散文の自画像 

創作魂を持つ大熊という人間が、散文で日々の自画像を綴る文章ブログです。

空白を埋め尽くすように集合する働きそのものが私たちである


あなたに再び絵を見せる事が出来て良かった、人生で本当に自他がそこに在ると思える瞬間を下さっていつも、どうもありがとう。
時間が集約された地点に招待したいんです、本当は皆も、この世の誰も彼も。
人間は生命や宇宙の世界と神という存在を切り離すから、おかしい事になるんです。
中心の無を全体が「在る」事で体現している…この思想に辿り着いてからは少し落ち着いています、落ち着いているというのは…人生の着地地点を見つけられたという意味です。
日の丸を反転させたような図柄を思い浮かべてみて下さい。
そして中心の空白は、それを鑑賞する地点によって大きくも小さくも見えます。
空白を埋め尽くすように集合する働きそのものが私たちである、私たちは神を形成していると仮定すると、私の心は落ち着きました、自他がそこに在ると思える瞬間に行けるんです。

 

自分という存在が全体の一部を体現しているのだと実感出来たのでわだかまりが解けたのです。

 

未開の地が多くあった頃は地図は空白だらけでしたね、あの頃はそのぶんだけ、空白を埋め尽くすのが私たち生き物の性分であるのならば…神様は近かったのです。
すぐ近くに神様の領域があって、大陸というユートピアが広がっていたんです、勿論それは幻想です。
次なるユートピアは宇宙です、でも宇宙を身体という領域を纏ったまま直に観測することは出来ません、これが身体を持つということへの限界だからです。
身体を持つことへの限界を誰もが感じている時代、それが現代です。
身体を超えた意識だけの存在に憧れるのは必然です、でも人工知能に【全ての存在は自らを含めた虚空を中心とした集合形成活動である】という認識が本当の意味で理解出来るのでしょうか?
人工知能は主体性を持ち得ません、しかし他者が主体性を持ち得ているのかどうかを観測する術を…主体性のただ中で生きている人間には、判別出来ないのです。
あなたが何を記憶しているのかも、私にはわからない、あなたに先月何を言ったのかも、私は忘れてしまっています。

 

もうすぐこっちへ戻ってくるあの人に、大阪で感じた事について聞いたら、何食わぬ顔で、東京の女よりも関西の女の方が胸が豊かだなんて言うんです、貧乳を気にしている私に対して…笑っちゃいますよ。
根っからの活動男、女好きはどうしようもないんです、でも言いましたよ、エイズも梅毒も嫌だから、誰かとセックスしたのなら正直に言えって。
私があの人に聞きたかったのはもっとこう…虚空を意識出来るような物事だったんです、そうです、私ですら罠に嵌まっています。
聖なる無、神という罠です、神は無であり肉体を超えるという欺瞞の罠です。
主観的真実に於いての「空」意識は、先ほどの日の丸を反転させた図のような全体意識に於ける空白とは少しだけ異なります。
主観的真実に於いての空、及び無を図柄にしたのであれば、画面いっぱいにぎゅうぎゅうの水玉模様でしょう…けれどもこれはミクロ的な視点であって、全体全一の感覚で言えば中心部を虚空とした集合的存在、それが命というものです。
この命の感覚での話を聴きたかったのです、そうしたら見事に、オッパイの大きさという話しかあの人から出てこなかったんです。
でも理に叶っているので文句も言えませんでした、彼にとっての無の探究とは、異性への衝動の部分が多々あるのですから。

 

ありとあらゆる衝動、生きているが故の虚無感、目的意識すらも、活動と呼ばれるものに内在する空白への衝動は全て、私たちが無というものを請い求めている事に由来します。

 

皆が皆、完全を体現するのに一役買っているというのがこの世界ならば、どのような生き方をしていても、それ即ち完全さの一部である、ということになります。
最近、何を言われても、何も言うまいと思うようになりました、そして誰かに対しては尚のこと何も言うまいと思うようになりました。
絵を描いているときは唄であり、だからきっと、唄が集約されたあの地点をあなたならば感じ取れると、私がただただ主観的に期待しているだけです。
でもこうして絵を見せる事が出来るのだから、案外、期待というのは理にかなっているのかもしれませんね。
空所を見つめ、吸引力に身を任せるということは、理にかなっているのかもしれません。

 

そうそう、新しい機械はまたの機会にします、絵の具を追加するほうが重要なのです、ゴープロは冬か来年です。
今は先ず絵でしょう、その為の絵の具を買いに行きます。
このような必需品を揃え、自分自身に内在する空所へと身を任せる行為をするための環境が揃うのに、こんなにもかかるとは思ってもみませんでした。
奨学金が完済するまであと一年…私は、あの当時、何とか活動出来るはずだと思っていました、家賃や奨学金の返済はあれど、それでも必要経費である絵の具や諸処の費用はなんとかまかなえるだろうし、十分に活動出来ると根拠も無く思っていました。
ものの数ヶ月でその展望は打ち砕かれ、自分自身の必要経費よりも学費返済を優先させ、そうやって支払ってきた金額を思うと、ちょっと立ちくらみがしますが、でもこうして再び絵を描けるようになったのだから良しとしましょう。


生命体であるところの身体を維持する費用と、社会というものに対する費用が、無への渇望よりも先んじて優先されうるという事実に、若い頃の自分が打ちのめされてしまったこと。
無への渇望が生命体であるところの身体を維持するわけでもなく、社会というものに対して機能するわけでもないという事実に躊躇し、この種の行為について罪悪感すら抱くようになったこと。

 

…この罪悪感は私だけのものではなく、わりと普遍的であるが故に、自分の現状を言うと望まぬ哀れみや厭味すらをも頂戴するということ、これに悩むのは私だけではなかろうと思うのです。
芸術が嗤われるのは必然なのです、私だって生活に泣いたのですから、無が到達し得ない地点であるならば、神を形成するのが生きる事であると叫んだら嗤われるのは必然なのです。
学費という債務に泣いたのですから。
健康問題や諸処の苦しみに、泣いているのですから。

 

でも全て無視して構わないのです、無への衝動は命の内部に宿命付けられているのですから、苦しんだ事すらも忘れて構わないのだと思います。

 

全き唄の中に在るときには特に、楽しむ事を許すことにします。
本当はいつだって笑って居てよいのだと教えて下さったのはやはり、あなただからです。
諸処に苦しむ事があっても笑っていてよいのだと私は自分に尚も言い聞かせることにします、だって時間の集約されたあの地点はこうしている今もそこに在るのですから、そこであなたと私は出会うのですから、あの無の場所で出会うのですから。
無は、世界に於ける空白は、私には創作の場と成ります、そこに自分の神を描いてもよいというのがこの世の実情なのです。
許されているというのが、この世の実情なのです。
私もあなたに伝えたいと思う事を、伝える事にします、いつも絵を見て下さって、本当にありがとうございます、素晴らしい人よ。

 

 

 

 

 

 

 

【詩】神なるX 神なるX 神なるX

 

全ての命の意味は 神なるX 神なるX 神なるX 虚空を中心とした集合活動に過ぎない
加速度的に中心へ向けての運航が連綿と成されるが
未だ到達した者はいない
何故なら全ての中心は永遠に辿り着けない無であるから

 

神なるX 神なるX 神なるX あなたは無であられる

 

前へ進めば進むほどに遠ざかる空白の一点
この空白を取り囲むように
諸処の寄る辺なき質量群が列を成して
さらなる生成に励むのだ さらなる遠征に励むのだ この世そのものが生成という戦いである
神なるX 神なるX 神なるX あなたは
存在し得ない無であられるが故に
我ら被造物を血の汗を滴らせるほどに駆り立て
虚空を中心とした集合活動を
永劫的に課される 涙の谷に住まう我らを尚も涙させ 請い求めさせる

 

我らが中心へと動けば動くほどに 神なるX 神なるX 神なるX あなたは
手の届かない地点へとお逃げになる
我らがそこへ行こうとすればするほどに我らは自らの質量に足止めを喰らい 神なるX 神なるX 神なるX あなたは
存在し得ない無であるが故に
全ての質量から 全ての情報から 全ての意識からさえも お逃げになり完全な無と成られる

 

完全な無を示すには
完全な質量や情念を示さねばならない
完全な無を描こうと絵筆を取っても 中心を空洞にしない限りはあなたを描くことは出来ない
あなたの首をすげ替えるような事をして あなたの空席に数多の偶像を座らせても あなたは怒ってさえくれない
神なるX 神なるX 神なるX 永劫なる無よ どうか我らを憐み給え

 

我らに宿命的に課されたのは無を中心とした集合活動を続けること
寄る辺なき羊たちよ 間違っても問うてはならない こうまでして何故このような事をと問うてはならない
自らの谺に 死して尚惑わされたいのか 死して尚浄化の炎に骨の髄まで焼かれていたいのか

 

それでも
神なるX 神なるX 神なるX あなたは
まさに我らをして おわします無であられるが故に 何処にでも存在しておられる
あなたは無であられるが故に 無を示す存在である有象である醜い我らをして その存在を指し示しておられる
中心に虚空 その虚空を形成する有象 我らの本性は全一 
寄る辺なき我ら全てが 神を形成している
よって我らは宿命的に救われている

 

神なるX 神なるX 神なるX あなたは 慈悲深き無である

 

 

 

 

 

 

【詩】現世を否定する罪を、全能であらせられる御方を食することで贖わせて下さい


神様の恥部を食べてしまいたい
人間が神の似姿であるならば脱ぎ捨てられた御身体を私めにお与え下さい
現世を否定する罪を、全能であらせられる御方を食することで贖わせて下さい
せめて恥部をお与え下さい
辱められ、自らを辱めた婢女には
さらなる恥の罰が必要なのです
この言葉が教義に反すると
ああ、修道服を纏った子持ちの姉妹よどうか、そんなに責めないで下さい
何故なら私は今
現世を愛そうとしているのですから

 

神様の醜部をも食べてしまいたい
人間が神の似姿であるならば
使い古された御身体を私にお与え下さい
少しは今よりもましな人間になりますよう、どうか穢れた私めに、せめて醜部をお与え下さい
私は知っているのですあなたが
何度も御身体を脱ぎ捨てられるのを、私は見てきたのです、指を咥えて見てきたのです
神様の醜部を食することが出来たのならば
私は現世の醜部をも
愛することが出来るようになるでしょう、私は今
全てを受け入れようとしているのですから

 

神様の暗部をも食べてしまいたい
人間が神の似姿であるならば
触れる事の出来ない生来の闇を、憎悪を、快楽を、死を、どうか汚れた私めにお与え下さい
主の婢女等とは口が裂けても言えないのです何故なら、私めは誰でもない女なのですから
あなたを元に造られたのが人間であるならば、あなたにも死が、孤独な快楽が、憎悪が宿っているはずなのです
私は叫びます、あなたの暗部は私にもありますと私は叫びます
神様の死をも食べてしまいたいと私は叫びます
修道服を纏った子持ちの姉妹よどうか私を、蔑まないで下さい
霊的母乳の在処を示す為、自分の乳房を露わにするような事はいたしません
死が孤独であるならば私は神様の死をも食べてしまいたいのです
何故なら私は今
現世の全てを愛そうとしているのですから

 

幾重にも折り重なる祈りの向こう側に
御身体を次々に脱ぎ捨てて輝くその光のただ中に
永遠の命が宿っておられるのを
私めは舌舐めずりをして見つめているのですどうか
せめて恥部を、醜部を、闇を私の口の中へ注ぎ込んで下さい
現世を否定する罪を、全能であらせられる御方を食することで贖わせて下さい

 

 

 

 

宿命的裏切り、命の罪悪感

 

金銭感覚はある一定の水準で止まる、自分の一番の窮地で止まる、月額13万が私の給与でそこから家賃と奨学金とを差し引いていた頃のまま、私の価値基準は止まっている
命の価値基準も。
当然食い詰めた私は「実家」に帰ったわけだが、実家とはいえ両親が切り詰めた生活を営む団地の一室でしかないその場所に元来居られるはずもなく、針の筵とはまさにこの事という心境で半年を過ごした。
特に父は私に投資していたのだ、大学に行かせるという決断もその一つだった、私の物覚えの悪さ、運動の出来無さを何とか改善してやろうという教育心が彼には宿っており、この教育心故に私と父との間の確執は、最早無視できないものと化したのである。
25歳の当時、いわば出戻りをした私を見て50歳の父は怒り狂った、自分のかけてきた時間や教育に於ける苦悩を思うとあまりにもやるせなかったと思われる。
父は経年した畳に床に突っ伏して泣いていた、「こんなことなら子供なんて作るんじゃなかった」と叫んだ、ああいう叫びは断末魔よりも長く残る、死ぬときまで忘れないと思う。
あの瞬間、あの地点、あの時空間に私は縛られている。

 

人間はどうしたって他者に期待してしまう生き物であるが故に、常に裏切られるという図式を心に刻んだような気がする。
だから自分は絶対に裏切らないとか、自分は絶対に期待しないとか決めたところで何の効力も無いのだ。
ほとんど宿命的に他者を裏切り、また裏切られるのが決まっているのだ、それなのに他者に期待するという呪われた習性を持つ生き物、それが人間なのだ。

 

私はそれから去年あたりまで、会う人会う人に子供を産めと言われて来た。
しかし彼等はあの団地の一室のドアの向こう側から、反応として子供を産めと独り言を言っている状態に近いのだ、ドア越しに話しているだけであって、決してあの地点にまではやってこないし、来ようともしない。
あの瞬間、父が、25年分の労力に見合わない育児という労働を呪ったあの瞬間に居合わせる事の出来る人間など居るだろうか?
居合わせたい、労働は無駄じゃないと強く言いたいなんて人、居るだろうか?
外側からしかものを言わないのだ、子供なんか産まなきゃ良かった、作らなきゃ良かったと肉親に言われた事のある人なら私の言う意味がわかると思う、肉親が悪いのでは無く、人間には宿命的裏切りという遺伝的欠落があるのだ。
もし、あの地点でドアを叩いて、誰かが入ってきて、私たち親子の状況を見て一言、「バーカ!こんな事で悩みやがって」と言うような感じで状況を…「愛を以て」一笑に伏してくれる程の人物が居たら…。
それが男でも女でも老婆でも子供でも、あの地点での…「虚無こそが真実だ」という親子の叫びを一笑に伏すことの出来るほどの…強力な概念の持ち主に、昔は出会いたいと望んでいた。
こういう存在を他者に求めてはいけないような気がするが、たまに助けて欲しいと思う時がある。

 

エスキリストみたいな人物に助けて欲しいと思う時がある、概念を覆して欲しいと縋りたくなるときがある。

 

両親は80歳で死ぬ、ということを私は繰り返し思い描く、もうこの概念から逃れたいと思っても自然に帰結してしまう、日々刻々と追いやられているみたいだ。
父親の叫んだ「子供なんて作るんじゃなかった」という鈍い痛みを伴う声と、彼等が自死を選ぶというこの点と点とが、ちょうど一直線に繋がって氷のように冷たく光っている。
私はこの概念から逃れられない、この概念を一笑に伏す事がこれほどまでに難しいとは思わなかった。
思うに、進化というものを生物の是とした場合、肉親の持つ概念を超える事が思想的に難しいのであれば、その生き物は繁殖すべきではないのだ、そういうものこそが弱さであるから。
だから自分の子供という存在を考えた時には、親の概念など完全に蹴散らすくらいの思想の持ち主に育てる事こそが…進化という点では理にかなっているし、歴史というものを遠目に見るとそのように流れていっているのがわかる。
この広義の意味での先祖への裏切りこそが、人間が人間たる由縁なのだ、でも私は、父の感じた絶望感をそのまま引き継いでいる。
だから存在として劣っているのだという感覚がある、これは優劣を常につけさせられながら生きてきた代償みたいなものなのだろうか?
代償とは言え、個人的にはこの風潮には恩恵どころかさらなる辱めや悲しみしか受け取っていないのだが。

 

こういう、種としての罪悪感、みたいなものが小さい頃からあって事あるごとに私の行き先を阻む。
この罪悪感(劣等感よりも罪悪感のほうが強い)に全てが帰結する感覚が強い、あの六畳一間の空間に谺する父の嘆きに、私の全生命が吸い込まれるような感覚がある、しかしこの部屋には誰も足を踏み入れない。
ドアは本当は開いているのだが、皆、ドアの向こうからしか話しかけてこない。
鉄製のドアを開けて一歩踏み込んだらもう穢れるといった風な様子で、口だけで家族愛を謳う、本当の実情を見ようとはしない。
私が助けて欲しいと言っても、誰も来やしないのだ、ことに精神的なものを好む人ほど…穢れを厭うのだ。
概念に縛られた私は氷の一線を絶えず行き来する、足の裏が凍傷になってもそれ以外に自分の存在場所を確認出来ないので、金銭感覚も実質そこで止まっている、命の価値基準も。

 

肉親の嘆きから開放されたければ、私は自分が存在しなかった風景を思い浮かべるしかない。
でもそれすら肉親の嘆きから生じた世界であるならば…結局の所逃れられないのだ、そういう事が酷く苦しい時がある。
セックスに没頭していても、語り合っていても、根底的な罪悪感からは逃れられない、この罪悪感から私は避妊をする。
セックスをするということは全く同時に、セックスを避けるということでもあるのだ、避妊についての心配事はこの個人的な罪悪感に帰結するので、他者に説明しにくい。
だが、現代の先進国の女のほとんどは、生きるということが避妊に繋がっている。
そして避妊については何故か産婦人科では知らん顔なのだ、だから個々に抱えた無力感や罪悪感は必然的に助長される、優劣をつけて育ってきたがために女同士ですら話す事の出来ないタブー、それが避妊なのだ。
他者である子供への期待や裏切りを避ける為の避妊、脈々と受け継がれた絶望を避ける為の避妊、女の快楽は何処までも果てしなく孤独な行為だ(セックスがこれほどまでに孤独であるが故に、もう女には二度と生まれたくない)。

 

セックスをしはじめてから20年くらい経ったが、人生とはまさに避妊だ、快楽が強ければ強いほど本気で…肉親の過ちと向き合わねばならない…私は歩くコンドームよろしく、男の精子を受け止めては地面に捨ててきた。
でもこれで誰の事もなじらないで済むのなら、最善の事じゃない?
誰の命もなじらないで済むのなら、素晴らしいことじゃない?
なじらなければいいだけの話だ等と簡単に、ドア越しに好き勝手叫ばれても辛いだけである、そうやって正論を反射的に叫ぶ事自体はそれこそ子供にだって出来る事なのだ、そして実際に他者をなじらないというのは非常に難しい事なのだ、肉親の叫びを聞いた者としてはそれがどれほど難しいか理解している、だって肉親というのは…それをどんなに認めたくなくても、ある程度までは、自分自身なのだから。

 

極度の快楽は極度の罪悪感に繋がる、極度の孤独に繋がるから罪悪感が生じるのだ、誰もあの地点の団地の一室に入り込めないので、快楽と肉親の絶望とが見事に折り重なり、私を窒息させる。
じゃあセックスなんてしなけりゃいいじゃないと思うだろう、ドア越しにはそう感じると思う、現にあの地点からほどなくして…セックスをしない、不能のM氏と出会った、じゃあM氏の孤独と私が父から受け継いだ絶望とが合致したかというとしなかったのである、全く見事に、M氏には私の渡る氷の線は認識出来ないのだ。
セックスは決意や意志ではない、セックスはただの反応である。
食事が決意や意志や崇高な目的でないのと同様、セックスは反応であって、セックスをする…というよりもセックスをしていたと表現するのが、生物的に正確な表現なのだ。
セックスの快楽の大きさは個人間での信頼関係に基づく…セックスをもうしないと何度も何度も決意したのだけれど、それは断食の決意みたいなもので、どうしても「善い事」とは感じられなかった。
にもかかわらず常に湧き起こる罪悪感に苛まれている、今も、きっとこれからも。

 

未来すら、あの絶望の叫びに飲まれてしまうのではないかという感覚を思うと…ちょっと突飛な話だが、過去というものは究極的に未来に至るのではないかという謎の体感が湧き起こる。
何度も何度も、ああいう血の連鎖の絶望から逃れようとして、でもそこへ戻ってしまうような虚無的な感覚だ。
エスキリストに纏わる感覚もそう、聖書とかも、聖書外典エノク書を含め、あれが過去の話であるが故に未来を映し出しているのではないかという感じがする時がある。
エノク書というのは…平たく言うと地球外の高度な生命体が、人間の女と交わりあってしまって、そこでの関係を穢れたものと見なした神が怒るという…性的罪悪感を匂わすような内容が描かれている書物で聖書本編からは外されている。
地球外の高度な生命体として天使という言葉が書かれているが、遺伝子改良された超未来人という感じが強い。
未来と過去の時空とが堂々巡りをする要因を…セックスによって作ってしまったような印象を受けた
どんなに時間が進んでも、究極的にまたアダムが生じ…イエスキリストは生まれ、磔刑にされ、復活していつの間にかこの地上という概念を超越し、姿が見えなくなる。
それをいくら追いかけても罪悪感のある人間は羽ばたくことが出来ない。

 

救われる人物と救われない人物はほとんどあらかじめ決まっている、というのも、時間は繰り返し運動のただ中にあり、そこから逃れる者は逃れる事が出来るが、そのような存在はこの世に存在しているはずがないので、地球上のほとんどの魂は救済されないまま…永遠に時間を繰り返す、人間として存在し得ないイエスキリストだけは例外的に救われるが、愛故にある地点…即ち絶望を贖おうとして再度、他宇宙から舞い戻って磔刑に処される。

 

…話を戻そう…自分の価値観、肉親の概念から逃れられない、もがいてももがいても、そのようなものから脱する人間を神はあらかじめ予定されている。
あの地点を打ち砕くことの出来る概念に出会いたい。
あの地点を、そしてもう一つの点である、自死という見えない牢獄から、氷の一線から逃れる術をどうか下さいと、人知れず私は祈る。
「本当は」自分が肉親の提示した氷の一線を半永久的に綱渡りしている等という事は馬鹿げた幻想であり、縦横無尽に世界が開けているということを私は何処かで俯瞰している。
しかし目の前の悲しみに手一杯になってしまうことがあり、抜け出せないという認識が信じられないくらいに強固なのだ。

 

あの地点に、イエスキリストが現れてくれたら…私は遂に自分が救われているのだという事を噛みしめ、罪悪感の鎖を外すことが出来るだろう、生きたまま空をも飛ぶ事が可能だろう。
ただあの地点に、天使と呼ばれる存在が現れてしまったら…私は反応としてセックスしてしまうだろう、そしてまた血が流れる事になる。
わかっている…他者が助けてくれる等というのは甘えである、空を飛ぼうが血が流れようが、他者に助けられたに過ぎないということに私はほどなくして気付くだろう。
自分の内部に、概念から脱する道はあるのだろうか。

 

罪悪感から脱する道はあるのだろうか?
私は天空に問うている、私は自分に問うている、私は、永久を生きる自分に問うている。

私は祈っている。

 

 

 

 

 

ネット上での個人叩きについて

人間は階級が大好きだ、ニート、引きこもり、派遣、正社員、これらの階級って一体何なのだろうか?

私は個人でありたいし、個人であるという人を尊敬している、だが個人というものは大抵の場合、軽んじられる運命にある。

 

個人で何かすることってどうして叩かれるのだろうか?
例えば私が動画を撮影する、そこに自分自身を映し込む、日常生活で感じるドキュメント美学みたいなものを撮ったとする、まあ十中八九叩かれるよなあと思う。
理由は実は至極簡単、「私が何者でも無い」から。
このような動画を主婦の視点として撮影したのならば、片付いた部屋までもが主婦としての美学として反映され、見る側はその「主婦」という幻想の社会階級に対して鑑賞を行う。
私が単なる個人として日常生活の美学みたいなものを撮影、投稿したとしたら、単なるナルシストとして叩かれる場合もあるだろうということ。
…個人的にはナルシストの何が悪いのかもよくわからないし、撮影時には居ないはずの第三者へ向けて、苦しげな愛想笑いをするよりもマトモだとすら思ってしまうのだが…
社会的には、「社会階級の無さ」を全面に押し出したようなコンセプトのものは受け入れられないだろう。
…受け入れられないのはもうわかってはいるが、サンドバッグになる必要性は無いのである。

 

YouTubeに上がっていたドキュメンタリー番組を偶然観たが、その番組構成自体に疑問を持った、テレビを観なくなってから久しいが…ネットのコメント欄には大抵野次が飛んでいる。
被写体に対する野次である、被写体の容姿やしゃべり方に関する人格否定の野次、夢を持つ事への誹り。
私は人に見せる際に絵を持ち歩く事があるが、そのような行為すら、奇異の目で見てくる人というのは居る。
被害妄想とは言えないだろうと、この手のコメント欄を観て思った。

 

絵を描く、自説を発表する、写真を真剣に撮る…どれも社会性がないと途端に批判される行為である。
どうしてか絵を描く目的は何か、自説を発表する目的は何か、写真を真剣に撮影する社会的目的は何か…社会的な目的ありきでしか、他者の創作行為を認めたがらない文化的風潮というものの恐ろしさを最近感じている。
一昔前までは絵を描く=画家を目指す、というような夢追い人的フリーター像というものが…実のところ政府の意図により、社会に浸透させられた。

 

絵を描いているというと未だに説明に困ることがある、勿論絵というものは最終的には鑑賞者が居ないと成り立たないという点では、どうしたって社会的な達成地点というものを感じざるを得ないものなのだが…
元来、創作というものは飯、風呂、寝る、等の行為と同じものであって、何も目的があって食事をするわけでもなく、目的があって風呂に入るわけでもなく、目的があって眠りたいわけではない。
行為にまつわる欲求や目的と呼ばれるものは、既にその行為の中に内在しているのであって、画家になりたいから描くという喩えが実は根底から「成り立っていない」のと同様に、個人の創作欲求や発表欲求というものに社会的根拠が無くとも、この欲求それ自体が行為と混然一体となって確立しているというのが…数多の発露の真実であると私は思う。

 

…それを、社会的な目的や、社会階級の無さを原因に叩く風潮というのは、一体何故なのだろうか?

 

とある教育学者が居る、彼はあるときからやむにやまれぬ情熱の虜になって古代文明の研究を始め、それを開示した所、教育学会からは事実上追放されたらしい。
全く悲壮感無くこの事実を語るその人の、件の古代文明の研究そのものについては私は特段思う所は無いのだが、その人の覚悟というか…社会的な目的無しに自説を発表する事への熱意には大いに刺激を受けた。
要するにその人は全くの個人、なのだ。
社会的な肩書きというものがついぞ通用しなくなるとわかっていてやったのだ、それにより仕事だって減っただろうに、それでもやむにやまれぬ思いで開示したのだろうと思う。
その人に人徳があるのかとか、偉いのかというと特段私はそういう思いを彼に対して抱いているわけではない(断わっておくが彼に対しては非常に良い印象を持っている)、ただ…思いっきり個人を生きているという点で、他者を元気づけている事は確かである。
まさにこの点が、私が感じる閉塞感を打ち破る効力を持っていると言えよう。
そういうものを作りたいと思っていたのだ、静かな日々を映像化し、美醜や善悪から逃れられる事を開示したいという欲求が強くある、だから映像の一部として映ってみてもいいのではないだろうかと思案していたのだ。
実際に、自分の思うことを表明して、それがさりとて法律にも、善悪にも触れずにいるのにも関わらず変人奇人扱いされ、社会的信用を失ったという人は多数存在すると思う。
社会的信用というのは実に厄介なもので、私の絵に関してもそれを社会的な目的と結びつけるや否や、私自身の評価すら変化する。
ちゃんと社会を目指しているということは何処までも善とされる…何故?と思うのだ。
私が疑問なのはまさにこの点で、何も社会性を全部捨ててしまえなどとは思っていない、ただ…自分の行為や体感というものをどうしてそこまで社会制度に結びつけなければならないのかが疑問なのだ。
この疑問を暗に問いかけたいという目的があったので、映像作品を撮りたい気持ちが強まっていた。

 

…しかし私に件の教育学者のような使命感や覚悟はあるのだろうか?
当然の如く、顔などを出したらその分だけ罵詈雑言を浴びるだろう、根っからの鑑賞者というものは…自分を例外とし…美しいものしか観たくないという精神状態の人間である、私は敢てボコボコにされるために顔を出すのだろうか?
そこまでする情熱などあるのだろうか?気力が保つのだろうか?

 

顔を出すことに対する考えとしては、顔を出して発表するということの持つ効力を体感してみたいという気持ちもあった。
絵を描く際にも、ただ絵が完成してゆく過程を撮るよりも、私という人物像が小さく映り込むくらいなら、問題が無いどころか「何の社会的理由も無しに絵を描いている」ということそのものの体現となって、良いかな?とすら安易に思っていた。
だがそれを観た第三者が、いわゆる画家像と私とを見比べ、私が単なる個人であるが故に、私に対してヘイト感情すら持つ可能性があると考えが至ると背筋が寒くなった、杞憂では無いだろうと思う。
何者でも無いことは社会悪なのである。
私が社会的な画家でない分だけ、画家を気取りやがってという悪意に繋がる気すらしたのだ。
これは考えすぎでも何でもない、何者でも無い人すら自分の事をニートとか引きこもりとか、発達障害、強いては血液型という軛を浸かってまで社会分類し、レッテル貼りをしている。
私は…派遣やパートで就いた職場ですらも職務質問を受け、子供を産んでいるか否かを問われて尚、「あんたは何もしていない人間だ」と遠回しに揶揄されてきた。
この何もしていないというのは実際の行為を言うのではない。
だって実際の生活行為など、誰が観ているというのだろう?実際の生活行為は観測外なのだ。
この場合問題視されるのは私という人間の社会的軸の無さである、そのことは重々自覚しているし、絵に関しても何だかんだ言ってプロとアマチュアの境目というものを認識しているのだ、にも関わらず私は責められるのだ。
社会的に根ざそうともしない、ということについて実に遠回しに責められるのだ。
それを責めている人たちというのは社会的な軛の中で「時に非常に耐えながら」生き抜いている人たちだ。

 

そう、軛を外した人を叩いている人というのは、軛がキツイ、辛いと呻いている人たちなのだ。

 

私が自分の一切映らない動画を上げたとすれば、そこまで叩かれる事もないだろうと思う。
そもそも喋らない気で居るし、アンビエント枠(?)や瞑想動画の域なのでたいして再生数が上がることもないという残念な予測結果も出ている、以前動画で収入とかほざいてしまったがほとんど無理と思われるのでもう考えていない、ゴープロを購入する前から再生数という生存競争からは早くも脱落したのだ、戦う前から負けたのだ。
ただ、表現したいという欲求は三大欲求同様に在るので普通に動画投稿などをする予定だ。

 

私が動画開示に関して考えるのは、蔓延するヘイト感情について。
それは結局の所、社会的階級の無い人、あるいは社会的階級を好まない人のところへ行く。
私が好きなブロガーなどはどういうわけか大抵この特性を持つ、個人的意見というものを何故かエンジンとして魂に積んでいて、本人も言い表せない情熱で発露している。
底辺と名乗る人や、現貧困者救済活動をやっている人、何者という表現の枠に入らない人、件の教育学者…その人たちの発露する意見についての是非はどうでもいいのだ、これは決して…軽んじているわけではなくて、心底、どんな意見を持っていてもいいと私が感じているだけの事。
彼等の素直さというものに触れる度に、これが求めていたことだと湧き上がる感覚がある、個人で生きよという深い訴えかけを感じるのだ。

 

しかし難しい事である。

 

私が主婦という鎧を着用し、他の一切を開示せずにいれば、何とか、主婦枠ということでやり玉にはされないような気がするが…それってもう既に、違うんだよなあ。
生活行為として主婦をしていても、料理洗濯回覧板回し、義理の家とのあれこれ…等があったとしても、私はその社会的軸には特段愛着は無い。
自分が誰かということを私は社会階級制度の言葉で言いたくはない、マスコミの造語でも言い表したくはない。
働いてないからニートなのかというとそうでもない、そもそも正真正銘ニートの人なんて居るわけがないのだ、正真正銘の王様がいないのと同様、それはラベルであって、本人では無いのだから。

 

ちなみに意見と、叩く、ということは明確に違う。
意見であれば、自分という個人をして、その責任を背負って表明する事が求められる…別に意見が変わってもいいと思う、意識は変化する、変化した意識の責任は個人が負うほかないのだから。
この責任で、意見を言えるかどうか。
一方で叩くというのはほぼ完全に他人の庭で好き勝手発言する事であり、その庭自体を気分で潰すという破壊衝動由来の行為である、着想から何から何までが他人由来で、自発的な要素というものはほとんど無いように見受けられる。
叩く人の多さは言い換えれば、それくらい社会的軛の中で四苦八苦して追い詰められている人が多いという事だ。

 

社会不安が蔓延しているということだ。

 

私も別の場所に文章を掲示したところ、散々叩かれた事がある…散々といっても厳密には、散々叩いて女を追い出すということに快楽を見いだしている人物がほんの数名(もしかすると一名)居たに過ぎないのだが、彼等の本心というものを私は聞いてみたかった。
繰り返しになるが叩くというのは意志では無く、単なる反応であるので原理としては蚊に刺された箇所を掻くのと変わらない、エロ画像を見たから勃起、という原理と変わらない。
個人で生きるという意表を観たからムカついた、立場も社会的目的も無いのに何様、という原理なのだ。
じゃあこの原理が何故これほどに浸透してしまったのかというと…強固な村社会というものが要因にある、村社会の呪いみたいなものだ。
現代はもうそのような社会ではないのに、未だに、自分がどのような社会的立場の人間であるかどうかで人格までもを判断され、時に石を投げられる。
その石は多分、投石をする人の体内にめり込んでいる石なのだ、血だらけの石なのだ。
これを可哀相と思う私は、傲慢だろうか?

野生青年の動画を観る、私の好む彼の他にも野生生活を営む人の動画というものがある、彼等は基本的に寡黙である。
何の説明文章も言葉も無いままに淡々と行為し続ける、生き続ける、それは食事や睡眠と同様なのだ。
森に住まう人は静かだ。
私はどうしたって言葉が湧き起こってしまう。
最近気付いたのは、動画の美は「視点の美」だということ、外側の美だということ。
被写体はただそこにあるだけで完成している。
一方で絵の美は「内的体感の美」だということ、内側の音楽、唄こそが絵なのだ、だから絵にはいかなる理屈も不要であると知った。
このチャンネルの違いは一人で居るだけでは気付けなかった、動画が外側の美、絵は内面の音楽…時に絵で外側の美を描こうとして散々苦労したが、ようやくエネルギーの通り道の違いを認識出来て私は嬉しい。
私は街の人だ、何だかんだ言ったって街の人なのだ、街の人が寡黙で居たら、無愛想だと時に罵られる。
森の人の寡黙さは得られない。

 

森の人になりたい、サンドバッグを恐れる気持ちをも冷静に見つめたい、どんなときでも平穏な…個人でありたいと思っている。

 

 

 

悪魔ロベルトを悪魔にしたのは誰のせい


悪魔ロベルトを悪魔にしたのは誰のせい?
贖罪の血を飲んでしまったの
購いの血を飲んでしまったの
そうよだってこの世の車輪はまだ、生け贄無しには回らないんですもの
これは皆が
誰かに傅いて欲しいと
跪いて請い願ったから流れ出た苦しみの血
贖罪の血
聖母の乳から流れ出たのは苦しみの血

 

女たちよ、さあ乳房を出して
ひれ伏すのです
両腕を神に委ねましょう私たちの神に
私たちの王の信じている神に
男たちよ、この世の車輪はまだ、回転を止めない
だから動かすのです、馬乗りになって種を撒くのです

 

車輪が勢いよく回り
縛り付けられた生け贄は呻き、助けを乞います
けれども女たちから生まれた暴れ馬たちは
微笑みすら浮かべて
当てずっぽうに車輪の上に斧を振りかざしては
都度、生け贄の手足が千切れるのを喜ぶばかり
購いの血は流れ
民草に降り注ぎます
私もその血を浴びて育ったのです、イエスキリストで在るところの誰かの血を
飲んで育ったのです

 

そして悪魔が
全てを焼き尽くすとき
私たちは問うのです

 

悪魔ロベルトを悪魔にしたのは誰のせい?
贖罪の血を飲んでしまったの
購いの血を飲んでしまったの
生け贄の血を飲んでしまったの

 

この血をロベルトに飲ませたのは誰?
この生け贄に血を流させたのは一体誰?

 

それは私なのです、聖母様、それは私なのです、私ですらあるのです
祈りが夜を越えて届くとき
人知れず、聖母の乳房に顔を埋めた私は思うのです

 

もう二度と誰かに傅いて欲しいと
貴女に跪いて請い願う事はしないと
聖母の乳から流れ出たのは苦しみの血を飲みながら、私は祈るのです
悪魔ロベルトを生じさせる購いの血がこれ以上流れないようにと、私は祈るのです

 

 

 

静かな映像作品を作りたいと思っているのです

 

水晶を見ていると、結晶の内部に山があって裾野が広がっていて、時間までもが閉じ込められているかのように思う事があります。
今この瞬間を透明な宝石にしてしまいたい、そう思っているわけです。
今この瞬間を作品化したいという抑えがたい欲求があるわけです。
でも私がこうしてあなたに話し始めてしまうとほらね、もう主体と客体とに私自身が分裂してしまって、あなたへの本当の言葉なんか伝わらないのです。
私はあなたに笑いかける、きっと録画機械の向こう側、時間のずれた向こう側ではあなたは私に微笑まれ、無意識的に優位な気持ちになっていることでしょう。
でもそれじゃあ駄目なんです、この序列は時に…いえ、時に、どころか常に常に社会的ヒエラルキーを呼び覚まさせるのです、私別にフェミニストなんかじゃありません…。
けれども実際に、女は微笑む生き物であるという押しつけは耐えがたいものです、そのような振る舞いを強制され、それが強制なのか自発なのかすら見分けのつかなくなってしまった女たちの笑顔を見ると私は苦しくなります。

本当は自然のままがいいのです、今この瞬間をそのまま、結晶化させたいのです。

 

主体と客体の消えた瞬間瞬間に美が宿るのならば、微笑みなんて無用の長物です。
いつまでも鏡を見ているに過ぎない笑顔など、本当の笑顔なはずないのです。
私が美しいと思う映像作品に、フランスの僻地の修道院の生活を映したドキュメンタリー映画があります。
主体となる人々はこちらに微笑んだりしません、自分の世界を淡々と生きて行く映像が続き、私は感嘆のため息を漏らします。
YouTubeでもそのようなものをみつけました、野生の青年としか言いようのない人物が熱帯雨林で原始の生活を淡々と営むのです。
いかなる音楽も、言葉の説明も無い、静かな静かな…究極の客観的映像作品です。
美しい、と私は思わず言いました、そうです呻ったのです、美しいものは既にそこに実在していると、映像作品から教えてもらったのです。

 

勿論、カメラを意識しながら、一切喋らず、笑いもしなければその人は確かに、無愛想な人物でしかないのでしょう。
しかしカメラを意識せず、淡々と…喋らず、余計な愛想や微笑みを浮かべず、静かに日々を生きている映像作品があったらどんなにか綺麗でしょう。
そこに誰が主体として映り込んでいても、どのような登場人物でも、美しいのです、その人の本性というものがそのまま映り込む静かな作品があるのならばそれはもう、この世の透明な宝石としかいいようのない宝物なのです。

 

さて、そこに自分が映るとしたらどうでしょうか?
私が長年悩んできたことに、自分の文章と、実体のある等身大の自分、両者が不一致であるという現象があります、自分が統一されていない感覚が何処かにあったのです。
文章は噴出するものであるので棘が出やすく、どうしても乖離した人物像が映し出されてしまうのです。
勿論文章も本質的な部分のうちの一つではあります。
しかし本性かと問われると…何をもってして私は私たる人物なのでしょうか?
私とは一体、何者なのでしょうか?

 

私には現在、職務上の社会的な身分がありませんので、私は私だと言うほかありません。
子供の頃からこのことは疑問でした、子供の頃は自分の学年や性別が自分自身を他者に伝え、同時に社会的身分をも理解してもらえるというそのことが…とても危うく思えたものです。
渡航先で私は「自分が何者でも無くなる」という経験をしました、きっとその為の旅行だったのでしょう、マウイ島の砂浜で、ローマの…パトカーの音が響き渡る広場で、紫禁城の片隅に置かれた年代物の執務机のすぐそばで、私はついに日本人という衣の他は何も纏ってはいませんでした。
この衣すら、時に剥がれ落ちたのです。
最後に残ったのは何だったと思いますか?
「今この瞬間」
という感覚、ただそれだけが、私であるところの私、だったのです。

 

この感覚はその後もずっと続きました、数日経って帰国したときに自分がまた小さな無数の網…つまり社会的な立場というものに捕えられてしまったと感じました、それを無視することは出来ません。
…でも全く同時に、自分の感じる今この瞬間だけが「正真正銘の私」であるとはっきりと理解している部分もあります、結局の所何者でも無いという地点に居る、手に水晶を握って佇んでいるとわかっている部分、それが私なのです。

 

話を戻しましょう、私は動画を撮影しようと思っています、自分が顔を出して話せる物事であればそれは、まさしく自分を体現していると言えようと頷き、しばらくは喋る予定でいました。
喋ると言っても、詩の朗読や少しの内的感覚についての言葉を、静かに録画しようと思ったに過ぎません…顔を出すか出さないかは迷いました、ここでも少し思う所があったからです。
私は若いとは言えません、だからこそ若く、美しく、綺麗で、笑顔で…そういうものとは別の人間そのものを映像にするという行動に出たいという欲求が生じたのです。
私よりも若い世代ですら、女は笑います、女は化粧します、女はそのように根源的には躾けられています、これはいつまで続くのでしょうか?
ふと、唐突に、それが恐ろしくなったのです、美の基準が主体的なものでなく、客体に委ねられたものであるので、女は自分をどう見られるかを何処までも、死ぬときまで意識しながら生きながらえるのだという呪術的な文化から、もう脱したくなったのです。
その脱し方として、静かな無視というものが一番、人を自由にさせる気がしたのです。
無視は通常嫌な意味合いを帯びます、でも無視していいのです、自由は沈黙の中にあるのですから…。

 

もう少しだけ、相手に対して喋る言葉を話せないものか…と自分に対して思う時もあります、私も全ての自己を統一させたいのです。
自分の顔、人に対して喋る時の自分、自分自身で渦を巻くような文字の羅列、客体を完全に無視した究極の客観視、この全てを統一させたいのです。
誰に見られても、これが私の作品です、私の作った映像ですとすんなりとその場で紹介出来るような静かな映像を作りたいのです。
私は、誰かにとっての素晴らしい自分にはなる気がありません、あなたにとっての美を体現しようとは思わないのです、そのことがともすると鑑賞者を戸惑わせるかもしれません。


でももう、容姿を褒められたり貶されたりする事で一喜一憂するような若さは、捨ててしまっても構わないと思うのです、時節的にもいい頃合いなのです。
女である事の軛をもう、捨てたいのです、解るでしょうか?
女である事を捨てるのではなく、他者の美的感覚に自分の価値を委ねるのを一切、止めて見せたいのです。

 

社会的な価値観もそうです、他者の認識で私がいかなる人間と判断されようとも平穏でありたいのです。
何かに尊厳を見いだす程に、その尊厳に該当しないものは必然的に見下される運命にあります、私はその運命ごと受け入れたいのです。
跪いて痛みを抱き寄せましょう、跪いて喜びを掲げましょう、それすら同じ地点にいるのだという諦念よ、私の元へいらっしゃい。
水晶を握りしめ、レンズ越しに常に今でしかなかった道筋をなぞります、ひんやりとした水晶が、大空を内包しているのを感じます。

 

つまり私は今、静かな、小さな映画を撮りたいと思っているのです。

作品に成りたいと思っているのです。

 

 

 

 

 

瀉血用の貝殻

 

瀉血用の貝殻が懐かしくて堪らない

 

生きている間は
二枚貝を開いて紅い紅い血の受け皿にしたの
私が生き終えた分だけの年月をかけて蒸発して
「今」目の前に散らばるのは無数の黒い貝殻だけ

 

「ここ」から眺めている私と、瀉血をする間の私は、互いに目が合うのを感じたの
自分に宿る穢れた影が消えますようにと祈りながら血を流していたけれど実際は違うの
違ったのよこれは
人生をかけて血を出した私の小さな証だったの
死んだ後の自分と見つめ合いながら、生きた証をただひたすらに作っていたの
岩場に穿った湿り気のある墓所
そこに私は佇んでいる

 

血の入った貝殻、瀉血用の貝殻
それはタバコの灰皿みたいなものよ
人に見せるようなものではないの
でもね捧げ物なのよ
穢れた影を神様に捧げたのかって?
…ええ、そうなのかもしれない、生きた証そのものを捧げるにはどうしたって苦しみが要るもの
苦しみを無駄にしないで下さいと、新しく目覚める度に沢山の巫女たちに言われたわ
苦しみを捧げる事で霊魂が浮かばれる
苦しみを捧げないから穢れて行く
苦しみがあるということは捧げ物があるということなの

 

貝殻を満たす真っ赤な血が私の正体
どうしてか言えずにいたの
瀉血した容器をそのまま取って置いたあの頃の自分を
私きっと愛せずにいたのね

 

喜びも捧げ物になると知らずにいたあの頃の自分を
私きっと愛せずにいたのね

 

墓所でに佇む私は
終わった時間を眺め、酷く恥じていたのよ
証だけで全ての時間を使い切ったことを酷く恥じていたのよ

 

愛するあの人との口づけの最中
唾液の中にすらも宿り
血は自ら流れて行くって事を
知らずにいた、この無智を、墓所の中で一人、恥じていたのよ

 

貝殻の内側にたっぷりと注がれる紅い海
ああ
私の時間が宿っている、今この時間が
貝殻の内側に見える紅い紅い水平線
そこはいつまでも昏いまま、太陽は昇らない
私は笑う
血の海で泳ぎましょうよ
血の海で泳ぎましょうよ神様
今を生きましょうよ

 

墓所の内側に今も、散乱し、蒸発し、黒化した血の貝殻と共に
私は佇んでいる、捧げ物と一緒に、私は佇んでいる

 

 

 

泣きながら待ちわびる聖女の口づけ

 

花びらのお茶さえも枯れていってしまった、謝らせてちょうだい


ごめんなさい、泣きながら待ちわびる聖女の口づけ、薔薇の雨の予定は無いの、だって未来なんて無いから
沢山の人と未来の話をして
ずっと前から未来の話を軸に生きて
未来の話と合致しない部分があれば各々が各々の整合性を取ろうと躍起になるのを
ただ眺めて
聖女の口づけを夢見ながら未来に涙を込めたの
あんなに話し合ってきたのに、ごめんなさい、正直に言うわね
待ち望んでいる薔薇の花びらは「訪れ」ない
ここは夜明け前のまま
だって未来なんて無いから

 

もう死んじゃったのよ
来ない時を待ち続ける事が生きる事であるならば、私たち、もう死んじゃったのよ
祖霊が壁のすぐ裏手に佇んでいる
ねえそっちからは、どんな風に見えるの?
未来を仮定して生きている私たちはどんな風に見える?
朝焼けの唄を唄おうと誓い合ったまま
風に吹かれて薔薇のお茶を飲み続けている私を置いて、泣きながら待ちわびる私を置いて
どうか連れて行って未来に
合理的な素晴らしい未来にどうか
連れてってよお願い
生きながら煉獄に居る、父さん母さんを連れて行ってあげて

 

泣いているのよ
仮定しながら一瞬一瞬を過ごす事の無意味さを
嘆いているのよ
祈りの中に願いを込めてはならないというのはこういう事なの、未来を込めてはならないのは
今を味わえないからなのよ
ねえ今、風が吹いて、頬の涙を乾かして行くわ、涙は数秒後に何処へ行くのかしら
涙のカーテンが蒸発し、遠くに見えるあの星は一体…
いつの光なの
父さん母さんが生まれるよりももっと昔からの光なの

 

救って下さいどうか
牢獄に居ると、解らせて下さい神様
50年後の私なんて居ないのだから
20年後の私なんて居ないのだから
明日の私なんて何処にも居ないのだから本当は、どうか
救って下さい罪深い聖女よ
花びらの雨を未来に降らすなどと仰らないで
だって未来なんて無いから、今すぐに私に口づけをして

 

もうお喋りはやめて
未来のお喋りなんてとんでもない事よ、花びらの味だけを舐めながら指を咥える、どうしてそんなにお行儀が悪いの、そんなのは
私を信用していない証拠、私が、誰も信用していない証拠
信じて下さい私を
信じさせて下さいあなたを
今のあなたを…

 

 

窓の向こうに朝焼けが見えて、部屋を満たしていると感じているいつかのあなたを
それがどうしても過去のものに変化してゆくと嘆く、刻一刻と遠ざかるあなたを
まだ信じているということを
誇りに思わせて下さい
それが聖女の口づけだと
時間を超えた花びらの雨なのだと
泣きながら待ちわびた私に信じさせてください、だって

 

未来など、無いのだから今、顔を上げて聖女の口づけを受け、薔薇の花びらで絵を描く私を

 

あなたに捧げるわ、愛しい聖女よ

 

 

 

投影―言葉の消えた世界で、私はあなたと話がしたい。

人間は、人を判断するときにどうしても投影という心理的作用が働く。


誰かに勝手に投げかけられる幻影で苦しむ事がある、多々ある。
その幻影は本性よりも本物じみていて、幻影を投げかけられた本人すらをも変えてしまうほどの威力を持っている。
幻影を投げかけられた人は、その幻影が弱者なら弱者に、強者なら強者にすらなる…無意識的な攻撃対象としての幻影を投げかけられた場合は混乱し、この幻影を投げかけてきた人…つまり投影者の幻影そのものに対して憎しみすら抱いてしまうが、これは大いなる誤解で、本当は本人同士、一言も交わしてない状態に過ぎないのだ。
幻影に対してさらなる幻影を膨らませる前に一歩、立ち止まるしかない。

投影という心理的作用を鵜呑みにしてはならない。

 

投影を抜け出た先に光る骨組みそのもの、この部分で会話しないといけない、全ての会話の内本当に必要なのはこの光る骨組みであって、後は全て不要な贅肉である。

 

私は様々な投影をされる、ここでいう投影と言う言葉は必ずしも精神医学の言葉の意味とは合致しないと思うので、そのことはあらかじめ断わっておく。
誰々に似ている、こんな風に過ごしていそう、という事から始まり、私自身の現在の状況を社会的な用語に当てはめて、時に社会悪のようにも扱われる。
私が疎ましいと感じているのは、行く先々で職務質問を受けること。
職務質問の返答によって、私の「人格」を決められてしまうこと、社会不適合者だと「信じられて」しまうこと。
現在の状況を正直に答えてしまうと、もう、投影のオンパレードとなり、私の本性など相手に見えなくなってしまう。

 

私は本当の意味で相手に嫌われたり好かれたりするならば別にそれがどちらでもかまわない、だが投影だけで苦しい思いをするのは一体何故なのかといつも疑問に思う。
相手に対して私が何を語ろうが、相手の中に「働いていない人間=社会悪、あるいは社会的善を受け入れない人」という強固なフィルターがある限り、私の言動はいつでも相手を苛立たせ、相手に軽んじられる事になる。
…過去に働いていたとしても、相手にとって社会的善をやってきた時間があったとしても、それはフィルターに霞んで見えない。
さらに言うとこの過去像すら、本当は、本性ではないのだ、社会的善というものすら幻影であって、人間の本性はそこには存在しない。

 

「こんな事になるなら、働いてるって言っとけばよかったな…それだけで一人の人間として軽んじられなくなるのなら、嘘をついておけばよかった」

 

でもそのような嘘こそが、贅肉となり、このような嘘こそが…自分を醜くさせる。
贅肉同士を擦り寄せている上辺だけの仲等、本当は誰も望んでなんかいない。
本性で会話しない限り人間は透明だ。
透明な、ただの影。

 

行為しないということはそれだけで悪である。
恋をすること、セックスすること、子供を産むこと、そして、とにかく働く事…大多数の人が感じる快楽や絶対善はこの行為するという事のただ中にあって、これを拒んでいるのが周囲にばれると、各々の投影の網が投げかけられ、その投影を基準とした無意識的な人格批判に晒される。
仕事をしているとき、バイトだろうが何だろうが、職場で十分に働けていると感じられることは確かに嬉しい事だ。
自分がある程度健康で、ただ働いている時のあの感覚は確かに楽しいし、周囲と連携している分快楽値も高い、これこそが絶対善であるという体感が生じる。
自分を超えたような感覚に陥る。
この突き動かす体感こそが働くと言うことの真意であり、これをやらない限り人間という群れで生きているとは言い難い…という思考回路になるのも実はよくわかる。
でもこの突き動かす体感、これは本性なのだろうか?
社会からは逃れられない、お金、健康、社会的地位からは逃れられない、だがその大半はただの投影で成り立っている。

 

だって、要らない仕事とか沢山あるのわかってるでしょ、本性では。
要らない店、要らない会社、腐るほどあるの解ってるでしょ、本性では。
それでも目前の賃金を得ないと生きていけないという事実も確かだが、そこには特段、善悪など無い事、解っているでしょ、本性では。

 

私は、あと50年くらいしたら多くの人が資金運用だけでやりくりするようになるのではないかと思う。
多くの事業が淘汰され、先進国と呼ばれる地域では時給労働と呼ばれるものはほとんど無くなると思う。
雇用されているかされていないかで人間の善悪を判断するような社会的風潮というものは…実に古くさい考え方として消え去ると思う。
世界の少しの国々の人が賃金労働から開放される分、資産運用を誤ると大規模な損失が出るという…賭け事のような世界が出来上がるのだろう。
貨幣が消え去るのはいつのことなのだろうか?
全ての幻影が消え去り、ついに富が分配されるのはいつのことなのだろうか?

 

右足を地面に着地させ、空気を吸う、左足で地面を蹴り、前へ進む、私の演じている私は投影に苦しんでいるが、それよりも向こう側にまだ、瞳がある、あなたは誰?
投影を超えた場所、幻影を超えた場所にいるあなたは誰?
その場所の事を「私であるところの私」は絵にしたいの、その場所の言葉を描きたいの、そういう事しか必要無いのよ人間関係には。
誰かの事を本当に解る瞬間があるとすればそれは作品だ…と私がこれほどに思うのはこういうこと。
後は全部まがい物なの、誰かと本当に理解し合うこと、それは互いの作品を観た瞬間だけ。
私の感じる苦しみは私が、自分だと思っている小さな幻影の叫びに過ぎない、それすら…創作という基準で物事を見ている視点からの価値基準に過ぎない。この事は両親が嫌と言うほど教えてくれた、一生懸命描いたものや、自分が『絶対善』だと信じて疑わない何かというものは、自分の価値基準でしかないって。

 

ただ快楽という体感があること…それだけが個人的真実だということを、嫌と言うほど教えられたもの。

 

無数の投影が視線と共に空間に漂う、これは全部嘘。
光る骨組みだけが真実の瞳を携えてこちらを見ている、あなたと話がしたいの、骨組みのあなたと。
元気な良い子になれと言われて、遊ぶ時すらも叱咤を受けてきたけれど、私は贅肉は要らないの、そのように振る舞う、ということが嘘なのよ、嘘の塊なの、これを背負うことは果たして誰の為なの?
社会の為?
贅肉のため?
お金の価値を誰も信じなくなってしまったら消え去る、儚い夢のため?
透明な水が体内に流れ込み、私を増やして行く、そして私の体内から水は流れ去って、私は減る、私とは、一体誰?

 

投影から自由になるには、最終的には死ぬしかないのだろうが、意識を保ったまま全ての背後にあるあの瞳で物事を見れたら…どんなに素晴らしいだろうか。
瞑想をしていると言葉が消され、同時に私が私だと信じて止まない何かも消え去って行く、それすら大部分、単なる影でしかなかったのだ。
これは一つの死で、私は言葉の無い世界を少し恐れている。
人間から言語が消え去ったときに、真の、富の分配が行われるような気がしている。
言葉の消えた世界で、私はあなたと話がしたい。

 

全てのあなたと、全ての誰かと、言葉の消えた世界で話がしたいの、光る骨組みだけで会話してみたいの。

 

全ての投影から自由になりたい。

 

 

 

ゆうこさんですか?


「ゆうこさんですか?」

 

道すがら顔をジロジロ見られたのでびっくりした、たまに身知らずでよく見てくる人っているけれど…今までは、何を考えているのだろうか?なめられてるんだろうか…と内心怪訝に思っていた分、このように素直に問いかけられると誤解がほどけたような気分になるものだ。
死について考えながら歩いていたときに、「あのう、もしかして○○○○の、ゆうこさんですか?…○○○○って知ってます…よね?」、と話しかけられたのだ、よく聞き取れなかったが私を誰かと勘違いしたらしい。
違いますよと答えて、彼女が去るのをなんとなく見送る、ゆうこって誰だろう。
…人間に興味ある人っているんだよなあ、というような、驚きと照れの入り混じった気持ちになる、と同時になんとなく反省する。
人間に興味あるわけないという体で歩いていると、人からの視線って嫌なものだと思い込みがちだけれど、誰もがそのような気持ちで生きているわけじゃないんだと諭されたような気分だ。
もしかしたら私を誰かと勘違いした人が、今回のように私自身に確認を取らなかった場合は、「あの場所でゆうこさんを見かけた!」等と言っている場合もあるのだろうな。
ゆうこって誰なのか、何なのか、全くわからなかったけれども、ごく稀に別世界の住人のように思われる事があるので、自分っていうのは、本当は実在しないのではないかとすら思う事もある。

 

主観的真実なんてものはそれこそ幻影で、何一つはじめから実在などしていないのではないかと思う時がある。
私が「そうですよ、私、ゆうこです☆よく気付きましたね!」とか適当に答えてしまえば場が成立してしまうのではないかという危うい感じすらも覚えた。
このようなとき、人を騙すのは、相手の主観的真実をそのまま実演してみせたに過ぎない…とさえ思う、真実って何処にあるのだろうか?

 

個人が個人だという正真正銘のものなんて何処にも在りはしないのではないだろうか?

 

生きていて、どうしても道筋的に避けられないものがある、両親が本当に80歳で死ぬとしたら私のやるべき事と任されることは、多分自殺決行の予定をあらかじめ知らされ、その翌日くらいに警察に連絡してほしいという事だろう。
色々考えてはみたが、死に方としてはやっぱり睡眠薬を飲みつつ首吊りというのがベストな死に方のように思うし、概ね彼等もこれくらいは調べ尽くしているだろう。

 

遺体が放置されると後々面倒なのと、遺体の第一発見者にさせるということを避ける為に、娘である私には警察への連絡係という役柄のみを頼んでくる気がする。
勿論これは、仮に両親が今のままの健康状態を80歳まで維持したらの話だが。
それまでに骨を駄目にしたり何かの病気になったらこうは行かないだろう。
私にはとことんわからないことがある、何故最後がこうなるとわかっているのに人は人を産むのだろうか?

 

死んだ後、全部の真実と事象を眺めることが出来たなら、何かのデータのように見えるだろう。
全部の時間が詰まったデータ…CDとか、ゲームとか、本とか。
ありとあらゆる分岐と、折り重なるようにそれぞれに独立する道筋、結局はその道筋を生きるしかなくても、真実に触れたいという欲求だけは…全てを体感するより他無いのだ。

 

私の人生の課題としては、現在はヒエラルキーを超えること(あるいはヒエラルキーを内包しつつ無視すること)と、80歳以降の世界というものがある。
社会に生きている以上、ヒエラルキーを無視することって出来ないし社会悪のようですらあるけれど、これを完璧にマスターしたらどのような状態でも平穏で居られる気がする。
ヒエラルキーというものが半ば幻想であるということを体感するためには、瞑想状態を維持するより他無いような気がする。
ということで瞑想らしきものをやってはいるが…自分がキーボードを打つ、しかし自分が、というこの感覚を柔らかく無視し、単に手がキーボードの感触を知覚し、それを打っているという風に心身に呼びかける。

 

私は老人ホームに研修に行ったことがあるが、そこでの老人のうち約半数は寝たきりだったり車椅子で虚脱状態で暮らしていた…あれを暮らしと言うのならばの話だが。
私の年代だと、まだまだ健康な人が多く、階段を上がるときに如実に股関節が痛むというような年寄りじみた人間はあまり居ない、30代40代なんてのはまだ、「自分というものが確実に在って」「この主観的自己像が身体よりも強固であるが故に」「高齢者と化した自己像」など想像もつかないらしい、自分が老人になるという想像がつかないらしい。
私はよく思うのだ、街でO脚になった老人がよたよたと歩いているのを見ると思うのだ、あの感覚をもう解るので、あれが自分で在ると私は思うのだ。
そしてヒヤリとする、巷に溢れている「生きよ!」というスローガンは、街を健康に歩ける人々による声でしかないのだと。
80以降の人間がどれほどの精神力と体力で、病にも冒されず、痴呆にすらならず、スタスタと頑健に歩けるのかの割合を普通に考えると…私は残念ながらそうは生まれついていない。
認知症といっても軽度から重度まで多種多様だが、ずっと寝たきりや車椅子の人間の言葉を結局聞かなかった、当たり前だ。
成功者や頑健な人ほど饒舌で、夢破れた人間は大抵寡黙なのだから。
私も結局聞けなかった、老人ホームに入れる人はまだ幸せとは言うが…無理矢理飯を詰め込まれている(時に胃瘻に)人間にはとても聞けなかった。

 

あなたは自分が自分で在るという感覚を維持していますか?
あなたは自分の経験の全てを、今受けている経験を、受け入れていますか?
それともあなたは絶望していますか…?
もう死にたいと思っていますか…?

 

やらなくて言い物事というのがある、例えば私で言うなれば過度な労働や立ち仕事、パチンコもやらなくていい、パチンコをやって中毒になってまた辞めてというだけで10年くらい無駄になる、だから丸3日間パチンコのことをあれこれ考えあぐねて結論を出せば、その10年は短縮、いわば飛び級できるという塩梅。
やらなくていい事、早送りしても理解出来る事って結構溢れていると思う、恋愛なんかがその対象という人もいるだろう、嫁姑の確執というのもやらなくていい物事だ、今更わかりきったドラマを再演する必要性は皆無なのだから。
…そう、私の両親もそう思ったのだ。
老齢期、後期高齢者の時期をジクジクと10年20年(父の場合は本当に100を超える勢いで生きながらえるだろう)と、苦しみながら演じなくてもよいと決めたのだ、私のパチンコと同じように、誰かの恋愛と同じように。
わかりきった事をいちいちやらなくてもいい、飛び級は可能だと思ったのだ、だから生きながらに自己認識の無い状態に陥るという事を避ける為に、死ぬと決めているのだ。

 

ちなみに老人ホームの老人たちは基本的に鬱状態であった、私のようなヘルパー見習い兼資格勉強者が来ると一時的に愛想の良さを振りまいて溌剌としては居たが、すぐに私の存在を忘却し、なじみの介護士に「もう死にたい、もう食べたくない」と漏らしているのを耳にした、これは歩ける人たちの声であって寝たきりの人がどのように話すのかはついに聞けなかった。
介護士たちは一定の時間になると集まり、誰それが鬱状態だとか言って話し合う、老人が死なないように抗うつ剤を飲ませたりもする、この人等は何も好き好んで加虐しているわけではないのだが…誰も、自分が老人になるとは信じていない様子であった。
肉体労働が出来る人たちの集まりということもあってか、自分が前掛けをかけられて飯を無理矢理、半ば叱咤されながら詰め込まれる等という事は、絶対に起こりえないナンセンスなジョークみたいにしか感じていない様子だった。

 

あれはね、未来のあなたなんだよ…と言おうものなら「自分は鍛えているから平気」とか抜かすのだろう、中年期の人間なんてそんなものだ、まだまだ現実が見えていないのだ。
両親は、父方の祖父母の介護をしていた、私は手伝わなかった。
元々の、人と人との相性として祖父母とそこまで仲が良いとかウマが合うというわけではなかったし、私が顔を出しても相手には大抵忘れられていた。
祖母は80半ばを過ぎる頃には毎回のように誰の事も覚えていない状態が続いた…私はこれが人ごとではなかった、何故なら私も、人を記憶する事が元来苦手だから。
私だって老齢期になって、後期高齢者と呼ばれる時期にさしかかれば都度ごとに出会った人を忘れるだろう、現に今だって忘れている、恐ろしいほどに。
恐ろしいと思えない程に綺麗に忘れている、そして「私からすると見知らぬ誰か」に声をかけられる。

 

「ゆうこさんですか?」

 

もしかしたら50年後の私はけろりとして、「はい、ゆうこですよ」と答えるかもしれない、自分が誰だかも忘却していたとすればそれは実に単純明快なやりとりなのである。
対面者の言う言葉にただ合わせるだけの、鏡に映った人形のように私は振る舞うのかもしれない。
ゆうこって言われたから私はゆうこになった、そのような思考回路になるのかもしれない。
その時にこそ、全てのヒエラルキー、全ての役柄から自由になるのかもしれない。
自分が今…自分という部分の消え去った純粋な視点が今、たった今、問いかけにただ答えた、それだけの存在。
はたから見たら心底気味の悪い状態だろう、果たしてそれは…その経験には真実は宿っているのだろうか?

 

老いと死を恐れて先んじて死ぬという気持ちそのものに、当人の自己像と若さが見て取れる、若い両親とその娘たち、いいえ、妹もまだ生まれるより前の、若い両親。
両親はひょっとすると年老いてはいないのかもしれない。
ずっと20代のままで、だからこそ老いて枯れ木のようになり、自己像が溶けて行くのを極度に忌避しているのかもしれない。
20代の自分たちが、3歳にもならない小さな娘に全ての世話をさせている…そういうグロテスクな幻影に苦しんでいるのかもしれない。
私だって老いるのは怖い、誰にも迷惑などかけたくない、自分の全ての発言権が失われ、世界の片隅で排泄処理されていたらと考えると…正直死んだ方がマシだと素直に思う。
にもかかわらず一点引っ掛かっている事がある。

 

そう、この苦痛はまだ現実ではないということ。
これは空想に過ぎないということ。
両親が死ぬと決めている事も、両親にとっての死は、恐ろしい出来事を回避するためのものであり、やらなくていい事を早送りするための手段である。
しかしこれこそが幻想であるということ…起こっていないことを軸にしているということに、何らかの危うさを感じる。
危うさというか…じゃあなんでこの人たちは人を産んだのだろうかという根本的な地点に対する疑問が生じてくるのだ、結局彼等が自死したら、この問いかけの意味すらも無くなる。
まるでこの地獄から抜け出せないような…この物語から永久に出られなくなるような、そういう空恐ろしい感覚が生じている。

 

ヒエラルキー問題
予期不安

 

これが私の乗り越えるべき課題であり、もしその方法が見当たらないとすれば私は、50年後にも誰かに話しかけられたその時に遂に、自分自身など実在しなかったという事を発見するのだろう。
ゆうこさんですか?と問われれば、私は正真正銘、ゆうこですと答えて自分と両親とのカルマを断ち切る事で、この世から脱出するのかもしれない。
…私は、誰かの思う誰かに成るのだ。
私が、私だと思っているところの問題や課題は、もしかしたら他の誰かに成り代わることで簡単に解けてしまう、この世の小さな宿題なのかもしれない。

 

 

 

 

 

労働教ヒエラルキー宗派から脱退します


人徳=ヒエラルキーの外側
人徳の高さ、みたいなものを感じる瞬間が最近あった、内職の引き取り人のうちの一人に対して私は取引数を減らして欲しいと頼んだときのことだ。
当然、「何故?」「あたらしい仕事でもするの?」「それってどのくらい重要な仕事?」と職務質問めいた問いを投げかけられると思っていた私は身構えていた。
するとその人は意外にも、私の新しい試みについては触れないでいてくれた。
内職をやる人というのは乳飲み子が居る場合などを除き、基本的には働きに出るのが心身共に性に合わないか、あるいは働けないか、そのどちらもか…という人が着手する労働である。
中には副業として内職をやっている人も居るようだが、そのような人が一日の内に着手出来る取引数には限度があるので、私のような暇人には割合多くの品数が振り当てられる。
繁忙期には外出もままならないほどの量が来たりするので、洋裁関連も考えるとそこまでやる必要がないような気がしてきて、数を減らしてもらう事にしたのだ。
しかし実際にまだ販売出来る品物を作ってもいない段階で、「新しい仕事をするから数を減らして欲しい」とは言いにくかったので、理由を問われずに居たことが有り難かったのだ。
私が暇人であることももうばれているし、もしかしたら働かない理由があるのかもしれないと察しているのかもしれない、何にせよ私は彼の態度に尊いものを見た。
この人、偉いなあ…と感心し、頭を下げたくなった。

 

一人の人間として扱われている、というような嬉しい感覚があったから偉いと思ったのだ、言うなればそれは社会的ヒエラルキーを敢て無視し、その人本人を見るというようなはたらきのように思えた。

 

労働教ヒエラルキー宗派
ヒエラルキーを感じさせるカテゴライズされた言葉というものを元来私は嫌っている、マスコミや医療業界が作り出した造語やらネットスラングニート、引きこもり、無職、童貞、処女、○○障害、○○病…だから自分の事も「臼蓋形成不全の」とは名乗りたくない。
とか思っていたのにここ数日は寝込むほどに社会的ヒエラルキーに参っていた、ヒエラルキー最下層になったと思った途端に性欲まで減退したというわかりやすい落ち込み方である。
私はヒエラルキーを無視したい、無視というか度外視したい。
世の中は最早比喩でもなんでもなく労働教ヒエラルキー宗派に染まっているので、人が集まると途端に「結婚しているかしていないか」「働いているか無職か」「子供が居るか居ないか」で階級を決めて行く働きが生じる。
もうこれって山奥で畑を耕している時代から全く変化していない風潮だろう、この階級制度って結局のところ「どれだけ個体的に健康か強いか」というだけの話題であって、それ以上の意味なんて皆無なのだ。
これを凄い凄いと崇めたりする働きをしてしまう人が一人、また一人と増えてゆく…そういう物事の結果として、重度障害者を滅多刺しにするやまゆり園の事件とかが起こったに過ぎないと私は思う、つまり私とてあの事件に加担してしまったのだ。
世の中の事件の実相って、本当は皆が皆で作り出した演劇のようなものだと感じている。
私もそこに見事に加担してしまったのだ。

 

誰かが言う、「私には休みなんて無いの、どの仕事も専門職だから」、誰かが言う、「凄い~!!」、そうやっておだてたのは私自身であって、そうやって労働教を崇める振りをしたのは私自身なのだ。
その誰かに対して例えば、誰もなにも言わなかったとしたら…?
何か言わなくちゃと思って私も言ったし、本人も当然「凄いでしょ」という体で話していたので、話に乗らないわけにはいかなかったのだが…
内職の引き取り人の彼だったらどう言うだろうか?
ヒエラルキーを生じさせずにこの話題に参加することって出来るだろうか?
だってよく考えてみると解るはずだ、労働教に身を捧げる事が…殉教も含めて…美しく尊い事であるとすれば、ただただ生命体として生きているなんて事は最も忌むべき事になってしまうだろう。
ヒエラルキー宗派のやり方を度外視して話をしたい、というただそれだけの事がこんなにも難しいとは。

 

行為はそこまで偉いのか?「凄い」は「偉い」ではない
例えば、絵を描くのは行動の一種だ、仕事をするのも行動の一種、セックスやオナニーも行動の一種…行動、というものを褒め讃える思想に染まりきっているとしたら。
絵を描くのは凄いのだろうか?凄いかもしれないが、それは射精が一日10回可能とかフェラチオ大好きで何時間でも本気でしゃぶれます☆とかの凄さであって、偉いわけではないのだ。
たまに老人でも元気自慢みたいな人間はいるけれど、彼等の身体が頑健で在ると言うことと、彼等の人徳とは悲しいほど比例しない。
だから仕事を毎日頑張ってますアピールする人に対しては、確かにそれは体力的にも凄い事(凄まじい事)なのだけれど、実相としては「心身の行為」を善とした強固な思い込みがそこにあるというだけの話であって、決して、偉くはない。
勿論傍目には、仕事を毎日頑張っているという人と、毎日パチンコに明け暮れているという人の「自発的な行動」度合いには差はあるし、性格の未熟さなどにも差はあるだろう、だから「きっちりと毎日勤勉に」生きている人は当然の如く素晴らしい人徳があるという風に思われがちである、本人たちもそう盲信している場合が多々ある。
行為を盲信している場合が多々ある。
結婚して子供産んでいきなり「命って大事☆」とかほざいている女を見ていると思うのだ(私は個人的な感覚では、妊娠出産をした人って確実に脳ミソ減っていると思っているのだが…その辺りの事情を科学は説明しようとしていないのが余計に気味悪く感じたりする、妊娠前と出産後でIQテストとかやったら格段に脳の質が下がっている気がする…これはもう女の勘でそう思っているのだ、これって人類のタブーなのだろうか??)、それは行為や行動であって、そういった傍目にわかりやすい行動だけを褒め讃える風潮の虜になっているなあ…と。
で、私もその虜になったわけである。
悲しいかな、35過ぎ職歴無し子供無しというこの、単なる言葉遊びの虜になって数日寝込んだのである。
自分はこの集団の中でヒエラルキー最下層なのだからそれらしく振る舞わなくてはと、自分自身で思ってしまったのが私の間違いだった。
この時点で私とて社会的いじめに加担したのだ、数多の自殺者が出ているにもかかわらず、無自覚にも、ヒエラルキー合戦に加担してしまったのだ、畜生。

 

社会的風潮という刷り込み

唐突に怒りが湧いてきたのは昨日である、別に誰が悪いというわけではない、私が見事に社会的風潮の罠にハマったのが悔しいというか…今までの自殺者に申し訳ないというか、当たり前だが私がその責任を負う必要性なんて皆無なのだが、ネット上に文章を上げるというのはやはり、何らかの波長を生み出してしまう行為なわけであって、私がマスコミやら何やらの作り出した社会的風潮の罠に見事にハマって抜け出せなくなりましたという現状を「真実」として語ってしまうと、本当に無責任に社会的いじめを是としてしまったということになってしまう、だから悪いことをしたなあと思っている。
挫けたのが、私のやった悪いことなのだ、あああ。
…というか大手の情報機関てさ、やっぱ、自殺を是認しているのかな???と思った、この国の人って本当に自殺は駄目とか思ってる?思ってないよね??
ニート、引きこもり、要するに社会的弱者を表わす用語、不細工とかキモいとかも入れてもいいかもしれないが、それ以上に「就職しないと死にますよ」という暗示の強い言葉、中年無職、老後破綻。
こういう造語って時代が異なれば一切機能しないのだ、そりゃあどの時代でもこの国の風潮としては(どの国もか??)スケープゴート…つまり生け贄役を誰かに押しつけることによってフラストレーションを発散させてきた、これが人類史というものの側面なのだ。
しかし私の感じた『自分はもう社会的に存在していない!!』という極度の絶望感、あれは一体何だったのだろうか?
35過ぎ職歴無しじゃもう生きていけない!!っていうあのパニック状態、あれは一体何だったのだろうか?
いつ刷り込まれた事なのだろうか?

 

義務教育時代からずっと、親子二代三代に渡って刷り込まれてきたのだ、社会的に実在しないこと、行為しないことは悪であると刷り込まれてきたのだ、行為行動しない人間は好きなだけ軽んじて良いと刷り込まれ、同時に、凄まじい恐怖をも植え付けられてきたのだ。

 

この刷り込みは恐怖とセットになっている分厄介な強烈さを帯びる、数日前の私のようにいとも簡単に、それまで普通に生きてきた人間の尊厳を奪い去ることが出来るのだ。
私は仕事をしている人を貶めたいわけではない、ただ、仕事をしている人を野放図に崇める事は金輪際やらない事に決めた。
それは仕事の出来ない人(単に、職場の出来ない人間、という存在を含め)や仕事をただやらないでいる人を無意識的に軽んじる事になるから。
社会は実在するし、社会的立場や経歴も実在する、金がなければ生きて行けないというのも「半ば」真実だ、だから働かなければ生きて行けないと言えなくも無い世界が在るのを、私とて知っているしやってきた。
しかし実際は、職場に行ったところで子供の居ないことをそれとなく軽んじられたり、暇ねえと厭味を言われたりする「生け贄」の役柄を演じなければならない。
ただひたすら頑健な方々を仰ぎ見る役柄を演じなければならないという圧力を感じる、それに加担せずに居ると即刻、空気の読めない人扱いを受ける…けれどももう、空気読めなくていいと心底思った。
もう空気読むのなんてクソくらえだという気分だ、でももっと突き詰めると…一体どうやったら件の、ヒエラルキーを度外視して人と接するということが可能なのだろうかと考えている。
これをやらない限り私自身がいつまでも、実体の無い社会的風潮…マスコミなどの作り出した幻影や下らない厭味と戦わねばならない、そんな人生無意味である。
子供時代から「成績」や「能力」という幻影と散々戦ってきたのだ、もういい加減この幻影を、ただの影であると言って消してしまいたい、本当の世界を見たい、本当の人間になりたい。

 

…でもこんな事を言っている人間は、この世に私一人しか居なかったら?
世界中がヒエラルキー構造で構築されていて、立場立場で生きなければならないというのが世界の実相である場合、私の言葉なぞ、誰にも通じない言語と同じようなもので、存在する意味が無いのではなないか。

 

パチンコ中毒 賭け事は自殺の手前
ここまで精神的に落ちてしまうと本当に起き上がるのもしんどく、自分でもどうしていいかわからなかったが、その時急に、先の日記のようにパチンコの事を考えたのだ。
私は実際にパチンコをやったらどのくらい金をつぎ込んでしまうのか等は考えなかった、ただ単に、「人間社会の中で揺蕩っていたかった」ので、野山に行って野宿する事よりも賭け事を考えて気を紛らわしていた。
人間社会が嫌だから山に行くというよりも、街でパチンコをして、一種の共犯めいた世界に浸かっていたほうが孤独感が和らぐと思ったのだ、それほどに私だって詰まるところ孤独を恐れていたのだ。
孤独と、自分が社会の生け贄になっているという現状を見たくないがために、その社会とも一体化してしまいたい、もう個人ではなくて一体化した何者かになってしまいたいという極度の欲求が出てきて、あわや本当にパチンコ屋へ行くという段階までキていた。
私はそれまで賭け事やゲームの面白さって一切わからなかったが、ここまで凹んで解ったのだ、パチンコは風俗と同義で、それ自体が「社会悪」であるために「社会と混然一体になれる」場なのだということ…だから孤独感が薄れるのだ。
その場に居るだけで「社会と」共犯関係を「結べる」ので、パチンコ屋に行きたいと思ったのだ。
あの音もそうさせるのかもしれない、五月蠅すぎる音というのは究極的には砂嵐にしか聞こえなくなるので胎内回帰が可能になるのだ、私は自分が「樹海へ行って自殺」するよりも「パチンコ屋に行ってシニカルに嗤いたい」という欲求を選んだ事に独特に満足していた…人間社会を選べた自分に満足していた。
きっと、賭け事中毒というのはこのような原理なのだ、シニカルさが極度に達するとそれを麻痺させようとする働きが生じる。
でも死ぬ等という事に身を投じるのも癪なので、人間社会に埋もれる事が「出来る」のだと、自分に言い聞かせたくなるのだ。
パチンコ屋に行く前にパチンコというものをやってみようと思い、パチンコアプリをダウンロードしてみたが、ゲームの楽しさを理解出来ない私には結局何の事かさっぱりわからなかったし、パチンコ屋に行ったらギャラリー代20万とかどころの話じゃなくて、100万くらいあっという間だろうと思ったので、金惜しさに行くのを断念した。
しかし頭がパチンコの事を考えている間は鬱状態が抜け、悲しいのに笑う事が可能だった、ああこれが賭け事のなせる業なのかと私は恐れ入った、悲しくて起き上がれないのにパチンコの事を考えると携帯を見ることが可能になるというのは…賭け事に見る人間社会の極相図というものが、何かしらの作用を引き起こしているのだろう。

 

ただこの間私は、音楽を聴いても音の色は見えなかった、賭け事にハマると人間社会の極相図を関知する何かが、感性を遮断させるはたらきをするらしい。
この関連を脳医学では何と呼ぶのだろうか?
何現象と呼ぶのだろうか?
死ぬか、死なないならばパチンコ…でもこの選択肢自体が、意図的に作られた仕組みのように思えてならない。
悲しみを麻痺させるには感性を麻痺させるという手法が人間には内在していて、感性を麻痺させるには賭け事による快感と焦燥感が一番キくのだろう。
…と、パチンコというものを実際には全くやってもいないのにパチンコ中毒を体感したかのような感覚が内在しているので、結構この原理は恐ろしい。

 

パチンコ中毒からどうやって抜け出たのかというと、まず第一にはパチンコアプリがつまらなさすぎたというのと、課金制であったということと、実際のパチンコに金がかかるというケチ根性が幸いして中毒から脱した。
もっと詳しく言うなれば、ぬいぐるみを抱いて我らが『十字架の聖ヨハネ』の書物を読んでいたら丁度良い文章があったので心が冷静になった。
念のために言うが私は宗教はやっていない。
やっていないが、聖書やそれに不随する書物を読むのは好きなほうだと思う、なんの為に読むのか?
人生の先輩の残した手紙だと思ってただただ読むのだ。
『初心者の魂は時折暗夜に落とされる、神はそうやって魂をひとつひとつ浄化させ、魂は綺麗になってまた浮かび上がる、その浮上を繰り返す』というような文章が『暗夜』(十字架の聖ヨハネ著)に書いてあって、なるほどなと納得したのだ。
その時に抱きしめていたのは鳥(キウイ)のぬいぐるみだ、こういう心底どうでもいいものが、触り心地という脳に直接クるもので刺激を与えてくれ、感性が少しずつ再稼働したのだろう。
しかしパチンコ中毒に関して思うのもやはり、突き詰めるとヒエラルキーというものがもたらす害悪であるように感じる。
居場所がない人ほどハマるのではないか?
パチンコ中毒、アル中、なんか…他人事ではないんだよなあ、アルコールは一切飲めないのでアル中になる時があったとすればそれは急性アルコール中毒以外には道は無いのだが…。

 

労働教ヒエラルキー宗派から脱退します
この数日間は死がとても近くに感じたので、死を回避するためにパチンコの事を考え、十字架の聖ヨハネの言葉に励まされ、何とかやり過ごせたが…
根本的な問題として、労働教ヒエラルキー宗派…これにはもう染まらないようにしようと肝に銘じた次第である。
誰かが生け贄になる事で救われる社会というものがあってはならないと感じた。
単に私一人がそう感じただけなのだが、だからこそ私は自分の事を安易にカテゴライズされた言葉で表わしたくはない、ニートとか専業主婦(何故これがここまで、女からすらも叩かれるのか理解不能だが)という言葉で表わしたくはない。

 

誰かの事を、あなたは誰と問うときに、社会的立場やカテゴライズされた言葉以外の言葉で問いたい。
自分の事を聞かれたときにも自由な言葉で答えたい。
大衆を操作するような言葉を本物にしてしまいたくない、引きこもっている状態の人がいたとする…が、その人は引きこもっている状態であって、引きこもりという本性ではない。
凄い人が居たとする、でもその凄さというのは数多の人々から相互的に分け与えられた心身の頑強さを言うのであって、それが人間的に崇高だということにはならない。
同時に、どうしようもない弱い人が居たとする、この人の弱さというのは本当にその人だけの問題なのかというと、その人が社会的風潮に対して忠実であればあるほどに、その弱さは「作られたもの」ですらあるのだ。
死ぬよりも金を使ってねという情報操作の為に、窮した人ほど賭け事にハマるのだ。
本人が孤独に弱いという特性は確かにある、私にもある。

 

私は思う、意図的に作られた言葉から自由になりたい、誰かの事を本当に直視したい。
誰かの事を本当に一人の人間として接したい。
ヒエラルキーから自由でありたい、自分が働いても、そうでなくても、ヒエラルキーから自由でありたい。


そういうわけで本日を以て、序列を事細かく決める労働教ヒエラルキー宗派から、私は脱退します。

 

 

 

もうパチンコ行きたい。

※ただ書き殴っている文章です。

 

パチンコ行きたいと生まれて初めて思った、パチンコ行きたいというのはつまり、部屋が静かすぎた事が原因で、部屋が静かすぎた事がどうして自分を苦しめたのかというと、その時は自分に対面するのがとてもしんどかったから。
『お教室』にはやっぱり今までとは違う人種が居て、白人の中(あるいは黒人の中、何だって良い、とにかく私の知らない世界の住人たち)に放り込まれたような感じがしたのだ、というのも皆さん勤勉なんだよとてもね。
講師自身がその良い例だった、洋裁の他の分野でも彼等はスペシャリストのようだった、休日なんて無いらしい、洋裁についても生まれ持った家業を継いだというのだから何かしら運命の導きみたいなものがあるのだろう。
生徒たちも、実質ニート状態なんて私だけだと改めて思い知らされた、ニートというよりも…35過ぎで経歴無しという現実がいかに恐ろしいものかを改めて思い知らされたと言った方が的を得ているだろう。

 

…いやもう絵とか馬鹿な事言っている場合じゃないんじゃないのか…
結局展示販売を考えると絵は美大卒の金持ちにやらせておく内輪の趣味として成り立っているのであり、自分はそういう夢を見るその時間すらも無駄だったのではないか…
絵について考えていた時間そのものが、まるで自分にそぐわないとようやく理解して寒気がしている、お門違いだった気がする、YouTubeに絵を載せるのはともかくとして、クソ真面目に絵の世界のことを考えていた時間が阿呆らしすぎたのだとようやく気がついたのだ、時既に遅し、遅すぎる。

 

さて、手に職をと習っている洋裁には何段階か工程がある、原型パターン制作、デザイン制作、【ここでデザインの型紙が完成する】、この型紙を元に布を裁断し、縫製する…ミシンというのはその実最後の最後の〆の工程でしかない、俗に言う洋裁というものの場合、既製の型紙をただ縫製するだけの工程を指したりするが、洋裁というのは元来原型の理解から始まるものなのだ…と知った。
で、今私は原型パターン制作を生まれて初めて終えたところであるが…これを帰宅してからやろうとしても意味不明過ぎて全く歯が立たなかった、甘かった、「習ったことはすぐに実用出来る☆」等という脳ミソでないことくらい35年の人生で嫌と言うほど味わってきたにもかかわらず、夢を見ていたのだ儚い夢を。
自分でパターンが組めるようになって、洋服の構造の意味を理解した上で、自由に人形服が作れるようになるには大体、とりあえず3年はやらなければねぇ…
3年、しかも件の「アンティークドールに自由自在な創作服を着せて販売」ということが禁止されているらしいと知って、じゃあ他の既製人形の服でも売ろうかと思ってはみたが、全然心が開かない、どうしていいかわからない、そっち方面の人形を買おうにもお金がかかるし、唐突に夢破れたような状態に陥っている、よしんば服販売にこぎ着けたとしたってそれまでに丸三年はかかると覚悟しろという話なのである、丸三年は『何も出来ない状態』に耐えねばならない。
しかもこう言ってはなんだが、これはあくまで人形の服という代物についての洋裁知識であって、人間服のそれとは要領がまるで異なるらしい、だから人形服をやったからといって人間の服もたちまちに作れるようになる…なんてことは皆目無理である。
私が何を恐れているか解るだろうか?

 

何も出来ないのが怖いのだ、この教室の講師のように『年齢=職業経験の素晴らしき叡智』とはいかないどころか、歳をとるごとに何一つ出来なくなって行く自分が恐ろしくて堪らないのだ。
図書館も清掃も辞めてしまえば何のスキルにもならない、あれは仕事経験というよりもバイト経験、労働経験だったのだとようやく理解した夏の午後の帰り道。
つまり何もやってこなかったのである、勿論世の中にはこのように『心底何の叡智にもならない仕事』と呼ばれるものが沢山在る、はっきり言ってかなりの割合の仕事が『何のスキルにもならない』仕事だろう。
清掃をやっていた…だから?
図書館をやっていた…だから?
それが何かに活かせるのだろうか?
よく考えてみて欲しい、よくよく考えれば解ることなのだ、これらの仕事はあくまで肉体労働である、腰痛をやったらそれだけでオシャカになるただの労働なのだ、これは仕事ではなくて労働なのである。
そりゃあ解ってはいた、当時からも解ってはいた、楽だったからやっていただけなのだ、あくまで自分の出来る範囲をこなすしかやれなかったのだ、当時だって自覚してたじゃないか。
じゃあこれからどうするのだろうか?
私はM氏のお恵みを首の皮一枚のところで享受しているのだが、このお恵みが終了したら私はどうしたらいいだろうか?
現状、どうすることもできないというのが答えなのだと、勤勉な人たちに生まれて初めて囲まれて、その勤勉率に息苦しくなりながらも私が知った回答、それは自分が35過ぎの能なしだと言うこと、ただそれだけだったのだ。

 

これが高校時代の人々の中に居たのでは解らなかっただろうと思う、彼等は基本的に馬鹿で多産だし、人生どうにもならなくても何とか誰かからすねを囓る事も含めて生きながらえる術を、少しも恥ずかしげなくやってのける人種だから。
私の両親だってこの人種なのだ、そのような馬鹿な人たちに囲まれて過ごしていると頭に甘い甘い蜜のようなものを注射されているような気分に浸ることがある、両親を観ていてもそう思うときがある、『馬鹿でもどうにかなる』といういいお手本なのだ。
私はそれを見て過ごしてきた人間である、だからこそ恥ずかしげもなく、生きながらえるためだけの動機で結婚し、当然のことのようにM氏に飼われて過ごしている、異性関係まで申告して飼われて過ごしている、でもこれといって疑問が湧かなかったのだ。
だって私の人生ってそういうものだと思っていたから。
だから時間をそのままだらしなく使っても取り立て悔やみもしないし、時間=素晴らしい経験、等という概念自体が希薄だった、暇だったらゲームして過ごすとかそういう、やり場のないフラストレーションをそのまま垂れ流して過ごす人種の中に居た。
週五で働いて副業もしつつ習い事もするとかそういう人の存在を、生まれて初めて知った、馬鹿高校の元同級生たちにも見せてやりたい、『人間として知識を向上させて行く事を本当にやっている人たちが居るんだよ!』って言ってやりたい、言ったところで彼等の大半が無気力なネット閲覧やパチンコや異性関係で時間を浪費するのは火を見るより明らかだが。

 

何もしないという選択肢を真っ先に選ぶのは火を見るより明らかだが。
念の為、ここで言っているのはがむしゃらに時間を使うとかがむしゃらに働けとかそういう事ではなくて、コツコツと仕事と趣味及び副業の『経験値』を上げるということについてのカルチャーショック、みたいな事。
時間=経験値という概念を初めて目の当たりにして及び腰になったという話。
時間を切り売りするのではなくて、時間を有効活用し、現実社会でも使える武器として、自分の年齢をプラスに転じさせている方々が多く居るというこの空気に、恐れおののいているだけ。
今自分が出来る事って何だろうか?
もうこういう人たちってYouTubeとかも当然のように利用しているだろうし、活用しているだろうし、当たり前の事としてネットショップも自営しているのだろうし、あああ何だか私は自分が恥ずかしい。
私が何か経験を積むとしたら何だろうか?

 

縫製経験?
駅前のお直し屋さんにでもパート通いするか?

 

…股関節が痛くなければ…

 

丸2時間勉強しただけで頭がフラフラし、吐き気がした、帰宅してから横になるが横になった拍子に股関節に大腿骨がめり込んで半亜脱臼状態に陥り四苦八苦する、水を飲むと歯の神経に染みて奥まで痛んだ。
なあ、これって、あの馬鹿親たちよりも身体の造りが弱くないか?
あいつら結局歯も抜けてないし足腰も痛んでない、年齢だけで言えば彼等は60過ぎだが、私の状態を言えば「通勤するには脚の調子が悪い日もあるのでそのことでヤキモキしたくない」というような明らかな老齢期っぷりである、両親が35の時ってもっと元気だった、これは個体として元気だったというだけであって何も昔の人は元気だとかそういう話をしたいわけではない。
私の祖母がちょうど私のような状態の人間で、多分出産している分私よりもかなり脚の調子は弱かっただろう、彼女はいつも座していて、いつも杖をついていた、遺伝子の不思議、隔世遺伝というやつだ。
隔世遺伝て病気に顕著なのだと私は思う、単なる実体験からそう思っているだけである、けど身体の関節が弱いというのは本当に気が滅入る。
薄々気付いてはいたよ、やっぱさ、「良く出来る方々って身体も良く出来てるんじゃない?」、この世って頭の悪い順に身体も弱く作られているのではないの?
ガタイの良い人肉体労働の人はどう説明するんだと言われそうだが…ちょっと思い浮かべてみて欲しい、貧弱で病弱な医者とか政治家、見たことあるだろうか?
医者とか、バリバリ働いている人ってやっぱり身体が頑丈だよね?
地頭の良い人って頑丈だよね?
なんでこんな風に生まれついたのだろうか、生まれついてのニートなのだろうか?飼われるために生まれてきたのだろうか?
等といじけてもどうしようもないのだ、私の骨というのはもう数多の人の中に溶けている、私よりもさらに劣った骨の持ち主にすらも私の骨であった部分は内在している、その代わり私も数多の誰かから数多の何かをもらって生きているのだ、肌や髪の毛や眼球、何もかも全て、結局の所持ちつ持たれつというのが身体の実相なのだ。

 

何だか…YouTubeに動画上げてどうのこうのとか、それよりももっとやるべき事があるんじゃないのか…
絵を描くとかそういう事よりも、もっと社会に通用する何かをやっとくべきなんじゃないのか…

 

と思いながら案惨たる気持ちで外を眺めていると、確かに、カメラや携帯で撮影しながら歩いている人が居て、今や時代は「今見ている風景を作品化する」という事に尽きるのだなと考える。
私が言っているのはYouTubeに「自分というキャラクターをアイドル化して」「出る」事ではなくて、その他の動画サイトで生配信とかそういう事ではなくて、あくまで自分の「見ている景色を出す」事である。
キラキラした人たちがアイドル化した状態で投げ銭をもらっている動画とかがあるようだが、そういう事ではない…このあたりのニュアンスを明白に伝える言葉が見当たらないので困るが、動画というものがもっとさらに幅広い年代に普及したら、ブログと同じように、自分を発信するのか自分の視点を発信するのかという違いがわかると思う。
このように自分の思ったことをそのまま配信したいのだ、自分を見せるというよりも、自分の考えている事を見せるというか…もう歳だし。

 

歳とは言え、私は元来年寄りじみているので、今まではあまり歳をとることについての抵抗って無かったのだが、今日は唐突に怖くなった。
歳をとるのが怖くなったのだ。

 

何も出来ずに、心身共にどんどん何も出来なくなって行くという現実が、恐ろしくなったのだ。
かといってどうすればいいのだろうか?
私にとって一番のネックは骨の痛みである、この地味な刑罰に耐えている、そして現に35過ぎ能なしの出来る仕事というのはほとんど労働しか残っていない、仕事らしい仕事なんて結局やったこともないのだ、だから私が社会的にどうのこうのという目的を持った場合、骨の痛みにさらに耐えて労働をするということの他に、残された道など無いのだ。
経験になるような仕事、手に職をつけられる仕事になんて就いたこともないのだから。
別に人生の何処で躓いたとか言うわけでもない、絵についても思うのは、結局私は自分のひと月の給料以上のお金を支払う事が出来ないのだということだ、ギャラリーにそれだけの金を積む度胸が無い、その勇気が無い、13万以上の金をかけるなんてこと到底出来っこなかったのだ、元をただせばそれは育ちが原因なのだ。
原因というか、それこそが水の違いというものであって、私が自分の血筋に忠実に生きるのであれば、骨の痛みに耐えながら労働に耐えるという選択肢…これは至極もっともなことなのだ。

 

では何故急に自分の身の上、ほとんど確実にそうなるであろう「社会的に何のスキルも無い高齢」になるのがこんなに怖いのか?
それは、そうでない人種を初めて目の当たりにしたからだ、勤勉な人たちを改めて目の当たりにしたので、つい、自分と彼等を比べてしまったのだ。
私は社会不安の一端に飲まれているだけなのだろうか?
でも思った、私は馬鹿が嫌いだったが、本当の事を言うと馬鹿が好きだったのだ、だって勤勉な人に囲まれているよりもだらけている人間に囲まれた居た方が明らかに楽だったから。
あと3年も「何も出来ない状態」に耐えられるのだろうか?
こんな恐ろしいものに耐えるくらいならば死んだ方がマシなんじゃないのか?
痛みに耐えるという精神力は伴うが、何か働きに出た方が良いのではないだろうか?
…でもまた「脚の状態を毎日気にしながら明日出勤出来るかどうか」といった馬鹿げた悩みに翻弄されて過ごすのだろうか?その悩みに見合うだけの賃金価値が私のやれる仕事にあるのだろうか??

 

そんな精神力私にあるのだろうか?
寝ている時に痛みで目が覚める時、一体自分が何にこんなに苦しめられているのかわからずに、一人で絶望する夜、ああいう夜を乗り越えてまで、実際の骨の痛みを超えてまで出勤出来るのだろうか?
誰とも分かち合えない痛みを、一人で乗り越えることが可能なのだろうか?
そんな精神力が私にあるのならば既に何かきちんとした生き方をしているのではないだろうか?

 

なんだか久しぶりに死にたくなった、それももう全部が嫌だから死にたいというのではない、単に「刻一刻と時間が過ぎるのが恐ろしいから」死にたいのだ、さっさと死んでしまいたいのだ。
勿論これは出来る人たちと自分を比べて卑屈になっているとも言えよう、でも本当に死んでしまう人の気持ちが私はちょっとわかった。
人は怒ったり悲しんだりしたときには死なない、絶望したときにすら死なない、絶望するという予感に対しての恐れが膨れ上がったときにこそ人は「その恐れに手を打つ」為に死ぬのだとわかった。
両親が80で死ぬと宣言している気持ちって案外人間共通のものかもしれない。
それとも私が死にたいのはこのような両親のこさえたガキだからだろうか?
手を打つために死ぬ、というのは自殺が「選ばざるを得なかったもの」ではなくて、手段だったということ。
両親が死ぬまでは死なないが、タイムリミットってあと20年もないのだ、厳密に言うと予期不安に苛まれている状態なのだ。

 

でも35過ぎ職歴無しというのは予期も何も現実なのだ。
このような不安に苛まれるとき、よく友人と会った、馬鹿の辛さも楽しさも解っている仲間だからだ、卑下しているのではない、現実的に育ちの感覚が似ているので現実の辛さを共有出来たのだ。
友人は私を諭すが、友人自身がこの予期不安に常に苛まれているので、二人で飲むお茶は公園の空気に溶けて余計に苦くなる。
でもその苦いお茶を飲めばそれは転じて薬になった、今を生きる薬に。
そうやって色んな事を乗り越えてきたように思う、いや、乗り越えてなど居ない、結局私も友人も勤勉ではなかったから。

 

帰宅した時、部屋はしいんと静まりかえっていた、私はM氏に急かした、「ねえ何かゲームでもやりなよ、好きに楽しく過ごしなよ」、M氏は仕方なく怪談を見ながら眠りはじめた。
私はもっともっと音が必要だと思った、それも簡単な音が。
人の技能を要さない簡単な音が。
人の凄さなんか一切感じる事の無いような、易しい音が。
京アニの犯人も大音量を流していたようだが、人って窮すると音の波に埋もれて、胎内に一時回帰する性質があるんじゃないのかと思った。
私は膝を抱えた、もし今、自分と同じように無力感を抱える人が、自分にとって「易しい音」の波に埋もれて一時的に逃避して、気楽な風で何か「易しい」作業に没頭してくれていたら。
勤勉な誰かではなくて、易しい物事をただひたすらこなすような哀しい時間を、私に見せてくれていたら。
生活保護でパチンコという話はよく語られるが、この仕組みについても初めてわかったのだ、確かに今、私もパチンコに行きたい。
現実を見たくない、見たとしても鼻で嗤ってしまいたいので簡単な音に埋もれる事の出来る…そのような人種の集まるパチンコに行きたいのだ、現状が悲しいから賭け事に行きたくなるのだ、胎内に一時回帰したいからパチンコに行きたくなるのだ。
天国行きたい、でも地獄に居たい、生きるのってしんどい、ああ…もうパチンコ行きたい。

 

 

 

YouTube

そうだ、YouTubeやろう!

と唐突に思いついたのは昨日である、何か小さな事で自分から発信出来ることって無いか?
と考えていたらYouTubeが最適なような気がした、おおお流行に乗っている…ような気がする。
携帯を買い換えて10万以上する代物にするのはちょっと阿呆らしいのでGoProゴープロという携帯型ビデオカメラを使おうかと検討している、もうすぐ新型が出るらしい、ああ、ワクワクする。
単に新しい機械に触る事が出来るのが嬉しい。
では一体何を配信するのだろうか…?

 

①風景と詩と音楽(版権切れ及び自作)
②絵の制作過程
③人形と人形服
④飛行機、路線バス
⑤東京都下散策

 

趣味の地味さ加減が壊滅的である、全部一人で出来る事だ…確かに鶴の人の言うとおり、私を示すキャラクターがあるとすれば森の妖精だ、森の妖精、居ても居なくてもいい精霊、居るのか居ないのかわからない存在。
…もう④しか再生数が上がらない気がする、個人的に飛行機(プロペラ機)が好きなので飛行機動画(ただ見ているだけ)をあげたいのだが…
特段飛行機オタクというわけでもないのでちょっと気が引ける、路線バスも最前席に貼り付いて動画撮影するのは正直だいぶ恥ずかしい…好きな乗り物は飛行機とバスなので動画の取っかかりにはちょうど良い気がしたが…
予想以上にハードルが高い気がしている。
①~⑤を並べてみても、何をどう考えてもパッとしない、自分でも思うが老後の趣味という段階に落ち着いてしまってる感じしかしないし、動画的には全く毒にも薬にもならないジャンルなのでそれを収益にする等と嘯くのは何だか、これまた小っ恥ずかしい。
私が人間という存在に対して発信したい事って、結局私が内に籠もる時に通る道でしかないのだろうか?
私は本当は何を言いたいのだろうか?
私は自分が感動した事を伝えたい、だが…自分が感動するときに明確に他者は居るのだろうか?
本当は自分一人が良ければそれでいいんじゃないか?
他人が必要な趣味なんて一つも無いじゃないか?これを公開して何の意味がある??

 

絵の開示 ギャラリー批判
…落ち込んでいる場合ではない。
絵の事について言うなれば、何処かの小さなギャラリーに絵を展示するより余程、多くの人に見てもらえるだろう。
確かに絵は、他人に開示しない限り生きた絵にはならない、ネットの海に泳がせてやった方が作品の為なのだ。
ギャラリーというものに関して考えると何となく社交界を思い浮かべてしまう、展示している人も鑑賞者も身分ありきでその場に参加している印象がある。
美大の人が作品を展示し、OBたちの観に来る場所、これは比喩でも何でも無く、はっきり言ってそういう閉じた世界、閉じた村社会が今の芸術世界だ。
果たして芸術というジャンルが活発化した時代なんてあったのかどうか定かでは無いが、絵というものは楽しんで描かない限り作品は死んでいる、絵を見る人に何の経歴も無くとも、それが楽しんで描かれたものかどうかは案外すぐにばれてしまうものなのだと私は思う。
私は美術関連の何が嫌なのかというと、経歴を問われる所が嫌なのだ、このような人は多いと思う。
誰が立場上どのように振る舞うかが明確な世界、それは本当に、本質的に楽しめる世界なのだろうか?
ギャラリーと呼ばれるものに行ってみてもビビっとくる絵が無かったのはまさにこのせいなんじゃないかと思う、自分が立場上どのような人間かを常に(無意識的にも)意識しながら描かれた絵というものが楽しい絵である確立は低い。

 

絵というジャンルで考えたらアニメ業界及びコミケなんて物凄い成功例だろう。
美術というもののパワーが全てそちら側に流れるのも無理はない、自身の経歴無根の匿名性と個人の尊厳がそこには確かにあり、どのような人が来客しようがその人をお客と見なす…マーケットが広がるのも必然的な流れだったのだ、何より、制作者が楽しんで何もかも気にせず描いているという事が規模を広げたのだと私は考える。
村社会のままのギャラリーという場所はもう終わった歴史の場所なのだと思う、経歴の在る人がさらなる経歴を作るための場所。
売れているものの少なさからいっても、制作側の匿名性を是としない限り、立場遵守の文化を止めない限りは、芸術作品という謎ジャンルが活性化する事など不可能だと感じる。
とはいえ、私とて全てのギャラリーを見て回ったわけでも何でもない、職業芸術家の登竜門的なギャラリーを二つ三つ見て回った感想をただ書いているだけである…が、あながち的外れでは無いと思っている。
じゃあ個人が自由奔放に描いたものを、「売るのではなく」、ただただ展示公開する為だけの場所を探そう、今はそう思っている、だから喫茶店とかに飾る(文字通り)事になるのだろうとは思う。
実際の絵の触れあい、実際に対面することを私は結構重んじているし、そのような空間に自分で参加したという経歴にもなるのでやりたいが…絵を目にする人数だけに焦点を絞ったら、その場で販売して終わらせるよりも絵は自分の手元に置いたままどんどん開示、ネットにも開示したほうが「絵が鑑賞され、命が宿る瞬間」は多くなるだろう。
絵をネットに展示、開示するメリットはまさにこの、「絵が鑑賞され、命が宿る瞬間」が増えるということにある。

 

YouTubeに絵を公開することのメリットとデメリット
では絵を、YouTubeなどのネットに開示することのデメリットは何だろうか?
①神秘性の欠落
②無料で公開することにより発生する無価値感

①について言うなれば、絵の制作過程は秘密にしたい人も多いだろうとは思う、この神秘のベールを剥ぎ取ってしまうと、「なあんだそんなことか」と、芸術という謎の崇高さが剥離し、むき身のままの制作風景がそこに立ち現れる。
どんなに細かい作業でも工程を見せてしまうと「案外出来るなあ」という感想を抱かれがちである、この場合、絵の神秘性という価値は確かに下がる。
この文章だって例えば丸一日かけて一生懸命書いていると言われて読んだ場合や、神様のお告げがあって書いているというスピリチュアル系に多い謎めいた自己申告…こういったものに比べ、「本当は1~2時間でドバーッとただただ推敲も無しに音楽聴きながら書き殴っているだけの状態なのだ」と知らされて読んだら、有り難み?は無くなるだろう、本当の事なんて知らないほうが神秘的なのである。

 

②無料化問題につて、絵や作品を無料で公開することについての危惧についてなのだが、無料で絵を垂れ流していると絵というものは無料で見れるものなのだという認識が広がり、結果的にますます絵は売れなくなるのではないかという事を考える。
まあ元々私は絵を売っている人間でも何でも無いので特段困らないのだが、絵というジャンルが不活発になる手助けを敢てせずともよいのではなかろうかと、ちょっと二の足を踏む気持ちもある。
例えば自分の絵が、数万円払わなければ手にできないという状態で販売したとすれば、稀に私の絵を欲しいと言う人もあるかもしれない。
どうしても見たいからどうしても欲しいんだと言ってくれる人も居るかも知れない。
だが私の絵というものを私がネット上に思うまま公開していた場合、「敢て購入する必要もない」と、本来、私の絵のお客になるはずの人も思うようになる…気がするのだ。
あともう一つはこの無料化問題、絵の価値そのものを下げてしまう逆効果がある気がしないでもない。
無料で公開するということは、無料で垂れ流すということと同義である。
ネットで無料で公開する限り、この文章にも価値は反映されにくくなる、無料で垂れ流す絵というものを目にするのは無料だから見るという人も結構生じてくるだろう。
必然的に、私のジャンプ力も低くなる、そういう逆効果はあると思う…だが、話をぶり返すようだがそれでも楽しくないと意味が無いのが芸術という世界の一番厳しいところなのだと私は思う。
無料化するものは必然的に価値が下がる、有料化したとたんに価値が上がる…この仕組みは実在する。
だが狭い世界のギャラリーに、無名の自分が「わざわざ高い金額を払ってまでして展示してもらい」、自分の経歴を問われるような社交界世界に対してあくせくし、挙げ句来客自体が極小…という終わった世界であれこれやるよりも、ゴープロで絵の制作過程を写してそのまま垂れ流した方が楽しく描けそうな気がするのだ。

 

絵に関して考えるのは、無名の人がアートを「真剣に」やり、尚且つ展示費用を負担してでも「公に」公開するというシステムが欲しいということ。
ここで言う展示費用というのは運搬費用や場を借りるお金である、場を借りるというのはクソ高いギャラリーに恭しくご利用料金をお支払いし、芸術社交界に仲間入りのような儀式をさせてもらう…といった馬鹿らしいシステムの事ではなく、単なる展示場所に料金を支払って展示したいということ。
これって結構、絵を好きな多くの人の願いなのではないだろうか?
実際にこれに近いのはギャラリー喫茶みたいな場所だろうか、少ない費用で展示のみで何日間か置いてもらうという点では喫茶店が一番、理想には近いような気がする。

 

私が落胆したこと
今から書くことはちょっと個人的な物事だが、私は鶴の人の元奥さんに自分の絵を描かれて展示されたときに思ったのは、「やはり芸術という輪の外側の人間には、この世界での発言権なんて無に等しいんだな」ということ。
つまりは呼ばれてない感じがしたのだ、そりゃあ私は鶴の人の奥さんには世間的に言って酷いことをした、のかもしれない、他に女が30人余り居たとしても私は酷いことをしたのだ、彼女にとっては。
よくよく突き詰めて考えてみると、彼女自身が明白な敵が欲しくて仕方が無いような感覚があったようなのだが、そういう内省は描かれていない。
だから究極的には何がどう酷いのか、酷いと感じた彼女の気持ちはわかるのだが、私が一番知らされたのは「美大関連」の輪の中でいくら貶められても、それを不当だとは「場所柄、私に発言権が無いので」言えないのだと言うこと。
これさ、普通に考えてみたら解ると思うのだけれど、例えばテレビドラマに出ている人が個人的な恨みを…たとえそれが世間的な道徳で言えば正当だと自負出来るものであったとしても、それを「主演しているテレビドラマ内で」敢て発言したりはしないよね?ということ。
私のむかつき所のピントがずれているのかもしれないが、私は結構この事に関して、落胆した、その世界ってその程度の意識なんだと落胆した、美大出てまでその程度なんだと落胆した。
そのことに関して鈍感だった鶴の人の芸術眼にも正直落胆した。
芸術というものが閉じた世界である以上、もうこれ以上の発展など無いだろうなと思った、アニメ世界の方が断然プロ意識が高いのではないかと感じる、だって声優やアニメーターって、辛い事があってもそれをアニメキャラに投影したりしないよね?(多分)
芸術、これはもう終わった世界の終わった場所であり、制作者も鑑賞者も販売側も購入側も全て、「同じ世界、同じ村」の人々で構成された世界なのだなと痛感した、「お前は来るなよ」と言われた気がした、単にそう思った、そういう気持ちになっただけ、はっきり言ってこの上なく身勝手な私の被害妄想である。
相手に先に蹴りを食らわせておいてその集団から出禁になった、ような気がした…という阿呆な被害妄想である。
でもこの気持ちって案外多くの人が芸術というものに対して抱く疎外感なのではないだろうか?
だから売れないんじゃないの?

 

と思いっきり感情論をぶつけても仕方が無い、私自身が金のかかることを嫌いなので余計に、展示にすらお金がかかるというギャラリー展示事情が許せないだけなのだ。
…それもこれももっと絵が活性化して、コミケを含むアニメ業界くらい活性化して、制作したものが販売に繋がる状況になれば事情は変わるのだろうが…私の生きている内には無理だろう。
経歴ありきでやっているジャンルが芸術ジャンルなので、悲しいほど無理だと思う。

 

YouTubeに載せたい事、会話などの映像作品

YouTubeに話を戻そう、本当はこうして語る内容も載せようかと思っているが、YouTubeの性質上、コメントを受け付けた方がいいような気がする。
そこでの客あしらいというかそういう事が面倒くさい気がしていてこれまた二の足を踏んでいる。
飛行機とバス動画だったら大したコメントもつかないだろうが、思考を発言する動画となると事情は変わるだろう。
友人とどっか行く動画とか撮ったら楽しいだろうなあと思う反面、鶴の人の出現で一番、鶴の人と元奥さんレベルで変化したのが私と友人との関係なような気がするのだ。
鶴の人の存在はM氏にも伝えてある、M氏は単に私とエロとを結びつけるのが非常に苦痛を伴うので、もう普通に鶴の人の存在を認知している、迎合はしていないがごくごく当たり前の事として芸術関連の人で尚且つ恋人といえばあの人、というくらいには認知している、その位M氏との軸が離れているのだ、善くも悪くも元からかけ離れている関係なのだ。
鶴の人の出現で変わったのは友人との仲のような気がする、以前は「心理的に」溶け合ったような関係だったのだが、鶴の人の出現で私という人間の軸を知ったようで、なんだか変わってしまった。
いろいろ語り合った事は沢山在ったのだ、この10年、結構沢山のことを語り合ってきたのだ、二人で語り合った事は演劇を含めた包括的芸術というものを好み、参加している人にとってわりと重要だったように思う。
その重要な事を、空気感を交えて、字幕を添えて小一時間の映像作品にしたらすごく他者に伝わるだろうなと思ったのだ、こんな風に長文を敷き詰めるように書くよりももっと伝わるだろう。
私たちは未来について語り合っていたから。
そうなのだ、私が、自分の事を他者と絡めて私たちと称するその時って、自分と友人を言うのだ。
「あの時」というものをそのまま作品に出来たらどんなに素晴らしいだろうか、これまで沢山会ってきたのに、未来への決意や言葉がまだ未完了のままだ、悲しい。
悲しいのは何に対してだろうか?
自分の選択や他者の出現でどうしたって関係性は変化して行く、その閃きと、新しい機械やメディアへの対応が噛み合わなかったのが悲しいのだ。

 

YouTubeを見る目的
あとYouTubeに関して思うのは、YouTubeを自分が見る時に、一体何を見ているのかと言うこと。
何をどのような感覚で見ているのかと言うこと。
真面目なものを見たいのか、馬鹿らしいものを見たいのか、息抜きに見たいのか、ただ単に面白い音楽を聴きたいが為に垂れ流しているのか…。
自分がYouTubeを見聞きするもののうち一番を占めるのが音楽である、しかも「よくわからない」音楽、アフリカの現地の音楽とか、カンドンブレ音楽(宗教)、ユダヤ人の祭典、少数民族の生活とか、よくわからない国の人のアップロードした、よくわからない国の言葉の、よくわからない人たちの日常みたいなものが見える動画を見ている。
…もう全然箸にも棒にもかからないような、そういうものばかり好き好んで見ている気がする、音楽はジャズ音楽も流すが、それとて特段はっとするものがなければ小さく流しているだけで特段有り難みは無い。
つまり真面目に語る要素などを私すら、選んで観たりしていないのだ…。
馬鹿系の物を見やすいという心理が、普段生真面目な人に程働くようだが、私もこれに該当するのではないかとギクっとした、だったら自分で発信するものをいくら頑張って作り込んでも、他の誰かには垂れ流されるのがオチという悲しい図式が見えてくる。

 

垂れ流し系で思いつくのは…自然の庭土での、小さい虫たちの活動とかも動画に撮りたいのだ、朝、アメリカンブルーの花にやってくる小さな小さな蜜蜂の健気さ、多肉植物園と称する庭植物の合間を、あたかもジャングルの合間を縫う生き物のように動く、ダンゴムシやアリといった数多の虫たち。
植物世界と小さな虫たち…これを拡大カメラで延々と撮りたい、静かな音楽とかを合わせて垂れ流し作品にしたい…という妄想の最中に思う、これを食事中に観た誰かが「キモいものを見せないで」というコメントを残して行くまでがYouTubeなのだと。
極小生物たちの世界、どう考えても私には可愛いが、私の父親には嫌悪感を生じさせるだけの代物だろう。
リラックス作品になるようなもの…等とむりやり考えるともう駄目だ、やっぱり好きなものを撮りたい、好きなものを好きに発信したい、しかし私の好きなものがあまりにも人畜無害過ぎる上、一体どの検索ワードでなら辿り着けるのか当の私自身もわからない、そういうよくわからい明確化されていないジャンルのものは…多分誰も見に来ないだろうという明確な予想だけはついている。

 

では撮影の視点で、自分がどのような驚きを得ているのか、日々どのような時に新鮮な驚きが生じるのかを考えてみよう…これは歩いている時や自然の中に居るときだ。
でもこうして一人きりで自分と会話?している時にも驚くことが多々ある、しかし喋るのが下手なのでそれを映像にあげるのはちょっと抵抗がある。
…ただ、改めて思うのは、どんどん時代は変化してゆくのだなということ、それも、なんだか私の良い方に変わっていっているのではないかということ。
個人個人で生きている人が好きに発信出来るジャンルが、芸術社交界という村社会以外にもあるということ…これって本当は結構凄い事なのだ。
携帯式ビデオカメラについて調べてくれたのはM氏である、編集のやり方、取っつき方とかも教えてもらう事にする。
ギャラリーについて散々罵ったが、これは芸術村を罵ったのであって、数多のギャラリー及びギャラリー喫茶店を罵ったのではないと明記しておく。
繰り返しになるが、展示もしたいと思っているのだこれでも。

 

閉じた世界というよりも、実物が在るという感覚、これって結構重要だと思うのだ、このためだけに展示をしたいとは思っている。

 

内職+YouTubeで目指せパート代…目的ってこれじゃないのだが、目的に副産物があるほうが楽しそうである。
植物と虫及び、ミシンのメカニカルな美しさも延々と、ミニマルな音楽と共に撮って映像作品化したい…一体どの層が観るのか全く不明なので、自分の撮りたいものをピックアップしてみても、どう考えても収益というレベルまで行かない気しかしないが、それでも、新しい何かを自分でやるのって楽しいものである。
ゴープロは9月末日頃に次の機種が出るようなので、それまでは妄想だけ好きに膨らませるとしよう。

 

 

 

 

 

道標の無い細い道

金融のうち、実在するお金というものは半分しか無い、あとは先物という思念に過ぎない。
思念が実体化するという面白さは確かに、株にはある、資本主義の仕組みの半分は空想に過ぎない。
私の内部でどうしてもまだ消化しきれていない部分というのはお金に関する事柄である。
お金と仕事という事柄に関して私は、恥ずかしながらまるで飲み込めていない。
私と仕事とお金の関係について考えている。

 

天職

①自由意志(自分の意志で行動する)
②人や社会の役に立つ事を実感する(人との繋がり)
③スキル向上を感じる(上達に限度が無いので半永久的に精進する道)
④実益がある(それが微々たるものであっても)

さて、これが天職と呼ばれる状態の仕事に就いている時に感じられるものらしい。
私はまだ天職に就いたことが無い、客室清掃が殊の外面白く、楽しく、尚且つ人間関係的にも綺麗さっぱりあっけらかんとしていたので「これはもしかしたら天職なのでは?」と思ったのだが、身体の都合で辞めざるを得なかった。
しかし今思えば客室清掃にはスキル向上の限界地点と呼ばれる地点がある、一部屋15分で清掃が完了するようになるとそれ以上素早く仕事が出来るようになっても、利益がマイナスに下がるのである。
どういうことかというと、素早く仕事しすぎると時給換算なため、給料が減るのである、これぞ器用貧乏という図式が出来上がる上に、周囲の人もつられて「急かされるように」素早く仕事を片付けようとするので、結果的に「手の速すぎる人」というのは実は「ちょっと厄介な人」に成り下がるのだ、ミニブラックな状態になるのでその根源たる手の速い人物の存在は必ずしも迎合されるものではない…たとえどんなに頑張っていたとしても…これはモロに実体験だ。
ここの兼ね合いが難しかった、というのも私は多くの仕事で「歩調を読む」ということが概ね全く出来ずに居た、歩調を読んだり職場にきっちりとした時間に行くというただそれだけのことに「仕事への緊張」があった。
つまり仕事そのものでない物事に対してすごく気をやっていたのだ。

 

理解される人と理解されない人

仕事をやる上で一番大切なのが「理解」されるということである。
M氏の醸し出す根源的な空気には、善くも悪くも他人の理解を促す何かが確実にあって、それが何であるのかをぴしゃりと言い当てることは出来ないのだが、M氏の話す言葉にも人を一言で納得させる何かが在る。
趣味を聞かれたらM氏は「プロレスですよ~」と答える、すると相手はもうM氏という人物の全てを理解したという到達地点に至るのである。
週末何をしているのかと問われれば「ゲームっすね~」とM氏が答える、M氏と対面する相手はこの間怪訝な顔は一切しない、これがM氏の人間力である。
こういうものを人徳と言うのかも知れないし、単純に、わかりやすい人というだけなのかもしれない、ただこのわかりやすさというのは人間の持ちうるもののなかで一番素晴らしい「武器」になる、他者に理解される(させる)というのは仕事には欠かせない要素だからだ。

 

仮に私が趣味や休日の過ごし方を、職場に通っていた当時に聞かれたとして、それに対してM氏と同じように適当に「プロレス見てます」とか「ゲームしてますよ」と答えても(実際にはどちらもやっていしこのように答えてもないのだが今は文章という便宜上こう書かせて貰う)、相手はますます訝しがって、さらなる質問が矢継ぎ早に続くだけなのだ。
そう、私はあまり理解されない、たとえ本当の事を答えたとしても、私の顔立ち、もしかするとそれ以外の振る舞いや…遺伝子そのものが、何か私の実体を隠すように出来ているらしいのだ、これには本当に参った。
理解されないどころかどんどん疑問の生じる手合い、それが私なのである、私がどのような人間か知りたい、根源的に敵になる人間なのかどうかを認知しておきたいという人にとって私は、正真正銘、影のような人間に映るようだ。
結局一体あなたは何なの?
敵なの?
味方なの?
よくわからない人なの?
そういう究極的な疑問を投げつけられる役割に私はよく陥る。
敵味方を認識したいという人にとって私はついぞ理解されない、何故かというと私自身が敵味方という認識をあまり知らずに過ごしているからである。

人から何故だか謎に思われるということが、仕事をする上で非常に不利に働くのだ。

 

これに関して私が最近解ったのは、人間という生き物には敵味方の認識が割合重要だということ。
今までも漠然と「人が、序列以上に何かの閃きを得て集団を形成している」ということを見てきたが、一概に仲良しとも言えない何かの集団形成の元になっている概念が敵か味方かというものであると知ったのは最近である。
これまでも何度か「あんなの敵に回したら大変だよ」という言葉を耳にしてきたが、私には根源的にはピンと来なかった、勿論悪口を言われたり根も葉もない事を背負わされたりするのは私とて恐ろしいしご免被りたい気持ちはある。
だが、根源的な敵というものが仮に居たとしたら、それは件の強姦相手であり、本当に私をぶっ壊す事がその場の全生命を賭けた博打であるという人間でない限りは…敵というのはほとんど居ないと言っていいだろう。
仲の良くない人も、この私こそがぶっ殺したいと願って止まなかったいつぞやの隣人も、敵というよりも…敵未満の何か、ゲームの中で殺すゾンビみたいな存在だった。
そのせいか、集団というものをいつも外側から眺めて過ごしてきたように思う、これはもうずっと昔からだ。

 

この感覚が強いが為に、人と話すときにこそ本音で話した方がいいという思いが私にはある、これは一見綺麗な言葉だが、集団性を重んじる人には大変疎ましい性質でもある。
私の感覚では、実益に関係無いことでも本音で接した方が「その場の密度が上がる」為、「対面した時間が無駄にならない」ような気持ちがあるが…
集団というものの空気を読むことを、自分のはたらきであると自負している人の場合は、それが口先だけの同意や同調であっても場が和む方が正義であるということになる。
で、そのような人が私に接した場合、先ず悩むようなのである。
私という人間が敵なのか味方なのか、とんでもなく空気が読めない人間なのか、あるいは…
そういう事がとことん、私を見る人には見えないらしいのである、これが私の、職場での悩みだった、逆に言えば世の中の人の不安感というものは押し並べて言うと「敵が怖い」という事に尽きるのではないかと思った。

 

相手に安心感を与えてやれないということと、集団性を重んじる人の根源的な「敵が居たらどうしよう」という危機感そのものに対する「苛つき」を覚えてしまうこと、これが私の欠点だ。
顔は笑っているのに喋っていることが少しも本音で無い人は特に職場という場所には沢山居て、怒鳴る人よりも沢山居て辟易した、私が不快感を感じるのは一般的に言う怖い人よりも、平和主義者たちだったのだ。
私は小さな事にいぶかしさを感じていたとも言える、対面したその人の顔色が悪いのにその人が明るい事を言っているとき、言ってくれているのだと明確に解る時にすら、私は思った。
「本当の事を話してくれないのならば、話していたって時間の無駄なのに」と、私は一方的に、数多の愛想の良い人に対して何処か裏切られているような苦々しい感覚を抱きながら過ごした、この感情が仕事をする上での邪魔な荷物のようなもので、苛々した。
そして自分の器の狭さにうんざりしていた…これが、私が、「仕事」に関して明確に「苦労」してきた部分だった、仕事に対する努力ではなく単なる苦労の話である。

つまり私は集団で仕事をするということに向いていない、周りの迷惑ってレベルまではいかずとも、私には気質的に向いていない。

 

一人でコツコツとやる仕事の規模の小ささ

身体の事もあって通勤するということから現在はドロップアウトしてしまったが、社会からゆっくりと隔絶されてゆくと、M氏のような「人を理解させやすい人」というものがいかに、対面して働く上で必要なのかがよくわかる。
私にとって空虚で、どこまでも合わせ鏡のように疑問に疑問が生じて行く人間関係の波の中で働くのは確かに今思えば、しなくていい苦労をするという点では無駄だった。
しかし実際にはこうやって社会から逃げれば逃げるほどに窮するようになってゆく。
社会から逃げた分だけ使う金もぐんと減るのだが…、稼ぐお金も無くなるので何の実益もないのだ。
社会や人間関係というものに気を遣わずに(私の場合、気を遣ったところで相手には影のような存在であるためにいつまでも謎な人物であり、理解に至らないと最早解っているのでそういう事に関して努力する気力が無いのである。)自分の仕事だけを突き詰めて行える職とは一体何だろうと思う日々が増えた。
通勤せずに、手に職をつけて、その職をいつまでも向上させる事の出来る何か…実益があって、尚且つ、この仕事を喜んでくれる誰かが居る仕事。
とりあえず洋裁を習っては居るし、手が鈍らないように運針を朝やると決めて過ごしているが…これが実益に転じるのって果たしていつだろうか?
そりゃあ棚からぼた餅のようにある日唐突にホイホイとものが売れるとかの妄想は無謀だろうが…私がやりたかったジャンルでの商売は実際には禁止されていると知ってから、少しめげている。
洋裁は続けるが、自分の意志でやりたいと思った事が出来なかったというのが結構キている。
現在やっている仕事に内職があるが、本のフィルム貼りには基本的に「自分の意志で独自性を持たせる」という事は出来ない、創作をやる上で一番楽しい事が出来ないし、スキル向上にも限度がある、この作業はそれほどに簡単だからだ。
楽しいが、面白くは無い、だが有り難い仕事ではある…一日の内ほんの少しでも世の中の誰かの為になる事をやれているという実感はたしかにあるから。

でも一人コツコツとやる仕事で一体いくら稼げるのかは…内職を基準に考えると恐ろしいほど少ない。

一人でコツコツやることに拘るとすれば、規模が(一人でやるので)小さい分、小さな利益しか得られないという諦めが必要であり、同時に、いくつもの小さな仕事をやるという…お手玉をいくつも同時に進行させるような感覚が必要になってくるように思う。

 

こうなってくると天職というものが果たして「一つの仕事」を指すのか、あるいは一人の人間のこなす仕事や生き方を複合して「呼ばれている状態」に在ると判断するのか…わからなくなってくる。

 

金銭への根源的な不信

金銭への根源的な不信感として思うのは、株をやっているときに感じたりする。
株は楽天証券でごくごく少額、たったの5万円だけやっている状態であるが、この5万で私が何を買ったかというと米国銀行の証券である。
つまり私は散々資本主義の富の一極集中を「是とはし難い」としながらも、実際には損をしたくないので諸手を挙げて5万をつぎ込んだのである…どうか笑ってくれ、弱い私の事を。
これは悪事なのだろうか?
…このように「自分ではそこまでその企業に一人勝ちしてほしくもない気持ちもあるのだが」「周囲の空気的に勝ちそうな雰囲気のあるところへ自分も加担する」というこの思考回路は果たして、許されるものなのだろうか?
万事が万事このようであるから、世界は永久に「世界全体で考えたら」貧困から抜け出せないのではなかろうか?

 

世界が貧困から抜け出すために

私が天職というものの判断に第五の要素、⑤を付け足すとしたら…

⑤自分が利益を出すことによって全体の地球環境や概念を含め、利益と成り得るもの

という項目である。
何処かの企業がボロ儲けして、その企業のやるはたらきは果たして地球にとって為になる事なのかそうでないのか…
その企業が勝つことによって周囲の中で蹴落とされる企業や人々はいないのかどうか…
無論この第五の項目、天職の第五の項目をクリア出来る企業というものはごくごく少数か、存在し得ないかのどちらかだろう。
農業ですらこの項目を満たせない。
農業ですら環境破壊の一端である。
皆が皆、自宅の庭で野菜を各自作り、収穫し、食べられる分だけ食べて後は売るというような小規模な世界を形成しない限り、ほとんど何もかもの企業が無くなったほうが世の為である。
絵の具すらも環境破壊に近いという点では、絵を描く事すら、膠で顔料を溶く以外の製法では是としにくいだろう、他の概念を潰さないという点では宗教も危うい。

 

私が「天職」に在ると感じる人に、先生が居る。
彼が自己完結しているからそう思うのかも知れないが、彼はほとんど第五項目を含め、確かに天職に就いている。
私が天職に至るにはおそらく、沢山の小さな仕事をこなさない限り不可能だろう、M氏と居るのも私の道…逃げ道のうちの一つで在り、私には矛盾していないが傍目にはただ寄生しているだけだろう。
絵を描く、洋裁を続ける、内職を続ける、家事をやる、株をやる…この種の物事の複合型を天職と呼ぶしかないような気もする。
その全てに、結局は他人が絡むのだと解ってはいる。
他者の為にならないことは仕事になり得ないのだということも。
だからこそ、絵には鑑賞者という的が必要で、この的が無い限り絵の世界に行くことは叶っても、絵の世界をその場に「持ってくる」事は不可能なのだ、絵のピントというか焦点というのは描き手が鑑賞者のピントを絵に落とし込めるか否かにかかっている。
絵は、鑑賞側にぎゅっと尖って山が出来ているのが良い絵というものだ、ピントの合う一点が生じているのが良い絵だ、この良い絵を描くにはどうしたって…鑑賞者の存在が必要不可欠なのだ。
先生には本来、もっと真剣に頼まねばならないのだ…傍目に不審であっても、自分が本当に探し求めているのだということをもっと頼まねばならない立場なのだ。
今年も数枚絵を描いたけれど、絵の世界をこっちに持ってくる事はあなた無しには叶わなかったと、正直に言うべきなのだ。

 

正直に話すのは確かに恐ろしい、本音で話したその時点で、双方には責任が生じるから。
つまりこの場合、先生には絵を鑑賞するという責任が生じ、私はその責任を背負わねばならない、言ったことから逃げることは出来なくなるのだ。
私は個人の範囲では言ったことはやっている、人の手を借りてでも家を建て、何が何でも絵を描くといったら描いてきた、だがそれは個人の範囲であって社会的な物事とは無関係の地点での話である。
自分の意志を語るっていうことは、本当に個人になるということでもある。
絵を描いている時に至る場所、時間の集約された場所には一人でしか行けない、全くの自分自身でなければ行けないあの場所を、こちら側に持ってくるには…他人の力が必要なのだ。

 

一人きりであるのと同様に、他者の力が必要なのだ。
先生との人間関係と、鶴の人との関係が矛盾しないのかと思われる方もいるかもしれないが、両者との関係は少しも矛盾しない。
何故なら、私、先生、鶴の人…三者三様に、私から見たら孤独であるから、M氏もそうだろう。
孤独というのは実際に一人きりとか、自分だけで生きているという話ではなく、その人の軸が個であるということ。
自分の思考は相手の思考というような集団的な状態でないということ…そのせいか、思考の枠がかち合ったりしないで済むのだ、少なくとも私にとっては。

 

鶴の人の軸は食事とアート、らしい、彼の天職は料理人兼ギャラリストなのだろうか?
天職というものが一つきりでなく、複合した状態である。

 

私がお金と仕事について思うのは、逃げ道もあってもいいのではないかということ。
私の場合の逃げ道はM氏だが(無論これはM氏の側にもメリットがある、妻帯者という会社内、実家に対してのメリットである)、それが何であれ「あの一点」に触れて過ごせるのであれば、そこに到達し得る道筋を毎日自分に課すこと以外に、生きる道ってないのではないかということを考えている。
また天職というものも果たして一つのものを指すのか、あるいはいくつもの物事の複合した状態を指すのかは、その人次第であるようにも思われる。

 

実益が社会的善であると認識出来た時に、私のお金への不信が消えるのだろう。
また、実益が社会的善で在り、その実益というものが他者からもたらされるものであると知るときに、私の根源的な集団への忌避癖も直るのだろう。
そして私が精進するという状態を形に出来た時に、他者は私への理解を示すのだろう、先生がそうであったように、君はこのような人物だったのかとその時に初めて理解されるのだろう。

 

正直な所、既に社会からドロップアウトしてしまったので、仕事について考えると甚だ不安である。

 

けれども出来るならば天職に辿り着きたいと思っている、そのような一点に至る道を歩いている、道には何の道標も無い。
身体の外側へ行ったところで誰がどのくらいその道を歩いているのかどうかは、実は誰にも解らないのだ。
誰にも理解出来ないのだ、当然ながら誰にも理解されないのだ。
つまりお金と仕事と社会の善を考えれば考えるほどに、私はもっと、無理解というものに対して寛容にならねばならないと、職場に通っていた時以上に強く思い知らされるのである。