a.o個人ブログ

詩や創作文章、祈りについての考察を個人的に公開しています。

家計簿と個のカルマ

※だらだらと書いています。


「あやちゃんに今年は何も買ってあげられない…」
とM氏は漏らした、私が買って貰って嬉しいモノは家と家具であった、「別に要らないよ」と私は言った、「何かもらう事は幸福とは別次元だよ、家計簿をつけたり、この家の節約に参加することのほうが幸福になれるよ」、私が言いたいのはこれだった。

 

金銭的に恵まれている=幸福
節約=苦労、苦痛
この図式がM氏にも埋め込まれているらしく、だからこそM氏にとって私はただただ幸福を与える対象としてそこに存在していたのだった。
でもこれこそが、「数字という事象と、喜怒哀楽などの感覚を結びつけている」思想行為であるので、この考え自体を撤廃してほしいと私は何度か話した。
ここに足りない概念は一つ、参加、である。

 

参加=体感
はっきり言ってこれだけが人生である、これだけが生きる目的であるようにも思う。
幸福を追い求める事をしなくてもいいんじゃないか、と思う、参加を互いに「必要だと」思う事、「参加の場で自己開示すること」、これだけがやってゆくコツであると私は思っている。
なかなか思うように参加することや、自己開示ということが出来ないからこそ、これを求めているし、自分に課しているということ…とても難しい事柄であるから。
だからこそ私は頼んだ、「私も家計簿というものに参加させてほしい、一人のこの家の一員として節約っていう事に参加させてほしい」、そういう事が「本当は幸福」であるから。
私はM氏にそう頼んだ。

 

よって生まれて初めて家計簿をつけている、まともな家計簿、家賃とか光熱費とかを真正面から見ている、手がむずむずする。
家計簿を買うとまた、その家計簿に沿って計算を組み立てるというさらなる精神的負荷がかかるため、A4のノートに表を書き写して何度か計算を試す。
負債額も、資産総額も収支合計に書き込む…負債120万、つまり資産が無くてマイナス資産だけが120万あるという状態…うーむ、来月は負債70万(返済50万)、貯金を念のため50万、なんとかなる、かな?
私はこの作業がとても恐ろしくしんどいような気がしてしまう、というのも自分で述べた通り、「数字という事象と、自分の恐れや恥みたいなものを結びつけてしまう」のだ。
この不必要な結び目を解かない限り、自己開示というものは出来ない。
借金は、カルマである、個としての生に於ける負のカルマである。
大規模な範囲に於いては、借金は善である…善悪は融合する。
だってこの仕組みが無い限り、経済は成り立たないから。
でも何によってこの小規模なカルマが生じたのかというと、私もM氏も自己開示しなかったということ。

 

互いを全く信用しなかったということ…これが個に於ける借金の原因である、が、大規模的には借金というシステム自体を盲信することは大いなる善なのだが…。

 

先ず家計簿で毎月全体の収支の見直しをする…この計算が一番怖かった。
そもそも収入でまかなえず、破綻していたらどうしよう、という恐れに私が負けていた、それでも計算すると、意外にも黒字だった。
というかむしろ何故この状態で黒字運転出来ないのか不可思議であった。
私もM氏もひょっとして結構な馬鹿なんじゃないのか?
言い訳をするならば…私もM氏も小さな幸福に日々の慰めを見いだしている、聖書やゲームである。
特にM氏は自分の真理とかはあまり考えない、そのため実に人畜無害でよく働くが、その分だけ誰の事も信用せず、開示せず、小さな小さな快楽に身を投じる性質がある。
小さな快楽、お菓子やビール、お菓子や珈琲、ちょっとした食べ物…そんなにやりたいというわけでもない習い事であるゴルフ、ゴルフ用の物品。
とまあM氏だけがホイホイ金を使っている風に書いたが私もなんだかんだで使っていると思う。
私もM氏も「この家に参加していなかった」ので、これらの小さな事を制限するという「喜び」を知らずにいたわけである。

 

目先の小さな物事で自分を慰め、没入する癖がついていたのだった、自分を開示せず隠す癖がついていたのだった、相手を信用せずに居る癖がついていたのだった…これが私とM氏の抱えるかなり同質の、個々の負のカルマである。

 

「本来ならきちんと貯金出来る金額だったよ」
と私はM氏に話した、M氏は静かに聞いていた、M氏には「自分から給料明細や光熱費を見せて欲しい」と言っておいた。
M氏にとって帰宅とは、全ての「事象を観測する」スイッチoffの場である…だからこそ私にも一切何も任せたくなかったのだろう。
だが節約をともに行うとなると、M氏にも参加して貰わねばならない。
M氏の稼ぎだからである。
そのM氏の稼ぎから、貯金額を捻出しようという行いをしたいからである、M氏としても借金(リボ払い)が闇雲にかさむよりも毎月一定金額が貯金出来、さらにボーナスも貯めることを望んでいる。
M氏にも困難がある、お金という数字と感情とを合致させているので、他者に施せないということを感情抜きに直視しなければならないということ。
それを苦痛、という反応だけで済ませていたから、小さな快楽でお金を数万使ってしまっていたのだと思う、私も共犯である。
ただM氏にしてみればそれは一方で「他者の為」であったということ、私の為に使っていたということ。

 

でも人との関係性や、幸福、というものは「参加」によってしか体感出来ないのである。
だからこそ数値という事象と感情は割り切らねばならない。
「私、家計簿つけられたよ!参加出来て楽しいよ、せっかく建てたんだしこの土地を好きだから、家を守ろうよ!」
意訳すると、私とM氏との互いの「参加」が無ければ…節約は楽しくないだろうし苦しいだけである。

 

さらに訳すると、「この家」への互いの参加の意志がなければ、リボ払いなどあっけなく膨らんでいって、数年後には家を手放すことになりかねない、のである。

 

月々に数万の余裕が意外にもある、ということは逆に言えば月数万の余裕しかないと言うこと。

 

「目の前の人間と共に参加することを優先し、小さな快楽で自閉的に過ごすという個に於いての悪癖を克服」しない限り、月数万の余裕など簡単に崩れ去ってしまうのだ…それさえ食い止めればなんとかなるし貯金も出来るのである、要するに自分たちの負のカルマを断ち切ることが私とM氏に「この家を守る」という形で課せられているのである。

 

私はM氏にこの話を詳しくした、M氏が私を信用せず、私の言うことを「たかが主婦の戯れ言」のようにゲームをしながら聞き流していたとしたら、私もただただ聖書に没入し、ふらりと家を出てそれきり、だろう。


聖書がどんなに崇高な書物で、果てしなく謎で、楽しみをもたらしてくれたとしても、時に負の作用を及ぼすのである。
…まあ、個人のカルマということをもっと突き詰めて大規模なカルマと捉えるならば、没入するということも勿論、善のうちに入るのかも知れないが…
個人の借金は個人の負のカルマである、影といってもいい、闇と言ってもいい。
だが借金というシステムは「返せるし利益を出せるということを大前提に互いに盲信し、参加する」という信用商売である、だから借金は、資本主義で言うところの善、圧倒的な光、なのである。
借金は大規模に考えると善なのである。
ただ、個人間で考えるとローン未払いの状態で家を売るとか本当に避けたい、差し押さえとか本当に避けたい、それは結局個人の負のカルマを無視し続けると発生する「破綻」であるので避けたいのである。
この事を考えると…経済社会というものも本当に危うい状態で歯車が回転しているに過ぎないと思い知らされる。
皆がそれを善いと「信じて」いるからなんとか回っているのだ…崩壊するのだろうか?崩壊したその後も世界は続くのであるが…ああここで思考停止してしまう、恐ろしすぎて。

 

でもこの「恐ろしいという感情反応=数値という事象」というこの認識こそが、経済を「盲信」させ、目の前の小さな快楽を喜びや幸福であると勘違いさせ、人生の真意を失わせる働きを引き起こしているのだ。
私とてこの目隠しをされ、それを選択し、生きてきたのだ…私だって馬鹿なのだ。
私には事象と感情を結びつけるという思考的な癖があるので、これをさっさと解きたい、馬鹿じゃなく、なりたい。
資産を貯めるとなるとやはり本当は…数値ではなくて、実物、なのだろうかと最近考えている…が、この話は長くなるのでまた。

 

内向的な人間にとって、何かに参加して自己開示するということはとてもハードルが高い、私もM氏も内向的というカルマを背負っている。
何かに参加…その何かというのが目の前の人間との共同作業であればまだしも、結局、目の前のゲームや本、といった精神世界になってしまうのである。
勿論精神世界はすごく大事である。
だが、その精神世界を現実に活かせない限り、それは悪行である…が、前にもいった通り、それを活かしたいが為の行為こそが悪行に転じたりはするので、あまり善悪について事象として語るのは避けたいが。
聖書はいつでも人を呼んでいる、聖書を読むと「これを読んでいるあなたこそが」というサブリミナルが響く…とか書くとそれこそ危ない書物のようだが、聖書は対話型の本だと思うのである。
ゲームもそうだと思う、聖書もゲームも対面した個人を助ける働きを帯びている物品なのである、だが、その働きを外部に持って行かない限り、内向的な人間に対面しているその人を助ける事は、出来ないのである。

 

今までも家計簿をつけるという行為に、家計に、M氏との生活の場に、参加していればよかったと私は後悔した。
正直言って、下手に働くよりも資産が生じただろう、この前までは貯金を出来ていた当時の自分たちを凄いとか勘違いしていたが、今思うと共働きで社宅住みだったのに何故それしか貯められなかったのか不可思議な金額でしかないと気付いた。
…まあ当時は働くということに参加していた、とも言える、消費に参加したとも言える。
働くのは楽しかったし、良い経験は出来たのだが、金銭という事象を直視出来ずに居た。
ただ闇雲に働くということが参加であると思っていた、そうでないと参加する意味が無いとも思っていた。
でも家計簿への参加は第一にM氏からの信用と、給料明細の自己開示が無いと始まらないのである。
信用されないと、信頼出来ないのである。

 

信用されないと、人は参加を放棄しがちなのである。
参加、と書いているが…他に適当な言葉が浮かばない。
社会参加、と置き換えても構わない。

 

何度も書いてしまうが私は底辺高校に通っていた、で、そのような底辺高校に通う人間というのは「参加する」ということへのポテンシャルが低い、高校に「参加する」ということ。
社会参加、対人関係に於いての参加、それらへの誠意が低い、何故誠意が下がるのか?信用されないからである。
周囲の人間も生徒の性根に「参加している」という感覚が欠落していることを知っているので、「在学していても退学してもどちらでもかまわない」感覚に陥るのである、余計な感情を結びつけたくないからである。
ここで負の連鎖というか、負のカルマが渦巻くのである、居ても居なくてもいいなら居なくて良い、辞める、ということが頻発するのである…人は人から信用されないと堕落するのである。
私は性格は真面目であるので、はじめのうち、高校を退学するという心理は理解し難いと思っていた。
退学したら中卒である、中卒を挽回するためには通信制定時制に通わねばならない…そう、結局何かしらの制限がかかって、何処かに認定してもらわないと中卒のままなのである。
中卒だったとしたらバイトすら難しいのである…いくらなんでも、とはじめのうちは思っていた。
だが気付くと「友達」とかが高校に来なくなっていたりする、かの「友人」も高校を辞めていたりする、同じ高校ではないがこの影響を否が応でも受けてしまうのである。

 

そういう中で一人で通うのは本当にキツいものがあった、なんせ「在学していても退学してもどちらでもかまわない」学校である、「君は出勤しなくてもいいし仕事もしてもしなくていい」という会社にそれでも通うしかない、なんてことになったら誰もが結構しんどいと思うが、そういうしんどさだった、辞めたかった、私がそこに居るのを誰も望んでいないからである。
有り難い事に仲の良い子たちと数人で「励まし合いながら」「退学しないように」通った、たまにどうしても「通学そのものが」耐えられなくなり、昼過ぎまで電車に乗ってだらだらと過ごした。

 

誰も私の頑張りなど、見ていないし、誰も私の事など「高校を卒業するだろう」とは「特段思ってないし気にも留めてない」から、通学すらも、耐え難いほど苦しかったのである。
誰も私の事を信用していないから、先にこちらが信用という人間関係の世界からおさらばしたくなってしまうのである。
もっと困窮するのは目に見えているのに、出て行きたくなるのである。

 

信用の無さ、これが底辺というものの辛さの正体、なのだと私は思う。

 

この、信用されないから頑張れない、よってその場を出て行くという放蕩癖は、この世から去るということに置き換えてもいいと思う。
自殺をいけないことだと(あくまで)生者が噂するのもこの辺りの負のカルマ説に起因しているのではないか?と思ったりもする。
一度「下」つまり、「誰にも信用されない環境」まで行くと、なかなかそこから這い上がれないのである。これは私の実体験である。
だから因果律で考えると、自殺で死んでこの世界からおさらばしても、もっとさらに誰からも観測されない地点に行く…という仕組みが、無いとは言い切れない。
そこへ行くとどうなるか…さらに性根を放棄したくなるのである、少しの制限にも耐えられなくなるのである。

 

最も、因果律には配慮という概念が圧倒的に欠落しているので、未完の概念だとは思うが。

 

信用の無さが人間をますます駄目にするという図式は、ホームレスとかの社会的弱者と呼ばれる人たちもきっと当てはまるだろう、参加するということへの人間的ポテンシャルの根本がかなり低いので、全て放棄し、誠意すらも放棄してしまうのだと思う。
弱者、と書くとすごく綺麗でか弱いイメージがあるが、申し訳ないがホームレスとか実際屑だと思う(私とてM氏がいなければ普通にホームレスだが)。
何故なら、底辺高校も屑が多かったからである、ブラック会社も屑の寄せ集めであった、その屑の中に参加欲求の高い、ポテンシャルの高い人が居て全てを取り締まっていたのである。
無論私も出来ない人間であった、出来ないからこそ誰からも信用されないのである、で、信用されないからますます参加するということへの誠意自体が下がるのである。
生活保護を貰って即日使い果たすとか、一見どう考えても自分が困窮するだけで損だろうと思われるような事象を引き起こす人がいる様子だが…私にはその気持ちもわからんでもないのだ。
自分自身に対する不信があるので、目の前の小さな快楽に全てを投じてしまうのだ、そういう負のカルマが私にもある。

 

鶴の人のカルマは女性関係だろうか。
それは一見、人間関係への参加型の「善い」カルマのようにも思う。
だが単に次の女、次の女、新しい次の玩具、という風に目先の快楽に手が伸びていたらそれは、目の前の人とは本気で対峙しないという負の連鎖を引き起こすだろう、精神的負債を背負うことになるだろう、私はそのようなことが起きたら離れるしかないと思っている、このように書くと傲慢なようだが…彼のためにも。
一方で、その負のカルマを帳消しにして有り余るほど圧倒的な、この人の持つ善のカルマがある、それが、人を信用することである(だからモテるのである)。

 

人を信用すること、自ら、先んじて信用すること。
彼は自分の眼を信じているので「現物が無くても」「それ以上の資産を生み出せると」信用出来るのである、鶴の人の信用というのはまさにこれである。
私はそういう意味で鶴の人に信用されている…信頼、というとちょっと言葉が、芸術に於いては異なるし、残念ながら私は芸術面ではまだまだ全く彼を信頼させてはいない。
情緒面も含めての芸術的信頼ではなくて、創作をする人間であるという根本的な信用である、アートというものが一過性の装飾、虚飾でなく、一生に於いての善のカルマであるという信用、である。
このところすっかり参っていて、持ち上がったポテンシャルも一気に下がっているが、それでも鶴の人は私を信用してくれている。
この信用があるので、私も、目の前の事象に取り組む勇気をもらえるのである。
自分一人では参加出来ない事も、鶴の人が居てくれれば頑張れる、出来ない事や努力が必要不可欠であっても、やれると思って取り組めるのである。

 

だから先ず始めに信用されると、こちらも人生に於いて参加しようという意志が芽生えるのである。

甘えた意見のようだが、人生のほとんどを勉強などを含めた「効率化」で裁かれて来た人間ほど、信用に飢えているのである、信用さえされれば踏ん張れるのである。

 

家計簿をつけるのにも私は手間取る、この手間取っているのを見てM氏は「やらなくていいよ」と言っていたのである。
それは在る意味で正論である、物事を効率化したいのならば手間取る人間には参加してもらわないほうがうまく回る…と考えたのだろう。


効率化と自閉化という世界規模の精神現象がM氏個人にも起きていて、だから私も閉塞感を感じてしまっていたし、家という共同の場に参加するという意欲がかなり低下していたように思う。

 

だって、「やらなくていい」ことを頑張ってする意味、ないから…。
そう思っていたら雪だるま式にリボ払いが発生しているのである。
私は本当に計算が苦手で、家計簿の表についてもまた、逐一自分で考えながら癖で独自のシロモノを作ったりしてしまうため、嘘みたいに時間がかかる。
そういう時間のかかる要領の悪い人に任せておくのが、M氏には面倒くさかったのだろう。
しかし私はM氏にとって目の前に居る人間なのである、実際こうして努力して計算していると、「この家に参加している」ということを肌で感じるようになる、そして貯金が出来ると事象として、認識可能なので嬉しいのである。

 

自分で考えて自分で認識出来たから、嬉しいのである、それを共有したいのである。


これは私がどんなに計算が苦手でも、私が参加しなければいけないことなのだ。
私は苦手だからやらなくていい…
誰も私に頼んでないからやらなくていい…
私は居なくていい…
効率化、これは悪事なのである、善行による悪行よりも負のカルマが溜まる悪事のようにも思う、生きるという事象への参加が減るので社会的にも悪事なのである。

 

さて、何よりも先んじて信用するということ、これは資本主義に置き換えると貸している状態、であり、資本主義の理念にも近い。
これによりどんどん借金がかさむことを資本主義は是とする。
信用することは善である、借金も是である、その実世界経済の半分は借金である。
これで世の中が「辛うじて」回っているのである。


しかしこの回転はある一定の領域に於いては逆回りに回転する、個人間では逆回りである。
個人間に於いては、信用が発生しない場合、往々にして目先の快楽のために負債だけが膨れ上がるのである、これが善に隠れた闇である。
善、光=皆にとって善い
闇、悪=避けるべきもの、忌むべきもの
この図式から私も抜け出したいのである…ただ、単なる数式の世界に於いても何処かに臨界点といものはあるのだろう、その臨界点が個人と大規模な視点の境目とは限らない、もっとさらに包括的な視点からすると…経済は死と再生のように必然的に定期的に破綻する仕組みになっているのではないか?(という漠然とした直感だけでモノを言っています。)

 

個人間では善でも、ある一定の認識域まで数値が達すると反転するような因子が、おそらく全ての数字、全てのこの世のものに含まれているのだろう。
家計簿をつけながら、私は善悪の融合地点を見つめている、参加することによって個のカルマから抜け出せるのかどうかを見極めている。

 

 

 

 

 

 

 

カルマ思想と魂同一論 自己と他者、善行と悪行の融合

 

融合するカルマ 魂同一論

本日は仏教国なのでカルマ思想に浸かっている…さて、では私が小学校時代に襲われたのはカルマだろうか?
昔は新興宗教仏教徒だったため、100%カルマのせいだと思っていた。
特に創価学会でカルマがどうのこうのという話は特段出なかったが、漠然とカルマだと思わざるを得なかった…というもの運命や神という多次元的な力の話は教義に出ないので、どこまでも個人主義で人生を解決するより他なかったのである。
しかし当の私はいかんせん子供だったため、性的な放逸だとか悪事を「この人生で働いたから襲われた」という図式は成り立たなかった、よって私は「前世のカルマ」というものを採択した。
きっと「前世に性的な悪癖に溺れていたのでこうなったのだ」と私は解釈した…これが思春期に壮絶な違和感とみじめさをもたらしたのは言うまでもない。
襲われる、それも子供が襲われるということに何か原因があるとしたら、「その時その場に居た」ということである、こうして地球に肉体を纏って生まれてきたということ…これこそが因果律の因である。
ただ、前世などに話が及ぶと最早「それを結局の所事象(観測可能なモノ)として確認出来ない」ので、因果律は未完の思想であるようにも思う。

 

魂というものがもし、元来大きな一つのものであったのなら。
大きな一つの魂が何故か散り散りになった状態で個として存在するのがこの地上であったのなら。
だとするとカルマというのはもっと別の視点から観測する概念が必要になってくる。

 

例えば股関節の事にしてもそう、最近は右腕や指の付け根も痛むのだが…これを仏教思想が根付いている日本で「やれ関節が、やれ骨が、指の付け根が…」と常時言っていると本当に嫌われると思う。
だから実際には私は言わない…というよりも言えないと言った方が的確である。
痛みに関しては素直に言えば言うほど怠け者扱いされるのがオチである。
怠け者というのは周囲に敵意を持って生きている人間よりも性根が悪いとされる風潮がある、私自身にすらこの視点がある、だから右腕の痛みや指の痛みというものを最近自覚してさらに滅入るのである、これは何か私のカルマがそうさせているのだろうかと気落ちするほどに、滅入るのである。
だから痛みが生じたらひたすら耐える、耐えられるところまで耐える、これを私とて、採択してしまうのである…。
苦痛というのはカルマがそこにあるからで、自分が馬鹿なのも全部自分のせい、道を歩いていて襲われるのも「そういう空気を出していた」から…これは魂が、ということ。
よって個人の苦痛はどこまでも個人の魂が「カルマを背負っている」から起っているのだということ。
これは結構当たり前に浸透している感覚だと思う。
唯一の問題があるとすれば、カルマ思想には配慮という概念が欠落している。

 

確かに人間は個別の生を送っている。
事象として、一人の人間はどこまでも一人である。
だからその人の背負うべき荷というものも確かに存在しているようにも思う。
それを直視しなかったこと…制限しなかったこと…これが私の駄目だった部分であり、確かに、男への恐れや甘え、金銭への直視や性的な制限、そして芸術へのロマンと嫌悪、そういったカルマを「直視し実行するという経験によって」正さねばならないと思う。

 

…だが一方で魂というものが根本的に同一であったとしたら?
この世、そして次の世、数多の別の世というものがあって、その諸処の認識に於いてはやはり私はどこまでも「私という個」だろうが…何処かの地点で全てが融合する場というものがあるだろうと感じている。
何故なら、このカルマ論自体が、他者を救うというものではないから。
それを私は体感してきたから。
魂がどこまでも一粒のままだったとしたら、他者への配慮というものは心底不必要である。
だが魂が同一であったとしたら…

 

私は今身体の股関節や右腕という場所に痛みというものが生じていて、最早この事象について、私がどのような精神論を述べたところでその症状が軽くなるわけではない。
それどころか身体はどんどん要所要所が軋んでいる。
では他の人は?
道行く老婆がリウマチや諸々の医学的要因により身体が痛んでいたとして、それを「あなたのカルマなのですね」とだけ言うのは果たして…善い悪いという事より…それは真実なのだろうか?
ある認識地点までは、死後に於いても、様々な世に於いても、多分個人のカルマというのはつきまとうとは思う。
だがそれは一過性のものでしかなく…あなたの、という個の背負うべき業、というのは根源的には間違っているように感じられる。

 

つまり、すれ違う誰かがが身体の痛みを訴えていたら、その誰かは、多分、根源的な状態に於いては「私自身の痛み」なのだろうと私は感じる。
だからその人はきっと私の分も痛みを引き受けているのだと思う。
ただその引き受けるということは、「今のその人が決意して」引き受けたのではないかと思う。
何の身体的障害もないという実感を生きる人も居るだろう、それは「その人がその状況を体験したいと望んだから」引き受けたのであり、そういう働きをしてくれているのだと思う。
個人主義や自己責任論が根付くのは日本が仏教国だからであるが、その根源は魂が本質的には同一であり、大変な思いや嬉しい思いも全て、他者が体験して「くれている」のだと思ったりする。
襲われたことも、きっと私が引き受けると決意したのだろう…無論、このような思想で私に同情を寄せる人というのはあまり居ないだろうが。
痛みについても、身体が痛む毎に…特に寝ている時に骨のずれを感じて痛むのが一番、精神的に絶望する…つまり寝たきりというのは相当キツいと思う。
で、その相当キツいことを自分のカルマとして体験、引き受けている魂が実際に在るのだと、身体が痛むようになってからはかなり如実に感じるようになった。
身体の痛みというのは、肋間神経痛についてもそうである、刺すような痛みが在る度に、多分これ以上の苦痛を引き受けている魂が在るのだなと、思うようになった。
これに関しては、非常に独特な言い回しで注意が必要だが…ありがとうございますと感謝している、この理屈についてまだ、うまく説明出来ないのだが、世の中の様々な苦労や、一見何の価値も無いような苦痛に、私はそれを背負う人のカルマと、決意を見る。

 

襲われた、と書いたが、襲った側の人はどのようなカルマを持っているのだろうか。
襲う側というのは得てして楽しそうであった、楽しい、というよりも…楽しさの奴隷というべきか。
自分は楽しんでいる、自分は強い、ということへの奴隷と言うべきか…笑顔の仮面をつけていて、制御出来ない、でも中身は恐れおののいている…そういう感じがした。
あの「恐れおののいている」部分こそがその人の性根、直視すべきカルマ、だと思うのだ。
何故なら、きっと彼等は、「私」だから。

 

犯罪加害者などの、屑であると言わざるを得ない人の背負うカルマというものも、もしかするととても大変なものなのかもしれない。
祈っていると何となく、自分の本心や本質的な理想までもを直視してしまう、だから綺麗事ばかり並べてしまうようで自分でも恐ろしい。
ただその綺麗事というものほどの、強烈な悪事はないだろう。

 

カルマの融合 善悪の融合

何が言いたいかというと個人のカルマはある地点を越えると、他者と自己の区別が無くなるということ。
在る地点を越えると他者と自己は融合する、だから他人の苦しみは自分の苦しみでもある、他人の喜びは自分の喜びでもあるということ。
だから自分を捧げる祈りは有効なのだということを私は感じる、そしてまた祈りによって体感する綺麗な思想や善行というものもまたある地点…多分社会的な枠組みを越えると、恐ろしい事に、悪行に転換するのである。
このことについて私は深く体感している、螺旋のように続く業のなかに私は居る。

 

例えば私は普通に生きていて窃盗などはしない、万引きもしない、何もそこに善意を感じないからである。
道ばたに数万落ちてても交番に届けると思うし、数十万を泥棒したいとは思えない、数百万でもなんかまだ面倒くさい、善意を感じないからである、真理を感じないからである。
だが、自分が漠然と思う理想や、この社会に於いての矛盾をもっともっと日々直視し続けたら…
数千万
数億円
数百億円
こうやって莫大な金額が目の前にあったら、「世の中に対し善行をしたい」という強烈な根源的欲求のために、私は窃盗をすると思う。
時にそれは殺人を含むような強盗かもしれないし、横領かもしれない、でも「世の中に対し善行をしたいがために戒を破る」ということを私はするだろう、私はそういう人間である。
この部分を突き詰めて考えると…万引きや、人の一見下らない悪事を責められるかというと最早、責める資格なんて無いのである。

 

善意と悪意はある地点を越えると融合するからである。
だから苦しみを捧げるのも、喜びを捧げるのも、祈りという感覚世界に於いては大差無いのだ、だから祈るのである…そこから脱する方法など実質無いのである、これを禁欲的にカルマを脱すると称した修行に置き換えてしまうと、本末転倒である。

 

私は祈りだなんだと内面哲学をつい、たらたらと書いてしまうのだが、実際には不倫ということをしてしまったし、現にしている。
これについてはM氏にも開示した時点である程度の赦しというものが互いに行われたようにも思うが…
社会的にも、鶴の人の元奥方にも、その息子の神無月くんにも…彼等の家族の一員を「盗んで」しまった、そういう害悪を行っているのである、これについては弁明の余地が無い。
だが、その実私は「それは世の中に対し、芸術という善行を私も鶴の人も行いたい、その気持ちのために行ったこと」なのだと心底思っているのである。
つまり私は「善行のために社会的悪事を行った」のである。

 

じゃあやっぱり祈りというものや、自分の真理を追究するということは「危険」なのだろうか?
私が絵を描かなかった時期は幸福だったろうか?否である。
私は実際にセックスを5年我慢したことがあるが…結果は排卵が起らなくなり、偏頭痛に悩まされるという苦しみであった。
つまり自分の真理を追求するという経験そのものに蓋をすると生きた屍になる、排卵が起らないということを男性に説明するのならば、5年くらい射精出来なくなったと解釈してもらって構わないだろう、辛くないか?
生きた屍になっている人間は確かに「事象として観測出来る害悪」は、もたらさないかもしれない。
だがそれがこの世に生きているということなのだろうか?

 

だから自殺に行き着くのではないだろうか?

 

何かがこの世に起って、てこの原理でぶつかって、そこで発生する膨大なエネルギーを是とすること…この生産が、この世の存在意義なのかもしれないと思う時がある。
きっと私は生まれ変わっても悪事を働くと思う。
その為に善行というものを考えざるを得なくなると思う、善行のために悪事を働いてしまうと思う。
このカルマのために、私は自分を捧げる祈りをしている。
このカルマのために、身体の痛みを引き受けているのかも知れない、根源的に同一の魂のために体験を引き受けているのかも知れない、その為に善行と悪行を引き受けているのかも知れない。
そんな事を考えながら祈っている。

 

 

 

 

 

祈りの作用

 

私は数多の魂のために祈ります、苦しみを御母に捧げます、喜びを御母に捧げます。
私の苦しみが祈りにより昇華されますように。
私が傷つけた人が、誰よりも先に癒やされますように…それはM氏かもしれない、鶴の人の奥方かもしれない、私が気にも留めないような誰かかも知れない…この世に於いてはその人が先ず癒やされますように。

 

この前意識障害?を起こした時に味わったのは意識が移行するということ。
死というものは認識の移行である、数多の世界が在って、そこへ飛んで行くのだ…移動はしないのでその実魂はそこに在るのだろう、不動なのだろう。
しかし認識の移行は生じる。
この認識の移行先こそが来世と呼ばれるものなのかもしれない。
悲しいことに、この世で見聞きした全てが何一つ作用しない世界のような気がした、宗教観、文化、文字や言葉というものや…勿論絵も。
この世の全てが全く無価値である世界を感じた…それは人間的に観測するのならば私の脳ミソに血液が足りなかったという現象であるのだが、なんとなくそれが、ただの人間の認識に於いて観測し得る限界であるようにも思えた。

 

死というモノを人間が人間の認識で観測した場合、ぱったりと息を引き取るように見えるだろうが、それを認識の移行した先で見つめた場合、全く別の現実が見えてくるだろう。
人間の認識でこの世界を解剖しても、それを持ち越すことは不可能なのだとこの前思った。
祈りというものがずっと行われているのも…人間から見たら事象として観測が出来ないから不可解なのだけれど…認識が移行したら祈りの意味がわかると思う。
もっとも、認識の移行先を決めるのがこの人生の役割なのかもしれないけれど。
だから私が祈りというものは事象として観測可能なほどに意味がある、という確信を得ているのも、単に私が次の世を…次の行き先を祈りというものが通用する世界と、決めているに過ぎないのだけれど。

 

この家で死んだ人がいる、この家といっても前に建っていた家である。
私はこの事を縁起がいいと思った、その時はその魂は何処か遙か彼方へ三次元的な意味で飛んでいったと思っていた。
だがこの前の失神もどきで死という事象への認識が変化した、魂もきっと三次元的にはまさにこの場に在るのだろうと思う、すぐそこに在るのだと思う。
しかし互いの認識が全く別次元に入るために関知出来ない、だから互いに「遠くに」居る。

 

バームクーヘンの層みたいなものを私は空想している、その数多の層のどのあたりを次の行き先にするかは自分次第である。
ただ、魂というものへの解釈も…もし魂というものを根源的には同一だとするのならば…他者のために祈るのは本当の意味で全ての事を考えていられると思う。
魂が強固なまでに個別化していて、それぞれのカルマを背負うという解釈だと、他者への祈りという概念自体が湧いてこないだろう。
私は仏教の慈悲という概念や祖霊への祈りは実に、カトリックで言うところの「煉獄の魂への祈り」に近い感覚だと思っている。
ただ祖霊というのが直結の先祖というのに対し、煉獄の魂への祈りというのは血縁などは無関係であるため、より根源的なものに近い感覚が湧き起こる。

 

魂は実は眠ると抜け出でて、新しい魂が補充される…ということをよく考える。
魂は電池みたいなもので、私は電池を補充されているに過ぎない。
私は夜ごとに新しくなる、だから朝には全て忘れている、私は眠る前に古くなる、年月を帯びて煤けているから…だから眠りにつく。
魂をケーキやピザみたいに綺麗に分割するイメージも浮かび上がる。
魂が分割されたものであるのならば、誰かの痛みは私の痛みなのである、誰かの悲しみは私の悲しみである、それを観測しているときの私は「今日の」身体に入り込んでいるので知覚、体感したりはしないけれど…誰かの喜びもまた、私の喜びなのである。
そういう情報共有はもしかすると祈りによって成されているのではないか?と思う事がある、これは結構真剣に感じる事である。

 

苦しみや喜びをただ人間として傍観したり体感したりしているだけだとそれはいつまでも性質が変化しない。
だから苦しみそのものには意味がない。
でも祈りとして捧げると、苦しみにも喜びにも意味が生じる。
しかし苦しみや喜びといった体感を祈りとして「捧げる」事をし、尚且つ漠然と第三者へ…つまり他者(それは煉獄という概念でも慈悲の概念でもいい)への配慮に繋げること。
私は思う、この世の箱庭で苦しみや悩みというものが生じ、それを祈り捧げることによって「数多の世の何処かで」捧げられた苦しみが動力となっていることを。
祈りや執り成しというものは…エネルギー源みたいなものなのではないだろうか?
悩み、苦しみ、喜び、そのままだと別の世、別の認識世界では使用不可能のものが、それを祈り捧げることによってエネルギーに変換される。
その変換を行ってくれるのが菩薩だったり聖母だったりする女性的に見える存在なのではないだろうか?

 

私は全ての喜びと苦しみ、一生と最後とを御母に捧げます、御母よ、力強い執り成しによって煉獄の霊魂を救い給え。

 

私は今現在はどの宗派のどの教会…といったものには所属していないので、解釈の仕方も個人的な「体感」による。
だからそれはとても軸のないものに見えるだろう。
聖書にも煉獄という概念は書かれていない、そのような言葉はカトリックの創作なのだが、私には納得がいく。
この世はエネルギー製造場なのではないだろうか、エネルギー牧場と言ってもいい。
だからわざとてこの原理で物事がぶつかって、そこで生じるエネルギーを…何処か別の次元に運ぶという働きが連綿と行われているのではないだろうか。
その働きが、祈るというものなのかもしれない。
例えば骨が軋む、この軋むということが事象であって、痛むというのは反応である。
これと同じく何か事象が起きて、それにより苦しみという反応が起る。
喜びもこの原理である。
だから本当の所、人生には苦しみも喜びも痛みすらも…ない、それは観測は出来ない主観的な反応なのである。
でも私はこの反応にこそ意味があるような気がしている。
この反応自体を止めたり、制御したりする意味は無いように思う。

 

祈っていて一番実感があるのが他者への祈りである、自分の苦しみを捧げる祈りとか、喜びを捧げる祈り…このエネルギーが霊魂を(特段この次元のというわけではなくて)救う動力のほんの一欠片にでもなればいいなあと思う時に、私は自分が救われたのを感じる。
逆に言えばそれ以外の祈り…とにかく熱心に祈るということとか…これは私は幼少期からやっていたのですごく好きではあるのだが、もしかするとそんなにやってもやらなくても無関係なのかもしれないと感じる。
ただ、喜びに関しても苦しみに関しても…この世での反応を無駄にしてはいけないと思う。
この世での苦しみを無駄にしてはいけないと思う、喜びも苦しみも一人で抱えていてはいけないように思う。
苦しみというのは人間の視点からすると「汚い」という反応が湧き起こりがちだが…私はこれについて根源的なエネルギーだと思うようにすれば、それが喜びに満ちあふれた感謝の祈りでも、痛み苦しみの嘆きを捧げる祈りでも、どちでも質量的には変わらないと思っている。
菩薩や聖母はそんなに狭量ではないだろう、苦しみを捧げるということは汚れをそのままぶつけるということではないし、仮に汚れをぶつけたとしても彼等は決して他者を罰したりする「神」ではないのだから。

 

唯一ちょっと違うなと感じるのは神社。
私は神社が昔から…宗教的タブーもあり怖いので、一人ではあまり近寄れないのだが、あそこはなんとなくこの「捧げる」というシステムの管轄外のような気がしている。
穢れという思想自体が私はどうにも肌が合わないので、他者への配慮がないという時点で社会的な意味であまり心惹かれないのだが…そういう次元の話ではなくて、根源的に何か、繋がっているのが人間の喜怒哀楽や慈善などではなくて、道徳などでもなくて…私はあれに向かってどう祈ればいいかもわからないのでなんとなく傍観している。
友人は神社アレルギーは無いようなので、友人と居る時に神社に行ったりはする。
孤独死や自殺というものが「迷惑」とか、土地が汚れるという価値観が根強くあるが…個人の生死の尊厳よりも場の浄化を優先させるという思想が在るということ自体恐ろしい。
ただ、裏をかえせばこの「恐ろしい」という感覚自体が「本当の体感」でもある、つまりこの価値観は、穢れの価値観や穢れ思想、きっと神社由来のこの祈りのシステム自体の実存を裏付けているとも言える。

 

御母、私の苦しみを捧げます。
私の喜びを捧げます。
数多の魂を救って下さい。
私が救う事は出来ないが、私のエネルギーを元に大いなる誰かが使用し、第三者を救ってくれる。

 

M氏にも臼蓋形成不全や変形性関節症の体験談を読んでもらった、どうやら伝わったらしい。
もしかしたら、いつか遠い昔、あるいは未来に誰かが捧げた祈りが今この次元に於いて作用したのかもしれない、だから私は真っ先に思った、体験談を書いてくれた人たちよ、ありがとうございます。
見知らぬ誰かの祈りよ、ありがとう。
鶴の人の世界ももっと知りたい、抱えている悩みも、希望も、喜びも。
私の祈りは何処かで作用しているのだろうか…それは現時点から見たら未来や過去なのかも知れないけれど、本当は同時に起っている。

 

初夏の並木道、木漏れ日の中の菜の花、桜の青葉から垂れ下がる芋虫、去年の私よ、一昨年の私よ、きっとこの木陰の何処かにあなたは居る。
先生に絵を描いていたのが去年だなんて、なんだか果てしなく昔みたいだ。
100年くらい前みたいだ、前世みたいだ。
ああいう風に幸福な人を私は今、ここから見ている、互いに認識は出来ないけれど。
出来なくてやめるということをもうやめたい、たった一歩、進み出て天空から垂れ下がる千羽鶴のうちの一つを私は手に取る。
絵を描けない苦しみも捧げます。
絵を描いたら、その喜びも捧げます。
去年の私の喜びは、今、何処で作用しているのだろうか。
今の私の痛みや苦しみは、何処で作用しているのだろうか?
もしかしたら数多の世の何処かで、ここから見た煉獄で、ここから見た三千世界のうちの何処かで、光っているのかも知れない。

 

この世の苦しみを無駄にしてはならないと思う。
この世の喜びは、数多の世々に分け与えねばならない。
それらはこの世では活用が難しいが、捧げることはたった一秒の決心さえ在れば可能である。
祈るのは、一秒の決心さえあればすぐに可能である。
祈りの作用について考えている。

 

私が傷つけてしまった人が、誰よりも先に癒やされますように。

 

 

 

自分の苦しみ

 

私は立っている、玄関で内職の荷物を運んでくれる人を私は立って観ている。
私も歩けるのだからバイトでもしようかな…その時になんとも言えない骨のずれを感じる、直立不動の状態がいけなかったのだ。
座って居ても鼠径部のような場所がチクチク痛む、大丈夫、ちょっと立ってちょっと座ってを繰り返せばなんとかなる。
歩いている時に臀部の下部が痛む、ああ今日は、あんまり歩けない日なのか。
膝が痛む、しかしレントゲンで観る限り膝には実は異常はない、土踏まずが強烈に痛む時がある。

 

もし立ち仕事を始めたら、そもそも通えるかどうかで毎日毎晩毎朝悩むだろう、明日急に脚が痛くて歩行出来ません等ということにならないように、運動療法(リハビリ)を今よりもずっと熱心にして…
この心労が果たして数万円の価値に見合うのかどうかはわからない。
無理をするとすぐに肉離れをする、それを食い止めることや、股関節の痛みを耐えながら仕事する事が果たして金銭的に数万円の価値があるのかは私には解らない。

 

と思いあぐねながら私は座している、正直、もう疲れた。
何も出来ないということにも疲れたし、こんなに日々痛みに振り回されるということにももう疲れた。
歩きに行く時も自問自答する…歩けるのだからと自分でも思う、だが痛む時の歩行は跛行する、痛む時は、本当に心細い。
毎日通うとなると…本当に通えるだろうか?

私が脚を引き摺っている時に周囲の人は驚くんじゃないのか、あるいは、調子の良いときと比べたらまるで演技でもしているかのように見えるだろうか?

帰宅してから眠気が襲い、私は横になろうとする、その途端に角度が悪かったのか痛みが走る、何処、と言い難い部分。
臀部?股関節?腰?一体何の骨?いつも同じ場所が痛むという訳ではない。
なんでこんなにずっと身体の「立ち位置」「角度」「寝る時の姿勢」「座しているときの姿勢」「座り続ける事の禁忌」と「立ち続けることの禁忌」をずっと考え、気を配り続けねばならないのだろうか?

 

普通に考えたら立ち仕事は私には困難だ、毎日の「通勤」の段階で私は二の足を踏んでいる。
しかしこうして休んで過ごしているからといって身体は回復しない、というかもう身体の臨界点を過ぎたので何をするにも悪化するだけなのだとわかっている。
悪化。
私は今手術などは受けていない、臼蓋形成不全とあと何か詳しい病名があったが失念した…これについて考える事を諦めている。
骨の状態は綺麗で、しかし身体に水が溜まっているので痛みが出ている可能性もあると言われたが、「頻繁に大学病院へ行って水を抜く処置をする」のが果たして本当に身体にとって良いのかよくわからないし、水が入っているか否かを調べるためのMRIを避妊リングのせいで受けられるかどうかもよくわからなかったので、結局何もやらなかった。
頻繁に小さい手術、処置を繰り返すということについて全く、希望どころか絶望的なものを感じたのでやめておいた。
確かに清掃の仕事から身を引いてからは「如実に関節が腫れている」感じや「骨が軋む痛み」は減った。

 

そう、だからつまり、働くということは今よりも確実に痛みが増えることだという覚悟が私には必要だと言うこと。

 

こうして書くと本当に自分が甘いような気がするが、臼蓋形成不全というキーワードで検索すれば結構色んな体験談が書かれている。
これは変形性関節症の原因とされているので変形性関節症の体験談とかを読むと、多分私の言っている普段感じる痛みや苦しみがより解ると思う。(臼蓋形成不全=変形性関節症とも言える)。
M氏に「私の病名知ってる?」と聞いた、「骨のこと?知らないよ、回復するといいね、早く仕事はじめられるといいね」と言われる、ああそうだよね興味無いよねと脱力する。
M氏には私が単に仕事をやめてぶらぶらしているように見えているらしい、私は何度も彼に説明したのだが…もう一言も言わなくていいと思った。
食わせて貰っておいてなんだけど、この人に私の男関係をとやかく言われる筋合いって実は無いんじゃないか、と思う。
鶴の人にも情報を調べて貰うように促す、彼は芸術の同志なので私が何に立ち往生しているのかを知らせておく義務があるように思えた、前にも調べてもらった気がするが再度、自分で私の身体の状態を調べて貰うことにする。
このような事は本人がいくらとやかく説明しても、それをただ漫然と聞いていると聞き流してしまうので、自分で調べて貰うことにしようと思った。
そして目の前の人物の言葉というのをその実、人間てあまり聞かないよな…とも感じる、目の前の人の痛みの告白より、多数の体験談のほうが信憑性を感じる仕組みが人間の心理にはあるように思う。

 

この種の内面の告白の正反対に位置するのが「目の前の人間の笑顔」とか「女らしさ」みたいなものなのだろう。
女の抱える物事には興味ないけれど、目の前の女が笑いかけてくれたりすればそのことの方が真実、みたいな感じかもしれない。
ただその実自分で自分の振る舞いを「実感」することって誰も、出来ないと思うので、対面する誰かが何を抱えているのかを配慮した方が人間関係は上手くいくだろう。
私の体感、実感する現実と、私の周囲に見せる現実との間の溝を埋めるのは私が物事や本心を開示する事でしか達成出来ないのだ。
女という「物体」に生まれてくると内外の差がどうしても生じる、これを唾棄したいと強く望む時がある。

女の肉体というのはそれだけで一つの揺らぎ、一つの歪みである、女の人、というジャンルが私を余計に苦しくさせているように感じる。

 

身体に痛みが生じているのを「わかりにくく」させるジャンルのように思えてならないということ、女が損だとか特だとかではなくて、違和感があるのだ。
まるで着ぐるみでも身に纏っているみたいに、不自然なのである。
ニッコリ笑った「女体」というマスコットの着ぐるみ、でもその中には痛い痛いと嘆く「何か」が入っている、そんな感じなのだ。
だから対面して物事を伝えるよりも、無数の体験談のほうが身体疾患への理解が「真実味」を増すというからくりが生じるのである。
私はもうこの着ぐるみを脱ぎたい、全く以てこれを着ていると他者に物事が伝わらないし、着ぐるみだけを欲しいという人ばかりで本当に不便である(鶴の人は珍しく中身に興味を持った人である、友人も)。
この不便さが、この世の修行なのだろうと今は解釈しているが、これほど私の本質に「合わない」ものもそうそうない。

 

私は次の一時間が果てしなく長いように思え、耐え難いと思う日々が増えた。
その次の一時間にも私は骨が痛まないように気にしながら歩き、でもまだ歩けるのにと何処かで自分を責め、そして痛みを感じて立ちすくむのだ。
これの繰り返しでその日の内職を終え、金銭の事を考える。
脚が痺れてきた、立って歩き回る、そしてまた座して考える、そうしていると芸術というものが本当に遠のいてしまう。
芸術というものが馬鹿らしいお絵かきのように感じ、私は憤る、するとますます絵の具というものに触るのもおぞましいような、何の役にも立たないような気持ちになるのだ。
少なくとも私には金だけかかる趣味であるということが、嫌と言うほどわかるのだ。
創作するという醍醐味がなくなると、時間感覚は曖昧になる。
昨日と今日の区別は曖昧になる。
そして耐え難い一時間が繰り返され、私はせめてもの慰めに祈る。

 

ただこの件で少し思うのは、このように先天的な疾患の在る人、つまり回復の見込みのない人はどのように日々を過ごしているのだろうかということ。
あとは障害者と健常者の境目って曖昧だなとも思うようになった。
もっと若かった頃は、障害者の人の発する奇声とかだけが異様に見えて、結構怖かったし、正直な所、人間の壁のようなものを感じていた。
善い悪いではなくて、実感としてそう感じていたのだ。
だがこうして自分の股関節に先天的な疾患があるとわかったり、外反母趾(これも先天的なものだが)で歩きにくいとき、障害者と健常者の差ってほんとうはないのだなと漠然と感じるようになった。
こないだは失神しそうになったが、その時に言葉が遠のいたので、叫ぶということは…単に他者に語りかけたい時に自然とほとばしる声なのだなということも感じた。
私は歩けるが…まあ、だからこそ自分を責めてしまうという部分もあるし痛みもあるで苦しいと言えば苦しいのだが、歩けない人とか多分もっと身体が痛いだろう。
そして…障害者未満という言葉は語弊があるかもしれないけれど、弱視とか、障害者ではないけれど難聴だとかの人はどうやって仕事しているのだろうか…?
仕事があったらそれは善い事だけれど、一度辞めてしまったりしたら再就職ってかなり難しいはずである。
ちょっとお金が必要、でも働けない、みたいなジレンマを感じるはずである。
バイトしたいと思う時に働けるって、実はすごい事だよなあ…と、最近すごく考えている。

 

このように、他人の事を考えているときに少しだけ救われるような気持ちになる。
これは何も自分より大変な人がとか、自分と比べてということではなくて、単に他者の苦しみを見るということで心が、祈りに向くという感覚である、祈りに向くので救われるのである。

 

救われるといったらおかしいのだけれど、苦しみというものには意味があるのではないか、というような気持ちにもなる、他者の苦しみを考えるとそう思えてくるのだ。
実際には現在私は正真正銘の役立たずで、仕事もせず絵も描かず、じりじりと一時間を耐えるという状態であるので、M氏にも鶴の人にもいつも弱音ばかり吐いてしまう。
もう少し骨の違和感が減れば…
もう少し自分の性格が、楽観的であったら…
と思うのだが、何にも出来ないという状況を責めてしまう、もう自滅に自滅を重ね、気付いたら祝すどころじゃなくて呪われた存在になっている、という感じである。
苦しみに意味があるというか…何かそのようなことを漠然と是と出来たらいいのにと思っている。

 

耐え忍んでいる他の誰か、あるいは魂、そういうもののために今、祈っている。

それが自分の苦しみを耐えるほとんど唯一の方法であるということだけは、最近知る事が出来た小規模な、個人的叡智である。

 

 

 

 

痛みと仕事のジレンマ

 

 

脚の痛みに関して人に説明をするのが今、一番、精神的に疲労を伴う作業である。
説明、というのはこうして開示することではなくて、疑問に対する解き明かしをするということ。
脚痛い感覚自体は私には元来あった…と言ってもそれは土踏まずについてであり、つま先立ちが困難だったり、ローファーが痛くて履けなかったり、たまに歩けなかったり、その他で言えば膝立ちという姿勢が幼少期から無理だったりした。
だがそれを心底異常だと思っていたかというとそうでもない、私には履けない靴が多々在り、私には歩けない日がたまにあり、私は普段スニーカーを履いてさえいればなんとかなった、勿論ローファーを履かねばならない学校生活や就職活動などは非常に苦労したが…それは若さで切り抜けたのだと今は感じる。

 

ちなみに、意外に思うだろうが私は歩くのは好きである、ゆっくりと歩くのは好きである。
こういった脚の悪さと歩きたいという歩行への欲求ははたから見ると不可解に見えるだろう…ヒールを履いたり鞄を手を曲げて持つといった姿勢や仕草が困難であることについては薄々気付いていたので、身体が完璧では無いという感覚はあったが、街を可憐な靴で早歩きするという事の得手不得手と、郊外をのんびり歩くという嗜好は別物である。
だから一言で「歩くのが好き」と言っても歩くのが「気持ちの上で」苦でないのか、それとも歩行及び運動全般が大前提として秀でているのかは…このように細かく話さない限りなかなか他人には伝わらないだろう。

 

股関節の悪さについては正直、清掃の仕事で肉離れを繰り返した事もあり、元来漠然と「腰が痛い」と思っていたのが核心的に「股関節の関節が腫れている」という感覚に切り替わった感じはする。
つまり清掃で痛めたようにも思うということ。
だが、繰り返し言うが、それと「自分の性に合ったかどうか」は別物で在る、清掃の仕事自体は非常に好んでいた。
人間は自分の身体に合わない事でも性に合っていたりする、人間はおかしい…いや、私がおかしいだけだろうか。
あともう一つは、「私の身体の臨界点が30代前半だった」ということ。
要するに股関節の悪さを「自覚」するに至ったのは、勿論診察してから発覚したので気になるようになったということもあるかもしれないが(ただ、それ以前から股関節の痛みを臀部の痛みだと私は解釈していた)、私にとっての身体の限界が30代前半だったため、身体の「老化現象」により、股関節の痛みを感じるようになったと言うこと。

 

加齢により股関節に違和感が生じるようになった、これも私にとっての事実である。

 

だが人にこれを説明するときに、相手が老齢でないと本当に困難を感じる。
というのもまだ身体の老齢期に入っていない人は「昨年まで出来た事が今年はもう出来ない」とか「昨年までは痛くなかったけど今年から痛むようになって…」という「回復しないポイントを超えた」という体感が無いため、私がいくら「股関節が痛くて…」と説明しても、「いつから?」という話になる。
そのいつから?という問いに私は「昨年」とか答える訳である。
…ただ、相手も私も老人ではないため、「じゃあそれまでは痛くなかったんでしょ?」と何故か切り替えされる事が多い。
ここで問題なのは私は「自分の肉体についての体感」を語っているのに対し、相手は(私が老人ではないため)「いつ診察を受けているのか、どういった判断を下されているのか」という医療に於いての客観的事実のみに焦点を絞っているという事。
これが事態をややこしくするのである。

 

「股関節が悪いと知ったのはいつなの?」
…昨年ですと私は答える。
「じゃあそれを知るまでは股関節の痛みに対しても鈍感だったんでしょ?それなら何故股関節股関節って拘るの?今までは気付かなかったんでしょ?普通に働けるんじゃないの?歩いているんだし、まだ若いんだし」
…股関節が悪いと発覚したのは昨年ですが、それまでは臀部の痛みだと思っていましたし、肉離れなどもしなかったのでなんとかやれていたのです。
「肉離れって股関節由来なの?どうして?」
…その説明は私は整形外科医でないので説明しにくいのですが、簡単に言うと、肉離れと膝の痛みが頻発してきたので下半身のレントゲンを撮ったら股関節に異常がみつかり、どうやら筋で引っ張って股関節の欠けを補うような歩行をしていたので肉離れや膝の痛みが起っていると解ったのです。
「でもその診断が下るまでは股関節痛くなかったんだよね?」
…いやだから、それを私は、体感では、臀部や腰の一過性の痛みだと解釈していたのです、股関節が体感として何処であるのかを把握出来ていなかったのです、股関節の後ろ側というのは実際、臀部という感覚なんですよ。
「痛かったんだ?じゃあ何故病院行かなかったの?」
…痛いというくらいで病院に行って毎回レントゲン撮りますか?私は今までずっと脚が痛かったのですが、それくらい我慢出来ると思っていましたし、家庭でもそのような認識でした、だから病院へ行って検査するという発想がなかったんです。
「今まで脚痛いって…どれくらい前から?」
…つま先立ちや膝立ちが痛かったのと、ローファーが痛くて履けなかったので、主に思春期あたりからでしょうか。
「で、何で病院行かなかったの?」
…だから、歩けたので病院とかわざわざ行かなかったんですよ、家でもそのような認識でしたので、私も我慢出来る事は我慢しようと思っていましたし、スニーカーを履いて過ごしていましたから。
「じゃあ我慢出来る痛みだったんだよね?今の股関節の痛みも我慢出来ないの?」
…だから、それで肉離れを繰り返すようになったので…肉離れってやったことあります?歩けなくなるので大変なんですよ、それに加えて昨年までの痛みよりもなんとなく悪化したように思うんです、それは年齢のせいだと私は思っていて…
「年齢っていってもまだ若いよね?」
…ええ、でも私にとって昨年出来た事が今年はもう出来ないという年齢なんですよ、私にとっては今の自分ってそういう年齢なんですよ。
「うーん、わかったようなわからないような」
…(諦め)

 

私は主観的な肉体の違和感を訴え、相手は診察などの客観的事実について話している、だから話が噛み合わない、それはわかっている。
だが、自分の肉体の痛みという実に主観的なものを人に説明する場合、どうしても話が主観的になりがちである、なりがち、というか痛みや不具合というのは概ね主観である。
それに加えて互いに「自分にとっての整合性のある」真実について質問し、回答しているので話は遅々として噛み合わない。

 

そもそも、この手の質問をしてくる相手は大抵健康なので、「回復する目処のない不健康」についていくら話しても理解出来してもらえない。

 

私がおかしいだけだろうか?
それともやっぱ生活階層が違うと意志の疎通出来ないのだろうか?カーストが異なると言語って通じないのだろうか?

 

身体に異常がある=検査←この方程式を絶対視しているのが脈々と続くある一定以上のお家の方々の信仰みたいなものなので、身体に痛みがあるのに病院行かないという選択肢自体が理解不能なだけな様子だったりもする。
一方私からするとこの「身体に異常がある」ということと「病院」という二つが必ずしも結びつくわけではない。
底辺の人間は大概自分の身体を放置するが、私はその意味が凄くよくわかる、それくらいで病院とか行かないよね。
行けないよね…だってそうやって育ったんだもの。
というかそんなさ、元々の身体の痛みをどうのこうのっていうことの為に、どうしようもないのに病院行ってどうなるのって感じもあるので、必ずしも「身体に異常があるから」「病院へ」という図式に誰もがなるわけではないということはすごくよく解る。
それを「何でそれまで病院行かなかったのか」という堂々巡りをされるとさ…論点はそこじゃないわけで、論点は今痛むということ…つまり体感であって、客観的事実についてではない。
私からするとこんな事も理解出来ないのかよ、と悪態をつきたくなる、馬鹿なんじゃないか、と悪態をつきたくなるのである。

 

可愛さ余って憎さ100倍理論で思いあまって馬鹿って書いてしまったが…あるいは何、やっぱ、IQの差があるから会話が成立しないだけだろうか?
IQの低さについてだけは私は自信がある。
私の説明がまどろっこしいのだろう…誰か会話を成り立たせてくれ、頼む、誰か通訳してくれ、彼に通訳してくれ。
身体の不具合について相手に伝えたいという時に、整合性の取れる説明を誰か、通訳してくれ。
この文章を読んだ「身体に痛みがある人」ならば私の言い分を解るはず、痛みを耐えられるかどうかは刻一刻変わるということを解るはず。
あるいは単に老齢というものを体験している方なら私を理解出来るはず。
昨年は出来たんですけど今は無理なんですという体感への理解、うん、そうそうただそれが言いたいだけ。
身体の不具合という事象について他者に伝わらない、伝えられないというジレンマが一番ストレスである。

 

「元々脚痛いのにどうして身体動かす仕事選んだの?」
この質問についてだが…これは私も自分でどうしようもないのだ、どうしても事務仕事系が性に合わず、どうしても現場で動くみたいな仕事を選んでしまうのだ。
、のような感じ、である。
本当にこれはどうしたらいいのかわからない、私は今とても困っている。

清掃のように身体を動かす仕事は…したいけど出来ない。
事務系の仕事は…したくないし能力的にも呆れるほど出来ない。
接客系は…脚を引き摺ることもあるので今はやめといたほうが吉。
…ああああどうしよう、何をやったらいいかわからない。

 

でも金を稼がなきゃならない、それにやっぱりそろそろ働きたい、ちょっと働きたい、ちょっとでいい…何故ならあまりにもダラダラ過ごすと身体が鈍っていて、かえってそれはそれで骨が痛むのである。
これ以上脆弱になるのを回避したい、少しずつまた脳ミソ的な意味でも身体に於いても仕事筋をつけたい。

 

しかしちょっとでも限度を超えるとまた脚を故障したり…そもそも現在は既に股関節も痛むし回復もしないとわかりきっているわけで…本当に無理は出来ない。
金は欲しい、だから働きたい。
でも無理は出来ない。
身体が故障した時に対処する金銭的余裕がそもそも、ない、だから金が欲しい。
働くということ、これは今の私には最早賭けなのである。
一種の賭け、なのである、金銭と体感を得るために脚がどれだけの重みを耐えられるかの賭けなのである。
この賭けに勝つか負けるか…とか考えると次の一手が恐ろしいのである。
これから家計簿をつけて、M氏にも出費を把握するという意味でも協力してもらって二人で節約を頑張ったとして、なんとか再来年に黒字に転じるという感じ。
それまでは雪だるま式にリボ払いが増えて行く…節約しても、多分再来年まではどうしたって赤字である、節約するけど。
膨れあがったリボ払いのために建てたばかりの家を競売にかけるとか(そこまで行ってないが私は怖がりなので考えてしまう)、さすがの私も嫌である…まあ再来年まで自転車操業的(別にカードはVISA一枚なんだが)にやりくりすればなんとかなるのだが…その間貯金すら出来ないのはやはり恐ろしい。
貯金の為にも働きたい、というかホント、金が必要なのである、しかし身体を壊すのはもっと避けねばならないのである、金がかかることは出来るだけ避けねばならないのである、しかし金が必要なので働かねばならないのである。

 

考えてみたらM氏とは入籍してから金を貯めた、私はパート代から食費を担い、M氏は貯金した、何だかんだで結果的に8年くらいで1000万弱貯まった、家計簿もつけないのによく貯めたと思う。
その頭金を全て潔く使って家の軍資金にした。
それほどまでに私たちは飢えていたのだ、人生の中で自分の内面が、現実の強固な城によって守られる、誰からも守られるという幻想に飢えていた。
そこだけは合致していた、だからこそ互いに対面するときは柔和で、その実一致する軸が何一つないという状態でも、強固な城を欲する気持ちだけは合致していた。
だから何となく私もM氏も甘かったのだ、金はすぐ貯められると思い込んでいた、この家の対価というものがどれほどなのかを体感していなかったから予想外の出費というもので簡単に歯車が狂ったのだ。
それは本当にちょっとしたこと、ちょっとした互いの病院代、検査代、自転車のメンテナンス、欲しい家具、すぐになくなる蜂除けのスプレー、本、…私の身体の故障。
このネジを出来る限り元に戻さねばならない、だから働きたいのである。

 

だがもう身体を故障させたくないのである、一方で自分のやりたいこと、出来る事をやりたい…そうすると働き先は立ち仕事だったりする、もう身体を壊して辞めるということを避けたい。

 

気持ちの面でも、無理してまた身体壊して職場を去る、みたいな迷惑のかけ方はもうしたくない、迷惑だけはかけたくない。
迷惑というか…なんか、おかしい言葉の選び方のようにも思うが、裏切り、みたいな感じ、裏切りを避けたい。
元気(な振り)に入ってきて、「脚が痛くて…」ってさ、そこに誤差があるのでなんか、裏切って居るみたいな空気を感じたのだ、だから申し訳なかった。
身体壊すのが裏切りかよと突っ込まれそうだが、物事を始めるときというのは大概元気である。
そして辞めるときは元気がない、私はこれが嫌なのである、もう嫌なのである。

 

私が今理想に思うのは、「股関節が悪い」ということを開示出来る職場。
今日はスタスタ歩いているけれど、前日はヨタヨタ歩いていた…ということが、普通である職場。
日々変わる痛みについての整合性を、理由を、闇雲に求められない職場。
他にも身体の具合の悪い人が働いていたらすごくやりやすそうである、これは差別的な意味ではなくて、いろんな状態の人が居るということ。
でも実際には立ち仕事の面接で「股関節悪くて…」などと言ったら落とされるだろう。
どうして自分のやりたいと思う仕事は肉体的な仕事なのだろうか…ホントに自分でも不思議なんだが…まあ、身体も頭も悪いとなると頭の悪さはどうしたって仕事が実際に完遂しないという点に於いて、カバー出来ないのである、よって結果的に肉体労働を選んでしまうという感覚かもしれない。

 

ああ、股関節(脚)さえ悪くなければこんなに苦労しなくても済んだろうに…
歩くの好き、身体を動かすのが(得意というわけではないが)好き、仕事に於いても肉体労働が性に合っている。
股関節さえ、この部分のネジさえきちんとしていれば私はここまで思い悩むこともなかったのに。
…客室清掃の仕事を辞めることだってなかったのに。
お金だって貯められたのに。
人に自分の事を説明するとき、何一つ矛盾点がなく相手に理解してもらえただろうに。

 

こんなに悩まなかったのに。

 

何が得意なのか
何が好きなのか
何が辛いのか
何をやりたいのか
何が必要なのか
何故このように生きているのか

 

これが一本の線にならない、ということについて私は堂々巡りをしている。

 

仕事と身体についてのジレンマに、私は悩んでいる。
この苦しみを聖母は受け取るのだろうか?
苦しみは祈りによって昇華されるのだろうか?
もしこの悩み苦しみ、ジレンマが何かの役に立つのならば、私は悩み、祈りたい。
祈らせて下さい、聖母よ、これが私の、ひとつ老いる日、誕生日に考えている事です。

 

 

 

 

 

 

家に借金があった

 

家に借金があった。

 

家…この家という世帯、つまりM氏に借金があるのを昨日知った。
M氏は自分の稼ぎややりくりを一切私には見せない男である。
自分の物事は自分で管理したい気持ちが強く、何にどれくらい使うのかを誰かに開示するのが苦痛なのだと思う。
その気持ちは非常によくわかる、誰かに何かを開示するというのは常に説明と、無理解とを一心に引き受ける作業でもある。
その仕事をやったところで大した成果は出ない…どころか全く誰にも配慮などしてもらえない。
また自分の稼ぎというものも彼にとってはセンシティブな事柄であり、隠したかったのだろうし、数字や思考の分野は…M氏と私というこの二人の世界に於いては、間違いなくM氏の引き受けるべき分野であった。
だから言葉にすると恐ろしいのだが、私はこの家の家賃は知っていてもそれがM氏の給料のうちのどれくらいを占めるのか、また諸々の契約形態がどのように発展しているのか(スカパーとか)、この家の何一つを知らないまま漫然と過ごしてきた。
本当に気にならなかったのかというとそうではない、その実常に不安であった。
もしM氏が倒れたら本当に私は何一つ把握していない。
もしM氏が居なくなったら本当に私は何の手立ても無い。
そういうわけで私は大体月に1回はM氏に聞いていた、「支払いの明細とかを見せてほしい」、ただ、給料明細を見せて欲しいとは言いにくかった。
その都度M氏は私の問いを、ゲームをしながら受け流した、広義的な無視であった。

 

何故無視したのか?
M氏のリボ払いが膨れ上がっていたので、私を無視したのである。
借金額が膨れ上がっていたので、金の話は殊更避けたかったのである。
…ただ彼の心情としては私を常に安心させたかった、そうなのである。
負債の外側で安心しながらぬくぬくと生活していて欲しかったというのが、彼が借金を伏せていた一番の理由なのだ。

 

もう一つ大前提として、M氏は自分の世界を生きている、その気持ちは痛いほどよくわかる。
当の私を含め内向的な人間というのは概ねこの傾向がある、だからこそ自分の事はなるべく開示せず、「内的世界が崩壊しないように」「常に外部から受ける傷を最小限に留めるため」、自分の内側というものに固く蓋をして他者と接するのである。
それがどんなに親しい、近い間柄であったとしても、その内的世界を共有出来ない人間であると見なされる場合、開示は行われない。
当たり前である、実生活では語り合う人でも、内面をわざわざ語り合ったりはしない。
見せたりしない、私だってM氏に文章や絵を見せたりはしない、見せたところで疑問が湧くだろうし、何故という問いに真面目に答えるだけの労力が惜しいのである。
つまり内外の「ショック」、M氏自身の内的世界が開示され崩壊するというショックと、私の受ける「借金がある」というショック…この内外のショックを彼は防ぎたいが為に私を無視していたのだ。

 

きっとこれを読んでいる人はまだ不思議だと思う、甚だ不自然だと思うかも知れない。
10年も給料明細を見ずにいて、家まで建てて、それでのんべんだらりと過ごしている私という女が心底整合性の取れない存在に思えるだろう。
…私という人間の大前提を話しておくと、私はかなり出来の悪い人間である、これは一般的な謙遜とかではなくて、テストをやれば小学校時代から0点、3点、5点、そのような出来の悪さを常にごく当たり前に叱咤されて育ってきた人間である。
今更学問の出来不出来などを何故取り上げるのか?と訝しがる人もいるかもしれないが…
ここまで出来の悪い人間だと、「私なんかがお金のことをやろうとしたら家計が破綻するだろうから、M氏にまかせよう、M氏もその辺りの事は自分で整理したいようだし」と何の疑問も無く、金銭管理を同居人に任せたのである。
出来の悪さというのは、自分が心底信用出来ない、自分自身にとって自分が信用するに至らない、信用という軸に於いて「信用」「出来ない」…だから出来ない人間、出来損ない、駄目人間という図式なのである。
私にはほとんど呆れるくらい成功体験が無いので、何かを誰かが管理してくれるとなれば一も二もなくその誰かに全てを任せてしまう心理状態なのである。
自分が駄目であるので何にも参加しないほうが被害を最小限に抑えられると盲信している部分がある。
結果の借金発覚である。
見よ、これが劣等生の末路である。

 

M氏は何もお金を使い込んだわけでは無い。
ただ、M氏の考えていた昇格のタイミングと、返済のタイミングとの間にずれが生じただけである。
そして運悪く私の脚の肉離れや股関節の悪さの露呈などが重なり、私もパートとはいえ仕事を辞めてぶらぶらし出してしまったわけである。
私がパートを続け、自分自身の貯金をし、家に金を入れるということを続けていれば…昇進のずれが生じたところで、リボ払いが膨れ上がるということも免れたのである。
借金というのはM氏のリボ払い金額のことだが…とはいっても私はカードを持たない人間なのでまだ実感しきれずにいるが…普通に考えて結構な額だった。
私の奨学金が数百万、もすぐ返済し終わる予定…返済ってしんどいなあ…と思いながらなんだかんだで月々支払っていくと段々貯金(のようなもの)は目減りしてゆく。
まあ別にあの奨学金が無かったらすごく楽になったかというとそうでもないような気がするが、奨学金分を月々貯金していれば今頃配当金株の軍資金くらいにはなったろう、数百万である。
リボ払いはボーナスで返せる金額ではあるが、支払いというのは一端膨れ上がると結構尾を引くものである、それは奨学金で十分解っているので貯金とかはもういいからすっぱり払ってくれと懇願した。
ただ、今回の支払いを終えたとしても私が仕事をしない限りはなかなか貯金は出来ないという現状を昨日、はじめて私は知った。
だからややもするとまた、リボ払いは簡単に膨れ上がるという仕組みの中に今、私とM氏は居るのである。

 

「あんまりモノ買わないようにしてね」
とM氏は最近言うようになった、でもモノを私はあまり買わないのにと自分では思っていた。
M氏が言っているのが散財についてではなく「食費や生活費を削ってね」ということなのだという理解に至らなかったのである。
それもそのはず、M氏は会社仲間とゴルフへ行ったり、ゴルフクラブへ入っていたり、スカパーやdマガジンやその他色々な何かの情報系契約を好んでしている人物である。
ゴルフ用の(ゴルフというのは暗にドレスコードがある)服を買ったり…それはとても安いモノなのだが、そういうものを日常的に購入している様子や、新しいアンプやイヤホンといった電子機器系の物品、外食、M氏の好む喫茶店での飲食…そういった生活態度を見ているととても「お金に困っている」風には見えなかったのである。
自転車も京アニけいおん」(OP)に出てくるブロンプトン、そのブランド自転車のメンテナンスや修理…頻繁なプロレス観戦。
M氏が自分で稼いだ金を自由に使うのは当たり前である。
だから文句も言わなかったしそもそも疑問にも思わなかったのである。
「あんまりモノ買わないようにしてね」と繰り返されるまでは。

 

私とM氏の家での関係は根底的には主従関係であった。
稼ぎ頭のM氏が9割、私が1割、責任の割合はこのくらいであった。
だからM氏が私に何かを相談するということも無かったし、私が「この家」に於いて参加する物事というのもその実無かった。
掃除や炊事、庭仕事という家事は私がやっていたがそれは「責任を伴う仕事ではなかった」のだ、それはあくまで嗜好の上での仕事、バイトみたいなものだったし、私もそれでいいと思っていた。
だからこそ私は居場所が無いように感じていた、もしかするとM氏もそうだったかもしれない、私たちは出会った当初から男女関係「ではなかった」ので、漠然と絆を保ってきた。
私たちが好んだのは「内的世界を独自に守る」ということだった。
これは動かしがたい性質で、もしこの部分を揶揄したり少しでも嘲笑したりする相手とともに住んでいたら…たとえそれが男女の深い間柄だったとしても、恋をしていたとしても、即刻離れただろうと思う。
それほどまでに私もM氏も自分の内的世界を守って生きてきた人間だったのだ…その内的世界というものがどのようなものかは、誰にも開示せずに。
だからこそ踏み込まないということが何よりの尊重だと私も思っていた。
…だが、それがこの共同体に於いて「参加」するという概念まで取り去っていたのを、なかなか気付くことが出来なかったのである。

 

それは「会社」に所属しているのに「仕事」が全く無い、というような状態とも言えるだろう。
私とM氏とは同じ「この家」という組織に所属しているが、この家に参加する事象は皆無だった。
私はM氏が休みの日にゲームに没頭しているのをただ視界の隅に眺め、触れないでいた。
そして漠然とした不安に駆られて聞いた、「お金のこととか話さない?」、だがM氏は言った、「…お金は大丈夫だから、あまりモノを買わないようにしてね」、私はやりきれなくなって二階へ上がった。
離れたいと思ったが、離れられなかった、私とて、自分の世界を邪魔されずにいるこの環境を…M氏を、好んでいたからである。

 

ただこの関係性は先にも述べたようにM氏が責任の9割を負う形で成り立っていた、だから病院へ行く際にも何をするときにも、少しでも入り用のときには私はM氏に縋るしかないのだった。
M氏が酷い奴なのかというとそうではない。
だが不自然だった、私の役割は無いのに私は年がら年中朝から晩までこの家に居てしかるべきだという空気が彼にはあった。

 

金銭面、数値の開示と、感情とは切り離すしかないのだ。
開示するのが恥ずかしい、情けない、「あやちゃんを心配させたり不安にさせたりしてしまう」…この感情と事象とを区別せねばならない。
それに心配をただひたすら回避してほしいというのは…「いつも笑っていて欲しい」、そういう言葉は綺麗だが、それは人間に対する望みではないと感じるのだ、そんなのはただの愛玩動物に対する欲求である。
私は人間なので喜怒哀楽もあるし性欲もある。
M氏は私に鶴の人という男が居るのを知っている、私が教えたのだ。
その時M氏の心中はこうだったろう…「俺が9割も担っているのにこいつは遊んでいる」…そうだと思う。
M氏は口に出してこそ言わないが、9割担った分は私が「ただ漫然とそこに居て安寧を享受すること」で消化されると思っている風だった。
だがちょっと考えてみて欲しいと私は昨日言った、「会社に来て仕事も与えられずに居て、それなのにただそこに居ろって言われるのは辛いよ」、人間が何もせずにただ漫然と存在することだけを求められるのは実際けっこうしんどいのである。
人形ではないのだ。
生き物は絶えず外へと意識を向かわせる仕組で出来ている、絶えず発露すること、絶えずはたらくこと、絶えず参加すること…それが生きているということなのだ。
絶えず意識のはたらきをしないと…死んでしまうのである。
だから鶴の人が私の絵をひとつの世の中のはたらきとして捉えてくれたように思えたとき、とても嬉しかったのである。
ようやく一人の人間に成れたような気がしたのである。
私は特段鶴の人と別れる気も無い。
だがM氏を心底嫌いかというとそうではなくて、私はM氏と作り出した「この家」に参加したいのである、M氏が困っていたら助けたいのである。
男や女ということを軸に考えるのではなくて、人間関係を私は分散させている…これはかなりいびつに見えるだろうが、この分散を行わないと私のような人間は「たった一手間違えるだけで路頭に迷う」のである。
そしてもう一つ、私はM氏の為にだってなりたいのである。
私だってM氏を助けたいのである。

 

「参加させてほしい、実際の稼ぎをという話ではなくて、この家の人間として5割、私にも参加させてほしい、この家を会社だと思ってよ、私を一人の社員だと思ってよ」

 

だから給料明細を見せて欲しい。
今の負債額も見せて欲しい。
これから買う物も見直そう、何にどのくらい出費があるのかを把握しよう、二人で参加しよう、二人で家計簿をつけよう。
私を信用してほしい、一人の人間として信用してほしい。

 

私は昨日この物事が発覚したとき、信用、信頼、と言う言葉が頭に浮かんだ。
私は子供時代から出来ない人間だったので、なかなか信頼されるという場面が無かった、(馬鹿)高校に入ると周り中そんな奴らだらけで、誰一人人と真っ正面から向き合うというような根性のある人間は居なかった。
あの馬鹿高の多くの人間の性根が腐っていた、というのも馬鹿馬鹿言われるのが日常であり、人生で在り、さらには絶対的な事実であると盲信している人が大半だったため、自分が本来「頑張れば出来る」ことでも頑張らないと決め込んでいた。
頑張れば出来るという感覚は、他者の誰からも刺激されずに内在したままである…実際に何かをやってみても、出来るという経験自体が無いのでいつまでも自分の到達点を見る事が無いのである。
…それ以上に、親、教師、とにかく周囲の人間からそもそも、全く信用されていないので、何にも参加する意欲が湧かないのである、だから馬鹿はポテンシャルが低いのである、馬鹿だから低いのではなく、信頼というものを体感したことが無いからポテンシャルがより低くなるのである。
私とM氏との関係もこれに似ていたかも知れない。

 

M氏は多分、駄目な人がいたらさっさと自分で仕事をやってしまうタイプだろう。
「俺やっとくからいいよ」
これは一見優しいが、相手をいつまでも信用しない言葉でもあるのだ…勿論、自分でやったほうが実際に早いからやるのである、やってあげるのである。
でも…私の質問に答えてくれなかったとき、私は何となく思ってはいた、M氏に根本的に信用されていないのだな…。
そして私は自分で納得していたのだ、私は馬鹿だし仕方ない。
私とて、自分の到達地点をかなり低く設定して、それで満足していたのだ…虚しさに耐えるという方法で満足していたのだ。
そこに双方の信用、信頼が無いということに気付かないまま、10年も経過していたのだ。

 

全体像を知らない限り、自分の一手がどれくらいの影響を及ぼすのかを把握することは難しい。
信頼していないと知らせたくない、任せたくない。
それは当たり前だろう。
でも、信頼してもらわないと物事に参加するのはより難しい。
私の努力が家計というものへの参加なら、M氏の努力は他者を信頼することである。

 

借金の発覚はとてもびっくりしたが…知れてよかったと思っている。

 

 

 

 

 

 

血管迷走神経反射と認識の歪み

 

血管迷走神経反射
…と言うらしい、一昨日起った精神的発作、要するに俗にいうただの「失神」や「自律神経」に該当するとの事である、かかりつけ医に聞いたのだ。

風呂上がりに血流が一時的によくなり、そのまま血が全身を駆け巡って「脳みそに行き渡らない状態」「脳みそが血虚する状態」になったとの見解である。
事実これで失神し、救急車で運ばれてくる人は結構居るらしい、さすが元々救急センターに居た先生である、私の状態がどのように分類されるのかの当たりをつけてくれた。
とはいえ世の中の数多の医師のうちのただ一人の見解に過ぎないというのも紛れもない事実なので、まあ、もう一度発作が起ったら検査をしようかな…という心境である。

 

ちなみに失神というとなんだか奇妙な綺麗さが言葉に含まれているように感じられるし、私は背骨と首の関係からして常に頭がふわふわしている感覚はあるので夢うつつの人間なのだが…あの発作、意識障害ははっきりいってかなりキツかった、あれは死である、もう陥りたくない。

 

これはストレスによっても引き起こされる…私のストレスとは何だろうか。

 

私が最近行っているのは物事が起ったり、誰かを観たりしたという事象に対して常に、無意識のうちに「主の恵み」「恵み」あるいは象徴を思い浮かべるという風に「自分の意識反射よりも先に祈りを割り当てる」ということである。

 

これをすると物事は、たとえそれが「起った」ように見えても、起った「ように見えている」のはほとんど自分の我の見解であるとわかる。
つまり物事は「一切起っていない」のかもしれないという考察に至る…至るとか言ってもたかが半月やってみた感想である。
私はとりたて、聖書のパウロにちなんで「絶え間ない祈り」と名付けたこの祈りに関して「功徳が約束されている」とは思っていないので、どこまでも個人修行の範囲である。
そのためか聖書がきっかけの祈りにもかかわらずだんだん仏教僧のような心境になっている。
仏教僧っていうのはちょっと一括りにしすぎだが…「自分が物事を認識したと思っているのはそれはほとんど自分の反応でしかないのだ」…ということを日常、延々考えるようになった。

 

一昨日の意識低迷のその時に「死とは認識の移行なのだ」という確信に至った。
死んで肉体を離れても自分という知覚システムだけは作動している。
だがその知覚システムの持つ認識域が三次元を超えるため、私の霊魂はこの時空間からは消え去ったように見える。
魂も遠くへ行くのではなくて多分「その場に居る」、だが、認識が生者と死者で互いに異なるために互いを観測することは出来ない。
認識を失っても意識はある、という確信が芽生えたといったほうが適切かもしれない。

 

ただ、死後に見えるものやそれまでの認識が全部通用しなくなったら、一瞬だけ極度の絶望に陥るだろう…その時聖母の御助けは摂理として働くのだろうか?
またあの感覚が蘇りそうで恐ろしいのだが…すぐ目の前に置いてある「本のタイトルが読解出来ない」のはひどい悲しみだった。
文字に触れられるというのは文字の持つ歴史そのものを体感することでもある。
それが遂に全く意味を成さなくなった世界に私は放り込まれたように感じ、果てしない孤独を感じた。
文字そのものが私の認識の外側へ(というよりも私が文字という言語文化の外側へ移行した)行ってしまったのだ、私の触れてきた数多の事、感動した事も空虚だったのだ。
私という人間の全てや、自分以外の膨大な世界の全部から、意味が消失していた…死ぬときにまたこれを味わうのかと思うとほんとうに恐ろしい。

 

あとは情緒。
その時は感情はあった…だが、自分の肉体と壁と急須との区別が曖昧な世界に私は居たので、当然男女の情なども唐突に忘れてしまっていた。
見知った人や、愛着のあるモノ、可愛いと思っていたモノも、唐突に意味不明の事象でしかなくなったのだ。
最早そこには何の情緒も無かった、この家も不可思議でしかなく、何故これが私の肉体ではないのか…あるいは私の肉体なのか、という境目すらも曖昧であり、色のもたらす美しさも私は認識出来なくなっていた。

 

情緒や美しさに対する認識というものが、きっちりと人間の軸に結びついていないと世界は甚だ異質である。
重度の痴呆症や知的障害などの「認識」が「この世に於いてはうまく」働かない人の観る世界というものはほんとうに、「嘘みたいな世界」なのだと思った。
彼等がどうしてセンスが無いのかという事について、配慮の無い浅はかな興味で昔考えたことがあったが…今は体感として凄くよくわかる、だって色に意味なんか無いのだし、流行の「形」に意味や典雅さを見いだせ等というのは…宇宙の果てを覗き込むのと同じくらい遠い物事だったから。
だから男女の情というのも、収集癖のような物欲も、美しいモノを観たい、作り出したいという欲求も…ほとんどが、「情緒という認識」カテゴリの中で行われる神秘なのだ。
罪悪と呼ばれるものはこの世の神秘である。

 

さて、我の認識をただの認識だとする私の個人修行は、突き詰めるとこの「全ての認識を手放す」という段階に到達する。
別に特段我を捨てることを目的に生きている訳ではないのだが…どうしてもやむにやまれぬ欲求で、この世とあの世の修行をしたいという気持ちが私にはある。
この種の修行の最終段階は死なのだと思った、全ての事象に「意味づけ」をしていた自己の消失。
ただ、自己を保ったまま物事を…「実は何も起きていない」ということを直視し、尚且つ配慮の出来る状態…これが出来たのがイエスキリストだと思う。
エスキリストには理論上なれるわけないので(我として生きながら我として死ぬということは理論上不可能である)、だからこそ彼は神の子なわけだが、どうしても何か今この世に於いて出来る事は何かないのだろうか?という気持ちにも苛まれる。

あくまで私の出来る範囲で、私は「よいはたらき」を出来ないだろうかと思っている。

 

その一環としての、絶えず祈るという修行なのである。

 

世の中に於いての修行というのは「働き」であると考えている。
私は仕事としてはブラック企業の事務→図書館→客室清掃…というふうにどんどん自分に合った身体を動かす作業をしていたわけだが、肉離れが頻発して股関節の異常も発覚したので、内職をしている。
事務仕事は性に合わなさすぎて自分でも唖然とした、だから立ち仕事と事務仕事の割合がほどよい図書館に居て、それでも直立して立っているのは腰にくるので、身体を動かした方が楽である為に清掃を選んだ。

 

…のだが、私の身体の許容範囲を超えた仕事だったのだ。
特段私は仕事人間だったとかいうわけでもない、楽にゆるく働ければそれでよかった、それが「世の中にとっての自分のはたらき」でもあるという認識もあった。
だから働かないで居るというのはなんだか苦しい、内職をしているが、たまに会う人とかに「なんでバイトしないの」と言われるとうまく答えられない。


このうまく答えられないのは、「私は自分に合う仕事をしたいんだ、自分に合うはたらきをしたいのだ」という意味での、「脚が痛いから、性に合う肉体労働が出来ない」という答え方になる。
じゃあ肉体労働じゃなければいいんじゃない?
というのは至極当たり前の問いだろうが…事務という事象の認識しにくさ(というか欠落)を私はもう常時知っているので、それを敢て仕事にはしたくないのである。
たかがパートでも、「ちゃんと働いていたい」からである。(何も事務だけやるパート、とかじゃなくて、、レジもかなり苦手)
で、この敢て欠落を知っているのに、敢て自分の苦手な事をやりに行く理由も無いし、本音を言うと「いかなる働き方であれ、正真正銘に働いていたい」のだ。

 

この文章だけ読んだら多分私って強烈な怠け者のように思えるかも知れないが、友人ならわかると思うが…彼も実は切実に働くタイプである、働くのなら「ほんとうに」働きたい、という欲求がある。
ただ、このほんとうにという部分には資本主義的というよりも個人の主体主義的な思想が宿っている。
私が清掃の仕事を楽しいと思えたのは「ほんとうに」その場での「人間関係などを含めた部分で」はたらけていられたから、ということ。
ちょっと思想が突っ走ってないか?って感じもある、こうして言葉にすると三十路過ぎで青臭い感じもする。
思考の労働よりも肉体労働の方が性に合うという人が身体を壊した場合、結構辛い。
この肉体、という部分には現場の空気というものも含まれていたから。
でもって繰り返しになるが、このほんとうにはたらきたいという言葉は、資本主義的な意味ではないのである…。

 

ほんとうに働くというのは限りなく空気的な、儀式的とすら言えるような意味、なのである。
まあこれまでも呑気に働いてきたわけだから、特段働くということを神格化させているわけではないのだが、敢て無理をしてまで合わないことをする、ということはもう人生で避けたいのである。
何が言いたいのかというと、勉強とかほんとうに心底無駄であった。
あのようなことで優劣をつけられ、親に怒鳴られ、挙げ句の果てに何も出来ずにいる…それならはじめからもっと、手作業などの工業が海外に流出せず、日本に在れば、私のようにレジを含めた思考労働には向いていないが手作業は出来るという「広義的な意味での肉体労働者」がこんなにも怠け者扱いされることもなかったのではないだろうかと思う。

 

ただ、この自分の思想というものをよく観てみると、私もまた資本主義的な優劣思想に染まりきってるのがわかる。
私が他者から働かないこと(それでも内職はやっているのだが…)を聞かれたときに湧き起こるのはその実、社会に対する怒りであるということ。
そのような認識が私には在る、ということ。
実際に手作業という分野が日本からかなり流出しているということ。
で、資本主義が進んできているので得意な分野が現在の日本に無い人は、頑張って思考労働や感情労働に自分を合わせてゆけねばならないということ。
その合わせるという際にも、病気の有無や身体の弱さなどを聞かれ…どこまでも、どんなに簡単な仕事でもハードルが無駄に上がっているということ。
ほんとうに私が自分の思想というものを冷静に持っていられるのならば…私は単にこう答えればいいだけなのだ。
「今は内職でいい」
ただそれだけである、「今は働かなくていい」、ただそれだけである。

 

私自身が優劣をつける前の段階で「祝して」から問いに答えればよいだけなのである。

 

資本主義をぶっ壊したいわけではないのだけれど、はたらきという事で今思っているのは…勿論金銭は必要で在る、対価は必要で在る…だが、思想や本当の感情も含めて働きたいということ。
それが本当に世の中のはたらきになっていたらいいなあということ。
…死を思うとそれすら無駄なのはわかってはいるのだが、そのような事が一番の修行になるだろうな、ということを考えている、個人の修行をしたいのである。
例えば誰かから暗に「怠けている」と言われたとき、その言われたという事象に反応する前に祈り、ただ目の前の他者は、その人物の価値観を述べたのだと思いたい。
このような事がまず第一のはたらきであるように私は思う。

 

血管迷走神経反射の話に戻るが、これはストレスでもなる。
確かに、私は世の中的な意味での存在意義を失っている。
絶えず自分を罵倒する声に囲まれている…が、それは自分の思想が自分にとってよくない作用をもたらしているのだ、これこそが私の抱えるストレスなのである。
自分を屑だ、と私はつい思ってしまうが…それって自分以下だと見なした人にはもっと当たりが酷くて当然という考えでもある。
自分は馬鹿だが自分より点数低い奴はさらに存在意義が無い、という思想。
内的批判というものが私のストレスの元である…だって、脚が痛いというのはそれ自体の痛さに対応する苦しみはあれど、それに付随する「自分の好きな働き方が出来ない、だから漠然と怠け者扱いされる」という苦しみの方が遙かに苦しみが勝ってるのだ。
それは自分が、働いていないと世の中のためになっていない…と暗に決め込んでいたからである。
このままだと、働いていない人は世の中のためになっていないと私は信じ込んでしまう、それが正義だと思い込んでしまう。
金を稼いでない人はよくない人なのだという価値観に陥ってしまう。
人間を人間だと認識できなくなってしまう。

 

資本主義資本主義と繰り返してしまったが、特段政治的な意図は別に無い。
だが私が祈るのを「宗教的だ」と嘲笑する人が仮に居たとしても…私は思うのだ。
最も人を盲目にさせるのはカルトでもなく広義的な意味での宗教心でもなく、没入する祈りでもなく…社会的風潮なのだと思うのだ、これが一番他者への配慮を失わせる、他者への配慮というのは根本的な自己への配慮の事でもある。
完璧な感情労働、完璧な思考労働、末端すら完璧な五体満足という大前提でのパートやバイト…これが本当の働きだろうか?
こうしたもの故に、労働という輪になかなか入れずにいる多くの人も居る。
私は資本主義というものこそが巨大カルトだと思っている、人間には確かに優劣はあるし、働きによってそれ相応の報酬が受け取れるという思考は素晴らしいが…それが人間思想にまで染み入ってしまっているということに私は危機的なものを感じる。

 

私は、祈ると、自分の盲目さ加減を知る。
意識障害を伴う失神によって…認識というものの意味の無さ加減を知る。
私の一昨日の発作を起こしたのは、結局の所、私の認識の歪みのせいなのだろう。
それがストレスとなって自分に起ったのだ。

 

ほんとうの働きがしたい。
そのためには、働いていないということや、役に立たないということに対する「是」の祈りを先ず述べるのが最短ルートであると、私は思っている。

 

 

 

 

 

 

 

精神的発作と死について

 


昨日精神的な発作が起きた、とても驚いているし今もまだ何かふわふわした嫌な感じがあるが、だいぶ遠のいてはいる。
さっきまで何をしていたのか唐突に忘却している妙な感じがまだ「居る」が、なんとかなっている。

 

自分という認識が曖昧になり、言語や事象といった事を観測する統合性が失われるような状態に昨日、5分ほど陥った。

 

夜、風呂上がりだった、昨日は画面を長時間見たこともあって目が疲れていた…これが引き金のような気もする。
髪を乾かしながら私はクローゼットの空間を観ていた…目の前のドレッサーの鏡に自分の姿が映っているのもわかっていた、少なくともそれが自分であるということはその時にはわかっていた。
「かなり幼い頃から全ての事象について違和感があった」
ということが昨日、頭の中をグルグルと駆け巡っていたこともあり、私は感情的にも苦しい感じを抱いていた。
言葉にすると、いつまでこんなことをしなければならないのだろうか、といった風に。
その苦しい気持ちが唐突に全身に駆け巡ったように感じた、身体中が痺れるような感じがし、私は一層違和感を募らせた。

 

今観ているものは一体何なのだろう…?

 

この違和感が自分の視覚と一致したとき、急にクローゼットにかけてある服が歪み始めた。
服というものが揺らいで歪んでいた、むずむずと痺れる感じは手先までせり上がってきていた。
私は鏡を見た、鏡の奥の影も揺らいだが…主に三つの空洞が揺らいでいるように見えた、その時にはそれが「目や口や鼻である」という事が「わかりにくく」なっていた。
私は部屋全体が揺れるのを感じた、私という「この何か」が、とうとう、今の容れ物から抜け出て別の認識を果たすような感覚が湧き起こった。
つまり、今自分は此処にあるが、全く別の「在る」ものをついに観てしまう、という切迫した気持ちだった。
私は手で顔を覆ったが、この「手」というものが既に酷く奇異に感じ、すぐに顔から離した。
…これが自分の身体であるということが非常に受け入れがたかった。
自分が別の人間だとかではなくて…何故自分が壁や鏡や急須でないのかについての答えが全く出せないので、自分がこうして5本の指を持つ何かであるということにすら、整合性を見いだせなかったのだ。

 

つまり私は崩壊しかかっていた。
以前一度だけ聞いたことのある幻聴と呼ばれる「もの」が、「ほんとうにすぐ側まで迫ってきている」のを感じた。
それどころか、私の身体はかなり揺れていたし、壁も服も同じように揺らいでいて、そのどれが「自分で」どれが「自分でないのか」すらも曖昧になっていた事もあり…
壁から「何か」が出てきたり、今観ているこの「事象として観測可能であると今さっきまで信じていた景色」自体を信じられなくなっていたため、あともう少しで「見えている世界が終わる」のも予感した。
私は泣いていた。
発作だと思った。

 

しかし発作だという言葉が出なくなっていた、私はただ泣き、泣いている自分の声と思われるものを聞いた。

 

そのくらい自分という存在が薄くなっていた、この奇妙な孤独感は宇宙に素っ裸で投げ捨てられたら感じるようなものだろうと思う。
私は部屋から出て、廊下に立ったが廊下というモノの概念が薄れていくのを感じた。
家、というものが何故「このような仕組みで」在るのかよくわからなくなっていた、そしてそのよくわからなさに私はとても悲しく、恐ろしくなり、さらに泣いた。
このときには全身が震えていたがまだ「耐えて」いた。
足元を見たがそれが自分の脚であるとどうしても思えなかった…これ、が、じぶんの、脚、脚とは?…とにかく思考は役に立たなかった。
何故自分が「こうして立っている」のかもよくわからなかった。
M氏を呼ぼうか、とも思ったが手立てが無かった…携帯はあったが携帯というものを認識しにくいという現状を、私は感じていた。
仮にその機械があったとして、文字を、意味の在る羅列にするという作業を、「自分の指をつかって」出来るとは到底思えなかった。

 

そういうわけで私は立ち尽くして泣いていた、これは発作だ、と言葉の消えた想いでただ感じ、自分の脚を何度か観て、その度に絶望した。
身体というものを「自分であると」全く認識出来なかった。
よって私の心臓はさらに波打った。
「…死ぬんだ…」
と、言葉ではないところで感じた。

 

しかしそれでも「あちら側へ投げ入れられる」事を私は耐えた。
もしかすると死ぬことを耐えたのかもしれない。
あちら側というのは、普段の自分の認識の先を関知するのを堰き止めたということである。
幻覚や妄想をまさに堰き止めたという感覚がある。
あれらの持つ「圧力や質量」を感じてたし、まだあれらは居るのだが、なんとか認識の軸をずらせた感じがする。
心臓の動悸が治まってから私は聖書を見た、言葉が完全に「認識出来なくなっていたら」私は大声で叫んだだろう…だが無事に読め、私は安堵して再び髪を乾かしに部屋へ戻った。
これが発作の一部始終である、たった5分くらいの精神的発作である。

 

あのまま堰き止められずに居たら多分私は素っ裸で錯乱していたと思う。
恥ずかしいとかそんな問題ではなく…テーブルに置いてあるコップと自分の身体の、そのどちらが「自分であるか」すらも認識しにくいという類いの発作であったため、それに加えて夥しい幻聴や幻覚の洪水の中に押し入れられたらもう、叫んでわめいて、泣くことしか出来ないだろうと思う。
帰宅したM氏にもあまり話せずに居た…というのも、言葉そのものが遠くにいってしまっていたのでうまく話せなかったのである…。

 

今朝起きてから調べてみるとてんかん統合失調症の間の急性発作のような感じがしなくもない。
私が一番怖かったのは、その精神的発作の最中は、文字の認識が唐突にしにくくなったということ。
今はもう治って(?)いるが…私は本という物体を好んでいるので、本のタイトルというものが「認識しにくい」のは非常に恐ろしい事だった。
言語というものがそのまま、そのフォルダごと…フォルダというかOSというか、ともかくそれが唐突に「どっかにいってしまった」ような感覚に一番孤独感を覚えた。
今まで散々孤独だとか何だとか言っていたがあんなものは序の口だったと我ながら反省した。
言語認識そのものが遠のくので、携帯で連絡しようにも多分「喋る」ということも上手く機能しにくいような気がして、全く救助の方法が思いつかなかった。

 

とにかく「自分」という認識が崩壊しかかっていたので、自分の身体をも異質なものとして感じるので、死というものが非常にリアルだった。
幻聴や幻覚を堰き止める…というのは、この種のモノを一度でも体験するとわかるのだが、あれらは思考の癖とか被害妄想的なモノではなくて、体感としては「居る」とか「迫ってきている」ものなので、それを堰き止めるのである。
だからそれと会話してはならないのである、どんなに近くに来ていても、軸を重ねてはならないのである。
よく幻視者が「聖母マリアを観ました」とか「神様の声や姿を見ました、神の声を直接聞きました」と言うが…正直度肝を抜かれる。
私はこの種の発作で心底、普段の日常というもののリアリティ、自分が人間であるということへのリアリディが失われる怖さを体感するので、あの手の「モノ」を受け入れて、尚且つ正面から向き合うというほど胆の座った人物たちをほんとうに凄いと思う。
…たとえそれが病的なものであっても、その種の「この三次元に於いては在るはずの無いもの」に堂々と軸を合わせられる図太さには恐れ入る。
ちなみに私は昨日の発作が終わりかけた時には祈っていた。

 

それはどういった祈りかというと「私は最近頻繁に祈りました、確かに私は精神的に功徳を詰みたいという我欲がありました、けれども自分で引き受けられないものはどうか、私には送らないで下さい、私は神様の声をお聴きしたいだとか、マリア様と直接にお会いしたいだとかは私の身に余ることですので本当のほんとうに正真正銘一切望んでおりません、どうぞその種のお恵みは私には与えないで下さい…」というものである。
これを私は本気で祈って、本気で泣きながら縋った。

 

何が言いたいかというとそれほどに、幻覚や幻聴は恐ろしいのである。
勿論私には元来、自分がこのような肉体を伴っているという事への強い強い違和感がある、これはもう幼少の頃からであるので、この素性は変えにくい。
だがこの発作はほんとうに恐ろしい、認識という軸が覆されるので、その覆されるということに対する根本的なタフさが問われるのである…私だったらすぐに心身喪失状態に陥るだろう…。

 

以前この種の精神的発作に見舞われた事が何度かある、一度目は幻聴ではっきりと「ビビットなピンクの声」で、「身の程知らず」と明るく唄うように繰り返された事。
全く耳元で繰り返されたので「あれ」がまた「さらに大量に」「来る」と思うと精神がぺしゃんこにひしゃげてしまいそうだと思い、今回は何とか回避した。

 

その次は唐突に「冬の朝の太陽」、つまり朝日が「巨大な目に見え」、なおかつその目が「私を観ている」ように直感したという出来事。
これも誇大妄想とかではなくて、当時も「自分と太陽の軸が不幸な偶然により重なってしまった」という感覚だった。
だから何も太陽が私だけを見てるとかではなくて、単に、「自分という存在とはあまりにも軸の異なる存在と偶然、完全に目が合ってしまった」という圧倒的な内的事実に恐れおののいた。
実際に「太陽と目が合う」のは非常に恐ろしい事だった。
私は朝日が直に入る部屋に当時居たのだが、カーテンを閉め切ってテーブルの下に潜り込んで震えていた。
相手が圧倒的過ぎてどんなに隠れてもどうしようもないこと…そしてこの物事が既に私にとって十分に現実であるということを「およそ世界の誰にも説明出来ない」という事に参っていた。
発作といってよかった、朝になると心臓がバクバクしてとにかく私は叫ばないように口を押えてテーブルの下に潜り込むのである。
自分でもおかしいと思っていたがどうしようもなかった。
…ちなみに、その一時が過ぎ去ると私は着替え、昼間は普通に働いていた、それが大体1ヶ月以上続いた。

※ただこれも今思うと、視覚が光に敏感であるという事のような気もする。

 

元来私は金縛りにも遭うし、よく魘される人間である。
魘されて叫ぶその時、そこに言葉は無い。
自分が誰であるか、自分が人間であるのかという根源的な軸が半ば崩壊しかかるのである…それが魘されると言うことで、魘されるのはその実、この種の発作と同類の症状である。

 

父親も魘される体質であるし、何処か「自分というリアリティの軸が狂う」タイプの人間である。
だからこの体質は父ゆずりである。
精神的発作の起る前の身体のむずむずする感じや、「あれ」が来ている感じ…とか書くと何で病院行かないんだと言われそうだが、結局父も私も「耐える」事をすれば耐えられるのである。
発作は発作なので、その場では錯乱状態に近い感じにはなるし…正直死ぬほど怖い。
だがやり過ごせてしまえるので病院へは行きたくないのである。
何故か?
…以前うまく寝付けないこともあって精神科、もといメンタルクリニックに行ったのだが…頭のぼんやりする薬をどんどんエンドレスに出されるだけで、かえって「悪化」したように思ったので行きたくなくなったのである。
ちょっと苛々したといえばこの薬、ちょっと落ち込んだと言えばあの薬…いつでも笑顔でいつでも楽しい人間というものを軸に据える精神科のやり方が単純に私には相容れないものだったということである。
多分この手の精神的発作にも、やれこの薬、あの薬といって強めの頓服を出すだけで終わるだろう…と思うとそれに対する費用も、その薬を飲んで身体がだるくなることも含めて全く割に合わないのである。

 

ただ、今回の精神的発作は「自分という認識が曖昧になる」上、「言語が認識しにくくなる」というとても恐ろしいものであった。
統合失調症…というか、てんかん発作という感じもした。
もしかすると父も私もてんかん体質なのだろうか?
でも…MRIとか入るのは、避妊リングも確認しなきゃならないし面倒である。
脳の状態を見てもらう…にしても脳ドッグって高いな~…と、面倒になる。
言葉の違和感があったので脳梗塞の前触れとかだったらさらに嫌だな~、脳の萎縮とかが見つかったら嫌だな、根本的に脳障害があるとかの今更な要らない発見も嫌だな…それにしても高いな~、高い上に面倒だな~…。

 

ただ何となくこのふわふわした嫌な感じ、というのがどうも、ドストエフスキー大先生の作品感覚と似ているなあと勝手にファン心理で解釈したりしているが…。
今はもうあのふわふわした嫌な感じ、「あれ」等が遠のいているのでなんとなく落ち着いているが、実際にあれが近づいているとドストエフスキー作品という事柄とも触れ合うことは出来ないので、あまり楽観視はできないどころか、正直、これがドストエフスキー大先生と同様の疾患であったとしてももう二度とご免である、その位昨日の精神的発作は恐ろしいものであった。

 

私は現在寝ているときも一切寝返りは打たないし、打てない、だから毎日頭が痺れたような感じで目が覚める。
もしかすると脳の血流が相当よくないのかもしれない…というかもう、相当悪いと思う。
歩いてはいるが、内職もあるので座したままの事もある、そうすると身体は痺れがちである。
生活を見直すということも必要なのだろうか…しかし寝返り云々については最早見直しようがないので、若干手詰まりの感もある。
ただ、文章ということを考えると今まで私は何処か罪悪感をもって文章を書いていた。
だから思考するということをやめようとおもっていたのだが…この堰き止めている感覚が、精神の異常を引き起こした可能性もある。
だから、日記はやはり書いた方が言語野の血流がよくなるのかなとも思う。
本音でというスタンスはもう、その修行はいいかなという感じだし、読んでくれた皆様にも散々見苦しいところを見せてしまったので申し訳ない気もしているが(私は自分の暴力性というものを実はとても恥じているのだが、だからといってそれに蓋をすると余計に、恥の概念が強くなり、元来誰もが持つ生命力というものを認識ににくくなるので、あまり恥じないようにとは思っている)…また思考したことは書こうと思う。

 

※私にとって書くということは二次的な手段で、どちらかというと内面の攻撃性の昇華であったのだけれど…だから書いたものは汚いような気がしていたのだけれど、ひょっとすると書くということで自分(の言語野)を救っていたのかも知れない、だからまた思考したことは書こうと思う。

 

検査の話も含めて一応M氏にも話した、朝のうちはまだあいまいな世界に私は居たが、今日の夕方頃から「戻って」きた感覚があり、言語野が無事に活性化し出したので話しておいた。
やはり、自分という存在が鏡や急須や壁でなくてよかったなあ~と思う。
私は自分が自分のこの肉体を伴うということや、人間という生き物であることを常々奇妙に思っているが、それでも自分の存在が壁とかでなくてよかった。
今は身体の内側に私は居る…多分。
いつでも私はもやもやしている、私という存在は私が関知しないだけで実は、外に漏れているのかも知れない。
魂は移動を始めているのかも知れない、そのような本当の事は人間には知覚出来ない。
言語の外側、物事の外側に確かにほんとうの世界はあるし、死ということは認識の移行なのだなと、昨日の精神的発作でまざまざと思った。

 

だが今は、言語に救われてきたのだと実感している。
鶴の人にも連絡も出来なかったが、頭の奥底で彼が言葉を話すのを私は聴いた。
ああいった精神的な穴に落ち込んだときには、最早誰と対面しても宇宙の彼方越しに互いを見つめているような状態にしかならないだろう。
死というものは認識の移行である。
認識が移行しかかっている時には、互いに、触れ合っていてもわかり合えない。

 

つい数日前、連休中に脳梗塞の発作で亡くなった人が居た、M氏の仕事仲間である。
きっと彼は「すぐそこ」に居るだろうと思う、通夜のその時、その空間内に彼は居たと思う。
ただ互いの認識が移行したため、見えている「現実の軸」がずれたのだ。
だから姿が見えないし、すぐそこに居るのに認識している景色も常識も異なるのだ。
彼は自分の身体を「超える」とき、恐ろしかっただろうか?
あるいは超越した感覚を得たのだろうか?
私のように自分の手足が最早自分という存在と合致しないことに、ただひたすら恐れおののいたのだろうか?
簡単に向こう側への認識へ移ったのだろうか?

 

簡単に「自分」という認識単位から抜け出でたのだろうか?

 

死とはそのようなものだと、通夜でもらった緑茶を飲みながら私は、思案している。

 

 

 

 

絶え間ない祈りと宗教観、ロザリオや数珠に含まれる時間感覚

 

絶え間ない祈りについて
これは祈りに関する「個人的な思想」である。
目の前を通り過ぎる物事、人、大小のアクシデント、仕事に当てはめるならば内職で取りかかる目の前の本の一冊一冊、清掃時代だったら一部屋一部屋、接客時代の私がこの祈りを実践するとしたら一人一人の利用者だろう…自分の目の前に「今」在るそれら事象に対して都度、観測しうる範囲で「恵み」あるいは「恵みがありますように」「御助けがありますように」といった祈りや祝する言葉を思い浮かべることをしている。
これは特段どの本に書いてあったとか、誰に師事してもらったとかそういう事ではなくてふと、思いついた個人的な祈りの思想である。
ただ、聖書をあくまで自分なりに読んで感銘を受けたという精神状態であるということは明記しておこう。
祈りというと大げさな感じがするかもしれないが、実感として高い効果を感じるということが切実に迫ってきた思考法…祈り、なのである。

 

神聖な祈りの場所で啓示を受けたり、聖書を読んでいて感銘を受けたりするということについての「信仰の実感」は素晴らしいものだ。
だが祈りの場所を一歩外に出たときに他者…あるいは事象としての自然災害を含め起った物事についてどのように自分の「根幹」が反応するのかということに軸を据えたいという気持ちが私には元来強くあった。
例えば家に宗教の勧誘が来た、その時にすぐに、何よりも早く「自分自身の祈りで相手の存在を是とする」という事を私は行う、反応としての嫌悪感、あるいは「見下されたような感覚」が起ってもそれをただの自分の反応だと「認識」出来るようにしておく。
そうすると、私自身も相手を見下さずに済むのである、相容れない概念の他者に対しても平静で居られる…これは本当に救済であると私は感じる。

 

この「目の前の対象(だと認識した事象について)への祈り」、思考や反応の前段階に祈りを据えるという思考方法を敢て祈りと呼ぶのには理由がある。
実感として、このとき自分自身を捧げている、繋がっているという感覚に満たされるというのが第一。
この感覚についてはそれを体感しないと解らないので、もしかすると世界中で私一人にしか通用しないものなのかもしれない、つまり思い込みなのかもしれない。
第二の理由は…これが仮に思い込みであるとして、個人の思考方法なのだと言い切って自己解脱に取り組んでいるという認識の場合、案外簡単に慢心するということへの危険性を自分に感じるのである(私が袈裟を着た僧侶を嫌いだと認識するのはこのあたりの理由かも知れない)。
慢心というのは…うまく言えないが、前の自分よりもレベルアップしたのだという感覚、だろうか。
これを何故危険視するのかというと、この階級感覚が自分に根付いた場合、人を段階で見分ける、事象を段階で見分けるということが信仰や思想といった内的な導きの概念に於いてすらも起るから、である。
それが何故危険なのかというと、自分自身にとっての真実を見極められなくなる恐れがあるから、である。
聖書やイエスキリストの手助け、また数多の思想の手助けが自分を作っているという感謝を忘却するから、である。
感謝の忘却は配慮の忘却である、だからこれを正真正銘の思考方法だと言い切ることが私にはタブーなのである。
これは配慮のために行う祈りだからである。

 

この絶え間ない祈りは何も、絶え間なく自分を害悪から守ってもらうという縋る祈りではなくて、静かな自己観察の祈りである…地味な祈りである。

 

常に配慮を行うということを自分に本当に課すのならば、思考の上で「クソどうでもいい出来事に煩わされた」というその認識についてすら、愛を見いだすことを可能にせねばならないと私は思っている。
聖書を読んでいるときだけでなくて、法華経を唱えている時だけではなくて、常に常に自分が本当に此処に居て状況を作り出しているのだという実感が、配慮を行う上で必要である。
配慮を行うということを愛着に繋げてしまうと大変な事になる、そんなことはしなくてよいし、すべきではないと私は考える…が、もし駆り立てられるように何か内部で燃え上がったらそのような行動をとるかもしれない。
だが、常に内外、自他が平安で在ること…本当に繋がっているという確信をもたらすこと、これを配慮の根幹と考えると、燃え立つような祈りよりもこの種の冷静さを見極める思考方法の方がより、祈りの根本に「近い」気がしている。

 

気がする、内的実感がある、という話なのである…だからこの祈りについて何かを証明するということは出来ないが、確実に思考の上で平安をもたらすということは述べておく。

 

仏教と一神教、宗教的価値観について

神は観測されないので実在しませんと言う人も居るし、仏教系の宗教関係者もそう言うが、神は何も「神様という人」等ではないと、彼等には言いたくなるときがある。
一神教の人たちは神様という人を信じているということではないんだよ、と…このあたりの、他宗教への認識があまりにも薄い仏教系僧侶などを見ると失笑したくなるときがある、無論これは「私の思考が勝手に失笑してしまっている」状態である。
宗教関係者や思想系という社会的立ち位置にある人の他概念への認識不足を見ると憤りを感じる、私の思考が、である。
とにかく「在る」ので、この世界も在る、という認識が聖書にとっての神だろうと私は感じているし、あくまで私にとって多くの信仰告白の文章を読むと、神を信じているということはこのような概念なのだと解る。

 

ただ、仏教で言うところの世界は無であるというこの概念と、一神教の「在る」という概念はその実容易に合致する。
この「在る」の中に「無い」を入れればよいのである…というか、この世界観を案外多くの人が体感しながら生きていると思う。
朝目覚めた時の違和感、肉体が在るという事への違和感、何故だかいつも目隠しされているような違和感…無論それは私が「本当の軸を隠して生きているから」である、だがそれだけでは言い表せない虚無感を感じるのである。
これは一神教でも多神教でも、それこそ無宗教の人でもそうだろうと思う。
この世は仮の世なのだという感覚が強い、これは個人的なトラウマがそうさせているのかもしれないが、それを癒やすのは祈りしかないだろうと思う。
こういった虚無感に対する感覚、虚無感と全く同一に「真理」が在るのだという感覚、こういうものがかつてグノーシス的と呼ばれたのかも知れないが…今敢てその名称を変えるのならばキリスト教仏教派とでも言うべきだろうか。

 

仏教キリスト派、だとどうしても配慮という概念が後回しになる恐れがあるので、ここはやはりキリスト教仏教派が妥当である。
私にはどうしても愛の概念が必要である、赦しの概念が必要である、ストイックに全てを突き詰める方法だけでは配慮は成し得ない。
しかしキリスト教仏教派という人物像が「この仮の世で」「仮に」完成した場合、それは実に仏陀に酷似しているだろうと思う。
だがこの世を仮の世だと仮定しても、この世に在るということを是とする場合、自分自身を在る者に変容させなければならない。
だからこそ愛という概念が必要なのである。

 

一神教の神を否定するのではなくて、神は確かに在る、だがこの世は仮であるというところに「在る」と「無し」の両立が完成する。
…と私には思えて成らないし、現に私の魂を分解したらこのような図式が表されると思う。
私はこの虚無感に耐えてきたし、何よりもこの離脱感が苦しい、目覚めて何か違和感を感じるときに私は祈る、何に…?
在る、と感じるものに、である。

 

何処に宗教的実感を得たのかと問われれば、私はイエスキリストに感銘を受けた、これは実感であって、言葉にすると「自分とはほとんど接点の無い異国の離れた時代の誰かが死んだということに感動している」という訳のわからないものになる…が、私はそういうことに光を観た。
まさにこれと同種の光を実はダライラマにも観た、彼の言葉にも観た。
だから内的体感としてイエスキリストに非常に近い存在はダライラマなのである、何故?と問われても私には「書物で感じる光が酷似していた」としか言いようがない、これが宗教的実感なのでどうしようもない。

 

ダライラマチベット仏教の人であるので、特段理由も無くチベット仏教の仏具などを調べてみた、この人物がこれほどまでに完成されているのはどのような思想のお陰なのか知りたくなったのだ。
昔からチベット死者の書曼荼羅は観ていたし、全ての経文も師弟制度で受け継がれていること等は知っていたのだが、どのような物品を手にしながら思考の宇宙に居るのかは今まで知らなかった。
私は数珠を観ていた、その時電光が走った、これは触れてはならないと思った。
その時に観たチベット仏教の数珠というものに私は凄まじい「タブー」を感じた、警告を感じた。
それはただの数珠である、だが、私の持っていい数珠ではない、触れていい数珠ではない。
完全に「異質な」ものであるので、敬意を込めて私は「傍観」せねばならないと感じた。
恐怖、と言い換えてもいい、畏れというのが妥当だろうが、私は異質な概念と宇宙に恐怖を感じた。
何故か…その答えは簡単で、私が日蓮正宗の数珠に慣れ親しんでいたし、その概念体系以外を是としない世界に居たからである。

 

つまり私の宗教的リアリティというものは相変わらず日連系にあるとも言える。
とにかく概念と概念が、磁石の+-のように反発してしまい、一人の人間の中に収まりきらないという「事実」を私は観るのである。
私が「ありとあらゆる概念をほんとうに持ったなら」「肉体として此処に実存している私は」「崩壊するだろう」ということを私は実感し、何処か落胆し、尚且つそこに神秘を感じて立ち止まる。
ここで宗教的タブーが発動したという事実に基づき、敬意を以て他宗教を観る、ということを私は体感する。
だからこそチベット仏教というものが「実在している」のを私はまざまざと「体感」するのである。
実感するのである。
そしてダライラマという人物が中国という概念や人々や思想に対しても穏やかに接している所を見聞きするにつけ、私は感銘を受ける、イエスキリストみたいな人だ…と感じ入るのである。

 

以前、ダライラマの思考方法のような本を鶴の人から借りた、その時にはまだ私には赦しという概念が理解しきれずにいた。
理解は未だに全くしていないが、その概念がどうして必要なのかがよくわかっていなかった。
実際にその書物には赦しという言葉は出てこないし、他者を許すという姿勢も無い。
神という言葉も無い。
だが、常に常に自分の「思考ではなくて祈りで」他者に向き合うという概念が書かれていた…ように思う、今、そのように思えてならないのである。
実際には祈りで何かを解決する等の発言は書かれていなかったと思う、淡々と著者とダライラマとの日々が書かれている書物である。
それを私は鶴の人から受け取り、その時はまだ、日常を祈りの場にするということの意味が遠かったが…今は鶴の人は私を救済してくれたのだなという実感がある、特段顔を合わせたときに信仰について話をしているわけでもないのだが、彼とはそのような繋がりを感じるし、私は鶴の人にほんとうに助けて貰っているのだ…。

 

両親との違和感がほぐれたと同時に宗教的タブーが薄れたので、未信徒でも持てるロザリオを入手して祈りを唱えたりした。
その時に、愛着ではない愛という概念が実感をもって私に迫ってきた。
そしてこの、絶え間なく祈るということが現実として私に課せられたのを私は実感した、その時に、鶴の人から借りたダライラマの本を読んだということが私の内部で真実となったのだ、穏和を保つということがどのような実感をもたらすのか、どのように絶えず注意していなければならないのかということが、私に現実性をもって迫ってきたのだ。
耐え間ない祈りは、実際に大げさに祈るとかではなくて、思考や反応の前に、「祝する」のである。
何か起ってもとにかく「恵みがありますように」と思い浮かべるのである、この言葉はなかなか多の祈りの言葉に置き換えにくい。
南無、という言葉は帰依を表すため、自分の帰依がそこに在るというわけでもないので南無妙法蓮華経とありとあらゆる事に唱えるというのも実質、難しい。
アーメン、も大まかにいって南無という意味、帰依の意味を持つのでこれを言うというのも憚られる。
言葉というのはその実思考である、だから祈りと言い切ってしまうのも気が引けるのだが…それでもこれは祈りなのである。
是とする祈りなのである。

 

~しますように

というのは言葉に置き換えると一見、上から目線というか、望まれてもないことを祈られているように感じるかも知れないが、単に「よきことかな」という感覚である、かからこの「よきことかな」が絶えず自分に起っているのだと思うと私は驚くのである、思考はいつも呪っている、まさかこんなことがとか、こんな下らないことがといつも反射的に思っているが…これは祝している言葉なのである。

 

思考は悲しいほどいつも何処かで「呪い」を含んでいる。
これは愛着も含めてである、好き、愛している、それだけでは呪いなのである。
誰かを愛おしいと思ったそのときにも「恵みがありますように」と唱える、思考のその前に、である。
振られるときにだってそう唱えるだろう、その人が居なくなったり、あまつさえ死んだりしてしまった時にすら、思考の前に唱えるだろう。
このときに私は自分の「我」から自由になるのである。
だからこの祈りを唱える毎に私は実質、自分の我を抑えていることが出来る…ほんの束の間だが。
恵みがありますように、というのは言えば言うほどに、この世が仮であったとしても、その実非常に多くの恵みを含んでいるということを実感する言葉でもある。
だって少なくともそこに観測出来るということは、虚無というよりも、ふんだんな恵みであるから。
先ず祝うということを私は生涯かけて身につけようとしている…誰の為に?なんの為に?
在るということについて、である。
無いということについて、である。
これこそが働きというものだろうと私は確信しているし、実際にこれをやってみると気分は安定する。

 

怖いと思う事柄が減り、安定が増える。
何故なら自分がいつでも祝することが可能だと自分で知るから、である。
で、この祝うということを私は捧げたいと思うのだ、捧げるということを念頭に置かないと私は「思考の上で」それをやることになる。
思考の上でこれをやると、この事自体全部が自分自身だけの力で出来たのだという慢心に陥る。
聖書の光やイエスキリストの手助けがあって出来たのだということを簡単に忘れてしまう。
エスキリストにとらわれるということは、多分このような感覚なのだろう…他者の感覚などはこの世で知る事は出来ないが、とにかく彼が居たということに私は安堵している。

 

 

数珠の祈り、ロザリオの祈り、過去と未来を祝する祈り
ロザリオなどの数珠については、元々はインドのものであるらしい。
日蓮正宗では数珠をカウンター(カウントする物品)として使用しないのだが、前々から数珠の持つ不可思議さに魅せられていた。
数珠とは、時間であると私は思っている。

 

数珠とは、この世の時間、自分に割り当てられた時間を視覚化したものであると私は思っている。

 

ロザリオの祈りをやるときに私はそこに時間を当てはめる。
過去の場合もある…今は過去のことを行っているので、要所要所で自分という人間が生じた瞬間をイエスキリストの玄義とともに「祝って」いる、今まで呪う事の方が多かったので祝っているのだ。
死ぬ前に祝いきっておきたいのだ、これは他人にやれることの範囲を超えている物事である、だから元来、供養というものは私は自分で行うものだと思っている。
そうすると全ての未完了の物事が「仮の世に於いて」完了する、実感があるのだ。
これも単に実感の話である、祈りについていくら思考で「説明」しても、このような物事はやってみるより他無いのだ。
それも必要に駆られたらやるべきであって、不必要であるのならばそれもまた答えなのだと思う…そして私にはどうしてもこの物事をこうして書き起こしておくのが必要なので、やむにやまれずそうしている。

 

さて、同様にロザリオの祈りをこれからの未来の時間に当てはめてもよいと思う、これは時間のカウンターなので、このようなことは可能だと思う。
ロザリオは10粒の珠が大まか、5連ある。
だからこれを「今からの50日」に当てはめてもよい。
今からの「5時間」に当てはめてもよい。
…と私は思っているし、未信徒でも使用を許されている物品なので、精神構造上の+-が反発を起こすということも実際に起きていない。
今「手に持っている時間」をあらかじめ祝しておき、あらかじめそれを視覚により「見据えて」おくことによって、「祈りの外側にいかないように」自分で「道を調整」する役割を、ロザリオの祈りで実行しているのである。
何か目標がある場合、漠然と恐れを抱いている場合にこの「未来の時間を祝す」「道を調整する」ロザリオの祈りは効力がある、私には効力があるのでこのように書かせてもらう。

 

道を調整しておかないと私はいとも簡単に転落してしまう、いとも簡単に冷静さを失い、思考だけで物事に是非をつけ、人を判別し、自分をも裁く、いとも簡単に祈りを忘れてしまう…これが転落であると私は思う。
それは勿論可も無く不可も無い当たり前の状態である。
祈りのない当たり前の状態である。
怠け癖というか、逃避癖が出てきて苦しくなっても、自分の思考だけでそれを乗り越えようとしたって無理が生じる。
でも、祈りの中に在ればなんとか修正出来る。
修正というのは、単に「自分の思考や反応」を、「自分の思考や反応なのだ」と認識出来る状態に「戻す」ということ。
善なる者になるとかではなくて、祈りは、この世の最短ルートを模索できるということを私は言いたいのである。

 

このような事を考えると人間、きっと眠っているときが「一番まとも」であると思う。
ともすると一番配慮の出来ている状態なのかなとも思う。
ただ、起きて能動的な配慮をする場合の自己放棄とは違うが…眠りに於いては誰もが平等である。
だから目覚めているときは「思考を冷静に見つめていたいので」祈っていたい、常に祈っていたい、これが私の思う祈りへの欲求である。

 

 

 

 

 

私の神様


個人的体感のうちに生きているとどうしても団体の決まり事というものの中に神秘を見いだしにくくなる。
祈りというものは関係性だと説かれても、私は自分の個人的な関係性のほうを重要視してしまう。

 

関係性の外側へ行ってしまう人間は果たして救われるのだろうか?
これを組織を保ってきた宗派は救われ「にくい」という位置づけにする。
聖体拝領で「本当に」キリストの肉を口にしたという実感が湧いた場合に、その宗派の一員になれる。
逆に言えばそこに実感が無い場合は宗教的体験もまた無いということになる…私の場合は個人的体感を優先させるのでそのような見方になってしまう。

 

聖書を読んでいて響く直感では、聖体という事に関して言えば、キリストは「全ての食べ物の中に自分は居る」と言っているように聞こえる、主食と飲み物の中に自分は既に在るという風に聞こえる。
この解釈もまた私の場合は独自解釈に過ぎないので、組織としては、私は勉強し直さなければならないということになる。
だが私が、個人的体験としての聖書というものを追求する場合、私は私の感じたイエスの言葉を優先させる事を是とする。

 

マリアへの崇敬も、イエスという人格を生み出したという点を讃えている…
めでたし聖寵満ちみてるマリアという言葉も、それを男女ともに口ずさむ事によって誰もがその瞬間にマリアとなり、イエスという人格を内部に生んでいるように私には思えてならない。
祈りの文言としては、マリアを讃えているのだからそれは第三者の目、なのだけれど、イエスを産む前のマリアというものをいちいち出現させているのは「自分自身の内部にイエスキリスト的な変容を起こす」という宣言のように私には感じる。

 

聖書の内部に於いては性的な不品行は悪とされているが…果たしてそこで言う妻や夫という言葉が、本当の意味で組織に於ける婚姻関係者を指すのかどうかは曖昧である。
これも勿論直感で感じた事なのだが、「その時の妻」「その時の夫」その時の相手という意味でもじゅぶんに通じるのではないだろうか。
旧約と新約とを繋げて考える場合には「血が混ざる」ということを避ける思想が続くような気がするため、その時の相手などという感覚は許されないだろう。
だが新約というものが元来の神という概念を覆すものだという前提をつけるならば、性的不品行についてイエスの言いたかったことは…感覚的に少し、違うのではないだろうかという気がしてくる。
ただただ、互いに配慮のある性行為をしろという風に言っているように聞こえるのだ、読み返せば読み返すほど、そう思える。
私にはそういうふうに聞こえるだけである。

 

宗教団体の組織関係に於いて、神秘を見いだした場合、その組織の重んじる物事を重んじなければならないだろう。
それは組織を保つためではなくて、自分自身の宗教的体験の為である。
自分自身の人生そのものを聖化したい欲求は私にも在るし、実のところ誰にだってあるだろう。
良い人間といった意味では無く、今までの事は全て意味が在ったと思いたい、そんな気持ちの事である。

 

社会的、組織性を重要視した状態での私は不品行者であるため、到底ミサに預かるということは出来ない、それは現状出来ないのだ。
何故ならそれは、その宗派の組織による関係性を本当に重視して人生を生きている方々を軽んじてしまう行為になりかねないからだ。
突き詰めれば組織の中に居ても、ミサの時にこそ宗教的体験をするという人であれ、人間は皆一人で生きている。
だから私が宗教体験をしに組織的な場所へ行くというもの特段、私が自分の内部に一切の蓋をするのならば、誰も傷つけたりはしない。
だが私個人の整合性がとれないのである。

 

あとはこの、選別された人とそうでない人という仕組みそのものに違和感を抱いてしまう。
それは思考の上でというよりも、もっと根源的な部分で傷つくような独特な違和感である。
他者への配慮という事を宗教思想に組み込んだという点では、とてもざっくりまとめてしまうがキリスト教というものは凄いと思うし、個人的にも救われた感覚がある。
だけれどその愛を行うという点で、クリスチャンというその言葉の中に、何か排他的なものを感じてしまうのだ、それが実に愛と真逆なので私は戸惑う。
それはただの言葉で、秘蹟によって自分が変容したという内的感動を含めて、自分の正体というものを提示しているということはわかる。

 

アーティスト、と言う言葉と似ている、自分でも絵を描くしその体験でしか得られない変容というものを随時体感している。
自分は何者か、と聞かれたら…それでもアーティストと言う言葉が私は嫌いで、なんかそれは、創作という体感の出来る人間とそうでない人間が居て、分けられている、という思想から発せられる言葉のように思えるのだ。
アーティストにしかわからない、というような事を言う絵描きはアーティストと名乗る人間にだけ見せる絵を描いていればいい、だがそれは本当に絵を描いているということにはならないと思うぞ…という風に私はどうにも反発してしまうのである、心の奥底、まさに絵を描く部分が反発するのである。
そういうわけでクリスチャンと言う言葉にも全く同様の反発心が芽生えてしまう、繰り返しになるが勿論それは「個人的体験としての変容」という主観的事実を彼等が述べているというだけなのだが…
私にはイエスキリストが、そんなことで人を選別したりしないように思えてならないのである。
そんな排他的な人でないように感じてしまう、イエスキリストという人は聖書を見る限り、激高したりもする、だが根源的にすごくおおらかで、呆気なく殺されてしまう。
そういう人が、このような組織を作るのだろうかと感じてしまうのである。

 

こんなことは主観的な物事で、聖体拝領のパンをホスチアにするかふっくらパンにするかの論争同様、そこに着眼してはいけない。
私が聖書によって内的体験をしたということそれ自体が主観的事実である。
祈りによって内的体験をしたということそれ自体が主観的真実である。
だからこそ、関係性の上での内的体験というものは可能なのだろうかと、少なからず興味は湧いているのだが、どうしても、何処へも行けないのだ。

 

関係性の上での内的体験というものが個人に由来する場合、私は社会的な言葉で言えば自分の愛人との間にそれを見いだしてしまう。
芸術という内的体験の一致と、男女という肉体に於ける一致。
いつまでも世々に…というわけでもないのだ、彼は女好きだし、私もどうしても憧れを捨てきれない人もいる、だからこそもっと互いに「ただこの瞬間を深めたい」のである。
先のことはわからないし、確定すべきではない。
だがもっと信じ合いたいといつも思う、この渇望は単に足りないという意味での渇望ではなくて、聖書を読んでいてもっともっと深く知りたいと望む、あの渇望なのだ。
もっともっと祈りたいとどうしても渇望してしまう、あの渇望なのだ。
彼との間が一番、個人的な面に於ける、人間関係上の宗教的体感が強い。
おそらく彼もそうだろうと思う。

 

彼と肌を合わせると大きな波の中に飲まれたようになる、その波というのは数多の修行僧の波である、仏教寺院に私は居て、これが彼の持つ世界なのだと感嘆するのだ。
彼の事は二つの軸で見ている、芸術や男女の瞬間的一致と、母性本能である。
パイプカットしようかという話が出たのだが、私は咄嗟に止めていた、私の母性がそうさせたのだ。
無論、血などつながっていない、ただそういう享楽にふけっているだけだともとれる…けれども彼が私を母親として求めるとき、私が彼を愛おしく抱きしめるとき、不可思議な体感のただ中に私は居る。
子供を持つってこのような感覚なのだなと私はその時にはじめて知る。
客観視すれば、それはただ「そのように感じているだけ」である。
客観視すればどのような宗教的体験も「そのように感じているだけ」である。

 

そしておよそ主観的な事柄の全ては、それをどれだけ信じられるかに、価値がかかっている。
「ほんとうは」そのような価値は誰にも測ることが出来ないし、誰もそのような部分で人を裁いてはならないし、「在る」と認識出来る存在もそんなことで人を選別したりはしない。
それなのにもっと信じさせて、もっと体感させてくれ、もっと…と私が請うのは、ほとんど全て、「自分が、自他共によい働きをしたい」という欲求に根ざしている。

 

私は周囲を喜ばせたいのです。

 

と言葉にすると何とも、偽善的で、周囲というのも目に見える範囲という感じがして、それこそアーティストという言葉の持ついやらしさみたいなものが滲み出ている。
私が祈るマリア…のような存在も、私からすると不可思議な重力なので、若く美しいマリア像を見てもなんとなくピンとこない。
綺麗な言葉だけではピンとこないのである。
サンタムエルテというのは骸骨で、呪いすらも受け付ける土着の「何か」だが…私はこの偶像が面白くて入手し、前から持っていたグアダルーペの聖母に並べてみた。
この2者は実によく似ている。
本当の存在というものを体現しているような気がするのだ。
たとえば婚外交渉は悪だというその原理の中に、その悪の中に、宗教的真実が含まれていたりする、ということを考えたりする。
神に祈ると善いことが起こる、というのも実は違うように思う。
通り魔が出た、わいせつ犯が出た、というのならば祈る文言は「神よ私をお助けください」ではなくて、何よりも先ず「事を行った人の魂に恵みがありますように、御助けがありますように」ということである。
もしかすると彼等はそこに何かの摂理を観ているのかも知れない…だが、きっともっと「み旨に叶う」何かがあるはずである。
そんなこともないのかもしれない、それほどに御摂理というものは計り知れない。
そう思う時に、私は過去に自分を襲ってきた人間に祈る。
その祈りにはどうしても呪いが入る。
感情的にどんなに、私はあなたを赦します、あなたに恵みがありますように、御助けがありますようにと言葉で述べても、どうしても私から影のようなものが発せられている。
これは、光が強ければ強いほどに濃くなる影なのである。
この原理から、生きている間の人間は抜け出すことは出来ないし、無理に抜け出さずともよいと思う。

 

つまりこの時点で、祈るということと呪いは同一化するのである、聖母マリアとサンタムエルテが同一化するのである、私の主観的宗教観に於いては、それでこその御母、なのである、美しさと醜さの同居こそが私の地母神なのである。
だから呪いをも赦す地母神こそが、イエスキリストを生じさせたマリアという存在とうまく合致するのである。
マリアに祈っているのではない、と人は言う。
だが神は人間の摂理など超えているのである、自分が暴行を受けたとき、あるいは自分の子供が何か酷い、惨い目に遭ったとき、それでも赦そう、先ず、敵にこそ恵みがありますようにと唱えるその祈りは確かに正真正銘の祈りである。
でも一方でどうしたって呪いなのである。
まだ、単に嘆いていた方が…人間という範囲内では…エネルギーの影響が小規模で済むと思う、品行方正であるように思う、分不相応ではないように思う。
だが祈らずにはいられないのである、出来っこない事をやらずにはおられないのである、信じないと気が済まないのである。

 

だから人は祈れば祈るほどに、我欲を消せば消すほどに、その実、究極的に貪欲になるのである。
何も禁を犯さないということは実に、精神的神秘に於いてすら、不可能なのである。
だからこの原理をとりなしてくれる存在が必要なのだ、少なくとも私には必要なのだ…。
それでも祈りたい、この欲求自体をとりなしてくれる原理が必要なのである、母神が必要なのである、私にはどうしても必要なのである。

 

私は周囲を喜ばせたいのです。
私は我欲を超えたいという究極的な我欲を持っています。
私は真に生きて真に死にたいのです、その為にはセックスすらも必要なのです。
誰かが悲しんで、その分組織の摂理が崩れても、それでも尚必要なのです。
喜ばせたいがために、私が私の働きをしたいがために、どうしてもそれを切望してしまうが故に、必要なのです。
だからもっと祈らせて下さい、この内的体感が私を救い、誰かを救うという確信があるのです。
よって私は、望んだ分だけ汚れて行きます。
祈った分だけ、貪欲になります。
祈った分だけ、滑稽になってゆきます。
祈った分だけ、内的確信を得た分だけ、阿呆になってゆきます。
どうか哀れんで下さい、この摂理から、人間はどうしたって自由にはなれません。
だからこそ死は、私の完成なのです。
そこで待っていて下さい、私の神様。

 

私の罪の概念というのは原罪ではなく、まさに祈ることによって生じる忘我の貪欲さに対する…罪悪感である。
だけどもこの罪悪感を消すのもまた、祈りなのである。
私はミサの動画を見る、ラジオを聞く、その時に確かに助けて貰っているように思う時がある。
これらの罪が贖われていると、信じている誰かにその実助けて貰っているように確信するときが多々ある。
ミサに行かないで済むから…などという理由ではなくて、どうしても組織的な内的体感の場に存在することが難しい人間もいるのだ、そのような人間の為に、ラジオや、動画や、数多の聖人が書いた書物があるのかもしれない。
それは間接的…最早私にとっては十分に直接的な愛なのだ。
聖書もまた、私には、愛なのである。

 

 

 

 

ロザリオによる自分の供養


ロザリオの珠を手繰るとき
私は束の間時空を超える

 

その一粒に私は居て
彼方を照らしている
私の前方に光があるのは
祈りが発せられているから

 

祈りの輪が一巡するとき、私は時間の輪を思い浮かべる
時間の輪の外側に私は居て
人生を見ている
人生の全てを照らす光にその時に私は成るのだ

 

さあ祈りましょう
時間の輪に私はいざなわれ、この世に生まれてきたのだ
今までの経過を、さあ、昇華しましょう祈りの光で

 

数珠の一粒に宿る時間
母の胎に生を受けたその瞬間を手繰る、私は祈る、恵みがありますように
母の胎で暮らすひと月を一粒に、私は祈る、恵みがありますように
急に暗い影、母は堕胎でも考えたのだろうか?私は祈る、恵みがありますように、さらなる御助けがありますように

 

はじめの10の小珠に胎児の10ヶ月を
次の10の小珠に10歳までを
その次の10の小珠に20歳まで
そのまた次の10の小珠に30歳まで
間の大珠に5つの玄義を黙想し
最後の10の小珠に、まだ完了していない40歳までを当てはめて私は祈る、私は自分を供養する

 

するとこの数珠は私の時間になる
ああ、胎児のうちの10粒が暗い、手繰る手が躊躇するほどにひんやりとしている
よほど嫌な事でもあったのだろう、この世に来たくない気持ちで過ごしていたのだろう

 

死して時間の輪から抜け出でた時
人生が祈りの光に包まれていたのなら
何の悔いも無く次の世々に行ける

 

よって全く同時に
数多の死者の魂に祈る
死者の過ごした数多の時間に祈る
たった今煉獄に居る魂に祈る
このようなことは
この世では観測出来まい
だからといってこれが本当に何の働きにもならないのならどうして
人は死を畏れるのか?

 

まだ生きたことの無い年齢を祈るとき
私は言いようのない不可思議さを感じる
自分はもう存在していないかもしれない
だけどもこの祈りの光は
確かに世々に届いているのだ

 

輪が一巡するとき
生きる全ての時間が「完了」したと知らされる
その瞬間に
いま
この時間を
強く信じる気持ちが沸き起こり
確かに
愛と呼ばれるものの実在を私は確信する

 

その愛は
エスの人間的経験やマリアから
そして法華経からも来ている
ロザリオを手繰るとき
全ての糸が私の生命にとっての恵みであったと
珠の一つ一つに触れる毎に思う
その時
私は成仏する
その時
私は
次の世々から、この世を見ている
その時私は、愛と呼ばれるものの正体を知る

 

祈りましょう三千世界を
祈りの輪にいざなわれ
私は生まれてきたのだ

 

私は束の間時空を超える
ロザリオの珠を手繰るとき
その一粒に私は居て
祈りの光を見ている

 

その時私は
もしかするとこの世の影に
なっているのかもしれない
光を出しながら遍く世界の影に
なっているのかもしれない
だから祈っているその時

 

私は

 

死んでいるのかも知れない
この世に居ないのかも知れない

 

 

 

 

遍く世々の御母

 

遍く世々の御母よ


私はあなたを聖母マリアとは呼び難い。
聖母マリアと呼ぶには、私はあまりにもあなたを知らなさすぎるし
とりたて、カトリックの教義そのものに愛着があるわけでもない。
それでも原始母的な存在に私は触れ、果たして、何処までが許されているのかを知りたくなったのだ。

 

私が幼少期に親しみ、毎日唱えた法華経にもあなたは宿っていて、でもこの法華経の法典を手に持っているのは大聖人様であって
大聖人様に歩み寄って、いざ、目に映る全ての物に漠然と恵みを祈っているなどと言おうものなら
喝!と怒鳴られるだけであろう。

 

この教団と私の内的関係はその実、頑固親父と娘のようなものであって、実際の父親よりも遙かに真実味を帯びた父の影がそこにはある。
私が法華経を唱えるその時に、大きな大聖人様の光が振り返って言う、「娘よ帰ってきたのか」、しかし私は首を振る。
だからこの教団との関係、法華経との関係は、実父よりも尚、血縁味を帯びている…人間味を帯びている。

 

人間味を帯びぬ究極的な源への憧れも私にはある。
源というのは何処にでもある、私の指の先にも、全てにある源のことだ。
源に教義云々についての諸々の、その儀式のやり方を尋ねてみても、当然の事ながら一笑に付されてしまう。
なぜなら源には、言葉が無いから。
言葉など無いから。

 

私がロザリオの祈りを行ったとあらば、日連系を信仰する実母は顔をしかめるだろうし、一方でキリスト教聖霊刷新派の実妹は「教義に於ける本当のお恵み」について注意を促すだろう。
カトリックは悪魔に支配されている、と妹は言うだろうが…何故だか妹とは縁の薄い気がしていて、住む場所が離れている事もあってか私は彼女の存在を往々にして忘却しており、よって彼女の言う宗教的真実は私にはあまり響かない。
また、法華経を唱えつつもロザリオの祈りをします、聖母のような存在を私は実感しました等と、カトリックの中でも親切な気質の人に言ったなら、「きちんとカテキズムを学んで」「時間をかけて教義を理解したら洗礼を受けて」「惑わされないように」と諭されるだろう。
数多のプロテスタントの人々には「一人でそのような虚しい祈りをしていないで一緒に唄おう」と急かされるだろう。

 

書物の上では、私たちは誰もがたった一人の人間に成れる。
祈りの中でも。
だから一人きりでいくつかの宗派の思想や生命の軸についての話を読む分には何一つ矛盾は生じない。
私は漠然と聖書の楽しさに共感し、イエスが「現実的には辱められ、死んでいった」というそのことに深く感動する。
完璧な聖人君主には共感しにくいが、イエスキリストには共感出来る、何故なら人生には無駄と思えることが沢山あるから。
蚊に刺されるとか、強面の人間に強引に勧誘されるとか、町内会の集金をするとか…自分の苦しみが軽んじられるとか、自分自身で自分の苦しみを軽んじてしまうとか、自分自身が信用出来ないとか、どうして骨が欠けて生まれてきたのだろうかとか、どうして毎日が苦しく思えるのだろうかという…自分の人生にとって「この無駄」さえなければもっと楽しく、また他人の為にも成れたのにという葛藤が常に起る、それが実際に生きるということである。

 

家で寛ぎながらお茶を飲み、聖書を読んでいるその時には確かに心は落ち着いて、静かに祈っている。
祭壇を前にして「とりあえずの神聖な場所」で個人的に好きな祈りを祈っている時には、舌はほぐれ、声も楽に出る、何も怖くない。
昔、大勢で法華経を唱えたときもそうだった、皆で「祈り」に向かって突き進んでいるただ中で人は、信じられないほど楽観的になる。
だから多くの人が集まって祈ることは善い事なのだ、自分自身のパワーのネジを緩めておく事は、その人をエネルギッシュにすることが出来る。
ただ、それは「守られた祈りの輪」に於いての話だ、ミサなり、題目なり、異言なり…それは「内的な集中」に於いての祈りである。

 

私も内的な集中は大好きであるので、祭壇と称して、小さな蝋燭の灯り以外何も置かずに祈っている。
これはこれで大事な祈りだと思っている、朝、まず祈ることにしている。

 

この事に関してはどのような宗教的階級の人に「何か一つの宗派に絞らなければ自身が崩壊する」などと言われても私は冷静で居る事が出来る。
確実に言うことが出来るのは、「それが許されているという確信が芽生えた」ということ。

 

さて、この内的な祈りの中では人は安全で居られるが…人が惑わされるのは一歩自宅を出てからである。
あるいは自宅に居ながらにして、同居人の目を気にしたりするときに、漠然と他者に対する反発心のようなものが芽生えるときに、人は祈りから外される。
新しい心揺るがす情報を意図せず目にしたときもそうである、嫌なニュースを見たとき、私自身の個人的な倫理観に反した映像を偶然見てしまったとき、あるいは急に叫び声が聞こえたり、サイレンの音が響いたり、地震が起きたとき…襲われたりしたときに…人は祈りの状態の輪の外側に簡単に出てしまう。
自分を揺るがす物事が起ったときに、反射的に、恐れから怒りに達したときに、人は祈りを忘却する。
私は祈りを忘却する。

 

ここで諍いが発生する。
ここで不信が発生する。
ここで絶望が発生する。
あくまで内的に分断が生じる。

 

思ってもみなかった出来事というのを私は幼少期に体験している、男に襲われたのだ、顔も瞬間的に全く全て忘れてしまったので年齢も一切わからない。
そのようなことが度々起った、度合いは様々だが、「外を歩いていたら急に太陽が無くなった」位のショックを受けた、計8回ほどである。
私は一生この出来事から抜け出せないと思うし、このように未だに恐れを抱いている事に対して実際にはかなり恥じている。
いい歳をして全く消化出来ていない事を恥じているので人前では一切言わないようにしている。
当時、私は普段から「内的に集中する祈り」を日常的にしていたので、自分の安全な状態に於いての祈りの実感は常々あった。
だがそれは家の中に於いての安全でしかないと思い知らされた、当然の事ながら私の祈りは魂の内側で中断された。
それ以降はだいぶ虚しい状態で過ごした。

 

突発的な事故、しかもそれがおよそ自分以外の誰一人にも伝わらないような状況に於いて人は祈れるだろうか?
例えば、ダム湖をボートで楽しく移動している最中に誤ってダム穴に転落してしまった…そのようなとき、祈れるだろうか?
コンクリートワームホールに投げ込まれながら、まだ意識があったのなら、完全に絶望すると私は思う。
エレベーターに閉じ込められたりするのも同様である、これらが全く「宇宙で自分しか関知しない苦しみである」事を究極的に知らされたとき、人は祈れるだろうか?
縋る祈りではない。
不幸に対する問いかけでもない。
ただ祈りの内に在るということが到達可能だろうか?
常に根源的な配慮を内的に行う事は可能だろうか?

 

食べ物が喉に詰まったり、イレウスで死にかけるとか、何だって良い、とにかくそのような究極的な危機に対して私が思ったのは「最早可笑しい」という事であった。
自分自身に対する嘲りであった。
脚が肉離れし、身体が動かなくなったとき、回復しない骨の欠けを発見し、仕事を辞めたときに思ったのは自分の苦しみの一切が小規模で、尚且つ、その小規模な苦しみにここまで振り回されること…その苦しみの一切に意味が無いということへの痛烈な感情だった。
即ち、祈りの外側に押し出され、嘲りの中に私は放り込まれたように感じた。
もう少しで入眠するというその時に股関節の痛みで目が覚める時、思わず「畜生」と呟きたくなる。
寝られさえすれば痛みは遠のくのに、寝るときにすら痛みが邪魔をする。
そしてこの痛みは、特段大きな人間的ドラマや同情を内外にもたらすものでもなく、単なる小規模な障害でしかなく、誰にも伝わらないようなものでしかないということに心が折れそうになる。
痛みは嘲りの感情を増幅させる、痛みは恐れの感情を増幅させる、痛みは無関心を増幅させる。

 

内的に集中して祈るという事象は私の中に常にある、が、全ての源という漠然とした「神」、何処にでも宿っている全てに対して私の痛みを口にしても、それがあまりにも無意味であることはわかりきっていた。
私の骨はともかく「何処にでも」あって、どうしようもないということだけが答えだからだ。

 

事象として私は常に未完であるし、未達成であるということが段々罪悪感に変化してゆく。
今日も出来なかった、描くという行動はしていても描けていない、今日も駄目だった、今日も駄目だった。
その状態だけが年齢と共に積もり積もっていって私を押しつぶすのは傍目にも明らかだろう。
この内的な鬱屈状態と全く同時期に、両親と魂の段階で和解したように感じたので、私の法華経以外の祈りがタブーであるという感覚そのものが薄れ、ロザリオの祈りをやりはじめた。

 

エスキリストの苦しみの神秘、実際の人生としては辱められただ死んだこと。
栄えの神秘はイエスの復活に思いを馳せるのだが…言うまでもなくこれは「一度死んで生まれた後の話」であり、死後の話である。
冷静にこれをやると、一つ一つの珠の中にイエスが宿り、その中には傍目に無駄としか思えない苦しみの物事がある。

 

その時に、言葉無き全ての源と、人間、または厳格な法華経の父である大聖人様との間に、大きな「天の重み」のようなものを感じ、私は頭で考えずに語りかけた。
カトリックのマリア様、とは言い難い。
聖母、とも言い難い。
全ての御母…しかしこのロザリオの珠のたった一つにすらも「世界」が宿っていて、そこに私が「行ける」事を考えると、その重みのことは聖母に近いものを示すだろうから、母…もとい「遍く世々の御母」と自分で思い浮かんだ名を呼ぶのがふさわしいような気がした。
遍く世々、ロザリオの珠の一粒、私の認識出来ない数多の世界、数多の世、世々、それらを余すこと無く見ている母のような存在を私は感じた。
これは内的な確信というもので、この確信についていくら言葉で説明してもそれは観測可能な事象ではなく、観測不可能な私の主観である。

 

私は思考せずただ、遍く世々の御母と思った、実母ではなく遙か彼方の根源的な原始母である。
「内的に集中する祈りの外側で、外的に常に祈ることは可能でしょうか」と私は訊ねた。
絶えず祈りなさいという言葉が内的に集中する祈りを指すのなら、世の人々は皆一日中没頭したり、確かに某宗派のように一日の内に法華経を五座三座したりせねばなるまい。
でもどんなにそこで集中していても、いざ「内的な祈りの輪の外側」に出たら人格が保たれないようでは、絶えず祈るという事は綺麗事でしかなく、世界に対して配慮をもたらすことも出来ない。
すぐに、遍く世々の御母から…可能である、という返答があった、言葉ではなかった。

 

「実際にはどの祈りの文言を使用したらいいのか、祈りの文言にはタブーはあるのか、宇宙の摂理として、他の教義を重複させてはいけないのか」と私は続けて訊ねた。
安心しなさい、という返答があった、これも同様に言葉では無かった。
そして唐突に、目の前の事象について常に、反射的に快不快を覚えるその前に、適切な文言なり象徴なりを思い浮かべて祈ろうという祈りが浮かんだ。
心を広くする祈りです、修行ですというような感覚が湧き起こった。

 

「外的な祈り、注意の祈り、修行の祈り」…絶え間ない糸の祈りが思い浮かんだ。

 

はじめのうち、何を馬鹿なと自分でも思っていたが、私は先に述べた理由から外に出るのが非情に恐ろしい時が多々ある。
神様お助け下さい、私をお守り下さい、南無妙法蓮華経…何でも良い、これは悪くないが、縋る祈りである為、他者への配慮が無い。
自分から他者を認識したらとりあえず心の中で「挨拶をするのではなく」祈るということを私は実行した。
他者というのは遍く全てである。
怖い気配のある人も含めて、である。
もし防犯の祈りというものがあるのなら、私はこの「恵みがありますように」「さらなる御助けがありますように」という自発的な外的な祈りをあげたい。
怖い気配の人とすれ違うとき、または何となく後をつけられている気がしたとき、いたずらに自分自身を欺くような事はしてはならない。
見て見ぬ振りをしたり、人を疑うことを自分で責めたり、感情的にその恐ろしいと感じた人に(言葉には出さずとも)親切に、人間的な和を保とうとすることには意味が無い。
私は自分に、良い人間になる事を人生の目標にしなくてもよいと言い聞かせている。

 

そして一番は、どのようなときでも…嘲りでは無く、信じるということに身を置いていたい。
自分自身を大切にしながら他者の「魂を」配慮すること。
それがこの「目に入る事象や他者に反射的な判断を下すよりも先に恵みを祈ること」であると私は感じている。
これが今のところ私の内面的防犯であり、内面的な善行でもある…というのも以前よりもずっと外に出やすくなったからである。

 

何処へ行っても、心が波立つその前に祈りを口ずさめば、事象と反射との間にもう一つの世界が生じる。
だから何処へ行っても、遍く世々の御母が見ていて下さる、私はこの実感が湧くときに天から糸が垂れ下がるイメージが生じる。
この糸はアリアドネの糸なのだ。
迷いから私を救ってくれる糸なのだ。
繋がっているから大丈夫だと、確信出来る糸なのだ。

 

これを人に話したら、私は夢想の人になる。
反射的に判断を下す前に一つのフレーズや象徴を思い浮かべるというのは祈りというよりも思考方法であると諭されるかもしれないし、原始母的な存在に対しても、これを事象として説明したらやはり、おかしな事になるだろう。
心がこのようにモヤモヤしたら、私はロザリオを祈る、あるいはただただ糸が絡まりましたといって「天の重み」に上げてしまうことにしている。
何故ならこの主観的真実を証明することなど現世に於いては不可能だからだ。
私は誰とも論争する気も無いし、聖母マリアもいる(在る)と思っている。

 

天の重みに私は祈り、糸に触れる。
これは絶え間ない糸の祈り、もし不安な人がいたらこの糸に触れるといい、その不安は人間には癒やせない。
薬物でも癒やせない。
どんなに愛している人にも癒やせない、誰にも癒やせない、どのような地位の在る人にも、どのような防御策を講じても、他者への恐れや不安は癒やせない。
人生の無意味さも癒やせない。
でも人生そのものの無意味さを味わったのは確かに、キリストその人である。
事象を超えた物事を体感するその時に、世界は一つの珠に宿り、遍く世界は祈りの糸によって互いに繋がる。

 

マリア様、と私はあの摂理を呼ぶことが出来ない。
教義上呼ぶこともあるかもしれないし、ないかもしれない。
なぜこんなにも、地上の教会、地上の信仰は堅苦しいのだろうか。
洗礼を受けているか、どの宗派に属しているか、どの祈りを唱えるかで何故、あの重力に触れているか否かを量られなければいけないのだろうか。

 

遍く世々の御母よ、哀れみたまえ
全ての源には言葉は無いが、あなたには、その手前の物事を「果たしてこのようなことを願ってよいのか」という風に、訊ねることが出来ます。
訊ねて返答があれば、それはもう許されている。
返答が無くとも、あの重力は糸のもつれをきっちりと認識して、持って行って下さる。
既に祈りは、聞き入れられている。

 

全ての祈りが聞き入れられているのを、私は感じている。
私は内外の断絶を超えたい。
私は、遍く世々の御母に絶え間ない祈りを捧げたい。
何故なら願いが「聞き入れられている」からだ、叶っているのでは無くて聞いて貰っているのだ。
絶えず御母に観測されているということを私は、恐ろしい思いをしたあの時の私に、今、祈るのである。
それを御母は聞き入れ、祈りは内外の輪となり、時空を超えて数多の世界を結ぶのである。

 

 

 

 

 ※この祈りについてこうして書いて公開するということについて「是」と私は考えています。

私は特段日蓮系やカトリックを批判しているわけではなく、むしろどちらも素晴らしいと思っている人間です。

聖霊刷新については「人間の普段使っていない脳の部分」などが感化されるのかなという気がしています。

追記:聖霊刷新というとカトリックの一部でも行われているようですが、私のイメージでは、聖霊や異言といえばペンテコステ派(妹はこの宗派です)、と解釈していました。

 

 

 

 

 

絶え間ない糸の祈り


恵みがありますように
これは私の心の内側の秘めたる祈り
秘めたる確信
遍く世々の御母に
言葉にするのを許された
私の真実

 

この祈りを歩きながら自分の心の内で唱えます、歩きながら、あるいは家事をしながら、仕事をしながら唱えます
目に入る事象について唱える祈り
それがこの祈り
絶え間ない糸の祈り

 

人とすれ違うときに心の奥底で唱えたり、車や自転車で通り過ぎる人々が目に入ったときにさっと十字架なり、光の鳩なりを思い浮かべます
特段十字を切ったり何か口に出して唱えたり、微笑んだり、改まって挨拶したり、じっと見つめたりなどはしません
それが本当にその都度毎の本心でない限り
芝居になってしまうからです

 

仮に親切さが本心だったとして、それは祈りではなく私の個人的な愛着になるからです
私が自分に課しているのは全ての人に「気持ちの上で」親切にする事ではありません
自分にとって心地のよいことについてだけ唱えるわけでもありません
これを唱えることによって…事象として恵みがあるかどうかについては特段思考には留めていません
事象として観測可能な幸運よりも
観測不可能な実感
天からの糸を確かに手繰っているという実感こそを
私は祈りと言いたいのです

 

目に入る事象の中には…
見たくもない事柄や
嫌な振る舞い
根源的な恐怖
恥への恐れ
そういった自分自身の危機を含んだ事柄に対しても、「思考や感情が即座に反応するその前に」、ひとまず、「恵みがありますようにと唱える」事にしたのです

 

恵みがありますように
さらなる御助けがありますように

 

祈りは思考停止だと
恐れる人がいるけれど
この文言を「日々の事象」と「自分の思考反応」の間に置くことによって、意識的に自分自身に「間」が生じます
この間が、時間を超えた瞬間なのです
冷静になる瞬間なのです
反応のその前に間を置くことによって
思考はさらに純化します

 

本当は自分は何を考えていたのか
本当は何を言いたかったのか
何を確信したのか

 

この祈りが祈りであると私が実感するのは
「確かに天と糸で繋がっている感覚が在る」からです
祈りによって常に維持し、他者にも意識を向けること
これが私の「絶えず祈りなさい」という言葉への確信です

 

この祈りは「注意を払う祈り」です
絶え間ない注意の祈りです
絶え間ない観測の祈りです
絶え間なく
天からの糸を手繰っている
絶え間ない恵みの祈りです

 

糸がもつれたように感じたら
さらなる御助けを
もつれた糸をふわりと天にあげるように
御母に願えばいいのです
このときに胸が軽くなるような確信があれば

 

それはその存在が確かに在るという証拠だと
私は思うのです
その事象についての観測など
誰も出来っこないのですから

 

胸が軽くなった事についての感謝を、さらに祈ればよいのです

 

糸で繋がった世界の果て
あるいは珠のたった一つに
宇宙の御母、遍く世々の御母は常に居て
余すところなく
数多の世界を見つめているのです

 

私が
教義や祈りの作法についてあれこれと思い悩み
一体自分がどの教義を採択し
どの祈りを
思考の上で是とすべきか、どの教義のどの思想がどのように作用するのかをただ考察するのを止め
ふと、心に浮かんだ遍く世々の御母に、どうしましょうと相談したときに
確かに
ただただ「遍く世々の御母」としか私には表しようのないあの存在、あの重力は

 

絶え間なく祈ることを是としてくださいました
分け隔て無く祈ることを是としてくださいました
模索を是としてくださいました
よってこの「目に入る物事についての祈り」が
内部から急に湧き出でたのです

 

それが自分に課されたような気がしたのです

 

遍く世々の御母

 

私は天の重力について
もつれた糸をすぐに持って行ってくれるこの不可思議な重力について
あなたをこう呼びます
彼女は重力そのものです
観測不可能な天の重力そのものです

 

恵みがありますように
これは私の心の内側の秘めたる祈り
秘めたる確信
遍く世々の御母に
言葉にするのを許された
私の真実

 

私はこの祈りを歩きながら自分の心の内で唱えます、絶え間なく、「認識した何か」についての反応として祈ります
目に入る事象について唱える祈り
それがこの祈り
絶え間ない糸の祈り

 

ちっとも「楽しく」ない祈り
ちっとも「傍目に美しく」ない祈り
全く以て「何一つ特別ではない」祈り

 

時に苦しい祈り
思慮分別すらもただの反応に過ぎぬと
自分の反射に足止めを課す祈り
一時停止の祈り
だけれども確かにその間を伝って糸は垂れてきます
絶えず
分け隔て無く
他者に対しての根源的な配慮を、天からの糸を手繰って行う祈り

 

絶え間なく
恩寵は広がり
私はその糸に絶え間なく触れていたいのです


誰にでも出来る祈りを
私は今日も祈ります

 

これを私は「絶え間ない糸の祈り」と呼ぶことにしたのです

 

どうかこの祈りの糸が七色の、平和をもたらす糸でありますように

 

 

 

 

 

 

【詩】小さな祈りを自分に課すことにしたのです

 

小さな祈りを自分に課すことにしたのです


課しているのは恩寵です
課しているのは恵みです
課しているのは配慮です
それを天を介して私は自分に課すことにしたのです

 

恵みがありますように

 

だけどこの祈りは
実際には口に出してはいけないのです
言葉にした途端に
枯れてしまう祈りです

 

何故なら祈るということが
演じる事になってはいけないのです
誰にも聞かれないのならば私は口に出して祈ります
そうでなければ心の中だけで
自分の意志で配慮を行うのではなく
小さく射るように祈りを唱えます

 

すれ違う数多の人に
影のように映る大勢の誰かに
恵みがありますようにと瞬間の祈りを行います
目の前の人に
一呼吸置いて
それが愛着の在る人なのかどうかはさておき
恩寵という文字や象徴を思い浮かべます
これが私の一番の
実践的な祈りです

 

そんなことはおかしな事だと
きっと多くの人が言うでしょう

 

このときに自分の感情が暴れるのを私は見ます
私の纏うぼろ布も咄嗟に言うのです
こんなことは意味がない
こんなことは誰も望んでいない
目の前の人間はむしろ敵である、赤の他人である、恩寵なんて望んでいない
そう叫ぶ私を私は見て、このぼろ布のもつれ、糸のもつれ
整合性の取れなさを
そのまま
すべての「母」に託します
すべての源に託します

 

全ての母よ、もつれ合った糸を解いて下さい
こんがらがった結び目を解いて下さい
私の纏うものをどうか
もう少し
あの方に近づけて下さい

 

私が自分の魂に課しているのは配慮の精神です
しかし配慮の精神を自分の感情に課すのではなく
全ての源を信頼し
その源に
配慮を頼んでいるのです
私が「信じて」いるのは恩寵そのものです
恵みです

 

けれどもそれを言葉で「主の恵み」と言うのは憚られます
だって私には主の恵みが何であるのかが
どうしたってわからないからです、何を読んでもわからないからです
何もかもに線引きをしてしまうのも
どうしてか
わからないのです
だからこのわだかまりも全部
すべての「母」に頼みます、もつれ合った糸を解いて下さいと頼むのです

 

そうすると胸のあたりが軽くなり
私は
すべての源が本当に私の言葉を聞き入れてくれるのだという事を確かに
祈りの内側に於いて「知る」のです
これが信じるということで
祈るということで
傍目には
滑稽なほど
哀れなことです
そして滑稽であればあるほどに、自分が、恵まれていることを私は「知り」、より一層祈るのです
祈らずにはおられないのです

 

祈らすにはいられないのです

 

私が何に祈っているのかを
私自身すら知りません
何かに当てはめようとしても
うまくゆきません
それでも私はあり合わせの祈祷書に書かれた文言で祈ります

 

恵みがありますように

 

外に出るのが怖いと思った時
恐ろしい記憶を思い出したが為に人間を怖いと思う時
その時にほど
私は心の中で
他者への祈りを射るのです
すれ違う誰かに
毎日顔を合わせる人に
愛している人に、大事な人に
信仰の在る人に、信仰の無い人に、人間を嫌いな人に、知らない人に
天を介して恩寵がありますように
自分の愛着の持てない動植物にも
恩寵がありますように
自分から見て嫌だと思う振る舞いに対しても
先ず
天を介して恩寵がありますようにと祈る事にしたのです

 

御助けが働きますようにと祈る事にしたのです

 

これが祈りだと
深く感じるのは、消えることのないように思えたわだかまりが消え
尚且つ、少しの努力を要するからです
欠片ほどの気力と
すぐに逃げ出そうとする心を制する「信じる」力が必要だからです
このようなことが私の小さな十字架であり
僅かに手に持てるぶんだけの
重荷であると、私は確信したのです
毎日があの丘へ辿り着く道のりだと思えば
その実これは
容易いのです

 

全ての源の恵みがありますようにと私は
天を介して
心の内側から至る神秘の糸を手繰りながら配慮します
天を介して
自分の行った至らない物事への償いを実行します

 

恵みを実行します

 

これが私の出来る小さな働き
小さな喜び
小さな悲しみ
小さな祈りなのです

 

 

 

 

 

【詩】四万十川


四万十川をまだ見たことがない
あなたの青春も見たことがない
それでも水滴なのだ、私たちはいつだって水滴なのだと私は言って
あなたの嘴を撫でる

 

濁流の内から湧き起こり
たった一点の、対の瞳を持った私よ
静かに根を張りなさい心の大河に

 

大河から湧き起こり
たった一粒の命を持ったあなたよ
私とこの瞬間瞬間を死して尚
永遠に生きなさい
手を取り
海まで
見たことのない四万十川を渡って行きましょう一緒に
生きましょう一緒に

 


私は心の内に居て
青い夜を見ている
あなたの旅した、四万十川にかかる長い長い橋を
春の匂いを嗅ぎながら渡っている
山の合間から
満月が顔を出している
靄を纏い
虹色に輝きながら こちらに手を振っている
橋を渡り終えて
振り返ると、月は雲に隠れている
もう
橋を引き返してもあの満月は無い


一瞬しか到達出来ない場所に私たちは常に居る

 

あなたの嘴を撫でながら私は言う
一緒に死にましょう
私とこの瞬間瞬間を死して尚
永遠に生きましょう
見たことのない四万十川を渡って海まで
行きましょう一緒に
全ては濁流の内から湧き起こり
瞬間毎に死して尚生き延びて行く
誰かと死にたいと思ったのは
はじめてなのだ

誰かと生きたいと思ったのはその実 はじめてなのだ

 

私たちはいつだって濁流の一点であり、満月である
私は
あなたの嘴を撫で
見たことのない場所まで一緒に飛びましょうと
挑戦の約束をする

 

永遠の渦へ

飛び立ちましょう四万十川へあなたと 一緒にまだ見ぬ故郷へ還りましょう

未来へ 生きて行きましょう 愛しい鶴よ