洋裁はさらに道楽と化すでしょう。
あと1000年後には農耕は最早、消滅しているでしょう。
あと10000年後には、生命は生命という摂理からまた新たに概念を生じさせるでしょう…生命と機械との境目が曖昧になり、ついに合一するのかもしれません…ともすると私は人類史から見ると既にミシンと融合しているのでしょうか?パソコンと融合しているのでしょうか?

 

話を戻しましょう…真に生命と機械の区別がつかなくなったその時の事を、今の私たちから見たら「生命という概念の絶滅、消滅」と呼ぶのかも知れませんが、何にせよ「視点」は残り続けるのです。
そしてその「視点」は尚も生命の系譜を歌い上げるのです、その時に果たして「芸術」と「家政」と「工芸」との間に境目があるのか無いのかは…人新世の果てであるその時の楽しみにとっておきましょう。

 

 

Calling 呼ばれる感覚と暴力衝動について

 

顔も名前も知らない誰かだが、人を殴ったその人は今苦しいだろうか。
顔も名前も知らない誰かだが、彼の行為は集団全体のほつれであって、不自然さがバグとなって表れた、その一端を彼が引き受けただけであって、本当は皆が責任を共有している。
その人はほつれの部分を引き受けた、ほんとうは誰が引き受けてもよかった、だからそのような人を責める場合には魔術的な転移が生じる。
暴力を駄目と言う人の中の罪悪感が、暴力行為をした人に向けられ、その人が断罪されれば…自分の中の醜さも消える、というような確信を多くの人が持っているように思う、勿論私も。
だから暴力衝動のある人間が断罪され、暴力だけを見据える環境に追い込まれ、首を吊されるのを心待ちにしている。
浄化されるという魔術を信じているから。
でもそれは本当は、誰であっても変わりはないのだ、断罪されるのが私自身であっても変わりはないのだ。
だから誰かの罪というものは全体のほつれの部分を単にその人が…特段、善意というわけではないが…ただただ請け負った、それだけなのだ。
それは私が請け負ってもよかった、他の誰だってよかった、ただ全体のほつれが生じているということだけが確かなことであって、そこに善悪は無い。

 

凶悪犯罪者、というのは本当にその人自身の性根が曲がっているからその暴力行為が表明されるのだろうか?
それとも、暴力行為や癇癪というものに直視し過ぎたために、周囲の人も「自分自身の」暴力衝動を否定したいがために、より一層、力とは暴力であるという一点集中が起きた故の…事件、事故、なのだろうか。
いつだったか聖職者が居酒屋の店員を殴って退職になったのを私はニュースで知った。
その人の性根は聖職者なのだろうか?
それとも暴力衝動の強い男というただそれだけの存在なのだろうか?
殴られた人は一体何の受け皿になったのだろうか?

 

草が生い茂っている、この草は春には可愛らしい花をつけるが花が終わるとアブラムシが大量に出る、プチプチと軽快な音をたてて飛ぶ虫も大量に出る、私はそこに一種のおぞましさを感じ、愛でていた草を一気にもぎ取る。
ダンゴムシが逃げて行く、背丈20センチに満たない小さな森林世界を寝床にしていた数多の生き物が私の暴挙に慌てふためいている。
あ!と思わず怯んだ、青緑色のぬるぬるてらてら光るトカゲが眠りから覚め、寝ぼけ眼でこちらを見てから悲鳴をあげながら身体をもつらせ、走ってゆく。
彼等は何の受け皿になっているのだろうか?
私の気まぐれな愛着に付き合わされ、そしてまた庭に寝床を見つけにやってくる、草を茂らせていると蛇までもがぬくぬくと暖まりにくる。
にもかかわらず私は来年の春には「可愛らしい花」をつけるその草をまた茂らすのだろう、花が散ってアブラムシだらけになると見るのも嫌だと言わんばかりにそれを摘み取るのだ。

 

私がこの家に来たのもただ偶然、そこに呼ばれただけであって、そういうものこそが「はたらき」であって、この場を愛でる存在が必要だっただけ。
それは私で無くたってよかった。
他の何者であってもよかったはずだ。

 

散歩に行くときにいつも感じる事がある、「今歩いているというこのはたらきは…人間からは関知出来ない何かの為のはたらきなのだ」、私は私であって私ではない。
私は誰だって良いのだ、ただ日のあるうち、出来れば午前の空気をただただ吸うということ、そして道を歩く何者かの存在となり、磁場をかき混ぜに行く。
この土地が求める事を私はただやっている、人間のうち誰も意識的には望まない事だろうが…このようなことがはたらきの根源であるように私には思えてならない。
ここで言うはたらきとは人間社会の労働の事では無い。
根源的なはたらきなのだ、庭にトカゲや蛇や虫が訪れるということと同様、何かの働きの摂理が動いていて、自分がそれを担うと決めて行動する。
そこには個別認識は無い。
誰だって良いのだ、何だって良いのだ、あるとすればそれを行動するという決定権だけが私に宿っている、これだけが私の持ちものであり…そこには固有名詞は存在しない。

 

私は歩くときに、歩く、という行為そのものになる。
私は私では無くなる、この土地を買ったとき、様々な契約を人間同士で結んだときにはまだ私には我欲が先んじていた、「私の場所」と私は叫んだがいざ当地に訪れてみると「場所」はあったが「私」などという人物は居なかった。
私は単に土地の「はたらき」の一環に組み込まれたのだ…これを受け入れたのなら幸福に成れるし、この無我のからくりを恐ろしいものだと認識するのならば人は不幸になる。
私は粘土のただひと捏ね、その瞬間にはそのひと捏ねは動いて空気を吸ったり場所を愛でたりする。
愛でる、というはたらきをこの地域は望んでいる、地底や目に見えない影たちがそれを望んでいるのだ、愛でるというのは大いなるはたらきだが…数値に於いての人間的評価は得られない。
忙しく立ち回っているほうが人間には評価される…だが、その人間的評価の歪み、ほころび、ほつれが、いわゆる「労働」を「絶対是」とする人間を凶暴にする。
こんなにやっているのにという「弱い」部分が強烈な引き金となってその人に暴力を振るわせる。
暴力というのはひずみであって、歪みであって、それは私がやったって何の不思議も無かったのだ。

 

世の中の凶悪犯罪と呼ばれるものはおよそ、私がやった、私もやったかもしれない、あるいは…私もやった、加担したと言える。
だって世の中というものに私も与しているのだから。
庭を愛でるときに私は愛着をぶつける、この花は今はかわいい、もう可愛くない、醜い。
でも庭をぼうぼうに野ざらしにさせておくよりも…手を加える「はたらき」をする存在をこの土地全体の摂理は望んでいる。
庭をいじっているときの私は私では無い、歩いている時の私も私ではない、その「行為」をする存在、それが私。
では私は今、何をやっている?
何をやろうとしている?

 

洋裁も人形も「個」としての意識の中だけでそれを認識するのであれば、あまりにも唐突で自分でも抑えがきかないので戸惑っている。
だが「歩いたり」「庭をやったり」しているときの「広大な土地、あるいは目に見えない影の一部」となった私「のようなもの、ただのエネルギー、ただのエンジン」であるところの私は、容易にそのはたらきを受け入れる。
洋裁も人形ももしかすると、この家の前の住人のように、その概念体系を構成する誰かという存在がこの世から消えたり、去ったりしたために「だれか来てくれないかな」という呼びかけが生じたのだと思う。
私は家の時もこの呼びかけに応じて出かけ、すぐに土地と出会った…が、これは「私」が呼応したのではなくて、厳密に言うと、粘土の一部であるところの私がするりとそちらへ移行したに過ぎないのだ。
…という確信がある。

 

呼びかけ、Calling、概念体系のエネルギー補填のための媒体。
ビスクドールに関しては件の英語アレルギーも難なく鎮まる、英語というのはある種の正義なのだ、絶対是であってその他は醜い、英語を嬉々として話す人の「正義感」みたいなものが苦手だったし、「私」個人はその感覚がおぞましく嫌なのだが…呼ばれている概念に対しては平気だった。
YouTubeなどでオークション動画が上がっていて、どこぞの人が美しい英語で人形たちを紹介している、「あ、あれはあの本に載ってた幻の人形、マルクじゃないの!」と私は秘かに叫ぶ。
これはすごく希少で価値がある…と司会者は話す、このときに言語というものがいかに、本来はあいまいなものであるのかを私は思い知る、言っていることの意味なんて聞こうと思えばすぐに聴けるのだ。
このような時の感覚は既に「個」としての認識を越えている、この言葉を聴いているのは「私」ではなくて「人形を好きで作りたい」というはたらきをしている存在が、言語を、概念の側から認識しているので言葉の理解度というものを越えている。
だから「私」が、というよりも…それを聴いているその時に、そこに私は居ない、私はただ聴くという決定を下しただけ。
愛でるという決定を下しただけ、人形愛という概念体系の空いている席に、ただのエネルギー補填として強く呼ばれたので、そこに腰掛けて概念の泉から湧き出るお茶を飲むと決めただけ。

 

だからこそ、行為をしているときの私は「私」ではない、そんな所に固有名詞は無い。
セックスも、風土そのものを愛でることも、庭の手入れをする事も。
だから暴力にも固有名詞は存在しない。
固有名詞が唯一作動するのは、ただ決定を下すときだけ。
セックスをする、と決めるときだけ。
こいつを殴ると決めるときだけ。
あるいは殴らないと決めるときだけ。
庭を耕すと決めるときにだけ私は私になり、行為の最中には忘我する、だってそれは私が行わせるはたらきではないから。

 

私も暴力を振るいたくなるときがある、醜いと感じた時にぶん殴りたくなる。
いつまでも人を覚えない馬鹿犬、躾のなっていない子供、躾けようともしない親、電車の中で化粧する女…どれも大嫌い、醜いから。
殴って欲しそうだから大嫌い、私をこんなに暴力的な気分にさせるなんて、だから大嫌い。
鳴り止まない目覚ましをそのままにする人には少しくらい脅して、虐めたほうが、解らせた方が美しくなるからいいのではないか?
少しくらいいじめてやったほうがいいんじゃないか?
そういう気持ちに苛まれるときがある。
彼等を断罪してきつく仕置きし、果ては命まで奪う、そして歓声をあげて手を振って私は叫ぶ「やった!醜さが消え去った!!これで世界が綺麗になった!!」…それはおかしいことだろう。
醜さというもので人が裁かれるのであれば世の中はおかしいだろう。
「私」が断罪される側になっても文句は言えないだろう。

 

でも今、現に、全く同じ事が生じている。
私は特段犯罪者を擁護するつもりないし、世の中の暴力的な出来事の全てを「感情の面で」許したいわけではない。
だが、暴力は絶対悪であり、そのほころびを担うと「決めた」「個人」は性根に至るまで断罪されるというこのシステムや文化的背景にはとてもおぞましい何かを感じる。
「やった!!醜さが消え去った!!これで世界が綺麗になった!!」
まさにこの叫びが囚人に対して、あるいは暴力行為をした人が裁かれるときに声高に連呼される。
囚人が死刑にされる時に魔術が生じる。
人間の性質には何か手のつけられない「悪い」ものが蠢いていて、それは死によってしか止められない。
だから死にはいつも贖罪の意味がある。
死はいつも神秘なのはそのせいなのだ、この摂理によって自殺も起っている。
確かに、暴力行為をしたその人たちは「暴力行為をする」という、内的な時間に於いては一秒にも満たない間の「決意」はしてしまったかもしれない。
だけれどその暴力行為というほころび、もつれの呼ぶ声は…誰だっていいのだ、誰がそのもつれの表明を引き受けたってかまわないのだ。
私が引き受けてもよかったのだ、誰でもよかったのだ、誰でも洋裁と人形の美のが概念に呼ばれていたのだし、誰でも、聖職者という概念に呼ばれているのだし、誰でも暴力に呼ばれている…もしかすると人間社会などという枠組みを超えた摂理から、暴力行為に呼ばれている。
そして誰かを糾弾すればするほどに…魔術に加担することになる、魔術は悪では無いが、魔術はただの迷信だと「私」は思う。
何故なら魔術は、Calling、しないから。

 

行為が、理にかなっている時にそれははたらきになる。
労働とはたらきは別物だが線引きは無い。
それらが入り混じった状態に在る人を、導かれた人と言う。
でも私は導かれた人というのは特に固有名詞を持たないのではないかと思う、だって、呼ぶ声は溢れていて、ただ聴けばいいだけだから。
決意は個人のものだけれど、はたらきはだれだって良い。
このはたらき、の部分は一切数値化出来ない。
自分も楽しく、周囲も楽しい状態、それで人間社会上の数値、利益が生じたらそれは天職だ。
だけれどはたらきについての考察はあまり見ない、例えば歩いたり、植物を愛でたり、家という場所を好き好むというただそのはたらきはおよそ人間には観測されない。

 

父親に怒鳴られるとき、私はまさに父本人の影になるのだ。
父の不出来な部分、醜いと感じてきた部分、こんな人物だけはどうしても殴りたくなるという、影そのものになるのだ。
「俺は…下戸ではなくて、ハキハキとモノを言って、バリバリと働く女を娘に欲しかった、お前は根暗な屑だよ」
父の言葉には影が含まれる、影をやっていると影がわかるようになる、私は暴力を振るう人間とそうで無い人間の区別はつく。
同じ影を発している人こそが憎く、醜いのだ、だからこの魔術に引っ掛かってはならない。

 

暴力衝動というのは癇癪と同種だ、これは実は正義感とも連結している、私は正義感が強いほうではあったが…癇癪衝動もある。
この癇癪衝動とは何を基準に働いているのか?
答えは、「私」の場合は醜さ、である。
私の基準とする醜さというものは主客一体を美の頂点にしているため…例えば電車の中で化粧をする女がいたとしたら、その女性の格好が囚人服だった場合には案外、何をやってても許せてしまうのである。
何故なら、主客一体しているから。
でもその女性の格好が小綺麗であればあるほど、「醜い」という感情が炸裂しやすい。
この癇癪衝動をどうすればよいのか?
暴力衝動をどうすればよいのか?
何か自分の中で湧き起こる醜さへの糾弾感情をどのようにコントロールしたらよいのだろうか?

 

答えは一つ、それを創作に向けるということ。
何が美しくて何が醜いのかの「弁」が作動し過ぎるので暴力衝動が起きる、だがそれを無理に自分から引き剥がしたり無理に「克服」しようとしたり、「善人」になろうとしたりしなくてもよい気がする。
これはただのエネルギーであって、ここにはまだ何の「決意」も無い、まだ何の「行為」も無い段階の話である。
よって自分が暴力衝動というエネルギーを今、感じているという「認識」が起ったら、その「弁」の感覚を創作に当てはめる「決意」だけをすること。
創作というのは…何がイイもので、何が凡庸なのかのポイントが単に自分にあるかどうかが鍵となる。
だから創作の場合には癇癪感情が、善い、はたらきを成すと私は感じている。
この弁の無い人、あるいは見えにくい人は優しい人かも知れないが、こだわりが無いということは必ずしも根源的に優しいというわけではない。
弁がはたらくからこそ、「マルクが美しい」という認識が起る。
暴力衝動や感覚は決してただ蓋をすればよいというものではない…仮に自分で蓋をした場合、行き場を失ったエネルギーは放出先を求めて動き回り、結果的に嬉々として魔術に加担してしまう。

 

呼ばれるという感覚に身を任せたい。

 

ちなみに、天職のことを導きと言う。
適職ではなく、天職のこと…導かれて成る職業のこと。
導きの呼びかけは…Callingと表わされる。
これは私の思う分には、人間社会を超えた「はたらき」と人間社会的な「労働」が見事におり混ざった状態を指すのだろうと感じている。
私は人間という存在全体が、この呼びかけに本当に素直に、本音で応じ、「この身になりますように」と誰もが心を開くのならば、誰もが天職に辿り着くし、この世は本来そう出来ていると思っている。
暴力衝動をはじめ、エネルギーは、本来余すところなく循環すると信じている。

 

 

 

勘の導き…ミシンの見知らぬ思い出とこれからのこと


手が慣れてくるまでどのくらいかかるだろうか?
例えば本のフィルム貼り…これはやっぱり人に習わないと難しい、最初の一冊だけは。
最初の一冊の要領さえわかれば一時間に5冊、次の日には10冊くらいは出来るようになる、図書館時代に一時間で10冊こなせる人というのは土着の小さな神みたいな状態であったが…その実、大半の人が出来る速度だと思う。
しかしこれが内職になると10冊の時に働かせていた感覚だけでは…繁忙期の一日100冊をやり遂げるには丸半日以上かかってしまうので、全く鈍足という事になる。
作業、というものはそこまで長くは出来ないしやらないほうがコンスタントに働ける、自分の体力の為に作業スピードが必要になるのだ。
1時間30冊程度まで作業効率が上がれば、午前だけ、あるいは午後だけの数時間で仕事は終わる。
ただ、やっていても思うが1時間30冊というのはある程度の物理的…ハード面での生来の勘が必要になる。
作業工程の多い本だったらもっと時間がかかる。
出来るという基準値よりも、出来ない場合の基準値、それが自分の基準。
この自分の基準とハード面での勘、これが私を、大きな意味での洋裁へと向かわせている。

 

さて、手作業の速い人というのは一見賢そうに見える。
ブラインドタッチの打ち込みだけなら私も速い、手作業だけは速い、だから客室清掃も、速くなるまでには時間はかかったが…やっぱり速いほうだった。
物理作業だけの仕事に於いては、手作業の速い人は即刻仕事の出来る人になる。
だが思考作業を含む仕事に於いては…手作業の速い人が秀でているかというと必ずしもそうではない。
ブラインドタッチが「一般的な感覚」よりも速い人を目にした時にどう思うだろうか?
この人はPC作業に慣れているだろうなあ。
ソフト的な面も理解しているのだろうなあ。
まさかエクセルの意味すら知らないなんてことはないだろうな。
…よし、この人に仕事を任せよう!
という対応をされて非情に困った事が多々ある、エクセルも使えない、何故なら関数の意味自体が理解不能だから。
関数って何?なんて真顔で言われても困ることはこちらとて百も承知である。
大抵の人は「どうして基礎を習おうとしないのか」と訝しがるが…出来る事と出来ない事が人間には個々、あるのだと私は言いたかった。
要するにブラインドタッチが速いというのは野菜の千切りが異様に速いというような事柄でしかなく…その人が料理の法則に精通しているのかどうかはそれだけでは判断出来ない。

 

で、私にはこの思考業務の部分、ソフト面での勘があまり無い、だから習いたいのだ、しかしこの勘の無さで私自身が今まで散々苦しんできたので(多分教える側も…)いまいち踏ん切りがつかない。
何処で何を習おうかの踏ん切りがつかないで迷っている。

 

手作業系の仕事なら、体感や経験というよりも勘が真っ先に「働く」のを私もわかっているのでミシンに手を出したのだ。
ミシンというマシンは…バイクに似ていると思う、主婦(主夫)のバイク、みたいな感じ。
洋裁というのは言い換えれば土方作業みたいなもので、服を一から作ってみたいというのは自分で庭をこさえたり、家を自分で建てたいという欲求とほとんど同じだ。
実にハード的、物理的な欲求は自分自身の経験と勘だけで行う事柄であり、そこに喜びがある、セメント漕ぎも楽しい経験だったのだ。
ミシンがそれとちょっと違うのはマシンであるということ、私とは別の個体と人馬一体となる喜びがあるということ。
だから洋裁と一言で言っても手芸的な楽しさであるのか、建築的な楽しさであるのか、人馬一体という楽しさであるのかに枝分かれしている。

 

私は洋裁についてもソフト的に考える事が難しいので、散歩に行くときに「私は今ミシン針で、私の一歩一歩がミシンで縫う一目一目」という「暗示」めいたものをかけて出かけることにしている。
私は道を歩く、紅い糸が広大な布地に刻まれて行く、私は言う、「ほらね、難しい事ではないでしょう?」私は頷く。
今まで難しい難しいと思っていた靄が晴れ、太陽の真下で私は七色の光を見る、遮るものが無いから太陽光が輝いているのだ。
広大な敷地に点線が刻まれる、飛行機が飛び去って行く、飛行機もバイクもミシンも…詰まるところ同種のものだ、生きているエンジンを詰んでこちらの手を引っ張ってくれる。

 

不思議な事というのは…見知らぬ思い出に触れる事。

そのままの「暗示」の調子で住宅街に入ると見知らぬ「思い出」に私は触れる、夏場、どこかの家の二階で誰かがミシンを動かして何か作っている、「明日着ていく服を作っているの」という返答に私は戸惑う。
あなたの事を私は知らない、蚊取り線香の匂いが漂い、夕刻を告げるチャイムが響く、「出来た!」といってその誰かは服を窓辺にかざしている、一階で誰かが料理をしている…。
そんな記憶は私には無い、私の母の記憶ですらない…母は不器用でこの種の物事に一切の関心が無い、父も洋裁などしないし祖父母たちにも洋裁をはじめ創作気質は無い。
だから血族の誰かの思い出というわけではないのだ。
こういった「見知らぬ思い出」に触れる場所、今だったら「見知らぬ、ミシンにまつわる思い出や情景」に触れる場所というのがある。
今住んでいる家から見て西側のとある通りと、南側のとある通り…この2本の道をそれぞれに行く時に何故か強烈に「思い出」に触れる。
そこで感じる「出来た!」という感覚そのものに私はその都度触れる、だから最早散歩はミシン上達感覚への鍵になっている。
私は何度か服を創り上げている…と自分で言うのはこの体感が生じるからなのだ。

 

見知らぬ思い出、これからの思い出、あるいは個を越えた文化そのものの「影」…。

 

このような現象を共感覚と言うのだと私は解釈している。
私の思う「ミシン」が「戸建ての家の二階にあって稼働している」という漠然とした文化的背景や個人的憧れを、感じやすい土地の配置、風土があの2本の道にはそれぞれに在るのだと思う。
あとは勘、これは霊感とかではなくて共感覚に於ける勘である…この勘に私は助けられている。
この勘が様々なものを見せてくれるから。
実際目に見える住宅街の家のどれかがこの幻想を引き起こしている…というわけではない、私が見るのはあくまで心の情景であって、その情景「見知らぬ思い出」に触れる事の出来る2本の通りがそれぞれに在る、という話。

 

この勘と手先の動き、ソフト面での習い事…職業訓練校も考えたのだが第一に遠い、そして第二に、私の理解力では到底追いつかないだろうと言うこと、そして第三に…服飾関係に就職したいわけでもないので、わざわざ定員制の場所に割り込むのもちょっと申し訳ない。
よって習い事をしたいのだが…迷っている。
考えているのは洋裁の基礎から学べる「都度払い」の教室に先ず行ってみて、簡単な物から順に型紙を見ながら仕上げるという基礎を学ぶ。
生地の湯通しってなんなのか、そもそもどの型紙にはどの布が合うのかとかを知らずに一人きりで創作する事は…いくら勘の導きがあっても、生地が勿体ない。
そして「都度払い」の教室を何度かこなしつつ、人形服の教室に通う。
金銭的に考えても無駄の無い方法のように思うが…実際に作ってみないことにははっきりとは言えないが、もっと基礎をしっかりやったほうが良いのかな?とも思うし…迷っているのだ。

 

とりあえず自分の目標や生地代も考え、妥当な目安としてひと月に2作品ほど作ることを考えている。
これは超初心者の目標設定なので…
本のフィルムかけにたとえると一日一冊、くらいの鈍足ペースであることは私の勘が嫌と言うほど告げている。
だが現段階の私では型紙を写すところからの要領で半日くらい過ぎ去りそうだ、本音では一週間に一作品は作りたいが…生地代も考えるとどうなのだろうか?
人形服なら使う面積が少ないので安く済むだろうか?
レースやフリル、特殊生地を使ったら馬鹿にならない金額に達するのだろうか?

 

もし人形服を内職ペースでやるなら最低でも週一で一作品を作る速度は必要なはず。(といっても見るからに複雑かつ華美なものは一着2~3週間かかりそうな気配を感じるが…実際ビスクドールの豪華な服ってどのくらいの速度で仕上げて居るのだろうか?見当もつかない。)
人間服だったら結局、私たちが着用するのは戦後から統一された簡単服類いであるので、一日一作品で週に3作品~5作品くらいが目安か?
ただ人間の服を売る気は今はあまり無い(生地代…)ので、人形服をメインに作りたい、が、先ず自分の服も一通り作れるようになりたい。
人形服はロックミシンがメインになるだろうが、人間服は…ああ、頭が混乱してきた、ああ、私、何がしたいんだっけ?何がしたいかはわかっているけれどそれをどう伝えればいいんだっけ?

 

私のしたいことは二つ、普通の洋裁の基礎を知りたいってことと人形の服を作りたいってこと。
私は初心者で、先ず型紙から服を作れるようになりたいということを都度払いの講師に告げて…それが出来てきたら人形の服の教室へ行って…。
つまり二つの事を同時にやろうとしている、自分の服も作りたいし人形の服も作りたい…この事をうまく講師に伝えられるだろうか?
人間の服と、人形の服…この意味するところは私には別格なのだが使用機材は同一である。
手法も類似している、これは枝分かれしている物事であってもとは一つの木なのだ。

 

もうすぐミシンが来る。

 

 

 

 

 

靄のドレス(散文)


靄がかかっている、この靄はずっとずっと私と共にある、心地よい足枷。
私ね、本当はもうこの靄から逃れたいの、でも駄目、私一人では靄無しには生きられない、靄は最高のドレスよ。
だってこのドレスは何も出来ずに居るという「非行為」を表すの、それこそが実は正義であって…誰も傷つけないしお金もかからない、誰の負担にもならない。
ね、何も出来ないってことは本当は良いことなの、本当は美しいことなの。

 

毎日何か作りたいと思って布を見ているのだけれど、そんなことを「趣味として」やった場合とんでもない値段になるのね。
毎日何か作りたいと思って型紙を見ているのだけれど…まるで歯が立たないのよ、野生動物が型紙を見ている位に意味不明なのよ、独学で出来る事と出来ない事があるわ。

 

それで今度は教室を探しているの、洋裁の教室。
私は目眩を覚え、机に突っ伏したの、私はやりたいことがある、それをやって小金を稼ぎたかったのよ、でもそれをするには途方もなく長い道のりがあるって事。
知っていたけれど、ちょっと目眩がしたのよ、あまりにも生地を見過ぎたせいかしら。
だって私の欲しい生地はどれも、ちっとも安くなんかなかったの、生地代とそれにかける時間と技術が揃ったとして、それを販売して儲けを出すというのはどうして途方もない事なのかしら?

 

やあね、泣いてなんかないわ、浪費家だって自分で最近自覚しただけよ、お買い物が好きって訳でもないの、やりたいことがあって買うべき物の単価が高いのよ、家とか、ミシンとかね。
…っていうのは何の言い訳にもならないから、やっぱり私は浪費家だって言うしかないわね。
「余計なものを作らないでちょうだい」ってよく両親に言われていたのよ、久々にニュースサイトを見たらやっぱり死ぬまでのお金は貯めるべきなのよね。
…でも死ぬまで何もせずに過ごすのが本当に良いことなのかしら?
物理的に物を生み出すっていうのはお金がかかるものよ…損得でいったらそれが特になる事ってあまり無いのではないかしら?
お父さんお母さんの言うことは的を得ていたのよ、あの人たちが数字の波を行き交う間に私は…型紙を睨んだり生地の値段を悔しげに見つめながら、理想の人形のことだけを考えるのだから。
それでも日々の内職に助けられているのよ、手先を動かせる喜びって凄いことなの、私が内職に感謝していると誰に知らせれば良いのかしら?
三次元に出現した物体を少しずつ美しくする手助け、それが内職という働きなのよ、だから手先は鈍らずに済む…理想の人形を夢想する身には丁度良い仕事ってわけ。

 

それでも色んな事が足りないような気がして、何かをやる前に立ち止まってしまうの…この癖は何処から来るのかしら?
この靄は何処から?
私は何が不自由だと思っているの?
私は何を隠したいと思っているの?
私は欠点を隠したいのかしら?

 

それで私は自分の欠点を思い浮かべてみたの、脚以外のね、それが私の脚を文字通り引っ張っているのではないのかもしれないって思ったから。

 

センシティブな話、私の発音って他人からすると聴き取りにくいのよね。
基本的に慢性鼻炎だから鼻と喉の奥の弁がうまく作動していない気がするの、今なんて言ったの?って素直に言われる分には構わないのだけれど、それでも申し訳なくなるの。
滑舌という以前に、自分で何を言いたいのか解らないときに発する音というのが私にはあるのよ、意識か無意識かで言ったら無意識ね…これってだいぶ子供じみているわ。
それを言葉と何語と動物の発声のちょうど真ん中くらいの感覚で発してしまうの。
声にはいくつかの使い方がある…それはやっぱり一人きりでは学べないもので、私も散々注意されてきたのよ、それで今度は注意されるの嫌さに、怒鳴られるの嫌さに慢性鼻炎も手伝ってモゴモゴ喋るような癖がついてしまったというわけ。
恥ずかしいわね。
会話、というのはその時その瞬間にどれだけ意図を通じ合わせられるかが鍵なのよ、意図というのはまさに糸なの、見えない綺麗な糸。
語り、というのは一人で紡ぐ服みたいな物なの、その服全体を通して相手を見つめるものなのよ…私は語りが好きなの、聞くのも語るのも好きよ、でも会話が下手なの。
何を言っているのか私の発音の一切を聞き取れない人もたまに居るくらい。
鶴の人…あの人は男にしては耳が良いのよ、姉が居るせいかしら?
姉が居ると耳まで良くなるのかしら?
それとも私が怒鳴られ過ぎたのかしら、今でも怖いのよ笑いたければ笑うと良いわ、おどおどしている私は、さぞみっともないでしょうよ。

 

物が言いにくいのは物の名称を覚えていないからっていう要因もあるわね。
何で皆あんなに沢山の名称を覚えられるのかしら?
私はその名称を知ってか知らずか適当に言ってしまうのね、もっとちゃんと覚えなさい、ここ、とかあれ、ではなくてそこは「天」と「地」よ。
そして「背」、「見返し」…でもそれって結局一冊の本を表わしているのよ。
ねえ私、物事を習ってちゃんと学習出来た経験がないのよ、型紙や布の名称を覚えられるかしら。
教室の講師にちゃんと物を伝えられるのかしら。
私の根源的なハンディキャップというのは…話すことなのかしら、人と対面して会話することなのかしら。
それってとっても、本当は楽しい事のはずなのに、私には難しい。

 

滑舌を馬鹿にされたこともあるし、避けられたこともあるし、そうやってどんどん内に籠もる毎に父親には怒鳴られてきたのよ。
じゃあ壊滅的に、漫画の描写みたいに口下手で内気なのかっていうとそうでもないんだけど…私を訝しがる人は10人のうち2~3人は居るのではないかしら。
で、私はその2~3人に心で言うのよ、「気にさせてしまってごめんね」って言うのよ、そして夜に眠るときに酷く落ち込むの、私が悩むのは仕事そのものというよりもこういう物事だった。
その割に私自身の性格もキツいから…ちっとも優しく出来なかったの、この前の仕事に就くまでは。


働きっていうものを根源的に捉えるのならば、その場所全体が嬉しく回っていなければ意味がないっていう地点に去年、辿り着いたのよ。
私からはちょうど皆の心の中が見えたのよね、見えた、等とは言わないわよ勿論…でも皆が何を求めているのかが私にはわかったから、それを差し出したのよ。
言って欲しい事を私は言ったの、本音でね。
…だから脚がギブアップしたのだと思うの、働きというものを理解したから痛みが強く出たのだと思うの。
だって何処へ行っても私は、職場で働くという場合にはどうすればいいかを、もうわかったから。
辛い苦い思い出は自分の至らなさと理不尽、楽しい思い出は皆の歯車が回ること。

 

皆の歯車が回ることこそが働きなのだわ、喜びなのだわ。

 

過去の事をあれこれ言ってきたけれど、朝目が覚めると私は強く思うの、「私って誰?」って。
そうなの、これって結局…幻なのではないかって。
そう、過去は幻なのではないかって。
悩みって幻なのではないかって。

 

だから朝一番に強く祈ることにしているの、祈るというのはお願い事でもあるのよ、働きをさせてくださいって祈るの。
その為にミシンが必要です、その為に教室に通うことが必要です、その為に穏和に過ごす事が必要です、話すことが必要です、誤解を解いて下さいって祈るの。
祈りを捧げているのよ…誰に?マリア様に?
厳密に言うと…数多の悩める魂に祈りというエネルギーを使って下さい、マリア様がこのエネルギーをうまく使って魂を助けて下さいますようにって祈るの。
マリア様が私の祈りのたった1本の糸をすくい上げ、他の数多の糸と絡めながら美しい織物を作って下さるのよ。
世界はギブアンドテイクなのよ、苦しみと喜びのどれでもいい、感謝の祈りでもいい、何でも良いけれど捧げたほうがうまく通じるのよ。
ほらね、ミシンは現に届くのだし、願いは叶うのだわ、そしてさらに祈るのよ、私の道筋が誰かの助けになりますようにって。
このときに見ているものは未来なの、このときに見ているものは願いなの。
朝起きたら感じるのは…本当は未来だけなの、過去は今の地点からは見えないのよ、もし過去を変えたいのならば、祈りの中で見えた風景を生きるしかないのよ。

 

私はほんとうに私なのかしら?
今日の私は随分弱気なの、まだ、お金を使うことと使わずに居る事の均整が取れていないのよ。
次の課題はこれなのかしらね。
毎日作りたいということが案外難しいって知って、右往左往しているのよ明日、ミシンが届くっていうのに…明日結婚式だというのに心が晴れない花嫁みたいな気持ちで居るの。

 

さっきさくらんぼを受け取りに外へ出たら、雨で其処此処が洗われていたの、夜風が優しく木々を乾かしていたわ、家の門灯がぼんやりと光っていてまるで…どの家もミニチュアのドールハウスみたいだった。
これは全部夢のような気がしたの、手でこの家ごと持ち上げて、もっと大事な場所へ隠したいと思ったわ。
もっと大事な場所って一体何処?
そんな場所この世にあるの?
いいえ、この世にはないの、人形や数多の作品が生まれるその前に居る、あの地点にしまい込みたいと思ったのよ。
イデアの世界に。
美の根幹の世界に、本当の世界に、しまい込んで永久に温存したいと思ったのよ。
でもイデアの世界には時間が存在していないから、永久に、なんていう言葉は何の意味も成さない。
一瞬も永久もないのだから…だからこの世に、作品たちは来たがるのかしら?

 

私はね、創作をする性質を帯びた人間というのはイデアの世界と繋がっていると思うのよ。
イデアの世界とこの世のパイプ、それが創作家というものではないかしら。
だから作品の為に何だってするのよ彼等は、根源の美が「来たがっている」のを察知していながらにそれを無視することがどれほど辛いか解っているから。
それがどんなに「無駄な行為」だと言われてもやめられないのよ、どんなにお金がかかってもやめられないのよ…この世の基準で言うと創作すればするほど浪費家なのだわ。
それを咎められたりもするの、自分で咎めたりもするの、でも大人しくなんてしていられないのよ…命に関わるのだから。
それが働きというもので…ああ誰か、こういう事を、無駄ではないって言って下さいな。
舞台の影から客席は見えない、無駄ではないと、言ってください、お父さんお母さん、浪費している等と言って私を責めないでくださいな。
無駄を悪と考えるのならば、創作は悪です。
全ての物事は突き進めば両方の性質を帯びるのです、あの子の手をとって月まで行きましょう、月の船が私たちを乗せてくれます。
そして朝、目が覚めたときに肉体に戻り、私は問うのよ、私は誰?
月の世界だけを私は覚えていて祈るの、あの世界を具現化させて下さい、そのような働きを私にさせて下さいって、罪悪感に駆られるその前に祈るの。

 

そして自分の至らなさや、悪事を働いているのではないかという意識や、直視し難い欠点に脚をすくわれないように、靄を纏うの。
靄は最高のドレスよ、どんな布だって敵わない優しい肌触り。
心地よい足枷。

 

どうかこの足枷を外して下さい、ロザリオの一粒一粒に宿るイデアの世界を私に触れさせて下さい。
あの人にそれを伝えておきたいのです、私は歩きます、と。

 

 

 

 

一人一人の稼働率を上げるには実在と本音が必要です。


聖母様、私の見たあらゆる模様や妙なる人形たちは既に居るのでしょうか?
あの人形たちや人形ドレスの地点まで、私はそれを認識した瞬間にはそこまで泳ぎ着いているのでしょうか?
今岸辺から、私は遠くを見ています、暗い暗い海の中を発光しながら泳いでいます。
ミシンを買いに行って、数多の洋裁道具を揃えて、裁縫箱を見繕って…物を買う毎に私は勇気を試されています。
そのままで居る事なんてちっとも美徳ではないのです。
私は本当の事を話して、本当の事をやりたいのです、私にはそこまで体力がありませんのでムッシュのように毎時間を作品にする事は出来ません。
毎日を作品にすることは私には出来ません。
その代わり何日もかけて一つの作品を作ります…ロザリオの一粒にイエスキリストの時空間が込められているように、私の作品というものは実際の時間ではないのです。
私は今、手を繋いでいるあの人や、今暮らしているこの人や、憧れている彼の人や、実技を教えて貰う人々に支えられています。
彼等と私の糸がもつれたのならば天に引き上げ、もつれを解いて下さい、私を呪う人の糸をどうか解きほぐして下さい。
そして美しい縫い目になるように取り次いで下さい、聖なる御母、私の観ているものはとても美しいのです。
嘘みたいに美しいのです、だからこれを本当にする力を、私に下さい。
私に努力をさせて下さい。

 

全ての現象は繋がっている、よって全ての現象をはじめから繋げてしまった方が、あらゆる面に於いての稼働率が格段に上がる、それには先ず実在と本音が必要だ。

 

鶴の人と話していていつももどかしかった、どんなにその話の「地点」で未来を考えることが出来、尚且つそれを現実の事として二人で話していても、時間が過ぎて離れてしまえば…それを証明する手立てが何も無いから。
鶴の人の世界に私は居なかったから。
鶴の人が倒れたら、私は関与出来ない、鶴の人に何かあっても、私は知ることが出来ない、鶴の人の世界には私は「まだ実在していない」。
私には彼の事象を知る手立ても無いし、彼自身がそれを良しとしている風でもあった…そりゃあそうだ、元々は私たちは不義の仲でしかないのだから、彼が自分の世界に私を関わらせないのは当然だった。
どんなに絵の話をしても私が彼の毎日を知る事は無いのだと思っていた、それを実感する度に、彼を必要だと思う度に私は彼が憎らしくもなった。

「私をあなたの世界に実在させて下さい」
それが私の、鶴の人に対する願いだ。

 

「自分の本当に好きな事をやって行く中で生じる人間関係に於いて、あきらめず、その人と信頼関係を築ける事を信じて、素直に、相手と向き合う」

 

この文章を鶴の人が私宛に書いたとき、同時に「私と自分との関係」をも書いてくれた。
それは太い線で結ばれた「人と葉っぱ」だった、どうやら鶴の人にとって私は「一枚の葉っぱ」らしい。
その上にlife、「生きる」と彼は書いた、「あやさんとの関係は生きる軸だよ」と鶴の人は微笑んだ。
私はこの紙を見て、鶴の人が次の瞬間全てを断ったら去って行く覚悟を決めながら彼に告げた。

 

「元奥さんや、大事な人の連絡先を私に教えて欲しい」

 

実際鶴の人と会うのはリスクだ、今までも思っていたのだが「鶴の人に何かあっても私は誰にも連絡して知らせる事が出来ない」から。
彼の息子の神無月くんにも知らせる為には元奥さんの連絡先が必要だった。
仮に鶴の人に何かあっても、もしかしたら元奥さんは私なんかからの連絡には応じない可能性もある、「人を騙している悪い人間の言うことは聞きたくありませんので」等と彼女なら言いかねない。
彼女は正しい人間で、潔白で…鶴の人を愛しているのだから。
だから許せずに居るのだ、好きだからこそ鶴の人をもう、嫌いで、まだ好きだから許せないのだ。
だがそれでも連絡はしたほうがいい。
だって、人の命には、善悪など無いのだから。
私はこの点で彼の生命の責任を取れずにいるのが非常にもどかしかったし、そんな必要無いと彼に言われるのが嫌で伝えられずに居たのだ、「私を実在させてほしい、あなたの命の責任をとらせて欲しい」と言えずに居たのだ。

 

「そして、私の知らない場所であなたに何かあった場合…職場とかで何かあった場合、私にそれを知らせる人が必要なの、だから私の連絡先も誰かに教えておいてほしい」

 

ムッシュ…という人の話を鶴の人からよく聞く、ムッシュというのは聴く限り、性別を超えた私のライバルである。
ムッシュって何者?
と思いながら鶴の人の話に耳を傾けると、どうやら彼の職場にすごく「仲が良いというレベルを超えた」人が来たらしい、男同士の意気投合というか…職場が実際に明るくなるにつれ、売り上げも伸びている。
そのエネルギーの発端となっているような人物がムッシュという男性なのだ。
話を聴くにつれ、「単なる職場の仲良しってよりかは親友みたいな感じだ」ということを私は感じた、鶴の人とムッシュに私はどこか嫉妬した。
もし私たちが皆小学生だったら私はムッシュともぶつかりつつ、鶴の人繋がりで仲良くするような感じだろうと思う。
そして思ったのだ、「ムッシュになら、鶴の人に万一のことがあったときに私に連絡してほしいと、頼めるかもしれない」…でもどうやって頼もう?
第一まずこれを鶴の人に説明せねばならない。

 

「彼女」
という言葉を男の感覚に直訳すると、非情ながら、その意味するところはただの「女体」である。
だから鶴の人が「俺の彼女がさ~、俺に万一のことがあったときに連絡ほしいみたいなんだよね、ムッシュが適任なんだよ」…という言葉を放ったとしたら…ムッシュにしてみれば「一大事の時に女体に逐一連絡」というただのサービス労働要求になってしまう。
見ず知らずの女体に緊急サービスを頼まれているという感覚になると思う。
私はムッシュと仲良しごっこをしたいのではない。(勿論話を聴く限り楽しそうな人物ではあるが…そういうこととこれとはまた話が別だ。)
私は見ず知らずのムッシュにサービス労働を頼みたいわけではない。
ムッシュと私の共通点があるとすれば…鶴の人が大事だということ。
だからムッシュが鶴の人をすごく気に入ることも、私には嬉しい事であって…そのうれしさを共有したいのだ。

 

私と鶴の人が二人の世界に終始していたらやっぱりそれは、稼働率が下がるのだ。
どんな話をしてもそれは二人の世界の話であって、それ以外の場所で効力を発するには自分自身の力だけを頼りにすることになる。
勿論、それは正論のように見えるだろうが…
本当は、世界はそれぞれに圧がかかることによって爆発を起こす。
それぞれに圧がかかるというのはそれぞれに「認識」が生じるということ。
だからムッシュにとっても私が「実在」するとわかれば、私の頑張りすら、彼の稼働率の一端になり得ると私は思う。
一人きりで出来る事には限界がある、それぞれの頑張りを認識し合っていた方がより稼働率が上がり、仕事も上手くいく。

 

「私を実在させてほしい、鶴ちゃん、いろいろ話したことも含め、あなたの命の責任を負わせて欲しい」

 

大阪に行っても浮気しちゃ嫌だからね、私はあなたの観た「地点」も、私自身の稼働率に関わってくると思っているのだから。
鶴の人は自分のあらゆる面を隠しがちだけれど、それは結局鶴の人自身の夢に対する稼働率を下げている。
命の責任を負えない人を好きというのも、せっかくの信頼関係が水の泡になってしまう。
お店の稼働率と、その稼働率の原動力と、私は、繋がっているよ。
私も、M氏の仕事も、今日支払いをしてきたミシンの聖なるモーターも、鶴の人がいつか乗るバイクも、繋がっているよ。
ムッシュムッシュの好きなスイスの空気も、私の友人の発する一つ一つの演目の台詞も、彼の恋人の覗く顕微鏡の向こう側も全て、繋がっている。
だから本音で話した方がいい、「仕事」と「女」と「自分の夢」は分けては駄目、分けてしまうとそれぞれにエンジンが必要になる。
結果的にエンジンが小さくなってしまう…だって人間は、有限だから。
生きてるって事は有限だから。

 

だからエンジンは大きなものを一つきりがちょうどいい、それで全ての稼働率を上げられるから…だから人とは本音で話した方が良いし、互いの存在を実在のものであると認識していたほうがいい、その方が夢が叶いやすい。

 

私はあなたの後ろ姿だけを観ている、好きだからそれが憎い、だから今改めて言うよ、「私を実在させてほしい、愛しています、あなたが必要です」、あなたの夢も私に必要です。
鶴の人は笑っていた、今年に入ってから本当にお互いに深く語り合うようになった。
前回会った時にノートをとりながら話した、落書きが半分だけれど実に楽しかったし話したことの記録にもなった、これからは逢うときにノートをとろうと決めた。
これを男目線の言葉で「彼女と会ったときに落書きしながら話した」というとそれはただの女体遊びにしか映らない…女を対等の人間だと認識する男は本当に少ない。
鶴の人には姉が居るからだろうか?
鶴の人は私を「人間」扱いしてくれる、語り合うときに対等に観てくれる、私の出来ない事を「出来るよ」と言う、決して出来ないとか、大丈夫かなというような素振りは見せない。

 

私の事は何て言う?
彼女、以外の言葉で何て表したら良い?
「身内、だね」
と笑った彼の顔は実に快活な様子だった、「長く一緒に居たかどうかは関係無いんだよ、どこまで深く話せるかどうかだよ」、私は夜の街を、鶴の人と並んで歩いて駅まで行く。
あれ?江東区って…こんなに綺麗だったっけ?

 

呪いはある。
恨みも、実在する。
だが本当に実在するのは「見えるもの」だけ。
見えたもの、だけ。
素晴らしいものだけ、ほんとうはただそれだけ。

 

私は鶴の人に対していつも、憎らしさを越えて自己開示する事を念頭に接してきた。
先に自己開示することを鶴の人で実践してきたようにも思う私は今まで、誰に対しても私は一手遅れて身を守ってきた。
その実それは防御というよりも、ただの重りだったのだけれど。
私は2本持っていたロザリオのうち1本を彼に手渡した、「これは御守りで、あなたの身を絶え間なく守ってくれる」、彼はそれを受け取ってしげしげと眺め、すぐさま壁に掛けた。
「大阪へ持っていって」
彼が居なくなる事で、私も、彼の周囲の人も彼が「その場に実在した事の痕跡」を、彼が漫然と実在していた頃よりも強く感じるだろう。
果てしない苦行のような出張だけれど、善い事なのかも知れない。
互いが「真に実在」するためには、必要な道筋なのかも知れない。

 

聖母様、どうか鶴の人を御守り下さい、自己開示することと稼働率の関係を私にもっと信じさせてください。
私は実在したいのです。
素晴らしいものを、実在させたいのです。

 

素晴らしい世界を実在させたいのです。

 

 

 

 

 

私は人と話すのが苦手だ。

※人と話すのが苦手ということを書き殴っています。

 

『自分の、本当に好きな事をやってゆく中で生じる人間関係に於いて、諦めず、その人と信頼関係を築ける事を信じ、素直に相手と向き合う』
『人との縁を大事にする』

 

私は人と話すのが苦手だ。

 

聞かれたくない事がある。
「どうして仕事(出勤)しないの?」
「どうして子供産まなかったの?」
言われると嫌な事がある。
「それって楽してるね、それって幼稚だね」
とても言いにくい事がある。
「脚が痛いから」

 

これは民族的な癖なのかもしれないが、相手と会話する場合に互いを平均化しようとする働きが生じる、私はこれを極度に疎んじてしまう。
私は人と話すのが苦手だ。

 

人と関わるのって難しい、鶴の人に「前の職場の人と連絡とったりしなよ」と促されるがどうしても連絡しにくい、何故なら後ろめたいから。
脚が痛いということが後ろめたいから。
脚の痛みに関して、母親は「自分の母親も脚の痛い人だった」という記憶によって、娘である私が脚を痛がってもそれを疑問視したりはせずに、痛がっている人を受け入れる。
だから私は母親には「今日は脚が痛い」と言える、痛みを正当化する必要無く素直に言える。
一方で父親には言いにくい、正直な所、父が私の脚のあれこれを「嘘」や「演技」だと疑問視しているのを感じている、これは父が殊更嫌な人間であるというわけではなくて、父の親族に身体の痛む人というのが極端に少ないせいである、だから父には私の痛みが「毎日コツコツ働かない事への正当性」のための「嘘」に見えるのだろう。
…で、父だけでなく、毎日働くということへの信仰、とでも言うべき思想の持ち主というのはきっと日本に溢れかえっているだろう、ここは労働信仰の国だ、だから平均的に働かない者は邪推される…ような気がする。

 

そうなのだ、これは「そんな気がするから押し黙っていたい」という私自身の見栄とプライドの問題でもあるのだ。

 

痛みは証明出来ないし、痛みの証明など対面した相手にあえてしたくない、痛みが数値で表されるようになっても私はその種の証明を人に見せたいとは思えない。
だって痛がるということは…相手に気を遣わせてしまうから。
目の前の人間が痛がっていたら、自分だったら気を遣うし、それ故面倒くさいとも思う…このように「思わせたくない」ので、私は自分の痛みを口に出さないようにしている。
仕事でも一切口に出さなかった、だから余計に、私が退職するその理由が脚の痛みであるということが…不自然に映ったろうと思う。
「ああ、私もしかして、今、嘘ついてるって思われてるのかな…」
と感じる事もあったし、実際そうだったのかもしれない、とても楽しく仕事が出来たのに唐突に「もう駄目だ」と思って業務体系が大きく変化するその時に辞めた。
「あなた、新しい責任者が嫌だから辞めるんじゃないでしょうね」
と何度か言われた、それくらい私が脚について開示したのがギリギリだったのだ。

 

でも思った、「これから先、どうやって脚のことを伝えたらいいんだろうか…」、生きて行く中で人と関わらずに過ごす事など出来ない。

 

例えば何かの動作が遅かったり…動作というのは利他的な働きである、だから私としては「痛くて」・「その動作をしようとしなかったり」するが、相手には「その動作をしようともしなかった」ように見えてしまう。
このような誤解についてどう対処すれば良いのだろうか?
「痛くて」出来ないと言うべきだろうか?
でも痛みというのは主観である、対面した人に主観を素直に伝えるのは…甘えすぎなのではないだろうか?
でもこの甘えすら伝えずに居たら、単に気持ちの上で「その動作をしようともしない」人として私は人の目に映るのだろうか。
それよりも痛いからと素直に述べた方がいいだろうか?
けれども「痛くて」というその痛みは…大げさなんだろうか?やっぱり父から見る私のように何処か嘘くさいのだろうか?
その嘘くささが、対面した人に伝わった場合…結果的にその人を傷つけたりしないだろうか?
私自身も、小さな事で辟易したりしないだろうか?

 

そんなに脚のことが気になるなら、はじめから人に会わなければよいのではないだろうか?
でもこの問題…人を避けてしまう癖の原因は脚だけではない気がするのだ押し並べて言うとこれは「自分の欠点(それは心身に於いて)を隠そうとする」私の心の癖の問題なのだ。

 

鶴の人は尚も「友人、以外の人とも会った方が良いよ」と言っていた、私は毎日ずっと考えている「痛みについて言いにくい」ということや、「働いていないことが後ろめたい」事、また「それについて説明したくもない」と頑なになっている事が渦巻いて酷く辛い気持ちになった、それくらい、彼の言うことは正しかったから。
だって、私にいかなる苦しみや、苦しみの理由があったとしたって、それを伝えたくないから、それについて社会的な整合性がとれないからという理由で人との関わりを絶つのは…間違いであると、私もわかってはいる。
それらは究極的には、私の心の問題なのだ。
私は昔から人と話すのが苦手だった、私の会話にまつわる問題点を挙げておこう。

 

・脚の痛みを言いにくい…ので痛みを我慢したりして「他人と居るのは窮屈」だと思ってしまうが、甘えるのは悪いという気持ちもある。
・元来、名称や固有名詞が極端に覚えにくい…ので、相手がせっかくふってくれた話題の何一つを知らない為、会話にならない場合も多々ある。
・上記を含めた自分の欠点を、なるべく隠したい気持ちが働いてしまう…相手の為にも知っている風を装ったりしてしまう事もある、これを嘘ととるのか相手への譲歩ととるのかは私自身にもはっきりと断定は出来ない。

何故なら、あまりに知らなさすぎることを正直に述べても、全く会話が進まずに互いに気まずい思いをするということを回避するための方法でもあるから。
だがこの嘘により、私は居心地の悪い思いをする。

 

他人と話すとき、友人などと話すのとは要領が異なり、本質的な部分よりも表層の部分で話す事になる。
その時に互いの架け橋になるのが世の中の数多の事象である。
この数多の事象にはそれぞれに名称がつけられている…が、私はこの名称を覚えるのが極端に苦手である。
唯一覚えやすいのが三次元的な空間についての名称…地名、これだけは何故か覚えられるし実感が湧く、世界の何処何処でこんなことが起っている等という物事はすぐに頭の中の地図が展開され、その「部分」が悲鳴をあげているように感じる。
けれども人名や、概念、流行の何か、等は昔から全くと言っていいほど頭に入ってこない…頭の中にそのようなものを関知する場所が少ないのだろう…よって、言語記憶が主となる勉強の分野はからきし駄目である。
父親に一時期「障害児」と呼ばれていたのはこの辺りの理由からだ、物覚えの極端に悪い人が居たとしたらウザいのも仕方なかろう。

 

物覚えの悪さ=うざがられる=うざがらせてしまう=申し訳ないので物覚えの悪さを隠したい。

 

なるべく穏和に会話を進行させたい気持ちは私にもあるので、この心理的な働きにより私は「適当に合わせておく」「知らないけど知っている振りを便宜上しておく」癖がもうかなりついてしまっている。
一日何度嘘をついたかで言うと、この部分の嘘が他人との会話上のかなりの割合を占める。
感情ではなくて、単に会話を合わせる為の固有名詞についての嘘、これが私が「会話って疲れるなあ…罪悪感もあるなあ」と思う理由の一つ。

 

じゃあそんな合わせるみたいな真似やめればいいじゃない?
と思うかも知れない。
私も多々そうしているが、これも面倒くさいのだ、あまりにも物事(の固有名詞)を知らないので相手の着眼点が「自分の話したいこと」から「私が固有名詞を知らない事」に切り替わってしまうのである。(これもまた申し訳ない…)
「え?そんなことも知らないの???」
と驚かれるし、いちいち会話を止めてしまうので本当は相手だって話したいことを話せずに足止めを食うので面倒くさいと思う。
でもってあまりに知らなさすぎることをまるで、私本人がネタにしているような感じに受け取る人も居たりして…そりゃあ会話が進まない人というのはトロくて苛つくだろうが、あまり受けが良くないのを私も自覚している。
だから合わせて置きたいのである、「へ~、あんま詳しくはわかんないけど、すごいねえ、いいねえ、そっかあ~」、相手が何かの固有名詞を出したらとりあえず「ああ、」と頷く。
知らないけど頷いておくのである。
ただ、中には勘の鋭い人も居て「普段あんまりテレビとか見ないでしょ」と突っ込まれたりもする、「ばれたか~」と適当に返すが…これを突っ込まれた時点で「その人の持ちネタ」は終了しているので、会話が会話の意味を成さない、よって早めに話を切り替えた方が無難である…さもないと本当に「わかったふりだけしている人」になってしまうから。

 

ほんとうに、嘘つきになってしまうから。

 

とまあこんな風に、固有名詞記憶が極端に弱いと倫理的な部分も含め、本当に面倒くさいのである、相手もそうだろう、父親もこれで相当苛々していたのだと思う。
私の固有名詞の覚えにくさ、知らなさすぎる度合いは特に芸能関係や時事ネタで大爆発している(これはもう時代とか関係無く全く入ってこない)、だから他人同士の例え話や会話の糸口としての「あのお店に芸能人の誰々が来たんだって」という話が…難関なのだ。

 

固有名詞を覚えられない…この欠点が恥ずかしく、申し訳ないので隠そうとしてしまう。
情報をインプット出来ないということが恥ずかしくて隠してしまうのだ、言語記憶の部類が相当弱いのだと思う。
誰が何を「どのように」したかや「どのような感情で」やったかについては覚えていられる…だから元彼たちが居たのは覚えている、記憶力そのものはある…だが、元彼の名前等は忘却している。
元彼でもそうなのだから歴史上の人物とかよくわからん人とかよくわからん流行など私が覚えられるはずがないのだ。
でも人間と人間は何か架け橋を作ってやりとりする生き物でもある…名称記憶が弱いとどうしても対人関係に対して消極的にならざるを得ない。

 

何故ならこのソフト(思考)原理主義時代に於いて、知らないと言うことは、知ろうともしないということであって、それは悪だからである。
でも本当はちょっと違う…本当は…本当はどうしたら良いのだろうか?
本当はどうしたら、心と心で会話出来るのだろうか?
本当の私は知らないことや、自分の記憶力の極端な悪さ、ドン引きされるほどの無知を開示しても構わないと思える信頼関係を築きたい…ただそれだけなのだ。

 

本当の問題点は私の記憶の弱さではなくて、それを隠してしまう部分、弱さを隠してしまう部分。

 

物心つくころ、私は「スチュワーデスになりたい」と言っていた、父が私になりたいものを提示したのでそれをオウム返ししていたのである。
保育園で七色の短冊に書いたのを覚えている、スチュワーデス、というものが何かよくわからないがそれをこの短冊に書くと、星が表れて夜空を照らし、自分もそこへ行けるという。
「お父さん、空へ行ったら楽しい?」
「楽しいぞ飛行機は」
「飛行機って何?」
「昨日も言っただろ、ほら、今飛んでるあれだよ」
私は空を観るがあまりよく見えない、でもとりあえず頷いておくのだ、私の目が悪いのが解ったのも結局小学校へ上がってからだった、とりあえず見える風にしていたのだ、そして翌日もまた聞く、「お父さん、飛行機って何?」父が段々私に辛く当たるようになるのは当たり前と言えば当たり前だった。

 

私はどうしたいのだろうか?
自分を隠したいのだろうか?

 

私は働いていない(出勤していない)し、脚も痛い等と言っているので父には最早健常者扱いされていないだろう…そういう気配はわかる、人間は心と心をどうしても通わせてしまう生き物だから。
私が男だったら早々に父に撲殺されていたと思う、私と父との関係というのは一般的に言う「父と娘のぎこちなさ」を越えた憎悪がある。
父の、なりたくない姿、それが私なのだという認識が互いに生じている…子供というものは耐え難い、直視し難い鏡の中の自分のようなものなのかもしれない。

 

そして対面した人の無言の内に宿る「あなたは楽をしている」という言葉に責められるとき、何と答えるべきだろうか?
どう対応したらよいのだろうか?
そう責めているのは私自身なのだろうか?
でも実際、多くの人が聞かれて困る物事というのがあって…それは割と、言葉に表れている。
「仕事はしているの?」
「子供はいるの?」
これについて素直に答えたところでさらに質問されるのは不当であるように感じてしまう、「何故?」…この何故に答えても意味がない。
行動しない事への何故は何の意志も含まない、そこには心が無い。
でも何だかこの質問には…根源的な優しさを感じない。

 

「このままじゃ駄目だってわかっているけど、鶴ちゃん、私人と話をするのが怖いよ」
自己開示の結果は誤解しか招かないような気がして誰とも…上手く話せそうにない。
私は脚の弱さも記憶力の弱さも隠したい、でもそれは誤解しか生まない。
私が他人との間の物事で唯一習得した処世術は「仕事のノリ」だけである、何か失敗をしたら早々に「ノリで潔く」謝る事、「必死で覚えること」…だからこそ、弱さは見せるべきものではないのだ。
信じられないから見せられないのだ。

 

鶴の人は言う、「じゃあせめて、作品っていう共通概念で通じる人とは縁を保ってよ、俺は自分の事を話すのが苦手だからなるべくちゃんと周りの人に伝えることにする、切り離さないようにする、だからあやさんも人との縁を大事にして、それはこれからの課題だよ」、部屋の中は蒸し暑かった、来月、彼は行ってしまう。
彼はさらさらとペンを走らせた、彼自身の課題を書き終えてから私の課題を別の紙に書いてよこした、その紙にはこう書いてあった。

 

・俺の居ない二ヶ月の間にミシンを使った作品を一つ以上仕上げる。
・人との縁を大事にする
・自分の、本当に好きな事をやってゆく中で生じる人間関係に於いて、諦めず、その人と信頼関係を築ける事を信じ、素直に相手と向き合う。

 

元はといえば私が頼んだのだ、「私の直した方が良いところあれば教えて!」と私が頼んだのだ。
彼の文字は美しかった、鶴の人の飾った絵や小作品たちがこちらを観ているのを感じた…この部屋は元々火の渦巻くイメージがあって恐ろしかったのだが、彼が水辺の絵や写真作品を飾っているので治ったように思えた、言葉に出来ない鎮められた空間を夕日が染めていた。
彼は人を癒やす性質がある。
私は鶴の人の手を握りしめて堪えきれず泣いた。

 

作品は一人でだって出来る、だが縁は一人きりでは不可能だ、出来る事と果てしなく難しい事が一枚の紙に同居していた、私があまりにも突然嗚咽を漏らしたので彼は驚いていた。
職場を辞めると告げた、あのときの同僚たちのように驚いていた。
こんなに悩んでいたとは知らなかったという風に、驚いていた。
そうなのだ、誰も私の事を知らない、私が知らせないのだから、この私が、誰の事も信じていないのだから。
私は小一時間も泣き、減った分の水分を彼の用意したお茶で補った、あと何回くらい泣けば心身の毒が抜けるのだろうか。

 

あと何回くらい泣けば、うまく話せるようになるのだろうか。