a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

常識

 

常識って何だろうか?

 

両親は働いていない、まだ定年には満たない年齢だがだいぶ長い間働かずに株投資で生きている、それは常識的だろうか?
私を抱いたことの無いM氏が私の夫であるということ、これも常識的だろうか?
私と付き合っている変人さん(愛人…と言う言葉はやっぱり使うのが難しい、不倫、愛人、等はそう遠くない未来に死語になるだろう)は妙に性欲が強く、今までの女も多いがこれも常識的だろうか?
巨大な立体芸術像を制作する精神状態は果たして人間として常識的だろうか?
没頭して絵ばかり描いているというのは常識的だろうか?
毎日株ばっかやっているのは常識的だろうか?

 

その人がその人自身の欲求に従って生きる事を、互いに許し合える所に居心地の良さが生じ、利益も生じるように思う。
何故なら、今両親は富んでいるから、常識というものから抜け出た彼等は富んでいるから。
もし仮に両親がこのブログに辿り着いたら、勿論私を批難するだろうが…それでも、結果的にその批難は私の振るまいだけではなく、M氏の性的不能(のような状態)だとか、変人さんの強い性欲や抑圧した創作欲へと結びつく。
つまり、彼等の欲求や在り方を許さない限り、「常識的におかしい!」と、他人を枠に当てはめて苦しむ事になるのである。
だから一概にM氏が可哀相でもなければ、変人さんが悪いわけでもないのだ。

 

私は変人さんの元奥方が、変人さんを「性的に異常だ、病気だ」と言って彼を病院に通わせようとしたのを聞き、なんだか苦しくなった。
彼女からしたら変人さんは「常識的でなく」、また「常識的でなくてはならない」存在なので、枠組みから外れた彼を病気扱いしたのだなと思う、で、この摂理は結構近年蔓延しているように思う。
自分を軸にした常識を相手に振りかざす人間を私は嫌いである。
とはいえ、彼女は彼女で…きっと「常識」を押しつけられて過ごした人間なのだろうと思ったりもする、自らが常識に狂わされたのかなと思ったりもする。

 

さて、学校になじめなかったら病気だろうか?
出勤が出来なかったら病気だろうか?
常識的な振る舞いが出来なかったら人間ではないのだろうか?

 

その人の在り方を認めるからこそ、いい関係が築けるのだと思う、その人の振るまいが嫌だったらそれは素直に伝えるといい、浮気しないで、私だけを見て!とか。
でも浮気をしたら駄目!とか、私を見ていなきゃ駄目!というのは関係性としてどうだろうか。
勉強しなきゃ駄目!平均点以下になったら駄目!とか…ゲームは頭が悪くなるから駄目!とか、普通の人はもっと頑張ってるんだからあなたも頑張ってよ!とか。
そういうのって、それを言う側の押しつけだと思う、この押しつけをした時点で関係性は悪くなる。

 

私は両親と話していて強く思った…20年前から「自分たちの生きたいように生きる」生活をしていれば、誰も互いを蔑ろにするような事は起こらなかったのではないか?
両親だってもっと早めに会社を辞めて、楽しいという気持ちで株をやりながら生活してそのノウハウを私個人に教えていてくれれば、こんなに大変な気持ちで過ごさずに済んだのではないだろうか?



この20年て、はっきり言って、無駄だったんじゃない?
私も両親も、すごく無駄な努力をしていたんじゃない?
常識的になろうなろうと、自分をいつも「何かに満たない」存在として、自分自身を辱めて、常識に満たないと感じた他人をも、見下していたんじゃない?

 

M氏との関係性も、はじめの一年は私がこの思考にはまってしまい、私は言ったのだ、最も人を貶めることを言ったのだ、「勃起しないのなんておかしい!病院に行こうよ!」ってね。
うん、つまり変人さんの元奥方と私は似ている部分もある…私はね、外に恋人(っていうのもなんだか言葉に違和感があるけれど便宜上使わせて貰う)を作るのなんて、そんなに悪いこととは思わない。
けれど、人を「常識以下だから病人」だと、つまり人間以下、男以下だと貶すことほど悪いことはそうそうないと思う。
だからM氏の事は、世間的な不貞よりもずっと、病院に行けなどと言った時点で傷つけている。

 

常識っていうのは魔物なのだ、時に最も人を傷つけてしまう、人間を人間ではないと言い切ってしまう太い牙の魔物。
常識という意識の強い国や民族って何だか差別感情も強そうな気がしてしまう、おそらく人を「おかしいかまともか」で区切るので、何かが起きれば非情になってしまえるのだろう。
そう思うと常識という意識は大量の病人を生み、戦争が起きた場合には大量の殺人者を生じさせるだろう。

 

ずっとゲームしているのって異常だろうか?働いていれば許される?楽しみはいちいち他者に「許して」もらう事なのか?何かすれば「その分の楽しい事」をしてもいいのだろうか?
常識に到達するまでは楽しい事には触れられないのだろうか?
絵も描いてはならないし、株なんぞはギャンブルなのでやってはならない、「常識的な事」や常識的になるための努力をした場合にだけ「楽しい事が許される」のだろうか?

 

そうだよ、このために20年もかかってしまったのだ、きっと両親も私も。
常識への努力…これに20年もかかってしまい、さらには互いが「常識に満たないから」という理由で憎み合うほどになっていたのだ。
絵を描くときの意識は常識とは違う。
男女の性愛も、庭の施工も、株も。
生きる事の活力は、個々の軸にしか宿らないのだ。

 

日本で言う常識という軸にはきっと、第一次産業の視点から見た「役に立つ働きをしろ」という教訓が込められている。
身体を「楽しく」させてはならない、必死に「動かさねばならない」、農業や漁業での「皆に合わせなければならない」という意識…それが出来ない奴は人間以下だという暗部も見え隠れするが、根本的にはとても神聖な意識なのだと思う。
日本人が古来から営んできた約束事が込められている、この約束事を守ることが常識なのだという強い呪文が皆に刻み込まれているのだ。

 

でも、常識というものに対し、笑って手を振って良いと私は思うのだ、その意識とさようならして良いと思うのだ、それが仕事への誠意を踏みにじる事ではないと私は思うからだ。
第一次産業尊い
しかし、全く同様に「楽しい事を追求する」事もまた、尊いのだと私は思う。
甲乙はつけられないのだ、株なんてのは視野を広める異様な楽しさがある点ではもう、思考的遠征のようなもので、独特にアドレナリンが出まくるから、気質的に余計日本では疎まれるのかも知れない。

(株について語る女ってホント、稼いでいようがいまいが株人口の少ない地域だとモテないと思う、脳みそが若干狩猟系及び探索系にシフトする感覚があるので農耕系の男に疎まれるのだ…ただ、変人さんはどんな女でも抱けるので気にせず書くが。

ちなみに、株を好んで分析しているのは父だが、株で大きな利益を出したのは父ではなく母である。)

 

農業も尊いが、狩りもまた尊いのである、道の場所への探検も尊く、ゲームも尊いのだ。
絵も素潜りのようなしんどさと不思議さに満ちている、創作も尊いのだ、遊びも尊いのだ。

 

私は変人さんに支えてもらっている。
私の心の中で叫び声があがるのだ、「こんなことは描いてはならない」「こんなことは書いてはならない」「こんなことは常識に反する!!」と、しょっちゅう叫び声があがるのだ。

 

それを変人さんが言ってくれたのだ、「どんなに常識に反した事を表現しても僕は貴女を全肯定します」と、出会うよりも以前に。
私は一生忘れないだろう。

 

これからは、失った20年間を取り戻したい、自分や他者の常識外と呼ばれるものを、許してゆきたいと思う。

 

 

 

金銭コンプレックスと株の醍醐味


日本という国が何故金融教育をしないのか心底疑問である。
率直な疑問として、金融教育をして皆が株で利益を出せば、確実に国は税を徴収出来るのである…国民が総じて株をやったほうが国ごと儲かると考えるのは安直だろうか?
ここで言う株とは株の売り買いについての取引ではなくて、配当金の話である、配当金も利益に換算されるので確定申告が必要になる、つまりこれは歴とした儲けなのである。

 

金銭に実体は無い、金銭に実体は無く、それは数字である。
お金を稼ぐには苦労しなくちゃならない、誠実でなければならない、毎朝起きてきちんと仕事をしなければならない。
なるべく貯金しなければならない、貯金したお金をいたずらに動かしてはならない…稼ぐのは自分(の頭、及び身体)であって、お金が勝手にお金を稼いではならない…。
私も両親も長らくこう思って生きてきた、だから勉強が出来ないと怒られ、稼げないと自責の念に駆られ、貧乏という言葉自体がタブーであった。
お金というものに対する誠実性を過度に求めている、ガソリン一滴血の一滴じゃないけれど、一円という実体の無い数字に対して何か「心」を植え付けようとしていやしないかと自問する事が度々あった。

 

お金に対するタブーは、私の場合元を辿ると「勉強が出来なくて怒られた」みたいな悲しさに繋がってゆく、稼げなかった自分、出来なかった自分、価値のない自分。
そしてお金に対するタブーは、そんな「自分の痛々しいものが込められた数字」そのものが怖い、みたいな意識に発展する、少なくとも私には結構こういう部分がある。
だからお金の話は人前で語ってはいけない、お金の話は往々にして性の話よりもタブーで、人様を最も切実に「辱めてしまう」話なのだ、という思い込みが私にもある。

 

そんな私の両親は、若い頃あれほど「金が無い」と繰り返し言ってしょげていた癖に、今はその金銭コンプレックスを抜け出している、株で生活しているのだ、厳密には株で儲けたりもするが、主に株の配当金で生活している。
彼等の金銭コンプレックスを真に受けて育った私もまた見事に金銭コンプレックスを抱えている、よって金銭コンプレックスを脱した両親が若干憎らしくもある、これでは殴られ損である、私も儲けなければ完璧な殴られ損である、家を出るまでの20年間も金銭コンプレックスを植え付けてくれた相手なのでそれ相応に見返りが欲しいところである。
私の金銭コンプレックスは恐怖にも転じている、勿論この手の恐怖心はとても大事なモノで、これがなくなると暴走的に賭け事をしてしまう…そう、賭け事。

 

「株」と聞いてどんな気持ちになるだろうか?
金銭コンプレックスのある私としては、「うちの親大丈夫かな」とはじめのうち心配になった、株というものを知らないからである、賭け事で生活しているのと変わらないじゃん!という意識なのである。
株には3種類あって、現金取引、信用取引先物取引とある…このうち後者2つははっきり言って、ほとんどヤクザまがいのギャンブルである、首を吊る覚悟でやるギャンブルである。
現金取引の場合は「手元にある現金」しか無いので、大損する事は無いと言える。

 

そして株と聞いてさらにどんな気持ちになるのか。
株をやる奴は胡散臭い、そう、胡散臭いのである、上から目線で胡散臭いのである。
「初心者」という言葉が株を語るサイトでは頻繁に出てくるのが株初心者の私としては非常にウザい、初心者ってなんじゃい、そういう事言うから株人口が増えないんだよと言いたくなる。
誰かに苦手意識を植え付ける物言いが溢れているのである。
皆で学びあって、儲けあってゆくみたいなスタンスが必要なのではないのか?と疑問になるほど、「初心者には無理」と言っている輩が大勢居て辟易するのだ。
まるで株人口が増えたら困るみたいな様子なのである、ふむ、株人口が増えたら実際困るのだろうか?
日本人が大勢株で儲け始めたら個人への配当は薄まるのか?

 

私は株素人である、金銭コンプレックスとかについて考えたのもホントにごく最近、ごく最近というか人生30余年、今日本日付で考えたくらいである。(私にとってのごく最近は、ほとんどの場合「今日」を指している。)
私は親に質問した、小学生が親に何度も世の中の摩訶不思議を尋ねるように質問責めにした。
株式というものが出現してからもう何百年も経つが、基本的な形式は「株主に配当を配って株価を上げ、実益を出す」のが株式会社である…株を買う人が増えたら株式会社はどうなるのか、及び、世界の株式市場はどうなるのか?

 

「株をやる人口が増えたら、たとえば日本中の人が株をやったら株式は飽和するの?株が大暴落するみたいなバブルが弾けたりするの?」
「原則、株人口は数学理論的に考えて、地球上何処まで増やすことが出来るの?」
「株は宇宙と共に膨張しているの?」

 

両親からの答えは、「株人口が爆発的に増えたら株価が全体的に上がるだろう」、「株価が上がると株を買うということに少しお金が高くかかるようになるかもしれない」、「株バブルは弾けないと思う…宇宙が膨張期にあるから」、とのことだった…コレが何処まで的を得ているのかは不明である。
一番的確な答えは、「株価が上がりすぎるのを国の銀行が抑えてくれるからバブルは起こりにくい」、「株は利益として存在し、同時に国債があるから数学的爆発は起こりえない」、「株価が上がりすぎるのを抑える気配を皆が感じ、株価を買っている金銭をそのまま、国債に移行させるので、株だけが爆発することは起こりにくい」とのこと。

 

例えば皆が一つの会社を選んだとする…それでも「皆が、そろそろこの会社の株価が上がりすぎてきたなあ」と感じたら、その会社の株価は皆の気配と共に徐々に下がってゆくのである。
その原理で行けばどこまで株式市場や株人口が増加しても、パニック的な数字は原則、起こりにくい…らしい。

 

…?
富は、富そのものは一定なのだろうか?
それとも富そのものが膨張しているのだろうか?
株、というよりも富という概念で考えよう、富そのものは古代から一定なのだろうか、古代というか…富というものは、海水みたいなものなのだろうか?
海水は古代から一定なのだろうか?膨張したら陸地を飲み込み、その分氷が減り…地球上の水分値がほとんど変動しないように、皆が利益を得ることが出来る上限というものに限度はあるのだろうか?
株式という数学的富に、果たして臨界点はあるのだろうか?

 

そして私は、世界中が豊かになればいいのにと、青臭いだろうが、切実に思っているのである、いい歳して実に馬鹿正直に「皆がしあわせになればいいのに」と考えているのである、しかし残念ながら頭が追いつかないのである。

 

つまり私の疑問は「世界中の誰もが株の配当金を得ることが出来れば、世界中の誰もが利益を受ける事になる、そうすると今度は金銭そのものの価値が下がってしまうのか、あるいは株価全体が高値になり、結局貧しい人が株を買いにくくなり、貧困が生じてしまうのか?」ということである。
例えば、私一人が株式市場に参加したことにより、世界で「一人分」株人口が増え、世界で「一人分」株が高値になるのである、株の投資というものは株式会社に於ける人気度である。
これが世界中の人が参加した場合、理屈で考えると株式人口が増えた分だけ「株式市場は活性化する」と考えても良い。
活性化するということは株式市場に登録している株式会社全体の活気が増え、総じて利益が出るのではないかと素人考えでは思うのだが…どうなのだろうか?

 

そしてさらに言うと、さっきからここでずっと言っている株という概念は、株を売ったり買ったりを頻繁に繰り返して利潤を得る株取引の事では無く(それでは損得が生じやすいため世界中の人が参加しても貧困は生じてしまうだろう)、長年株を保持するやり方で「配当金」だけを得る、大人しい株取引についての話である。
株というものは、誰かが株券を買ってくれて、株式会社の人気度が上がり、結果的に株式会社が儲かり、その配当を出すというシステムになっている。
よって、配当だけを狙うというのは「株式会社が倒産しない限り」お堅い取引なのである。
世界中が数式上、幸福になる事はあり得るのか?
世界の数式上の幸福値は上昇し続けているのだろうか?
両親の言うように「宇宙が膨張期だから」膨張し続けているのだろうか?
富は膨れ上がっている最中なのだろうか…?

 

株式市場に世界の人全員が参加すれば株式会社がその分儲かり、世界の全員分配当金が配られ、皆が少しでも豊かになる事は実現可能なのだろうか…?

 

解けない謎はそのままに、冒頭に戻るが…日本という国が何故金融教育をしないのか私は心底疑問である。
率直な疑問として、金融教育をして皆が株で利益を出せば、確実に国は税を徴収出来るのである…国民が総じて株をやったほうが国ごと儲かると考えるのは安直だろうか?
世界中とは言わないまでも、日本中が株取引で配当金を得た方が、それがどんなに少額でもかなりの税を徴収出来る、一人100円の儲けでも20円は税に出来るのだから。
小学生のうちから金融教育を義務付ければ、格差も少なくなるだろう。
何故なら格差とは…金銭に対するコンプレックスを親子間で引き継ぐ事に他ならないのだから。

 

この金銭コンプレックスから抜け出さない限り、金銭に対する楽しい話、面白そうな話、何より…「自分が世の中に参加していると感じられる話」が出来ないのである。
この金銭コンプレックスを拭うためにも授業で金融教育をすべきなのだと私は思う。

 

あっちゃ~この女、とうとう株の洗脳を受けたのかあ~、無職だもんなあ~…と、これをお読みの方々はちょっと心配になるかもしれない。
否定はしない、恥ずかしながら実にその通りである、実の親から株教育を受けて目玉がドルマークに転じている最中である、とはいえ配当金目的の株なので、利益は僅かである。
…元手が少ないので…私の場合、黙ってバイトした方が儲かるくらいの金額しか望めない。
それは株取引だろうか?
それでも株取引だと私は言いたいのである。
何故なら、株取引の真の目的は、お金であってお金だけではないのだ、株の醍醐味、株の真の目的はただ一つ、「世の中のゲームに参加して楽しみたい」という強烈な欲求を満たすことにあるからだ。
これを楽しいと思えたらもう株の人である、と私は思っている。

 

テレビやネットを見ていて、「つまらない」と思った事はないだろうか?
ニュースでも何でもいい、目の前で起きている事が…すごく遠くに思えることが、ないだろうか?
事件事故、どっかの会社間での込み入ったやりとり、どっかの国の大統領や王様の振るまい…そういう物事に、「でも自分の生活にはほとんど無関係だし」と思ったりしたことはないだろうか?
私は結構思っていた。
だからこそ日本のテレビというものをもう久しく観ていない、芸能人とかも元々興味が無いのでほとんど一切知らない、3.11以降、ニュースやマスコミが本当に信頼出来なくなったので観たくも無いのである。
この前も日本のマスコミでは一切報道しない海洋上の事故があったが…そういうものと自分とが、遠く離れているように思えたりしないだろうか?
ただ…このまま目を瞑り続けて生きてゆくには、人生は長すぎるのだ、それは何だか…私自身ですら寂しい生き方だと思うのだ。
日本のマスコミ叩き(つまり無視)をして人生を終えたいのでは無い、世界と関わり合って生きてゆきたい気持ちが私にもあるのだ。

 

世界と利益アリで関わってゆきたい、何か「学び」ながら生きてゆきたい、株を人生の趣味のひとつに据えたい。
世界で起きている出来事を知って、世界の株価の変動でその余波を知り、自身も世界に参加してみたいのである。
日本の株は配当が少ないので余所の国の株を買う予定だ、それでも証券会社は日本のなので、利潤は日本に入る仕組みである、税は日本に入るのだ。

 

私の文章はどこまでも独白だが、世界に参加しながら利益を得ること、金銭コンプレックスから抜け出る事を…私は新たに追求しようと思う、もしこれが誰かの価値観を幸福に転じる少しの引力になったのなら、私も独白冥利?に尽きるなあと思っている。

 

 

 

 

両親の死への願望と自殺幇助について

 

「河豚を食べて死ぬ」
と両親は言っている、彼等は自分の両親が齢八十を超えてどのように自分自身を忘れ去ってしまったかをよく見ているので、長生きしても無意味だと悟っているのだ、だからあと10年20年で死にたい、尊厳死を実行に移したいと言っているのである。
しかし死にたい死にたいと言っている人が側にいて、それが血縁の場合結構引きずられる気がしている、両親の側に居ると私まで死にたくなってくるのである。
理論的に「歳をとるという絶望性」について語られるともう駄目だ、本当に生きているのは苦行だという気分に飲まれるのである。
見事に死に飲まれている。
人生は虚無である…尊厳死にはこのように、人を暗い気持ちにさせる一面もある。

 

別に今死ぬ意味は無いのだ、が、全く同時に…残念ながらあと何十年も生きる意味も大して無いのである、特に客観的には今、34歳無職が死んだところで世の中の誰も不利益を被らないのである。
え?
旦那さんがかわいそう?
愛人がかわいそう?
別に可哀相じゃないよ、旦那も愛人も、つまるところ他人なのだから。
旦那は「性や死」の話題はとことん嫌うので、私は彼の前では性と死を一切語らない、人間関係とはこういうものだ、だから一緒に居られるのだ、触れてほしくない部分には触れないというのも優しさのうちだと私は思っている、だから私が死ぬときも自分の意志で死なせてもらう。
愛人は…当然他にも女が居るだろうし、私が居なくなっても次の女を見つけられるので心配する必要そのものが無い。
死というものは突き詰めると個人的な出来事である。
本人しか体感し得ない出来事である。

 

よってこの種の問題に「あなたを必要な人がいるから」とか「あなたには死なないでほしい」みたいな相互関係を持ち出す輩の気が知れない。
個人の本質的な問題には相互関係は立ち入れないのである、だから自殺はなくならないし、自殺は悪いことではないのだと私は思う。
だからこそ私は両親の死について、彼等個人が死というモノを直視しているという点で、止める気も毛頭無いのである。

 

客観的にも主観的にも、歳をとるごとに肉体的存在は無価値になってゆくのだ…ああ、楢山があったなら。
楢山があったのなら人は70歳までは我が物顔で生きていられたものを。

 

楢山というのは小説、楢山節考に出てくる姥捨て山で、70歳になったら「お参り」に行ってそこで死ぬ、死に山の事である。
姥捨て山については年寄りを蔑ろにするとかそういう負のイメージが先行していたが、かなり以前から両親は独特に感銘を受けており、この小説や姥捨て山という存在について独自の解釈をしていた。
「姥捨て山があれば、少なくともその年齢までは楽しく堂々と生きられるし、金銭的にも貯蓄の計算がしやすく、人生を楽しむ事に従事出来る」…と両親は言っていた。
姥捨て山なんて酷いとか、人生の末路が捨てられて死ぬなんてまっぴらだと言う人々もおられるようだが、姥捨て山とは本来「自ら出向いてゆく場所」「自らお参りする場所」なのである…と両親は言っていて、小さい頃はその意味があまり掴めずにいたが、今は同感である。

 

両親は主に父方の祖父母の介護を献身的に行った。
祖父母の貯めているお金を整理し、施設に入れたがそれでも足りなかった為、結局父が自分の両親にお金や時間を注いで看取ったのである。
施設に任せきりにしたのだろうと思う方もいるかもしれないが、父は、娘である私のとは強烈に相性が悪かったし殴ったが、祖父母のところへは働いていても週に1~2度は顔を見せ、仕事を辞めてからはほぼ毎日通ったのである…ある一点に於いて屑だと思われる人間の、その側面全てが屑というわけではないのが人間の面白い所である。
そして父は自分の両親が死ぬまで金を支払い続けたのである、祖父母の死んだ具体的な年齢を私は失念した、冷たい孫である…でも仕方が無いのだ、私はどういうわけだか血縁者と仲良くなれないのだ、仲良くなれない相手の年齢など覚えていられないのだ…確か90くらいだったと思う。

 

「なんとか施設に入れた」
といって父は笑っていた、介護施設の職員に情熱的な男が居て、呆けた祖父に「来年もまた桜を見ましょう!!」と語っているのを父は冷めた目で見ていた。
祖母もまだ祖父の介護をしていたのだが…祖母は元々祖父が嫌いだったらしく、実に無感情に動いていたように思う…はたから見たら献身的な愛の一場面にさえ思えただろう。
だが、祖父の長生きは祖母にとって毒だった、祖母は自らの毒抜きをするためか、祖父を看取った後急速に呆けた、そして私に何度も言った、子供時代の私に言ったことを何度も言った。
「あなたは絶対に自分の好きな人と結婚しなきゃ駄目」
その言葉は一種の呪いで、それを聞く度に私は「ああ、きっとそれは私にも叶えられない事なのだろう」と観念したのだった、子供の頃から。

 

とはいえ、愛人が出来てからは…つまり今年に入ってからは考えが少し変わった。
誰か一人に全てを求めてはならない…もっと言えば、自分を数多の誰かに与えてゆくやり方でなら、誰の事でも愛することが可能なのかなと思うようになった。
だから祖母には安心して欲しい、そう声をかけたい気もするが、80歳以降の祖母は誰の事も忘れていたので私は見舞いにも行かなかった。
祖母という役柄では無しに、祖母その人自身を好いていたのなら私は見舞っただろう…だが、祖母は、祖母という役柄の人だった、よって私は見舞いには行かなかったし、祖母も私自身を「あやちゃんは?」等と呼ぶことは無かった。

 

父は私を「冷たい奴だ」となじった。
さて、両親が高齢者になったら、父の役割をするのは紛れもなく私である、冷たい私である。
それは血縁者の誰もが無意識的に感じている物事で、私自身も嫌だとか喜んで介護したいとかそういう次元の話では無く、肉体が半ば自動的に両親の介護へ向かうように設定されているかのように、両親の介護を何となく受け入れている。
両親は施設に入る気は無いらしい、施設というものは飯風呂洗濯といった基本的な仕事までやってくれてしまう、些末な家事から人が完全に、ある日突然開放されたら…呆けて相手の仕事を増やしてやるくらいのはたらきしか出来なくなるのも当たり前といえば当たり前の話である。
そして、二人とも人生のリミットを80と決めているのである、冷たい私は二人の死を、どのような形であれ正視する、それが役目なのである。

 

祖父母も、70代は元気だったのだ。
70代はまだ山登りをしたり、日々の雑事をこなしていたし、戦時中の生まれということで年金も現在支給されている額よりもだいぶ多かった、老人二人が余裕のある暮らしを営めたのである。
そういう事も彼等の元気さの秘訣だったのだろうと今は思う。
人間の寿命は延びたが、何も若い時期が延びたわけではないのだ、100年前の人間と同様に細胞は朽ちてゆくのである。

 

確かに祖父母は、80歳を過ぎた途端に身体にガタが来て、脳の血管が詰まったりあれやこれやで、急速に自分というものを体感出来なくなっていったのである…世の中が皆80歳を過ぎたら認知症が悪化するのかといえばそうでもないのだが、「いつ死んでもおかしくない」状態のまま生きていたくないというのが父の本音だろう。

 

「ねえ、お父さんもお母さんも注射が打てるよね?お互いに打てば?」
庭いじりを始めると色々な薬剤を目にする、多種多様な液状の虫殺しがホームセンターに陳列されている。
毒物というものは口から摂取しても無駄である、人間には嘔吐反射があるのでどうしたって死ぬ量の毒物を胃がら先へは飲み込めない仕組みになっているのだ…普段から大量の向精神薬などを飲んでいる場合この「毒物に対する身体反射」がかなり緩んで、結果的に死に至る量の薬を飲み込めそうな気がするが、それは普段から薬で自分を慣らさねばならないので意味が少し異なってくる。
つまり両親は「今すぐ死にたい」のではないのだ、緩慢に死に至る10年20年を過ごしたい訳ではないのだ、頭がぼんやりとしたまま人生をやりたいわけではないのだ。
「タイムリミットまで生き抜きたい」ということなのだ、両親の死というものは、勿論前者も若干含んではいるが、ほとんど後者なのである。

 

毒物を整脈注射した場合…
とか書くと何か法に触れるだろうか?
中枢神経が綺麗なまま、呼吸器系統だけが蝕まれるキッツい毒物も、農薬にはあるので、一概に毒物を整脈に打ち込めばいいというもんでもないのだ。
意識のさえざえしたまま自分が死んでいくなんて嫌だろう、いくら死にたがりの両親とは言え、一週間も目の開いたままじわじわ死ぬのは嫌だろう。
とすると毒物系を摂取する場合予備知識が必要になる。

 

河豚毒って実際どうなのだろうか?吐いてしまったら死ねないのだ。
それだったら毒キノコの方が野山にじゃんじゃん生えているだろうし、大量摂取が可能な気もするが…問題は嘔吐反射なので、毒キノコを煮詰めて、毒を抽出して、それを整脈注射すればいいのではないか?
…ここまで書いておいて私自身は注射出来ないのである、技術的にも、心情的にも。
注射は痛くて、画像を見ただけで「イタタタタ」と声をあげるほど痛がりで、血を見るのも嫌である、嘔吐しているところも見たくない、勿論、死んでいるところも。

 

そうなのだ、苦しい場面は見たくない、でも、何故だかコレこそをやらねばならないような気がしている、時と場合によっては死んでいるところも見なければいけないような気がしているのだ…両親は二人きりで死にたいそうなので、私が彼等を手伝う事は基本的にはないだろう。
しかし、何かの事情で片方だけが生き残ったり、二人が何らかの事情で年齢以上に身体が不自由になった場合…身体を動かせない状態になった場合、そして80歳を超えた場合。
両親、あるいは両親のうちどちらか一方を殺すのは私なのだな、という覚悟?みたいなものが最近芽生えてきた。
今から20年後というと54歳だ、54歳の私…果たして自分自身が生きているのかどうかも定かではないが…今より老いぼれて今よりも股関節が弱くなり、そこら辺の50代よりも遙かに老けている事は確実である。
そんな私が、多分世の中的なキャリアもない50代の私が、両親にしてやれることと言えば看取ることくらいである。
自殺幇助くらいである…もしかすると殺人という領域に踏み込むのかもしれない。
世間的に何のプラスイメージもないであろう私が逮捕されても、実はさほど困ることはないのだ、54歳女、両親殺しで逮捕、うん、我ながら全然違和感が無い、哀しいほど違和感が無い。

 

両親が生きたいというのならば、旦那であるM氏の金を使わせてもらい(もちろんM氏は承諾するだろう…死を嫌っているので)、両親を生きながらえさせるだろう。
しかし現に両親がここまで死にたがっているのを私は、知っているのである。
私は両親が死を実行する上での保険のような存在なのだとようやく自覚した、少なくとも両親と私というこの原始的な血縁関係に於いては、この約束が存在しているのだ。

 

「スイスに行ったら?」
と私は言っているが両親は日本の、多摩のあたりで死にたいらしい、多摩からしたらさぞかしいい迷惑だろう、そうなのだ、迷惑をかけずに生きたり死んだりすることなど不可能なのである。
日本の多摩に、あと10年20年のうちに安楽死施設が出来るとも到底思えない、よって、私は万が一の事があれば両親の死を手伝うだろう。
迷惑か?
迷惑ではない、それが私の仕事なのだろう、万一の時の人、それが私の血縁上の役割なのだろう。
今よりも老いた父が病室に横たわっていて、目で、今よりも老いた私に「手伝ってくれ」と言ったら私は父の死ぬのを手伝うだろう。
父が嫌いだから?
殴られたから?
そんなんじゃない、そんな事ではないのだ、これは相互関係に於ける独特の、最後の許しの形といってもいいだろう。


いつの時代に生まれても私は両親を楢山に連れて行っただろう、両親を好きとか嫌いとかそういう話ではなく、それが連綿と受け継がれてきた血縁者の定めみたいなもののような気がするのだ。

 

今年、両親がはじめのうち妙に照れくさそうに「俺たち80までには死のうと予定しているんだ」と言ったとき、何故だかそれを聞いて晴れやかな気持ちになった。
両親にとっては、特に父にとって私はいつまでも頭の足りない不細工な娘だろう、「お前みたいな奴が一番嫌いな人種だ」と面と向かって言われてきたので、父の私に対する個人的心情は理解している、それについて嘆く気も無い…そんな時代はもう終わったのだ、全て終わったのだ。
その心情は今でも根付いているだろう、死んで尚消えることはない、だが終わったのだ。
私が両親の死について、尊厳死らしきものについて、心情を抜きにした観点から「賛成」していると告げると両親は喜んでいた。
赤い骸骨と化した両親の絵も描いたので、心情的なわだかまりも溶解したように思う。
不可思議な話だが、両親が「自らの死」を私に開示したことによって、私と両親は独特な友情…絆で結ばれたようにも思う、互いに言葉の通じないままここまで来て、離れて暮らして無理な意思疎通をやめてはじめて、お互いを信用したようにも思う。
ようやく家族になったような気がしている。

 

死によって、ようやく家族になれたような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

女であるということ

 

 女であるということがどうしようもなく嫌になる事がある、別に自分を男だと思っているわけではない。
女であると見なされる事が、堪らなく疲れる事がある、公共の便所に入った時に女たちが鏡にへばりついて化粧をしているのもなんとも醜く、到底わかり合えない気がしてしまう、そんな気がしている自分に驚くのである、こんなに長く生きていて未だに女である事が苦痛なのかと驚くのである。
若いからとか、もう若くないとか、もっと自分自身に気を遣えだとか、子供だとか…いちいち言われるのもうんざりだ、そこには女本人という観点が抜け落ちているからだ。
そして何より辟易しているのはそんな事に左右されている自分自身の観点の低さについて、なのである。
見られる事を気にしている観点の低さについて、嫌悪感があるのだ。

 

女の人…というのは適度に優しくて、にこやかで、女の人の履く華奢な靴を履いていて、スカートを嬉々として穿いていて、お化粧をして、髪の毛をいじくっている。
女の人というのはこういう生き物だ、と定められた中で存分に泳ぎ、勿論平行して自分自身の仕事をし、とにもかくにも美しいのが女の人の条件である、見る、のではなく「見られるの」が大前提なのである、見られる事を悦んでこそ女なのである。


その女自身がどれだけ楽しんでいるかの真価は問われない。
なんか疲れるなあ…と思う、ほんと、コレしか言葉が出ないけれど…見られる事が大前提なのはなんか疲れるなあと思う、とても楽しめない。
私は「今は女ではありません」みたいな表示とかがあればいいのにと思う…もしかすると尼さんとかってそういう「見られること」になじめない人が成るのだろうか?そんなわけで唐突に尼に憧れたりもする。
私は見られる事自体から逃れたいのである、若いうちは無意識的に性の対象にされ、それが済んで老いたら老いたで叩かれる性の何処に救いがあるというのだろうか?

 

女っぽい格好をすれば、男たちをだませるじゃないか…と言ってくる男性もいるのだが、正直お目当ての男二三名を落とす以外には、利点が全く無い、どんなに多く見積もっても、街ですれ違う中で落としたいほど好みの男って十人くらいだろう、その男たち以外の男に性の対象にされる利点が無い。
すれ違う皆に対して女の人だと思われたくないなと、昔から思っていて、イスラム教徒の被る黒い法衣みたいなものを纏って歩ければ最高なのにと考えている。
顔も覆えるし比べるものが減るので、女同士のヒエラルキーみたいなものも軽減するのではないかと予想する。
男だって女にキモがられたりするのは苦痛だと思う、見てないのに見たとか思われるのも苦痛だろう、そういう軋轢を解消するためにもあの法衣はいいなあと思う。
人類が平和になるために、そういう物は取り入れるべきだとすら思う。

 

男が怖いだけだと言われればそれまでである、別に世の中の男全員が暴行殺人魔だとは言わないが、ほとんど全員にその気質が当てはまると私は思っていて、世の中は恐ろしいと感じている。
男に襲われて恐ろしい目に遭った、と実際に口にすることはなかなか無い。
特に女に対しては無い、見られる事を受け入れている女という生き物を、私は信用していないのである、私は女を信用していないのである。
しかし襲われるよりも以前から、「見られること」への違和感はあったように思う。
ただ、襲われた時期も人生の早いうちだったので、自分の肉体という物が他者に「見られて」その結果、自分が「自分にとって非常に不利益に」はたらいたというこの事実が…私を、見られる事への嫌悪感へと駆り立て、見られる事を謳歌?している女たちへの無理解に繋がっているのだろう。

 

結果的に女であること=嫌悪感、という図式が出来上がってしまったのだろう。

 

では仮に、自分が男だったのならこうした「性への違和感」および「罪悪感」に苛まれなかったのかというとそうでもないと思う。
自分がされて嫌なことを妄想してしまう自分、赤の他人(女)を見ただけで裸にすることを考えてしまう自分、何かそういう事への罪悪感が募って…きっと言うだろう。
「女だったらここまで汚いことを考えずに済んだ」
とか何とか。
あるいは殴りたい衝動を抑える事への辛さとか。
父親を見ているとひしひしと伝わってくるのだ、自分の居場所が自分の暴力衝動で滅茶苦茶に破壊されるのを、本人が一番嘆いているのだ。
あれを長年見てきたら安易に男がいいとも言えないのである。
女は、どんなに無気力になっても暴力には発展しないので、その点では男ほど辛くはない。

 

さて、ここまで読んだら、私という人間は性嫌悪がかなりキていて、さぞかし女嫌いの男嫌いなのだろうと思うだろう…そんなことは無い、それでも私は男が好きなのである。
好きな男に見られるのならば、めかそうという気力はあるのだ。
セックスしているときには自分が女だということも受け入れられる。
こういうことを言うと、それは相手に遊ばれているだけだとか身体目当てだと助言されることもあるが、正直「どう見られていようが」どうでもいいのである。
相手にどう見られていようが、果てははたからどう見られていようがあまり気にしていない。
相手にとって遊びなのか、はたまた私自身が離婚させ屋(当たり屋みたいな感じのモノを想像してください)なのか、そういうことは私にとってもどうでもいいし、相手にとってもどうでもいい事なのである。

 

なんかこの、「こう見られている」という意識を変えたら、自分自身が「どのような景色を見ているのか」を重視する観点になれたら、もっと生きやすくなるのではないか…と最近考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

【創作】船


計算が合わない、何度測っても計算が合わない、でも現に組み立ては進んでいる、船を組み立てる物理的スペース、物理的材料は揃っていてどうやればよいかの手順も私は知っている。
しかし計算が合わない、計算上ではこの船は組み立てられない、しかし現に私は船を組み立てている。
計算上の不可能と現実の可能との間に横たわるもの、それこそが未知の数字というやつだ、と私は声に出して呟く。
0から9までの数字の外側に本当の数字がある、それを数字というのならの話だ、だから計算上は…いつも「真実」が不足している、だから数学理論ははじめから破綻している、よって唯物論はデタラメである。

 

唯物論がいかにデタラメかを決定付ける証拠…それは、個人の「視点」が抜け落ちているからだ、数式には「視点」が抜け落ちている、視点そのものを計算式に入れない限りどのような物体も機械も完成する事はない、つまり世の中は未完成品で埋め尽くされているのだ、だから朽ちてゆくのだ。
個人の視点、これを数値変換出来れば計算上で全てが統合される、しかしそんな事は出来ない。
さらに言うと「個人の視点」が何故発生したのかという謎に突き当たる、この謎という概念は探求心によって創り出されたものだ、個人の視点によって創り出されたものだ。
つまり、どんなに優秀な機械でも、個人の視点や謎の概念、探求心を知らない限りは命は宿っておらず、それはただの物である。
ただし、機械自身が謎と直面して、時に計算上の難題を放棄するほどの落胆を味わったのなら…死のうとしたのなら、その時に機械にも命が宿るのだ。

 

はて…私の言葉はどこまで聞こえているのだろうか?
船を組み立てているのだが周囲の様子は一向に見えない、私は身体の器官が絶えてしまわぬよう口を動かし、思考を言葉に直訳し、話し続けている。
…ひょっとして、私ははじめのうち、誰かに信号を送っていたのではなかったか?
あるいは、誰かに歌いかけていたのではなかったか?
誰かいたような気がするのだ、誰だ?

 

私は目が覚めてから船の組み立てを行っている、私は眠って、そして目が覚めたらまたその日の私は船の組み立てを行う、眠って断絶され、次に目の覚めた私、私だと思われる私は不確定ながらも、船の組み立てを行っている。
私は、今の私は果たして昨日の私と同一なのだろうか?
別の魂が入り込んでこの身体を動かしていると仮定しても、何の不思議も無いのだ、魂は魂に根付いた視点でこの身体の記憶を見て、そしてこの身体に合わせて動く。
なんだか背筋が寒い、けれど…目が覚めたら別の人格に宿っていて、その人のように振る舞う事が出来れば…どんなに楽しかろう、自分だと思っている身体から逃れられればどんなに楽しかろう。

 

目が覚めてから、もう嫌だと辟易する事も多々ある、船の作り手は他にだっているはずだと嘆きたくなる時もある、だが私は起き上がって船造りに携わるのだ。
にもかかわらず私が昨日の私自身であるという保証は何処にも無い、少なくとも数式上は昨日の私が今日の私である保証は無い、つまり今の現実は、昨日の私の身体の記憶を引き継いだ別の魂が見ている夢なのかもしれぬ。
魂というものが乾電池のように、その一つ一つが非常に曖昧なエネルギー体で、それは眠っている間に浮遊し、時空間をも飛び越えて自在に存在すると仮定しよう。
身体は魂にとって巨大な機械仕掛けの乗り物で、寝ている身体というものは其処此処に放置された機械の抜け殻である。

 

機械の抜け殻は自らがどれだけの間放置されているのかすら正確には把握出来ない。
何故か、一日のうち数時間は眠りによって身体は視点を失う仕組みになっているのだ。
寝ていると仮定している時間は…視点という未知なる数字が抜け落ちている状態の為…実は10年かもしれないし、50年、100年、1000年、あるいは、一分にも満たない間なのかもしれない。
その抜け殻に、浮遊する魂は自由に入り込む、機械の抜け殻にその時入り込んだその時の魂は、機械の記憶倉庫を見てその機械の仕様やはたらきを、時間にしてほんの一瞬で学ぶ。
そして「その日の」身体は「その日の」魂によって運行される、そう、毎日毎日乾電池は入れ替わって肉体という機械を動かしているのだ。
魂の視点ではそのことに気がついている、でも肉体という機械の抜け殻ではそのことに気付けない。

 

自分自身が何十年も、魂ごと含めて自分自身で生きてきたと「身体的に」思い込むのは自由だ。
肉体的な死というものが魂を自由にするなら、さしずめこの世は椅子取りゲームのように無数の魂が面白そうな身体を取り合っているのかもしれぬ。
そしてそれを証明する手立ては無い、何故なら数式自体が未完成だからだ、肉体同様、魂もまた未完成だからだ…だから本来の目的を見失うように出来ているのだ、辿り着けないようにこの世は出来ているのだ。

 

…見覚えの無い部品がある、手で触ったが身体の感覚器官もそれを思い出せないらしい、参った。
この身体の状態を考えるにあと10年20年でほとんど全てを忘れてしまうだろう、それは身体からの救難信号で、どのような手助けをもってしても忘却に飲まれるという絶望的信号だった。
それまでにこの船は完成するだろうか?
船の足場に杭を打ち付ける、杭、どうしてだか誰かの顔が思い浮かぶ、杭を打ち付ける老人、老人、それもとびきりの老人、生きているかいないのか曖昧なほどに歳をとった老人の顔、見たことのない顔。
誰だ?
杭というのは意志である、杭を打つというのは自分はこれから探求するぞという意志決定である、私にはその老人の気持ちがよくわかる…それを誰かに言いたいのだが、果たして誰だろうか?
それともこれは、誰かから伝え聞いた話の、その中の登場人物だったろうか?
実在しない誰かに私は語りかけているのだろうか、いや、私の視点で実在するのならそれでよいのだ、なんにせよここには私しかいない、世界には私しかいないのだから。

 

自らの探求心ごと忘却するということの怖さを、お前は知らない、と私は繰り返す。
お前とは誰だ?と自らに問うが、答えはまだ無い。
あと1、あと2、呼吸を整えて次の部品を手に取る、果たして記憶の整合性がとれなくなったら、私は「私」で居られるのだろうか?
それを私と呼んでいいのだろうか?
私未満の私は、船で帰還するという目的にして究極の探求を忘れ果て、自らに薬剤を打って眠る事も忘れ、毎日毎日杭だけを打ち続けるのではないだろうか?
その老人のように、何処の誰とも知れぬ誰かのように、杭だけを打って身体の記憶と感情の頂点のみを感じ、その他のことについて全て盲目になって、それでも野放しに生き続けるのだろうか?

 

それは機械の抜け殻だけが空回りしているだけである。
機械に意志や探求心は無い、どんなに疑似的に作ってもそれは真の「視点」にはなり得ない。
だが機械にも目的というものが在る、その目的すら…自分が何の機械だったのかも認識不能になり、その実魂すらも入り込まないまま、不在のまま、機械の抜け殻だけが動き続けて杭を打ち続ける。
それならば死にたい。
そうなることがわかっているのならば、早くに手を打ちたい、しかし今はまだ、船を作らねばならない、船を作るということ、帰還に間に合わせるということが私の賭けでもあるのだ、さあ、定規定規。

 

…駄目だ、何度やっても計算が合わない、そりゃそうだ、数字には視点が含まれていないのだから。
この目盛りに刻まれた0から9までの数字には視点が含まれていない、実際には可能なことも不可能に「見せて」しまうのが、数学理論というものの重大な欠陥である。
計算というものは合わないものである、何度測っても計算が合うはずがないのだ、そして現に組み立ては進んでいる。
計算上の不可能と現実の可能との間に横たわるもの、絶望と希望との間に横たわるもの、船と目的地との間に横たわるもの…それこそが未知の数字というやつだ、それこそが真の視点というやつだと私は声に出して呟き、次の作業に取りかかった。

 

 

 

 

【創作】各駅停車


「各停しか止まらないんだ、いや、快速も止まったな、ううん…そうだ、区間急行でも止まる…かもしれれない、いやどうだったか?ともかく急行や準特急、特急には乗るなよ、最果ての地まで飛ばされるからな」
電話越しに聞く老人の声はしゃがれている、元々鼻炎やら皮膚炎やらでそれほど粘膜の強いほうではなかったと記憶しているが、だんだん喉にもその影響が出てきたらしい。
そもそも特急と各停以外、区間急行やら準特急といった意味不明の名称の示す運行状態を私は知らないよ、と言いかけて口を噤んだ、どうでも良いことだった、人生で降りる事のない駅などどうでも良いことだった。
準特急という謎の存在についてこの老人に、受話器越しに熱く語られるのも嫌だったので私は一言、「各駅停車に乗って下っていくよ、それじゃあね、お父さん」と言って電話を切った。

 

その日は秋の寒い雨の日で、街全体が水没して半世紀も経ったような寂れた雰囲気を醸し出していた、無数の黒い頭が水の廃墟を泳いでいるかのようだった。
「隣の部屋にな、ちょっと…こう言っちゃ何だが障害のある男の子がいるんだ、ああ、いつもいつもピアノを弾いているその子だよ、その子もなあ、だんだんと腕力が強くなってるらしくてな、ピアノだけじゃなくて、壁を叩くんだよこう…あああの音…それでベランダの避難用の壁をな…いつか乗り越えてこっちに来て、何か俺たちに…復讐するのじゃないかって俺は冷や冷やしてるんだ、え?復讐ってのはだな…つまり、俺たちがその子を人間だと思えないという事への、そのこと自体への復讐だよ、その子は柔道を習っているらしい」
老人は憔悴した様子で駅のホームに居てこちらに手を振っている、老人の妻もその隣に居て微笑んでいる。
駅には老人たちの他には誰もいなかった、踏切の音だけが老人に呼応した。
「俺たちは殺されるかも知れない」

 

老人は静かに歩き出した、とはいえ駅のホームをぐるぐると周回するだけで、改札から外へは出ようとはしなかった。
「だから引っ越したんだよ、殺されないうちに」
老人の妻は笑っていた、ふふふふ、全く会話に脈絡のないような素朴な微笑みだった、好きなお菓子を自分だけが貰うことの出来た子供のような輝きが、老人の妻には宿っていた。
「その場所が嫌だ嫌だ、怖い怖いと思うのなら、そう思っている側が引っ越すべきなんだ、そしてこれは俺たちが悪いんだ、相手を人間だと思えない俺たちが悪いんだ」
老人たちは自分たちだけが同種族の魚だとでも言うかのように、互いに離れずに灰色の駅のホームを泳いでいる様子だった。
私はなんだか、自分だけが陸の生き物で、水の中に引きずり込まれて息が吸えずに居るような気持ちになった、随分昔に陥っていた過呼吸がまたぶり返しそうな気配を感じ、慌てて言った。
「新しい住処はどう?」

 

老人たちは見事に足並みを揃え、くるりと私に向き直った、最果ての地から天まで伸びる東の塔の地へと、すさまじい勢いで通り過ぎる大海蛇が一匹、また一匹と通り過ぎていった。
準特急、特急、新宿行き、本八幡行き…老人たちが何も言わないので私は、「お父さん、本八幡って何処だろうね?」と聞いた、だが老人は黙ったままだった、老人も知らないのかも知れない、人生で不要な場所なのかもしれない。
「住処について話してしまうとね、影が来るからね、影って言うのは…つかめないものの事だよ、行くことのない駅みたいなものだ」
ふふふふ、と老人の妻は老人の話すその声に自分の笑いを乗せるように笑った、私はなんとなく「影って本八幡みたいなものの事なのね」と言ったが老人たちは黙っていた。
私は質問を変えた、「影って何なの?影は、いつでも身体に染みついているけれど…」そう言って自分の足下を見たが、雨が空の光を細かく反射しているらしく、薄暗い駅のホームからは影が消えていた。

 

「俺たちは死のうと思ってる、計算によると、俺たちはあと20年ほどで完全にガタが来る、金銭的にもな、だからそれまでに死のうと思っているんだ」
老人は私の質問には答えず、本八幡と思われる方角を見つめてそう言った、準特急が通過した、風圧で私と老人たちは電車に吸い寄せられたが誰もそれを危惧する様子もなかった。
この場に居る誰も、世間から必要とされてはいない事を自覚していた。
老人たちには彼等を頼る子供も既におらず、私にも子孫はいなかった、一緒に死のうと言う人間も居なかったし、意識の上での重要な仕事があるわけでもなかった、だからこそ…私の妹はこの場に呼ばれないのだと私は思った。
「1、でもいいかもしれない、長生きってのは金がかかるもんだ…」
「あと、2、だね、1は短いよ」
老人の妻は老人の発言にかぶせて言った、老人はそれを心地よく思うらしかった、静かに微笑むと言った。
「そうだ、あと2、だ、でもやはり事によると1かもしれない…これを秒換算してもいいんだ、つまりあと2秒でも1秒でも同じ事だ、お前はあといくつなんだ、あとどれくらいの未来を設定している?その未来に対する決意はあるのか?未来なんてものは何時間だろうが何年だろうが…それは掴めないものなんだ、そんなのはあと一秒先を言うのと同じなんだ、その一秒先も俺は、自分の妻と一緒に居たい、死にたいんだ一緒に、俺たちの身体はひとつなんだから」
あと1秒か2秒か3秒か4秒かあるいは5秒…と言おうとしてやめた、私は今の一瞬すら、本当に自分の思うようには「生きて」いないのかもしれない、つまり私には後にも先にも真っ白な時空間しかないのだという思いが沸き起こり、私は俯いた。

 

私は自分のスニーカーを見ながら絞り出すように言った、「絵を描いているのよ」、たったそれだけを私は言って、昼とも夜ともつかないようなどんよりした極東の街の、単一民族によって構成されるこの街の、よどんだ駅のホームで老人たちを見据えた。
老人たちは顔を見合わせた、「まだそんな馬鹿げた事を言ってるよこの娘は」と言いたげであった、そうだった、私と老人たちは言葉が通じないのだった。
老人たちの世界は数字によって構成されていたので、数字以外の抽象記号を彼等は認識しないのだった、これは一種の教義と言っても良かった、言葉に数字を込めて話すことが「会話」であり、数字の込められない言葉は…少なくとも決意ではなかった、それは独白に過ぎないことを、生まれてからずっと、老人たちに嫌と言うほど教えられてきたのだった。

 


私は慌てて言った、「ここ1年で毎日絵筆を握ってるわ、あと2年くらいこの状態を維持してコンスタントに作品を作れるようになりたいの、そしたら…」、なんとなく尻すぼみになっている気がして私はさらに言った、「私の絵を良いと言ってくれる人も一人二人居るのよ、前にギャラリーをやってた人も…」、老人たちは深海魚のような面持ちで私の言葉を翻訳しようとしていた。
確かに、言語に訳して言えば言うほどに私の言葉は薄く弱くなっていった、軸が数字ではないので、彼等の言葉にはどうやっても訳せないからだった。
小さい頃からずっとこうだった、私と彼等との間には言語上の壁があって、どちらかの力が強い磁場では、どちらか一方は力を失う仕組みになっているのだった、一緒に過ごすには最悪の相性だった…私は老人たちに背を向けた、喉がカラカラに渇いて、空気も湧き水も足りなかった。

 

私は言った、「とにかく私、今、生きているのよ」、それだけ言うと私は自販機に向かった、だが海水しか売っていなかった、私は死んだのかも知れない、そう思いながら本当に言いたいことを巡らせた。
「大体、死ぬことを決めているのに殺されることが怖いだなんて馬鹿げてるわ、人間とは思えない少年にいつか殺される事は、夫婦で自殺するよりも怖いことなのかしら?」
「お父さんもお母さんも少し変よ、毎年毎年引っ越しばかりして…いえ、良いのだけれど、引っ越しが心底楽しいのなら別に構わないのよ、だけど今回の引っ越しは…引っ越しというより逃亡じゃない?なんだか見ていて辛いわ」
「はじめから死ぬのがわかってるのなら…」
私はそれらの言葉が出なかった、「そうね、決意には数字が必要だって事を教えてくれたのはお父さんとお母さんよね」、振り返ってそう言うのが関の山だった。

 

「お父さんお母さん、絵って言うのはね、業なのよ、お父さんお母さんが数字を思い浮かべるのと同じくらい深い深い業なの、それをやめるとかやめないとかそんな選択肢もないのよ、だからこそ私は絵を描いていて、それをやめることは無いし、こうして生きているうちには誰かに見せたいし、生業に出来たらと思っているのよ、そうよ、そんな顔しないで、娘が30過ぎて突然アイドルになりたいと言って困ってるみたいな顔しないで、ねえ、お父さんお母さんにとって数字を考えられないことが悪なのかしら?だったら私は悪人ね、確かに…数字を考えられないから情熱のままに行動したのよ、でも…仮にね、お父さんお母さんが数字について考えるのを禁止されるような社会環境にあったとしたら、どう?そういう宗派に生まれたとしたら…ああもう、いいのよ想像つかないのなら…でもこれだけは言わせて!自分の業を全う出来ないうちは、生きる事も死ぬこともままならないのよ…そうでしょ?」
私は実際には口では何も言わず、黙って老人たちを見つめていた、彼等もまた黙って持参した飲料を二人で回し飲みしていた、私は心の中で言った。
「…もう死ぬって決めている人たちはもう、死んでいるのよ、私は業を全うしたいの、だからあと1、2、3、4、わからない、わからないけれどそれは時間で計れるものではなくて、数字で測れるものではなくて、自分で到達したと思えるその先の場所まで行かなければならないの」

 

最果ての地行きの特急電車が通り過ぎた、「数字は決意だとあなた方は言うけれど、あなた方に何かを探求する意志はないのかしら?」、私は尚も押し黙っていた、駅員がやってきてちらりと私たちを見た。
ようやく私は言った、「誰にも必要とされなくても、探求には時間が要るのよ、今探求していると思える瞬間瞬間を、私は生きてゆくわ」、老人たちは瞬きした。
私は続けていった、「私は自分の業を全うするわ」、老人の妻はふふふふと笑った。
私はさらに言った、「私は生きてるって、探求することだと思ってるのよ、だって…」、私はどんな時でも絵のことを考えているもの、確かに生きるためには数字が要るわ、だけれど、生きるって事自体は数字じゃないのよ私には…老人は妻の頭を撫でていた、老人の妻は人形のように微動だにせず、白湯らしきものを飲み、目を丸くしながら笑っていた、私の乗るべき電車が来たのだ。

 

「帰れ」
各停の影行きの電車が来て停車した、私は老人の声に従ってぽっかりと開いた大海蛇の口のひとつに滑り込み、透明な板越しに老人たちを見た。
「俺たちも帰るよ、影のいないところに、お前が、到達したと思ったその先の約束の地に俺たちは帰るよ、縁があったらそこでまた会おう」
私は手を振った。
「今度その場所で…その時空間で、京王線の仕組みを教えてやろう、準特急が何であるかについてお前に語って聞かせてやろう」
老人の声は最後まで届かず、戸口は閉まり、各駅停車は各駅停車なりに急ぎながら、私を東へと、連れ去ったのだった。

 

 

 

 

【創作】アカペラ少年

 

ステージの中央に立つアカペラ少年はにこやかに唄っていた、たった一人の男子中学生に大勢の拍手が浴びせられる、アカペラ少年は妙に場慣れした様子でお辞儀をした。
奥様方、ご静聴ありがとうございます、とでも言いたげに優雅に礼をした。
制服のスカートがきつい、どういうわけだか胸を締め付ける構造の紺色のベストもきつい、この沸き立つ空気も…私が吸うには色彩が明るすぎる…少女はそう思い身を固くした。
私だけが余計なんだ…少女はわら半紙を握りしめて祈った…どぶの中の藻になりたい、青緑色の藻になって騒がしい世界から逃れたい…
手に握った合唱コンクールのプログラムから、湿った匂いがした、彼の歌を聴いて汗をかいていたのだ、会場中が妙な熱気に包まれているのを少女は感じ、身震いした、自分が感動したという事を少女は許せずにいたのだ。

 

翌日も、翌々日もアカペラ少年は晴れやかな様子だった、教室はいつもワックス臭く、少年たちは一人の例外なく粗悪で(ゴミ処理場が近いのでダイオキシンの影響かも知れない)、少女たちは冷酷だった(これもダイオキシンの影響なのかもしれない…)。
紺色の制服の群れは一塊になって移動した、次の教室へ、次の教室へ、次の場所へ、辿り着けない場所へ。
群れの中で件のアカペラ少年だけは心の底から声を出して周囲に唄いかけていた…少なくとも唄うときだけは彼の本心が見えるように少女には聞こえた。
…息が苦しい…
少女は日常的に酸欠を起こしていたが、その酸欠を起こしているときにもアカペラ少年は仲間と思われる連中と喚きながら騒いでいた、実に自由気ままに、少女の吸う分の空気までもを我が物にし、唄っているかのようだった。
あんな風に自由に空気を吸ったり吐いたり出来たら、見える景色も違うのだろうな…少女が心の内側でアカペラ少年を羨み始めたのはその頃だった。

 

教室の窓から秋の光が差し込み、前に座る誰とも形容出来ぬ黒い髪に一瞬虹色のかかるのを少女が秘かに見つめていたときに後ろで奇声がした、彼だった、彼等だった。
その瞬間自分の身体が椅子ごと押されたことに少女は気付き、身体ごと振り返った、少年たちは暴れ、笑い狂っていた。
「死ね」
と小さく口にしてみたが誰にも聞こえていない、まじ死ね、と尚も口にしてみたが誰にも聞こえていない、少女は席を立ち、自分の机だけを直してから横目で少年たちを見た。
「あ」
と思ったときにはもう遅かった、なるべく接触は避けたかったが…件のアカペラ少年が目の前に居て人なつっこそうに微笑んでいたのだ。

 

「ごめんごめん!」
何の屈託も無い様子でアカペラ少年は少女に謝った、少女は自分の呟きが聞かれていないか冷や冷やする一方でこう思った。
…仮に私が今「お前ら煩いんだよ死ね」って叫んだところで、こいつは「ごめんごめん!」って返してくるのだろう、そして次の瞬間には彼女とヤッたかどうか、みたいな下世話な話をして周りを盛り上げるんだ…
少女はアカペラ少年に向き直った、一秒にも満たない間、秋の光の中でアカペラ少年はにっこりと笑っていた、意志とは無関係に微笑んでいた。
アカペラ少年のつやのある黒い髪の毛と、脂ぎった頬、ひどく痩せた身体、凸凹の歯並びとを少女は見て俯いた、完璧だった、存在が完璧だと少女は思った。
彼だけが世界から許されているような気がして少女は悔しくなった。
今、彼ほど紺色のブレザーにしっくりと身を包んで居る人間は居ないような気がして、少女は唐突に顔を上げ、アカペラ少年を見据えた。

 

「あんたさあ、唄うとき以外、全然本音で喋ってないよね?」
とは言わなかった、言えるはずもなかった、アカペラ少年は今や時の人だった、いきなり話しかけて良い相手ではなかった、そしてどうあっても彼は笑っていたので喧嘩出来る相手ではなかった…その点がまさに少女を秘かに怒らせる要因となっていた。
「私たち、同じような制服着てるけれど全然違うよね」
とは言わなかった、言えるはずもなかった、そんな抽象的な話をしてよい相手ではなかった、彼への話題はエロ話か馬鹿話が最適だと思われた。
「…なんであんなに楽しそうに出来るの?全然楽しくないときもあんたって、楽しそうにしてるじゃん…」
とは言わなかった、見ていることがばれるので言えるはずもなかった、羨んでいるのがばれるので言いたくもなかった。
「あんたが自由に吸ってる空気、あれ、私の分も含まれてるから!」
とは言わなかった、過呼吸による被害妄想、そんなことは少女自身がわかっていた、そこに妬みや願望が込められているのを自覚していた。

 

つまり何も言えなかった、合唱コンクール以来、まるで世界に許されたようになっているこの完成された少年に、少女は何も言うことが出来なかった、少女はアカペラ少年に対して少し頷いてみせただけだった、「大丈夫だよ」、そう仕草で伝えただけだった。
アカペラ少年はこのたった一瞬のやりとりを既に忘れた様子で少年たちの紺色の群れへと踊るように戻っていった。
アカペラ少年は帰宅して、自炊するのだろうか?
アカペラ少年の父親はどのような人物だろうか?
アカペラ少年もまた、自分と同じように怒られ、殴られているのだろうか?
アカペラ少年もオナニーしているのだろうか?
アカペラ少年は…あの学年一番の文武両刀の美少女と、セックスしているのだろうか?
アカペラ少年は、泣いたりするのだろうか。

 

命名!!守護ガタイ神!!」
体育教師をそう命名したらしいアカペラ少年らは、また椅子を蹴飛ばし始めて笑っていた、教室の中は暖房がぬるく効いていて最悪だった、アカペラ少年も笑っている、だけどわらっていない。
…あたしは笑いそうなのに…少女は体育教師のガタイの良さを思い浮かべて笑いを堪えた、制服がきつい、息が苦しい、家に帰りたくない、こんな馬鹿げた事に笑いそうになっている一人きりの自分にこれほどまでにうんざりした事はなかった。
…だってあいつは、わらってないのに…
少女は笑いを堪えながら、酸素の薄さについて考えを巡らせた、あいつは本当は空気を吸ってなんかいないんじゃないのか?
一秒一秒が呼吸との戦いであることをアカペラ少年は知らない。
アカペラ少年よりも少女が馬鹿な事をアカペラ少年は知らない。
この世は怖いものだ、だから勉強が出来ない奴は死ぬしかないんだ、そう言って父親が殴る事をアカペラ少年は知らない。
…私が毎日泣いている事をあいつは知らない、笑ってばっかりのあいつは毎日泣いている人間の居ることを知らない…
そしてアカペラ少年の笑顔が実に上辺だけのものである事を、誰も俺の本心には気付かないとたかをくくっているアカペラ少年の態度を、少女が知っている事を、アカペラ少年は知らない。

 

「あんたの唄ってるときの声は深い深い青緑色だよ、どぶの中に生えている藻の色、苔の色、人間からかけ離れた美しい色」
もしそう話しかける事が出来たのなら、私が友情と思うものが真に完成するような気がする…少女がこう思っていることを、アカペラ少年は、まだ知らないのであった。

  

 

 

 

【創作】俺は君が嫌いだ


「貴方は綺麗だから」
って言われるのが実は俺は大嫌いなんだ、でも昔から言われるんだ俺は、貴方は綺麗だからって何度も何度も、幾人もに言われ続けてるんだ。
その言葉を投げかけられると、心の何処か芯の部分で火花が散るんだ、俺にしか見えない火花が散るんだ。
綺麗でいることって、何かが弱いみたいで、人間的な苦しみをまるで知らないで生きている馬鹿な奴みたいで、俺はそう言われる度に相手を秘かに憎むんだ。
だから実は憎んでいる相手というのは結構居る…相手は気付かないけれど、「僕」は笑ってるから。
俺の気持ちなんか気付かないけれど、「僕」は誰も憎んでいやしない、そういう顔が俺は出来るからこの商売が上手く行くんだ、俺は君が嫌いだよ。
俺は、貴方は綺麗だねと言って自分を棚に上げてる君を嫌いだけれど、君は気付きもしないんだ。
苦しみが欠けているってことが、恥ずかしい事だとこんなにも切実に思っている俺の事は、誰も気付かないんだ、誰も俺の事は気付かないんだ、苦しみが欠けているのが苦しみだなんて事は、誰にも理解出来やしないんだ。

 

「貴方は一枚の絵みたい、とても綺麗で私には到底辿り着けないんです」
そう言って君は目を潤ませている、俺に身勝手な恋をしている、わかってるよそんなこと、でも君はそれ以前にさ、俺の事なんか見てないだろう?
俺はね、「僕」で居ると決めているんだよ、これは決意なんだ。
生活を安定させる事への決意と取ってくれても構わない、家族を養う上での決意と取ってくれても構わない、でももっと根本的な…そうだよ、俺の人生への決意なんだ。
「僕」で居ることは俺の人生そのものへの決意なんだよ。
なあ、君、君にそういう決意はあるのかな?
君に人生の決意はあるのかな?
君や、あるいは君の御愛人でもいいよ、君らに決意はあるのかな?
俺はね、決意のない人間を見下しているんだよ、そうだよ、俺は君を見下している、でも君はそれにすら喜びを感じている、自分よりも「上」の人をうっとりと眺めて陶酔している。
…だから俺は君を好きになれないんだ、裏切り者めって思ってしまうんだ、俺は、君にだって裏切られたくはないから。

 

「先生は凄いです」
って言葉で言うのは簡単だよ、いいよ、何の決意も無くそう言いたいのなら…俺はね、怒りを感じてもそれを何処か余所へやることが出来るんだ。
心の何処かで、俺が余所だと思っている広大な場所で火花が散っても、少なくとも、「僕」の顔に怒りは出ないから。
俺の顔に浮かぶのは焦りと気恥ずかしさだけなんだ、どういうわけだか昔からそうなんだ。
顔が赤くなるのも昔は嫌だったよ…でもそれが人間関係に於いて功を奏するだなんて、思いもよらなかった、商売に利くとは思いもよらなかった。
人間はね、自分が見たいものだけを見たいんだ、自分よりも美しいもの、自分よりも綺麗なもの、汚れていないもの、純朴なもの。
怒りや苦しみ、他人を見下す気持ちが「僕」の顔に表れなくて良かったよ。
たとえそれが、俺を余計に孤独にさせているとしても。
本当に誰も俺の事を見ていないんだなと俺は、働いていると心底気付かされるんだよ、診療所にこうして座していると俺を仙人か何かだと本気で思い込む奴らが居るんだ。
つまりそれは、仙人が居てくれたら良いなあという誰かの願望でしかないんだ、俺は人の願望を演じているに過ぎない。
そうだよ、君だって願望を見ている、君は俺なんか見ていやしないんだ、誰も俺自身を見ていやしないんだ。

 

「貴方の文章が読みたい」
と言われると戸惑うよ、嬉しいんだ本当に…でも俺の文章を読んだらまたきっと多くの人が言うんだ、「貴方は何て綺麗なの」って。
もううんざりだよ…本当に音楽を聴いたり文章を深く読み込んだ場合には時として批判の感情が湧くものだと俺は思う。
少なくとも俺はそうだんだ、俺は誰かの思想や創作に真に触れたと感じた時ほど反発するんだ、何故かって?
それは、その作品を生み出した人間が赤の他人だからだ、こんなにも共感出来るのにやっぱり他人だから、最後の一線のズレを酷く不快に感じてしまうんだ。
…どうしてこんなにも離れているんだろう…そう感じるんだ、だから批判が起きるんだ。
つまり、綺麗だ綺麗だと言って相手を持ち上げているうちは、相手の人間性や、本当にその作品を理解した事にはならないって俺は思うんだ。
綺麗なお花の絵でも見てうっとりしている状態に過ぎない、それは他者を見ているんじゃなくて、ただの綺麗なものへの憧れを見ているに過ぎない。
ああそうだよ、誰も俺をまともに批判しない、誰も俺を見ない。
何処へ行っても、何を書いても、どんな作品を出そうと、俺は批判されない、俺はいつでも「他人の願望」止まりなんだ、「異質な未知のもの」にはなれないんだ、それが今の俺の限界なんだ。
この悔しさが君にわかるのか?決意の無い君にこの悔しさがわかるのか?

 

俺は批判されたいんだよ、滅茶苦茶にボロクソに批判されたいんだ。
本当の本当に俺の作品を鑑賞して欲しいと俺は、切望しているんだ、何年も、何十年も、こんなにも長い間俺は夢見ているんだ、本当に鑑賞して欲しいって。
おかしいだろう…決意のない君は批判を酷く恐れているようだけれど、実は俺は君にだって少しばかり嫉妬している。
そうだよ、君が現に人生で「苦しんだ」からだよ、今はあるべき場所に君は収まっているように見える、別に今の君を甘いだなんて俺は思っていない。
君は確かに苦しんだんだ、自分の作品が誰かにとって(君にとっては父親だったっけ?…確かそうだったと思うけど)汚いと言われ、描くなと言われたという事実にすら嫉妬を覚えてしまう。
おかしいだろう?
君が、誰にでも受け入れられるような綺麗なお絵かきばっかりしている女だったのなら、たとえそれで食っていようが俺は嫉妬なんてしないんだ。
君は絵に対してどんな気持ちなのかな?君は結局、俺があんなにすすめた小説は書かないようだし、君は君で何か思うところがあるんだろう。
君は綺麗だと、君は言われたいらしいね、俺には理解出来ないし、俺は君の人間性も綺麗だとは思えない、確かに君は汚いよ…君がこの言葉にどんな反応をするのかは俺にはわからないけれど。

 

絵を見せに来るのは、大丈夫だよ、俺が君の絵に対して言った事だって嘘じゃない、本当なんだ…それに俺は決意しているから、俺には俺の人生への決意があるから、だから君とだって話が出来るんだ。
俺は君とは違うから。
俺は君を見下しているし、同時に君を何処かで羨んでいる、創作に於いて正真正銘苦しんだというただその一点で羨んでいる、俺に欠けているものを既に持っているというただそれだけを羨んでいる。
こんな子供じみた気持ちと、人生への決意の欠けた君を子供だと見下している気持ちがない交ぜになって、俺は診療所にやって来る君を見る度になんだか居心地が悪いような妙な気分になるんだ。
でもこういう事を本当に自由に描くには俺は孤独でなければならない、だから文章を書いても君にだけは見せる事は無いんだ、君は人の孤独を飲み込むから。
だから君が俺の文章を読むということはもう二度と無いんだ、それについては謝っておこう…ごめんね、褒められた事は素直に嬉しかったよ。

 

君が「僕」の書いた文章を、立場のある「僕」としての文章を目にする機会はあるかもしれない、でも俺の独白を君が読むことは無い。
だって、俺の独白を君が読んでも、きっと君は俺を綺麗だと言うから。
皆が俺を綺麗だと言うから。
そして俺は心の何処かで、自分では怒りを取り去ったと思い込んでいる何処か小さな場所で、強烈な火花を散らし続けるんだよ。
その火花は俺自身から吹き出ている、だからいつも痛い思いをいているんだ、綺麗だと言われる度に痛い思いをしているんだよ、誰も知らないけれど。
綺麗だねって言われる度に、いくら俺の本音の本音を吐いても「綺麗だね」って言われる度に俺は、相手との間に永久に溶けない氷の一枚岩が在るように感じるんだ。
氷の一枚岩はこの火花を一枚の絵にしてしまう…氷を隔てた向こう側から俺の火花を見たら、まるで薄っぺらいただの綺麗なお花の絵みたいにしてしまう、そうだよ、相手から見たら俺の苦しみなんてものは綺麗なお花の絵みたいなものでしかないんだ、俺は、それがいつも悔しいんだ。
俺は醜さが欠けているんだ、それがいつも苦しいんだ、我慢ならないんだ。
でも「僕」は笑って言うんだよ、「ありがとう」って、「綺麗だって言われるとちょっと照れるなあ」とか何とか、自分でも驚くほどどうでもいい事を言って俺は笑うんだ、こうすれば綺麗だろうなって投げやりな気持ちにすらなりながら俺は笑うんだよ。

 

そういうわけで俺は、「貴方は綺麗だから」って言う人間を実は大嫌いなんだ、だから俺は君が嫌いだよ、君は気付きもしないけど、俺は君が嫌いだ。
俺の涙に気付かない君を、俺の苦しみを見抜けない奴らを、俺は嫌いなんだ、誰も気付かないけれど。

 

 

ここだけの話

 

ねえ、ここだけの話
ようやく役者が揃ったような気がしているのよ
ここだけの話、ようやく舞台が始まったような気がしているのよ

 

「皆が幸福になれればいいなあ」
なんてのは偽善かしら?
皆というのは勿論私も含むのよ
だけど人間の本質的欠陥は…自分の視点しか持ち得ないこと
だから皆が幸福になったかどうかなんてのは
気にするだけ無駄無駄
って思うかも知れない、私だって目が曇っている時もある、だけれど本当は
皆が幸せになればいいなあって思ってるの
善を成したいと思っているのよ

 

私を抱いたあの人が一人になって
その要因に私の絵がある
私の絵ってのはいわば
別れの引き金
それだけじゃああんまりよ
そんなのは創造とは真逆のはたらき
ここで諦めたら絵は本当に汚れたまま
舞台は途中のまま

 

私は舞台の中央に立って言うの

 

側に居る人も好きだし、あの人も好きだし
さらには憧れの人がいるのよ
憧れの人はあまりに美しいから、その人自体が到達した絵みたいな存在なの
その、絵みたいな美しい人にだって、絵を見せていた
ねえ、これはもしかするととっても
怖いことだったのかしら
危険な事だったのかしら
憧れの人の生活すら
やりようによっては破綻させてしまう類いの行いだったのかしら?

 

私、悪いことをしていたのかしら?
同時進行で何人もに
悪いはたらきをしていたのかしら?

 

誰かと仲良くするってどうして
難しいのかしらね
誰かと仲良くしたらどうして
駄目なのかしらね

 

子供じみているでしょう?
誰かと誰かが均等に公平に仲良く出来るのならば
人は
誰とだって仲良くしてもいい
その手腕に長けている人と
そうでない人
そうでない人の、人への愛は極端で
ある人はそれを強欲だという

 

抱いてもらって嬉しかったのよあの人に
ずっと抱かれない私を、文句も言わず
絵だけではなく、理屈をこねてばかりの私をきちんと見据え、抱いてくれて
本当にありがとうって言いたいの
憧れの人は憧れの人でしかないのよ、美しい一枚の絵みたいな人なの
次元が違うから近づけないのよ、それに…恋を完成させたいのなら
憧れは完全に憧れのままにしておくべきだわ
でも
話しかけたかったから話しかけたのよ美しい絵みたいな憧れの人にも
全く同時に、肉体で触れる事の出来るあの人にも
絵で話しかけたのよ
ねえこれって危険な橋を渡ったって事なのかしら?
おかしい事だったのかしら…

 

憧れの人との間に噂が立ったりしたら
それだけで
憧れの人すらも破綻してしまう、誰かと誰かが線引き以上に仲良くなったらそれは
悪いこと

 

現に今、絵で会話出来た相手のうち一人が、感謝の念しかないあの人が、孤独を食んでいる
「私のせいで」
と私自身が言って泣くのは責任逃れよ、それは自分を投げ出しているだけ
私は
自分の側に居る人や
あの人がしてくれたことの全てを
周りにもわかるようなよろこびに変える事でしか身の証は立てられない
時間を超えた場所で、私を抱いてくれたあの人の奥さんすら微笑むような
よろこびに変える事が私のよろこび、だからそれをやらなくちゃいけないの

 

ねえ、何人も好きな人がいるっておかしい?
側に居る人と楽しく過ごして
家を飾って、この家を見る人の喜びになればいいなあと思いながら暮らして
憧れの人には恋をして
別の人に抱かれて悦んで
抱いてくれたあの人の奥さんにも幸せになってほしいだなんてふざけてるかしら?
関わった人全員にプラスになるようなはたらきがしたいだなんて
私を、とんだ偽善者だと思うかしら?子供だと思うかしら?

 

あけすけに打ち明けると…好きな人たちが揃うのを私
生まれ落ちるずっとずっと前から
待っていたような気がするのよ
自分のしでかした悪事に自分の絵が絡んでいて
だからこそ自分の絵で、物事を善に塗り替えたいだなんてのは
これ以上ないほど良いお膳立てだわ

 

ねえ、ここだけの話
ようやく役者が揃ったような気がしているのよ
ここだけの話、ようやく舞台が始まったような気がしているのよ

 

同じ登場人物で織りなす
苦痛に満ちた劇から、感動作への転換
子供じみているでしょう?
でもね、そんな気がしているの
なんだか楽しいのよ私
悪いことをした私が
これからようやく良いことが出来ると思うと
心底楽しいのよ私は

 

 

 

【詩】夢の中の夢

 

襖を開けて開けてまた開けてまた次の夢へ
夢の道は何重にも折り重なっていて時に険しい
終わった夢は一枚の折り紙
そして次の折り紙の上に降り立つのよ私は

 

ねえもう夢から
覚めたいのだけれど
目が覚めてもまた夢
とうとうこの布団まで戻ってきたと思っても
そうね、きっとこれも夢なのだわ
だってこの夢は
まだ全員が微笑んでいないのだものだってこの夢は
まだ私さえも心から、笑っていないのだもの、美しいけれど質の悪い夢

 

さっき見たあの夢は
誰かが何年も前に見た夢
そこにさっきまで居たのね、だからあの娘も生きていたのね
じゃあこの灯台守の夢は
誰かが何十年も前に見た夢
白熱灯の照らす淡い淡い夜の夢
だったらその厩舎の夢は
誰かが何百年も前に見た夢
飼葉の匂いの中での逢瀬、蹄の音…

 

ねえ、沢山の夢を夜ごと夜ごとに渡ってゆく私たちの見る夢は
誰かが見るまでは置き去りにされたままなのかしら?
何百年も何千年も
置き去りにされたままなのかしら?

 

そして目が覚めていると
思い込んでいるところのこの夢を、踏みしめている今の私すらも
そうよ
今の私の見ている景色さえも
誰かがいつの日かに夢想した夢でしかないのかしら?

 

夢って言うのは沢山の誰かが夢想したものなのよ
だってそうじゃない?
この夢も夜に見る夢も
あんなに沢山の知らない事を
これっぽっちの肉体しか持たない
たったこれだけの文化しか知らない
私が
創り上げられるわけがないじゃない
私が
一から十まで
土の中の微生物の呼吸から
土蔵の中に封印されたままの婚礼の衣装の運命を
呪われたものや見たこともないような完全な幾何学模様を
…知る由がないものを
想像出来るわけがないじゃない?

 

目を開けて眠ったときはね
世界はジグザグ模様になるの
いくつもの光が乱反射して、在りもしない筋道を作るの
その割れ目から、色んな人が無自覚に分け入ってきて
ほら、すぐ目の前の
私のお気に入りの階段を
手を振って駆け上がって次の襖を開けて去ってゆくのよ

 

あの人たちも眠っていて
私の夢想の傑作であるこの家に
…実在する、とあくまで私は断言するこの家に
迷い込んでいるのかしら、抜け出せずに居るのかしら

 

ここだけの話、七色の夢を見たときに私は泣くのよ

 

あれに比べたら目が覚めている状態なんてのは
瞳だけ開けて見る夢に過ぎない
私の秘めた恋すらも、何処かで夢になっている

 

襖を開けて開けてまた開けてまた次の夢へ
夢の道は何重にも折り重なっていて時に険しい
終わった夢は一枚の折り紙
そして次の折り紙の上に降り立つのよ私は、けれども

 

まだ、襖の向こうの全員が微笑んでいないのよ
私だって心から、嬉しくて泣いてみたいのよ
夢の道筋を辿って七色の夢に辿り着くまでは…まだ夢から一度も
目覚めてさえいない、常に夢の中の夢を見てる
それが私
それが私なのよ

 

 

 

あのひとの女性観

 

完全な直感やあれこれ考えあぐねて理詰めにしている物事のもっと下の、ただただぐるぐると思っていることを言葉にするのをどうにも省きがちなので、私が、世間的には愛人と称されるところのあの人の離婚について、全く完全に悩んでいないように見えるのかも知れない。
私が原因の離婚について、私の絵が原因の離婚について思い悩んでいないのかというとそうではないよ。
何とかしてこの「悪いこと」を「良いこと」に変えたいと思っているのよ。
それなのに当のあの人からはオナニー電話しか基本的にかかってこない、けれどまあ…それも私には嬉しい事だったりするのよ。
男の吐息に飢えているから?
いいえ、あの人が、その時にはほとんど確実に私の事を見据えているって事が、伝わるから嬉しいの。
あの人の女性観に救われた事を書いておこうかな、あの人との肉体関係そのものにすら救われた事を書いておこうかな。

 

あの人からオナニー電話がかかってくる日…それ以外の日に実はあの人が、その日その日、週の内何日も、それぞれ別の女に同じようなオナニー電話をかけていたとしたって、私は驚かない。
つまり、仮に、私以外に5人以上女が居たとしたって別に驚かない。
勿論、居て欲しくなんかないの、私以外に女が居たとしたら…その女に死ねって伝えといて!ってくらいには嫉妬心はあるのよ、結構嫉妬深いの。
…でもね、あの人がその時その時に抱く女を…あの人が心底きちんと見つめているってことを、私はわかるのよ。
だから今まであの人と肌を合わせた女たちは、良いセックスをしたという点で、とても救われたのではないかしら?
だって、私だってあの人に救われたのだから。

 

今までね、尻の形のわかるスカートを穿いてこいだとか、脚の形のわかる靴を履いてこいだとか、要するに「可愛くしてくれ」っていう要求を突きつけられる事が多かったの。
綺麗な雌を連れている俺…っていう、男の夢を叶えろ、みたいなね、まあ、わかるんだけどさ。
実際に無理してヒールを履いていくと、やれ「歩き方が悪い」だの、「ヒールを履き慣れるように」だのと説教垂れてきたりね…骨が悪かったとは、当の私だって気付かなかったから、なんだかいつまでも到達出来ないゲームに参加させられているような嫌な気分になったものよ。
セックスの時もこの「可愛くしていてくれ」という大前提があるからそこまでのめり込めなかったり。
どんなに頑張っても「胸が小さい」とか「もっと身体がこうだったら君は最高だった」とかね。
俺はそんなこと言わない!と思う人もいるかもしれない。
けどまあ実際、貧乳を目にするとせいぜい「胸が大きくなくても俺は平気だよ!」くらいが関の山ってとこなのよ、それってつまり、既に「規定値以下」って言ってるに過ぎないの。

 

女は身体で判定されるから、だから女で「身体にコンプレックスのない人」「セックスで無理難題を突きつけられてもセックスが義務にならない人」なんて居ないのよね。
パイズリ出来ない、アナル出来ない、足コキ出来ない、フェラですぐ射精させられない…とか遠回しにでも言われるとね、そりゃあどんなに「セックス好き!」という気持ちの女だって、それを言った男とのセックスは義務になるよね。
そして、何も出来ない自分との戦いみたいになるよね。
技術や身体のどうしようもない面に対するそれとない不満を述べられるとさ、反射的に「こっちはプロじゃないんだよ」とか「そこまで言うならいっそ金欲しい」、と思う気持ちがわくのもわからんでもない、だって、セックス時の要求ってさ、もう労働の範疇だから。

 

あの人を見てると思うのよ、本物の女好きって、穴さえあればいいのだなあ…って。
え?そうそう、穴さえあれば満足するんだな…って、うん。
もうそれ人間ですらないじゃんって?
そうだよ、人間ではないんだよ、女好きの求める女体って実に簡素で、芋虫に穴が開いてるみたいな状態でいいのではないかなあ、すごいよね女好きって。
え?
それは「女には可愛くあって欲しい」っていう、一般的な男の欲求の方が人間味があって、その方が女を尊重しているって?
そうなんだよ、実はそうなんだよ…綺麗な女性が壊れて欲しいとか、綺麗な女性が汚く(勿論本当に汚くではなくてあくまで汚く見える風に)なってほしい、可愛い女性が可愛く喘いで欲しいって欲求の方が…実はまともなんだよね。
にもかかわらず、その類いの男の欲求を満たしている限り、女自身の欲求ってのは満たされない仕組みになっているのだよね。

 

女自身の欲求ってのはつまり、可愛くあらねばならないとか、世間的な常識とか、そういうものを全部取り去った所にある言語以下の呻きを、相手に許してもらえること。
その状態で快楽を相手と一緒に追求すること…それだけなんだよ。
めちゃくちゃに聞こえるかも知れないけれど、「女はただの穴」って考えてる男の方が、女の欲求を叶えやすいんだよね…ホント、滅茶苦茶だけど。

 

あの人に胸の大きさとか声の低さだとか、陰毛の濃さだとか体毛の云々かんぬんをそれとなく聞いても、どのタイミングでも答えは全て一言だった。
「うん、どうでもいい!」
そして、いつも男に茶化されていた体毛についても、あの人は一切言わなかった…思いやりで言わないというよりも本当に目に入っていないような様子だった、そういう女の個体差はもうどうでもいいというのが伝わってきて、なんか私はその時に思ったんだよ。
この人と寝た女たちは、セックスが労働や義務ではなくて…心底安心して喘ぐ事が出来たのだろうなって。
自分の身体から抜け出る喜びを感じたのだろうなって。
だとしたら彼は沢山の女たちを本当に悦ばせたのだろうなって思ったの。

 

女を許しているのだろうなと思ったの、だからあの人に抱かれた女たちは皆、悦んだのだろうなと思ったの。

 

そしてあの人は、私の服装についての要求も一切無かった。
私は足を出すのにどうしても抵抗があって、突き詰めるとそれは多分骨の悪さから来る潜在的なものだったのだろうけれど、いつも男に足を出すように言われてしんどかったのね。
しんどいって言ったらアレだけどさ。
例えばこれを男女逆に置き換えると「デートにみっともない格好で来ないで!私と会うときはスーツで来て!」って言ってくる女が居たとしたらさ…
デートというか、逢瀬というか、ラブホ直行でも何でも、まあ名称はなんでもいいんだけど、好きって気持ちがあっても相手に会うのがダルくなるものだよね?想像つくでしょ。

 

ここで言っているのはね、好きな人とかセフレとか、特に線引きはしてないの。
好きな人であっても「女はただの穴」
セフレとかたった一回の逢瀬でも「女はただの穴」
通り過ぎる綺麗な女も「ただの穴」
みたいな認識があの人にはあるのよ、それが表面意識にまで到達しているから、ホントに女を選り好みしないんだよね、彼…だからモテるんだよねえ…。

 

胸はあった方がいいとか
脚は女らしい靴で可愛く飾られていたほうがいいとか
断然若い方がいい!とか
顔は可愛いほうがいいとか
連れて歩いて見栄えのするほうがいいとか
抱いたときに体毛を感じたくないとか
喘ぎ声はこのトーンがいいとか

 

…今更だけどこの話は、性格とか本質的な部分の好みは抜きにしてね、姿形だけでの要求の話ね。

 

上記に挙げたこれらを全部、「うん、どうでもいい!」って、完全に一言で言い切れてしまう男ってさ、割合としてそんなに多くないと思うのだよ。
女は穴だから!って普通の意識でも思えてしまうのってそんな多くないと思う。
少なくとも私が今までやった奴らで女への好みを言わなかったのはあの人だけなんだよ、善悪は抜きにしてさ、ホントにそう振る舞える男ってそうそう居ないんだよ。
多分ねえ…多くの男が女への欲求を要求しているうちにね。
あの人みたいな「女はただの穴」って思ってて、ただの穴であるところの女に満足してしまえる真の女好きたちが、女を濡れ手に粟の法則で持って行ってしまってるのではないのだろうか。
要求をしない男が全部、美味しいとこを全部かっ攫ってしまってるのではないのだろうか。
要求をしている男が、まだ自分の彼女だと思い込んでいる女にすらいつの間にか振られたりしていて、その間に要求をしないで受け入れてしまえる男が女を同時に幾人も悦ばせている、それが生物界の常ってやつなのではなかろうか、残酷だけれど。

 

だからハーレムって…実は、許されているのだよね。
いや、あの人がハーレムしてたら私は嫉妬して一抜けするけど、それでもさ、あの人のハーレムから去ったとしてもね、あの人との逢瀬が恋しくなるだろうなあ。
そしてもし、あの人がオナニー電話を毎日色んな女にかけていたとしてもね、それを本当に悪いことと思えるかというとそうでもないの、嫉妬はするけど。
やめてって言うけど。
頬をひっぱたくかも知れない、もう会わないって言うかも知れない。
でもね。

 

汚いものや醜いものにこそ欲情している所があの人にはあって、セックスの時や日常でも可愛くしていてなんていう要求はしてこない、それってすごく良いことのように思えるのよ。

 

身体っていうのは宿命として、朽ちてゆくように出来ている。
別に女は損だとか言いたいわけではないのよ…男も同じように朽ちてゆく、情けなくてみじめにもなったりすると思う、今よりも10年後、絶対に弱くなっている。
どうしたって美しさから離れてゆく、強さから離れてゆく。
だからこそ、醜さみたいなものを許せたらとてもいい男女関係が築けるのではないかとしみじみ、思ったりするわけなのよ。

 

醜さを許せるって本当に大事な事なのではないかなと、思うのよ、あの人と居るとね。

 

あの人は世間的には浮気をしたから、罰としてあの住処から追い出されたみたいな形をとっているわけで、慰謝料というものを奥さんにも支払っているのだけれど…
どうもね、悪いことをしたようには思えないのよ。
あの人が悪いことをしたようには思えないのよ、肉体関係についても悪いことをしたようには思えないのよ。
だからこそ、この肉体を含めたこの関係が、第三者にとっても…何か心地のよいものだと感じられるように出来たのなら、私の情念も浮かばれるのではないか。
今、私の絵も、情念も全てが、家庭を終わらせ…あの人をも孤独にさせたという形になってしまっている。
あの人を一人きりにさせた要因に成り下がってしまっている。
あの人の情念もまた、単なるどうしようもない女好き、病気、みたいな事だと見なされているけれど、その部分にすら私は救われたのだと言いたいの。
絵の部分にも救われたけれど、肉欲にも私は救われたし、他の女たちも快楽の在るセックスを出来たという点では救われたのではないかと思う。
どうにかしてこれを…罪悪のイメージだけではなく、その中に生命の威力や創造性を感じられるような出来事に発展できないかなと思う。
そして一番私とあの人で成し得る中で、創造性を高め合う物事といえば絵である、芸術の分野。

 


離婚してよかったなどと言って欲しいわけではない、けれど、絵で…定義出来ないが…善いはたらきを出来たらと、私は思っているよ、ねえ、貴方はどう思う?喘ぎ声ばっかりなんだからもう。

 

 

 

 

 

あのひとへ

 

ああ悪いことをしたなあ、情というものが、かえって孤独を引き起こすはめになってしまったよ。
あの人は悪い人ではないんだよ、確かに女は沢山居るかも知れないけど、悪い人ではないんだよ。
私だって現に助けられたんだ、私の情念というものを見据えてくれたのは結局の所、彼だけなのだから。
あの人の元居た場所を見る、そしてこれから寝起きする場所を見る。
あの人の子供との居場所、そしてこれからの一人きりの部屋を見て。
ああこれが私のしでかしたこと、私の、絵にまつわる情念の引き起こした物事。
そうだよ、あの人には今までだって女は沢山居た、でも均衡を保てた、それは絵が欠けていたから。

 

誰かの絵というものが、誰かの創作欲というものが、情欲というものが、こんなにも物事を壊すとは。
私が良いものだと思い込んでいる絵が、放出して楽になるという体感から、与えているつもりになっている絵が、奪う要因になるとは。

 

肉体関係も、別に何かを壊すためのものではなかった、あの人や他の人の作り上げた世界の一部に私が居る、何も矛盾していなかったの。
私は助けられていたし、私もあの人の一部だった。
ねえ、まだあの人は病気扱いされているのかしら?
性欲に溺れているって、思われているのかしら?
あの人本人ではなくて、あの人の苦しみの正体は病気であると、言われているのかしら…人格を無視されているのかしら。
それでもあの人が、絶対に身内を貶したりはしないことを、たったの一言も、無理解に苦しんでいるなどと言わないことを、誰が知っているのかしら?
この件に関する全ての責任を背負っているのに、一言も他人を責めないのを、一言も私を責めないのを、誰が知っているのかしら?
仕事の愚痴も、新しい部屋の無味乾燥さも、人生の虚無感も…安易に自分を貶め、努力から逃げて満足したりしない事を、誰が知っているのかしら?

 

詳細は知らないのよ、あの人が泣いたのかどうかも私は知らない。
例えば私が、M氏に全て打ち明けたとしましょう、そうしたらきっと、M氏は自分の性的不能を責めるでしょうね。
10年抱いていない妻の不貞を、どう解釈して良いのか悩むでしょうね。
セックスという物事だけで私とM氏が繋がっているのかいないのかを決めつけられないように、私とあの人とは絵で繋がっている。
私はね、M氏に女性(あるいは男性)が居てもいいのよ…M氏はきっと、彼の本音では私にお人形のように、肉欲を持たずに死ぬまで生きて欲しいのでしょうよ。
肉欲以外でなら、私があの人とどんなに仲良くしようが構わないというのがM氏の、本音なのよね。
私は別にね、M氏に滅私奉公しているわけではないのよ、「M氏に食わせてもらってるならM氏の願望を叶えるべきだ」なんて、思っていやしないの。
それがどんなに残酷な願望かを、生に反していると、知るべきだとすら思うわ。

 

そう、だから、だからM氏に相手が居たっていいのよ。
私を抱けないからといって人生で誰も抱かない等という馬鹿げた思い込みはやめてと、幾度も話したのだけれど、話せば話すほどそれはそれで残酷さを帯びてくるのでもう話すのはやめたわ。
ねえ、何がいけないことなの?
何が良いことなの?

 

誰もが規格通りに商品化された品物ってわけではないのよ、骨の欠けている人間だって居るのよ、根っこの起き上がらない人もいるのよ、いつでも元気な人もいるのよ。
その人にはその人の幸福があって、人間関係があって、その幸福が規格外だと誰かが不幸になってしまう。
本当に不幸になったのかしら?
あの人の携帯を見た彼女は、不幸になったのかしら?
それでもあの人が、彼女の事を考えて人生を送っていたことを、誰が知っているのかしら?
私がM氏のためにと思って行う些末な家事を、料理の味を、アイロンがけを、誰が知っているのかしら?
それともこんな事は鼻で笑われてしまうようなことなのかしら?
私がM氏を、好きで無いなんてことは無くて、仲良く暮らしているなんてことは、鼻で笑われてしまうようなことなのかしら?
私の全部の面で誰かを騙しているってことにしかならないのかしら?
あの人に女が居たら私だって嫉妬する、いいのよ居たって、でも嫉妬する、別に理屈じゃないのよ。
嫉妬するのはそうしたいからするだけよ、もしかしたら嫉妬に狂って離れてしまうかも知れない、彼女のように…けれどね。

 

それでもあの人が私の絵を見てくれたということには変わりないのよ。

 

全く同時に、家庭の為に生きていたことにも変わりはないのよ。
息子のことを思っていたことにも、妻を思っていたことにも変わりはないのよ。
だから私は思うの、ああ、悪いことをしたなあ、私の情というものがかえって孤独を引き起こすはめになってしまった…ってね。
あの人はこれから一人で眠るんだと思うと心底苦しいの。
そうよ、あの人は特段この手の苦しみを口にしたりしない。
別に苦しいとすら思っていないかも知れない。
事によると私が勝手に、至極身勝手にあの人を哀れんでいるってことにすらなるのよ。

 

ね、わかるでしょう?私が悪いことをしたなあと口にすればするほど、あの人を軽んじてしまう事になるのよ。
かといって…私は、あの人が、あの人の人格の凄い面が、私の絵や情念のせいで、周りから見えなくなってしまったのが嫌なの。
やっぱり私の絵は汚いのだなあと思っている所よ、めげているの、父親の言ってたことって本当だったのか、みたいな。
今はまだあの人の新しい部屋に毛布もないみたいだから寝袋で寝ているのですって、でもね、それで私が今すぐにあの人を暖めに行っても…
それこそ、ただの女体が隣に居るのと変わりはないのよ。
それでは意味がないのよ、それは、誰にだって出来る事なの。
あの人が本当にそれを必要としているのなら私は行くわ、M氏にも、あの人のところへ行ってくると言って眠りに行くわ。
…ただ、あの人が温もりとしての私を必要とする、その時が来ない限り、いくらあの人の側に物理的に行ったって無駄よ。
そういう人なの。
そうよ、隣には既に誰か別の女が居るかも知れない、だけれど、それはどうでも良いことなのよ、それであの人をはかることは出来ない。

 

昨日からね、携帯が重いの。
手に持った感じ、なんか、ずしっとくるの。
携帯ってこんなに重かったっけ。
そりゃあね、肉体関係ってさ、命を生じさせるものだからね、重いのかも知れない。
あの人の精液、あの人の唾液、あの人の子供。
あの人の、涙。
あの人の感じている寒さや寂しさ。
携帯が依り代となってそれらを吸収しているのかもしれない。

 

なんとなくここ数日は絵筆を握っていない、晴れの日は庭仕事と決めているせいもある。
人間って…いえ、私ってね、一日のうち数時間しか集中して物事に取り組めないのよ。
午前中力仕事したら午後中だらけて、そして夜に何か吐き出したくて書いて、眠る。
午後の気怠い時間に思うのよいつも、いつも、もっと絵を描きたいって。

 

私の絵であの人をこんなにしてしまったのだから、私はもっと絵を本気でやらなくちゃならないって。
絵を本気でやるっていうのはどういうことかというと、絵は、少なくとも本名でやろうかなと思ったの。
本名でやるっていうのはね、背負うってことなのよ、私を背負うってことなのよ。
私は本名には特段思い入れがないのだけれど、旧姓も好きではないし、今の名字は好きだけど特段思い入れはないの、好きだけどね。
あの人に報いたい気持ちもあるのよ。
報いたいっていうか…絵を、情欲を、良いものに変えたいのよせめて。

 

ああ悪いことをしたなあと、思う気持ちを、塗り替えたいのよ。
薔薇色にとまでは言わない、でも本気で塗り替えたいのよ。
自分の人生と、自分の一日の時間の使い方が…あの人の人生に彩りを添える事があるのなら、そう思える日が訪れたのなら、これは悪いことではなかったと、言えるのではないか。

 

当のあの人からは基本的にオナニー電話しかかかってこないし本当にどうしようもない野郎だ、確かに病気だ、とんだチンポ野郎だ。
本当に奥さんと子供の生活費や、自分の生活が、この離婚により成り立っているのかとか…
もし赤字のようなら私の払える金額なら、その都度、月ごとに払いたい気持ちもあるとか…
そもそも今現在何処に住んでいるのかとか…
ホントに参ってゾンビみたいになっているのではないかとか…
そりゃ具体的にはさ、どんなにあの人が参っててもそんなには払えないよ、雀の涙も涙だよ、けれど私は、あくまで私の尺度でだけれども、私の出来る範囲でなら筋を通すべきだと思っているのよ。
絵だって実名でやろうと思ってる、だからこそ独白まみれの文章とは切り離すべきだと考えて絵のブログも終わらせた。
…とかそういう真面目な話をこんなにも毎日考えているのに、庭を耕しながら、泣いているのに、全くこれらを話す機会もない、チンポを弄りながらの吐息で全部かき消されている。

 

あの人自身の涙も。

 

憎たらしいったらありゃしない。
私の絵が、情念が、誰かにとって良いことになって欲しいと、こんなにも切実に願うようになったというのに。

 

携帯電話の物理的な重みだけがあの人を推し量るバロメーターだなんていうのは、いくらなんでも、どうかと思うのよ私は…ねえ、そうは思わない?貴方。

 

 

 

【詩】白い白い虫

 

 

身体を横たえ、口に食物を含みながら眠る
身体が白く白く丸まってきたのだ
自堕落な日々は幾日続いたろうか
はて、秋の空は澄んでいると記憶していたが
どうにも最近は
いつまでもぬるくて暖かくて
ずっと夜のようだ
土の中のようだ

 

眠りに落ちる瞬間

 

暗い穴を抜けるとふっと光が差し
ああそうだそうだこの畝道を渡って
背中には金色の動力
この羽で飛んで渡って
あの里まで行けば良いのだ
やることが沢山あるのだと思い出す
知り合いも沢山いたのだと思い出す
この小さな山を飛んでゆけばほらね
食べ物も沢山あって
自由に飛び回れる場所があるのだ

 

目が覚める瞬間のため息

 

でも
やることは沢山あるのだ
白い白い虫を殺すための粉を
身体を背負いながら買いに行く
金色の動力を絶やすための粉
秋の空は澄んでいる
誰だ、ずっと夜だなんて言うのは、誰だ?

 

身体の力が抜け、瞼が下がり、暗い穴を通り抜ける

 

口に食物を含んで横になっている
白い根は甘い甘い汁を出す
これを口に含んで眠ると
身体は白く白く丸くなり
やがて金色の動力が背中から生えてくるのだ
美味しいよ、土の中は全部おかあさんの味
そう繰り返して、何度も寝返りを打つ
やることは沢山あるんだ

 

息を吐き出して窓を開ける

 

白い粉はまともに嗅ぐと嘔吐くような臭いだ
朝一番に庭に撒いて土を穿つ
憎い虫の名を呟く
かくして土は
母なる大地から毒婦へと姿を変え
白々しい微笑みを浮かべ、金色の動力をえぐり取ろうとしている

 

暗い穴を抜け出でて飛び
寒い、と呟き、異変に気付く

 

やることが沢山あるので身体を横たえ
いつもの仕草で口に根を含んでみたが
おや、これはお乳ではなくて、毒の味がする
白く白く丸まっていた身体は薄っぺらくなって
凍えるように寒い
暗い穴を彷徨う時間が、果たして幾日続いたろうか
秋の空は澄んでいると記憶していたが
どうにも最近は目も開かなくて
いつまでもぬるくて暖かくて
ずっと夜のようだ、ずっと
土の中のようだ

 

 

 

【詩】私は錆びた銀の針

 

私は錆びた銀の針、海に揺蕩う銀の針
地獄でもがく銀の針、一人で唄う銀の針
あまりにも美しい夢をみたので泣いています
涙は塩水に溶け
私の身体も塩水に溶けています

 

夢の中の海は水面が太陽の光に乱反射し
眩しくて目を開けていられないほどでした
いくつもの潮流が楽しげに唄いながら渦巻き
見つめ合う私とあの人とを優しく包んでいました
私の身体は錆びておらず
他の針たちの身体もそれぞれに煌めいていました
そうです、夢の中の海が光っていたのは他の針たちの光だったのです
潮流は溶け合い、一人の敵もいませんでした
一人の仲間はずれも
一人の自傷者もいませんでした
そんな緑の海で私はあの人と見つめ合っていたのです
微笑み合いながら声をあげ、遊んでいたのです

 

夢から目が覚めた私は震えていました
錆びた身体から涙がじわりとこぼれ落ち
みじめで悲しくて悲しくて叫びたいほどでした
だってあの夢ほどには
どんなに生きてもあの夢ほどには
完成した世界に
到達出来ないとわかっていたからです

 

地獄の海水は塩辛く
冷たく
潮流はぶつかり合いながら岩礁を砕いていました
針は渦に引きずり込まれ
叫んでいるものもありました
沢山の針たちが無気力に浮いているのが見えました
そうです、あなた方の言うように確かに私は地獄に落ちたのです

 

たとえ地獄に落ちようとも、私には何かが見えました
地獄に居ても、あの夢の海に居ても
私が、この世の役柄として、何処の誰であっても何かが見えました
そうです、美しい緑の海の夢を私はみていたのです
私の針穴に教えの糸が通されていたときは、あなた方の言うように
糸に沿って進めば何も怖くはありませんでした

 

ただ
現世の何処へ行っても
私が見るのは
私の世界なのです
私が何処の誰であっても
私は私でしかないのです

 

そう考えると
自分に通された糸が
急に不自由なものに思えました

 

どんなに美しいと思われる糸ですら
あの夢ほどには世界を完成させないのです

 

だって世界は、不完全なのです
私の情が、私の涙が
塩辛いこの海ではさらなる害悪にしかならないことを
私の情が、私の微笑みすら
どうやってもあの夢の中ほどには美しくならないことを
醜いことを
もうおわかりでしょう?

 

同じように見える糸に通され
同じように思われる祈りを唱え
同じように思われる美を
同じように思われるやり方で讃え
同じように思われる針と針とが
手探りで
同じだと思いたい糸に
絡まって…
ええ、そうです、絡まってすら
いないのかもしれないのです、糸など無いのです

 

救われたと言っているあなた方、本当は糸など無くて
ぽっかりと開いた針穴に
海水があぶくをたて
笑っているのかも知れない
そうです、そうですよ、地獄は其処此処にあるのです
誰も自分がどうであるかさえ
確かめる術が無いのです
今見えている物事以上の視点を誰も
得られないのです

 

様々な色の糸を通したり
針穴をただ開けたままにしているうちに
私は自分の瞳が一体何処についているのかわからなくなりました
基準となる糸すら捨ててしまいました
それが何色の糸だったのかさえ
思い出せません
だから揺蕩うほか無いと、思い込んでしまうこと
そうです、これが地獄なのです
一人きりだと思い込んでしまうこと、これが地獄なのです

 

いいえ、お気になさらず
こんなのは錆びた針の戯れ言です
朋輩すら居ない哀れな針の独り言なのです
私が泣いているのはあまりにも美しい夢をみたせいです

 

そうです、私があの人と見つめ合う事は起こらないのです
微笑み合いながら声をあげ、遊ぶ事も起こらないのです
私の情という情が甘い海水と成ることも無いのです
いくつもの果てしない潮流が楽しげに唄いながら渦巻く事も無ければ
針の身体についた錆が綺麗になり、太陽光を弾き
眩しくて目を開けていられないほどに水面を光で埋め尽くす事も無いのです
皆が微笑み合うことなど無いのです
このような世界は起こりえないのです

 

私は錆びた銀の針、海に揺蕩う銀の針
地獄でもがく銀の針、一人で唄う銀の針
あまりにも美しい夢をみたので泣いています
涙は塩水に溶け
私の身体も塩水に溶けています

 

私はあの夢の海へは行けません、どんなに祈っても行けません
それがわかっているので
だからこうして泣きながら
地獄の海をただ、揺蕩っているのです

 

 

 

イデアを目指して

 


「でもやったこと無いよね?」
「経験無いよね?」
「実物見たことないよね?」

 

と言われるときに強烈に考える事がある、やったことないけれど「そこに既に見えていること」、経験は無いけれど「知っているしやりたいこと」、無いのに、在る事。
無いのに確実に、今現存している自分の肉体やら周囲の風景やら何やら全てに先んじて、そこに在る夢。
例えば次に描く絵の実物を私は「見たことがない」、けれどそこに手応えとして既に、実物より先に、在るもの。
レンガの花壇兼小径も、私は「見たことがない」けれど「既に知っているから創り出したい」のだ、この創り出したいという部分が意志で、無いのに見えている素晴らしい風景こそがイデアと称されるものなのだろうと私は思う。

 

手に持つ球根は微笑んでいる、小さな緑の芽が呼吸している、球根にさえ意志は宿っている。
球根の意志というものは何か?花開くことである。
球根自体は今現在、ただの球根である、この球根がどのような環境に翻弄されるのかは球根自身にもわからない。
不自由な環境、息苦しい場所、もしかすると球根自体に欠陥があってなかなか思うように芽吹けないかもしれない。
しかしここで重要なのはこれら球根たち、皆、絶対全部に意志が宿っていて、この意志に関係する物事だけが彼等を成長させ、幸福にするのだ。
球根の意志は「イデアに近づくこと」である。
球根のイデア、球根の目指す「未だ見たことのない完全な美」とは、花開くことである。
私はその手伝いをする、それが私のイデアでもあるからだ…つまり、私と球根とは、ここで同一の美を目指すのである、意志が重なり合い、私たちはある意味で一心同体の同志となるのだ。

 

この球根が春に芽吹けば、がらんとした北側の柵に色とりどりの花々を飾られるだろう。
この光景を既に私も球根も見ているのである、そして実際にこの光景を見る人は…私たちの共同の夢を目にするのである。
夢を美しいと思う人が居ればいいなあと私は感情の部分で望む、そして感情よりももっと先んじた意識の部分ではほとんど「美が完成」しているのを関知している。
この種の美は既に私や球根が生じる以前から…ある地点に於いては…そこに在ったのだろうと推測する。
私の生まれるより前から「私の夢想するイデアは在った」「私の美であるこの家は在った」「花咲く北側の窓辺も在った」のだろうと私は考える。

 

私が描きたいと望む絵は、私の追求する絵は、既に私よりも先んじてそこに「在る」のだと私は考えている、私の生まれるよりも前から私のイデアは在るのだ、私の追求する絵は在るのだと私は信じている。
イデアに触れようとして実行したいという決意が意志である、意志を遂行するのは身体である。
だから身体は大事なのである、何もかもの一番最後に身体は生じて、イデアの僕である意志の、そのまた下僕となるのである。
だから身体が意志に従順であるとき…人間は一体感を味わう。
一体感とは、一人で味わうものなのである。
感情や身体が僕となったとき、無我の状態になったときほど幸福が味わえるというのは、なんだか面白い現象で、哀れですらある。

 

これを身体感覚や感情の部分まで「引き下げて」考えると…私は美で人を喜ばせたいという気持ちが結構強い、あるいは美で他者に話しかけたいと言うべきか。
自分自身の美に忠実でない限り、誰かを喜ばせる事は不可能だと考えている。
イデアに触れた」と自分自身で体感しない限りは、人間関係に於いて他者を感動させることは難しいと考える。
ただ、アニミズム的視点から物事を見たとき、自分自身が自分のイデアに忠実であるとき…自分の意志に従って身体を、意志の僕のように無我の状態で動かすとき、三次元的な意味での空間や場所に非常に良い影響を及ぼしているような気がしている。

 

私は(あくまで自分比で)長年勤めた仕事も、楽しかった仕事も…仕事というものを辞めてから一ヶ月、もうほとんど思い出していない。
仕事をしている最中の私は…意外に思うかも知れないが「仕事は楽しくやろうよ!」みたいな独特の状態で働いていて、それがことのほか肉体労働では受けが良く、心底楽しく働けた。
もし股関節の骨の欠損が無ければ(骨が無い事が無ければ…というのはなんだか矛盾しているが)定年まで、定年が引き上げられたらその分だけ長く働きたいと思っていた仕事だった、にもかかわらず私はその仕事の事すら特段思い出さないのである、楽しくやっていた仕事仲間のことすら思い出さないのである。
きっと定年まで働いても特段何も思わなかったろう、何故なら私の従事してきた仕事には、私の意志は宿っていないからである。
私の苦労にも、私の身体の痛みにも意志は宿らない。
私が泣こうが辛いと言おうが、はたまた毎日笑顔で楽しく過ごそうが…意志が介在しない物事とは、当人にとって、実にどうでもよい物事なのだとわかったのである。

 

股関節の骨の欠損にも何かしかるべき病名があって、正式名称は右側…なんちゃらかんちゃらというやつで、骨の角度が…果たして何度だったか忘れたが、ともかく、その筋の医者が診ると「乳児検診で引っ掛からなかったの?」「あんた何で今まで放置してきたの?」と疑問視してくるレベルではある。
だが、そんなのどうでも良いことなのである、骨の正式な病名やら角度やら云々は、実にどうでも良いことなのである。
これは身体や感情の物事であり、意志よりも後からついてくる下僕の部分でしかないからだ。
「ずっと立ち仕事だったんですが、最近足が痛むので辞めました」とリハビリ担当医に告げると、「…日常生活に支障があるということですよね?かといって手術は出来ないし…あの、生活、出来てますか?これから、どうするんですか?」と予想外に心配していた、私はどういうわけだかいつでもどこでも独身に見られるのでその体で心配してくれたのである。

 

身体が欠けていると案外人生あっけなく詰むものである、意志の下僕であるところの身体を維持するためのお金、というのが遂に手に入らなくなったりもする。
「何でもいいから仕事すればいいじゃん」の、何でもいいから、の部分を身体が物理的に実行不可能なのである。
長年立ち仕事をやっていて身体が痛んで働けなくなったなんてのは、実は結構ざらにあるのではないだろうか?
心身含めて色々な病があるが、人間の身体というものもそんなに全部が全部揃った状態で生じるわけではないのだなあと実感している。
ちょっと前まではね、結構皆が羨ましかったのよ、楽しい仕事も辞めなきゃなんないみたいな拗ねる気持ちもあった。
誰かに怠け者だと責められたり、同じような身体を持つ連中が、手術するほどではないんだと痛みを軽んじたりする言葉を吐くのを見たりするとね、辛い気持ちもあった。
この痛みをわかれ~みたいな感情が私にもあって、今思うと恥ずかしい。

 

何故なら、多分この部分に視点を集中させていても、何も得るものが無いと理解したからだ。
きっとね、他人と話していてそれがたったの一瞬でも「対話した」と感じるのって、意志が介在した瞬間だけなんだよ。
…仮に私の骨が欠けておらず、ずっと何らかの「出勤」を伴う仕事(朝起き抜けに痛くて身体が動かない事が多々ある)に従事していたとしても、そこに意味は無かったと思う、勿論M氏のお陰で私は生かされているのだ。
だが、だからといってM氏に滅私奉公したところでM氏もそんな事は望んでいないし、私も望んでいない、そこには義務や罪悪感しか無いからだ、意志がないから意味が無い、滅私奉公の場合、意志を実行していないので他人を喜ばせる事も出来ないのである(この滅私奉公を尊いとする文化のせいで、不幸な人が人の足を引っ張ろうとしたり、貶し合ったり、誰かの幸せを許せないような気持ちに苛まれたりするのではないだろうか…だから自殺が多いのではないかと思う)

 

「骨が痛くてこれが毎日続くかと思うとどうしようもない気持ちになって、金銭的にも計算していた貯蓄額に到底及ばない、そして何よりこの痛みを取り払えない…」
というこの文言は、本音ではあるが、身体感情から発せられた本音であり、意志の視点からみたら戯れ言である。
思うように稼げないのはもう、諦めるより他無いのだ、私もわかっている。
「辛い、どうしようもない」
というのは身体の叫びである、しかしこの叫びには意味が無いのである、たとえこれを解決出来たところでその人個人のイデアや、それを行うと決断する意志が実行されない限り、その人は幸福には成れないのである。
だから不安感や人間同士の疎外感、感情や身体感覚の及ぼす快楽や不快感は、ある程度無視してよいと最近わかった。
自分の感情や身体感覚もある程度無視して勝手に叫ばせておき、自分の視点を意志に集中させ、保たせるのである。

 

身体感情だけに注目しているといつまで経っても個人の意志が見えてこない、いつも楽しく居たい、怒りたくないのなら余計に、身体感情は放置するのがよい。
人間同士の疎外感が消え去る時というのも、結局の所、自分自身が自分自身のイデアを「信じて」「実行して」いる時、あるいはその実行した結果、自分自身のイデアが「他者にも伝わった」という手応えのある時以上には…人間はわかり合えないのである、イデアを信じて実行する以外に疎外感を無くす方法は無いのである。
それ以外の物事にはほとんど意味は無い。
苦労にも、楽しさにすら、意味は無いのである。

 

だからある意味では、「誰が誰でもどうでもいい」のである、「自分が自分以外の誰かをやることになってもいい」のかなと思う。
自分と他人の区別など、本当は無いのかなと思うようになった。
私もね、自分ばかり男に襲われたりすんのは何でかなあ、割に合わないよと幼い頃からジクジク悩み続けたからね、他人が羨ましくて仕方が無かった。
けれど結局、自分が他人になろうが、自分が誰になろうが、誰が誰になろうが…目指すべき事は同じなのである。
朝目が覚めて、身体の痛くないどこかの誰かであるところの「私」は、その人の一日をやる。
身体感覚や感情は比較がない限り「優劣」をつけられないのだよ。
私が整形外科の医師によく「何でその骨の欠損を放置してきたの?何で痛いから病院行こうって思わなかったの?」って聞かれたけど、その答えは簡単で「比較出来なかったから」なんだよね、だって、皆このくらい痛いのかなって思っていたから、毎日立ち上がるの大変だよね~って思っていたから。
だからこそ、「私が朝目覚めてどこかの誰かになった」ってさ、気付かないんだよ当の私は…前日の記憶を引き継がない限り、その誰かであるところの私は自分が誰かなんて気付かずに歩き出すんだよ。
そして目指すんだ、一日のうちのほんのちょっとの時間でもいい、自分自身の…その人の持つイデアをその人であるところの私は「信じて」「実行する」、ただそれだけなんだよね、生きるって。

 

誰が誰であるかっていう区別って、本当は無いんだ。
義務感や罪悪感や、単なる喜怒哀楽といった身体感情には、本当は意味なんて無いんだ。
やるべき事はただ一つ、イデアを目指すこと、意志を実行すること、ただそれだけが人生を輝かせる。
たった一瞬の感動のために生きる。

 

球根一体一体がどのように自己を認識しているのかは定かではない。
身体の大小や、乾燥や湿気から身を守る為の表皮も一体一体異なっている。
身に纏う服、身体の出来不出来、私のこの手で偶発的に配置された日照条件、土壌酸度や大気の状態。
もしかすると「苦しい」と言っている球根も居るかも知れない。
「楽しいよ!」と言って笑っている球根もあるかも知れない。
元来身体が欠けていて、なんで生きているのか不思議な球根すらあるかもしれない、しかし芽は出ている、生きている。
暖かい表皮を身に纏っているものもあれば、薄皮すら剥ぎ取られてしまったものもある。
しかしこれらは…物事のいちばん後に不随してきた僕の部分の、状態なのである。
球根にとってのイデア、それは美しい花。
花はいつか死ぬが、球根たちは子孫を残すかも知れない、子株の子株のそのまた子株が生き続けるかもしれない。
永遠に到達不可能な…それなのに既にそこに「在る」、物事の全てに先んじて存在しているイデアを目指して、私たちは永遠に生き続けるのである。