a.o独白ブログ

詩や創作文章を公開しています、時に汚濁あり時に18禁あり、綺麗な場所ではございません、あしからず。

【創作文】振り子の世界

 

影の子は色彩の無い世界で目覚めた、目覚めたその瞬間から影の道筋が見えた、行かなくては…影の子は歩き出した。
自分の発する言葉が意図せず谺する事があった、気をつけよと影の長老に言われ、影の子は素直に頷いた。
影の世界の振り子は人間の世のそれよりも速かった。
速い振り子の世界と遅い振り子の世界、数多の振り子が全く「同時に」揺れているのを見る事が叶うのは玉座に座っている者と、数多の世界を歩くことの出来る影たちだけだった。
影たちは振り子と振り子の狭間を歩くことが出来た、影は闇を食べ、無尽蔵に繁殖しているようにも見えた。
影の道筋に沿って数多の世界を移動するということが影の民の使命だった、影の子もこの使命に従い、道筋に沿ってするすると進み、時空の切れ目から顔を出した、そこは人間の世界の…とある家の中に作られた祭壇のようだった。


「振り子が見えるのよ大きな振り子が、私が一秒と思うその速さと同じ速さを、幾千年もかけて揺れ動く振り子が」

 

影の子は頷いた、言葉を発しているのは影たちよりも振り子の速度の遅い世界に位置する一人の女だった、女は自身の振り子の調子を変化させながら数多の振り子が同時に揺れ動いているのを見ている様子だった。
「この家も動いているのよ、数十年に一度、振り子同士がぶつかる時があるのよ、星と星との衝突…そんなこと滅多にないけれど」
影の子は女の振り子に調子を合わせた、これで女にも自分が見えるはずだった、しかし女は目を逸らしていた。
「唄が聞こえる、終わることの無い婚礼の唄が、膨張しているのね」

 

女の言葉の真意を探りたくなった影の子は視点をずらして女の居るのとは別の振り子を見ようとした。
この事に関して影の民は抜群の能力を発揮して時空を行き来した、少し遅めに、少し早めに、強めに、もっと弱く、そうやって強弱をつけながら自身を移動させればよかった。
色彩の音たちの唄声が影にも聞こえた、女の居る場所には広大な城が建ち、七色の音色たちが着飾って踊っていた。
ぐるぐると旋回して音たちは飛び回り、その都度新しい音が生まれるのだった、婚礼であり祝賀のただ中にある生殖の宴は、女の居る祭壇の前で繰り広げられているのだった。
影は婚礼をしばらく見ていた、女にも少しこの様子が見えているらしい、女は言った。
「こういうものを絵に描きたいの」

 

「あるいは大きな振り子と小さな振り子の世界を」
それは究極の矛盾である、目視出来ない物事を目視出来るように描くのは無理であると影は思った、冬の日は真横から影と女の居る部屋を照らした。
「振り子に従ってこの家も進んでいるのよ、ここは家というよりも船なのよ」
影は頷いた、確かにこの場所は船だった、影は船に乗って移動しているのだった、その時女と影の目が合った、女は息を飲んだ。
「おまえのようなものを描きたいのよ」
女は影を見据えていた、その瞬間の女は自分の居る時空の振り子の速度から完全に離れていた。
女を、本来女自身の居る世界の速度で観測する者は誰も居なかった、女自身さえも視点を完全に影の速度に合わせていた。
よってその瞬間、女の身体は雲散霧消し、誰も居ない祭壇の前では静かに火が灯っているだけだった、そして家さえも消えかかっていた。
数十年も前からずっとそうだったように、遂に家は失せていた、船は家の断片すら失せ、完全に船と化していた。

 

「私はほんとうは何処に居るの?」
虹色の風を受けて女は言った、黒い筋が縦横無尽に極彩色のうねりの中で伸びているのが女には見えた、女が普段見ている景色とは全く異なっていた、だがこの黒い道筋が何もかもの隙間なのだということも全く同時に理解していた。
隙間が生じるということは宇宙の全体全部が膨張しているのだという確信が女を貫き、女は呻いた。
「それをどう絵に描いたらいいの…」
その時、影と女は完全に同じ速度に居た、最早女は影と化していた、影となった女は尚も言った。
「大小沢山の振り子の絵をただ描いてもそれは振り子の絵よ、それも、静止した振り子…振り子だとすらわからないかもしれない」
二つの影となった影のうち片方が言った。
「振り子の振動だけを絵に混ぜるんだ、目視出来るものを題材にして、振り子の振動だけを混ぜるんだよ絵の具に」
「絵の具に振動を混ぜる…音も混ぜられるかしら?音って振動よね?音の色をただ描いてもそれは虹色にしかならない…絵の具にさらなる色を混ぜる…難しいわ」
「色じゃなくて振動だよ、振動を混ぜるんだ、それは確かに目視出来ないかも知れない、誰にも理解できないかもしれないけれど、音の民には見えるし、影の民にも見えるはずだよ、人間宛だけじゃないんだよ本当は、人間のしている事も、影のしている事も」

 

船に乗っている影たちのうち片方の影が唐突に叫んだ、女は自分の異変に気付いたのである。
「私の手が無い!!手が見えない!!黒い影になってしまった!!」
虹色の空の上空に、とてつもなく巨大な振り子が見え、片方の影はさらに叫んだ。
「あんな巨大なものが…ぶつかってしまう!潰されてしまう!はやく逃げなきゃ!」
一方の影が諭した。
「今君は影なんだ、だから大丈夫だよ、それにほら、あの巨大な振り子、あれがこっちまで来るのは君の時間で言うところの数万年かかる」
「…あの振り子の世界に同調したら私は…」
「そうだよ、静止した世界に見えるだろうね、あの振り子の世界では、君らの時間は早すぎて観測出来ないんだ、仮に君があの巨大な振り子の世界の住人だったら…数万年を一秒ほどに感じていただろうね、でもそれは…いつでも起こっていることなんだよ」
「…これ以上見たらおかしくなりそう」
「今君は本来よりも速い振り子の世界に同調している、君自身が元の速さに戻ったとき、こうして影となって過ごしたことは一秒未満だから、幻想としてしか記憶できないだろうね」

 

船はそのまま進んでいた、振動のうねりを波にして、緩やかな航海をしていた、いつしか日は沈み、青白く輝く月らしき星が辺りを照らしているのが見えた。
二つの影は遅い振り子の世界に焦点を合わせた…それは静止した青い世界だった。
月の光が一本の道となり海面まで降りていた。
「私、月の光がこの世からの脱出口のように見えるのよ、月そのものが丸い穴みたいに見えるの」
水や音のしぶきは一粒一粒が宙に静止し、月の光を受けて宝石のように輝いていた。
音のようなものが一帯を蒼く染めていたが、聴くことは出来なかった。
この世界の生物と思しき巨大な人間たちが海の向こうの街に居たが、彼等が巨大な目をずっと虚ろにしたまま、彼等自身の月を眺めている様がなんとももの悲しく、一方の影はいつしか泣いていた。
「帰らなきゃ」

 

影たちは手を取り合っていた、一方の影が言った。
「あなた何だか、元気が無いわね?」
「影の寿命だからかな」
老いた影はそう言って笑った、「影の時間は早いから」、老いた影はいくぶんゆっくりとした動作で船の舳先に座った。
「それでも行かなくちゃ、道筋に沿って数多の世界を移動すること、数多の振り子が同時に揺れ動き、同時に世界が存在していること、その世界を行き来することが影の使命だから…君も絵を描くなら、君の世界の速度で描かなきゃ共鳴は出来ないよ…少なくとも君の世界に位置する人たちにはね」
影は頷いた。

 
女は目を開けた、日はまだ高かった、作り置きした夕食がそのままにしてあった。
窓を開けると鴨の笑い声が聞こえた、だがどうにも妙だった、今し方作られた場所のように感じた。
一瞬のうちにこの場所が更地になって、当然自分の作った夕飯も消えてなくなっており、自分自身も雲散霧消していた…が、何かの拍子にまた、この家と自分と夕飯とが再現されたように女には感じられた。
「冬の午後にはよくこういう気持ちになるのよね、それとも一足早い木の芽時かしら?」
冬場は影が強いから。
女は誰にともなくそう呟くと、「振り子の事はしばらく考えるのをよしましょ」と自分自身に念を押し、即座にさらさらと何か無意識的に描き始めた。
女の手に持つスケッチブックには、黒い影が二つ描かれ、いつまでもこちらを見ているのだった。

 

 

内職の心中(しんちゅう)

 

空気が入らないように、念が籠もらないように、余計な事を考えないようにひたすら手を動かして積み上がった本のうちの一冊、次の一冊、その次の一冊と私は手に取って処理してゆく。
様々な本にフィルムを貼るというこの作業が私の仕事、現在の内職である、別に知られて困ることもないし機密事項もコレといって無い。(多分)
最近はとうとう、キャンバスの前に座って居ても何も降ってこなくなったので内職に逃避しているのである。
段ボール一箱には大体50冊くらい、これを番号の書かれたフィルムと照らし合わせて、定められた本に定められたフィルムを貼ってゆく。
一日100冊こなせるようになれば内職としては、内職としては御の字らしい。
一日、というのは多分3時間くらいだろうなと私は仮定している、3時間半、今は一時間20冊しかこなせない、だから先月からこの仕事を始めた私はまだ半人前である。

 

幼態成熟、というかもう成熟しなくてよいのだ、M氏の前でフクロウの鳴き真似をしながら私は一生を終えるのだ、別に嫌じゃないよ、だって私は保護者を望んでいるもの。
…という雑念が不意に湧き、しまったと思った時には時既に遅し…し損じてしまった、この一冊の対価は何だろうかと考え、これまた不意に、だったら今日仕入れた数十冊を今日の今日で終わらせれば自分の内の仕事に対する感情が均衡になる!気がして、その通りに動く。
日は傾き、ひたすらに手を動かす、水平に、垂直に、時に大胆に。
手の指だと認識しているのは往々にしてその実、手の甲である、手の指先を左右両方本当に使い切るならば指先よりももっと先を意識して動かせばよいのだ。
即ち人間の手は、本当は現物よりもずっと大きいのである。

 

先生宛の絵は何でなんなに下らない情熱だけが宿っているのだろうか、先生宛の絵を15歳くらいの時に描いていれば私の人生もちょっとは違っていたかも知れない、絵を志すが故に絵を仕事にし、デザイン業界などに就いて過労自殺していたかもしれない…というのは酸っぱいブドウ理論の典型だ、一昨年のセフレに一人、デザイナーが居たのを心の内に未だにやっかんでいる。
メトロポリタン美術館に自作を展示…悔しい、ああもう、絵を描く気持ちとは真逆だ、もっと素敵なこと、もっと楽しい事を考えなくては。
そういえば先生と変人さんは年だけで言ったら同じ歳である、私は勝手に二人を両手に花のような配置にして自分が素晴らしい男たちに囲まれている心理的妄想をする時が多々ある、モテているみたいで幸せで良い気持ち。
…が、実際には先生には勿論相手にもされず、変人さんは絶倫男であるが故に私一人では女が足りないだろうし、私の性格がうじうじしている為愛想を尽かされないかいつも心配している。
心配、これこそが一番無駄な事で、例えばこの数十冊の本のうちどれかをし損じたら…等と一寸でも心配が入るとたちまち手は遅くなり、集中力も切れて雑念だらけになる。
雑念を一番よく取り去ってくれるのは朗読だが、この朗読も小説の朗読だとなかなか気が散る。
明治大正怖い話体験談、みたいな毒にも薬にもならない単発の阿呆らしい体験がいくつも集まっているようなものが一番耳に心地よい、中でも素晴らしいのは柳田国男先生の著作物である、何が素晴らしいって、彼は脚色無しに田舎の話を集めて回り、それを美しい文章を書いた、尚且つ、美しい文章なのに脚色が無いため話自体は落ちのないまま唐突に終わったりする。
だから聞き流すことが出来る、川のせせらぎみたいに、人の話し声みたいに、愛撫の感触みたいに。

 

幼態成熟、幼態でなくてもいいのだ、強烈に幼態を脱したい時がある、強烈に、もうこれ以上無いほど大人の女になりたい時がある。
究極的な意味での大人の女とは母親である。
生物学上の母親でなくともよい、その時その瞬間に母親めいた気持ちになりたいのだ…男相手に。
男を探すにも一苦労なのは、セックスにどれだけのめり込めるかなのだ、即ち前提からして嘘なのである、セックスは嘘が深まるほどにセックス自体が深まるのである。
変人さんとのセックスが良いのは特にその一点がずば抜けているからだ、演じていることこそが本当になる瞬間瞬間が在る、ということがセックスに感動をもたらす。
イメージプレイこそ至高であると私は言いたい、今までのセフレたちに言いたい、セックスがつまんなかったのはその点なのである。
変人さんに振られたらまた男を探さなくてはならない、補充、補填、とにかく体内に男の弾を込めねばならない、だってもう大人の女なのだから。

 

駄目だ、雑念が湧いてきて一時間に15冊のペースにまで落ちてきてしまっている、教えて貰った方法でフィルムを貼り付けているが、さて今回の取引先は何処だっただろうか?
…図書館、それも都内で高級と呼ばれるような地域の図書館…おいおい怖じ気づくなよ、雇われているのは(元)私みたいな派遣の図書館員だぞ、地名だけでびびっているなんて私らしくもないじゃないか。
ああっ英語で書かれた絵本が大量に…なんでこういう物にここまでの謎の恐怖感を覚えるのだろうか。
我愛你、みたいな言葉とかわいい狐が表紙に書かれた中国語の絵本をパラパラめくってみたらただのごんぎつねだった…絵本は殴らない、中国語も英語も私を殴らない。
次の一冊を手に取る、言葉のわからない絵本をめくると結構面白い、ふむふむ、はじめは親子3人で暮らしていて、それからお父さんが悪魔らしきものに攫われて、お母さんと子供たちは決意して準備してお父さんを連れ戻しに悪魔の森へ旅に出る…え?…そのまま終わり?お父さんは助からないの?ああでも中国語だから意味が不明のまま、何の因果関係もわからないまま、私には理解不能のままひとつの本の世界は終わって行くのだ。

 

関東大震災があって…と朗読は語る、そうだ、このままフィルム掛けの作業中に大地震が来たら私とて頓死するしかなかろうよ。
あ~死にたくないなあ、と思う、そうなんだよ死にたくないんだよねえ。
歯医者で定期的に歯をクリーニングしてもらっているのだが、その時にも思う、生きているっていうのは痛みと引き換えだな、って。
というのも私はとても神経が過敏で、というか本来守るべき歯茎や歯や骨の頑丈さが欠けているのでいつも痛い思いをするのだ。
歯のクリーニングでも勿論麻酔をかけてもらう、幸い腕のよい歯医者を見つけてあるのでその老医師にさえ麻酔を打って貰えばさほど痛いことはない、そして最近思うのだ。
…この老医師が歯科医から隠居した場合私はどうなるのだろうか?…
すると注射針がことのほか凶悪な物に見えてきて、私は呻く、老医師は笑う、つまり老医師の笑いによって私の痛み耐性が強められているのだ、死にたくないと思う時には笑った方がよいのだ。

 

図書館で本を借りるのが面倒だ、それならばここにどっさりとあるフィルム掛けの仕上がった本を読めばいいのだ!…その為に自分自身で出来る限り素早く仕上げようとしている、一気に速度が上がる、一時間20冊を超える、私は今自分の新記録を超えた!
今私は速さのただ中にある、光の速度で動いている、ような気がしている。
読みたいと決めた本は目印をつけてよけておく、まだ半人前の為そんなに仕事は押し寄せてはこない、今日の今日中に片付けたら2日くらいかけて読めるじゃないか。
…はて、本を読むことが私の目的だったろうか?
本当は、早く一人前になって、3時間ほどで100冊を仕上げ、残った時間で絵を描くのが理想である。
脚が痛くて一番不便なのは仕事に出勤出来ない事だと思っていたが…脚が痛くて得をしたことといえば、身体が朽ちるという事が体感として凄く切実なので、人生の目的を定めやすい事である。

 

最近はこんな風に暮らしている。

 

 

 

 

【創作文】地底薬局

 


「終わらない音楽をひと匙、虹色宇宙の卵の黄身を50個、今という時間を砕いて粉にしたものを…そうだねえ、瓶詰めにして何本かあたしに持ってきて頂戴、まず、それらを量る秤が必要だけれど」

 

私の症状は深刻だった、見るに見かねた地霊たちが教えてくれたのは、家の目の前の小川を「地底に」進んだ所にあるという薬局だった。
その薬局には薬のみならず絵の具も売っているということだった、私は早速地底薬局へ行くことにした、地上での私の身体は、傍目には目を瞑って動かなくなったらしい、旅に出ると言い残した私の身体には埃除けの布が掛けられて寝かされており、目の前の机には魂の安全を守るための蝋燭が神妙に灯されていた。
水脈を地底へと辿る旅は、はじめのうち暗くて何も見えずに退屈したが、そのうち菌類の囁きそのものが多様な色彩を持っていると気付き、私は嬉しくなって極彩色の細い道を無我夢中で飛びながら進んだ。
♪色とりどりの水脈を地底へ、神秘の薬局へ着く、薬局へ着く、地底薬局へ私はもう着いている…私は知らず知らずのうちに唄っていた。
地底薬局、それとわかる場所には老婆が一人、縁側に座してこちらを見ていた。
「馬鹿な歌を唄って」
言葉とは裏腹に親切そうな老婆はそう言って私の事をしげしげと眺め、店先へ招いた、地底とはいえ橄欖石の明かりでまばゆいばかりだった、それらの貴石類の発光する明かりに埋もれるようにして、石造りの地底薬局は在った。

 

「まず、描きたいものをここに書き記してごらん、処方を考えるから」
私は老婆から紙とペンを渡されたがうまく持つことすら出来なかった、身体を纏わずにここまで来たからだった、私が♪困った困ったと唄っていると老婆は呆れて言った。
「この紙とペンは便宜上のものだよ、この店の構えも、このあたしさえもね…だからペンを持とうと思えば持てるし、書こうと思えば書けるんだよ、本当はお前の絵だってそうなんだよ」
老婆にそう言われると妙に納得して私は…まるで身体を纏っているかのように…すらすらと書きだしていった。

 

・主観が折り重なるようにして出来たおよそ脱出不可能に「見える」虹色の宇宙の卵
・音楽の色とその音楽の「長さ」
・生命の循環…を、観測する瞳
・初恋の「年月」
・アートを真に観測したときに通ることの可能な道筋
・影という概念や磁場の作用
・別の宇宙への旅、この宇宙の観測から「逃れる」事
・観測の無い世界と、一点に凝縮されたように見える他者の存在

 

老婆はあきれ顔でこの箇条書きを読み、ため息をついた。
「今、お前のその場から、何が見える?」
私は、♪あなたの顔と紙とペンと橄欖石の輝きよ、と唄った。
「そう、それが物を物として描くということだよ、で、お前の描きたい物は荒唐無稽じゃないか、お前だって自分が書きだしたこんなものを、目で見たこと無いだろう?これを描くのは…本当なら数字が妥当だね、本来なら数式の内側にあるんだよお前さんの理論は…で、数字を絵にする方法を知っているかい?」
私は首を振った。
「例えば、1足す1は2、ということを絵にしてごらん…数式を絵にしても、その数式を知っている人間にしか伝わらない、数式を知らない人は画面上の数字を全部足してしまうかもしれない」
♪数、数、数、じゃあ、数式という卵の内側に在るということ、その概念を絵にしたいと私は唄った。
「数式は美しいからね、過不足が無いから…でも絵は違うんだよ、不足じゃ駄目で、観測者の視点よりも作品からの方が力が勝ってなきゃ駄目なんだ…だから、数式を絵に変換するとどうなるかわかるだろう?減ってしまうんだよ、絵の質量が、だから概念そのものが限りなく完成していたとしても、それを絵に起こしてもスカスカの絵になってしまうんだよ、ただの模様の絵にしかならないんだよ、元が数学だからね」

 

私は老婆の話を歯がゆい思いで聞いていた、哲学がその実数学に酷似しているのを何となくは理解していた、哲学を視覚化したものが数学だと言ってもそこまで語弊は無いような気はした。
♪数学も算数も難しい神秘の模様、神秘の模様は誰かに通じるのかしら、私はいつしか泣きながら唄っていた。
「ただの概念の絵は…勿論この宇宙を観測している大いなる目になら伝わるよ、意味も通じるよ、でもまあ、人間相手には難しいだろうね…」
奥の棚には数多の小瓶が光っていた、中には岩絵具らしき七色の砂が沢山入っているのが見えた。
「目の前に見える物、目で知覚出来る範囲に、概念を込めるしかないんだよ、スカスカでペラペラの質量の薄い絵にならない為には目の前の物を大切にしなきゃ…でも、お前さんの絵の手助けになる物をお前さん自身が揃えられるというのなら…概念を絵にする事も容易いかもしれない」
そう言って老婆はすっくと立ち上がり、冒頭の言葉を唱えるように言った。

 

「終わらない音楽をひと匙、虹色宇宙の卵の黄身を50個、今という時間を砕いて粉にしたものを…そうねだえ、瓶詰めにしてあたしに持ってきて頂戴、まず、それらを量る秤が必要だけれど」

 

老婆の処方は私の描きたいもの同様、荒唐無稽なものの羅列だった、無いものの羅列、少なくとも目視出来ないものの羅列だった、私は怒りを覚えてぐるぐる飛び回った。
「ないものだらけだよ、でも目に見えないもので溢れているじゃないか…時間も、重さも、電波も目に見えない、でも在るってわかるじゃないか…勿論、恋も、命も、それを込めるんだよ」
私は尚も自分自身を前後左右に揺すって駄々を捏ねた、地上や地底、この宇宙は出来ない事や見えないことだらけだと私は叫びたかった、さっさと次の宇宙へ行きたかった。
「それにしても、お前は何で唄うんだい?」
♪最後に残されたものが唄だから、お絵かきにするのが難しいなら文章に、文章にする事すらも難しいのなら最後には唄を、魂の最後には全て唄になる、と私は唄い、そのまま跳びはねた。
「そうかい、じゃあ身体が在るうちは目の前の物を見て、絵に起こさなきゃ」
私は老婆に促され、結局何も処方されずに店の外へ出た、店の外は貴石が空間に押しつぶされる毎に強い光を発していた、私は老婆に手を振りながら地底薬局を後にし、水脈をぐいぐいと登っていった。

 

真夜中に川面から顔を出した私は月を見上げた、真冬の空に小舟のように月が浮かんでいた。
「私が見ていないうちも世界は在るんだわ、だから世界には確信的な観測者が居るのだわ、それが神様、大いなる目」
そう言いながら川から出た私を青鷺が訝しげに見ていた、やはり彼等には霊魂が見えるらしい。
霊体の私はするすると部屋の中まで入り、祭壇前に横たわった自分自身の身体を見つめた、蝋燭は何度か取り替えられた後のようだった。
私は意を決して身体に入り込んだ。
身体を持つということは快楽はもとより…痛みを伴う事だった。
身体は硬直していて、止まっていた心臓がにわかに脈打つのが感じられた、瞳を通して見る世界はいつも曇っていた。
「今」
と私は言い、埃除けの布を取り去った、目の前の景色、即ち部屋の中が見えた。
毎日このように意識の布を取り去って過ごすには、毎日幽体離脱するか、引っ越しに明け暮れるか、絵を描くより他無いように思えて、その時初めて私は自分がこの身体に生まれたことを実感し、何とも嬉しく笑ったのだった。

 

 

 

 

【創作文】影絵の会話

 


いつもの駅前、山を穿って作った人工の街に僕は住んでいる、僕はたまに思う、この街には影が居ると。
土曜の夕暮れ、この辺鄙な駅の銅像の目の前に二人の男女が腰掛けていた、冬の風が山に向かって吹きすさぶ中、この二人の男女は何やら懸命に話している、宗教の勧誘だろうか?
「なあ、お前の言う、影って何なんだ?」
二人のうち男の方の一声が唐突に耳に入り、僕は心がざわりとした、思わず、バスを待つ風を装って彼等の近くに佇んだ。
僕はこの男女の会話を立ち聞きしている…盗み聞きしている…内心何故このような真似をしてまで彼等の会話を聴きたいのか自分でも困惑していた。
しかし僕は聞きたかった、影って一体何なんだ、僕自身は何について怯えているのだ?
僕は最近何について怯えているのだ?
女はスケッチブックを広げて自動書記のようにペンをぐるぐる紙面上で旋回させていた、ちらりと見たがスケッチブックは何かの呪術めいた線描で埋め尽くされていた。
彼等は僕が側に立っていることには気付いていない様子だった、二人は共に黒髪でジーンズ姿だったので何処か兄妹めいていた、女は息を吸い込んで言った。

 

「私はね、基本的にはずっと昔から…インスピレーションやアートの世界を在ると言う意志と、暴力衝動と、影との関連性を考えているの」

 

女は話し始めた。
「影は土地の、土の中の、磁場みたいなものよ、意志を持って生きていないと何故だかそれに憑依されたり、苦しい念の元になって病気になったりもする…と私は仮定しているの、私は長年疑問なのよ、暴力とアートの違いがね。暴力ってそれが暴力になる瞬間には本人にはもう意志はないのよ…少なくとも私はそうだった、自分でも自分の暴力衝動に苦しんだ事もあるのよ、男だから女だからは実はあまり関係無いの、子供を殺してしまう親っていうのもその類いよ、それは本人に意志を尊重する訓練が欠けていたから…だから影に憑依されてしまうの、あのね」
女はスケッチブックに濃い線を描いた、夕暮れにも関わらず僕にはその線が何を意味しているのか見て取れた、それは人型だった。
「ここに人が居るとするでしょう、そして」
今度は女は線を塗りつぶして黒い部分を描いた。
「これが土地の影、土地の磁場よ…変なことが起こる土地ってあるでしょう?あとは目で見る感覚じゃなくて、暗いと思う場所ってあるでしょう?道の一カ所とか、それが影」
そして女は人型を黒く塗りつぶした。
「意志の薄れた人がそういう場所に通りがかると影に飲まれてしまうことがあるのよ、何故こう思うのかというとね、私を襲った人たちはそうだったから」

 

急に温度が下がった気がした、僕は身震いした、つまりこの女はいつまでも怨念を胸に抱き続けているということだろうか?
「便宜上影と言うしかないから言っているのだけれど、影は本来土地の磁場のようなものが、人間に干渉したときに人間が影と会話をするか、憑依されるか、あるいは、影をインスピレーションの一種としてアートを共同制作するか、それくらいしか選択肢が無いのよ、人間って、自分が思うよりもずっと…容れ物に過ぎなかったりするから」
女はふうっと息を吐いた、男は言った。
「影は亡霊じゃないんだ?確かに…重い土地ってあるよな」
「そう、でもね、暴力衝動をアートに変換する事って可能なのよ本来、だってアートに必要なのは本気で遊ぶ意識…それってね、たった一線を思い切って描くその衝動こそが、暴力ですらあるのよ、だからアートをやるってことは自分の暴力衝動を許しているっていう事にもなると私は思うの」
「お前の言うこと俺は解るよ、土地の…影と会話するタイプだよ俺は、会話して会話して会話して…いつの間にかその土地と同化して区別がつかなくなる人間だよ俺は」
「そうよね、私、あんたと居ると土地と会話出来るの、だから楽しいのよこうして外で話してあてもなくぶらぶらするのがね…一人では私は何重にも中に入ってしまうから、防衛の一種でね、でも本当は影に憑依されている人に自分が殺されたとしたって、本質的な部分が死ぬわけじゃ無いから、私は防衛しすぎなのよ、改めなくてはならないの」
女は今度は紙面上に二つ、星型のようなものと、その中に何かを描き込んで言った。
「そうそう私ね、理想郷に行くことがあるのよ」

 

「理想郷?」
「ええ、何カ所かあるのだけれど…今回はそのうち二つを描いたの、一つは霧の中の山岳地帯…崖の寺よ…ああ、こうして思い浮かべるとね、そのお寺の周りは断崖絶壁で、下には果てしない川が流れていて、人なんか辿り着けない場所なのよ、そこを私、飛びながら見ているの、お寺の中が見えたわ…赤い天井なのね!…今私行ってたのよ、その理想郷にね」
それを空想と言うのだと僕は女に突っ込みたかったが、妙な空気を僕も感じた、僕にもその崖の中の寺が見えたのだった…確かに天井は赤かった…石を穿って作られた寺の内側はひんやりとしていて、奥に仏像らしきものまで見えた。
「今見た所はね、あんたと話していたり、そこを「在る」と強く信じているときにはすぐに行ける場所なの。でもすぐに行けない場合もあるでしょう?懐疑的になっていたりとかね…そういうときにはその理想郷に行くための経由地があるのよ、ほら、私たちの行ってた中学のすぐ裏手のあの街よ、あの谷間になった街…そこが梅雨の少し前の時期、コンクリートのトンネルに蔦が沢山絡まってて、日の光がそういう鬱蒼とした草木から漏れて見えるの…その湿った空気を吸って…」
僕もつられて息を吸った、彼等の中学とやらが何処かは知らないが確かに僕にも女のいわんとしている事が何故だか掴めていた。
「湿った空気が、霧に変わってゆくのを想像して…その霧に乗って、飛ぶのよ、そうするともう自分の姿形も人間じゃなくなるわ、クリオネみたいなものになるの、そして飛んで行くと件の崖の寺に着くって事、その理想郷で一息つくのよ、そしてこう確信するの」
女は一段低い声で言った。

 

「アートの世界は在るって…自分の世界は在るって」

 

理想郷で一息ついたらしい女は寒さを感じない様子で話し続けた。
「アートの世界、即ちインスピレーションの世界、これを在るって確信するのよ、そのための理想郷での羽休めなのよ…私は昔からこういう理想郷でばかり遊んでいたのよ、それを空想癖って言われてしまうのだけれど…その世界を「無い」って言われて来たのよ、そうするとどうなるかわかる?」
男は少し震えていた、女は尚も続けた。
「意志が無くなるのよ、少なくとも人前では自分の意志を言おうとはしなくなるの、何が好きか何が嫌いかも自信がないから言えなくなってしまうの、だって自分の一番信じているモノは、無いとされるものだって自分でも周りに言われてそう思い込んでしまうから、だから自分の意志が無くなってしまうの…これはとても怖いことなの、私はなんとかしてこれを回避したかった、誰にも見せない体の日記を書く事すら辛かった、一文字も書けないのよ…無いって言われ続けるとね、殴られ続けるとね、自分でも何も出来なくなるのよ、私はそれでも在ると言いたかったの、だから書き続けられた…でも、そうでない時期もあった」
女は笑っている人型と、そうでない人型を描いた。
「自分の世界を在るって確信している人はね、暴力衝動をイマジネーションに変換出来るの、在る!って宣言出来るのよ、だから好き嫌いも言えるの、笑って居られるの、でもね…」
女は悲しげな表情を人型に描き加えた。

 

「自分の世界を無いって思ってしまうと…その人は生きていても死んでしまうのよ、意志を放棄せざるを得なくなるの、実在していないものは無いのだ、社会的に認知されないものは無いのだ、実益のないものは無いのだ…この思い込みを、周りから示唆されたりするとね、捨ててしまうことがあるのよ、たとえ自分の意志でも、周囲の為にならないという理由でね…でもね、そういう人は抜け殻になるでしょう、抜け殻になった人ほど、影に飲まれやすい人は居ないのよ、意志のない人ほど、一見柔和で、それでいて一番暴力衝動に飲まれてしまうの、何故だと思う?」
男はいよいよ震えだしていた、低い声で男は言った。
「カッとなりやすいのは…無気力だからってことか…意志があればそれを伝えようっていう意見になるよな、意志がなければ、暴力になるってことか」
「一見大人しい人がカッとなってしまうのはそのせいよ、私もだいぶ悩んだのよ、自分の暴力衝動が一体何なのか、だいぶ悩んだのよこれでも、その暴力衝動を鎮める為に依存症になったりだとかもあると思うの」

 

女は祈るような手つきで手を合わせた、そしてさらに話し続けた、女は意志が先行し過ぎてそれに追いつこうと翻訳を進めながら話している風でもあった、あまりに熱心に話すので道行く人が数人振り返っていた。
「世界を無いって言ってしまうことは罪よ、親子間でも、一期一会の対人関係でも、相手の主観を主観に過ぎないと見下す事自体が罪なのよ、自分自身に対してさえもね…だってアートの世界は暴力衝動を救う鍵なのよ、社会的にやっていても無駄だからやらないとか、無駄なことは無いとか…結果的に人を殺すのよ、アートの世界、自分の世界って主観だけれど…ねえ、人間が主観を超えることが出来るだなんて思う?数値的に科学的に社会的にというものが、主観を超えることなんて無いのよ、何処まで行っても私たち、卵の内側なのよ、何重にも主観が張り巡らされていて、いくら殻を割ったと思ってもまた次の殻が出来ているに過ぎないの、虹色の卵の内側に宇宙があるのよ」
女の手は硬直しているようだった、駅前で祈っている人、僕はそれでも女を後ろから見ていた。

 

「ねえ、人類の進歩ってどれほどのものだと思う?時間の流れに比例して本当に進歩していると思う?仮にそうだとして、私たちってまだまだ古代のうちなのだと思うわ、だって…自分の世界を保持しない限り、意志を持たない限り、その人の鑑賞するものにすら意味が失せてしまうのよ、つまり、観測されない世界を構築する事になるの…それって恐ろしい事よ、ずっと足踏みしているのよ、私ね、この宇宙が破滅するとき、ひとつだけ脱出方法があると思うのよ、虹色の卵から抜け出せなくても、抜け道があるって知っているのよ」
男はほとんど凍えている風だった、女は言った。
「ミレーの絵や素晴らしい舞台みたいにね、鑑賞したときに都度、そのアートの世界…向こう側の世界って生まれるのだと私、本気で思うのよ、だから宇宙が終わるときに抜け道となるのは、アートの世界…なんじゃないかって」
女は笑った。
「勿論、こんなのは私の主観の話よ、何の科学的説明も出来ないわ」

 

いよいよ暗くなってきた、女も伸びをして言った。
「自分の意志を持つにはね、タブーを外して行くのよ、こんなこと言ったら駄目なんじゃないかとかのタブーを自分で踏みにじるの、そうすると何だって言えるのよ、それは時に暴力的なのよ、いい絵を描くってこともそうよ、子供の絵って暴力的でしょう?そして、意志のある、自分の世界を在るって言える人間だけが…相手の世界を本当に在るって言えるのよ、本当に観測出来るの、その時に、全てのアート作品が観測されて、完成するのだと思うわ…私はここに、今現時点で言ったら暴力衝動を克服する鍵を、そして俯瞰した目で見たら宇宙を抜け出す鍵を感じるのよ」
男は絞り出すように言った。
「…宇宙が消えるときに抜け出して、その次何処行くんだ?…」
女は振り返ってにっこり笑った。
「アートの世界よ!自分たちの宇宙を作ればいいのよ!その為の練習なんじゃないかしら、作品を具現化するっていうのは!」
男女は立ち上がった、僕は少し移動して彼等の言葉を聞き届けた。
「きっと宇宙が消える頃…その頃には影の居る意味も解ると思うの、影は悪者ではないのよ!不気味だし…抜け殻になった人に憑依としか思えない作用を起こすけれど、影は土地の磁場だからね、本来は木が陽光を吸って影の暗さを調和しているのだと思うの…ああこんな話、私、あんた以外にはなかなか出来ないわ、いつもこの、アートの世界を信じることと、信じるっていう意志と、正体不明の土地の重力である影の起こす作用と、人間の暴力衝動について考えあぐねているのよ…そろそろお腹がすいたわ、このままじゃ抜け殻になっちゃう、行きましょう」

 

二人は影絵のように人工的な灯りのただ中へヒラヒラと吸い込まれていくのが僕には見えた。
僕はたまに思う、この街には影が居ると。
僕が影らしきものを、何もその声を聞いたり会話したりするわけでも無いのだが、何でもない昼下がりに急激な恐ろしさを感じる事があった、それは僕自身が、僕自身の世界を、無いと言ってしまっている事による弊害なのだろうか?
今度あの二人に会ったら話しかけてみたい気もした、立ち聞きした事はともかく、立ち聞きして宇宙の向こう側を垣間見た事など生まれて初めてだ。
さて、僕もそろそろ自分の家に帰ろう、いつもの駅前、山を穿って作った人口の街の僕の家に。

 

 

 

 

【創作文】虹色の鶴

 

虹色の鶴が上空を舞っているのが見える、鉛色の音が部屋を満たしている、静物はただそこに在る、陽光が降り注ぐ窓辺で私は、鉛筆を走らせ動かぬ物を画用紙に写し取っている。
画用紙に物が実在するようになれば、それは「良いデッサン」になる。
「作品」には至らない、ただの写しだからだ、この写すという作業をいかに無心に行う事が出来るかが、芸術やアートと呼ばれる…知覚し難い世界を写し出す鍵となるのだ。
手が半ば自動的に動くようになるまで丸3日もかかった、この間行ったのは目線が動かぬようにする座席配置と、心を無心にする為の環境音への気配りだった。
環境音への気配り、環境音へ気を配らないようにする為の気配り、とでも言うべきだろうか。
鉛筆には影が宿っている、影を描く為の装置だからだ、鉛筆というのは人の心を少しずつ喰らう。

 

「ぶらぶら病(やまい)に罹ってある日呆気なく死んでしまった」

 

昔話を環境音として選んで聴いているとこのフレーズが目立つ、案外うつ病で死んだという記述が多い、文献的には100年~200年くらい前のものである。
時代というのは本当に「進んで」いるのだろうかと疑念が湧いてくる。

 

「自分は本当に意味の在ることをしているのだろうか、自分の見ているモノは本当なのだろうか、何の努力もせずこうしてぶらぶらとただ生きているだけでは申し訳が立たない」

 

という理由で病んで死ぬのである、結構数多の人がこの調子で死んでいる様子なのである、この島国に取憑いている影はやたらと努力を強いようとする。
私は何の為にデッサンをやっているのだろうか、三十半ばにもなって一体何の為に、今更芸術で食っていけるはずもなかろうに。
何の為にもならない事を自分に課して、一体何になるというのだ。
それでも止められない、苦しい熱情が私をいつも責め立てている。
ふと思う…では芸術を生業にしている人は、どうして芸術の世界が「在る」と思えるのだろうか、この創作が何かの為になると思えるのだろうか?

 

日本は文化的には農業国なので、第一次産業的な価値観が尊ばれている、第一次産業的価値観というのは確実に「撒いた種が育つ」事を前提として、身を粉にして働く事である。
「絵を仕事にしないの?」
と絵を描く人は誰しも言われてきただろう、私も絵心の無い人からはよく言われたものだ。
この身を粉にして働くという崇高な意識と絵の価値観が合致している人は、イラストやデザイン業界へ行って努力と根性とでやってゆくのだと思う。
それをしない人、敢て日常的な仕事は絵の分野とは別に持っていて、それでも創作欲がいつも自分を駆り立て、週末に絵を描いているような人。
その人たちは絵の情熱と努力とが必ずしも合致しないのを知っていて、尚且つそれが現状の自分の価値観ではさほど褒められたものでないことをもわかった上で生きているのだと思う。
私はどうしても肩身の狭い気持ちに苛まれるのだ、本気で描けば描くほどそれが…遊びであると知るからだ、アートとは本質的には遊びの能力だからだ。

 

デッサン力と
アート力は
別物である。

 

デッサン力は心を静かにし、雑念を払い、ただそれが「在る」ということを確信まで突き詰めてゆく心理的過程を示す、デッサンとは即ち座禅なのである、美大禅宗大学と名を改めるべきである。
芸術をやる上での基礎と呼ばれるものをデッサン力、座禅力に求めているのだ、だからアート寄りの人間が必ずしも美大の門をくぐるとは限らないのである。
つまりいい絵を描く、という言葉が表すのはアートの力の事で、座禅力や先に述べた崇高な努力の力ではないのだ。
「いい絵」というアート、魔術的要素というのは常識や努力とは別の場所に位置していると私は考える。
だから時として絵を学んだ大人よりも幼稚園児のほうが「いい絵」を描いたりするのだ、そういう世界がアートの世界なのだと私は思う。
それでも私自身が美大出身者を崇め、時に嫉妬するのはどうしてなのかというと、彼等が「芸術の世界」が「在る」ということを確信しているからに他ならない。
彼等の一番秀でている所は、インスピレーションや実際の芸術の場といった「芸術の世界」の実在を深く認めているという事なのだ。

 

私の生い立ちや私の周囲…とても狭い狭い範囲で、血縁で、どのような分野であれ絵を生業にしたり絵を本気で描かずにはおられないという人間は居ない。
若い頃に音楽をやったという類いの人間はさておき、芸術をやり続けている人を見たことがない。
そして私自身にもデッサン力ならぬ座禅力が欠如していたが為、美大になど到底入れず、ぶらぶらと絵の情熱に身を焦がれ、何とかしてその発散をしたいという想いで日記や文章を書くよりほか無かった。
絵、らしきものを描いていると周囲の人に言われたものだ。
「その絵を描いてどうするの?どこに展示するの?仕事につなげるの?絵を仕事にする気は無いの?」
彼等が悪いというのではなく、絵を本気で描くという価値観の無い世界に私は居たので彼等の言葉には強烈な破壊力を感じた。
「仕事にならない事に本気にならないでほしい、本気で遊ばないでほしい」
要するに農業的な、第一次産業的な価値観のただ中に私自身さえも居て、自分でもどうしようもなかった、だから一人では絵を描くということに関してどうしても自責の念が渦巻くのだ。

 

実益の出ない物事に本気になること、その本気というのが本質的には努力を示すものではなく、限りなく遊びであること。
絵を描く人の多くが躓くのがこの部分だと私は思う。
一方で画業を「本気で遊べている」人たちは何が違うのだろうか?
それこそが、「芸術の世界」の実在を信じている、ということに尽きると思うのだ。
芸術の世界というのは発表の場の事でもあるし、インスピレーションそのものでもある、そのどちらをも信じて循環させてゆくことが芸術を生きる事なのだと私は思う。
芸術の世界に触れていない人にとっては、そのようなものの在る無しは人生には無縁なのである、なので私の人生にも芸術の「発表の場」は遠いのである、インスピレーションだけが異様に近く…だからこそそれを周囲の人にもなかなか伝えられない、無い事について考えを巡らせているに過ぎないので、芸術の話はいつも恥ずかしさに包まれている。

 

「発表する的が欲しい」

 

と私は口にした、鉛筆を動かす手にはいつしか力が込められ、雑念まみれになっている事に気がついた…無理だ、雑念を無にするなど到底無理だ、美大生はやはり凄い人々なのだろう、座禅力という意味に於いては確かに自分よりも遙かに秀でている。
個展をやろうか、というより最早個展をやるほか道は無いのだが、個展をやったところで私には画力はもとより人脈も経歴も何一つ無い。
その世界を無いと認識して長らく生きてきたのだから、無い世界については手探りなのである、無い世界に絵を発信する事の虚しさに私は堪らなくなって呻いた。
「苦しい」
苦しくなると上空の虹色の鶴は消えかけるのだった、インスピレーションは失せるのだった。
それでも絵を描く理由のうちには「絵で他者に語りかけたい」という気持ちが湧き出でており、絵で語りかけたい、絵で語りかけたいと私に叫ぶのだった。
雑念は今や手の甲にまで達し、手は止まっていた、そうなのだ、苦しみの根源は雑念なのである。
雑念が取り払われば、絵の世界の有無はともかく手を動かし続ける事が可能なのだ、生きる事が可能なのだ。
諸悪の根源は雑念である、雑念さえ無ければ苦しみも無くなるのである、人生の幸福を極めたいのなら瞑想を極めるべきである。

 

「絵の世界の的、絵の世界は私には遠すぎて、実在が不確かだ…」
雑念まみれの私はここ1年、いつも鶴を思い浮かべて過ごしている、私の好きな銀幕スター、フレッドアステアの和製版とでも言うべきあの男、変人さんを思い浮かべている。
彼を往年のダンサー、故アステア氏に喩えたのは…別段ダンスが上手だという訳では無いだろうが…身体の隅々、普通の男なら鈍化しているような手の先や脚の末端にまで神経が行き届いており、社交の場で楽しむ事の出来る人、女に受ける人だからだ。
私は今年に入ってからようやく、彼との間柄が真に繋がったように思う、小柄で洗練されていて女に受けるという部分で、この長所故に私は彼を信頼しきれずにいた。
だが、絵の世界を「在る」とこれほど強く認識させてくれたのが彼なのだ。

 

「絵の世界、彼に宛てて絵を描こう、彼の実在が信じられれば、絵の世界の実在も信じられる」
その言葉を唱えた瞬間、唐突に雑念が消えるのを私は感じた。
失恋、失望、一般的な意味での裏切り、悲しみ、そういった物事が雑念に過ぎないという確信がじわりじわりと身体の奥底から広がってきたのだ。
雑念とは、今鉛筆を動かしている、画用紙上の静物よりももっと現実感の無いものでしかないのだ、惑わされてはいけない。
「もう怖くない」
美大と呼ばれる場所が、芸術の第一関門がどうしてデッサンを設けているのか私はこの時に初めて理解した。
「雑念とインスピレーションが異なっていると、理解した人こそが、インスピレーションを確かに在ると言えるから…芸術の世界を生み出せるからだ」
しかし目の前の画用紙に描かれた「在る」ものは、作品以下のものでしかなかった、私はついに痺れを切らして立ち上がり、そのまま戸を開けて庭へ出た。

 

庭の先には小さな川が流れ、鶴と見紛うような白鷺が舞っていた、その向こうには冬の風を受けて裸の木立が日の光の方へ枝先を伸ばして数十年、数百年前から立っているのだった、その全てが確かに在った。
空は青い絵の具に何も混ぜず、画用紙にさっと塗ったように何処か作り物めいた様子で輝いていた。
その遙か上空を、虹色の鶴が旋回しているのが私には、確かに見えるのだった。

 

 

 

 

【創作文】笹団子の外側

  

「過去が圧縮されたように見えるのは、目玉が本当には三次元を認識出来ないのと同じ事だ、目玉は本当に奥行きを認識しているんじゃないんだ、全部平面として受け取っているんだよ、まあ、お前には難しいだろうがな」
父はそう言って地図を指さした。
「この地図にだって奥行きがあるんだ…お前には見えないだろうがな」
簡素な白壁には世界地図が掛けられていた、何処へ移動してもこの地図さえ壁に掛かっていればそこは自分の家になるのだといつだったか、父は繰り返し言っていた。
笹の葉の香りが団地の一室を包んでいた、その日の私は両親と向かい合って三人で笹団子を頬張っていたのだ。
「…それはともかく、前のところには3ヶ月も住まなかったのね」
私は何とは無しに両親の常識と世間の常識がずれているという事を指摘したくなり、彼等に向き直ってさらに言葉を続けた。
「父さんも母さんもおかしな人ね、一つの場所に半年以上住むと何かお化けでも出るわけ?」
母はきゃっきゃと年甲斐無く笑った、父は目を伏せて言った。
「たとえばこの笹の葉を剥いたら団子が出てくるって俺たちは知っているから食べるだろ、だけど住処っていうのは何が出てくるのか住まない限り不確定だろう?だから俺たち、渡り歩いているんだ…本当の時間に住むために、毎日を新しく初めてゆく為に。お前は、本当の時間に住んでいるのか?」
父はギロリと私を睨んだ、父の坊主頭が気味悪く青く光り、さらに父は言った。
「昨日と今日の境目が無くなっているんじゃないのか?それは圧縮された時間に住んでいるのと同じ事だぞ、地図に住むようなものだ、お前は過去に囚われているんだ、お前は自由になるべきなんだ、俺たちが自由にしてやらねばならないんだ…」

 

「ねえ、あの娘ったら18で死んじゃって、あぁあぁ、何て勿体ないんだろ、18で首括るなんてねえ」

 

唐突に母が言った、父と私は母を見やった、母は笑いながら続けた。
「ほらあの神社の裏手で、あんなに神社には行くなって言ってきたのに、18でだよ、人生これからだってのに…あたしのたった一人の娘だよ」
私は団子が喉に詰まりかけていた、私は母の娘で、さらに妹も居るのだから。
次の瞬間、私からは母の顔が影で暗く黒く見えた、つまり母の顔が私には見えなくなった、見よう見ようとしても黒くくすんでしまい、顔だけがどうしても見えなくなってしまった、私は発作的に声をあげた。
「」
何か言ったと自分でも思うのだが、その言葉が何であるのか自分でもわからなかった、多分目の前の老女の事を指した言葉だと思うのだが…果たしてそれが何を意味するのか、既に掴めなくなっていた。
「父さん」
私は父に向き直って助けを求めた、父は私を見て頷いて言った。
「お前は今過去を半分捨てたんだよ、彼女はその手助けをしたに過ぎないんだ、そうだ、彼女の娘は暗い女で、18で首を括って死んだんだ。つまり…出来損ないのお前の人生の約半分はもう今消えたんだ、お前は好きに自分を名乗っていいんだ、通っていた三流高校の事も、何も出来なかった過去も、もう忘れればいいんだ」

 

私は辺りを見回した、家具のほとんど無い団地の一室は殺風景で囚人部屋のように見えた、目の前では二人の老人が団子を食っていた。
「新潟の笹団子、あたしの故郷の味、おねえさんあなたもおひとつどうぞ」
老女に言われて笹と思しき葉にバナナのように包まれた団子らしきものを受け取ったが何故だか、今さっきも食べたような気がしてならず、私は団子を持て余し、結局そのまま鞄の中に仕舞った。
「あなたは何処から来たの?」
私は答えられなかった、考えは影のように雲散霧消して、そこに在るのにただの平面のように見えた、絞り出すように「笹の葉の中」と言った。
「まあ!内側に居るのね!あたしはそういう内側の人を表に出すのが使命だと思って、娘を産んだのだけれど、18で死んじゃってさ、嫌になるよね、でもそうかあ…まだ笹の葉の内側に居る人もいるのねえ、でもそれじゃあ誰にも、見つけてもらえないんじゃないの?」
私は何となく居心地が悪くなり席を立った、「そろそろお暇しますね」、何故自分が老女と居たのか最早さっぱりわからなかった、その時唐突に右足が痛み、私はよろけた。

 

「脚が悪いの?」
老女にそう聞かれたが特に思い当たる節も無かった、何処へ帰ってよいのかもわからなかった、私は何処へ行きたいのだろう?
老人の声が後ろから響いた。
「これが本当の時間というものだよ、お前にもわかったろう?本当の時間を生きるって事が、自由を生きるって事が」
老人の声を父の声だと認識するまでに数秒を要した、私は振り返って老人を見た、父のすぐ脇の壁には世界地図が掛けてあり…そこから果てしない街が広がっているのが見えた。
団地の一室に街の一角が在り、父はそこに座して街中を散策していたのだ。
「忘れるということは何も死ぬことじゃない、自分が何処の誰でどういう経歴の持ち主か、あるいは何の経歴も無いということを「持って」いるのか…そんなことはただの雑念なんだ、これから自分が行う事には一切関係ないんだ」
私は父に促され、街角にある鉄製のドアの前までふらふらと歩いた、ドアはどういうわけだか結露しており、ドアノブを掴んだ右手に水滴が垂れてきた。
「ドアを開けるとこの街の外に出る、俺たちの世界の外に」

 

ドアを開けた私はコンクリートの床を見てぼんやりと立ち尽くしていた、どのくらいそうして居たのかはわからない、夕方、音楽の放送が流れている、烏が幾度も鳴いて仲間に呼びかけている。
振り返ると団地の、獄中めいたドアが隙間だけ空いていた、鉄のチェーンがかかっており、その後ろに老人の目玉だけが片方見え、私はぎょっとして後ずさりした。
「自分が社会的に見て誰で在るかなんてことは、何の意味も成さないんだ、毎日世界は少しずつずれている、今日の俺はこのまま妻の世界へ行く、つまりお前は、本当に18で死んだことになる、だからお前は本当にまっさらな人間に成れるんだ、これが俺たちが今日の最後に、お前にしてやれることだ」
私は反射的に何か言ったが、自分でも聞き取れなかった。
「レジ打ちしか出来ないなんて言ってきて、悪かったな」
老人の言葉の意味を考えているうちに無機質なドアは閉まっていた。
そのまま階段を降りて行くと、丘陵地帯の公園に出た、冬の風が辺り一面を霜で覆い尽くそうとしている。
小川は流れ、信号機は誰もおらずとも灯り、連綿と日々の情景が繰り返されているのが見て取れた、過去こそが諸悪の根源でも、それでも昨日は必要だと私は誰にともなく呟いた。
見上げると先ほどまで居たコンクリートの塔が幾重にも連なっている。
数多の部屋のそのたった一室に、さっきまで一緒に団子を食っていた老人が二人居るきりだとわかっていた、ただそれだけだとわかっているのに何故か私は、嗚咽を堪えきれず、夕景の中、咽び泣いているのだった。

 

 

 

 

【創作文】夢製の写真


夢の中に僕は居る、そう気付いたとき、自分の好きなことを生み出せるっていつも気がつくんだ。
僕が手に持つのは夢製の古びたカメラだった、これで夢を撮るんだ、僕はそう意気込んで石畳の小径を歩き回った、まだ日は高く、空は虹色に輝いている。
さっきまでカメラは無かった、でも今の僕はカメラを手にしている、夢製のカメラ、これで夢製の写真を撮るんだ。
だって僕は今、夢の中に居るのだから。
僕の靴は軽快に小径を歩いた、街全体は途方も無い大きさである…と僕は念じた、その時に街は途方も無い大きさに膨れ上がっていた。
入道雲のように膨れ上がった色とりどりの建物、何処の国の様式だろうか…?僕がそう疑問を持った途端に答えが返ってきた。
聞いたこともない国の名を僕は唄いながら、高い塔のある場所まで思い切り地面を蹴って飛んでいった、僕の周りを魚たちが舞っていて、僕は夢中になってそれを撮った。

 

夢製の写真はすぐにひらひらと現像されて宙に浮いた。
僕の指の隙間から逃れて遙か彼方の死神の沼まで落ちてしまったものも多々ある。
でも大丈夫、手元にまだ何枚も残っている、それにほら、カメラの中にも記憶石が組み込まれている、この石を持っていけばどうにかなるんだから。
夢を持って帰れるんだから、光の世界に。

 

「もうお祭りは終わりだよ」
僕は高い塔の小窓からふわふわと浮いたまま中へ入った、塔の中ではパーティーが催されていた、でも華やかな来賓客たちの合間を縫うように、終わりだ終わりだと告げる声がぐるぐると走り回っていた。
反対側の窓辺には悲しそうにうなだれる影が見えた、僕はそれに近寄って声をかけてみた、どうしてそんなに悲しそうなの?
「私のお祭りはもう終わりだから」
影は、よく見ると藁を束ねたようなものに色紙が括り付けてある独特な飾りのように見えた、それがくすんで影のように見えていたのだ。
「お祭りの時間が終わったら私の役目もおしまい、そしたら私、影になるのよ」
影っていうのは…終わった時間の事なのだ、終わった時間が影に見えているだけなのだと僕は確信し、影になりかかった飾りに言った、一枚撮らせてくれない?
「いいわよ、まだ影になっていないところを撮ってね、お正月の飾りなのよ私は」
僕はシャッターを切った、その音のために影の言った国の名が聞き取れなかった、そうこうしているうちに飾りは完全な影と化してしまった。

 

確かにお祭りは終わったのだ、ひとつのお祭りが終わったら別のお祭りが生まれ、光の国と影の国とを半ば永久に行き来する。

 

僕も影になるのだろうか?
影に成るというのはつまり、影に観測されてしまうことなのだろうか?
今の僕は夢に観測されている、この夢の世界の主に僕は観られている、だから僕は今夢の世界に居る。
僕がもし死んだら…影の世界の一部に成るのだろうか?

 

あ!
と思った時には引き返せなかった、そうだ、夢の世界は自分の好きなことを生み出せる。
自分の思い描いたことはすぐに夢の主に観測されてしまう。
迂闊だった、僕は喘ぎながら石畳の街に戻ることを念じたが、既に僕自身が影の世界らしきものに飲まれてしまっていた。
とんでもない重力が僕にのしかかってくる、これは、死神の沼だ…駄目だ駄目だ!!
僕はそれでもカメラを離さなかった、夢製の写真を光の国へ持って帰るんだ!

 

今まで撮った風景、今までの数多の夢世界で撮った写真が思い浮かんだ。
どうして僕は一枚も持って帰れなかったのだろう?
あんなに写真を撮ったのに…
そう、砂漠の写真も、色彩の失せた国の写真もある、通常考えられないような…生き物全部がひとつに繋がっている国も旅してきた、他の生き物の体内を泳ぎながらシャッターを切ったこともある。
それなのに…

 

僕はさらに念じた、「僕は夢の国で撮った写真を光の国へ持ち帰る」、僕は念じた。
指に数十枚もの写真の束が落ちてきた。
夢製のカメラもまだ僕の手にあった、僕は顔を上げた、あれほど途方も無い大きさだと思っていた街がもう、玩具のような小さい街になっていた。
僕は小さな部屋の中で、ジオラマの目の前に座って居た、そしてぎゅっと引っ張られるのを感じながら思った、朝が来るんだ、この部屋の外側の事を夢で観測する事は不可能なのだと僕は感じ、歯がゆく思った、何重にも積み重なる世界、幾重にも巨大さと一点とが折り重なる世界、果てしない虹色の卵の世界が僕ら全ての世界なのに。
朝が来たら僕は光の世界に観測され、夢の世界は失われてしまう、その時の僕は影になるんだ…今の僕を、覚えているのだろうか、僕よ、と僕は自分に語りかけた。
僕よ、どうか僕を忘れないで、夢で見た景色、夢で撮った写真を持って行って。
観測されなくなった僕から、光の世界の僕へ、毎朝影となる僕からのお願いなんだ、どうかこの景色を光の世界で実在させて欲しい。
夢製の写真が僕の指からひとりでに滑り落ち、彼方へと舞って行くのが薄れ行く意識の中で見えた、どうか夢を描いてほしい…この言葉が光の世界でどのような意味を持つのか、僕自身にもわからないまま、僕は目を瞑った。

 

 

 

観測者求む


久しぶりに日記帳に鉛筆で文字を書き付けた。
右腕はすぐに疲れ、頭の片隅で何故だか自分自身への遠慮が湧き、そのまま思う事を書き連ねていったが何かが足りない。
エクスタシー、孤独のカタルシス、そうか…と私は気付いた。
孤独のその中にこそ、観測者を求めているのだと私は気付いた、以前は私自身が観測者だった、だがそれでは創作が終始しなくなってきたのだ。

 

日記帳は、去年変人さんに出会ったその日で止まっていた。
それから先、私の身体感覚は孤独ではなくなったのだろう。
痺れるほどの孤独が人生から去り、助けてと本心から言える相手が見つかったのだ。
彼の孤独の質と私の孤独の質は厳密には全く違うが、共感出来る範囲のものであったし、これからも共有し続けると思う。
しかし孤独の為にもまた日記帳に書いていこうと思う、文字を書いて実感を得たいと叫ぶ右手のためにも。

 

スケッチをしているがどうにも進まない、孤軍奮闘しているのだ誰しも。
描いて、描いたその先に何があるのと変人さんに聞いた。
描かないという選択肢は無いのだが、それでも何の到達感も無いと私は問うた。
この問いを一人で自問自答するのは今までずっと避けてきた、日記にすら書かなかった、考える事すら恐ろしかったのだ。
自分の為の絵を描いても世の中にとってどうにもならないということは百も承知なのだ。
「俺は作品の質を鑑賞者向けにしたくなかったから創作自体を打ち切ったんだ」
このような人が世に溢れているのだ、一方で尚も創作を続けている人間も居る、どちらが自分に正直か、どちらが素晴らしいかに答えなど無いのだ。
仮に創作自体を一時停止したところで、この自問自答から逃れる術は無いのだから。

 

ここ数日は、どうやったら実感のある生活を送れるのかと悩んだ、M氏と別れたら実感のある生活が出来るのか?
一人になって大変な思いをすれば実感のある生活が出来るのか?
あるいは熱烈な感情の渦巻く恋人と一緒に生活したら実感のある日常になるのか?
…どれも違うと私は思った、実感のある事、臨場感の湧く物事が創作でしかないのだ、つまり、現実に恋をしているわけではないのだ。
創作が好きな人間ならこの気持ちがわかると思う、本当に求めているものこそが幻想なので、人生そのものには無感動であること。

 

「創作をする日常っていうものを、愛せばいいんじゃないかな、創作を日常に組み込めば、日常自体が煌めくようになるでしょ」
この答えに頷いたが、創作を観測してもらう宛先が無かった、創作は勝手に湧き出てくるものである、私が日記帳に書き付けていた物事も。
でも宛先が無かった、だから虚しかった、だからどこまでも幻想でしかなく、嘘のような気がしてきてしまうのだ。
唐突に、時間が集約された瞬間に私は行くことがある、たった一点に全てが集約されていて、そこからは全部が見渡せる。
あの一点にいきたいと強烈に思う事がある、死にたいと強烈に思う事がある。
貧しかった時期にも思ったし、今も思う、この種の無力感は死ぬまで消えないのだ。
変人さんがどうして私の励まし方を知っているのか教えて欲しい、どうしてこういう言葉がすんなりと出るのか。
「もっと絵を描いて、もっとセックスもして、もっと絵を観なきゃ、死んじゃ駄目だよ」

 

人生って皆が皆、一人きりの何にも見えない窓の無い個室で祈りながら生きているようなものだから、もっともっと孤独に対する耐性をつけなければと鉛筆を握りながら思った、だがそう思えば思うほどに私は観測者を求めているのだった。
練習のスケッチではなくて、芯の部分で絵を描いているときにはもう、魂は満たされている。
心の表面では誰かに見せたい、絵で会話したいと思っている、表層の部分では人との刺激を求めて止まないのだ。
だが、創作として描いている絵が乗ってくると、芯の部分ではもう「今描いている絵は既に誰か、この絵を見たい人がもう見ている」とわかっている感覚になる。
本当に絵が描けているときには本心から安心している。
だから、絵を描くというのは、苦しいし孤独だしどうしようもなく表面上は嫌で嫌で仕方が無いところもあるけれど、本心では、あれ以上安心出来、尚且つ臨場感があり、冒険でもある物事はそうそう無いのだ。
だから本当の意味では創作は苦痛ではなく、孤独に対する表面上の恐れを突き進めば突き進むほど、心安らぐ物事なのだと私は思う。

 

誰宛の絵なのか、発表の場などあるのか、自分の創作が何の良い効果ももたらさないものなのか。
と考えて絵の入り口でもじもじとしている、これは創作の修練期に過ぎない、ほんの序の口に過ぎない。
とにかく日々の祈りを続ける事でしか見いだせない世界なのだ。
創作の軸は孤独でもあると私は思う、なんだか…社会に出ていようが尼僧になろうが、結局人間って孤独と向き合う仕組みになっているのだと痛感する、この修行をパスする事など不可能なのだと痛感する。
それでもこうして抜け道はあって、小さな場所で想いを発信できる、隣の小部屋に手紙を渡すことも出来る。
観測者求む、観測者求む、観測者求む、と私は、かつて日記帳に書き殴ったのと同じように、神聖な孤独に対し、不届きな祈りを捧げているのである。

 

 

 

 

どうしても

 

ミレーに会いたい、と思い立って電車に2時間以上揺られて山梨県立美術館へ行く。
というのもこの美術館、幼少期からよく通っていたのだ、祖父母の家の近所だったため本当によく行っていた。
ミレーの絵は優しい。
画面の中の何処もかしこも力が均等に宿っている。
力が画面に分散している絵、心地よさが一定で落ち着いている絵。
力が渦巻いている絵もある、その絵の前で立ち止まったM氏が問う。
「この絵の意味がよくわからないなあ、見せ場!って感じなのだろうけど…」
エクスタシーだよ、と私は思ったが黙っていた、M氏とそのことを分かち合えるはずもなかった、それなのに笑っている私は大嘘つきなのだ。

 

正月は好きじゃない、嘘が滲み出るから。
本気で生きてこなかった時間を見せつけられるから。
私は人と交際するときに、自分の軸である絵の部分に踏み込まれたくないがために、音楽を含めた創作分野の人間を避けてきた。
傷つけられるのが怖いから、はじめから話の合わない人を選んで安心しながら生きて行こうと決めていた。
…もしかしたらM氏もそうだったのかもしれない。
M氏は一切悪くない。

 

生活をする事そのものを大事に思った事があまり無い、生活そのものを好きでも嫌いでもないので貧乏だと思っていた時期も、今も、無感動に過ごしている。
掃除や洗濯や食事、そして着替えたり髪をとかしたり、それらのために仕事をする。
だがその仕事も、どの仕事もそうだけど、楽しいけれど感動したりはしない。
私が感動する事、最も頭を使うことは絵についてである。
だがその絵も、日常に無感動なのでいい絵は描けない、風景を切り取ろうと思っても生きる事に無感動なので絵の中には祈りが入ってこない。
だから私にはミレーの絵は描けない。
私が人間や日常を愛していないから、素晴らしい日常を描くことが出来ない。

 

日常が嘘のように感じる。
日常、生活、生活のための嘘、嘘のための生活を死ぬまで続けるのだろうか。
嘘、というのは何もM氏一人に対する嘘、等という表面上のものではない。
私自身に対する嘘、神様に対する嘘、のようなもので…これは死ぬまでずっとつきまとうことになるだろう。
話の合う、何が苦しみか分かち合える人と対面し、肌を合わせているその時ですら自分を嘘つきのように感じている。
たった一人になったときほど、相手への言葉が研ぎ澄まされるのは一体何故だろうか?
そして、すれ違う人が皆、真実の人生を生きているように見えてくるのは一体何故だろうか?
本心を生きるには一体どうすればよいのだろうか?

 

そういうわけで正月は死にたくなる、自分の信仰心に背いているような気がして苦しくて仕方がなくなる。
早めに死んでしまってももう何の問題も無いのだ、嘘のための嘘、生活のための嘘、嘘のための生活を続ける位ならば死んだほうがよほど自分自身に素直であるように感じる。
心中というのが美徳というのもわからんでもない。
セックスの最中に死ねたらと思う事も多々ある、だって生きているということは、肉体を纏っているということ自体が、とても煩雑な気持ちにさせるから。
夕景の部屋の中、棒立ちになりながら死について考えを巡らせていると、唐突に世界が美しく見えてくる。
何故だ、何故これを描けないのだろうか?

 

どうしても接触が必要です。
どうしても触れあいが必要です。
どうしても他者が必要です。
どうしても慰めが必要です、私は大嘘つきです、と言って這いずり回って許しを請いたい、どうしても嘘が必要です。
でもどうしても嘘をやめたいんです、生きるのをやめてもいいから嘘をやめたいんです、偽りの生は無意味なのです、だけれど嘘っていうのは…
死んでもついてくるもののような気がします。
たった一人になったとしても自分の本心に背く事は日常に於いて多々、あるような気がします。
どうしたら本当に生きる事ができますか、どうしたら本当に生きられますか、どうしたら日常そのものに感動出来ますか…

 

接触の為の日常は嘘である、他者の為の創作は嘘である、慰めのための恋も嘘である。
あの人は本物である、だがあの人の目の前に居てあの人に見とれる自分は最早、嘘の塊である。
ミレーに対面して聞いても、生きている絵の中の人物は答えない。
絵の終点はあっけなく、ちょっと他人に見せて、他者へほんの少し触れたらそれで終わりなのだ。
私はもう若くないし、職業的に絵で成功したい等とは思っていないので、絵の終着駅はすぐ側なのだ。
電車で2時間も揺られずともすぐにつく、隣の駅。
趣味、と呼ばれるような世界が私の住処なのだ。
ああ、何だか、全てが疎ましい。
嘘をつかずに生きられたら生活は輝くだろうか。

 

どうやったら本当の絵が描けるのだろうか。

 

どうやったら本当に生きられるのだろうか。

 

 

 

アート業界に対して思う事

 

わかりやすい絵とわかりにく絵、どっちが好きなのか?
わかりやすい絵は芸術には分類されないのだろうか?

 

ミッキーの絵なんて買うか?勿論買わない。
アニメのキャラクターのイラストなんて買うか?買わない、大大大好きな攻殻機動隊のものでも買わないし飾らない。
ラッセンの絵を欲しいか?欲しくない、凄いとは思う、とても自分じゃ辿り着けない技巧の絵だと思う、だが欲しくない。
何故なら、簡単だから。
世界観が簡単だから。
苦しみとか祈りとかが無いから。
毎日見て印象が変化しないから。
簡単だと思う絵を見ている自分が嫌だから。

 

でも実際に売れているのは蘊蓄の詰まった芸術作品ではなく、(勿論、安価だからという理由も大きいだろうが…)簡単な絵やイラストなのである。
美術業界はアニメ業界に市場で完敗しているのである。
絵の商売で負けているのである。

 

コンテンポラリーアートの事をまだジクジクと考えている、理論先行型の絵っていうのが今のアート業界で流行っているのだなと感じる。
今日本で売れている絵、と漠然と考えると漫画であったりキャラクターものだったり、要するにわかりやすい絵が売れている。
単純に感覚の世界で言ったらスピリチュアル的な、わかりやすい価値観、おおざっぱに言うと理論の無いものが一大産業となっている。
わかりやすい絵やわかりやすい価値観は、いつでも需要がある。
絵に絞って考えると、じゃあ自分がわかりやすい絵を買いたいか自問してみても、たとえ買ってもそれを飾る気は起きないので、買わないというのが答えだ。
それを毎日見て、毎日何となく深みや印象の違いを楽しむ事の出来る絵というものには、哲学が宿っている。
自分自身に購買意欲の湧かないものを創作側の人間は作りたがらない…よって理論という名の自分哲学が先行した絵ばかり制作してしまうのかもしれない。

 

わかりやすいものが売れれば売れるほど、相反して芸術の世界は狭くなり、制作者はどんどん小難しくなるのかも知れない。
結果的に市場がどんどん衰退しているような気もする…そんなアートの世界、日本のアートの世界。

 

美術手帖をぶん投げて燃やすとか書いたが、そこまで思い入れがあるわけでもない、だが…それでも振られたような感覚を美術業界というものに対して漠然と抱いているのは事実だ。
はたから見たらとても恥ずかしい、学歴も含め芸術コンプレックス丸出しの感情論でしかないのだが、絵を好きな人間ほどこの苦しみは大きいと思う。
私が何に困っているのかというと、絵を、絵の業界で発信する時に生じる矛盾について、である。
アート業界と呼ばれる漠然とした輪へのアクセスしにくさに困っているのである。

 

公募用に描かれた絵や、美大に行くために描かれた絵、哲学を宿すように躾けられた絵にはやっぱり何か、打ちひしがれたような影を見る。
だって絵は本来無意味なものだから、感覚だけの世界が絵というもので、そこには食事やセックス同様、単にそれをしたいからするという本能丸出しな部分が多く内在する、それが本来の絵である。
でも躾けられた絵には何かよそよそしいものを感じるのである。
そして、絵がこんなにも好きなのに、いざアート業界の門を潜ろうとすると、最低限の「哲学というマナー」位はインストールしてから来いと言わんばかりの空気が充満している(ように感じる)のだ。
で、その空気に疲れてしまう…絵が好きなのにアート業界の意向が読めなくて、意味不明すぎて、言葉が通じないのではないかと恐れおののいてしまい、結果的に時間ばかり過ぎて行くのである。

 

絵が好きなのに絵を描くのやめてしまったとか、絵が好きだからこそ絵を嫌いになったとかいうのって、自分の純粋な創作欲求が、「現代の日本の(あるいは世界の)アート業界」というもののご機嫌をまず伺わねばならないという…本来とても自由なものを敢て不自由にするっていう一連のプロセスが、創作者側にはとても堪えるので、結果的に創作が苦痛になるのではないのだろうか?
自由奔放であっても誰も傷つけない、この創作欲というものを、敢て厳しく躾けねばその世界に入り込めない…ような気がしてしまうのである。

 

そしてここにも勿論強者の理論が渦巻いて居て、この種の感情的な悩みについて話したら話した分だけ負けてしまうような感じもある。
負けるって何に?
自分自身にである。
「このような狭き門でやってゆける人は凄いのだ」
という前提、単なる思い込みに負けるのである、それは事実かも知れないし、そもそもアートの世界を狭めているアート業界と呼ばれる美術館を含めた美術産業の怠慢の結果、単に狭き門に成り下がっている部分もあるだろうと私は思う。
そもそもアート業界というものの商売のやり方がまず意味不明である。
アートの祭典みたいなものは乱発しているが、あんなもの(すみません)に何の意味があるのかわからない、これは絵を好きな人間の意見である。
だって、絵を売る気ないでしょ?
黒字出す気ないでしょ?
「絵に興味の無い人も絵に興味を持つようになるかも」
とか、いつまでやってても絵に金落とさないでしょ、絵に興味ない人はさ。
だって私スポーツに興味ないから、一生スポーツにはお金を払わない、だって無くてもいいから。
↑という私みたいなのをターゲットにしたスポーツワークショップやスポーツの祭典をいくら開いても、私のような人間が購買層になるはずもないのだから、薄っぺらい理屈先行型のアート系ワークショップや祭典は、どうせ採算取れないのだろうし開催する意味が無いと思ってしまう、売る気ないでしょ?って言いたくなる。
絵を売りたいのなら絵に興味ある層により沢山の絵を見せなきゃ…って思う、絵を見る層にターゲットを絞って、尚且つ、小難しくてそれそのものを美しいとは言い難いものを売るというのではなくて、単純に綺麗なものを簡単に売っていったらいいのにと思ってしまう。

 

絵を売るとなると実物を見たい、実物を見るとなるとアート業界の敷居を跨がねばならない…ような気がする、公募展含め。
なんか、どうして世の中につまんない絵ばっかりなのか私は心底不思議なのである、凄い絵は確かに凄いよ。
そうじゃなくて、公募とか何らかの息のかかったものだと途端につまらなくなるよね、これ、結構多くの人が思ってるんじゃないかな?
だからどうしても、つまらない空気を発している業界にわざわざ頭を下げて、絵をその業界の…というよりも今のアートシーンに「合わせて」作るというのが、語弊はあるかもしれないがなんか、それって絵の本分と相反しているような気がしてならないのである。

 

絵のパワーだけで言ったら、世に出てない人でも結構凄い絵を描く人はいると思うのだよね、そういう人の絵が見たいと思って、その人らも絵を誰かに発信したいと思っていて…
なんかどうにかして、美術手帖等(目の敵にしすぎか…)を買わずに、自由奔放に出会いたいのだが、どうしたらいいのだろうか?
勿論、絵を売って絵で食っていくとなれば、「今の流行」に合うものや哲学をコンスタントに作れる力というものが必須だという前置きは十分理解している。
だが、絵そのものに対して本気であるか否かは、本人がプロなのかアマチュアなのかに左右されるものではないと私は思っている。
だから私は絵を売るために、哲学を「作った」ような絵を描く人は嫌いだし、それっ「ぽく」している作品はぶん投げて燃やしてしまいたいくらい、憎んでいるし、この種の物事に大した疑問も抱かずに創作している人たちの脳みその出来を正直疑っている。
ああそうだよ私は学歴コンプレックスで芸術コンプレックスの塊だよ!!と叫びたいが、本音は少し異なる。
本音はただ一つ、本気の作品を作りたいし本気の人を知りたい、それだけだ。

 

一言で言うと、絵については頭を下げたくないという感情なのだ。
なにくそ根性で絵を描くぞと思っている、ああ~こういう時は攻殻機動隊を観るに限るよ、いいよね~攻殻機動隊
もしかしたら攻殻機動隊のフィギュアとか買ってしまうのかも知れない。
このままではラッセンの絵も買ってしまうかもしれない。
アート業界の意向を知りたいというか、一般の人が「絵画の」売り買いを出来る世の中は来るのだろうか?
ネットにはもう絵の販売サイトがあるが、絵は実物に限ると思っているし、大前提として、絵がたたき売りされるのではなくて、もっと広い範囲での「絵の評価」が行われるべきだというのが私の意見である。
私はそれが絵という産業の活性化に繋がると思っているのだ…質が下がると思う人も居るかも知れない。
だが、今で言うところのその質というのは実質、単なる流行に過ぎないのでは?というのがこの文章で、私が言いたかったアート業界への問いかけである。
私がミッキーにハマるより前に、絵の実物を見ての売り買いや、もっと広範囲での絵の評価のなされる時代が訪れる事を切に願っている。

 

 

 

理論先行型の現代アートが大っ嫌いなんですよ私は!!


これは創作側の人間の一人としての意見なのだが、私は現代アートと呼ばれるものが嫌いである、苦手であると言ってもいい。
現代アート、という明確な線引きは古代から現代まで無いが、私が苦手なのは主にコンテンポラリーアートの事であると言いたい、だがコンテンポラリーアートの線引きも現実的には無いに等しいが…話を進めよう。
何が嫌かって、見るためには事前学習が必要という風潮もなんか気持ち悪い。
アートをわからないと言ってしまうと、こんなものも理解出来ないのか、理解する気も無いのかと鑑賞者がぶった切られてしまう空気も、はっきり言ってうざい。
うざい、気持ち悪い、という感情で絵を見ようとしている、感覚だけで絵を見るなんていうのは幼稚だ、100年前から日本人は絵の鑑賞について進化していない等と解ったように十把一絡げに言っている鑑賞者も、制作者も、最早生理的に受け付けない。
とはいえ、現代アートの巨匠ともてはやされている人の絵をいざ見たらすごく感じるものがあって、凄い画家だと思う事もあるので自分自身が始末に負えない。

 

これが愛憎というものである、これから書くことは愛の叫びである。

 

新年早々、のっけから何を言っているんだと思うかも知れないが、最大のジレンマなのである。
アートが嫌いな癖にアートという場で自分の絵を発信したいと考えている…という、最大の矛盾が生じている、なんかもう絶対無理という感じしかしない。
そもそも、現代アートって、理論先行型じゃない?
理論、ロジックが先にあって、絵の理論の裏打ちをしてからようやく、絵を見て下さい、みたいな感じ。
理論という裏打ちの無い絵は淘汰されているような気すらしてくる。
理論という言語野の文脈を絵に持ってきてまでやることなの?と突っ込みたくなる位のものが溢れているように思う。
でもってこういう事をアート通みたいな人に言うと、やれ「これだから感情型の日本人は遅れている」とか、「売れている人への僻みだ」とか、それこそ思考停止したような「解る人は解る」という風潮。

 

そりゃあ多くの人が絵に興味なくなるはずだよ、と思う、現代アートを買わなくなるはずだよと思う。

 

コンテンポラリーアート作品と呼ばれるものを探して、鑑賞しようとしても、言葉遊びやダジャレでしかないような作品群がわんさか出てきて面食らう。
ねえ、これって、芸大出てまでやることなの?
本当に創作がしたくてたまらなくて辛くてどうしようもなくて創作したものなの?
文脈を理解する、言葉を立体に訳してみたみたいな「やってみた」系の作品は…それは詩や小説の分野で勝負すればよくない?
って真顔で聞こうものなら「アートがわからない人って可哀相」という目で見られそうな空気…ああうざい。
鑑賞者が文脈を理解している体での鑑賞というのは、それは鑑賞者もその作品に参加しているのであって…なんか、私はその事について、作品が完成していないような、無理矢理参加させられたような強烈な違和感を感じる。
そう、つまり結局私は「感じる」としか言えないと言うことを「感じて」しまうから、鑑賞を避けたいのである。
そしてこの事について語ったとしても「わかんないからうざいと言っているに過ぎない」と、単に切り捨てられてしまう「冷たさ」みたいなものを現代アートと呼ばれるものを鑑賞する度に「感じて」しまうから余計に鑑賞を避けるのである。
こうして現代アートコンプレックス、ならびに美大コンプレックスは生じるのである。

 

何でこうも現代アートコンテンポラリーアートが嫌いなのかというと、別に私は何のプロフェッショナルでもない訳だが、それでも、日常の中に数々の発見をする。
誰でもそうだと思う、どんなに馬鹿そうに見える人間でも、毎日生きていればそれ相応の発見を日々体感しているのである。
多分、数学とかを専門的にやっている人や、趣味で法則的なものに興味を持っている人なんかは、「あの数式とこの数式がジャンル的には全く遠く離れているのに、実は繋がっていた!」というような発見を日々しているのだと思う。
発見というか気付きというか、言語分野、科学分野、数学分野…およそロジック、理論、法則が必要不可欠な分野ではこの種の「発見」は日常的なもので、点と点がまさに繋がった感動を多く味わっているのだと思う。
それを敢てアートの分野でやられても…なんか、お門違いというか。
今のアート(多分私の指しているのは日本の狭い範囲に於ける現代アート分野)は、言語や理論が感覚分野と「繋がった」という事を、芸術だと言っているのだろうけれど…
それって、とても小さいレベルの繋がりだと思うのだよね、それこそ数学分野の目で見たら阿呆みたいな「発見」をアートとして公表しているように見えると思うのだよね。
そしてその「発見」には理論という、医者のカルテの猿真似みたいなものが貼り付け、それを元に作品に値打ちがつく。
その全部を馬鹿らしいとは言わないよ、だって本当に情念を感じる絵ってあるからね、でも大半は「別にそれを目にしなくても魂には何の影響も無い」ものばっかりだなと思ってしまう。
見ても見なくても何の影響も無い、説明書だらけの絵、説明書や解説書があるから値打ちのつく絵、むしろ説明書や解説書に値打ちのある絵、絵自体には値打ちの無い絵、情熱の無い絵。

 

ああそうだよ、アートなんてね、大っ嫌いなんですよ私は!!
現代アートなんてね、理論ずくめのアートなんてね、大嫌いなんですよ!!

 

…って叫びたいくらい。
実際に展示作品の前で叫んでも、そのこと自体が制作者側の作品の、奴らの一部にされそうでムカつくんで叫ばないけど。
さて、ここまで書いて最初のジレンマに戻るのである。
じゃあ私が絵を発信する場所ってどこなの?と私は途方に暮れるのである。
絵のサークルみたいな場所で絵を描くというのはそれこそ、私自身にすら「通常の絵の理論をぶち壊してやったぜ」みたいな痛い所があるので、調和が乱れそうなのでそもそも選べない。
で、なるべく多くの人に見てもらいたいなあ…という公募に出すのも、いいとは思うのだが…。
受賞作品を見てもピンとこない、だってそりゃあ皆が皆素人として描いているのだから凄い絵なんてそうそう無いよと思うかも知れないが、どうも、賞を選ぶ基準もまた、理論先行型のような気がしてならない。
賞がそこまで欲しいのかというとそうでもないのだが、ピンとこない場所にいちいち絵を出すのもなんかなあ…と、気が引ける。
じゃあもう、アートの祭典のような場所で絵を出すよりほか無いじゃないかという話になってくる。
ギャラリストの変人さんに絵の出展場所を聞いても「美術手帖を見た方がいいよ」と言われてしまう、そして何より、私は彼に対して申し訳なくなるのだ。
だって、アートが好きだからギャラリストをやっていた彼に、私はアートが嫌いだ!だが私はアートをやる!と最大の矛盾を突きつけ、付き合わせているのである、出来る事なら鑑賞方法を教えてくれと一方的な要求を突きつけているのである。
美術手帖を読んだら読んだ分だけ現代アートが嫌いになりそうで、それをぶん投げて火をつけて燃やしたいほど辟易しそうだという現状なのにもかかわらず、アートをやりたいと言っているこの私…アートを好む彼とは恥ずかしくて顔を合わせられない。

 

私は、感覚先行の分野でどうして理論先行を流行らせているのか、美術業界の意図が全く読めないので困っているというのが本音である。
本来、絵って感覚の分野の事象じゃないの?
感覚分野の事象というのは即ち、何の裏付けもなくとも「自分で本物だと思ったものは本物である」という現象がまかり通る分野の事である。
それって絵の本分じゃないの?と思う。
でもって感覚分野は今やすっかりスピリチュアルや健康食品に取って代わってしまったようにも感じる。
アートを商売にしている人間、つまり私のような創作側の人間は悔しさとか無いのだろうか?
見ているだけで癒やされる「感じ」のする絵とか、情念が籠もっているので生きていると感じる絵とか、その真価を決めるのは鑑賞者であるという感じが抜け落ちている気がしてしまう。
絵を理論にしてしまうと絵は売れないのではなかろうか?
理論先行型のアートが多いように感じるが、もしこれが絵にとって真価のある現象ならば、絵はもっと日本で売れているはずなのではないのだろうか?

 

これだけ嫌い嫌いと連呼する私が、じゃあなんで絵をやっているのかって?

 

食欲、睡眠欲、性欲、創作欲。
生き物に不可欠な上位三つの欲求と同じくらい創作欲があるから、絵をやるとか、絵をやらないとかではなく、そこに選択肢など無く、やらざるを得ないからというのが答えである。
私が元ギャラリストの変人さんを好んでいるのも、何も元ギャラリストだからというのではなく、彼自身の作った作品にこの種の情念が「在った」から、なのである。
私は実際に不調になると絵が描けなくなる、絵が汚いと貶されると絵筆を持つ手が鈍る脆弱な人間である、だが毎日毎日この創作情念に焼かれている。
それは、絵を描かないから絵を描いていない人になるとか、絵をやめたとか絵をやらない等という言葉では説明出来ない。
結婚しない人、子供の居ない人に性欲が無いのかというとそんな訳ないのと同様に、その日絵を描かなかったからと言って創作欲が消えることは無い。
その代わりにどうにかして手先を動かしてこの欲求を昇華したいので、手先を動かす仕事やら、日記を書くことでどうにか自分を慰めている状況なのである。
ブログもその一環である、どうしようもなく湧き出てくる何かの昇華方法の一環である。
だってさあ…これは本当の意味で創作をやってる人なら解ると思うが…一日何の創作も(日記も含め)せずにいると、頭狂いそうにならない?
夜眠るとき、手先の指とか痺れるように辛くない?
胸が押しつぶされそうにならない?
それでも描きたい絵が思い浮かばないとか、現代アートが嫌いなのにアートというジャンルにしか自分の身の置き所が無いような気分に絶望しているとか、様々な理由で絵筆が進まない場合ってあるけど、滅茶苦茶辛いよね、弱い自分が許せなくて、だから日記を書くよりほかないんだよ。

 

ここまで書いたけど勿論、凄いと思う画家は私の限りなく少ない情報収集力に於いても数人居る。(名前は忘れている場合もあるが)
要するに、絵を見れば見た分だけ凄い画家を発見するのだと理解している。
今思うだけでも存命の画家で数人居るのだから、積極的に絵を見に行けば数十人の凄い画家を発見すると思う。
現代アート、とひとくくりにしてしまったが私の苦手なのはコンテンポラリーアートで、でもコンテンポラリーアートを自称する画家でもきっと、本物だと思う人は居るのだと思う。
どうにも出鼻をくじかれる思いを、絵という業界には抱いてしまうので、その「気持ち」だけを今回率直に書いてみた次第である。

 

さて、そんな私が絵に求めるもの、私の絵の軸。
「絵に理論は無い」
絵に対する説明書きを求められても一切答えたくないし、例えばムカデを描いたものは「風呂場で殺したムカデだ」としか答えたくない。
もう、はっきり言って、一言の蘊蓄も答えたくない。
それはどのような場所でもだ、アートと呼ばれる場所に於いても答えたくないし、どんなに小規模な絵の発表であっても絵の理論を「説明」したりしたくない。
私の絵について、これを鑑賞して、鑑賞者自身に「考えろ」と言っているのではない。
ましてや鑑賞者に「自分で考えることを放棄するな」等と説教したい訳では断じてない。
私はたった一言、「絵に答えもクソもない」、と言いたいのだ。
何を「意味して」いるのかとか、聞かれたくもないし答えたくも無い、まあ聞かれるだろうけど「意味とか一切無いですよ」と答えたい。
「そんな事してたら売れないですよ」というのが絵の発信場所での私への評価だろうと思う。
絵は情念だよ、と私は言いたいし、情念の籠もった絵を見ると妙に励まされるので、同じように誰かを励ませたらと思うが…
絵に目的を作りたくもないので、これを書いている大晦日の今まさに、私は思考停止している。

 

 

 

 

 

感情の奥に在るぶれない部分

 

以前誰にも見せない体で日記を書いていた。
こうしてブログを書くのとは全く要領が異なり、その日記は心底孤独のうちに書かれ、誰も観測しないうちに廃棄された。
そうやって何冊だったか忘れたが実に大量の日記が書かれては捨てられていった。
私は本質的に「祈りとはこのようなものだ」と思っていた、日記を殴り書きするという無償の行為のうちに魂が宿るような気もした。
しかし全く同時に、この日記の話を誰かにしたくてたまらなかった、日記に書かれていたのはその日の行動ではなくその日に考えついた事やひらめき、語りかけについてである。
結局の所この孤独の行為を…全く同じ孤独を理解している誰かが知ったとき、本当の意味で天秤が釣り合うような気はしていた。
だからこそやはり絵は、誰かに見せなければならないと思っている。

 

日記に書いていた物事、今でも日記に書くことはあるが、それは感情的なものであるので芸術にはほど遠いと思っている。
芸術って感情じゃないの?と思うかも知れないが、私は違うと思う。
舞台上の俳優が「俳優自身の」感情を出してしまっては、それでは舞台が「完成しない」のだ。
俳優が演じるとき、俳優が気遣うのはどれだけその役柄に見合った挙措が出来るのかという、いわば、自らの思考や感情の外側(あるいはかなり内側)にある俯瞰した視点のみだろう。
つまり、感情の奥にあるぶれない部分が俳優を俳優にしているのである…と私は思う。

 

あの俯瞰した部分で在るためにはどうしたらよいのだろう?
有り体に言う穏やかさや優しさという状態とは異なる、あの静かな状態、そこに在るとわかるのにその状態にはなりきれない…なかなか手の届かない部分。
あの状態に在るときこそが本当に生きている状態であって…他の時にどれほど喜ぼうが悲しもうが…そっちのほうはただの演技に過ぎないような気がするのだ。
俳優だったら、舞台の上の演技こそがその俳優自身が本当の本人になる瞬間で…舞台を降りたら日常という演技をしているに過ぎない、そんな感じだろうか。
感情や感覚が無駄だと言っているのではない。
ただ、あまりにも惑わされていて、自分の本心と感情とがかけ離れた状態に在るような気がして苦しいのだ。
あの状態で絵を描きたいのだが、あの状態で絵を描いたことは無いと思うし、あの状態で日記を書いたことも、文章を書いたことも無い。

 

感情の奥に在るぶれない部分は何処にいる?と私は問う。
感情の奥に在るあの部分は、私が泣いていようが、ほとんど私自身の妄想で絶望していようが、歓喜のただ中にあろうが、いつもただ感情を本気で演じている役者を見るが如く、何処か冷めた様子でその舞台を直視している。
と同時に、いつも自分であると私が感じているところの私…肉体的な痛みや苦しみや喜びを体現している私が少しでもその感情を軽んじたり、本気で涙したりしなくなるとますます顔を背け、何処か遠くへ行ってしまう。
ねえ私よ、と私は問いかける。
私よ、私は「あなた」で在りたいと私は自分に話しかける。
感情の奥に在るぶれない部分はこう答える、「役者が本気で演技をしたときにその演技は役者が舞台を降りたときの人生よりも遙かに真実味を帯びる」、「だから泣きたいときは泣き、求めたい時に求め、いつも本当であれ」と私は自分の声を聞く。

 

感情の奥に在るぶれない部分で描いた絵はどのようなものだろうか?
綺麗にしようという「気持ちの」無い絵。
こうしたら伝わるという「計算」の無い絵。
誰にも伝わらなかったらどうしようという「恐れ」の無い絵。
小細工の無い絵。
普通絵はこう描くという「思い込み」の無い絵。
あるいは空を青く、木々を緑にするなんて素人もいいところだというひねくれた「エゴ」の無い絵。
肉体的、感情的に見るものを乱し、その力によって人目を引こうという「魂胆」の無い絵。
感情的苦しみの無い絵。
一切が集約されている絵。
それが時間を超える本当の絵、絵を見ただけで「在った」と言える絵、肉体的感情の奥に在るぶれない部分で描けたら…。

 

日常で何かが起きても、あるいは起きそうな気配があったとしても、今も過去も自分がここにこうして居る事を本当に感じていられる人間になりたい。
…勿論そんな人間は、本当には誰一人居ないのかも知れない。
もしその状態に簡単になれるのなら、誰も山奥へ行ったり宗教的な修行の道を生きたりはしない。
と同時に、まさに自分が…本来泣く必要の無い事を心配したり悔やんだりしながら泣いている…という状態を俯瞰している自分を確かに感じたりもする。
この状態は泣き止むと共に消え、不安と共に蘇る。
人生での一番の不安は、このまま誰にも絵が見せられなかったらどうしよう、というものである。
あるいは、完成した絵というものを遂に自分自身で拝む事の無い人生であったら、悲しい、無意味だ、という強い感情の波である。
そしてそれを俯瞰している自分も居る、その自分に問いかけるのだ。
ねえ、私よ、どうして離れているの?降りてきて一緒に絵を描きましょうと私は語りかける。

 

さて、最近はすごく幸福であると改めて思っている。
俯瞰した所から見たら、感情的なゴタゴタは実際に何が起ころうが起こるまいが結局の所ほとんど私自身の幻影によるものだと思う、そういう意味で私は影と日常的に会話し、惑わされているのだ。
でも、こうして絵についての苦しみが在ると私が誰かに語りかけ、頷く誰かが居る。
以前は創作に於ける苦しみ…つまり私の人生の大半の苦しみについて、それをまともに取り合う人は居なかった。
同じような苦しみを知っている人と知り合う機会も少なかったし、私は人間が多ければ多いほど圧倒されてしまう性質なので、どうしても人の輪を避け、北センチネル島住民の如く、断固として自分の軸である芸術の話題を避け、芸術についての自分の想いの部分については「この島に上陸するな」と言わんばかりに、とにかく守秘した。

 

何故だかわかるだろうか?
芸術についての軸そのものを、「無い」と言われたくなかったのだ。
舞台そのものを崩されたくなかったと言ってもいい、無論、他の人に無いと言われたら私の芸術への想い(というかもう私自身)が無くなるのかと問われれば今は、そうでないと答えられる。
だが、それ以上に軽んじられたくなかった。
両親をはじめとした人々に往々にして悪気なく「無い」と言われて来たのだ、だから自分の軸そのものを人に知られたくなかったし、誰にも見られたくなかったし、生きるために隠してきた(話は逸れるが、だからこそ北センチネル島住民のような、他者を排除する思考を持つ人間の理屈は身に染みてよくわかる)。

 

このような話を人にして、そしてそれが完全なただの独白に、本当の意味ではならない事を、私は最近とても嬉しく思っている。
創作上の苦しみや、芸術についての想いを「在る」と言ってくれる人たちに感謝している。
感情の奥に在るぶれない部分で描けたら、演劇同様その時にこそ、他人と本質的に対面出来る気がしている。

 

いつでもぶれない自分で在る事が出来たら…。

 

 

 

 

 

本質との対話


問いかけると返ってくる声が在るので、それが一体何であるのか私は突き止めたくなった。
声は初めのうち、絵のインスピレーション同様頭上の方から発せられているように聞こえた。
感情的に苦しい時、迷っているときに実に的確な答えが立ち現れるこの現象を、私は不思議に思っていた。
答え、といっても具体的な解決方法の場合もあれば単に視点をガラリと変えれば落ち着いていられる、何一つ傷つけられていないと気付かせるような助言であった。
時にその助言は、ますます「私が普段私だと感じている自分」を混乱させ、さらに怒らせ、涙させることもあった。
しかし尚も声は言うのだった、何一つ傷つけられていないと私を諭すのだった。

 

この話し声はそのまま日本語で聞こえることもあれば、言葉ですらなく、喃語ですらなく、ただの声のうねりのように思われる日もあったが意味は通じた。
ただのうねりのような声から一転して、ただの光のように感じられる日もあった、数字では無い何らかの法則性を帯びたリズムのように感じられる日もあったが、私はその声を聞き続けた。
私の感情は泣きながらも声に問いかけた、同じ事が繰り返されていると泣きながら詰め寄ったが声は笑っていた。

 

「エゴのせいよ」
何をもっともらしいことをと私は思いつつも声の言う理論を聞いた、聞くしかなかった、何故なら、声の主は私の内側にいるらしかったからだ。
「エゴは悪いものではないの、本質的な存在の軸に基づいてエゴが生じるから…あなたの場合は芸術に関わる人や物事だけが重要で、後はどうでもいいって事ね、これがエゴよ、でもこの区別は重要なの」
私はぐうの音も出ずに頷く他無かった。
「ねえ、あなたにどうでもいいって思われた人たちはどんな気分だと思う?…そう、だから同じ事が起こるのよ、同じような裏切りごっこがね、でも」
少し間があって頭の後ろをコツコツと叩かれる感覚が広がった、たしなめられているらしい。
「逆の立場だったとして、あなたはあなたをどうでもいいと思う人に対して、裏切りごっこを提案するかしら?そう、だからあなたはあなたで同じ立場なのよずっと、でも…それで本当にあなたは自分が傷つく等と思っているの?もしそう思っているのならとんだ思い違いだわ」
この声の主はいつも静かに微笑んでいるようだった、こちらの苦しみにそこまで同調する気はないらしい、私は俯いたまま泣き疲れ、その日は眠ってしまった。

 

あくる日、声が下から聞こえたので私は目を瞑って手を伸ばした。
意識の内側で私の手が何かに触れた。
固くて丸い、暖かい大きな石の塊のように思われた、その頭部と思しき部分を私は触っているのだった…というのも手で触る限り、目鼻口が彫られている様子だった。
「石仏なのね」
これがいつも私に語りかけていたのだ、これが私の内部に在るとなると…これが私なのかと私は呻った。
つまり、私に語りかけ、感情的には腑に落ちなくとも筋の通った助言らしきものをしてくる声、というものの正体は私自身で在った。
それがわかった瞬間に、私は虹色のトンネルを突き抜け、春夏秋冬が自分の手の指の内側に全て収まったような感覚に陥った、いつ何時でも本質的な存在で居られる事への喜びが私を活気づけたのだ、全ての空間や時間の軸自体が自分に在ると知れた安心感と言ってもいいかもしれない。

 

「私、私自身の声を何処か彼方からの声だと思った事もあるわ」
…そういう場合もあるかもしれないわね。
「神様の声とか、悪霊とか、宇宙語とか、バプテスマの一派(精霊派)の言うようにどこか余所からのものだという場合のあるの?」
…そういう場合もあるかもしれないわね、でも。
「どうでもいいことよね」
そう言って私は私自身と共に笑った、確かに、この種の閃きや天啓が本当に何処から発せられているのかを突き止めること自体、いかにもどうでもいいことであった。
それは本質である石仏の考える重要な物事からすると、どうでもいいということである。
私の本質であるところの石仏にとって重要な事とは即ち、芸術であった、表現であった、表現を用いて時間を超えるということだけが私の課題で、これを軸に考えれば確かにその他はどうでもよく、この軸を元にエゴが生じていているに過ぎないということも理解出来た。

 

どのような場面であれ、どのような人物であれ、自分自身の(たとえそれを本人が神や高次元の存在だと言っていても)本質の部分で物事を語る、本質の部分の発する本音を言うという行為は勇気を伴うものである。
本質は誰にでも宿っている、しかし感情や理性の声に押されて隅に追いやられている場合もある。
また、理性の視点から見ると本質というものが酷く異様に映る場合もあるため、本音を言う人を忌み嫌ったり、自分の本質に恐れを抱いたりする者も居る。
個人的な感覚では、自分との対話の多い日常を過ごす人ほど…芸術に勤しんでいたり本当の意味で信仰心の篤い人などは、このような内なる声との対話をごくごく普通の事として受け止めているように感じられる。
その声の助言がどんなに、傍目には酷であっても、感情的にも理論的にも何の利益もなくとも、時に倫理的ですらないように思われても…本人には深く納得のゆく助言であったりもする。

 

説明し難いのだが、この種の自分との対話に没入している間も私は泣き続けていた、しかし全く同時に笑っていた。
一つ問題があるとすれば、私の肉体的感情と、私の本質のもたらす本心との間に大きな隔たりがあるという事だった。
それは普段から感じていた。
本質の指し示す幸福がその声によって表され、本人が本人だと思っている感情や理性と、その声が一致したとき、その人の行動は真の幸福に基づいたものになる。
…だが、実際の感情に全く一致しないばかりか、本人の抱えた諸問題によって感情や理性と、本質とがかけ離れてしまう場合がある。
そうなってくると本人は、在る意味、嘘を生きる事になる。
これはその本人が生じさせているカルマである、これこそが本人にとっての「悪いこと」である。

 

「恐れることはないの」
そう言って石仏は笑った、「だってそれは今のあなたの軸にとって悪いことというだけだから、意味は無いのよ」、本質はどこまでも穏やかだった。
「…だけれど、軸を生きない限り幸福には成れないわね、ねえ、あなたは泣いているけれど、何が哀しくて泣くの?」
自分自身に隔たりが生じている事が苦しいと私は、私自身に訴えた。
「私はね、創作に関する意欲が脅かされそうになると山奥へ逃げるの、でも本当はずっと側に在るし、あなた自身が私なのよ」
理性的に考えて美しいものを作ろうとした時など、手が動かなくなるのはそのせいかと私は納得がいった。
創作とは元来、苦しみのないものであったが、「はたから見て美しいかどうか」という判断を自らに埋め込んでしまうと…それは一変して苦しいものと化す。
「きっと普通の意識で考えたら」
石仏はふうと息をついた、私は本質の声を待った。
「本質の声と、生きる上で必要な感情や理性の要素のバランスを取れ、と言うのが答えでしょうけれど…あなたは芸術をやりたいのよね、つまり、祈り通す一生を送りたいのよね」
石仏は朗らかに続けた。
「だったら、常に私自身で在り続けるしかないわね、常に本質で在り続けるしかないわね」

 

私は泣いていたが、涙に意味は無いのだと知っていた、だが尚も涙は涙だった、苦しみは苦しみだった、私は肉体を伴ってこの場に居るのだった。
「あなたは確かに、酷く怒られすぎたのかも知れないわね、いつも怖がっているのね、だからこんなにも私自身と相反する状態で居るんだわ…でも、どうして父親があなたに辛く当たったか今ならわかるでしょう?」
…誰かにとって素晴らしい人間でなくてはならない。
「他の人から見て素晴らしい自分、というものに価値観を半分置いているから苦しいのよ、怒られた事なんてもう忘れてしまいなさいな、今となってはどうでもいいことよ」
誰かに、何処へも行って欲しくないという強い感情もまた湧き上がってきていた、身が引き裂かれる思いだったが、泣きながらも私は思った。
「何一つ悲しむべき物事なんて無いのだわ」

 

本質の発する本音は、本人がどんなに隠そう隠そうとしても表に表れてしまう、時に本人すら気付かない場合もあるが、身近な人には往々にして全て明らかに見えている。
私はある男を抱きしめていた、その男からも声が聞こえた、「喉がカラカラ…お水が欲しい、新しいお水を汲んでこないと俺は苦しい」、私の本質であるところの石仏は黙って頷き、男の頭を撫でて言った。
「じゃあお水を汲みに行かなきゃね」
男の本質の姿を心の目で見ると、それは青銅の器に見えた、儀式や呪いに使う器であった、理由は定かではないが器が二重に見える場合もあった、男本人がそのことに気付いているかどうかはわからなかった。
「揺れ動いている水」
新しいお水をもう与えてやることのできぬ自分を、私の感情は責めた、感情は猛り狂っていた、何故なら、男を好いていたからである。
感情は男の器に涙を垂らし、実際には本音と全く違うことを口走った、これこそが、私の苦しみだった。
一方本質である石仏は微笑んでいた。
「彼を本当に想うなら、彼の本質である青銅の器が満たされることを望みなさいな、それに…実際にあなたは苦しくもないのに泣いているのよ」

 

本当に傷つくことというものがあるのかと私は石仏に尋ねた、意外なことに石仏は「ある」と答えた。
「それは本質を、私を、無い、と認識することよ」
私は背筋が寒くなるのを感じた、紛れもない私自身の感情や理性が、本質の部分を往々にして無視する事のあるのを思い出したからだった。
「勿論私自身が私自身を無い、と認識するのが一番傷つく事よ、でも、身近な人がそれをする場合もあるわね」
人にはそれぞれ本質が在るが、認識しやすい形状…私でいうところの石仏や、かの男だったら青銅の器…そういうものが認識しにくい本質を持つ人も居る。
父親がそうだと私は思い至った、父親の本質は何処までも続く数字の羅列だった、父自身も自らの本質の声を聞くこともなかったのだろう、私が「本質と同一の素の状態」で居ると、父はよく気味悪がった。
「お前変だぞ」
これは恋人たちにも言われた事だった、本質の軸である芸術…あるいは祈りを茶化されたり、「上から目線だ」となじられたりもした。
男を立てるという事を念頭に置くと、安易に恋人というものを選べないのである、人は、選んで付き合ったほうが良いのだった、少なくともこの肉体を纏っている限りは。
だから本質の本音と、上面上の振る舞いや意識を異なったものにし、身を守っている側面もあったのだと私は気がついた。

 

「互いの本質を互いに、在る、と認識し合っている人たちを大切になさいな」
心の目で見た友人の本質は透明なガラスのコップだった、そのコップに演技の最中には何かが「入る」のだった、友人の魅力であり弱さでもあるこの特性は実に演技向きであった。
何故なら、演技というものほど「本当の事」は他に無いからだった。
また、私の愛すべき先生の本質は両性具有の幼い少年のように見えた、キューピー人形のような少年だった、とはいえ先生その人も、本質の軸とする価値観からエゴが生じているのがまざまざと見えた。
美しい人や物だけを自分の周りに配置したいというのが彼のエゴに思われた、そのエゴの為に他ならぬ本人こそが、淀みを感じて時折苦しんでいる様子だった。
かの男の青銅の器は、かつて創作の泉の水で満たされていた。
二重の器のうち一方は創作仲間の水で満たされており、もう一方は自らの創作の湧き水で常に潤っていた…確かに、新しい作品を創り出すということは常に新しい水を湧き出す行為であった。
倫理観というものが時に、その人の根本を傷つける場合もある…ここから見てずっと以前、今の彼でない彼は新しい敵を倒す事でこの器を血で満たしていた時期もあったのではないだろうか。
戦いで我を忘れる事も、果てしない過去にはあったように見えた、しかし過去とは、幻影に他ならなかった、どうでもいいことに他ならなかった。

 

「本質というものは、そこには喜怒哀楽も一切無いの…倫理観も道徳の概念も何も無いの、でもね」
私は息を飲んだ。
「本質の部分の幸福は、結果的に他者の幸福にも繋がるのよ、だから」
私も石仏につられて微笑んだ、その時自分自身が一体になるのを感じ、改めて生まれたように思った。
「いつも本質で在るのよ、相手の幸福も本質の価値観で考えればいいの」
こうして、声の正体を突き止め、話し合った私は、声の正体そのものに成ったのだった。
涙はいつしか乾いており、雲の向こうで月が静かに、いつまでも輝いているのが見えた。

 

 

【創作】石仏

 

紅色の数珠の一粒一粒を私は丹念に見た、紅色の珠は珊瑚を模した物で、朱色と乳白色のプラスチックを揺らぐように混ぜ合わせて造られており、夕日が雲に当たって刻一刻と形状を変えているかに見えた。
「この数珠の中には時間が込められている」
「広大な空の夕焼け雲も、空間も込められている」
私は何度もそう呟いて頷いた、手を見たが実際にはもうその数珠は無かった。
いつだったか引っ越しの際に捨ててきたのだ、かの宗派に関わる物はもう全て捨てようと頑迷になっていたのだ、しかしながら数珠は相変わらず私の手元に在って、こうして心の内側から取り出しては一人眺めていた。

 

自作祭壇の下には相変わらず沢山の影が犇めいていた、皆それぞれに縦横無尽に動き回っている、私は影の一つを摘まもうとしたが不可能な事であった。
影たちには、こちらの認識する時間も空間も無かったからだ、影たちは何処か別の場所に在りながら私の祭壇の下を尚もうろうろしている様子だった。
数字で認識出来る向こう側に居るらしい彼等を鬱陶しく思う事もあったが、もしかすると私の「持っている」紅色の数珠と同じような場所から表れているものかもしれぬ、そう無下にもできまいと私は自分を諫めた。

 

私は祭壇に向かって手を合わせ、また自分の感情の声を掻き分け掻き分けして、水盤の奥へと意識を降下させていった…私の意識は山奥のダムの水面からはっと顔を出し、そのまま陸地に上がると緑の野山に廃村が見えた。
廃村を横目にさらに山をするすると登り、なだらかな谷間へ私は来ていた、青々とした若葉が辺り一面に茂っていて雨が降っている、土の匂いが濃い。
「永遠の5月」
と口に出して言った言葉でない言葉を、何処かでもう一つの声も言ったのが聞こえた、どうやら「私」はそこに居るらしい。

 

私は尚も自分の内部への旅を続けた、最早言葉は必要なかった、流れてくる記号を頼りに進むと、計り知れない樹齢と思われる大木の合間に、苔むした石仏が微笑んでいた。
…私はいつもこの石仏に触れていたのだ…
…内部に降りたときに触れる石の手触りはこれだったか…

その証拠に、石仏の手には件の紅色の数珠がかけられていた、私は声ならぬ声で言った。
「いつも答えてくれる声の主はあなたね?」
石仏は微笑んでいた、「こんな遠くまで来なくてもよかったのに」、そう言って私を見て頷いた。

 

「あなたは私の本心ね?本質といっていいかもしれない、どうしてこんな山奥に隠れているの?」
私の問いかけに石仏は声ならぬ声で返答した。
「本質というものは、感情や理論とは別の答えを出すものよ、感情的にはどうしても我慢ならない事も一笑に伏してしまう、私には取るに足らないこと…私がどれだけ長く在ったかわかるかしら?あなたはまだ赤ちゃんよ、赤ちゃんが泣いても私には泣いているとしか思えないのよ」
私は喉がつかえて次の質問を言えずに立っていた、石仏は言った。

 

「彼は綺麗な青銅の器ね」
その時に模様が目の前に広がった、儀式に使うときの器だ、かつてこの器に血が注がれたことすら在ったのだ。
「彼の器もどれほど時を経ているのか、彼自身は気付いていない、今度は水で満たしてやらねば、新しい清らかなお水で」
私は勝手に涙がこぼれるのを感じた、肉体が泣いているのだ。
「敵の血英雄の血の捧げ物、周囲の涙はこの器にはもう要らないのよ、自らの涙で満たした時もあったけれど、今必要なのは新しい清らかなお水、あとはほんの少しのお乳ね」
私は反射的に、乳房が引っ張られた気がしてあっと叫んだ。
その時、私の意識の上での肉体だと思っていたものが一片の骨すら残らず雲散霧消するのが「見え」た。

 

そして気がついた、私は私だった。
いかにも、私はいつでも石仏や紅色の数珠そのものであった。
私自身が時間であり空間でもあった、時間であり空間で在るところの軸であった。

 

「悲しむべき事なんて何一つ無いのよ」
「彼の魔術に何が必要なのか、彼の喉が渇ききっているのを…危機を、あなたも私なのだから、わかるでしょう?」
「青銅の器が乾いたままでは、彼は枯渇してしまう、慢性的なエネルギー不足なのよ」

 

私の、感情だと思う象徴に無数の刃物が突き刺さる幻影が見えた、辺り一面血の海であった、土が鈍い音をたててその血を吸った。
時折断末魔のような叫び声が上がった、私はその様子を何処までも静かに見ていた。
本質には感情も理論的価値観も皆無であると私は知った、辛ければ尊いという見解もまた、実に的外れであった。

 

「ねえ、裏切りというものが本当に存在すると思う?」
「本当に傷つくという事が存在すると思う?」
「誰かがあなた自身を嗤ったとして、それであなたが本当に貶められると、本当に思う?」

 

常に本質で在れというのが本当の教義なのだと私は口に出して言ったが、それは言葉ならぬ言葉だった。
この教義の為に山に籠もるのか、修道院へ入るのか、尼僧になるのか、何かに没頭するのかは人それぞれだった。
しかし全く同時に肉体は神殿であった、感情の声もまた神殿に谺する聖なる唄声であることに間違いはなかった。
往々にしてこの唄声が本質の声をかき消すので、人は禁欲のうちに真理を発見する。

 

「本質の声を」
石仏は微笑んで一人、語り続けた。
「神様の声と呼ぶ人もいるわね」
「それを否定しないわ、言葉にならない「私」の声を、宇宙語だと言う人もいるわね、精霊の声だという宗派もあるわね」
「でも、皆が本質の声を言葉に翻訳して生きているのがこの世の中なのよ、いずれ言葉は無くなるわ、この時間が流れの中で古代になったら」
「すべて見えるようになるから」

 

私は動揺した、私はその瞬間、重い肉体を伴って石仏と対面していた。
本質の描いた絵が見えたからだった、それは、今まで「私」が美しいと思っていた「私」の絵ではなかった。
「これが私の絵?」
と私はいつの間にか叫んでいた、「嫌だ!」と繰り返し叫びながら石仏に詰め寄った、こんなのは違うと私は叫びながら石仏を叩いた。
石仏は駄々をこねる子供相手に少し困ったように微笑んで譲歩した、「あなたが仕上げに綺麗だと思うようにすればいいのよ」、私はようやく少し落ち着いて息を吸い込んで言った。
「だからこんな山奥に隠れていたのね?私に詰め寄られるから」

 

感情の声と理性の声はほぼ同一である、そのような普段自分が自分だと思っている喜怒哀楽の元をいくら喜ばせても悲しませても、それは本当の幸福には至らない…それは他者に対しても全く同様である。
「私、あなたに側に居て貰わないと困る」
感情でも理性でもない存在の石仏は、「あなたは勘違いしているわ、手を伸ばすと触れられる固い石があるでしょう?私はいつも側に在るのよ」、そう言って、それ以上は何も言わなかった。

 

私は目を開け、祭壇を見た、犇めいていた影はもう居なくなっていた。

 

いつも答えてくれる声の主が私自身であると知った私は大きく息を吐いた、息は透明な乳となって水盤に流れ落ちた。
「あの人にはこれを持って行けばよいのだ」
全く同時に、そう思った瞬間にはもう彼の青銅の器に私の乳が注がれている事を知った、そうか、時間は遍く集約されているのだ、それが私にとっては絵であり、石仏であり、紅色の数珠であり、私自身で在った。
私はもう一度教義に向かい合う決意をした、自分自身の教義に向かい合うと決めて、尚も手を合わせ、静かに微笑み、水盤の水を取り替えたのだった。

 

 

 

 

【創作】奉られた過去

 

 小さな炎が冬の最中に燃えているのが見えた、見えた、とは言い難いが見えたとしか言い様がない、私は奇妙な体験をした。

 

諸事情により詳細は伏せるが、冬に差し掛かる頃、国道をひた走り、巨大河川の源流を越えたあたり、四方を山に囲まれた廃村、その中の一軒の廃屋での出来事である。
私は自分独自の観点から、英気を養うために山奥へ行く事がある、車を運転している間の私はまだ自分の過去を背負っている、だが車を降りいよいよ山道を脚で踏みしめるその時、まるで自分が生まれ変わったような気持ちになる。
暫く苔に脚をとられつつも景色を楽しみながら私は歩いた、すると、一見道など無いように見える草木の間に、うっすらと、人家らしきものが数軒建っているのが見えた。
…ははあ、これは廃村だな…と私は思っていたく興味をそそられた。
数十年前には人が住んでいたのだ、このような山奥に隠者のようにひっそりと住んでいたのだ、そう思うと自分が今この現在を生きながらも、異なる時間に同時に存在出来るような無邪気な夢想が私を支配し、気がつくと私の脚はその廃村の方へ進んでいた、過去というものを見たかったのだ。
廃村は、コンパスで見る限り東の方角に井戸があり、そのまま北に広がるように小さな造りの家がぽつりぽつりと建っている様子だった。
私は村の終わりが何処なのか見たくて、北側の廃屋まで歩いて行き、もうこれ以上家の建っていない事がわかると、ふと、その最北の家の中へ入ってみたくなった。

 

「ごめんください」

 

畏怖の念のようなものに駆られた私は誰にともなくそう声をかけ、家の引き戸に手をやった、意外にも戸は簡単に、ガラガラと音をたてて横へ動いた、部屋の中から…埃や湿った畳の匂いがした、人の家の匂いがした。
土間のような場所を上がると天井付近にだるまやら何やら、かつての住人が畑仕事の傍らに作った物だろう、今となってはよく判別できない伝統工芸の品々が所狭しと飾ってあり、珍客であるこちらをジロジロと見ているようであった。
平屋建てのその家は、内部もまだ朽ちてはいなかった、私は何度か足踏みして床の抜けないのを確認してから、土足のまま座敷に上がるとずんずんと歩いて、閉じられていた奥の間の障子を開けた。
すると…暗い部屋の中で火がチロチロと燃えているのが見えた、目が慣れてくると部屋の片隅に祭壇があり、その祭壇に供えられた小さな蝋燭が燃えているのだとわかった。
不可思議な事だが、その祭壇に奉られているのは仏像でも西欧の神や聖人のそれでもなく、骸骨だった。
私は不審に思った。
と言うのも凍えるような寒さ、全く自分以外に人気のない、猫の子一匹見当たらないようなこの場所で、火が灯されているのだ。
戸が開いていたのもここにまだ人が住んでいるからではないのか?
最後の一人がここに住んでいるのではないのだろうか?

 

私はにわかに後ろへ後ずさりした、だが、その炎は妙な磁力で私を惹き付け、私は祭壇から目を逸らすことが出来ずに居た。
相変わらず人の気配は無かった。
その代わり、妙に安心出来る温もりのようなものを私は感じていた、その骸骨に対してである。
この骸骨はかつてのこの家の主人だろうか?
その人を奉っているのだろうか?
その人を奉っているのは誰だろうか?
この近隣(といってもだいぶ距離的には離れているが)の人間がここへ着て、お参りしてゆくのだろうか?
でもこの骸骨にはもう過去が無い、今の自分から見たらこの骸骨はまっさらな存在だ、誰でもない骸骨、生まれたての骸骨、私は何をするとはなしに自分の顎をさすりながら自問した。

 

「はて、この骸骨が誰かわかならい、では同様に車に過去を置いてきた体で居る今の私とは、一体誰なのだろうか?」

 

その時、何処とは言い難いのだが…何処かで女の悲鳴が響き渡るのが聞こえた。
私は尚も顎をさすった、叫び声は何度か繰り返され、どうも私が自分の顎髭にざらりざらりと触れる度に聞こえるようであった。
これは奇妙だった。
しかもその声は、山に谺するのではなくて、自分の内側から、あるいは祭壇のまさにその骸骨から発せられているように私には思えてならなかった。
今思うとその時の私はいささか冷静さを欠いていたのだろう。
何故なら私は、骸骨と対峙しながらこう思っていたのだ。

 

「そうか、この骸骨は私だ、私の過去そのものが奉られているのだ」

 

私は…人には説明出来ない理屈で実に納得し、一人頷いた、その瞬間この廃屋自体がぐん!と縮んだように思われた。
この事象に関しても説明がつかないが、私はくるりと向きを変え、座敷から降りた。
先ほど天井付近に高く掲げられていたように見えただるまやら何やらといった伝統工芸の品々が、今度は自分の鼻先にぐっと近づいてきたように見えた。
私は開いたままになっていた戸口から外へ出た、次に来る誰かの為…つまり次に訪れる瞬間の自分自身の為にもそっと引き戸を閉めた。

 

車に戻ってみると、これも妙なことだが、見覚えのない品々が運転席に置かれていた。
手に取ってしげしげと眺めてみると、どうも女の持つ物品のようであった。
気味が悪いのでその場に捨てておこうと思ったが、それもなにやら悪いような気がして、仕方なしに私は高速道路のパーキングエリアまで車を走らせてからその品々を、心持ち丁寧に捨て去った。
捨てるときに私が漠然と思ったことが二つある。

 

「過去、というものを奉る必要は無いが、共に泣くことは時に必要である」
「今、というのはたった一幕に過ぎない、誰もがまっさらな状態なのである」

 

そういうわけで私は今でも英気を養いたくなると、生まれ変わりたくなると高速道路を走り、山奥を散策し、時に骸骨のように透明な本心のまま、暮らしているのである。